はてなキーワード: 残酷とは
2位 Mr.Children:「Sign」
4位 ORANGE RANGE:「花」
5位 Mr.Children:「掌/くるみ」
7位 ORANGE RANGE:「ロコローション」
8位 サザンオールスターズ:「君こそスターだ/夢に消えたジュリア」
10位 Gorie with Jasmine & Joann:「Mickey」
うっへー懐かしー って感じのラインナップ
でも、これ、2004年時点で考えたら1984年の邦楽を懐かしんでるみたいなレベルなんだよね
7位 芦屋雁之助:「娘よ」
やばない?
さらに5年経てば、2009年のボカロ曲たちが『20年前の懐かし曲』に入るんだけど
「ロミオとシンデレラ」 「裏表ラバーズ」 「炉心融解」 などが20年前の曲になるんだけど
ほんとにやだ
マジでおばさんじゃん…
土方の愚痴。
近隣住民の方から信じられないクレームをいただいて心が折れてしまった。
おそらく,その方は我々を人間扱いしていない。
ただ,社会の大多数の人も,心の奥底では我々を人間扱いしていない。
建設業従事者は残業がつかない―正確には定時に出勤し定時で帰っていることになっている―上に,給料が安い。
楽そうに見える仕事にもその仕事なりの苦労はあるかもしれないが,建設業は肉体的にも精神的にもつらい仕事だ。
靴や手袋など衣類の消耗が激しいため,金がかかる。夏場は飲み物を準備するのに,金と手間がかかる。
にもかかわらず,20代の後半で月の手取りが16万円,ボーナスは1.5か月分,定期昇給はない。残業もつかない。
正直なところ,みじめだと思う。工業大学を卒業したが,土木・建築系の学科を選んだのが間違いだった。
そういった人たちの給料が高いと,まともに道路が作れないし家も建たない。食料の値段は高騰し,税金はさらに高額になるだろう。
ただ,その犠牲の上でのうのうとくつろいでいる人が「〇〇って必要不可欠な職業だから尊敬している」とかいうたびに吐き気がする。
だから,自分の利益と我々の仕事が衝突するとき,例えば食料品の値段が高いとき,インフラを維持するための税金が高いとき,近隣の工事の音がうるさいとき,
信じられないほど残酷なことを口にできる。
食料品の値段が高い,というのはよくわかる。しかし,その矛先がなぜか農家に向かい,農家が利益を出すために価格に転嫁することを認めない。
私の体験で言うと,作業の合間の休憩中,施主に「そうやって日陰で休んでないで働け,金払ってやってるんだから」と言われたことがある。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463546664
閲覧数は約200万回、はてなブックマーク数はヤフー知恵袋の中でトップだ。
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間界では弱者を抹殺しないのか?」という質問。
対する回答は「そもそも自然界は弱肉強食じゃない。適者生存だ。
多種多様な遺伝子を残すことで、環境に適応できる可能性を増やしておく。
それが人間界における生存戦略であり、社会性である」といったもの。
人類の叡智を感じさせる説明に感動したのか、弱者に救いのある言説だから感動したのか、
この回答は絶賛の嵐だった。
「夜の停電時には全盲の人間が健常者よりも活躍できた」などという話もあったが、
いくらなんでもシチュエーションが限定的だろう。目が見えない人間は基本的に弱者だ。
規則正しい生活が送れない、突発的で感情的な行動に走る……そんな特性も配信の世界では有利に働く。
だが配信で飯が食える時代だから適応できているだけで、朝早く起きて日中活動できるアウトドア派がいつの世も社会適合者だ。
健康的な生活を送り、他人とコミュニケーションを活発に行い、食料を得る。
社会を生き抜くために必要な資質は、時代が変わろうと不変のはずだ。
優生思想を是とする主人公・鈴原冬二が、強者の定義を語るシーンがある。
人間は猿から進化したのだから、強者の条件はそれだけで十分なのだ。
すなわち、子供の頃殺されずに済んだという運、病気に打ち勝つからだ、殺し合いに生き残る力、
俺はこっちの方がよっぽど納得できる。普遍的な強者の定義は絶対ある。
年収が低い男、身長が低い男、高齢の男、容姿が醜い男、主導権を握れない男……
どれだけ技術や倫理観がアップデートされようと、子孫を残せない男の特徴は変わることがない。
経済的に困窮すれば、いつだって弱者は切り捨てられる。養う余裕が無くなる。
東大を出たのに、俺はモテない。公務員で年収420万、安定した生活を送っているはずなのに、何かが足りない。マッチングアプリを始めてみたが、全然マッチしない。プロフィールには「東京大学卒」としっかり書いた。それなのに、誰も俺に興味を持たない。たまにマッチしても、会話が続かない。会話の技術なんて必要ないと思っていた。学歴と安定した仕事さえあれば、自然と女は寄ってくるはずだと思っていたのに。
唯一マッチして実際に会った女は、全身ピンクの服を着たヤバいやつだった。見るからに痛いし、頭の中も同じくらいピンクだった。話してみても、まともな会話ができる気がしなかった。なんでこんなやつとしか会えないんだ。俺の何が悪い?
風俗にもたまに行く。そこでしか女に触れることができないから。でも、正直、嬢たちには内心馬鹿にされている気がする。金でしか俺と接してくれないのは分かっているけど、それがさらにムカつく。あいつら、きっと「東大卒なのにこんなところで女買ってんのかよ」って笑ってるんだろうな。
結局、俺を見てくれる女はいない。世の中のイケてる奴らにしか女は興味がない。俺なんか、最初から誰にも見られていない。俺を見下すための視線すら向けられていないんだ。なぜだ?なぜ、俺は誰にも求められないんだ?
友達に相談しても、決まって「お前は顔も普通だし、安定した職業もあるし、性格に問題があるんじゃない?」って言われる。ふざけるな。性格が問題?だったら、お前が女紹介してくれよ。紹介なんか絶対にしてくれないんだ。つまり、こいつらも俺を内心見下してるってことだ。友達じゃない。ただの偽善者だ。俺を利用してるだけ。
結局、俺は孤独だ。金もない、顔も悪い。世の中は俺を見捨てた。女も、友達も、社会も。どうすれば、俺は誰かに必要とされるんだろう?いや、もうそんなことはどうでもいい。むしろ、こんな世界に生きる意味があるのか?そんな気持ちばかりが膨らんでいく。
https://x.com/OKina001/status/1753070468167549421
「エヴァショック」とでも言うべきものが確かに90年代後半にはあって、滅茶苦茶大雑把に言うと画像のような項目が「エヴァ大ヒットの要因」と勘違いした人たちがそういう作品を山ほど作ってしまった時期があった。
全部でなくとも大部分当てはまる作品すら思いつかない。
リヴァイアス、ラーゼフォンなどがエヴァショック作品として挙げられているが、どちらも前向きな終わり方をしている。少なくともエヴァのようなカタストロフではない。主人公も暗くないし。
そもそも「知らんよ」と言ったはずのガオガイガーこそエヴァから抜けてなくないか?(特にファイナル)
あと8番は劇場版ナデシコと抜けたはずのガオガイガー(ファイナル)だけでは?
それこそ青年漫画はどうなるよ。あばれブン屋とかの猿漫画読んでみろよ。
夫は人見知りな訳ではなく、老若男女問わず比較的フレンドリーに接する人間だ。ただ女性を相手にする時には、自分が失礼なことをしないか、意図せず性差別的な振る舞いをしないかなどをとても気にしている。
恋愛経験のなさを嘆くより、今いる、あるいはこれから出会う女性の一人一人を一個の人間として尊重し、真っ直ぐに向き合ってみたらどうだろう。
これを実践することで皆にとって無害な人間になることはできても、それだけで誰かにとって特別な一人になることはできないよ
決してそこを間違えてはいけない
増田の言うようなことを言われるまでもなく実践していて、それでもなお出会いに恵まれずに苦しみを抱えている人だって大勢居るだろう
そういった人たちと増田の夫との違いは、偶然増田のような人に出会えたかどうか、その違いでしかない
増田たちが出会えたのはものすごく幸運なことだけど、その幸運は決して一般化できるような話ではない、それだけは認識して幸せに生きてくれ
https://x.com/Tats_Gunso/status/1832937129371930688?t=sMhsG8F8n6Ux_uFGSk8OXw&s=19
子供を男子だけ女子だけで集めて大人のいない所で生活させたらどうなるか。
これ男女の質の違いを反映してて面白いんだよな。
男子:一日で家の中をメチャクチャにした後は上下の序列を作って家事はせずスナックだけ食べながら家の外で動物を狩ろうとしたところで大人に止められる。
(続
女子:全員同じ部屋で寝泊まりすることになり、ちゃんとした料理を持ち回りで作り家事の当番を決め室内を飾り始めるが、そのうちイジメと派閥と仲違いが発生して寝る場所はわかれ二人の子が実験から離脱。
というツイートが流れてきたが、女子の話がかなり改変されている。
この実験で寝る場所が別れ、いじめと派閥争いが起きたのは男子だし、大人から止められたのは狩りではなくハリネズミ虐待だ。
多分これらは男らしくないと思ったから女子達に押し付けたのだろうが、何でわざわざ圧倒的に女子のほうが良い結果を残した実験結果を歪曲してまでそんなツイートをするのだろう。
動画を見たら男子達はかなり少年らしい愚かさ乱暴さ残酷さで行動をしていて、他の子と同調しイキリ散らかし、破壊活動やバカをやらないと、舐められて虐められる空気が作り上げられているのがわかるのに。
男子のそういった同調圧力の強さは男も経験があるだろうに、何でこれは男らしくないから女子に押し付けようとなるのだろう。
似たような話で、映画「先生を流産させる会」がある、これは実在の事件の映画化を押し出して売りにした作品だが、実際は男子十数人が先生を流産させる会を結成して、誰が流産させるか競っていたのを女子達が告発して止めたのだが、内藤瑛亮監督が男子ではリアリティが無いからと女子生徒たちが犯人に改変した作品だ。
こういう陰湿で愚かな行為は女子がやるはずだという思いがあるのだろうが、何でフィクションで1から作らず実際にあったことを捻じ曲げようとするのだろう、こういうのをたまに見かけるが謎すぎる。
https://www.yourtango.com/news/social-experiment-tracks-10-boys-10-girls-left-alone-house
大人に監視されていない男の子10人、女の子10人がそれぞれ5日間過ごしたらどうなるだろうか?
同じような結果になるだろうか、まったく違う反応を示すだろうか。
2002年、Channel 4は『Boys And Girls Alone』というタイトルのドキュメンタリー番組を放映。
この社会実験では、男の子10人、女の子10人がそれぞれホームで一緒に過ごす様子をモニターし、彼らの行動や交流を追跡した。
このドキュメンタリーは、5日間に渡って大人に監視されていない状態の子どもたちを観察することを目的とする。
◼︎社会実験第一弾『ボーイズ・アローン』、11歳〜12歳の少年10人を追う
https://youtu.be/7F6w2naog5s?si=cMDQ4ybPExp-Od-P
少年たちは、食料が十分に備蓄され、子供たちを楽しませるためにさまざまなおもちゃ、ゲーム、本、絵の具が置かれたホームに送り出された。
日中、カメラクルーがホームの様子を撮影するが、安全上の問題がない限りは少年たちと関わったり、介入したりしない。
カメラはそれぞれの寝室にも設置され、夜間の少年たちを監視。ベッドルームは2つあり、大きな部屋には6台のベッド、小さな部屋には4台のベッドがある。少年たちが助けを必要とするときはいつでも求めることができるように、ホームにはベルが置かれている。
さらに、制作チーム・看護師・両親・あるいは事前に会った児童精神科医と会話することができ、少年たちはいつでもホームから出ることができる。
彼らはまず、壁にペンキを塗りたくり、食べ物を床に投げつけ、水鉄砲で水をかけあった。3日目に数人の少年が壁のペンキを落とそうとするまで、この調子だった。ホームで生活する前の週に全員が料理教室で授業を受けたにもかかわらず、少年たちは誰もその技術を生かす様子はなかった。それどころか、食事はほとんど砂糖とシリアルだった。料理といえば、冷凍ピザをオーブンで焼くくらいだった。
少年たちは2つのグループに分かれ始める。一方は騒々しく、もう一方は身を潜めて静かにしていた。彼らはよく、遊び半分でいろいろなもので互いを叩き合っていた。そのグループの中で、まわりとは違うと見なされた少年・マイケルは、少年たちの標的になった。
5日目になると、家の中はゴミ屋敷と化し、食べ物やおもちゃ、椅子が散乱し、料理に使う食材はほとんどなく、カオスのまま終了した。
『ボーイズ・アローン』は反響を呼び、同チャンネルはまったく同じコンセプトの第2弾を制作することにした。
第2弾 『ガールズ・アローン』では、料理・掃除・交流に対する女子のアプローチが大きく異なることを証明
本編YouTube→ m.youtube.com/watch?v=PJ1nPP…
第一弾の少年と同年代の少女は、行動や整理整頓の方法が異なっていた。初日、一人の少女が料理と掃除を担当し、家庭内の食事の準備をした。
男の子たちとは違い、女の子たちは全員キッチンのテーブルに集まり、初めての食事を一緒に食べた。食事が終わると、女子の何人かはファッションショーを企画し、自分たちを楽しませるためにケーキを焼くことにした。
アクティビティが終わると、一人の少女が家の掃除と整理整頓を始め、他のメンバーもそれに加わった。やがて彼女たちは集まり、料理と掃除の分担表を作成した。
◼︎この社会実験は、女性がリーダーシップ能力がジェンダー的偏見の影響で見過ごされがちであるという議論を呼び起こした
このシリーズが公開された当初はやや物議を醸したが、最近ネット上で共有されたクリップが広く話題を呼んだ。両グループが同じリソースを持っていたにもかかわらず、男子が大混乱を引き起こしたのに対して、女子は組織化され、明確な決定を下すために協力し合っていたことを、人々はすぐに指摘した。
『みんなが料理コースを受講したの?それで、料理をしたのは1グループだけ?掃除をしたのも?ミーティングを企画したのも?タスクを分担したのも?そして、そのグループは「すぐいがみあうし感情的すぎるから、リーダーに向いてない」って言われてるグループなの?』
『少女たちは業務分担表まで作っていた!そして、肯定的な言葉を使い、自分の後始末をし、多くは寝る前にシャワーを浴びていた! 髪が濡れていた。 すごい。 とても誇りに思う』
◼︎ 少年たちの行動は「男に課せられている社会的役割」のせいだと非難する人も
『男の子はそうやって育てられるんだ。 他人の面倒を見ることができない。 彼らは他人の世話をしない。 これは女性の問題だ。 つまり、この機能不全は社会のせいであり、男性が社会からどう思われたいかが影響している。』
女子にも不完全な部分があり、いがみ合う瞬間もあったが、しばしば一緒になって合理的な解決策を考え、男子のように2つのグループに分かれることはなかった。
はてウヨさぁまたColaboに完全敗北してるじゃん
しかも今回もまたアホアホなブコメ晒し上げの刑に処されて大勢から馬鹿にされてるし
お前らの人生こんなんで良いのかよ?恥ずかしくないのかよ?
もう若く無いのに知恵遅れのガキみたいな事言ってるガイジのネトウヨジジイになっちゃってさぁ
もう人生詰んでるんだからせめて人様に迷惑かけない様に生きれないのかよ
俺は悲しいよ、情けないよ
こんなのが同じ人類なのかよ
とんでもねぇ話だなぁこれぇ!
「現実の闇(ニチャァ)」 「男女平等(キリリ!」 「社会情勢への批判(ドヤァ」 「SDGs意識(ムフーン」みたいなのだらけで国産ドラマも海外産ドラマもゴチャつかせすぎてるんよな。
ヒーローモノは基本軸として主人公側が正義っていう不文律があるし、主人公側の活躍シーンもシンプルに殴って倒すだけで変な苛立ちがないのがいいわ。
お仕事ドラマで大人の話ぶっておいて「道路で助けたお祖父ちゃんが相手側の社長だったから社長の権力パンチで全部解決!」みたいなしょーもなオチかまして「やっぱ権力なんだよなあ。年功序列に媚びるのが大正解!」みたいなことかましてくるのとかもう見てられねーんだよな。
子供向け作品は子供でも見やすい作りにしてるからこそ子供騙しが入り込む要素がなく、大人向けを気取った作品ほど空っぽの中身を上辺だけ誤魔化す子供騙しばかりで見ててしんどいって本当なんだなあ。
まあヒーローモノも途中から「人間の残酷さ(ニチャァ」とかやり始めるらしいけど、その頃にはガキも開きてるだろうから俺も一緒に見るのやめればええだけやんね
https://anond.hatelabo.jp/20240906234755から続く
この出来事は、1983年から1984年にかけての現代編に関連している。。おしん83歳の頃、たのくらスーパーの拡大事業は、大手スーパーの進出によって経営難に陥り、倒産寸前まで追い込まれていた。過去におしんが初恋した相手、並木浩太の息子が経営する並木商店が、大手スーパーの土地買収における重要な場所にあり、その売却次第でたのくらは助かる状況であった。私は以前、おしんが浩太を説得し、並木がその情に応じて救済が成功したと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。
なぜそのように思い込んでいたのか。もしかすると、失踪から戻ったおしんに、並木を説得してくれと仁が土下座して頼み込んだシーンがあったからかもしれない。
「おしん」は全297話もあるドラマだが、その第1話は、たのくらスーパーの新店舗開店祝いにおしんが出席せず、家出する場面から始まる。おしんの失踪理由が明らかになるのは、終盤の第290話。ドラマの伏線回収が時代を経て行われることが多く、おしんの家出の理由も最終週で回収される最大級の伏線のひとつであった。この巧みな構成は、橋田壽賀子や演出家のすごさを感じさせるもので、まさに名作と呼ぶにふさわしいものである。
特に佐賀編では、あまりの過酷さに倍速で視聴したこともあったが、終盤に近づくにつれ、ポーズしてでもじっくりと次の展開を予想しながら見入っていた。
第1話から第3話にかけては、おしんが並木商店の大旦那に恩義を感じていたため、新規スーパーの出店に反対していたことが示唆されていた。そのため、多くの視聴者はおしんが息子の恩知らずな商売拡大に恥じて家出したと理解していたはずである。ぢかし終盤になってその真の理由が明かされるという展開が待っていたのは正直、超絶長い伏線回収である。
実際には、おしんは失踪直前に浩太を訪れ、仁の事業拡大による不義理を詫びていた。その際、聞かされたのが大手スーパーの進出についての話である。並木商店の大手への売却は、並木商店の生き残り策であり、たのくらへの防衛策でもあった。おしんはすべてを理解したうえで、浩太に対して大手スーパーへの土地売却を進めるように頼んでいたのである。
その後、おしんが戻ってきた際も、並木はまだ売却を逡巡していた。仁はおしんに土下座して、まだ間に合う、並木を説得してくれと頼んだが、おしんは改めて浩太に売却を進めるよう頼むのである。おしん厳しすぎるだろ。
おしんは大手の進出によってたのくらの事業が立ち行かなくなることはわかっていたが、ひととしての恩義を忘れ、家族を顧みず金儲けに走ってきた田倉家の再生のために、そして恩人の浩太の一家のためにも並木の土地の大手売却への契約を進めてくれと願い出る。相変わらずおしんさんは厳しいお人だと微笑む浩太は、ついに売却を決意する。
仁は、母のおしんが交渉に失敗したと思い込み、失望して母を責める。妻の道子も、夫に失望し、ついには離婚を宣言する始末。家族の崩壊が進む中で、おしんはその様子を静かに見守ってゆく。
おしんは仁に、離婚を再考するよう促し、仁はようやく家族の大切さを思い出す。この姿は、かつて佐賀で竜三を立ち直らせるために試みたおしんの姿と重なる。仁と竜三は、いずれも実家の甘えを捨てきれずにいた共通点があった。おしんは仁の田倉商店を倒産させてでもその甘さを排除しようとしていたのである。
事業整理のため自宅売却を進め、引っ越しの準備のさなか、家族は徐々に絆を取り戻してゆく姿は橋田壽賀子の夢の世界なのかもしれない(正直、ここはちょっとうーんと思うところはあるが)。しかしこれが橋田ドラマ流の大団円なのだろう。
前述したように、田倉商店は浩太によって救済される。というより人の縁によって救われる。それはまさにおしんが商売において大切にしてきた価値観なのである。しかしそれは、全297話、一年近く放送してきたおしんのドラマの終盤最終話、終了わずか10分前の出来事である。すごい。
橋田壽賀子がこの物語を書き始めた理由は、バブル経済前夜にあった80年代の人々が、お金儲けに走り、大切なものを見失っているのではないか、という思いからであった。物語のラストにはそのメッセージが強く反映されている。
竜三と息子の仁は、おしんから見て「甘い」性格であり、竜三は何かと佐賀の実家に頼るところがあった。しかし、竜三が「俺についてこい、命を懸けて大きな仕事をするんだ」と前に進もうとする時の屈託のない笑顔を、おしんはたまらなく愛していたのだろう。
竜三が敗戦時に自決した際、おしんはその死を「立派だ」と称した。今回全篇通してみる前は、残された家族を顧みない自殺は自分勝手で情けないものだと思っていたものの、物語全体を通じて竜三の死に対するおしんの思いが腑に落ちる瞬間があった。
私は後悔しているんじゃないよ。私は私なりに信じて戦争にも協力してきた。軍のおかげで初めて仕事らしい仕事もさせてもらった。男として存分のことしてきたんだ。むしろ精一杯生きられたことをありがたいと感謝しているよ。ただ、ひとは私の生き方を間違っていたというだろう。私は軍と手を結んで仕事をしてきた。隣組の組長として戦争への協力も押し付けてきた。私の勧めで志願兵として少年航空隊に入った少年もいる。その中にはもう帰ってこない少年もいた。国債だって随分買わせてしまった。それも今となっては反故だ。私が無視する事だってできたんだ。だが私はそれをしなかった。もちろん私には私の信念があってやった事だ。それを悔いる気持ちは全くない。しかし戦争に協力して罪もない人たちを不幸に陥れてしまった責任は消えやしないんだ!
これが自殺直前の竜三のつぶやきである。竜三の言葉のなかに隣組という言葉が出てくる。
明治から終戦にかけての日本は、天皇を頂点とした「家制度」を仮構し、その枠組みの中で国民国家が成り立っていた。この「家」の概念は、戦時中には配給制や隣組といった組織を通じて等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠していた。田倉家もその影響を受け、軍部からの委託で工場を経営していたが、周囲からは「軍と結びついて甘い汁を吸っている」と陰口を叩かれていた。仁がある日突然、少年航空隊に志願した背景には、そうした噂への嫌悪感があったのかもしれない。
その後、仁は終戦の日も戻っては来なかった。田倉家では仁は戦死したものと想像していたのである。
日本が「ひとつの家」として観念された時代において、家族を守ることと国を守ることは同義であった。竜三にとって、隣組の子供たちの死や戦争の責任を負うことは、家制度の枠組みの中で重要な役割であっただろう。彼が自決した理由も、家制度に基づく責任感から来ていたのである。おしんが竜三の死を「立派だ」と称したのは、竜三が自らの信念に従い、天皇を頂点とした「家」への責任を全うしたと理解したからかもしれない。
語弊を承知でいえば、竜三の自決は、個人としての責任を取る行為であり、家制度における「切腹」にも通じる感覚だったと言える。
おしんが育った山形の貧困農家では、口減らしが普通だったし、姉のはるが死んでも母が死んでもまともに葬式もできない窮状だった。女性を犠牲にして平気な顔してきた作造も長男の庄司があまりにもひどかったことを思い出すと、隣組の責任を感じて自殺するなんて、むしろ立派なことに思えてくる。
しかし、どうだろうか。
竜三のこれまでの数々の挫折経験のように、ふるさとの太い実家に戻るというような、逃げ道はなかったのだろうか。しかし思えば伊勢にきて魚屋になった頃からの20年間、竜三は佐賀の実家へ依存する思いがほとんど消え去っていたように思う。竜三の佐賀依存が消えていったことはおしんにとってはうれしいことでもあった。
禎の疎開のときですら、佐賀疎開という選択肢は排除された。疎開先で虐待され逃げ帰ってきた禎をみたときには、さすがに佐賀という選択肢はあってもよかったと思うが。竜三はそれもしかなった。
太い実家をあてにしない、それはおしんが望んでいた竜三の自立の証でもあったはず。竜三は魚屋からの次のステップとして伊勢で軍の納入業者になることに挑戦した。そしてようやく家族を養う自信が付き始めた頃のこと、おしんは竜三が佐賀の実家を頼らず、雄、仁、禎、希望、初子の5人の子供のために大きな仕事に夢を託していると思うとたまらなくいとおしくなった、とナレーションが述懐している。
しかし、竜三が太い実家という表象の代替として知らず知らずのうちに依存していたのは、天皇を頂点とする日本国という「巨大な家」だったのである。
おしん自身は、国家という家のフィクションを完全には信じてはいなかったが、なんとなく空気には流されていた。しかし竜三は深く信じていた。信じていた以上、潔くその家の責任を取ったということだ、おしんはそう理解したのだろう。そうであれば、軽々しく天皇制などというフィクションを捨て戦前の考え方などなかったかのように、これからは自由な社会だ、などとふるまうことはズルいことだと思ったかもしれない。しかし、国が家族であるという考え方を捨てさえできれば、なんだったら太い実家に戻ってもいいのだ。しかし竜三はそれを逃げ場にはしなかった。だから立派だといったのではないだろうか。
敗戦直後の225話では、父と兄を失った仁の感慨として、潔く死を選ぶか女々しく図太くたくましく生き残るかの二者択一として人生観が総括されてゆく。その後の長い戦後の物語では、昭和58年、物語の終盤に至るまで、たびたび竜三と雄の仏壇に手を合わせるシーンが出てくる。これも地味だけど見逃せない。おしんが田倉竜三への思いを忘れずにいるという、竜三への愛と敬意がここに見て取れる。かつて伊勢の海岸で、逃げようとする竜三をタックルをしてでも捕まえたおしんの心情がオーバーラップしてくる。
ちなみに、この竜三の自決は、80年代90年代、翻訳、放送された海外ではどう受け止められたのだろうか。それはとても気になっている。
おしんのドラマは橋田寿賀子の反戦思想が色濃く反映しているといえるが、そのなかに侵略や植民地支配の反省という視点は希薄である。それは竜三の自決動機のなかでも軍部に寄り添い、同胞を死に追いやった責任は感じても、侵略に手を貸した自画像はみえてこない。しかし、植民地支配への反省についてはそれ自体は動機にはなっていないものの、それにつながりうるイエ観念を読み取れるように感じた。隣組を他人ごととしてとらえていたのであれば、竜三の自決はなかったはずである。そうであれば拡大されたイエ観念により実効支配された地域に考えが及んでもおかしくはない。実際にはそこまで思いは至らずに死んでしまうのだが。
同じ昭和時代の作品である五木寛之の「青春の門」では、筑豊炭田で差別的な扱いを受ける朝鮮人労働者が大きなテーマとして描かれている。石炭鉱業会社の経営者が、朝鮮人労働者たちから待遇改善を求められた際、「他の山は知らんが、生きるも死ぬも一緒に炭を掘ってきた家族同然だ。私が親でお前たちは子供だ」と言い返すシーンがある。
この台詞は、日本を親、植民地を子と見立てる当時の日本人の感覚を象徴している。家族になることで遠慮がなくなり、苦労を強いても平気になるという現象は、まさに家族観の持つ影の部分を示している。(ちなみに映画「青春の門」筑豊編1980年で経営者と交渉した朝鮮人労働者リーダー役を演じた渡瀬恒彦は、おしんでは浩太役を演じている。)
この真理を見事に表現しているのが、初子の存在である。八紘一宇における植民地と田倉家における養子初子は入れ子構造なのである。初子の境遇は、創氏改名を強いられ皇民化の果てに敗戦を迎えた朝鮮民族の運命と二重写しに見える。植民地をいかにわが子供のように見立てようともいざ状況が変わればあっさりと切り捨てられてしまう。
初子の抱えていた不安というのはまさにそういうものだった。おしんの長男・雄の戦死を契機に山形へ帰郷するよう初子に伝えたおしんの行動は田倉家以外に居場所のなかった初子にとって残酷なものであったといえよう。自殺を思いとどまり、米軍相手の娼婦となった初子は誰にも消息を知らせないまま、3年もの間、田倉家に送金を続けていた。おしんの言動は初子を養女とみていたとはいえない一方、初子は養女としての行動をとっていたのがいじらしく泣ける場面である。
同じ原作改変やるにしても
婆さんは殴られただけにして狸は兎に懲らしめられて反省して終わりにしよう
→まあ分かる
婆さん殺しの真犯人は爺さんだった事にして、狸は雌にして兎と百合エンドにしよう!家父長制は悪!シスターフッド尊い!
→ちょっと待てこら
「実業団とか社会人チームなんて廃止して、その分で浮いたお金で給与上げてほしい」と常々思う。
広告的な要素とかあるんだろうけど、それなら別に野球とかサッカーのプロスポーツにスポンサーとかでつくくらいにして、わざわざ当社で社員として抱え込むのはいい加減にしてほしい。
正直言って、広告要素であるなら、彼らがスポーツできている間は契約社員として給与を支払って、引退とかするなら、そのスポーツだけに従事させ、会社の業務へのタッチはしないでほしい。
これが確信に変わったのはいくつか理由があるけれど、大きな理由は2つある。
1つは先日、以前に部下だった後輩が退職した。
後輩は海外MBAも取得もしていて、英語堪能で経理とかの資格もいくつか持っているやつだったが、不幸にも会社が保有する社会人チーム上がりの奴が先輩(スポ先)と業務ペアになったことで、後輩の人生は大きく変わった。
スポ先はいわゆるそのスポーツ一筋で、私立高校をスポーツ推薦で行き、大学もスポーツ人材ばかり集めているようなF欄大学で、スポーツ一筋で我が社の実業団に入り、30前に引退して、本社勤務をしている。
そんなスポ先と後輩の、いわゆる知的労働的な部分での能力・実力なんて、圧倒的に違うのは明白で、特に一時代前ならともかく、最近は大手企業だと文系職でも経理財務の知識・英語・法務、ITスキルなども出世に必要なケースが多く、日々勉強に追われる奴らは多くて、頭空っぽコミュ力だけで勝てます!なんて業務は商社でさえ減ってきている。
だから、後輩は大変だった。頻繁な海外出張にそのスポ先と行くのだが、スポ先は英語もできないし、すべて後輩が通訳で、後輩がしている業務の専門性なんてないから会話もできない、はっきり行って、邪魔な置物。だからといって、一切メモも取らないし、体育会系だから先輩が偉いと思い、すべて出張ロジを後輩にぶん投げ。そもそも、受験なんてしたこもないから、学ぶ意欲もないし、そもそも論理的思考訓練が勉強を通じてできていないから、日本人の事業パートナーとかからも商談の場で「ポカン」とされる始末。
後輩はスポ先のせいで残業時間が大幅に増え、「クッソドウデモイイザツム」さえ押し付けられて、病んでしまった。2年も持っただけ、立派だとは思う。
で結局、後輩は先日退職した。外資系に引き抜かれたというのは後で聞いた話。
他部署にいたスポ先と同じような境遇の人と仕事をしたことがあるが、あまりにも仕事が杜撰で、一緒に仕事して3年目にいい加減にしてほしいと思い、自分の上司と相談し、担当を変えさせてもらったことがある。
まず、「議事録の誤字脱字・変な日本語が多すぎる」 「他の人が見やすいような資料の作成ができない」 「何をどうしたらよいかみたいな思考ができない」「そもそも何年経ても成長しない」「下の人に尊大」などだった。
後輩のケースと違って、自分の場合は、同じ部署じゃなかったから良かったが、後輩・先輩とかで仕事のサポートをするならば、大変だったと思う。
一部の人だけじゃないの?と思う人もいるかも知れないが、そんなことはないと思う。
それでいいならば、大手企業は学歴差別フィルターなんてかけないわ。知的レベルに差があるからこそ、ハズレ人材の採用を減らすべく、学歴フィルターかけてんだよ。
受験や資格試験だけでなく、語学にしても大学の研究にしても、「いわゆる勉強」というのは、それなりに精神力がいるし、継続的な努力が必要なんだよ。しかもスポーツと違って、受験や資格試験を除けば、明確に結果が出る場合は少ないからなおのこと、精神的に辛いこともある。
そういうのを踏まえると、幼少期から受験として突破して、大学でも努力して、それで大企業に入社している連中が総じてハズレ率が低いのは当たり前なんだよ。みんな意図せずにPDCA回して、成功する確率を上げてんだよ。
スポーツと言う世界は結果がすべての残酷な世界ではあるけど、それでいて、結果を出せばいいんだから楽な世界でもある。だからそんなスポーツ世界から来た人材が、結果もない知的労働の世界でいきなり無条件で溶け込めるわけない。
・受験とかも突破しつつ、スポーツもやって旧帝大やマーチ、早慶上智などに一般受験で入って、スポーツでも伸びた文武両道のやつら。
・工業高校とかから社会人スポーツが強い会社に入り、工業高校とかでの専門性活かして、現場仕事しながら、スポーツしているやつら。
前者は地頭がそもそもいいし、要領もいい。大学で同じような境遇・レベルの人と会話しているから一般的な会話レベルも高く、学習するノウハや利点も理解している人が多い。
こういった人材はスポーツ枠で会社に入社していても、ある程度最初から将来ルートが決まっているケースもあると聞く。ただ、こんな人材は多くはない。そもそもこういう人は自分の外部環境を理解しているから、将来的なリスクを踏まえて、社会人でもスポーツをやる価値がないと判断すれば、速攻で進路変更するだけの視野の広さがある人が多いからだ。
後者は完全に現場の人。例えば、電気とか建設とかそういう現場仕事は今も昔ながらの徒弟関係的なとこがあり、経験的が物を言う業界だったりする。だから、スポーツと同じ要領で反復的にうまくなるし、専門性も身体で覚えていく人が多い。そのため、スポーツがだめでも、現場職はスポ根風土が多いこともあり、スポーツ一筋に人には慣れた環境であるのも幸いし、自然とそのまま、その道のプロになるケースが多いし、場数を踏んで、その技術のプロになる人は結構いる。
これは例外で、大半はスポーツしかしてないし、現場仕事もできない奴が結構な割合でいるのが現実。特に、大学全入時代とかいって、Fラン大学に進学するやつが増えてからその傾向が顕著になった。
そのため、F欄といえど、大卒だからって理由もあるのか、大企業の社会人チーム・実業団の人って、必ずしも現場配属の奴らばかりではなく、結構な割合で、本社もしくはそれに近いところで引退後も働いている人が多い。
役員とか上層部は昭和の感覚で社会人スポーツ好きな人も多いからか、そういう社会人チームで引退した人を何故か優秀だと思って、本社配属にするんだよ。スポーツがうまいこととビジネスが強いことは全くの土俵違いで、それは大きな勘違いだよ。
仮にそいつが万能的に優秀なら、そいつはスポーツでも何かしら優秀な成績を収めるか、それを生かした仕事につけるだけのノウハウくらいは身につけてんだよ。そうじゃないから、社会人チーム引退後も、自主退職とか起業せずに、留まってんだよ、理解してくれ。そういうことせずに、大企業に留まったほうが年収高いと理解してるから、窓際族のおっさんどもと発想が一緒なんだよ。
上層部のおっさんどもよ、新卒の採用時で事務系総合職は旧帝大と早慶上智でフィルターかけてるけど、なんでスポーツチーム引退したF欄人材にはフィルターかけないんだよ。お前ら、新卒の採用時にそのF欄から採用したことあるのか??
そんな人材を留まらせて、他の優秀な新卒若手の心労増やすなよ!
だから、結論として、社会人チームや実業団なんて廃止して、その分スポンサーとしてプロスポーツに広告出すとか社員の給与上げるほうがはるかに有益。
そうじゃないなら、せめて実業団選手として契約しているうちは契約社員として勤務させ、それで結果を出せるくらいのリスクを取らさせないとだめだ、それで好成績でも残せば、プロとして改めて契約でもしたらいい。
それか、現場職種に従事させて、専門性を経験則として叩き込むほうが遥かに有益。
30前後で引退したやつに、英語勉強させたり、経理勉強させたりするコストを考えるなら、新卒でそういう素養があるやつを教育するほうが遥かに有益なんだからさ。
「教養」って言われてるものって学校の授業でやったようなことばかりじゃない?
高校までの教科書の中身が全部頭に入ってれば大体なんとかなる。
そっから知識を更新していくのも、毎日ニュース記事を10個ぐらい頭に入れてたらどの分野でも満遍なく網羅できるレベルだと思う。
スポーツ選手やアイドルのことだって、10年後に話題になるのは当時のトップ記事レベルだから、新聞の1面に書かれていた内容が頭に入ってれば思い出すだけ。
「それなりの記憶力」があったら、ただ生きているだけでこういった知識が身についていくはずなのに、何故かそのレベルが「教養」って言われているんだよね。
でも皆テレビやニュースはそこそこ見てるし、高校ぐらいまでなら皆通ってて授業も受けてる。
ここまで来たら結論は「それなりの記憶力さえ持ってない人が世の中には大勢いるんだろうな」ってことにしかならんと思う。
つまり、「教養のある人間」って呼ばれているのは「生まれつきそれなり以上の記憶力があった人」でしかないんじゃないのかということだよ。
勉強してるとか、興味があるとか、時間の使い方が上手いとか、そういうのじゃないんだよ。
それを真正面から「そうか、君は記憶力がないんだな」と言われるのと「君、もっと勉強したほうがいいよ」って言われるの、どっちの方が残酷なんだろうな。
まあどっちにしろ「教養がない」って言い方は失礼だと思うし、「教養がある」って言い方もなんか違うと思うんだよな。
「これはこういうことだよ」と「君は色々知ってるね」の使い分けでいいと思うんだよね。