はてなキーワード: 暮らしとは
目標があって、努力さえすればそれに届くと信じられていた頃は楽しかったなぁ
今は何もなくて、目先の娯楽と食事を楽しみにしながら惰性で暮らしている
教育虐待を受けてたから、自分と同じような境遇の子供を助けたいって気持ちもあったけど、教育虐待から救うってどういうことだろうと考え始めたら底なしの沼みたいで諦めた
実家時代もひとり暮らし時代も、台所に一味唐辛子があったことはなかった。
七味は好きで蕎麦に使うし鷹の爪はパスタやらなんやらの料理に使うので常備がある。なので、一味はレギュラーから漏れてて、特に不足もかんじないので採用されず……というパターンだった。
しかし最近同僚から旅行のお土産で一味唐辛子の小瓶をもらった。なんか、けっこういいとこ?のブランドものっぽい感じである。
さっそく、これを使ってみたんだが、ビビった。めちゃくちゃ辛い。七味のペースで入れてみたら口内が爆発するほど辛かった。
っていうか鷹の爪を1本いれるより辛くねぇ?耳かきいっぱいくらいなのに。
一味の暴力性は異常だよ。というか、七味はこの暴力性を拘束するために胡麻だの芥子だのを混合してたのか……。
この歳になって学んでしまった。
水電気ガスが止まるぐらいで済んだし、親族も全員無事だったから、なんとなく自分が被災者だとか怖かったと言うのが憚られる感じがした。でも
、最近地震多いし、仕事で災害関係のことをする中でやっぱり怖かったんだなって気づいた。
毎年遊びに行くおばあちゃんちや家族でつい数日前にも出かけた隣町が流されて無くなってたり、よく車で買い物に行くときに通る場所が数日にわたって燃えてるのはチビながらに衝撃だったんだと思う。
見知った景色が大変なことになってるし、ライフライン関係の仕事してた父は数ヶ月帰ってこないしだったからそりゃそう。
修学旅行先は原発事故の影響があるかもってことで会津若松から盛岡になった。当時は情報が錯綜していて、これは本当に今だから言えることになるけど、内陸で比較的被害が少なく風評被害で客が減ってしまっている観光地ならむしろ旅行にでた方が良かったんじゃないかと福島で暮らしてて感じる。
みなさまご安全に。
増田という映画を知っていますか?と言いたいところですが、このような映画はありませんね。
しかし、ちょっと別の映画に目を向けてみましょう。例えば「グラン・トリノ」という映画をご存知でしょうか?
クリント・イーストウッドが監督・主演を務めるこの作品は、韓国戦争の退役軍人で、妻に先立たれ、独り暮らしのウォルト・コワルスキーという老人が主人公です。
ウォルトは、口が悪く、偏見に満ちた性格で、隣人との関係もうまくいっていません。
しかし、彼が隣人のモン族の少年、タオ・ローと出会い、友情が生まれることで、彼の生き方は大きく変わります。
彼はタオに生きる意味や価値を見出し、最終的には自らの命をかけて彼を守る決意をします。
増田、ウォルトの人生も決して順風満帆ではありませんでした。彼も孤独と偏見に満ちた日々を過ごし、過去のさまざまな出来事に苦しんでいました。
しかし、人との出会いと交流が彼を変え、人間らしい感情や新しい生き方を取り戻すことができたのです。
人生は厳しいものですが、何か新しいことに挑戦し、他人と関わることで、自分自身を少しずつ変えていくことができるかもしれません。
無価値だと思っているその人生、もしかするとまだ見ぬ価値が隠れているのかもしれませんよ。
増田、どんなに孤独でも、どこかに手を差し伸べてくれる人や、あなたが手を差し伸べるべき人がいるのかもしれません。
同じ日々の繰り返しに見えても、新しい一日が必ず訪れます。そしてその一日はまた新たな可能性を秘めているのです。
どうか諦めず、少しずつでも前向きな一歩を踏み出してください。
2人暮らしだったら被災時は交通手段入手次第で、1人だけでも実家なりホテルなり非災地に出るのが正解よ。
被災地にいると人数分の水と食料とトイレを確保せにゃいけんけど、よっぽどできるパートナーじゃない限りストレスがヤバすぎる。
置いて出ていくのは相手のためでもある。
共学高校→工学系大学→自動車業界と歩を進めてきた私にとっては、高校の部活の同窓会というのは男女比がほぼ5:5になる唯一のコミュニティだ。
大学に入って以来女子のほうが多い飲み会に参加した記憶などなく、仕事帰りに男女で居酒屋に入っている集団を見ると例外なく殺意を覚えたものだが今回ばかりは私がその男女の集団なのである。
そんな飲み会に参加できるのであれば、妻との交渉にて使ったHäagen-Dazsなど安いもの。
ただ一言だけ断っておきたいのは、私は決して浮気不倫等の社会倫理に悖るコトをしたいのではなく、ただ単純に旧友に会って話がしたいということのみであり、ついでに女子が多く場が華やかであれば尚良しというただそれだけのことである。
さて高校3年間、16~18才の所謂"青春時代"をともに過ごしたメンバーであるから、破局したカップルがいたり、叶わぬ片思いの相手がいたりと愛憎渦巻く飲み会であった。
元カップルが、現在全く別の相手と結婚していたりいまだ独身だったりするのであるから、それは破局したと言って差し支えないだろう。
全員アラサーであり、良くも悪くも大人なので昔の恥ずかしくも甘酸っぱい思い出を語るようなことはせず、もっぱら話題は結婚、出産、子育て、マイホーム、転職、近況が主な話であり、それぞれ自分の人生を歩んでいると思った。
マイホームとその予算。子育てと仕事との折り合い。転職と投資。今の日本を覆う諸問題は、眼の前の旧友たちにも例外なく振りかかっているようだ。
そんな中、私の元片思い相手は絶賛彼氏募集中という話を聞いた。
一番結婚から縁遠そうな私が結婚したので、妻との馴れ初めや結婚式の話をしていると、そのようなコトを言っていたのだ。
どうやらマッチングアプリを使ってはいるものの、なかなかいい人と巡り合っていないという近況とのこと。
それを聞いたときの私の心情というのが今回の文章の主題である。
温めの燗酒と炙ったイカをお供に私の舟唄を聞いてほしい。
その件の相手というのは高校の同級生で、入学したとき私の前の席だったのを覚えている。
どちらかと言うと明るいが奇妙奇天烈な性格で、典型的なオタク女という分類になるのであろう。
意識したきっかけは何だったか、はっきりとは覚えていないが確か魔法少女まどか☆マギカの映画化に際して、今度よかったら一緒に観に行かない?と(おそらく向こうにとっては)なんの気無しに言ったお誘いだった記憶。
女子からなにかに誘われるということはそれまでの人生で1度となく、胸が高まったというのだけは覚えている。
地元のイオンモールに2人で買い物に行ったことがある。私の人生初デートである。その時の目的もはっきりとは覚えていないが、確か何かしらのアニメグッズを買いに行くのが目的だったはずだ。
そこから約1年。同じ部活のメンバーとして練習をしたり、みんなでカラオケに行ったりという何気ない日常が続いていた。
その頃にはもう好きになっていたのであろう。
まどか☆マギカを観に行かないかという誘いは、そして果たされることになる。
201X年の12月24日。県庁所在地にある映画館にて映画を見に行った。
当時アマガミという恋愛シミュレーションゲームにハマっていた私は、クリスマスデートというのは絶対に抑えておきたい高校生活のメインイベントだった。
彼女にその気があったかは私は知らないし、知ることはないだろうがそれでも私にとってはデートだった。
親に出かけるといい、精一杯のおしゃれをして、なんとなく親には察され、待ち合わせ場所に向かった。
地元の駅で待ち合わせ、映画館に向かう間は私は緊張してあまり喋れなかったように思う。
映画を観終わって帰路をたどっている最中、私はどうやって告白するか、それだけを考えていた。
もう少し正確な表現を心がけるなら、おそらくその日は1日中告白することだけを考えていたのだろう。
恋愛シミュレーションに毒された高校生が、12月24日に映画館デートをしているのである。
意中の相手とクリスマス・イブに2人で出かければ、意識をするなという方が酷な話であろう。ましてや17才の青春真っ盛りの高校生であれば、恋愛脳であっても誰からも咎められはすまい。
だが私は結局言い出せなかった。
告白なんかできる雰囲気ではなかった。言えるタイミングがなかった。言い訳を挙げればキリがないが、要するに怖気づいて言えなかったのだった。
部活はまだ続いていく。告白して失敗し、気まずくなるよりはリスクを冒さずに現状維持することを選んでしまったのだ。
この選択は正しかったと15年たった今でも自分に言い訳を続けている。
年が明け、年度が変わり高校3年生になった。私は理系、彼女は文系なので違うクラスに。それは部活を引退すれば疎遠になるということだった。
インターハイが終わり、私の高校での部活は終わった。これからは大学受験に向けて各々勉強する時期である。
とはいえ、高校生活はまだ続いていくからイベントはある。文化祭や体育祭、球技大会などクラス単位で楽しむイベントはまだ残っている。
当然私も自分のクラスで、文化祭や体育祭など全力で取り組んだ。文化祭の出し物の打ち合わせで22時過ぎまでファミレスでクラスメイトと話し合いをして、追い出されたのはいい思い出である。
彼女と同じクラスで出し物ができる、文系クラスの友人を羨ましく思った。
私は英語が大の苦手で、このままでは英語が足を引っ張り不合格になるであろうことが予想されていた。
両親の方針で、地方でひとり暮らしをしてでも浪人は絶対にNGとのことだったので二次試験に英語のない地方の大学に目標を変えざるを得なかった。
詳しくは知らない(し、未だに彼女がどこの大学に行ったのかはよくわかっていない)が彼女は実家から通える都内の大学を受験すると聞いた。
2人の距離が、どんどん開いていくような気がした。
3月になり、私は地方の大学でひとり暮らし。彼女は都内の大学に通うことが決まった。4月になれば離れ離れである。
卒業式が終わり、付き合っているわけではないが彼女との別れが近づいてきた。
私は彼女が秋葉原のメイド喫茶と池袋のアニメイト本店に行きたいと言っていたのを覚えていたので、彼女をデートに誘ったのだ。
私は当日が楽しみだった。普段は見ない朝のテレビ占いなんかもみて自分の運勢を確認したくらいである。
そしてクリスマスの日にできなかったことを今日こそはとも思った。
何しろもう後が無いのである。月末には私は地方に行かねばならない。
都内でのデートは非常に楽しかった。私の青春の集大成と言ってもいい。
行く先々でカップルと見られるのは心地が良かったし、この時間が永遠に続いてほしいとも願った。
どうしても遠距離になってしまうし、現実的には厳しかったのも理解していた。
ただこれからが絶望的な以上、クリスマスのときのように比べる天秤がない以上、一兆分の一の可能性を信じたかった。
地方に引っ越しをした時が私の人生で一番寂しかった時期だろう。
知らない街、知り合いは誰もいない中で、選別に貰ったキーホルダーが失恋を常に思い出させた。
失恋から6年後、キーホルダーが壊れてくれたお陰で、私は青春と漸く決別できたのである。
同窓会で再開して、彼氏募集中のようであったとしても、私にはもう人生をともにする伴侶がいる。
今の妻と別れてもう一度青春を取り戻すべきであろうか?
それが不可能であり、すべきでないことは論じるまでもないであろう。
綺麗な思い出は綺麗なまま保管せざるを得ないのである。
せめても彼女に、佳き人が現れることを願う。
書いたら色々思い出したので、言語に関する単なる思い出語りをちょっとメモさせて頂きます。別に面白くないと思います。
わたしが滞在していた時はアラブ革命の前後だったので、段々シリアの方が物騒になってきて、シリアにいた外国人留学生がエジプトに逃げてきました。
それで何人かの子と同じフラットで住むことになったのですが、シリアで勉強していた人は当然シリア方言です。そしてエジプト方言に馴染んだ日本人から見ると、シリア方言を話す青い目の西洋人がめっちゃかわいくて上品に見えました。
前提のお話をすると、アラブ世界というのは中世ヨーロッパみたいな感じに、「正式な言葉」と「普段使う言葉」がかなり乖離しています。フスハーと呼ばれる「正式な言葉」は、書き言葉のほか、宗教関係や法曹関係、演説やテレビのニュースなどで話し言葉としても使われます。テレビのアニメも教育目的でフスハーが使われていたりします。このフスハーはアラブ世界共通です。
一方、アーンミーヤは地域差が激しく、それぞれの方言があります。
で、日頃この方言で話している場で急にフスハーで喋る人がいると、日本で言えば「ござる言葉」で話す人みたいで滑稽で、なんか可愛い感じもします。
シリア方言はエジプトの感覚からすると少しフスハーに近いというか、古くて伝統的な感じがするのですが、外国人が喋っているとそれも相まってめっちゃ可愛いのです。まぁ、わたしがエジプト方言を喋るのもエジプト人からするとかわいかったのかもしれませんが。
これも単なる自分の思い出語りですが、わたしは元々ずっとフスハーを勉強していて、アラビア語愛が高まりすぎて仕事を辞めてエジプトに行ってしまった人間なので、エジプトに行ったばかりの頃は、「あの美しいフスハーを喋らない現代エジプト人は、なんて堕落しているんだ!」「エジプト方言はイーイー言ってる感じで下品!」と思っていました。
アニメがきっかけで日本語を勉強した外国人が、実際に日本に行くと誰もナルトとか悟空みたいな喋り方をしていなくて愕然とする、みたいな感じでしょうか。
最初の頃はひたすらフスハーを学び、関わりのあるエジプト人もフスハーで喋ってくれていました(教育水準によりますが、なんちゃってフスハーでよければ皆んな多少は喋れます)。
でもしばらく暮らしていると、買い物をするのにも不便だし、その辺の無学なおっちゃんの喋っていることは全然わからないし、普段周りにいる人達の会話に入っていけないのはすごく辛いです。
で、途中からエジプト方言も積極的に学ぶようになり、エジプト人同様に二刀流になりました。
フスハーはクルアーンの時代の言葉をベースにかなり無理して人工的に保存している言語なので、純度が高いですが、アーンミーヤには前のエントリで書いたようにトルコ語とかアラブ化以前のコプトの言葉、古いイタリア語由来らしい言葉などが結構混ざっています。もちろん現代語彙では英語やフランス語由来のものもあります。その辺のごった煮な感じに現代方言ならではの魅力があります。
ちなみに文法の超絶難しい正則アラビア語に比べると、現代方言は簡略化されていますが(ラテン語とフランス語くらいの感じ)、その分不規則要素が多くなり、なんというか、英語みたいに「ノリ」で話している感じがあります。
これも余談ですが、アラビア語とヘブライ語は兄弟言語なので、会話などはまったくわからないものの、古い言葉はなんとなく類推で意味がわかるものもあります(そもそもアラビー=アラビア語とイブリー=ヘブライ語は同じ子音の順番を変えた言葉で縁が深い)。
ヘブライ語ではなくアラム語みたいですが、イエスが最後に言った「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とかも、アラビア語風にカタカナ表記をすれば多分「イラーヒー、イラーヒー、リマーザー、タラクタニー」(إلهي إلهي لماذا تركتني)で、すごく似ています。tとthが入れ替わったのかなぁ、とか想像が膨らみます。アラビア語訳の聖書とかも重々しい感じでジーンと来ますよ!(もちろん、本当はヘブライ語やギリシャ語で読むべき)
この辺は言語の本物の研究者の方たちがめっちゃ深堀りされているでしょうね。自分は中途半端にかじったレベルなので、本物に色々教えてもらいたいです。
どこそこの国が「俺は超すごくて文化的なんだ。だから他の奴らとは違うんだ!エッヘン凄いぞ!」とやってるのを見るとき、日本人はそれを他人事であるかのように扱うのが不思議でならない。
自分たちのことを謙虚だと勘違いしているつもりだろうが、そんなことはまったくなく、アジアで唯一の先進国であるかのように自認し他のアジアを見下しているのが日本人だろ。
こういう話をすると「いやいや『中華思想(笑)』と比べたらたいしたことないアルヨwww」と逃げるが、誇大妄想を元に世界を支配しようとしたのがつい100年前の話で、そのとき抱えていた『八紘一宇(天皇陛下を頂点とする家父長制のもと全世界を統一すれば、偉大なる父の子になれて皆ラッキー皆ハッピネスでござるよ←こんなバカなこと本気で言ってたのマジで笑えるよね)』の集団幻覚に比べたらまだなんぼかマシに思えるわ。
戦後は戦後で高度経済成長により世界中を見下してたし、そこから完全に廃れきったのに「でも日本には四季とモラルがあるし・・・」とまだまだ中国・韓国はもちろんタイやマレーシアだって平気で見下しにかかっている。
「極東の島国で卑屈に暮らしている」というセルフイメージとは裏腹に、実際にはアジアの中では自分たちが頂点で欧米列強の常任理事国クラスを持ってこない限りは負け知らずと周囲を見下し切っている。
これが猫被りの腹黒ではなく、正真正銘無自覚見下しなのだからとんでもないことだ。
技術・安全性・漫画・ゲーム・HENTAIの分野において世界トップなのは事実として間違いないのだが、一部の分野で尖っているだけでトータルで見れば他国を見下している余裕があるほどの国とは言えないのが現状だ。
自分たちはよそを見下しまくっておいて、他の国が同じことをすれば「自分たちの民族を偉大だと勘違いしてプライドだけブクブク膨れ上がってる国ってマジでキモいよね~~(*´·ω·)(·ω·`*)ネー 」と盛大に棚上げをかます。
顔はぜんぜん好みじゃないけど中身が良いから結婚しました!って人の中で、まあ上手くいってるしそれなりに幸せって人は何割くらいなの?
ジョーダン・パーラーは、亡命希望者や難民を収容するホテルを攻撃するよう人々に呼びかけた罪で、懲役20ヶ月の刑を宣告された。
イギリスの騒乱でSNSを利用して混乱を煽ったとして、初めて懲役刑が言い渡された。
ジョーダン・パーラー氏は、全国的な暴動に関連したSNSへの投稿により刑務所に送られた最初の人物とみられている。
パーラー氏は、人種的憎悪を煽る意図で文書を出版した罪を認め、リーズ刑事法院で懲役20ヶ月の判決を受けた。
8月上旬、28歳の彼はフェイスブックに「男も女もみんな、(リーズの)ブリタニアホテルをぶっ壊すべきだ」と投稿した。
210人の亡命希望者と難民が暮らしていたブリタニアホテルは、石を投げつけ窓を割る人々の標的となり、「封鎖」を余儀なくされた。
裁判所によれば、この投稿の後、ホテルはさらなる被害を受け、週末には十数人の警察官がその地域に派遣されたという。
ガイ・カールKC判事は判決を下し、「被告はソーシャルメディアを利用して、他の人々にホテル襲撃への参加を促した」と述べた。
「最初の投稿には 6 件の「いいね!」が付いただけでした。しかしこの投稿はあなたの Facebook の友達 1,500 人に送信され、プライバシー設定が不十分だったため、友達の友達に転送されたことになります。
「したがって、メッセージは広く広まりました。それは明らかにあなたの意図でした。」
ソーシャルメディアへの投稿で刑務所に送られたのはパーラー氏だけではない。
タイラー・ケイは、ソーシャルメディアを利用して亡命希望者を収容するホテルに放火するよう人々に呼びかけたとして、38か月の懲役刑を言い渡された。
土日休みの私と、シフト制で共働きの妻は、休みが被らない。だから休みの日はワンオペで子の面倒を見ることはよくある。
いつも遊んであげているからか、子は私によく懐いていると思う。
だから休みの日になると、「だっこ」「読んで」と絵本を差し出してくる。
普段、なるべく子どもに構ってやりたい、と思って色々と連れまわしてあげていたりするものの、やはり試験直前期ともなるとそういう訳にはいかない。
渋々子の希望に応じて抱っこをして、絵本を読み始める私の気がそぞろであることを1歳ながら子は鋭敏に察する。そして、スッと別の部屋に行って、一人で絵本を読んでいたりする。その背中が切ない。私が不甲斐ないばかりに、早く大人になることを強いてしまっているような気がして、「ごめんね。」と背中越しに声なく語りかけるが、そんなことを子は知る由も無い。
結果は判り切っているのに、勉強なんてさも正当な理由があるが如く振る舞い子をおざなりにしてしまうことに罪悪感がある。そもそも勉強自体、好きじゃない。
だけど、しかし……。
冒頭で書いたように私は薄給なのであって、どうにかして現状を脱するには資格に依るしか途が無い。長い目で見たときに、この苦しみが結実することを祈る。そしてこれはイズムの問題だと自分に言い聞かせている。
短期的に子を慈しみ、今の生活を良くしようとすることは妻がすればよく、今を苦しんで長期的に何とか生活を良くしようとする行いは、苦しみを飲み込む器のある側がやるしかない。
子は父の心を知らず、私のことは嫌いになっても構わないし、妻が私のことを「役に立たない」と思い恨んでも構わない。しかし勉強した世界線と勉強していない世界線では、前者の方が(私自身は嫌われているものの)妻子の幸福に寄与するはずだ。少なくともそういう姿勢で暮らしていくことが、生活の全てにおいて溶け込んで良い方向に作用するはずだ。
そして私は、家父長としてそれを受け容れなければならないのだ!
とポエミーに語ってみたものの、どう自分の中で折り合いをつけたところで妻子の側からは、1年後、2年後の結果で私の行いを裁くのだろうなと思う。
もう何千時間も勉強してきた。全部がムダだったなんて思いたくない。何とか受からないと。
一切の脈絡が皆無。ネタバレも全部する。思い出した順に書く。たまに自分語りも遠慮なくしてる。全部乱文。
一応高校〜大学でずっとラヴェルを弾いていた身なので、伝記的要素を含む部分についてはほとんどが「史実により既知」であり、8割がたネタバレを喰らっている状態。その中で「例えシナリオが外れても、余程地雷を踏まない限り彼作曲の音楽がずっと流れてるっぽいからそっちで楽しめるしな」という期待半分、保険半分。
結果としては大当たりだったけど。
初っ端から病気(史実)。開始10分程度でサラッと彼のバックグラウンドとルーツのおさらい。ローマ大賞の落選。「お母様はスペイン?いえ、バスク人です」。15分で作曲依頼を受けるスピーディー加減。ラヴェルがちゃんと包み隠さないマザコン(史実)。時代設定的に正しい、遠慮のないタバコ演出。モクモクしてない時がないのでは?
音の演出。「全てがリズムから始まる(トントトトン)」がキーワードで、机を叩く指、時計の秒針(規則正しく、まるで体に染み込ませるかのような1秒刻みを60回)、教会の鐘の音、ザーザーという雨音エトセトラ、エトセトラ。猫が布を引っ掻く音、床の軋み、風、そういったありとあらゆる身の回りの生活音からすら、「音」とインスピレーションを拾おうとする彼が印象的。
何より工場の機械音、壮大で、規則正しく、統一感があって、それで彼のルーツにも関わるもの。彼のお父様は確か工場の技師ではなかったか...。
音楽の使い方、そのメリハリ。基本的に何かしらの形で音(音楽、ラヴェルが自分で弾くピアノも含)が流れているところ、母親の葬式の間に「マ・メール・ロア 妖精の国」が流れて、納棺したらしばし「完全な」無音。遺品を眺めている間とか。彼は、母親が亡くなってから意気消沈して数年間音符を譜面に置くことができなかったと聞いているので、あの「完全な無音」がそれを表しているのかも。
ちなみにこの曲は私も大好きな曲。音響の関係なのかそれとも本当に演奏がそうだったのかわからないけど、薄いシルクを何層にも重ねた向こう側から星を拾おうとする感じの繊細な音の「揺らぎ」があって、タイトルに場面にも相応しく儚くて、もしかしたら今まで聞いた中で一番好きな演奏かもしれないと思った。
あらすじの面。基本的に史実を派手に脚色したりすることのない、極めて「元ネタに忠実」で誠実なパターン。
メインキャラのミシアはラヴェルにとってのミューズ的な存在として描かれていて、まあ実際そうとしか言いようのない感じ。双方ラインを引いていて、その中でミシアは彼女にできる精一杯でラヴェルに近づいて彼の芸術を後押ししていた印象。ボレロを「良い曲だから、ぜひ外に出して」というあたりなど顕著。
ラヴェル→ミシアは、ある意味「敬虔」に近い崇拝の仕方をしていたと思う。キスじゃなくて曲を書いて捧げたいという思考回路。それが彼にできる精一杯の愛情表現?
物語の終盤で彼がミシアに「少しは愛していた?」と聞いたら「もっとずっと」って返ってきたのはあまりにも切なすぎないか。それに対して無言で呆然とするラヴェル。病気のせいもあってすでに一人老け込んでしまって、記憶障害も失語症もある中で、なんとか断片を拾い集めて、「少しは愛していた?」と問うのはミシアにとっても少し残酷だし、まあ割と「今更気がついたの?」みたいな面もある。そして「その拾い集めた断片であなたがようやく認識したものよりも、もっと、ずっと」ということなのだから。
命の終盤で知るには手遅れ感が、もう取り戻せないもののような感じが強い。
少なくとも二人は恋人になって一般的な恋人たちが踏む手順を全て踏みに行く「愛」じゃなくて、もっとこう、違うんだよね。詩的な感じがある。
あと、作中でミシア、マルグリット、イダ、マダム・ルヴロが4方向から、それぞれがそれぞれにできる「母親」的役割をしていたもの中々面白かった。
多分、一人でも欠けてたら色々もっと難しかったねと思う。作曲も、人生も。
だって、誰が「エナメルの靴がなかったら指揮できないです」ってなると思うねん。ルヴロ婦人めっちゃ爆走して靴だけ届けにきてたよ。
【ちょっと残念だったところ】
寂しかったともいう。従軍(といっても病弱により医療班・運転手)したところはしっかり描かれてたけど、それがきっかけで書かれた「クープラン」への言及が皆無。
【結局ボレロって】
作中でも「初っ端から病気」ラヴェル、病気になって体が上手く効かなくなり始めた頃に作曲した(ほぼ晩年の遺作扱い)のが「ボレロ」なのであんな真っ直ぐ空に突き抜けるような物を、あんな堂々として力強い物を、一体何を考えながら書いたんだろうってずっと思ってたら10年くらい経った気がする。
そしたら今回の映画ですわ。...って話。
大学生の時にモダンダンスの授業があって、そのレポートで私がテーマにしたのもラヴェルの「ボレロ」と作中でも踊られていたバレエだった。(もっとも私が題材にしたのはシルヴィ・ギエムのバレエなので、今回の映画内のものとは相違あるが...)(しかも「踊りだけ」に集中してレポートを書けばいいものを、余計に音楽に割いた文量が多かったために若干の減点を喰らっている。)
舞台は酒場の円卓、官能的な踊りを披露する踊り子と、周りを囲んで踊る男性たち。実際(これも映画内で言及あったが)絶妙なエロティックさがあるのだけれど、どちらかというと「存在の主張」をするかのように体を余すことなく使う振り付け(それ以前のバレエ作品というと「この世のものではないかのような舞」が多いので、その対照的位置づけとして)。
曲の音程が徐々に下がっていく箇所でも「むしろあえて」手を高くあげ、足を振り上げ、天井を見つめるような独特の「極めて原初的な生命力」のアピールを感じる踊り。スネアドラムの規則正しい音が、私たちの中にある何かを鼓舞しているように聞こえるまである。
去年、あの家を出る半月前くらい。引っ越す引っ越さないみたいな話で親と大揉めに揉めたら、仕事から帰ったあと19時くらいに追い出されて12時半くらいに入れてもらえるまで3センチヒールの靴で12キロとか歩いたことがある。(昨今話題になった狂歩に近い感覚。この場合、時間帯が時間帯なので、落ち着いて座る場所がなかったのも原因の一つだけど...)
その時、夜露が降った時間帯に濡れながら聞いたのも「ボレロ」だったな...という遠い思い出。何もかもがしんどくて仕方がなかった時に「規則正しく徐々にクレッシェンドに向かって、やがて崩壊する」音楽に救われたのは、私の人生の中で無視できないと言っても過言ではないと思う。
...夜露に濡れて、住宅地は灯りもまばらで暗くて、あんな時間帯に歩いている人なんかいなくて、ボレロがイヤホンから流れたときはすごい泣いてたけど、それでも、
規則正しいスネアドラムに引きづられるように、ヒールの靴できちんと歩いた。あの曲が最後「噴火するかのように」崩壊するのと同じように、私も「あの家の暮らしを終わらせてやる」と誓ったのを覚えている。
あれを思い出すたび、私はいつも冒頭の問いに戻る。
「病気になって体が上手く効かなくなり始めた頃に、なんで真っ直ぐ空に突き抜けるような物を、あんな堂々として力強い物を書けたんだろう、一体何を考えながら書いたんだろう。
そしてそれが100年以上経って私のような人間をある意味で救ったなら、あの曲の持つ力ってなんなんだろう」
まあ、考えながらというか...今日見た映画だと割と「メロディをふり絞ってた」けど...笑
ちなみに「同じリズムの繰り返し、催眠のよう」と映画内で言及があった。「確かに!」である。
少なくとも今日、私は「一つの解釈」を見ることができて非常に満足。
史実ラヴェル、脳の手術時に脳みそに生理食塩水をぶち込まれて四日後くらいに亡くなるわけで...。ナレ死とかやだなーって思ってたら。
手術する病院に行く車に乗り込むあたりからかかっていたのが、ボレロだった。
なんと、作中通して詩的なエロティックさ、生命力の象徴として描かれ扱われ、私たちに散々見せつけてきたあの「ボレロ」が
(本人や友人たちは知りようもないが、ラヴェルの最期を知ってる観客にはわかってしまう)死にに行く道中の、「葬 送 曲」になったのである。
「ラヴェルさん、靴をお忘れです!」「今はいいよ、後で届けてくれるかい」の会話すら、もはや「処刑場へ向かう馬車に乗る直前の風景」に見えるまである。
まさかラヴェル手術後の死に顔に登場人物たちのリフレインと一緒にボレロを聴くハメになるなんて、思ってもいないです。
最後は彼の亡霊のように、若く蘇ったラヴェルが指揮をふります。
まじでさみしい。
本当にさみしいです。
学生の頃は大学に行けば誰かしらと話せたし、サークルとかバイト先でも何気ない会話ができる環境だった。
就職で地元に戻っても、実家にいたから毎日家族とは話せたし、たまに小中の友人ともふらっと飲みに行けてた。十分に楽しかった。
でも知らない土地に来て、職場の人間ともそこまで交流がないなか、このお盆休みを迎えてさみしさがブワッと押し寄せてきた。
やべー孤独。
いままでの週末は映画とか漫画とか本とか、あとラジオ垂れ流しでどうにか満足できてたけど、この大型連休を誰とも交流せず乗り切れるのだろうか。
マッチングアプリ、なんとなくやってこなかったけど遂にインストールしてみようかな…
さみしいよ…
新しい家に引っ越して1ヶ月が経つ
(まだ離婚はしていないのだけれど)
新しくインテリアを買い揃えたり
初めて植物を育てたりしている
やっぱり一人でも生きていける自分が嬉しい
真面目に生きてきたしそりゃそうだよなと思う
仕事が終わって
いま暮らしている街の駅に着いて
ずっと うっすら死んでもいいかと思っている
自分も誰かと連絡とれなくなったら…なんて心配する人がいない。
むなしいなって。
ただただどうやって暮らしていったらいいんだろうって
恐怖ばっかり。
何事もないのが一番なんだけど
でも、こういう時に話題になる家族はどうするとか待ち合わせ決めないとね~とか
そんな話に入れなくって。
親として嗜めるが
「粗にして野だが卑ではない」
この「卑」がいわゆる下品であろう
名家、世襲だらけの国会議員の前で彼は「粗」で「野」であろうからこのようなセリフになったのだろうと想像している
彼は明治19年に静岡の漁師の家に生まれ、一橋大学から三井物産、海外勤務
開戦に反対し引責辞職、いくつかの公職を経て戦後公職追放を受けながらも国鉄総裁となり現在のJRまでの発展の礎を築いた人物、天才。
「卑ではない」これ重要
宮中晩餐会に呼ばれプロトコールに従い所作つつがなく飯を食って帰れる人間は表面的には上品の極みであろう。まぁそれが出来る人間しか呼ばれないわけだが
対してヒール役プロレスラーからこぼれ出る「でも彼、裏では気さくで礼儀正しい常識人なんすよね」話。
そんな事はどうでもいい
人は品良く生きるべきか、下品に生きたほうが得か
「自分さえ良ければいい」
彼はこの行動指針を徹底している、
社会正義や品性など一円の得にもならないという合理的判断だろう。
多少の批判には最終兵器「自分金持ってるっス」を隠し持ってる安心感
正直羨ましい
「足るを知る」は負け犬の遠吠えであろうか
悩みながらも俺は品良く生きるコースを維持している
礼儀礼節常識を守り、努力を怠らず、他者を思いやり、自分と関わりを持つ人間の幸福を願う
でもさ、怪物下品男の水島廣雄は個人債務200億円踏み倒しても100歳の誕生日会は政財界からお祝い殺到、聖路加タワーで天寿を全うだからなぁ
これが単なる成功者バイアス、一般論から外れた統計ノイズであると信じたい
27歳女。実家暮らし。マチアプで知り合った交際10ヶ月の彼氏から同棲を打診された。14歳で母を亡くしてから男手1つ(と言いつつ近くに祖母がいるが)で私を育ててきた。だからこそ寂しがるだろうと思い、3ヶ月ほど同棲の相談をできなかった。
7月はじめ、「本当に同棲したいなら親に言うよね?」と彼に言われた。こいつは結局何もわかっていない。お前見たことないだろ、親が嫁を亡くして悲しむ姿を。夜中に嫁の名前を悲しげに呼ぶ姿を。伝えてるはずなのに伝わらない。共感力のなさには本当にがっかりした。ただ、彼の意見もわかる。自立のためには乗り越えるべき壁だ。
7月中旬、父に伝えた。家を出ること、彼氏がいること、一緒に住もうと言われていること。「パパもついていっちゃおうかな♡」「え…そんな遠くに住むの?(車で1時間の距離)」「そいつとダメになって戻ってきたらいい」「(顔写真を見せても感想なし)」「会いたくない。9月じゃなきゃ無理」「いやだ」
だーーーーーーーーーーから言ったんだよ、ぜったい寂しがるよ、難しいよって。私が親離れできてないんじゃなくて、父親が私から離れられてないんだから。結局そういうの全部言われるのはこっちなんだから。
すぐに彼に電話して、父がやはり寂しがっているから私の地元に一緒に住んでくれと頼んだ。彼は、一緒に物件を探そうと言ってくれた。
その次の週末、無断で彼の家に3泊したら父の態度がよそよそしくなった。3泊と言っても、ららぽーとに行って花火見て桃を食べていただけ。父よ安心してくれ、セックスは1回しかしていない。避妊もしてる。
父の態度に気付かぬふりをしていたある日、ひょんな発言で怒りを買った。「どこにでも行ってしまえ」と言われた。「自分は用済み」と受け取られたのかも。
彼氏に事情を伝えたら、「今まで父に甘えすぎていてたのでは?」と言われた。そして、「やはり地元を出るべきだ」と提案してきた。今まで父と祖母に甘えてきたぶん、私には家事能力がない。このまま同棲すれば僕にばかり負担がかかる。だから、親に頼らない環境に身を置いて自立してみてはどうだ、と。
お前の家で一緒に料理をしても皿洗いをしても頭痛のときにカレーを作っても、「それだけじゃん」と。日常的に掃除や料理をしなければ、自分の負担は軽減されない。そう主張する。
つまり、彼の意見は「自分がわざわざ通勤ラッシュのある路線を使うようになり、家から職場までの距離が遠くなるのに家事までやらされるなんてたまったもんじゃない」ということ。
反論したいが、一旦飲み込む。とりあえず私に合わせる気がないことはわかった。それを理解した途端、何もかもが馬鹿馬鹿しく感じる。やめたやめた。
そもそも男の庇護下にいようとするのが間違いだ。私を手放そうとしないくせに後から文句をつけたら人のせいにする父も、まだ起きてもないことを悲観して人のせいにして僕の嫌なことを述べる彼氏もいらない。さよなら。1人で生きます。そう決めてから、彼氏とLINEのやりとりをやめた。
奴らのことを何も気にしないなら、職場の近くに住めばいい。しかし職場は家から遠く離れており、土地勘がない。不動産屋に話を聞きに行こう。翌日、出勤即午後半休を申請した。
1軒目は職場近くの有限会社。地場の不動産しかないため、条件が合わない。徒歩3分のアパマンショップを紹介される。アパマンショップでは、職場から30分程度のアパートを何軒か紹介してもらった。最寄り駅まで徒歩17分、洗面台がない、風呂場がタイル張り、1階、それなのに予算をはるかに超える家賃…………。現実は厳しい。
就職や進学で期限を迫られるならまだしも、独立するだけなら知らぬ土地に住む意味がない。いくら職場に近くても「昨日今日知りました!」みたいな駅よりは多少遠くても利用したことのある路線沿いがいい。定期圏内に繁華街があれば買い物や遊びに行きやすいから。
だとすれば、渋谷の店舗に行ったほうが幅広いエリアを紹介してもらえるのでは?とスタッフさんが提案してくれた。
トイレを借りにヒカリエへ寄り道。そこで、ヤクルトスワローズのとある2軍選手と遭遇。顔がタイプの選手だったから気づけた。野球好きな父とは、いつか彼の活躍を見にヤクルト戦へ行こうと話してた。背が高くて顔が小さくて黒かった。
アパマンショップに行き、いくつか物件を紹介してもらう。いいところがあったので、次の休みに物件を見にいく約束をとりつけた。うまくいけばそこできまるだろう。20平米の1Kでちょっと狭いけど、慣れ親しんだ路線で、定期圏内に繁華街もある。帰りの電車は座れる。いいじゃない。わずかながらお金を貯めておいてよかった。さようなら、愛。私はお金に生きます。
余談だが、わたしの好きな作家は綿矢りさだ。登場人物が最後に反応むき出しで突飛な行動をするところが特に好きだ。憧れるだけじゃなく、やってみたらいいんだな。久々に何も考えずに行動したらとても楽しかった。
機嫌の良くなった私は、父に遭遇エピソードを自慢した。最初はツンケンした態度をとっていたが、私に話しかけられたのがよほど嬉しかったらしく、iPadの画面を割った話もしてきた。町の修理屋で1万で直してもらえたようだ。
そこから、同棲の話になった。要約すると、「一緒に住んでいいよ」「9月の頭に一度彼を連れて来なさい」と。
エ………………………………………あの………………内見の予約しちゃったんですけど……………………………………………………………………………………………………………………………彼とも別れるつもりで…………………………………エ…………………………
前提:ここでいうセックスは2人以上での性行為のこと。必ずしも挿入ありきではない。オーラルやペッティングのみでも2人以上な時点でセックス。
昨日、「オナニーがしたいけど配偶者がいる暮らしだと独身時代のように思うように自由にできないのがつらい」といったような愚痴増田を書いたら、知らん既婚女から「わたしはムラムラしたら夫に抜いてもらってるからそういう悩みない」みたいなこと言われて「は????」になったんですよ。
セックスはオナニーの代替にはならんが????なんですよこちらからしてみたら。
でも、それでふと思い出したことがあるんですよ。
「夫がまたエロ本買ってシコってる」
それの何がいかんのや。
そりゃ度を超えてセックスを断ったりエロコンテンツに課金したりしてパートナー関係に軋轢が生じるようなやり方なら問題があると感じますが、ある程度の範囲内で楽しむのは別によくない??
酒やタバコやパチンコやゴルフやゲームや釣りやスノボやガンプラやポケカだってそうだろう。
でも今回の増田既婚女のおかげで知ったことがあるんです。多くの、おそらくオナニーをそんなにしない女性にとって、「オナニー≦セックス」なんですね。
なんなら、パートナー以外の存在(すなわちエロコンテンツ)でオーガズムを得る時点で浮気とすら思ってるふしがある。
もちろん共有できる部分もあります。それはすなわち、モチベーションそのものは、セックスもオナニーも「性欲」であるということです。でも逆に言うとそれだけです。
食欲にも色々ありますよね。辛いものが食べたい時もあれば甘いものが食べたいときもあるしラーメンの時もあるし焼肉がいい時もあるしイタリアン中華フレンチ…
性欲も同じで、セックスがしたい日もあればオナニーがしたい日もあるし、パートナー以外の方と(するしないは別にして)したい日もあります。
「なによわたしは焼き鳥程度だって言うの?!仁科百華はフレンチだとでもいうの!?」
「一度わたしを愛すと決めたのならわたしだけを愛しなさいよ!いろんなのを食べたいなんて、ワガママよ!女と付き合う権利ないわ!」
ありました。
そして、パートナーとのセックスは、大好きなパティスリーのケーキです。
どちらも、「甘いものが食べたい」というモチベーションから、行動を開始します。作ったり、買いに行ったり。
お菓子作りが好きな女性と、そうでもない女性、いると思います。
彼女らの比率は、ちょうど、オナニー愛好家の男性と、そうでもない、セックスだけでも別に構わないという男性の比率と、ピッタリ一致します。
ケーキ作りが好きな女性が、今夜はケーキを作って食べたいなぁと言っているとします。
その女性に対して、「わたしはそういうとき◯◯で買ったケーキ食べる。美味しいよ」というレスをするのは、完全にクソレスのスレチということが、わかると思います。
自分の手で、自分が作りたい、自分にとって最強のケーキを、作りたいのです。そりゃあ、パティシエが作ったケーキの方が、見た目も味もハイレベルであろうことはわかっている。でも、今満足のために必要なのは、プロセスなのです。
逆に、◯◯店のフルーツタルトが食べたいのだ!それ以外受け付けないのだ!という日も当然あります。
逆に言うと、××店のザッハトルテ美味しかったなぁまた食べたいなぁダメだけどと思ってしまう日もあります。
当然、ケーキなら何でもいいからケーキ食べたい。という日もあります。その場合、手作りしたい日と違って、◯◯店のフルーツタルトでも問題ないと思われます。
ここまで書いてわたしは何を書いるんだろうと後悔し始めたのでもう増田やめます。
最後に、甘いものが食べたいわけでもないのにお菓子作りがやめられない重度のお菓子作り中毒女性の割合と、べつにムラムラしてるわけでもないのにオナニーをやめられない男性の割合も、ぴったり一致すると言われています。
彼は生まれつき片腕がない人だった。
受かったとしても、身なりが汚いという理由で表や裏で小言を言われることが多いと言っていた。
多分、小言というのは、彼なりにマイルドにした言葉だろう。彼はあまり文句や陰口を言うのを嫌う人でもあった。
制服がボタンなので、よくボタンが外れていることがあった。当たり前だけど、片腕でボタンをつけるのは大変なのだ。
手で髭剃り跡を確かめることが大変なので、本当に綺麗に剃れるものを見つけたときは喜んでいた。
体のバランスをとるために腰が横に曲がっているように見えるときがあった。
服を買って、一緒に鏡で見たとき、似合わないなあ、カッコ悪いなあと笑っていた。
小便器を使いやすいように、ズボンを買うたびに100均でマジックテープを買って取り付けていた。
ギョッとするじゃんって言っていた。
高くついちゃったって言っていた。
面接試験会場はバリアフリーだけど、スーツはバリアフリーないんだよなって笑っていた。
今どうしているかよくは知らない。
元気でいるということは聞いている。
結局志望の会社には入れなかったけど、出張の多い技術職に就いている。
本当は一度、バイトでもいいからアパレルの店員をしてみたかったと言っていた。
おっかけてるエロ漫画の最新刊が出てることに気づいたのは昼休憩。
エロ漫画といっても一般誌モノなのでそんなガッツリsexシーンがあったりするわけじゃないんだけど作者の性癖がわたしの西壁とマッチしすぎていてその漫画は正直人生で摂取してきたどのAVやエロ漫画、エロアニメよりわたしは抜ける。
そんな漫画なので、読んだら大洪水間違いなし、職場で読むべきではない。頭ではよくわかっている。でもキンドルで購入したら現れる「今すぐ読む」ボタンが目に入ってからの記憶はない。昼休憩、食事もそこそこにその最新刊を読み耽っていた。
で、午後はもうひたすらムラムラして仕事なんてできたもんじゃない。
オフィスのトイレでオナニーしてしまおうかと何度も思った。トイレの誘惑と戦い続けている。
弊社のトイレは、節電のため空調がオフでクソ暑いんだが、それさえなければ誘惑に負けていたかもしれない。
股間の洪水はとっくにショーツを貫通して、薄手のパンツの表面まで滲出している。昔生理の際にナプキン事故を起こして以来、オフィスチェアには真っ黒の座布団を敷くようにしていたおかげで、問題はない。
早く帰ってオナニーしたい。
こんなとき独身なら帰ってそっこー2時間くらいオナって、シャワー浴びて、でまたオナって、22時くらいに晩酌しながら軽く飯食って、またオナって寝落ちする、とかできていたのに
世の中のパートナーと二人暮らししている人はいつオナってますか?
わたしは、夫が寝たあと、眠る夫を起こさないように気をつけながら隣で抜くことが多いです。
昨年までわたしだけリモートワークで家に一人の時間があったから、苦労しなかった。
今年から通勤にかわって、夫を起こさないようにやるオナニーしかできなくて。
本当につらい。こんなにムラムラしてるのに帰ったら夫がいるのか。つらい。