はてなキーワード: 普通教育とは
ちげぇよ、自分の書いた法文をそのまま読めば、義務教育とは親が子供に受けさせる普通教育(学校教育)のことを指すのであって親が主体的に施すものじゃないの分かるやろ。
あと法解釈いくつか見てみたがこの十条の一の論点は親がどのような教育を子に施すか親が優先的に選べる権利を強調するものであって
後半部分は些末な部分っぽいがな。個人に努力義務だけ課したところで絵に書いた餅だからだろうけど。
国からの社会的な要請ですし、それ以前に自分の子でしょ?自分の子どもと過ごすのが楽しくないの?なんで世間様に全投げ?って話なんですよ、どうして子ども作ったの?
今どきは共働きも増えていて物理的に昼間から面倒見れないことに対して、法文の拡大解釈・感情論による訴え・責める意図が明白な問いかけ、とかしてるの見ると、
子供に対しても同様に接するのだろうなという印象を受けるし。例えば勉強が嫌いな子供に対して”どうして勉強しないの?”とか責め立ててそう。
これ書いてる人が人の親でないことを祈るばかりよ(ガチ目の毒親やんな)
義務教育とは親が子どもに社会で自立して生きていけるよう教育を施すことです。学校は親の教育権を補完するものとして存在しているだけ
親は子どもに教育を受けさせるだけでなく、その内容や方法についても自分自身で責任を持ち、人格形成や生涯学習の基礎を培う重要な役割を果たすべき
国からの社会的な要請ですし、それ以前に自分の子でしょ?自分の子どもと過ごすのが楽しくないの?なんで世間様に全投げ?って話なんですよ、どうして子ども作ったの?
日本国憲法第26条第2項:すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。
教育基本法第4条:国民は,その保護する子女に,九年の普通教育を受けさせる義務を負う。国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については,授業料は,これを徴収しない。
教育基本法第10条:父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
元増田の内容は他の増田(https://anond.hatelabo.jp/20240101135723#)が書いてくれたみたいだけど、
育ちを紐解けばこう言う誰ともうまくいかない極端に軽薄な人を製造しないで済むし、
親に多少でも愛着があれば、親の名誉のために、極端に軽薄な振る舞いをしないようになるのでは?
ただまぁ、子どもは親の遺伝子と親の教育通りにしかならないので、
増田(anond:20240101135523)や元増田(anond:20240101113249)がすべきことは
子の特性にあった養育をしなかった親の体面を慮ることではなくて、タイトルに書いた通り、毒親との和解なんですよね
この遺伝子でこの親の教育だったから今があると受容し、どうしようもない親を自分の一部として認め受け入れることだ
これには多くの困難が伴うけど (親がガチ犯罪者・重度の精神疾患・既に故人等)、
社会活動に重大な影響を与えるレベルの鬱病・強迫観念の寛解だけを意味しており、
経済的に成功しても、パートナーを得ても、子どもを作っても、永遠に穴が空いたバケツのまま
親が愛してくれなかった・まともな養育をしてくれなかった怒りは、なにを得ても永遠に過去のものにならないし、
助けてくれなかった世界のあらゆるものを羨み、バカに出来そうなら攻撃する
自分自身のこの特性は嫌悪する親そのものと認知することもなく、ひたすらドン引くような言葉を使った家族の悪口を書き、
これが人の親になっちゃうからな、虐待の連鎖ってマジでこういうこと。単純に殴る・蹴る・怒鳴る・ネグレクトするとかそういう話ではない
しかし、親ガチャって言われている世の中で、親の責任を無視したがる・極端に軽視したがる勢ってマジなんなんでしょうね?
ペットのクローンですら同一の存在になり得ないのに遺伝子に責任全振りしているのマジであたおか
じゃあもうお前は教育やめろ!って思ったら、いちおう環境がどうのって言ってくるけど、まさかの親よりも友達ガー学校ガー
義務教育とは親が子どもに社会で自立して生きていけるよう教育を施すことです。学校は親の教育権を補完するものとして存在しているだけ
親は子どもに教育を受けさせるだけでなく、その内容や方法についても自分自身で責任を持ち、人格形成や生涯学習の基礎を培う重要な役割を果たすべき
国からの社会的な要請ですし、それ以前に自分の子でしょ?自分の子どもと過ごすのが楽しくないの?なんで世間様に全投げ?って話なんですよ、どうして子ども作ったの?
日本国憲法第26条第2項:すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。
教育基本法第4条:国民は,その保護する子女に,九年の普通教育を受けさせる義務を負う。国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については,授業料は,これを徴収しない。
教育基本法第10条:父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
https://anond.hatelabo.jp/20231227082825
この増田でも親のせいじゃないもんってブチ切れたし、しかもそう言うのほどポコポコ子作りしたがるし、案の定無責任なこと再び言っている(ブクマカ)
これ落としちゃう子ども製造してるの親以外の誰に責任ありますの?
義務教育とは親が子どもに社会で自立して生きていけるよう教育を施すことです。学校は親の教育権を補完するものとして存在しているだけ
親は子どもに教育を受けさせるだけでなく、その内容や方法についても自分自身で責任を持ち、人格形成や生涯学習の基礎を培う重要な役割を果たすべき
国からの社会的な要請ですし、それ以前に自分の子でしょ?自分の子どもと過ごすのが楽しくないの?って話なんですよ、どうして子ども作ったの?
日本国憲法第26条第2項:すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。
教育基本法第4条:国民は,その保護する子女に,九年の普通教育を受けさせる義務を負う。国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については,授業料は,これを徴収しない。
教育基本法第10条:父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
義務教育とは親が子どもに社会で自立して生きていけるよう教育を施すことです。学校は親の教育権を補完するものとして存在しているだけ
親は子どもに教育を受けさせるだけでなく、その内容や方法についても自分自身で責任を持ち、人格形成や生涯学習の基礎を培う重要な役割を果たすべき
国からの社会的な要請ですし、それ以前に自分の子でしょ?自分の子どもと過ごすのが楽しくないの?って話なんですよ、どうして子ども作ったの?
日本国憲法第26条第2項:すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。
教育基本法第4条:国民は,その保護する子女に,九年の普通教育を受けさせる義務を負う。国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については,授業料は,これを徴収しない。
教育基本法第10条:父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
あと、DQN親ってはてブは出来るのに、ChatGPTほかAIを使えない理由、CheckMath(https://www.checkmath.net/ja)などの丸付けアプリ使えない理由、
もっともそんなんはどーでもよく、まずは生きる力を身につけさせることだと思いますけどね
砂の上に家を立ててどうするんだ?って話です
親と子供に丸投げが過ぎると思うけど、仕方ないのかなぁ…
小1から勉強の癖つけさせずに親任せは真面目な親の負担大きいだろうなあとは思う。
これ書けるのマジであたおか
こういう人たちって学歴(高等教育)とか機会均等とか以前の問題だと思うの
さすがコロナの時も家に子どもがいると大変ってわめいてただけある
宿題が無くなるなんてとか丸付けがーとかコメントしてる自称子持ちブクマカおよび兼ねてそうな増田みんな頭がおかしい
たぶん、低所得か毒親育ちだと思うんだけど見事に負の再生産がされそう
義務教育とは親が子どもに社会で自立して生きていけるよう教育を施すことです。学校は親の教育権を補完するものとして存在しているだけ
親は子どもに教育を受けさせるだけでなく、その内容や方法についても自分自身で責任を持ち、人格形成や生涯学習の基礎を培う重要な役割を果たすべき
国からの社会的な要請ですし、それ以前に自分の子でしょ?自分の子どもと過ごすのが楽しくないの?って話なんですよ、どうして子ども作ったの?
日本国憲法第26条第2項:すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。
教育基本法第4条:国民は,その保護する子女に,九年の普通教育を受けさせる義務を負う。国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については,授業料は,これを徴収しない。
教育基本法第10条:父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
あと、DQN親ってはてブは出来るのに、ChatGPTほかAIを使えない理由、CheckMath(https://www.checkmath.net/ja)などの丸付けアプリ使えない理由、
もっともそんなんはどーでもよく、まずは生きる力を身につけさせることだと思いますけどね
砂の上に家を立ててどーすんだ?って話です。学力・学歴以前の土台がどーにもなってなきゃ、お勉強出来ても、事故や病気のトラブルがなくても、高学歴無職かワープーですよ
こういうのって、極端に頭が悪くて楽な方に流れた軽薄なDQNを毒親が放置した結果、
毒親に自己肯定感をバッキバキに折られたために『自分にはなんとする力がある』って経験を子どもが積めなかった結果だってことを自覚してどうぞ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231029203433
第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
二〜十 略
ということで、義務教育は、学校外での社会活動を促進し、規範意識、公正な判断力に基づき社会の発展に寄与する態度を養うことも目的としているんだ。しかも条文上、国語算数理科社会体育音楽などの教科(同条6〜9号)よりも先に書かれている。
うーん。すごく勉強されててお子さんの状態を受けとめておられてすごいと思う。そして、お子さんの障害について、もしそこまで詳細に診断を受けているのなら、この増田を印刷してそのまま担任か学年主任に手渡し&相談していただいたらいいのじゃないかなあと思うのだが。
そもそも学校というのは申し訳ないけどあくまで「大量の子どもに対して画一化された普通教育を行うプロ」であって(言い換えればそれでしかなくて)、実際に発達障害のお子さんをもつ親ほど丁寧な障害への認識や「個別指導」に関するプロではない。だから、こういう情報は提供した方がいいと思う。担任があからさまに面倒がっているようなら、学年主任、そこでも忌避されるようなら管理職との面談を願い出ればよい。それが拒否されるようならさすがにヤバい学校なので、ちょっと考えるべきではあるけど。
「どうして勉強しなきゃいけないの?」と子どもに聞かれて俺はこう答えたという内容の増田が先日ホッテントリに上がっていた。読んだ。クソおもんなかった。
とはいえあれを書いた増田だけを責めようとは思わない。「どうして勉強しなきゃいけないの?」に対する大人の答えはいつだってクソおもんないからだ。
この話題はネットではたびたび繰り返されるが、そこでなされる答えは往々にしてフワッフワしていて説得力に欠けクソおもんない。
その理由はぶっちゃけはっきりしている。嘘をついているからだ。
なぜ嘘をついてしまうのか。そもそも勉強しなければいけないというのが嘘だからだ。にも関わらず、勉強しなければいけない理由を無理矢理にひねり出すから、そこで語られる内容はフワッフワして説得力に欠けるものにしかならない。
「俺は今の仕事で学校で習ったことが役に立ってる」と言う奴がいる。そらそういう人もいるだろう。しかし、例えば学校で医学や法律の知識を教えれば将来医者や弁護士になる人にとっては確実に役に立つにも関わらず一般的に高校までのカリキュラムに医学や法律の勉強は入っていない。一部の職に就いた場合に直接的に学んだ内容が役に立つというのは子どもが勉強しなければならない理由としてはあまりにも弱すぎる。だいたい、役に立つかどうかでいったらゲームで遊んだり漫画を読んだりすることすら役に立つのだ。そういう経験は将来特に同年代の人との間で共通の話題となりコミュニケーションを円滑にする場合が数多くある。エンタメ業界で働く人にとってはもっと直接的に職業上役立つ経験となるだろう。どんなことだって何かしらの形ではその人の糧となるのだ。
「勉強をすると想像力が養われるのだ」と言う奴がいる。「優しくあるためには勉強する必要がある」と言う奴すらいる。じゃあたくさん勉強してきたであろう高学歴の人たちを見てください。悪口になるからこれ以上は控える。
そもそもの話として勉強というのは誰もが適応して付いていけるものではない。方程式はおろか九九すらままならないような人だってたくさんいる。だけどそういう人たちが生きていけてないということは全然ない。勉強に付いていけなかった人たちもその人なりのやり方で立派に生きている。そういう現実がありながら勉強しなければいけないと言うことにどれだけの説得力があるだろうか?
ではなぜ大人たちは「別に勉強しなければいけないなんてことはない」ということを認められず、勉強しなければいけない理由を無理矢理にでもひねり出そうとしてしまうのか。
ひとつの理由は実際に勉強して高い学歴を得ることは収入や社会的地位といった点で人生を有利にするからだ。大人からすると自分の子ども(や甥や姪)には有利に人生を歩んでほしい。だから勉強してほしい。だけど、それを勉強しなければいけない理由として語るのは利己的な動機すぎてあまりにもあんまりに思える。だからなんとか勉強しなければならない理由として美しいものをひねり出そうとしてしまうのだ。
そしてふたつめの理由は大人は子どもたちに勉強させなければならないからだ。
こう書くと「いやお前今さっき勉強しなくていいって言ったばっかじゃん!」というツッコミが入るだろう。違うのだ。「子どもは勉強しなければならない」と「大人は子どもたちに勉強させなければならない」は全く話が違うのだ。後者は正しいが前者は間違っている。そしてここを混同してしまうがゆえに「勉強しなければいけないなんてことはない」ということに違和感があり認めづらいのだ。
何が違うのか。「勉強しなければいけない」というのは個々人レベルの話だ。個人として勉強した場合の利益やしなかった場合の不利益がどうかという話になり、勉強することによって得られる利益を放棄したからといって生きていけないというわけではない以上別に絶対に勉強はしなければいけないものではない。
一方で「子どもたちに勉強させなければならない」というのは社会レベルの話だ。「勉強させなければならない」という言い方に強制のニュアンスが混じるのに違和感があるなら「勉強する機会を与えなければならない」に言い換えてもいい。
初等教育が充実していてほぼすべての人が読み書きや基礎的な計算をこなせる社会とそうでない社会を比較した場合、前者の方が豊かで力があることは明らかだ。そして初等教育から中等教育、高等教育に接続される子どもが多い社会ほど、より高度な人材が育ち、豊かで力のある社会になるというのもこれまた明らかだろう。
教育の本当の受益者は教育を受ける子ども個々人ではなく社会全体なのだ。
日本国憲法第四条には教育の義務について書かれているが、そこに書かれている文言は「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。」だ。子どもに勉強する義務があるなんてことは書かれていない。書かれているのは大人は子どもに教育を受けさせる義務があるということだ。ここまで俺がしてきた話とぴったり一致している。
まとめると、「どうして勉強しなきゃいけないの?」という問い自体がそもそも微妙と言える。間違った問いに沿って考えると不毛な議論しかできない。
そこで問いを「どうして社会は子どもに勉強させなきゃいけないの?」に変化させると、視点が変わり、より本質的な議論ができるようになるだろう。
多くの人が「どうして勉強しなきゃいけないの?」に対して「自分は勉強してきたおかげでこんないいことがあったよ」というような個人の経験ベースの答えしかできていないという事実は結局勉強なんて期待されるほど人間を賢くしないということを示唆している。
俺は知性の働きとして特に重要なものは自分というものを相対化できることではないかと考えている。だから知的な人間には「どうして勉強しなきゃいけないの?」という問いについて考えるのであれば我々と異なる国や時代では勉強というものがどのように扱われているのかであったり、現在の教育制度がどのように形作られたのかであったり、そういったものを気にしながら考えてほしいと願っている。自分で答えは出さずにそういったものを子どもに調べさせる、考えさせる、というのもいいだろう。
だけど多くの人はそのような発想はせずに自分の経験の中から答えを出そうとしていた。人生の早い時期に勉強からドロップアウトした俺のような人間がそういった思考のアプローチに思い至っているのに、俺よりもはるかに勉強してきたであろう人たちがそんなんであるというのは、つまるところ勉強しても人はそんなに賢くならないという残酷な事実を示しているように思えてならない。
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1548212
ポリコレ持ち出してる人までいて
子育てにも日本の義務教育にもポリティカル・コレクトネスは何も関係ないでしょうが、シアトルまで出向いたらポリコレ棒で頭でも殴られたのか?
他もここまで極端でないにしろ勘違いしてる人が多いので書いた。
まず法令の話でいうと
ただし罰則を実行するかどうかは自治体に広範な裁量があるし、就学させる義務に違反することに刑事罰は無い。
就学させる義務は
「三大義務」と呼ばれる
でもだからといって勤労義務に違反しても刑罰ねえだろ?そういうことだよ。
頭からっぽのほうが夢は詰め込めるけど
憲法で定める「普通教育」の範囲は学校教育法で規定されており、一条校での教育に限る。
また学校教育法は憲法と違って今までに何回も改正されているから、今後改正されんじゃねーの?
なお余談だが、日本はICESCR第13条に留保をつけていて、高等教育を受ける機会均等と無償教育の漸進的導入がいまだ未実施。
ただし民主党がここに関しては留保撤回済みで 自民党でも国として一度留保撤回したものもとに戻せない(韓国ならやるかもしれんが)
だからといって出世払いという借金制度を「高等教育無償化」と言い出した自民党には呆れるばかりである。
一応注釈をつけておくとICESCRでいう高等教育は大学のことです。高校じゃないよ。
とほざいて子供に義務教育をさぼらせ、教育を施す場合に子供の学習権を保障できなくなるね、だから「全面的」な教育権を親には認めていない。
他方、国や地方団体、教師にも全面的な教育権は認めていない、それぞれに一定の権利がある、としている。
つまりは親に義務教育"相当"の教育で十分とする権限は認められていない。
なお日本語を読み慣れてない人が
「ナチス教育が義務教育相当なわけないww」とか言い出しそうだが
線引問題はこの話の本質じゃないから大多数がNGとするであろうレベルを例にしているんだぞ
どんな教育法であれ親の考える教育が子供の学習権を侵害しないとされるか、合理的な方法が立法されていない、18歳時に高等学校卒業程度認定試験に合格できりゃいいんじゃねえの?ならナチス万歳教育だって高卒認定取れるならOKになっちゃうだろ。いいのかそれで?そして繰り返すがこの点は話の肝じゃありません。
第十六条 保護者(子に対して親権を行う者(親権を行う者のないときは、未成年後見人)をいう。以下同じ。)は、次条に定めるところにより、子に九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
第十七条 保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校、義務教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う
これは大事な指摘で
だが法の精神が唱えるところには足りていない
コメの中でこれが一番正しい。 子供には学習権を基にした国、教師、地方自治体、そしてなによりも親に対して自分の学習権の保障を要求する権利がある。
子供の学習権の保障は「第一義的に親」が行うことになっている、なのでまずは親に要求するのが子の通すべき筋であり、応えるのが親の義務でもある。
もちろん親からさらに地方自治体や国に要求するのも権利関係としては正しい、正しいだけで現実的な解は別だけどね
ついでに学習権の要求ができるまで学習権について深く理解し自己の尊厳を守るための意識発達が行われたならその子供は褒め上げてあげるべきだし、みんなに自慢して良いと思う。
しかしながら「子供には就学する義務は無い」程度の浅薄をほめれるやつがブクマカに多数いて、おつむが中学生と同レベルな事はかわいそうに思うが、義務教育は年齢で区切られているからもう手遅れなんで勤労と納税の義務をはたせよと思うばかりである。
http://yakanchugaku.enyujuku.com/shiryou/unescogakushuuken.pdf
この中でも謳っている通り
親の義務とは何か?就学義務なのか?と言われれば法令上はそうなる、あってる。
しかしながら、条約や法の精神が求めるところはそれでは足りていない
と謳った
第1条である。
その具体的な権利の一つとして「学習権」が子供に認められた、だからこそICESCR 第13条にはこう書かれる。
教育についての権利。教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し、人権と基本的自由の尊重を強化すること。
学習権とは人間的発達のために必要なものであり、自分が唯一無二の人であること、それと同じくらいに他者も唯一無二の人である、そのように世界を認識するために必要なものだ。
BLMもそうだし男女の殴り合いもそうだが、自らの人権と相手の人権を守ることができる人間を増やすことが今、世界の抱える病魔を解決するための道だろう?そのためにも必要なものの一つが学習権なわけだ。
そして「権利」とは「環境」があってこそ初めて実質的な意味をもつ。絵に書いた餅じゃなくなる。
例えばこの世に男子校しかないのに「子女には学習権がある」なんて謳って終わりにしてたら絵餅だろ?
他の権利も全てそう、
コロナ対策で君たちには10万円受け取る権利をあげよう!ただし実施がいつかは決めていない、私の気持ち次第でそれは明日かもしれないし100年後かもしれない
とか言い出したら、なるほどボケてんのか、ってなるだろ。
ただし国内での販売は禁止するし国内での譲渡も禁止、国内での栽培も禁止、海外から持ち込むことも禁止
ってなってたらそれは実質禁止とかわらんだろ?
自由権であろうと社会権であろうと、「権利」を行使できる「環境」を整える事が「権利の保障」であり、環境を奪っておきながら「お前にも権利はある」って言っちゃう人、自分が学習権の行使できなかったんだねーって思うわ、可哀想なので哀れんであげる。
さてそういうわけで
つまり「親の義務」として日本国憲法でも義務化されているものとは法令上は確かに就学させる義務だ、
しかしながら、人類普遍の法則である人権と日本国憲法が要求する義務とは「子供が学習権を十全に行使できる環境を整える事」であり
もっと判ってる人多くていいと思うんだが
そもそも大学受験までの期間に受ける英語のコマ数で、英語が出来るようになるわけない。
外国語習得には3000時間が必要とされているが、授業は一週間にせいぜい3、4時間×年間35週間。
6年やって1000時間もいかない(だから小学生から英語、みたいな話になるんだがそれは一旦おく)。
教育指導要領を考えてきた官僚たちもそんなことは当然知っている。
だから、日本の普通教育が「十分な英語習得」を目標にしたことは実はこれまで一度もないし、これからもたぶんない。
せいぜい「グローバルな人材」とかいう言葉でお茶を濁しているはずだ。
グローバルな人材っていうのは、ありていにいえば、はっきりいって今の日本人ぐらいのニュアンスだよ。
海外にいってカタコトでどうにかコミュニケーションが取れる。ゆっくり喋ってもらえば英語がわかる。辞書ひけば書類を読むことができる。道を英語で尋ねられたからと困って逃げたりしない。
英語教育を始める前は、それすらできなかったってことなんだよ。
英語の基礎の基礎がわかる、勉強の仕方もなんとなくわかる、程度の国民が育てば普通教育としてはとりあえず良いわけ。あとは仕事で必要になったら各自がガチで学べばいいじゃん。今やっているように。日常会話が英語とかなったら1000時間ぐらいすぐで、だから留学すると語学習得は早い。
怖いな。
「人権」とは「すべての人々が生命と自由を確保し,それぞれの幸福を追求する権利」
あるいは「人間が人間らしく生きる権利で,生まれながらに持つ権利」であり,
だれにとっても身近で大切なもの,日常の思いやりの心によって守られるものだと私たちは考えています。
子どもたちに対しては,「命を大切にすること」,「みんなと仲良くすること」と話しています。
国民1人1人は憲法によって侵すことのできない永久の権利として基本的人権が保証されていて、
権利の濫用(らんよう)や公共の福祉に反しない限り、十分に尊重されなければならないとされています。(11条、12条)
すべての国民は法の下で平等であって、人種・信条・性別・社会的身分などにより差別されません(14条)
集会・結社及び言論・出版・表現の自由が認められています(21条)
すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活をする権利があります(25条)
国民はその能力に応じてひとしく教育を受ける権利があり、保護者は子供に普通教育(義務教育など)を受けさせなければなりません(26条)
肯定
・虚弱体質→かわいそうだけど頑張って
理由 教育は国家の義務であり、健康に基づく情報は最低限の知識であり人権として得られるべき情報
・頭が悪い→バカ
就学のチャンスを与えるだけでなく、義務教育の内容を理解し会得するまでが社会の義務
おおよそ、家庭環境に問題が有るとすれば、やはり、社会に適応するための学習ができていないということであり
学習できていないのであれば、学習するチャンスを与えるのは、社会の義務。
義務教育がなぜか、5教科を代表とする小中学校教育に限定されているが、教育を受ける権利・与える国家としての義務は憲法上はそれに限定されれない。生きていくのに必要な知識および、健康で文化的な生活費につ様なすべての知識を当てる義務は国家にあり(国民にはその権利がある)、その義務に対して青年であるか?未成年であるか?は関連しない。義務教育は教育の義務の1部であり全部ではない。
日本国憲法第26条
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。