はてなキーワード: 昭和28年とは
公正取引委員会のQ&Aに答えが書いてあった。電子書籍は,「物」ではないから割引販売していいんだって。
Q13
A
著作物再販適用除外制度は,昭和28年の独占禁止法改正により導入された制度ですが,制度導入当時の書籍,雑誌,新聞及びレコード盤の定価販売の慣行を追認する趣旨で導入されたものです。そして,その後,音楽用テープ及び音楽用CDについては,レコード盤とその機能・効用が同一であることからレコード盤に準ずるものとして取り扱い,これら6品目に限定して著作物再販適用除外制度の対象とすることとしているところです。
また,著作物再販適用除外制度は,独占禁止法の規定上,「物」を対象としています。一方,ネットワークを通じて配信される電子書籍は,「物」ではなく,情報として流通します。したがって,電子書籍は,著作物再販適用除外制度の対象とはなりません。
https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/money/c07.htm
なお、一度発行された銀行券は、法令に基づく特別な措置がとられない限り、通用力を失うことはありません。
そうした特別な措置は、以下のとおり、過去に3回発動されたことがあり、その結果、
これまでに発行された銀行券(53種類)のうち31種類については通用力が失われ、現在は銀行券として使えません。
(1)関東大震災後の焼失兌換券の整理(1927年<昭和2年>)
・国会議事録( https://kokkai.ndl.go.jp/#/ )から「丁寧に説明」「丁寧な説明」を検索し結果を取得、合算
・発言総数は、5509回
岸田文雄 108
石井啓一 60
西村康稔 55
麻生太郎 52
中谷元 50
菅義偉 49
茂木敏充 42
塩崎恭久 39
岩屋毅 37
吉川貴盛 35
望月義夫 35
野田佳彦 34
林芳正 32
梶山弘志 25
野上浩太郎 25
下村博文 25
■年別推移
令和3年 350
令和2年 391
令和元年 463 (平成31年を含む)
平成30年 621
平成29年 497
平成27年 569
平成26年 446
平成24年 188
平成23年 185
平成22年 93
平成21年 76
平成20年 77
平成19年 64
平成18年 102
平成17年 83
平成16年 53
平成15年 39
平成14年 43
平成13年 26
平成11年 43
平成9年 16
平成7年 9
平成6年 6
平成5年 13
平成4年 8
平成3年 14
平成元年 8
昭和63年 5
昭和62年 5
昭和61年 3
昭和59年 3
昭和58年 2
昭和57年 6
昭和56年 4
昭和55年 7
昭和54年 5
昭和53年 5
昭和52年 3
昭和51年 7
昭和50年 3
昭和49年 2
昭和48年 4
昭和47年 1
昭和46年 2
昭和45年 4
昭和44年 5
昭和43年 7
昭和42年 8
昭和41年 4
昭和40年 4
昭和39年 3
昭和38年 4
昭和37年 5
昭和36年 6
昭和35年 2
昭和34年 5
昭和33年 7
昭和32年 6
昭和31年 4
昭和29年 8
昭和28年 8
昭和27年 5
昭和26年 7
昭和25年 8
昭和24年 4
昭和23年 6
引用URLは無い。ネットとかTVでの池袋の扱い全般への反駁&雑語りと思ってくれい。
これ嘘だから!元池袋史跡公園っていうのを豊島区がこしらえちゃってるけどこれ嘘だから!
あのさ、駅周辺のこの辺が池袋になったのって日本鉄道が池袋駅を開設してからの事なんだけど?
それまで池袋っていうのは東上線二駅目の下板橋駅周辺が池袋だったの。今でもこの辺は「池袋本町」って地名でこれは池袋本村、池袋村のメインの集落だった所なのよ。
「袋」っていう地名は川が湾曲してその内側の土地の事を指すのな。江戸袋とか大袋とか色々あるがみんなそう。
今は暗渠化された谷端川っていう川が屈曲しててその内側の高台が池袋本町(村)。池やら沼があったんじゃないかと言われているが記録が残ってないので池が付いた理由は不明だ。
そもそもこの元池袋史跡公園がある場所っていうのは昔は雑司ヶ谷村だったのな。池袋村と雑司ヶ谷村の境界は大体今の池袋駅南通路の辺り。
それなのに遥か数キロも離れた池袋村の名の由来になるはず無いだろ。豊島区は誤解の元だからあの公園撤去するか説明書書き換えろってーの。
余談だが山の手の台地の上で井戸を7~10m程掘ると水が出てくるんだが、それって粘土の関東ローム層の下に砂礫層があるから。だからこの谷端川がそれだけ谷を刻んだ下流では小石だらけになる。なので下流は小石川って呼ばれて地名にもなってる。
東京山の手って山あり谷ありって言われるけど、そうじゃなくて谷だけがある地形なんだな。富士山と伊豆の山が噴火した火山灰が積み重なって西高東低のかなり緩い勾配のまっ平らな台地ができた。
ここに多数の小河川が切り込みを入れた地形になっている。だから尾根の部分はほぼまっ平らな訳です。これは国道246の赤坂→渋谷手前とか国道254の春日→池袋六差路とかを走れば判る。この二つは尾根道の街道を車道化したものでとにかくまっ平ら。
因みに上野~赤羽等の線で台地がきっぱり切れ落ちて下町になってるのは海進時にそこからが海だったから。
というか、台地はもっと東に伸びていたが波に削られて海食崖が後退したと考える方が自然。上野~赤羽って京浜東北線に乗れば判るが崖が真っすぐでしょう?これって海食崖の特徴ですわ。
あと、陸地が角になっている所って波の入射方向、角の先に真っすぐな海岸線が延長されるように砂嘴や砂州が出来るけど、上野、赤羽の角地形の先には砂嘴の痕跡がありますよ。上野の場合は根岸砂州というのがあり微高地になっていてこの上に日光街道、千住宿が作られていた。赤羽の方は名前不詳なれど川口、戸田の喜沢の辺りに筋状の微高地がある。
脱線したがこういう地形だから山の手ではまっ平らな尾根部分では水を引けない。だから水田は出来ない。水利は限られたもので貴重だった。
農村である雑司ヶ谷村の水源だけ池袋村に属してる訳無いし(トラブルの元だ)、遥か離れた他村の水源地の名前に因んで池袋の村名が決まる訳ないやろ。
だから駅周辺が池袋になったのは駅が出来て以後の事なのだ。因みに古典落語でも池袋は結構出てくるんだけど、当然それは下板橋駅周辺の事ですよ。
駅にはそこに至る道路があるのが当たり前。でもそれは今の事であって日本鉄道って鉄道が官営鉄道1本しか無い時代に鉄道を敷いた道なき道を行くパイオニアだった訳。だから日本鉄道側が既存の街道に面して駅を作らなきゃいけない。
でも江戸時代には道路というのは軍事施設でもあった。だから数少ない街道以外は道らしきものはない。勝手に道を普請して罰せられたケースは数多くあり、その殆どは死刑だった。
それで、品川線(現山手線~赤羽線)から新規開業する土浦線(現常磐線 当初の始発駅は田端)に繋げたい日本鉄道は目白分岐としたかったが、雑司ヶ谷村に難色を示され更に巣鴨村に建設予定の近代的監獄(巣鴨拘置所、現サンシャイン)に重なると政府にダメ出しされてしまう。
そこで目白の北側のまっ平らな辺りで分岐する事にした。ここまではよく説明される事だ。
問題はここからで、雑木林しかない、集落すらない場所で乗客が駅に来れる様にするにはどうすればよいか?
中山道板橋宿の平尾追分から川越街道(現首都高中央環状線JCT~大山サンロード~ハッピーロード)が分岐し、そこから直ぐに分岐して雑司ヶ谷を抜けて早稲田に至る雑司ヶ谷道という道があった。これは金井窪~ローソンストア100池袋本町1丁目店を右折して平和通り~WEロード~明治通り~鬼子母神電停前~と続く現存する道だ。
この道と日本鉄道の線路が交わる所は踏切になっていた。駅を設置するならここしか無い。他に適当な街道に接近するところがないからね。
って事で今のP'パルコの左側に駅が作られることになったのだ。WEロードの正式名称は雑司が谷隧道だ。線路が増えすぎて踏切では危ないのでガードになったのだな。
Wikipediaの池袋駅の項には日本鉄道時代の駅の写真が貼られている。
これはWEロードの前身の踏切から撮られたもんだ。場所はP’パルコの裏手。
なのでこの汚いガード(の前身の踏切)は池袋の全ての始まりなんであるのよ。
サンシャインの前身は巣鴨プリズンで有名だがそれは東京裁判が決する迄の一時期で、東京拘置所だった。
東京拘置所を小菅に移転して跡地の再開発の話になった時に周囲の地権者、縁故者を集めて合意形成の場が開かれることになった。
ここで特に問題になったのが池袋駅直通地下街の建造で、強硬な反対派が居てその筆頭が東口の洋菓子店タカセだった。当時タカセは小売店の有力な顔役だった。地下道ができたら当然人の流れは変わり地面店は売上激減する。
その為に駅直結地下道の話は流れてしまい。東急ハンズ横からの短い地下道と東池袋駅がアクセスルートとなる中途半端な形になってしまった。
この地下道建設流れで当時タカセの地元での評判はかなり低下したらしい。
しかしその後の埼玉の植民地化=池袋駅~ハンズの学生向けの店舗の隆盛を見れば反対して正解だったとしか思えない。通路を兼ねた地下街なんてどうせ碌な集客力がない。そもそもハンズ前の道には丸の内線が埋まっているから地下街の幅は取れないんである。
なので学生向け店舗の経営者は出退勤の途上に今はやや寂れた感のあるタカセ前で一礼すべきである。若年向けのP’パルコだって地下道があったら出来てなかっただろう。P' のテナント一同もタカセ参りはすべきである。
ここなんだけど、池袋行く人でここのおかしさに気づく人ってどれだけいるだろう?
https://goo.gl/maps/UQN2f86tQk8xXQPv5
逆を向いてほしい。西武の搬入口だけがある。なのに信号機で管制されている。何故だろうか?
そのわけは南のびっくりガードの途中にある。
https://goo.gl/maps/BR5VUwN7iYPUv5Zx5
ここから入るとJR線路と西武線の間の空き地に出る(入っちゃダメよ)。実は当初のびっくりガードはここを上がってから西武線を踏切で渡って明治通りに出るというルートだった。
この坂の上はJR用地で昔は国鉄の貨物駅だった。つまり初代びっくりガードは国鉄をガードで潜って直角に折れて急坂を上り国鉄貨物駅の中を通り西武線を踏切で渡る。そして出てきた先がさっきの搬入口前の交叉点だったって訳。
現在の中央東口っていうのは元は西武線の改札だった所で、西武が運営するデパート、武蔵野デパートはエルメスがあるあたりにちょこんとあった。
しかし当時の西武の社長は貪欲な堤康次郎と堤義明。もっともっと増床だ!でも駅が邪魔だ!ならば線路を縮めて駅を向こうに追っ払えばいいじゃん。
という事で駅をずらすのに邪魔な踏切は廃止。その代わりに国鉄ガードの延長にガードを作った。そして踏切跡はデパート搬入口に転用。
井の頭線渋谷駅や世田谷線三軒茶屋駅とか、商業ビル建てるために駅をその向こうに追いやって客はその分歩けっていう工事するのがあるじゃないすか。あれムカつきますよね。
こういう訳で「西武デパートの搬入口だけの為に信号がある」状態が生まれた。一見それに見えなかったものがトマソン的である事を発見するとその由来が見えてくるって事ですわ。そしてびっくりガードなんて間抜けな名前が公的に使用されてる事の方がびっくりだわ。
昭和29年に地下鉄丸の内線が開通することになりそれに合わせて建築されたビルが結構残っている。LABIの建物が代表格でここは元三越。今も所有者は三越な筈。
昭和28年頃の完成なので今でも売り場の裏は非常~に古い。客用エレベータもエレガ時代は真鍮蛇腹式だった。それでは客がセルフオペ出来ないのでかごは替えられてしまった(着床位置も手動ハンドルで調整する方式だった)。
LABIの裏にマックがあるがここは三越が所有していて地下にLABIの搬入通路がある。マックの裏の建物はLABIの搬入口になっている。
新しそうなパルコも昭和32年竣工の東京丸物デパートの居抜き。
昔は携帯電話が無かったから待ち合わせ場所を家の電話で打ち合わせておく必要があった。新宿駅や東京駅には待ち合わせ場所としてアルプス広場や銀の鈴があるが池袋駅には無かった。
そこで末期の国鉄の人らが考えて作ったのがいけふくろう。いけぶくろだからいけふくろう。
国鉄はそれまでの親方日の丸体質ではダメな状況に至り、色々とサービスアップの為の試行錯誤をしていた。現在のJRより熱心だったが如何せんセンスがダサい。
いけふくろうもかなりの失笑を買ったと言われているがその後豊島区などがフクロウの里などの歴史修正主義を始め定着するに至った。
いけふくろう像があるのは北通路の階段付近という半端な場所だがこれはパルコの土地ぎりぎりのJRの土地であるから。いけふくろうのダジャレを考えた国鉄マンの同定をしなくていいのだろうか?疑問である。
サンシャインの地下駐車場のそのまた下には地域冷暖房の施設があって付近のビクトリアスポーツや東池袋駅やハンズのビルなどに熱供給を行っている。
これは触れている本やサイト、番組が多いが、実はその下に東電の変電所がある。これはサンシャインで働く人も知らない秘密なのだが、数年前にあった新座でのケーブル火災による東京大停電での停電地域によって変電所の場所が割れてしまった。
城北線豊島変電所というのがここで、終端変電所は内幸町の東電本社の地下である。
https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/hoan_shohi/denryoku_anzen/pdf/014_06_00.pdf
雑司ヶ谷道の駅北側は戦後商店街となって平和通りと名付けられた。だがどういう訳だかヤクザの事務所がこの道路沿いに林立するようになり、やがて抗争が勃発、殺し合いまで始まった。
90年代後半になるまで路上駐車というのはルーズに見逃されておりその辺にとめるドライバーが多かったが、事情を知らぬ者は平和通りの組事務所前にとめてしまう。
玄関前塞いで車止められたら誰でもいい気分はしないが組となればメンツの問題でもある。戻ってきたドライバーはそのまま事務所にお持ち帰りとなって凄まれ絞られ少なくない詫び賃を置いていく羽目になる者もいた。
お巡りさんに泣きついても「こんな通りに駐車したら身の危険になるのは当たり前でしょ」と説諭される始末。平和通りなのに。
やがて銃撃事件などが相次ぎ非常線で封鎖される事もしばしばとなった。シャブで錯乱したヤクザが突然暴行を加えたり物を破壊したり自分を刺して血だらけで歩いていたり警察に保護具で簀巻きにされている所がみられる事もあった。結構な高頻度で。北口のレンタルビデオ店G〇〇が入居するマンションなどは上がほぼすべて893となってしまった事で有名だった。
暴力団新法の施行でヤクザは激減してこれらの風物詩は過去のものとなった。
あの事故のあった道路はほぼ直線なのだがどういう訳か事故が多い。飯塚のは運動能力の問題だろうがスピードを出しすぎる車&Jウオークする歩行者両方に問題があるケースが多い。見通しが良すぎて油断するのだろう。
過去の事例では130km/hで邁進するフェアレディZがUターン中の1Boxカーに衝撃して1Boxの助手席女性が死亡するという事故があったが、普通Uターン側にも責任が問われる所、相手の速度が速すぎて予見不能として1Box運転者に無罪判決が出るという事件があった。
10年近く争っての事だが異例な判決である。その後も事故が続くので信号機を増やしたりしたのだがあんな予見困難な大事故が起きてしまった。
池袋にいわゆる駅ビルみたいなものはなくてデパートばかりだが、戦争で駅舎が燃えてしまったので戦後に鉄筋コンクリートで国鉄駅舎というのを作った…のだが直後に民間資本の建物を誘致する民衆ビル構想が立ち上がったので駅ビルは解体され丸物(現パルコ)や西武のデパートが建つ事になった。計画性無さすぎである。いや勢いがあったのか。
開通当時は武蔵野鉄道(買収)→西武、東上鉄道(買収)→東武だったから最初は変じゃなかったよってのが定番の豆知識記事だが、「東に東武」もあった。
サンシャイン手前~飯塚事故現場辺りの一帯は戦前東武鉄道の根津嘉一郎が所有しており根津山と呼ばれていた。雑木林だらけの池袋駅~護国寺に道路と都電を通す事になり全部手放したのである。
池袋東側の住人なら赤尾敏は誰でも知ってるけど日ころとか朝生とかに出てるらしい赤尾由美見た事ある人いない。だってあんた道場に居なかったじゃんよ。何赤尾敏赤尾敏って名前使ってるの?
お祭りには欠かさず来るね。で、それだけで「地元の人」って認知受けちゃう。贅六の落下傘なんだけどな。
(1) 文科省は「いかなる理由でも出席日数が足らないと卒業させない」きまりなど作っていない。
多くの高校に2/3以上、または1/2以上の出席が必要、などのきまりがありますが、これは単なる「内規」です。そして、その「内規」の最低限である「1/2」の根拠としては、昭和28年文部省初中局長通知による「一般的にいって、第三学年の総授業時数の半分以上も欠席した児童生徒については、特別の事情のない限り、卒業の認定は与えられないのが普通であろう。」が挙げられますが、ここでも、「一般論」であり「卒業認定の話」であり、かつ「特別の事情」には配慮することが述べられているので、文部省の時代から、「特別な事情」への配慮は可能だったわけであり、つまり「いかなる理由があってもアウト」なきまりなど、一度も作られたことがないのです。
その後さらに平成に入ると不登校問題への理解と対応が進むことになり、「登校拒否問題への対応(平成4年)」通知や、平成5年の神戸地裁で、修了認定などは学校長による「高度に技術的な教育的判断」であり「単純な学業成績の評価や出席日数の多少だけでなく」総合的判断によるべきもの、との判例が示されました。
以来、出席日数は根本的には「目安」に過ぎず、単純にそれだけで決まるものではない、というのが一般的見解です。
(2) 「先生に休暇がないことも、卒業が学力とほとんど関係ないことも、こういうバカな制度にしたのは文科省」
まず、先生にも有給はあります。取得できるかどうかというのは別問題ですし、事実多くの人が年休を消化しきれていないのは事実ですが、それは勤務管理の問題であって制度の問題とはまた別では。それに「全く有給をとったことのない先生」もまずいないのではないかと思います。次に、「卒業が学力とほとんど関係ない」というのも事実誤認で、それはおそらく「学校の指導に乗る限り、学校は卒業/進級できるように指導する」ことを誤解しているのだと思います。つまり、どうしても卒業/進級したいという意志の下に学校の適切な指導に基づいて真摯に取り組んだとしたら、人より時間がかかっても、(入学できている以上は)その学校で習うレベルの課程の修了認定を得ることは不可能ではない、と考えられますが、学校の指導に同意しなかったりそもそも学校の指導を受けなかったりする場合、その課程の修了認定を行うことが不可能になります。そうすると、見た目は「学校の言うことを聞いていれば成績が悪くても進級」「同じ成績でも学校の言うことを聞かなければ進級できない」という状況になりますが、それは、「卒業が学力とほとんど関係ない」と言うのとは違います。(もし、本気で卒業が学力とほとんど関係なければ、先生方がなんのために補習を課して必死に指導しているのか、という話になります。)
それから、「こういうバカな制度」については二点とも事実誤認だというご説明をしましたが、当たり前ですが文科省はただの行政機関であって制度(きまり)を作るのは立法機関=国会の仕事です。つまり「こういうバカな制度にした」のは国民の代表である議員の皆様ですよ。
(3) 「SMAPがむりやり解散になったのも文科省が著作権の乱用を放任してるからです。」
すみません、意味不明です。SMAPを解散に追い込んだのはジャニーズ事務所では?
(4) 「どこで仕事してるのか目に見えない」
全国どこにでも義務教育の学校があり、国民の就学率がほぼ100%であるのは、誰が仕事をしているからですか?
「大学の事務は標準化されてなくてボロボロで日本一の天才学者を雑用ですり減らすことしかしてない」→確かにある程度そうですが、それも政治の問題では?
「コンピュータでビッグデータつかえ AIに本気で恐怖してんじゃねえ」→確かにある程度そうですが、それは全省庁の問題では?
「理系採用しろバカ そして新人を「文科省なりの教育」してスポイルすんなよバカ」→確かにある程度そうですが、それは全省庁の問題では?
「最近の文科省バカなことしかしないから来年もバカに低い予算しかつかねえよ」→確かにある程度そうですが、今に始まったことではないのでは?
1970年代前半に、仙台市内の中華料理店「まんみ」にて賄い料理として提供したのが始まり。
//ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E7%84%BC%E3%81%9D%E3%81%B0
発案者が思いついたのが10年前と言っていたので、
//detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11156573366
ただし他にも元祖を名乗る店がある。
14〜15年前ですかね。パンって、夏は本当に売れないんですよ。暑いからみんなソーメンを食べたり、おやつもスイカになったりしてね。なんとか夏に売れるパンができないかなぁと思って開発したのが、塩分補給もできる塩パンだったんです
//tabi-labo.com/287605/painmaison-yawatahama
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A2
ただし他にも元祖を名乗る店がある。
【第22巻・第213話】いま話題のおにぎらずはクッキングパパが発祥!
//cookpad.com/recipe/2831394
第22巻は1991年発売。
ご存知のとおり発祥には諸説ある。
落合「僕が帰って来たのが1981年で、前のお店を開けさせていただいたのが1982年ですから。
(中略)
1982年に魚のカルパッチョを作ったとは語られていないが、近い時期であることが示唆されている。
古くは本朝食鑑の鱗部の巻「鰯」の箇所に「或有甘塩者有糟漬者有塩麹漬者号曰黒漬」という下りがあり、「塩麹漬」という文字列が見られる。
日本人はいつから牛の生肉や生レバーを食べるようになったのか。
焼き肉などの食文化に詳しい滋賀県立大の鄭大聲(チョン・デ・ソン)名誉教授は「戦後、在日韓国・朝鮮人が家庭で食べていたものを焼き肉店で出すようになり広まったのではないか」という。
//sankei.jp.msn.com/life/news/120428/trd12042822020023-n1.htm
「つけめん」が定着するきっかけとなったのは2000年頃からのことです。つけめんの考案者である東池袋大勝軒の店主 山岸 一雄氏のお弟子さん達が独立し始め、大勝軒系列の店が増えたこと、大勝軒の常連客から人気店になった「べんてん(高田)」、「道頓堀(成増)」といったお店が繁盛したこと、そして川越にある「頑者」が「自家製極太麺×魚粉×濃厚つけだれ」という新しいジャンルのつけめんを生み出したことが影響し大きなエポックとなりました。
//web.archive.org/web/20130622095039///www.asahi.com/business/pressrelease/ATP201005190013.html
プロジェクトが始まったのは86年。当初の計画では、輸出の要はカペリン(カラフトシシャモ)だった。しかし、その前年、時の漁業相らが日本を視察して方針が変わった。日本には生のサーモンを食べる文化がない。江戸前寿司にもない生サーモンの握り寿司を考案し、試食会を重ねた。
日本のイタリア料理史の中で、最大のブームとなったのは「ティラミス」と言って間違いありません。80年代半ばから評判を呼び、90年に雑誌「Hanako」で特集が組まれるや、人気は最高潮に達します。
日本の輸入量は1970年代までは微々たるものだったが、1970年代後半から増え、1980年には479トン、1990年2163トン、2000年14070トン、2005年は28150トンと急増している。
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9C%E3%82%AB%E3%83%89
1908年(明治41年)、魚の油漬け加工に必要なオリーブ・オイルの自給をはかるため、農商務省がアメリカ合衆国から導入した苗木を三重県、鹿児島県と香川県に試験的に植えた。香川県の小豆島に植えたオリーブだけが順調に育ち、大正時代の初めには搾油が出来るほどの実が収穫された。
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%AB
//www.amazon.co.jp/dp/4478039674
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%84%E3%82%BF
単なる竜田揚げとして見れば×。
1952年(昭和28年)に創業した国立市の一橋大学そばの「三幸」が、のびたラーメンをヒントに昭和30年代前半頃から酒の肴として提供を開始したとする説や、同じく昭和30年代に武蔵野市境の亜細亜大学そばの「珍々亭」が中国の拌麺をヒントに油そばを発売したという2説が存在している。
新規企業の太洋醸造が当時自由販売化していたイモとホップを使用したイモ・ビールの試験醸造を申請して認可され、1950年(昭和25年)から新発売され、日本の市販発泡酒第1号となった
垣島在住の夫婦(夫は中国・陝西省西安出身の辺銀暁峰、妻は東京都出身の愛理)が、具材を食べるタイプのラー油を開発し、2000年(平成12年)、石垣島にて開催されたイベントで販売したのが始まりである(ただし、具の入ったラー油そのものは中国にて古くから存在している)。
//ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9E%A3%E5%B3%B6%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%B2%B9
とりあえず記事を読んでほしい。
http://www.sankei.com/region/news/180307/rgn1803070002-n1.html
望まない妊娠で乳児を2度殺害 「お母さんにばらすぞ」と義父に追い込まれ
被害者は義父から13歳から性的虐待を受け、15歳で妊娠.出産。その時に子供を殺め、成人してからも性的虐待によって妊娠、出産、そして子は殺めざるを得ない。
性的虐待を受け、望まない妊娠をし、おろすこともできずに痛い思いをして子を産み、そして自分の手で殺さざるを得なくなる。これが懲役4年。
鬼か悪魔じゃなかろうか。
私がこの事件について、こんなにも腹が立っているのには理由がある。
https://matome.naver.jp/odai/2140671323055729801
昭和28年(女性当時14歳)女性は実父から性的虐待を受けるようになり、17歳の時に妊娠。その後29歳までに実父の子を5人出産(2人は死産)。29歳の時に、結婚したいと実父に打ち明けると実父は(育てていた実父と被害者女性の子)3人の子供を殺すと暴れ出し、耐えきれなくなった女性は実父を絞め殺して出頭した。
この事件では、第一審では刑罰免除、最高裁では執行猶予がついた。
どちらも、最大限に情状酌量が認められた結果だ。
当時は、親に対する殺人(尊属殺という)は、普通の殺人よりも罰が重く、無期懲役かそれ以上に重い罪にしか該当しなかった。その罰則規定を違憲にしてまで、彼女に刑罰免除や執行猶予を与えた。
昭和48年だ。
今は何年だ???
カレンダーを見てくれ。
そう、今は2018年。
平成なら、もう終わりかけの30年だ。
言い方は悪いがそれだけだ。
運悪くレイプ被害者になり。
そして前科までつく。
無罪放免でも誰も文句は言うまい、義父の判決が相当重いものになるように期待するだけだ。
本当に本当に、心の底から腹立たしい。
前置きが非常に長くなったが、腹立たしさの詳細を語らせてくれ。
まずはこれだ。
実刑の理由が、2度目の殺人について、「被告人は当時すでに成人しており、手段を尽くして殺害を避けるべきだった」
13歳から性的虐待を受け、15歳で妊娠、出産、そして子殺し、その後も性的虐待を受け続けた被告に、普通の成人と同じように判断できたと思うか。
被告は13歳からずっと義父の支配下にあった。脅迫もあったとされている。そんな状態で、正常な判断はできなかっただろう。
彼女は2度の出産以外にも、何度も妊娠中絶を繰り返しているようだ。
中絶費用の工面を、他の人になぜ頼まなかったのか、という検察側の問いに、被告は
「私自身、諦めてしまった。赤ちゃんの命を軽はずみに扱ってしまった」と答えた。
諦めるほど、追い込まれていたのだ。
(これは賛否両論あるだろうが、そもそも中絶自体が殺人だろうと思う、今回の事件のような例を減らすためにも妊娠中絶には賛成だが)
まずは彼女がこれ以上性的虐待の被害を受けることがないことに安心すべきだろう。
腹立たしいポイント2つ目。
裁判長は「体に気をつけて務めを果たし、2人の子供の供養をしてほしい」と被告に声をかけたらしい。
でも、それでもだ。
まず被告がするべきは自分を大切にすることだ。司法や判決すら大切にしてくれない被告本人を。
被告がするべき最大で最優先のことは自分の身の上に起こったことに怒り、義父を憎むことだ。
2人の子供の供養なんてその後でいい。
自分がやりたかったらすればいいし、ましてや裁判官に言われることではない。
裁判では、裁判官の中では、殺された子が被害者かもしれないが、最大の被害者は被告本人だ。
15年以上も性的虐待に耐え、何度も妊娠中絶に耐え、出産しても、耐えた。
耐えて、被告は今も生きている。
ここまで読みにくかったと思う。
それでも、読んでくれた人に問いたい。
そろそろ人生を手仕舞いしようかという時期に差し掛かったウチの父親。ときどき昔の話をしてくれる。戦後すぐのドサクサの話は、それなりにおもしろい。
カルビーのことがニュースになっていたので、思い出した。そういえば、カルビーの出てくる話もあったなと。
老人の昔語りを、別に記録もとらずに聞いたうろ覚えの内容だから、事実とかなり違うことがあるかもしれない。虚偽が混じってしまったら、まあそういうもんだと笑って流してもらえればありがたい。
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親父は、大阪で袋屋をやっていた。包装資材の問屋だ。それも戦後すぐ、物資が不足している時にうまい具合に包装紙を手に入れるツテがあったことから気がついたら事業ができていたという、伝統も何もない若い会社のいちばん下っ端の小僧だった。創業すぐの頃は朝鮮人が闇でつくって売る飴の包装紙の卸売がメインの仕事だったが、すぐに広島にあったカルビーが大量に注文をくれるようになった。親父は、リュックサックを背負って店の前に現れたカルビーの社長を覚えているという。やがて商売の半分以上はカルビーにぶら下がるようになった。
カルビーの創業者は、米軍とのコネで小麦粉や砂糖の払い下げを確保し、それをもとに商売を広げていた。広島は原爆で荒廃していたが、その原爆を商品名に入れるような宣伝もやっていた。いまでは考えられないかもしれないが、「原爆=スゴイ」というポジティブなイメージも当時はまだあったのかもしれない。
そのカルビーが、倒産した。発注に生産が追いつかない黒字倒産だったらしい。親父はオート三輪に乗り込んで債権を回収しに広島に向かった。
たまたま親父の会社の倉庫が空いていたのを、カルビーが大阪支店代わりに借りていた。最終的にそこを差し押さえることで、親父の会社は破滅的な損害は免れた。
黒字倒産だったのでカルビーはすぐに復活した。ただ、それを期に、親父の会社は、少ない大得意にぶら下がるような商売をやめ、小口の顧客を広く求めるような経営方針に転換した。たまたまポリエチレン袋が普及を始める時期で、包装紙からプラスチックへと主力商品を転換することで、親父の会社も急成長を始めた。カルビーとはそれっきり縁が切れた。
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古き良き時代みたいに言われる戦後復興から高度成長期だけど、あの時代、けっこう倒産も少なくなかった。倒産した会社からぶんどってきた半端な品物を親父が持って帰ってきたことも記憶に残っている。時期的にいってカルビーのものではなかったはずだけれど、オマケのおもちゃとかも差し押さえたとか言ってたから、ひょっとしたらそういうのも家に転がっていたのかもしれないなと思う。
そんな波乱万丈を経て、押しも押されぬ有名ブランドとなったカルビー。ま、たいしたもんだよな、とも思う。
どうでもいい昔の話でした。
http://b.hatena.ne.jp/entry/352161724/comment/ustar
陸軍の倉庫跡に会社をつくったのは、そういえば親父も話していたわ。そっから持ちだした物資がけっこうあったとか言ってたけど、まあ、噂レベルだろう。
24年組(にじゅうよねんぐみ)は、昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代に少女漫画の革新を担った日本の女性漫画家の一群を指す。
「花の24年組」とも呼ばれる。
年齢や作風において彼女らの後輩に当たる女性漫画家たちは「ポスト24年組」と呼ばれている。
青池保子(昭和23年生)、萩尾望都(昭和24年生)、竹宮惠子(昭和25年生)、大島弓子(昭和22年生)、木原敏江(昭和23年生)、山岸凉子(昭和22年生)、樹村みのり(昭和24年生)、ささやななえこ(昭和25年生)、山田ミネコ(昭和24年生)、増山法恵(昭和25年生)
水樹和佳(昭和28年生)、たらさわみち、伊東愛子、坂田靖子(昭和28年生)、佐藤史生(昭和27年生)、花郁悠紀子(昭和29年生)
日本銀行は、戦前から天皇・ロスチャイルドが株主として君臨し、紙幣発行権を駆使して、市中銀行をコントロールし、その先に大企業群を従えてきた。
出典
「株式会社 日本」の大株主であった、天皇財閥 2 - るいネット
皇室と日銀株のつながりは深いものがある。第二次大戦直後の段階で、皇室は29社の株式を所有していたが、とりわけ目を引くのが、20万8000株(額面で2080万円分)を保有する日銀の株だった。
出典
日銀株が下落して 天皇家も大損の「悲劇」 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
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farwestto.exblog.jp
横浜正金銀行は、東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身とされている銀行です。
貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、明治維新後急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、香港上海銀行(HSBC)、チャータード・マーカンタイル銀行と並ぶ外国為替銀行へと発展
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天皇家は日銀株のほか、横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)や日本興業銀行(現・みずほコーポレート銀行)などの株式も保有していた
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日銀株が下落して 天皇家も大損の「悲劇」 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
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plaza.rakuten.co.jp
皇居がある東京駅周辺の丸の内のビルの3分の1が三菱財閥の保有となっています。
天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。
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天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁されました。そして売春を強制されました。
出典
天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。
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http://www.yuuai.sakura.ne.jp/home20/konnaonna.html
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国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していたただのどぶ鼠野郎です。
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1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は、この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始めました。
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henmi42.cocolog-nifty.com
安倍晋三さんも、三菱財閥が創設した、成蹊大学を卒業しています。
安倍晋三首相の実兄である安倍寛信氏が4月1日付で三菱商事の執行役員に就任することが決まった。
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成蹊学園初代理事長・岩崎小弥太以来、三菱金曜会のトップが成蹊学園の理事長を務めている。
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第二次世界大戦前は三菱財閥との繋がりが非常に強く、運営費用の大部分は三菱からの寄付で賄われていた。また1917年(大正6年)開設の成蹊実業専門学校は三菱合資会社の要請によるものであり、実業界、特に三菱での中核となる人材の育成を目的としていた。
出典
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戦前の日本経済は財閥が支配していた。三井、三菱、住友、安田の4大財閥を中心に、古河、川崎、浅野、中島、日産、大倉、野村、日本窒素などの中小財閥があった。
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書評 吉田祐二著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 最大の財閥・天皇家の海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう座
財閥復活を防ぐために、戦後長く独占禁止法で禁止された持株会社が復活するのは、金融ビッグバンのさなか1997年のことである。現在ではなんとかホールディングス(HLD)を名乗る持株会社が数多く存在する。
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書評 吉田祐二著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 最大の財閥・天皇家の海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう座
戦前の天皇家が株式、国債、土地などの資産を持っていたことはよく知られているが、著者によれば、財閥解体時の資料を基に天皇財閥は4大財閥の10倍程度の規模があった
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書評 吉田祐二著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 最大の財閥・天皇家の海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう座
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plusi.info
ソニーが没落した要因のひとつとして、昭和の古いシステムにこだわった為と言う事が良く言われています。
1953年(昭和28年)に宮内庁次長の宇佐美毅を後任とし長官を辞任した。長官辞任後、請われて東京通信工業株式会社の監査役に就任する。これが後のソニーで、取締役会長、相談役を歴任し社内からは「会長さん」と親しまれた。
出典
天皇、皇后両陛下(昭和天皇と現皇太后陛下)の工場見学が決定した。この日、両陛下は、時の東龍太郎東京都知事を案内役として、東京タワーや都内の各所をご視察の予定である。その計画の中に、ソニーが選ばれたのだ。
出典
Sony Japan | Sony History 第13章 IREショーで見つけたもの
「昭和天皇はソニーに興味をお持ちくださって、葉山の御用邸に行かれるとき、うちの工場(注 ソニーのこと)がだんだん大きくなるのを見ていらっしゃって、<田島の会社(ソニー)はまた大きくなったね>って、いつでもお話になったそうです」
出典
書評 吉田祐二著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 最大の財閥・天皇家の海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう座
ちきりんの
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20161017
を見て、じゃあ政令指定都市はどうなっているんだと単純に疑問に思い調べてみた。
政令市名 | 市長名 | 生年 | 回数 | 経歴 |
---|---|---|---|---|
網掛け= | 女性市長 | 70歳以上 | 5期以上 | 中央官庁出身 |
札幌市 | 秋元克広 | 昭和31年 | 1期 | 市職員 |
仙台市 | 奥山恵美子 | 昭和26年 | 2期 | 市職員 |
さいたま市 | 清水勇人 | 昭和37年 | 2期 | 県議会議員 |
千葉市 | 熊谷俊人 | 昭和53年 | 2期 | NTT、市議会議員 |
川崎市 | 福田紀彦 | 昭和47年 | 1期 | 県議会議員 |
横浜市 | 林文子 | 昭和21年 | 2期 | 日産、ダイエー |
相模原市 | 加山俊夫 | 昭和20年 | 3期 | 市職員 |
新潟市 | 篠田昭 | 昭和23年 | 4期 | 新聞記者 |
静岡市 | 田辺信宏 | 昭和36年 | 2期 | 市議会議員、県議会議員 |
浜松市 | 鈴木康友 | 昭和32年 | 3期 | 衆議院議員 |
名古屋市 | 河村たかし | 昭和23年 | 2期 | 衆議院議員 |
京都市 | 門川大作 | 昭和25年 | 3期 | 市職員 |
大阪市 | 吉村洋文 | 昭和50年 | 1期 | 弁護士、市議会議員 |
堺市 | 竹山修身 | 昭和25年 | 2期 | 府庁職員 |
神戸市 | 久元喜造 | 昭和29年 | 1期 | 自治(総務)官僚 |
岡山市 | 大森雅夫 | 昭和29年 | 1期 | 建設(国土交通)官僚 |
広島市 | 松井一實 | 昭和28年 | 2期 | 労働(厚生労働)官僚 |
北九州市 | 北橋健治 | 昭和28年 | 3期 | 衆議院議員 |
福岡市 | 髙島宗一郎 | 昭和49年 | 2期 | キャスター |
熊本市 | 大西一史 | 昭和42年 | 1期 | 商社、県議会議員 |
こうして見ると、中央官庁出身者は20人中3人で多くはない。全員中国地方近辺というのは偶然か。
多いのは地方議員(6人)と自治体職員(5人)で合計すると過半数だ。
やはり地方の行政組織や選挙(政治)に密着しているのは強みなのだろう。
民間企業経験者は5人(うち2人はその後、地方議員経験あり)、女性は2人と、
ちきりんの言う「改革派」市長ばかりではないだろうが、都道府県知事と比較してみると概ね、
・若い
・期数が短い
・中央官僚は少ないが、政治・行政出身が多いことは変わらない。
というのは確かだ。
この結果として、非都市部と比べて、住民が利益を受けているのか、不利益を受けているのか、
あるいは、中央と対峙しているのか、そうではないのか、といったことは、よく考えてみると、
とても面白いのではないだろうか。それに、各都市の構造も一様ではない(大阪市と浜松市では中枢性が違いすぎるように)。
また、都市の中の都市である、東京23区の首長の経歴がどうなっているのかも、調べてみると興味深いだろう。
ぜひ誰か調べてみてほしい。
ナマモノの扱いは基本的に超デリケートなので、迂闊に手を出さないのが鉄則。
看過できないブコメがスターを集めているので、変に感化されて庶民が手を出さないように釘を差しておこう。
(id略) この種の揉め事を嬉々としてまとめ、コメントしてきた古参や有名どころが徹底無視のうえ沈黙しているのを見て癒着ぶりを思い知ったし、これまでとは違う意味で心底失望した。後ろ盾のない人を選んで叩いてるんだね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/mememememiti.hatenablog.com/entry/2015/03/05/204424 略は引用者による
(id略) 岡(略)さんだけじゃなくこの件村(略)もh(略)氏もt(略)さんもし(略)氏もき(略)氏もいつもの炎上時のブクマメンバーがだーれも言及しないのがとても怖い。たまたまみんな北朝鮮にでも行ってるのかな?斗(略)の時とは大違い
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20150306/1425602466 略は引用者による
例えば、Wikipedia。存命中の人物に関しては慎重に取り扱われています。
なぜなら、現行の日本の法律は、例え事実であったとしても名誉毀損が成り立つし、有名な人ほど弁護士に相談するからです。
対して、フェイクも含むいわゆる「ウォッチされる揉め事」は、どこまでいっても匿名で架空の物語です。
つまり、それは「嘘かもしれないけどほっこりする」という物語であって、Facebookの感動系記事となんら変わりがないわけです。
というわけで、現在進行中の揉め事には当事者が居て、言及すれば当事者になってしまう状況下では、触らないのがお作法です。
踊り子さんには手を触れない、というよりも、踊り終わった後に「あの踊りはナカナカだった」と言及するのが基本です。
その意味で、とめとめしい人は、キチンとその旨を(迂遠な形ではあれ)ブログで記事にしておられましたね。
例えば、夏目漱石のこゝろに倣い、ここでは仮名として、MさんとOさんという2人の人物が居るとします。
と、言う仮定の話をしたとしても、「これは明らかに私を指してMと言っている」と裁判で証言された時に、これに反論するのは非常に困難です。
伏せ字であっても誰もがそれを想像する場合、裁判所は字句通りには解釈せず、基本的には理念に則って裁きます。(地裁は適当だけど)
((被害者の氏名こそ明示してないが、第一審判決挙示の証拠を綜合するとそれがAに関して為されたものであることが容易にわかる場合であることが認められる。だから該記事は被害者の特定に欠くるところはないというべきである。昭和27(あ)3760 昭和28年12月15日 最高裁判所第三小法廷 刑集 第7巻12号2436頁 理由より))
また、例えば「Xさんは私と同じく批判をしておられたので、是非賛同者として裁判に向けて一緒に戦ってくれないか」と依頼が来た時点で、ウォッチャーとしては死を迎えます。
それは、当事者になってくれという依頼であって、受けようが断ろうが、既にウォッチャーの立ち位置とは異なるからです。
ここでは、最近人格的にも体格的にも丸くなられた、やまもとい<検閲されました>さんを引き合いに出しますが、
彼の関わり方が非常に参考になります。
推測ですが、センシティブな話題に関しては、弁護士に軽く相談してからブログに上げておられるでしょう。
また、名誉毀損で訴えられてもたかだか50~100万円程度なら大したことないわ、と裁判慣れしておられる様子すら見えます。
基本的にウォッチャーやコメンターというのは、外野席に座ったオッサンのヤジと一緒です。
モノをグラウンドに投げ込めば警備員につまみ出されるし、レーザーポインターで目を狙えば逮捕されるでしょう。
ただ、いくら下世話な趣味だと後ろ指をさされようが、「あの起用は無いわ」と仲間内で話す分には問題ないわけです。
と、すると、相手の発言を拾ってきて論評するか、事実だと仮定すればどうなるか、と言う話しか当然出来ないわけです。
発言があれば、矛盾や、事実誤認や、考え方の残念さ、の指摘は出来ます。
また、借金があったとし、その認識に双方問題ないのであれば、その金は返せ、という一般論しか話せないわけです。
「仮に事実だとすれば」と明言したとしても、法律的には何ら関係がありません。
事実の有無、真偽を問わず相手の名誉を毀損すれば、刑法上の名誉毀損罪(ただし親告罪)にあたります。
(公共の利害に関し、公益目的でかつ真実であると証明できた場合を除く)
また、民法上の不法行為にもあたり、民事上の損害の回復手段は、金銭による賠償が大原則です。
つまり、ざっくり50~100万円程度の賠償額を負う可能性があるわけです。
(なお、相手の感情を害しただけでは名誉棄損にあたらないとされることが多い)
明らかに訴えられない自信がある場合だから(例えばプロ野球選手がファンを相手取って裁判沙汰にするとは通常考えられないので)外野からヤジを飛ばせるのであって、火中の栗を拾うのは愚かな人間だけです。
顧問弁護士に気軽に相談できないような庶民は、基本的に君子危うきに近寄らずの精神で。
虎穴に入らずんば虎児を得ずとは言うが、その虎児(大抵PV)は割に合うの?という計算はしましょう。
だから、ウォッチャーなればこそ嗅覚・距離感覚は鋭いですし、ある程度誰にでも一線はあるでしょう。
解決した揉め事を外野からワイワイ言うのと、現在進行中の顔の見える事案に触れるのは、だいぶ違いますよ、というお話でした。
意外に絶対に泣き寝入りしないとりあえず裁判からの人も居るので、気軽に一線踏み越えると大事になりますよ。
(そもそも真偽の定かでない情報を公に品評する事そのものがリスクです)
60万円以下の金銭の問題は、本人による少額訴訟で解決するのが一番早いです。
また、警察は基本的に相談事は受け付けてくれますし、法テラスは無料で相談できます。
(個人的にはプロには相応の対価を払ってアドバイスいただくのが良いとは思いますが)
なおフィクションでも、「石に泳ぐ魚」で最高裁の判例が出ているので、慣れた弁護士なら示談まで持っていけるでしょう。
そして、そこで無理めだと言われたら、基本的にはそういう事例だ、という事です。
ギザ十を集めている
昭和26年~33年にかけて発行された、縁にギザギザのある十円玉だ
昭和31年には発行されていないらしい
学生の頃は時々手に入ったのだが、最近はめっきり見かけなくなった
私のように溜め込んでいる人も居るだろうが、大半はどこかに無くなったり汚れて回収されたりしたのだろう
世の中は明治・大正生まれの人々が動かしており、映画はモノクロ
東京オリンピックもオイルショックも学生運動も沖縄返還も、まだずっと先の話
身近な人を顧みれば、父母はまだほんのガキンチョで、祖父母が今の私と大体同年代になる
十円玉の価値も今よりずっと高く、これ1個でハガキが2枚買えた時代
数字にすれば60年前だが、こうして考えると、何と遥かな昔だろう
そんな時代に作られた物が、少数ながら今もなお現役で活躍していて、稀に私の元へ転がり込んでくる
いっそ奇跡のような気さえしないだろうか