はてなキーワード: 日本国とは
騒動に対抗してか日本国紀もAmazonランキングに再浮上してきていて面白い
それは事情を承知しているからで、一般の客からすると単に「覚悟の表明かな?」と
悪い印象は受けないんじゃなかろうか。
実売部数の公表が出版社や書店など業界向けに影響を与える手段だったことを
考えると、実力派の編集者が「明確に見城徹にNOをつきつけます」というメッセージを
意識せざるを得ないわけで。
市場原理のようなマスを変えるためには
直接マスに働きかけるのではなく、一部の少数者による最先端の行動こそが重要で、
それがマスを牽引する役割を果たすという考え方もある。
百田尚樹の「日本国紀」のコピペ問題を追及していた津原泰水の新刊が幻冬舎から出版中止になった問題で、社長の見城徹が、「こんな売れないんだから出版中止は当然」とでも言うことを目的として、幻冬舎から刊行した津原の本の実売数を晒し、その行為が他の多くの作家の反感を書い炎上し一般紙でもニュースになったのだが、その報道の仕方というのが「実売数公表し幻冬舎社長が炎上」という切り口のため肝心の出版中止の経緯について追及した記事になっておらず、そのせいかネットでの経緯を知らずに新聞記事を読んだ人たちからは「なんで実売数を公表しては駄目なのか」「オープンにするべき」「CDやDVDは公表されてるのに」「CD売上悪いアーティストが切られるの当然」などとズレた感想が多数投稿されており、見城徹のツイートは見事に論点ずらしに成功し出版中止問題を有耶無耶にしてしまった。
それはそうとここで解説するのは実売数公表について「CDやDVDは公表されているのに」という多くの人が持っている感想についてだ。
確かにCDについては毎週のように「何枚売れた」というのがニュースになっているし、アニメDVDもオタクブログで売上枚数が日々記録され続けている。
しかし、問題なのはそれらのデータを「誰が」公表しているかだ。
CDの実売数データを集計しランキングにしているのはオリコンという第三者の民間企業だ。アニメのDVDも同じような調査会社のデータをもとにランキングが作られている。
レコード会社やアニメ制作会社が公表している数字ではない。だから実際に売れた「実売数」とは当然に誤差が出る。
CDなんかは前作の売上が悪ければ当然にレコード会社から契約を切られるということはあるが、発売日まで予告していた楽曲が突然販売中止になることはほとんどないだろう。
仮にレコード会社社長が「あのアーティストの実売数はこれだけしかありません」とツイートをしたら絶対に炎上するし他のアーティストからも批判殺到するはずだ。
また、CDやDVDと同じように第三者の民間調査会社のデータでよろしいなら、本が実際にどれだけ売れたかの数字も公表されている。オリコンの記事がよくニュースになってるのを見たことがないのかな。
例えばこれ
。発行部数ではなく「売上」であるから、これは「実売数」に近い数字だ。こんな数字でいいならいくらでも公表されている。
というわけで、「実売数非公表」についてCDやDVDを例に挙げて批判するのは不適切だということで。
https://www.youtube.com/watch?v=egaQnwg1qxE
幻冬舎も箕輪も嫌いだけど、この件については箕輪の言うことがもっとも。
「この本が売れなかったら、私は編集者を辞めます。」というコピーって、今回の騒動を知らない一般読者からしたら「?」だよね。
売上という評価軸で幻冬舎や見城に対抗するなら、売るための努力をすべき。
文芸なんて売れないのが当たり前、『日本国紀』やレイシスト本の実売を超える作品がなくても、文化的に価値があるんだということを伝えればいいじゃないか。
「編集者辞めます」宣言で、見城の認識を変えるほど件の著書が売れることはまずない。
幻冬舎憎しのはてなーもブコメでマウントとって満足するだけだから売り上げにはほとんど貢献しない。
見城と津原泰水の喧嘩きっかけで噴き上がった連中が、いったい今まで津原泰水を買い支えてきたのか。文芸を買い支えてきたのか。疑問に思えてしょうがない。
https://mainichi.jp/articles/20190517/mog/00m/040/008000c
見城徹は紀伊国屋パブラインのヘビーユーザーだから、他社の出版物の売上がわかることも当たり前で、実売数はオープンデータだと思っているんじゃないだろうか。
全国各地の拠点に店舗を出している紀伊國屋さんの前日のデータが翌日に見られる、こんなすごいことはない。また、私以上に見城もそう思ったものですから、とにかく、PubLine データに日々かじりつくことになりました。回収した売行きデータよりも、PubLine を見て判断をしていく、というように変わったと思います。慌ただしかった月曜日がなくなり、楽になったと思っていたのですが、それはある意味試練の始まりでもありました。毎朝出社と同時に見城から会社に電話がかかってくるので、1 点 1 点売上の状況を説明するために、頭をクリアにして臨まねばならない。
また、先ほども長渕さんがおっしゃっていたように、他社のデータを見られるという機能がありますので、それも頭にいれておかねばならない。他社が真剣に売っている本を全く把握していないではないか、とよく朝からボコボコに怒られていました。
さらに、当時の PubLine は設置型の端末だったので、会社に行かないと数字が見ることができない。土日も、当時上司だった米原(一穂)と会社に行って、朝一で見城の電話を待つという日々でした。それがさらに盆、暮、正月となってくると、さすがにきつくなってきたので、その後は PubLine 当番なるものを設けて、営業部員で交代して対応していました。そこでまた少し楽になったというのもつかの間、今度は PubLine が web サービスになってパソコンがあればどこからでも見られるようになり、さらにリアルタイムでデータが見られるということになりました。今は、朝の 8 時から夜中の 12 時まで常に緊張の日々です。おかげさまで創業当初は週に 1 度の重版会議を行っていましたが、今は 365 日毎日です。とにかくスピード感をもって判断できるので、私たち幻冬舎は PubLine という装置を大変重宝させてもらっています。
https://publine.kinokuniya.co.jp/publine/pages/contents/publine_seminar_2015.pdf
この講演録に幻冬舎の新刊企画書が載っているが、「PL実数」という欄がある。パブラインの実売数を記入するのだ。
パブラインの数字を見ることで、その著者が過去に(他の出版社から)出していた本の実売数は筒抜けで、「あの作家は売れない」ということが分かってしまい、新たな本の企画が却下されるという話は幻冬舎に限らず他の出版社でも聞く。
それでも編集者の熱意や出版人としての判断で刊行に踏み切ることも当然ある。津原泰水氏の本が実際に出版されているわけで、見城徹が「編集担当者がどれだけの情熱で会社を説得し、出版に漕ぎ着けているか〜」と書いたのもまた事実なのだ。
「日本国紀」を攻撃されて文庫化を中止した経緯から出た発言ではあるが、「あの作家は売れない」という情報を、機密ではなく攻撃でもないと考えていた可能性は高い。
でも、これはいくつかの意味でおかしいと思う。この記事は、多くの人がワクチンを摂取するべきであり、そうしないのは不道徳である、という考えに基づいて書かれている。だが、私にはそれが自明の前提とはどうしても思えない。
そもそも、自分の身体に何を入れ、何を入れないか、決めてよいのは自分だけだ。自分の身体は自分だけのもの。当たり前だろう。これが身体にペニスを挿入してよいかという問題であれば、ほとんどの人がそれを決める権利は自分にしかないと答えるはずなのに、どうして同じ理屈がワクチンでは通用しないのか。
公益のために注射針を刺して弱毒化された抗原を身体に入れろ、なんて、他人に強制してよいこととはどうしても思えない。毒であることが問題なのではない。私はそれがほとんど無害であり極めて低い確率でしか副作用は起こらずおおむね安全であることを知っている。そうではなくて、自分の身体に何を入れるかを他人に指図されるべきではないということだ。
今回はワクチンにすぎないかもしれない。でも、次が行動監視用ナノマシンだったら? 治安の良さは公益だ、やましいところがなければ入れられるはずだ、公益のためのナノマシン接種拒否は不道徳だ。そう言われたらどうする?
自分の身体に何を入れるかを決めてよいのは当人あるいはその親権者だけだ。それを他人に強いるのは不道徳である(もちろん、説得はしてよい。ワクチンの安全性を説き、公衆衛生の重要さを熱弁するのは自由であろう。相手の自由を損なわない範囲においてだが)。
(この立場は、アメリカの反ワクチン運動を紹介しているWIREDの記事でも紹介されていた。私はニセ科学に傾倒した反ワクチンはばっかじゃねーのと思うが、「政府は自分たちの子どもの体内に入るものを強制すべきではない」という主義主張は自由主義者として大いに頷ける)
それでも、そのような自由は公益のために制限されてもよい、という主張もあり得るだろう。では、ジョセフ・ヒース氏の住んでいる国ではどうだか知らないが、我々が住んでいる日本という国においてその理路は成り立つだろうか?
自由を制限し、義務化するのなら、当然その負担は最低限にまで低減されなければならない。だが現実にはどうか。インフルエンザワクチンの接種は自由診療であり、無料でないばかりか保険すら利かない。風疹ワクチンの未接種が話題になったが、ある世代の男性に限っては無料になったとはいえ、多くの人にとってそれは保険外診療として打つものである。
公益のために義務で打てというなら、その負担は最低限のものであるべきだ。高い診療費を払ってわざわざ病院の診療時間に打ちに行く手間とカネを惜しんでいったい何が悪いのか。保険診療にすらなっていない現状で接種は道徳的義務なんてちゃんちゃらおかしい。
公益のために自由を踏み躙るなら、当然それによって被る不利益は最低限度であるべきだろう。高い代償を払ってこれこれのことをしろ、そうしなければお前は反社会的な行動をしていることになるのだ、道徳をわきまえた市民ならばこのくらいの代償は払えるはずだ、などと恫喝してくる国家や社会は、正直かなり胡散臭い。
それでも、ワクチン接種費用程度ならたいした実害はないじゃないか、という反論があるかもしれない。なるほど、もしもあなたが貧困層でなければ、確かにちょっと痛い出費程度で済むだろう。だが、問題はその「義務」はどこまで拡大されるのかということだ。今あなたが遵うべきだと言っているその「公益のための義務」が、いつの間にか「兵役」になっていなければよいのだが。
そして我々が住むこの日本国は、経済的自由主義の名の下に医療費を着々と削っている。小泉純一郎以来この国の福祉は自由主義の旗の下で掘り崩され、削られてきた。このような状況で「道徳的な義務」などというものが持ち出されることには警戒した方がよい。国家が市民の生活に対して負う義務を年々縮小しながら、市民に対して「公益」を根拠に負担を迫ってくる。冗談ではない。なぜもらえるかどうかわからない年金を払い続ける人びとが、そんな「公益」とやらを慮って差し上げねばならないのか?
経済的自由主義で公的サービスを縮小するのなら、民間の自由も拡大させなければ筋が通るまい。もちろんそこにはワクチンを接種しない自由も含まれる。逆に民間の自由にある程度制限を加えようとするならば、失われた自由に見合うだけの大きな政府を実現してもらわねば困る。
感染症にかかった人間が不用意に出歩いてウイルスが拡散され、流行が広がってしまう。なるほど悲劇だ。だがそういう悲劇が起こる度に、公衆衛生を錦の御旗のごとく掲げる人びとは、大元の罹患者に向かってバイオテロだのと心ない言葉を浴びせかける。彼もしくは彼女もまた、病気の犠牲者であることを忘れ去って。
たとえば敵国の社会を壊滅させることを狙ってウイルスや炭疽菌を散布するような意図を持ったテロリストは、道徳的な非難の対象となって当然だろう。だが、不幸にも病気にかかってしまった状態で不用意に歩き回ったという、ちょっと迂闊だった程度の人が、患者が、そこまで非難の対象とされるのは絶対に間違っていると考える。それは犠牲者非難とかいうやつじゃないのか。犠牲者非難を許してはいけない。
病気は人間の意志を超えたところに存在し、運やら体質やらの本人にはどうしようもない状況に付け込んで罹患させる。そのような感染症の患者を、運悪く感染し不用意な行動を取ってしまったという理由で、バイオテロだの加害者だのと責めるのは道徳的に間違っている。そして、道徳的に間違っている主張をしている人間の言うことに従わない人間がいることは当然である。
少なくとも私は、このような言説を振りまく一部の反・反ワクチン派の醜態を見て、風疹ワクチンは絶対に打たないと心に決めた。政策の失敗によってワクチン接種の機会を失っただけの、なんの責任もない特定世代の人びとを加害者呼ばわりする連中に腹が立ったからだ。風疹の流行をめぐって吹き荒れた犠牲者非難の言説は本当に醜悪だった。あれを見てしまった以上、風疹ワクチン接種に加担することはできない。
以上、反ワクチンが必ずしも道徳的に間違っているとはいえず、むしろワクチン接種の強制こそが道義に反していることを示した。自由主義者として、そして犠牲者非難を憎む者として、私は反ワクチン主義にも聞くべき理があると主張する。なるほど彼らは科学的にデタラメなことを信じ込んでいるのかもしれない。だがそれは、彼らにワクチン接種を強要する側の道義的な正しさを裏付けるものではないのだ。むしろその強要こそが、反ワクチン論者に三分の理を与えているのである。
あっ反知性主義者だ
こういうトラバが速攻でつくわけだろ? こういう言説を(たとえ自分宛てのものじゃなくても)見る度に、絶対にワクチンは打たないぞという決意を固めるよね。
権利と他の権利は常に対立するもので100%の正義は存在しないところではあるが、我々は武装する権利や他者を傷つける権利を行使することはできない。
他人を傷つける権利を行使できないというなら、身体に注射針を刺すことを強要することはできないという結論になるはずでは。医者の行為も傷害罪の構成要件に該当することはご存知ですよね? 正当業務行為だから違法性が阻却されるだけで。そして医者にかかる患者は医療を受けることに同意しているわけですが、ワクチン接種を拒否する人たちの身体にワクチンを打つことを強要しようとしたら当然彼ら彼女らの身体への侵害となります。他人を傷つける権利を行使してはいけないというならまずワクチン接種の強要をやめるべきでしょう。
そもそも感染症を他者にうつしてしまうことは基本的に他者への加害ではないわけで。それを加害と呼ぶのなら人より感染症への抵抗力が弱く生まれついた人間としては全力で抵抗せざるを得ないですね。そのような言説を振りまく人間の言うことに従わないという消極的抵抗を今後も続けていきたいと思います。基本的にめんどくさがりなのでデモとかも意義は認めるものの参加したことはないのですが、これはコストのかからない良い抵抗方法だと思うので加害者呼ばわりバイオテロ呼ばわりに憤る人たちにオススメです。
あの土地には、1912年に中華民国ができるまで異なる国が存在していた。よって、中国5000年の歴史は嘘。中国以前の歴史を語るときは中国史ではなく、東アジア史とすべき。ちなみに日本は内戦で政権が変わっても日本国であることには変わりない。よって日本には2000年の歴史がある。
ご譲位になられた平成天皇、お疲れさま。そして、令和天皇、よろしくお願いします。
と、テレビを見ていた。
あのね、ズラ。これだけは絶対にいけない。ズラなら、象徴天皇の座から下りるべき。
日本国憲法第一条で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とあるわけですが、
ズラ。俺たちを偽る(騙す)ズラ。これ、許しがたくないですか?
ズラってだけで、「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」にはなりえない。
もうね、国民は「ズラなんちゃうか」「いや、ズラではない」「ひょっとしたら」と、疑心暗鬼になっちゃうんですよ、「日本国民統合の象徴」と言えなくなっちゃう。
今の天皇は西日本の京都にでも帰ってもらって、西日本帝国(ズラジャパン)でもやってもらって、
上皇と悠仁でこちら東日本は日本帝国(ズラじゃないジャパン)をやってもらおうか、とさえ思っちゃいますよ。クーデターの火種になりかねん。
いえね、もし、令和天皇が、お禿になっておいでで、禿散らかして(これ、表現としておかしいよね、禿てたら散らかってねえし)たとしても、
もうね、50を超えているんだから、多少は薄毛でも、つか禿でもいいわけよ。
「お父さんふさふさなのにね」
とか臣民に言われても、「いやーなんでっすかね」とか明るく笑って答える、そんな天皇になってほしい。