はてなキーワード: 愚かな者とは
今日は体調不良で仕事を休んだ。ゼプリオンという薬を月に一回打つが、打ってから一週間ぐらいは酷い眠気に襲われる。
さて、ヘルシープログラマーを読み終えたが、自分には実行できそうにないことがいくつか書かれている。
例えば「米国の運動能力の上位半分を目指そう」とか、「毎日記録を更新しよう」とかそういうやつである。
腕立て伏せを今日1回やるとしても、明日記録を塗り替えるには2回やらなければならない。1年で365回、無理な話である。
そもそも私は健康のために運動を取り入れたいのであり、マッチョマンになりたいわけでも、運動神経がスポーツ選手のように良くなりたいわけでもない。
そうすると必然的に運動プランは「早朝のランニング」「休憩時間のストレッチ(ポモドーロワークアウト)」「休日中の散歩」ぐらいに落ち着くだろう。
ちなみに本の末尾には「Ingressを使って散歩をしよう」というのもあったが、ポケモンGOと同じようにこの種のスマホゲームはダメな臭いがするのだ。実際、消費者庁でも注意喚起がされている。
運動も重要だが、栄養も重要である。ビタミンDの話が書かれていたが、サプリを買うか、あるいはビタミンD入りの牛乳を飲むようにしてもいいかもしれない。特濃というのが売っている。
頭痛と眼精疲労についての予防は実践する価値はあると思った。20分ごとに6mの距離のものを20秒見るようにするとか、水を適量飲むようにするとか、そういう話である。
個人的には、コーヒーにポリフェノールが多く含まれるという理由で積極的に摂取していたが、カフェインは頭痛の原因にもなるらしいので、飲みすぎは避けたい。
久しぶりに読書を一通りやってみた感想は、一人の著者が体系的にまとめた本というのは、インターネットであちらこちらを飛び回るよりも説得力を感じたということである。
愚かな者よりも優れているというのは称賛する程のことではない
最近、SNS断ちをしています。TwitterやFacebook、Bluesky、Mastodonなどを使わないようにしているのです。
それだけではなく、スマホにはブラウザさえ入れていません。これは、オフラインのアクティビティをもっと充実させた方が良いと思ったからです。
そしてSNSには舌の罪が付きまといます。もちろん匿名ダイアリーもそうですが、特に短文投稿型のマイクロブログは軽率な発言が増えてしまうのです。
箴言には舌の罪についていくつかの教訓があります。以下はその一部です・
1. 偽りを言う舌:主が憎むものとして「偽りを言う舌」が挙げられる。
2. 悪口を言う舌:「そしりを口に出す者は愚かな者である」と述べられている。
3. 制御できない舌:「言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある」と述べられる。
4. 乱暴な言葉:「優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける」と述べられる。
また、愚か者も何も言わなければ賢いと思われるとか、愚か者は理解よりも意見を発することを好むとも書かれています。
箴言の「愚か者」について学ぶたびに、完全に愚かさを排除した人は「精神的なスーパーマン」だとさえ思います。
ソロモン王自体が「しくじり先生」で、一時期忌み嫌われる偶像崇拝をしたらしいです。
よく日本人はアニメの中で神の存在を「白髭の生えた老人」を描きますが、そうやって神を特定の形として表すことが偶像化であり、罪なのです。
さて、SNSを使う際に舌の罪を犯さないためにはどうするべきでしょうか。
まず真実を言うべきです。情報や誤解を招く可能性のある情報を共有しないようにします。情報を共有する前に、その情報が正確であることを確認すべきです。
そして攻撃的または侮辱的な言葉遣いは避け、尊重と理解を示す言葉を選ぶべきです。他人のプライバシーを尊重し、許可なく個人的な情報を共有しないようにすることも重要です。
建設的なフィードバックを提供し、他人をサポートし、肯定的な会話を促進するべきです。フィードバックを得たら、自分の投稿が他人にどのような影響を与えるかを定期的に反省し、必要に応じて修正するべきでしょう。
といっても無理に発言する必要はありません。最も良いのは、発言をしないことなのです。
私も匿名ダイアリーで発言しなくてもいいように、紙の日記帳を買いました。それなのにこうやって発言してしまっているのは、まったくネット中毒というのは厄介だと思いますが、休日にしたいと思うアクティビティがまだ見つかっていないのです。
両親は私に「結婚しろ」と言いますが、本当に結婚をするべきでしょうか。統合失調症の私の遺伝子を残して、子供が苦労するだけではないでしょうか。
最近は英会話教室に行くのもやめてしまいました。節約のためです。
趣味のためにお金が必要であるという発想が嫌なのです。お金を使わずにできる趣味が、今の私には必要です。
そしてその趣味は、善悪という点から見て善の側である必要があります。オンラインで発信するというのは、どちらかと言えば悪の側だと思うわけです。
結局のとなころ、自殺は悪いことだという差別意識から取り除いていかなければ、安楽死合法化は反対されて終わるだろうな
諦めて死ぬより頑張って生きた方が正しいという価値観そのものを破壊しないと、いつまで経っても物言わぬ死者への冒涜と誹謗中傷は続く
人権だの自由だの言ってるがなんのことはない、所詮は社会にとって都合が悪いかどうかだけで自死という選択そのものを否定しているだけだ
なるほど、たしかにその結果が周囲にもたらす影響は大きいかもしれないが、それを理由にするならそれこそ愚行権の否定だろう
真に人間そのものに価値があると思うのならば、賢き者と愚かな者を分けぬように、生者と死者を分けずに扱うべきであり、死んだその瞬間から単なる無機物として扱うことに慣れすぎてんだよ
社会からの離脱者を徹底的に叩いて貶めて、口ではいくらでも寄り添うような言葉を吐いておきながら、最終的には社会維持のために、その想いそのものを根本から否定する方向にしか話を持っていかないのは欺瞞でしかない
下衆の勘ぐり。
ここ数年、世界を席巻している感染症に係るトピックはSNSから馬鹿とクズを面白いほど炙り出した。
医療に関わるデマが至る所から無限に湧き出し、それを鵜呑みにした間抜けが誠意ある医療者のアカウントを攻撃する。
どうして人はここまで醜くなれるのだろうか、と心から思う。
なぜ、YouTubeやらTwitterやらで見かけた出どころ不明の情報が真理であると思うのだろうか。
少し考えれば分かりそうなことであるが、彼らはこれがわからない。
情報源の取捨選択ができない者は総じて正しい情報源を見たとしてもそれを読み取ることができない。
愚かであるのなら、賢い人の決定に従うか、自らの愚かさを改めるかの二者択一だ。
そのどちらもせず、努力する賢者や聖人に噛みつき、己の愚鈍を認めることもできない。
そのくせに困ったときは媚びへつらい、保護されるべき弱者ヅラで、他者の苦痛を顧みない。
若さからくる未熟ならまだ許し甲斐があるが、このようなげに悍ましきジジイやババアがこの世界には掃いて捨てるほどいるのである。
薄々その存在は分かってはいたことだが、昨今の感染症騒ぎは彼らの存在を浮き彫りにした。
まさに下衆の勘ぐりだ。
愚かな者は賢い人の粗を探し、自らの不完全さと比べればあまりに瑣末なその綻びを得意げに指さしては悦にいる。
私は恐ろしい。
こんな人々を救うために、私は医療者になったのだろうか。
優しい人を害する悪意ある人の姿をした何かを助けるために、私は血反吐を吐く思いで勉強して大学を出たのだろうか。
人の醜さに触れるたび、私は毎回恐怖する。
世の中が良くなっていかないわけだ。
結婚5年目の34歳(夫婦同い年)一歳の子供がいる主婦だけど、3年くらい前から自分が浮気しそうで怖い、ヤバいと不安を抱えている。
浮気したら普通は離婚だろう、夫は1番信頼している人間で子供は愛している。家族が大切だ、離婚したくない。浮気はダメだ。しかも子供もいるから、子供にバレたら最悪だ。子供が可哀想すぎる。よって浮気をするなんて選択肢は無いのだ。ダメ、絶対、浮気。
頭ではそう思うのに、浮気しそうな自分がいて怖い。浮気したい理由は分かっている、性欲だ。単純な性欲にいつか負けそうな自分に怯えている愚かな者なのだ。クズめ。夫とはもう3年以上セックスレスで、子供も不妊治療で授かった。夫婦仲はすごく良いが、完全に家族であり、性欲の対象に見れなくなったのだ。
夫はいつも勤勉で優しく尊敬できる人間だけど、結婚してから「家ではありのままでいたい」とオナラを目の前でして、全裸で歩き回り、鼻毛を出したままにして、増えた白髪も面倒くさいと染めず、太っていった。口臭もきつい。正直異性として見れない。
そのことをまじめに直談判したことも何度もある。
下らなすぎるがこのままだと自分が浮気したくないがしそうで怖いから、もうちょっと気を遣って夫婦感でもロマンスを演出しようとお願いした、本気で頼んだ。でもそんなのいらないよ〜と断られてしまって、とりあってもらえない。これでは無理だ。勃つものもないが、こんなんじゃ勃たねーよ!という気持ちだ。夫が大切だ、夫と性欲が解消できるならそれが1番なのだ。でもこれじゃ無理だ。
結婚前のセクシーなセフレから連絡が5年ぶりにきた。このLINEをスルーすべきなのは心底分かっているが、私はいま揺れている。いやLINEを返信・即浮気するわけじゃ無いが、スルーしづらい理由は遠くにある下心なのだ。
浮気したくない、家族を壊したく無い。性欲に負けそうな自分が嫌だ、フルマラソンにでも取り組めば良いだろうか、性欲を無くす薬をくれ。神よ、増田よ、解決策を教えてくれ。
ホットエントリー入りしてるこの2つの記事についてるブコメの知性がかなりやばい。
https://www.asahi.com/articles/ASP6R56BLP6RUTIL044.html
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_60d1be9fe4b006d4620ce806
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どちらも「合憲と判断した裁判官には国民審査で✕をつける」というブコメが大量にあってスターも集めてる。
はっきり言ってこれに賛同してるのは思想や党派性に毒されて知性を失った愚かな者だよ。
彼らはあくまで「現行法に対して制度が適しているかどうか」を判断してるのであって、
国民審査を裁判官としての適正ではなく自分が気に入ることを言うかどうかで判断しようとしてるのわかってない。
こいつら「う〜ん、星1です!」のクソレビューワーと何ら変わらないじゃん。
疲労感を抱えた状態でベットに入った直後は強い快感を覚えるが、すぐにそれは取りすぎた睡眠による人生の浪費という不安によって覆される。
睡眠時間が少なすぎれば人生の効率が落ち、かといって多く取れば同じように落ちる。
最適なポイントを求めて悩めば不眠症へと誘い込まれ、気にせずに振り切ればふと振り返った瞬間に向けて過去が蓄積されていく。
生殖行為による心身の消費は強烈であり、強すぎる快感はたとえオナニーでさえ脳のホルモンバランスを急激にかき乱してくる。
逆に長期間快感から遠ざかるとそれもホルモンバランスを自ら破壊する行為となる。
肉体を自分の手で破壊することによってマゾヒズムに浸るだけの行為だ。
過剰な筋トレは心臓を破壊し寿命を縮め、関節を破壊して健康寿命も失わせる。
鏡ごしのナルシズムを求め今日も自分の人生をゴミに変えていく愚かな者達よ、人生を大事にしろ。
寝たほうがマシ。
絶対的に体に良い。
うんこは摂取した食物繊維と腸内バランスにより上限が決まっている。
ただ最低限度以上の食物繊維を摂取して、便意を我慢せずにトイレに行けばいいだけ。
それだけで肉体は健康へと近づく。
それは苦痛からの開放直後に脳内麻薬のお釣りを味わえるというだけでなく、肉体を浄化したという事実に対して本能が報酬系を刺激するからだ。
やがてうんこについての正しい知識が積み上がると今度は脳に宿る知性も正しい便通によってもたらされる効能を想像し報酬系へと電流が流れるようになる。
無駄な調理器具を買えば、何よりも「自炊しなきゃ…」という無駄な罪悪感まで背負うことになる。メンテナンスが必要になる。場所も必要になる。いいことはない。
炊飯器は買うな。箸も買うな。茶碗も鍋も買うな。ガスコンロも買うな。契約するな。場合によっては包丁すらもいらない。
毎日ピザを焼くことができる者だけが次のステージに進むことができる。和食はゲーム終盤にならないと解放されない高度スキルと心得ろ。
まずは黙ってピザを焼くんだ。
何を合わせても旨い小麦と、トマトソースと、チーズからなる。しかも特別な調理器具がいらない。オーブンだけだ。アルミホイルに載せて焼けば皿もいらない。
野菜も唸るほど食える。むしろトマトソースとチーズだけで「油欲」は満たされるので、特別に肉を乗せなくてもいい。カット野菜を適当に散らせばそれでいい。
「ピザ野郎」と言うとだいたいデブを想像するが、そうではない。単にピザを食い過ぎたやつがデブになっているだけだ。
自炊をピザに固定するメリットは計り知れない。先述したが、まずもって調理器具と食器を大幅に減らせる。そして調味料をガツンと減らせる。塩すらも必要なくなるからな。
必要なのはオーブン機能付きの電子レンジ(でかめ)と、アルミホイルと、冷蔵庫だ。冷凍庫が使いやすく、広いものを選べ。
中途半端に「両親が作ってくれていたいつもの食事」を再現しようとするやつは死んでいく。それが自炊戦争の現実だ。
両親が維持してくれていた毎日の食卓は、高度なスキルによって維持されている高等技術だ。お前にできるものではない。だからまずお前はピザを焼くんだ。
一人暮らしを始めて、無謀にも自炊を始めた愚かな者どものキッチンを見るがいい。そこには賞味期限の切れた調味料の山、山、そして山だ。結局料理するときに調味料も買ってくるというわけだ。そしてまた山が大きくなるというわけだな。
それに比べて…ピザ野郎はどうだ?ピザ生地を冷凍庫から取り出す。アルミホイルの上に置く。ピザソースをかける。チーズを唸るほどかける。カット野菜をばらまく。あとはオーブンに25分だ。
火加減など気にすることなく、ゲームでもなんでもやればいい。時間がたったらアルミホイルをそのまま持ってきて食べる。旨い。確かな満足。
いつまでも「自炊しなきゃな…」とか言っている罪悪感君には至れない至高の高みにピザ野郎はいるというわけだ。
ついついピザ野郎と言ってしまったが、女性にもピザはお勧めだ(アメリカ調べ)。
いやまぁ、ネタではない。
単純に炭水化物と、食事の総量で太るか否かは変わる。市販の冷凍ピザ生地一枚じゃ食い過ぎなんじゃないかと思うなら、それを半分に割って、半分だけで作ればいい。カロリー調節は自由自在だ。
さらに極みを目指すなら、全粒粉を使って自分で作ればいい。5分もかからない。それで確かなダイエットができる。マジだぜ。
さて、ここまで読んで何か言いたげな顔をしている非ピザにはもう少し説明を加えよう。
諸君らの考えはよくわかる。食事のバランスが、だとか脂質が、とかアメリカ人の体系を見てみろ、とか言い出すわけだろう。わかっている。
ぶっちゃけ脂質は大した問題ではない。脂質は取れ。炭水化物も取れ。ただし炭水化物の撮り過ぎは良くないので、適宜ピザ生地を半分にするとか、潔くピザ生地半分食わないとか、全粒粉で自作するなりいくらでもやりようはある。
そして、野菜はカット野菜や冷凍ブロッコリーなどで唸るほど食える。確実に毎日牛丼よりは健康だ。確実にな。
それに米は極めて面倒くさい。例えば米を炊くとしよう。もう考えるだけでうんざりだな。米を炊いて食い終わるまでにどれほどのステップが必要だ?
重い米を買ってきて容器に移しておいて、そこから米を計量し、研いで、水入れて、炊飯器にセット、50分後に炊けて、茶碗によそって、食って、茶碗と箸を洗って、余った米は冷凍して、釜も洗う。
しかも炊飯器と食器を置くスペースまで必要だ!おお、神よ!ピザならぬ身をお赦しください!ピザならこんな懲罰は必要ないというのに。何が楽しくて現世で懲罰を受けるのか。ピザを焼けば解決するのにな。
自炊をするにしても、段階と言うものがある。「毎日ピザを焼く」というミッションを楽しく完遂できたら、そのうち本格的に自炊もしたくなってくるというものだ。
いきなり和食を自炊しようとしてホコリまみれの調味料マンになるか、毎日熱いピザを食べて心身ともに充実しきったピザ野郎になるか。答えは一つ。ピザを焼くんだ。
脂質教徒にはもはや何も言うことはない。そういう輩に限って、オリーブオイルジュワッジュワのパスタとか食ってるんだよな。自作ピザ野郎の油はチーズのものだけだ。目に見える固形の油を扱うピザ野郎のほうが油に自覚的だ。もこみちはオリーブオイルを使いまくるのを自覚している。自覚する者こそが強者。脂質教徒も今日からピザを焼くんだ。
アメリカ人が太っているのはハンバーガーとホットドッグと清涼飲料水のせいなのでピザは関係ない。
…とはさすがに言い切れないが…
これも先述したが、要するに量だ。それに日本人はアメリカ人みたいに太る前に糖尿病になって痩せていくから、アメリカ人のようにはならないからな。冗談だが。
しかしピザが太るという言説の意味が分からんな。炭水化物と脂質は3大栄養素だ。それを合わせて食って何かいけないことがあるのか?要するに量だ。カロリー神話は捨てろ。量だ。
カロリーとかPFCバランスとか、まぁピーピーと吠えよるわというところだな。糖質制限?笑わせるぜ。ピザを焼け。
ピザ野郎なら当然気づいてると思うが、自宅ピザはダイエットに最適だ。
まず、食べる炭水化物の量を自分で選べる。ごはんのように作り過ぎて冷凍などと言う手間はない。食べる分だけ切って使えばいい。ピザは円形でなければならんとか言う心の中の原理主義は殺せ。
さらに先にも言ったが全粒粉でいくらでも調節できる。チーズの量も自在だな。カット野菜も自由自在だ。多少量が多すぎてピザ生地が生焼けでも気にすることはないからな。
また、ピザを焼くまで25分かかるので、「もっと食いたい」と思っても食えるのは25分後になる。そのころには満腹中枢が働く。
焼いた肉さえあれば無限に食えてしまう米とは違う。ピザは己を律するシステムでもあるのだ。もうこれでわかったな?ピザを今から焼くんだ。
「そうはいっても、ピザしか食わないって人間としてどうなの」という人もいるだろう。残念ながらな。アメリカなら人権を失う発言だから気を付けるんだ。
そもそも「ピザを食え」と言っているわけで、「ピザ以外を食うな」と言っているわけではないことに注意してほしい。
ピザ以外を食いたければ外食するんだ。それで全部解決だ。無駄な食材と調味料、調理器具は家に持ち込んではいけない。
生ものを買うと、それは負債になる。賞味期限以内に食べなきゃいけないという恐るべき呪いに自らかかりに行っているということだ。
まぁ、ピザに乗せて焼ければ別にいいんだが、妙な気を起こしてオシャレな調味料とか買いこんじゃったら大変なことになるぞ。
「自炊しなきゃいけないけど、できない…」という呪いが何を引き起こすか教えよう。
まず、罪悪感からその買いこんだ調味料をあまり見ないようになるな。そうすると当然賞味期限は切れるんだが、まぁここまでは良い。
罪悪感を嫌って調味料の置いてある場所を見なくなるから、掃除もしなくなるな。するとホコリ、ダニ、フケ、皮膚、髪の毛がうじゃらうじゃらと混じったざらざらしたきったねぇホコリが溜まりまくる。キッチンの床に飛び散った油がそれらを強力に粘着する。
とすれば結果は一つだ。その素晴らしいごちそうを目当てにG先生が雲霞のごとく押し寄せるというわけだ。
それはすなわち、君の死を意味する。
そう覚えておこう。
ピザならそんなことにはならない。すべてが冷蔵庫とオーブンの中で完結する。掃除も楽ちんだ。
もうわかったね?ピザを焼くんだ。
ここまで読んだら、さしものバランス原理主義者や脂質教徒などのカルト野郎も押し黙る頃だろう。
とはいえ、単純だ。
まず引っ越しに当たり、どの調理器具を買うのかはもうわかったろう。電子レンジ付きオーブンと冷凍庫広めの冷蔵庫だ。むしろ冷蔵庫は一人暮らしに不釣り合いなデカさでいいと思う。
ピザを作るために買い物も単純だ。
このピザ生活の利点は、買うべきものがはっきりとしているので、ディスカウントや通販を使ってどんどん安く済ませられるようになるのもポイントだ。
最初は全部買え。そしてピザを焼け。当然旨い。すると自信がみなぎってくる。
よし、じゃあ次はもっと安いのを狙うか…とか、まとめ買いして原価を抑えるか…とか、ピザ生地くらいは自作するか…とか、野菜くらいは切るか…とか、どんどん正しい方向へ進む自分に驚くはずだ。
基本をピザに置くことで、秩序を持った料理の拡張が行えるようになる。どうしてもうどんが食いたければうどんを生地にしてピザを焼くとか、可能性は無限だ。
包丁や皿は必要な時に、テンションの上がるものを最小量揃えること。使わないな、と思ったら即捨てて基本のピザを焼こう。
自分にとっての確かな土台があるということは何よりも大きな自信になるはずだ。
一人暮らしが寂しいときも、恋人を部屋に入れたときも、別れて悲しいときも、金がなくてやべぇ時も、ピザを焼いている自分に気づくはずだ。
寂しさをペットで癒そうとする者もいる。心の傷を酒で埋めようとする者もいる。しかし、結局立ち返るのはピザだ。アメリカ人もそうしている。俺もそうしている。お前もそうなる。ピザを焼け。
家飲みで友達が集まってきたとき、とりあえずピザを焼く君は強い。冷蔵庫には野菜以外入れておくことがないから、飲み物やお菓子をたくさん入れて置ける。それも強い。
友達が買ってきたつまみをピザの具にするのもいいだろう。それは実に強い。
男女関係なく、「すげぇ、なんかピザが出てきたぞ!」と盛り上がる。ピザというのはそういうものだ。
クソな社会がお前を貶めるとき、人は神とピザを求めるものだ。聖書にもそう書いてある。
ヨハネによる福音書6章33節「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」
これがピザだ。求むればすなわち得ざらしめん。人々はイエスにピザを願った。そういうことだ。残念ながらな。
ところでピザの具は基本何でもいいが、ひき肉とかの油めっちゃ出る奴はやめておいた方がいい。油があふれてオーブンがひどいことになる。忘れたころにやっちゃうんだよな。
まぁ、ひどいことになるのはオーブンだけだから、掃除も楽だけどな。
あと、全粒粉とかでピザ生地作ろうって時、たいていはまずレシピを見ると思うが…世のピザ生地のレシピはクッソ面倒すぎてピザ野郎を殺しにかかっているとしか思えない。
全粒粉と強力粉と薄力粉を混ぜて、イースト、砂糖、塩、バター…自殺しろと言っているようにしか聞こえない。
なので、面倒なら全粒粉に水入れてコネてそれっぽく成型しただけで充分だ。チーズとトマトが君を助けてくれる。無残な味にはならないから安心してくれ。
それでも思考のピザを求めるのなら、俺は止めない。大いにやってくれ。極めたとしても、調味料や材料が冷蔵庫をひっ迫することにならないからな。
あと、ピザ生活が板についてきたら業務用スーパーなどで冷凍カット野菜を扱っているところが近くにないか探っておこう。通販は段ボールが溜まるから困りものだからな。ゴミが溜まるとそこにホコリが溜まり…あとはわかるな?
俺はピザのために引っ越して、ホテルなどに卸している業務食品専門店の近くに移り住んだ。快適すぎて異常なくらいだ。
長々と書いてきたが、まぁ、ピザを焼こうぜ。体を大切にな。いつか両親が作ってくれたような温かい食卓を築ければいいよな。がんばってくれ。
@suzukiyuusuke3
今日までアニメはある種の人々(一般にオタクと呼ばれる)の信仰対象になっていた。それは新興宗教だった。以前、あるアニメをみろとそういう人達に奨められ、なんとか苦労して全話みてみた上で、おもに美術の批評言語を使って率直に批評したところ、その種の狂信者から大変しつこく誹謗中傷された。
それで私は気づいた。アニメは或る一部の人々にとっての正真正銘の宗教なのだと。信者の中に批評言語は持ち込まれない慣行になっている。だから私がちょっとしたきっかけ(アマゾンプライムビデオに入ってみた)で一時的にひきずりこまれたその業界中では、同調か全拒否どちらかしかできないのだった。
アニメは手塚治虫やディズニー辺りから流行しだした新たな映画の形式といえるだろうが、その商業芸術が主な客にしているのは一般大衆の中でも子供や、特に幼稚な大人達である。宮崎駿でさえ子供向けを前提にしていたから、総じて知的障害に近い社会不適合者を大勢ひきつける結果になるのは必然だった。
私が何とか苦労してあるアニメを全編みてみたのは、そのアニメのファンがネット上で制作陣を執拗に脅迫していたのを知っていたからだ。アニオタによる猟奇的事件を引き起こしている作品とは何かを確かめてみたのだ。結果はひたすら幼稚な中身で、反社会的な知的障害ボーダー層を煽っていたのだった。
京アニの作品は1度もみたことがないから中身については何もいえないのだが、昨今アニメをとりまく状況は嘗てのものとは全然様変わりしている。それは上述のよう反社会的で精神遅滞に近い人々が大勢、新興宗教として崇める対象になっているという点で、過去のアニメ界とはまるで質が違うのである。
アップルCEOのティムクック氏が京アニに同情の様なツイートをしていて私はこの事件について知ったのだが、彼はアイフォンの主要な顧客層である日本人全体の中でも、京都に新たな店舗を設置したところなどから、現代アニメ界をとりまく社会病理をまったく無視して単なるテロとして扱っていると思う。
他の大衆娯楽、たとえば(これも京都に本社がある任天堂に縁が深いが)テレビゲームとか、映画とか、漫画、小説みたいなものとアニメが「サブカルチャー」として近い位置づけにあるのは確かだが、現時点のアニメはほぼ深夜テレビなどで提供される無料の娯楽で、いってみれば下流の慰み物なのである。
村上隆氏はアニメの無教養(Lowbrow)な性質を、知的な文脈操作で欧米美術史に皮肉な位置づけで乗せることで有名になった。端的にいうとアメリカのポップアーティストが漫画に素材をとったのを日本ネタで流用したのだが、一時的に彼の援護的唱道者だった東浩紀氏らも、アニメに公民権を与えた原因だ。
なにがいいたいか。日本政府が麻生大臣や、東氏に親しい猪瀬都知事が在籍していた時期に、クールブリタニアを表層的に猿真似した文化政策であるクールジャパンでアニメにお墨つきを与えたのは、間接的に東京圏のスーパーフラッターが影響している。要はアニメの暗黒面は意図的に無視されていたのだ。
アニメは「わかりやすく」「子供に愛されており」「みなが大好きな」「誰にとっても望ましい」「外国人にも大人気で」「日本文化の象徴」といった凄まじい厚化粧で美化されてしまった。背後には労働集約的手描きの不合理な制作、過酷な長時間労働の地獄があり、知的ボーダーの客層による退廃があった。
たとえば同人誌という分類がある。二次創作という名目でアニメキャラに、変態性欲の性行為をさせる独自制作の漫画・アニメ作品を販売するとんでもない退廃主義的世界が、東京コミックマーケットを中心に勃興していた。石原都知事の時代には一部は18禁化されたが、堂々と非実在児童の性を含んでいる。
美術史の中ではバルテュスを筆頭に、その種の児童性愛の表現や、ギリシア美術とか江戸の春画などに由来した変態性欲的なエロス表現は多かれ少なかれ容認されている。つまり同人誌もサブカルの派生物として、未来では昭和~平成・令和期の主に東京での大衆芸術の姿と歴史化されてはいるだろう。
京都は中世、「上方」と称し、大衆蔑視の高踏的な文化傾向を自認していた。が上述の任天堂や今回被害にあった京アニはそうではない。京都府民の一部は東京文化を自らとりこみ、多かれ少なかれ低俗な大衆芸術を販売しはじめた。これは質的変容でもあるし、アニオタによる炎上事件の伏線にもなっている。
サブカルなるものは低俗で無教養な一般大衆を相手に客商売するところに発生した。しかもアニメは単なる売り上げの為ますます「大衆の中で最も愚かな者」を最大公約数の客層にしようと幼児退行じみた卑俗化を極めていった。その極点に起きたのが某アニメ制作陣への脅迫事件や今回のガチ炎上事件なのだ。
今日、アニオタと呼ばれる人々には、おそらく東京のキー局によるテレビのニュースでコメンテーターが訳知り顔でいいそうな「犯罪者予備軍」といった客層が確かに含まれている。それは例えば高IQな知識人とかハイカルチャーの客層(日本ではほぼ絶滅しているが)に比べてより多めに含まれているだろう。
なぜなら、上に述べたとおり、東京や京都のアニメなるものは金儲けを目的に、できるだけ量的に俗受けする為、どんどんと卑近な表現に自らを変質させていったからだ。要は、下流相手に客商売しているので、当然ながら犯罪者や反社会的な知的ボーダーの部類もアニメファンには含まれてしまうことになる。
なぜ彼ら下流的な知的ボーダー層に昨今のアニメが宗教とみなされているかだが、私のみたかぎり、彼らは知識社会に全然ついていけていない。当然ながら幼稚極まりない娯楽作品しか理解できない。資本主義の手順に従い広告費やグッズ販売などを目的に次々流される深夜アニメが彼らのたまり場なのだ。
ニコニコ動画は、今では国際レベルでビリビリ動画にお株を奪われたが、嘗ても今もこのアニオタ層と極めて親近していた。2chねらーを誘引した西村博之氏らが匿名コメント機能をつけたので、名誉どころか恥も外聞もない反社会的犯罪者との境界例にとって極めて居心地のよい居場所になったからだった。
もう一つ、注目すべき事件があった。悠仁親王をアニメ『エヴァンゲリオン』内で引用された、ロンギヌスの槍とほぼ同じピンク色に塗った二股の刃物で、或る被疑者が脅迫した事件だ。この槍は神学上、磔刑後のイエスを突いて聖性を否定した遺物とされており、王権神授説の否定を意識した事件だったろう。
アニメオタクはそもそもが、虚構を現実と多かれ少なかれ混同し易い脳の性質の持ち主が大半であろう。さもなくば作り話にいつまでも夢中になるわけもない。いわゆる偶像崇拝の禁忌という私徳が弱い人達といいかえてもいい。この点では、ポケモンGO等を禁止した一部のイスラム法学者は正見を述べている。
そして虚構と現実を混同し易い脳は、一般に子供の時点でそうなり易いのが経験的に明らかなかぎり、いわゆる精神年齢の低い人々により多くみられるはずだ。つまりアニオタは単に批評言語が拙いだけではなく、アニメ内で表現された思想を宗教的に鵜呑みにしがちで、かつ知的ボーターも相当混じっている。
識から、多かれ少なかれ類似の退廃がみられる他のサブカル(例えば小説とかも)含め、一切近づかないことにした。その内部にいる人々は特定の宗教信者とほぼ類似のエコーチェンバー(残響室)内にいると自覚し、サブカル批判を進んで行うのが賢明だ。
https://twitter.com/suzukiyuusuke3/status/1151922241971478528
2019/07/19
情報が賢い者からそうでないものに流る時代ではなく、現代は愚かな者が欲しがる情報を作り出す時代である。
雑誌やアフィサイトに作成に携われば、そのテクニックは誰でも身につけられる。
簡単に儲かる仕事、都合のいい恋人が見つかる物語、作られた夢、難病が治る魔法、利己的な人を肯定する思想。
俺たちはそれを垂れ流してやり、金を得る。
でも、人類の将来に必要であろう治安の持続を考えれば、これらは毒にしかならないのも知ってる。
グレーな仕事をしてきた同僚も、家族を持ってからかなり丸くなった。
自分の周りのことだけを考えるだけではダメだという危機感を俺に語るようになった。
だが、俺もその言葉に納得するようになってきた。
進歩の無い安定は、海辺で砂の城を作り続けるような人生に思えてくる。
守る者ができ、その安全について考えていくと、やはり(みせかけだけでも)利他性が重要だと経験で学んだのも大きいだろう。
町の安全を守っていた同級生が、俺の羽振りのよさにバカバカしくなって仕事を辞めてトラブルを起こしたり、
超大手に入った優秀だったやつが、冴えなかったコンプレックスを爆発させて今では工場で働いていたりする。
最近ではその毒牙にかかった連中を見るたびに後ろ暗い気分になる。
お受験のために着飾るオバサン、奇抜な格好をして闊歩するにいちゃん、ネットで自分の信じたいモノだけを検索するオッサン。
毒に冒されたままだといつか回り回って自分以外のものも滅しちゃうぞ、と。
俺も歳とったなあ。
このお話はたぶんフィクションです。実在の個人や企業とはあんまり関係ありません。そういうことにしろください。
10年前、20代になったばかりの頃の僕は、今思えば本当に最低な生活を送っていた。高校を中退し、実家とは疎遠で、友達もなく、金もなく、夢も希望もなく、ただバイト先と自宅を行き来するだけの毎日。いつも視界には霞がかかったようで、底の見えない空虚さだけが僕の心を支配していた。
それでも趣味らしいものはあった。オンボロマシンにRedHatを入れ、ダイヤルアップの細い回線で自宅サーバを立て、Perlでガラクタのようなプログラムを動かす。そんな子供じみた遊びだけど、プログラムを組んでいるときだけは空虚さを忘れ、画面の中に没頭できた。
ただ、そのときの僕はもうすでにいろんなものに打ちのめされていて、若者にありがちな全能感などというものは霧散していた。自分がプログラミングで何かを成すだとか、それを仕事にしようなんてことは一切頭になかった。このまま夢も希望もなく人生を終えるのだと、そう思っていた。
それでも転機は訪れる。
勤めていた工場で派遣切りにあった僕は、「働きたくないでござる! 絶対に働きたくないでござる!」とか言いながらニート生活をしていた。そろそろ翌月の家賃も払えなくなってきたころ、派遣会社から電話がかかってきた。「プログラム開発の仕事があるんですがやりませんか?」と。そういや履歴書だかスキルシートだかに、Perlがどうたらとか書いたっけ。実務経験もない中卒に仕事まわすとかwww ……とは思ったものの、このままでは本気でホームレス一直線だったので引き受けた。
派遣された先は従業員数10人くらい、パートさん含めても50人くらいの小さな会社だった。現在手書きの伝票でやっている処理をWeb化したいのだという。システム担当者はおらず、事務員さんがExcelやAccessを使える程度。すべて僕一人でやらなければならない。マジか。
ともあれ、まずはサーバである。後々の運用を考えるとLinux系は使えない。事務所の片隅に放置されていたWindows 2000マシンにApacheを入れてそれでよしとした。
次はデータベース。でもこの頃の僕は「正規化ってなんれすか?」というレベルだったので基礎から勉強した。なんかMySQLってのがいいらしい→社長に申請→「今Access使ってるからそれでいけ」→「はい」→パフォーマンスの面で問題出るだろうなとは思ったがしょうがない。
次は言語。最初はPerlで書こうと思ってたけど、PHPってのが流行ってるらしいのでこっちにした。ウホッ! いい言語……。
そして業務内容を把握するため、現場をあっちこっち駆けずり回りながらヒアリングする。ときには部長から愚痴を聞かされ、ときにはパートのおばちゃんから誘惑され、そんなこんなを繰り返し、仕様をつめていく。
そして数ヶ月かけて開発したシステムの稼働である。そのときのことは今でも忘れない。
現場の人がラインからデータを入力する。サーバにデータが送られてくる。別の事業所からも送信されてきてる。問題ない。事務員さんが伝票処理を行う。問題ない。すげえ、ちゃんと動いてる。お遊びで作ったプログラムではなく、本当に本気の業務用プログラムである。それを僕が1人で作ったのだ。このプログラムで業務がまわり、利益を生み出すのだ。社会に対して、何らかの作用を及ぼすのだ。僕みたいなクズにでも、そんなことが可能だったのだ。
そのことに気付いたときの感動を、僕は今でも忘れない。
それからちょっといろいろあって、ホームレスになった。うん、急展開なのはわかってる。でもこの間のことは語ってもあまり面白くないし、公序良俗に反する話もあるのでざっくりはしょる。どうせフィションなんだから細かいことを気にしてはいけない。
話を戻そう。
ホームレスになってからの数日はひどい精神状態だった。足元から世界が崩れていく感覚。視界がぐにゃりと歪む。帰りたい。でも帰る家がない。だからホームレスというのか……というトートロジーを何度繰り返しただろうか。
もうあまり覚えていないけど、このときの僕は本当にもう何もかもどうでもよくなってたと思う。ただ、自分の全財産がバッグ1つしかないということに対する心地よさ、開放感があったのはよく覚えてる。そんな状況で地べたに座り込んで見る風景。きっと、今はもう見えない。あの頃の僕にしか見えない風景が、そこにはあった。
いろんな人と出会い、流れ流れて、最終的に西成のあいりん地区にたどり着いた。関西圏の人には説明不要かもしれないけど、よく言えば日雇い労働者の街、ぶっちゃけて言えばホームレスのメッカである。今はもう綺麗になってしまったし、治安もそこそこよくなったけど、僕がいた頃はまさに「カオス」としか表現のしようがない状況だった。
どこから持ってきたんだといいたくなるようなガラクタばかりを並べた泥棒市。簡素な骨組みにビニールシートをかぶせただけの飲み屋。「ないかーないかー」と声が聞こえてきたので見てみると、警察署の近くなのに道端で堂々と丁半博打をやっている。コンビニのトイレの張り紙には「トイレが詰まる原因になるので注射器を捨てないでください」とある。いやトイレが詰まるとかの前に気にすることがあるだろ。ケンカなんて日常茶飯事。頭から血を流したおっさんが普通に歩いてる。数百人規模で並ぶ三角公園の炊き出しは圧巻。四角公園の炊き出しでは誰もいない場所にワンカップの瓶とかがたくさん並んでる。何かと思って聞いてみたら「あれで並んどることになってん」と返ってくる。学食の席取りルールみたいだ。ああもう全然書ききれない。
でも一番印象に残っているのは、南海線の高架下、うず高く積まれたゴミ山の前でガラクタを解体していたおっちゃんのこと。奇声を発しながらハンマーを振り下ろしていたおっちゃん。その両目は、これ以上ないほどにキラキラと輝いていた。その鉄屑を売った金でビールが何本買えるか皮算用でもしているのか、あるいは幸せになる魔法の薬でもキメているのか、そのときの僕にはわからなかったけど。
そして、人生を投げ出していた僕に付き合ってくれたおっちゃん、あなたのことも忘れません。モーニングをおごってくれて、いろんな話をしてくれて、聞いてくれて、役所の福祉課まで連れて行ってくれたおっちゃん。あなたがいなければ、僕は今でも西成でぬるま湯の日々を送っていたかもしれない。
いろんな人に助けられて、ホームレスの施設に入ることになった。舞洲という人工島にあるのだけど、これがまた周囲に何もないのだ。スポーツ関連施設、ゴミ処理場、物流センターが点在するくらい。コンビニ1件ありゃしない。だけど施設での生活は意外にも楽しかった。2段ベッドが6つ並んだ12人部屋。むさくるしいけど、みんなバラエティに富んでいた。刑務所上がりのいかついおっちゃん、虚言癖のひどいおっちゃん、ほとんど一日中寝てるじいちゃん、薬のフラッシュバックがひどい兄ちゃん。そんな人達の中で過ごせば、自分がどれほどクズであっても気にならない。やはり僕はこちら側の人間だと再認識した。
市街地にある施設へ移ってからはいろんな仕事をした。生駒の山奥にドブさらいに行ったり、事務所移転のバイトで腰をやってしまいそうになったり、なんやかんやあったけど、長くなるのではしょろう。結局のところ、またプログラマをすることになるのである。
そろそろ身バレしそうな領域に入ってきたのでここでもう一度強調する。このお話はたぶんフィクションです! たぶんフィクションです! 大事なことなので2回言いました。
そう、またプログラマとして働くことになった。今度は従業員数300人くらいの大きな会社である。日本人なら誰でも知ってるであろう大企業の子会社ということもあり、本社からの出向社員は東大京大卒当たり前みたいな状況。そんな人達の前で中卒の僕が前に座ってプレゼンやら仕様検討会やらをするのだ。何の罰ゲームだよ……。
最初に思ったのは、「ここにいる人達は育ちがいい」ということだった。みんな礼儀正しい。喋り方や立ち居振る舞いまで、今まで僕がいた世界とは何もかもが違っていた。まるでドラマに出てくるような「ちゃんとした人生を送っている人達」だ。そんな人達に囲まれていると、「生きていてごめんなさい」と言いたくなる。本当に。
他に驚いたこと。社内で連絡を取り合うのにメール使ってる。やばい。社内メーリングリストとかもある。やばい。定期的にミーティングとか勉強会とかもする。なにそれ怖い。自分がいっぱしの社会人になったかのような錯覚に陥る。ちょっと前まで西成でゴミ拾いのバイトしてたのに。「勘違いするんじゃない! 西成の日々を思い出せ!」と何度も自分に言い聞かせ、自我を保った。
とはいえ、萎縮してばかりもいられない。気付いたことはどんどん提案した。あちこちに散らばっている共通の処理をライブラリ化したり、サーバで負荷がかかっている部分を改善したり。却下されたものも多かったけど、採用されたものもそれなりにあった。業務の改善案を考えるのは楽しい。誰かがプログラマの三大美徳に「無精」を上げていたっけ。極度のめんどくさがりで、楽をするための苦労は惜しまない僕には、こういう仕事は天職なのかもしれない。
システム開発の方も順調に進んでいた。この頃はMicrosoftですらWeb版のOfficeを出すような状況で、デスクトップアプリに比べても遜色ないレベルのWebアプリがどんどん出てきていた。この会社で開発しているのも、そんなAjax技術を多用したWebアプリだ。JavaScriptを用いた本格的な開発に最初はとまどったけど、書けば書くほど言語が自分の手に馴染んだ。クロージャ、prototypeといった基礎をちゃんと学ぶと、書けるコードのレベルが段違いに上がっていくのが楽しかった。
仕様にもこだわった。実際に使う人がどんなふうに操作するのか、何度も何度も脳内でシミュレートし、どんなUIが最適なのか、データ構造はどうするべきか考え、実行速度とメンテナンス性の板挟みに苦しみ、何度も何度もリファクタリングを繰り返す。
そのとき開発していたシステムは、メイン画面でほとんどの処理を行うタイプのものだったのだけど、そのメイン画面のJavaScriptコードは最終的に1万行を超えた。もうこの頃にはJavaScriptでのオブジェクト指向的な開発手法というものも自分なりに構築されつつあった。そしてこのカチャカチャとした手触りの、安物のオモチャのような言語は、僕の一番好きな言語になったのだった。
そんなある日、僕が作ったシステムのメインユーザーである他部署の偉い人が来て、開口一番こう言った。
この機能が素晴らしい、とか、あの発想はなかったわ、とか、とにかくべた褒めして、そして去っていった。機能追加要望の前口上だと思って身構えていた僕は拍子抜けした。「あの人が他人を褒めることなんてめったにないよ、すごいね」と近くの席の人が言う。
どこにもはまることのない歪な歯車。その僕が、社会という大きな機械の中に組み込まれる音だったのだと思う。まあすぐに外れてしまうのだけど。その一瞬だけは、僕は確かに社会の一部になれたのだ。
これからどうするか? 今の技術力ならそれなりのところに就職できるかもしれない。でも僕にはやってみたいことがあった。半年かけて海外を旅するのだ。
今、僕の手元にはまとまったお金がある。こんなのは人生で初めてのことだ。そして僕は今、どこにも所属していない。どんなところに行ったっていいし、何をしたっていい。この先、そんな状況がどれだけあるだろうか? 人生長いのだ、そりゃあ何度だってあるかもしれない。でも今回やりたいことをやらなかったのなら、僕はきっと何度だってやらずにいるままだろう。
もちろん怖くなかったわけじゃない。なにせ海外なんて行ったことがなかったのだ。ずっと極貧の生活をしてきた僕は、国内旅行だって満足にしたことがない。
いろいろと考えた。ない頭を使って考えた。自分の英語は通じる? 病気になったときは? 荷物をなくしたら? あれこれ考えると心配事ばかりが頭をめぐって、わけがわからなくなる。
最終的に決定打になったのは、自分が何も持っていないという、この状況だった。
そう、僕は何も持っていない。家族も友達も、夢も希望も。だけど、そんな人間だからこそできることがあるんじゃないかと思ったのだ。何も持たないからこそ、どこにだって行けるし、何にだってなれる。それはタロットカードの「愚者」みたいなものだ。愚かな者は恐れも何も知らぬからこそ、無限の可能性を秘めている。
心を決めたら後は早かった。
パスポートを取得した。航空券を手配した。住民票を海外転出した。トランクルームを借りた。住んでいた部屋を引き払った。
空港へ向かう電車の中で、懐かしい感覚に襲われた。あの日、ホームレスになったばかりのころの感覚。世界が足元から崩れていく感覚。でもあのときとは決定的に違うことがあった。それは、今回は自分が望んでこうなったのだということ。流されるまま生きてきた僕が、初めて自分の人生に対して主導権を得た。それだけが決定的に違っていた。それだけで十分だった。足の震えは、これからの旅路への、期待に対する震えなのだった。
自分とは異なる人種、異なる言語。街の看板すらまともに読めない。レストランの注文すらおぼつかない。ちょっと電車に乗るのも大仕事だ。それでも時間をかけてひとつひとつなんとかしていった。
見知らぬ街の匂い、喧騒、バケツをひっくり返したようなスコール、旅の中で出会う怪しい人、優しい人。僕の前でたくさんの風景が流れていく。
川辺のレストランで昼ご飯を食べた後ボケーッとしていると、猫が膝の上に乗ってくる。動くのもめんどくさくてボケーッとしてたら日が暮れてた。そのまま猫と一緒に晩ご飯を食べた。そんな日もあった。
長距離列車に乗っていたとき、車内食にピーナッツバターのようなものが付いていたので、普通にパンに塗って食べた。でも梅干的なものだったらしく、めちゃくちゃ酸っぱかった。「すっぱ! すっぱ!」とかやってたら向かいの席の女の子が爆笑していた。僕も笑った。そんな日もあった。
最初は少し移動するのにも大変な思いをした。でもいつの間にか、ローカルバスに乗って気ままに旅するようになっていた。
たどたどしかった英語も、日常会話程度なら普通に喋れるようになっていた。
いろんな国のバックパッカーにもたくさん出会った。お互いつたない英語でやりとりするのも楽しかった。今度は彼らの国にも行ってみよう。だからいつか世界一周に出ようと、僕は心に決めた。
こんな旅に出たところで自分は何一つ変わらないと思ってた。でも、何かが変わってきている。それが何なのかはわからない。たとえば図太さだったり、適当さだったり、そういうのもあるのだけど、何か違う。それよりもっとプリミティブなもの。感情になる前の感情、行動になる前の行動。マグマのような熱量を持ったドロドロとしたものが、自分の中に渦巻いているのを感じる。それがいつ形を成すのかはわからない、今はまだ。だけどいつかどこかで、忘れた頃にひょっこり出てくるんじゃないかと思う。そのときを楽しみにしていよう。
そして夢のような日々は終わる。
日本に帰ってきたとき、手持ちの金は10万以下だった。部屋は解約していたので住むところもなかった。普通にホームレスだった。僕は焦らず慌てず、西成へ向かった。
しばらくはドヤ(安宿)に泊まった。一番安いところなら500円から泊まれる。西成はいいところだ。
前の会社から戻ってこないかと誘われたけど、「働きたくないでござる! 絶対に働きたくないでござる!」と言って断った。
いや働きたくなかったのは本当だけど、もう1つ理由があった。職業訓練で組み込み系を学ぼうと思っていたのだ。
スマートフォン含むタブレット端末の市場がこれからも拡大していくのは間違いない。そうすると必要になってくるのは組み込み系の知識。いやアプリ作るだけなら必要ないかもしれないが、そういった知識があれば、自分ができることの幅がぐんと広がると思う。
それに、今の僕には基礎的な力が圧倒的に足りない。すべてを独学で、我流でやってきたけど、やはり限界を感じる場面が多々あった。だから今回ちゃんと体系的に学んで、足元を固めようと思ったのだ。
結果的には正解だったと思う。本当に基礎の基礎から学べた。
ブレッドボードを用いて回路を組むところから始まって、アセンブラ、C言語、組み込みLinuxでのデバイスドライバ開発、アプリ開発。これまで高級言語の十分に進化しきった部分にしか触れてこなかった僕にとっては、どれも難しかったけど、どれも面白かった。これからどういう道に進むかまだわからないけど、ここで学んだことは絶対に無駄にならないと思う。
そうして職訓で勉強するかたわら、悶々と考えていたことがある。世界一周についてだ。
今はまだ金もないし、そんな金を稼げるあてもないのだけど、いつか(たぶん10年後くらいには)行こうと本気で思っている。
ルートだけでも今から考えておこうと思って、いろいろと旅程検討アプリを試してみたのだけど、どれもいまいち使い勝手が悪い。海外のものも含めて探しまくったけど、自分が思うようなものは見つからなかった。
だったらもう自分で作るしかない。せっかくだから就活のときにポートフォリオとして使えるよう、ちゃんとしたWebアプリを作ることにした。
最初の1ヶ月は地図APIの選定と、検証コードを書き捨てるだけで終わった。
2ヶ月目は基礎部分の構築だけで終わった。
3ヶ月目に本気を出し、ほぼできあがった。
そしてベータ版をリリースした。 http://planetter.com/
それが先週の話。
だからこのお話はここで終わりだ。正確に言うなら、ここから先の展開はまだわからない。
10年間を振り返ってみて思う。あの頃と比べて、何か変わっただろうか?
家族や親類とは縁が切れたままだし、いまだに人付き合いは苦手だし、金はないし、夢も希望もない。それは今でも変わらない。ただ、あの頃あれほど感じていた空虚さは、跡形もなく消えている。
西成の高架下で見た光景を思い出す。ガラクタを解体していたおっちゃん。あのキラキラした目。たぶんあの瞬間に僕は、自分にとって一番大切なものは何なのか、心の深い部分で理解したんだと思う。
世界一周だなんだというのも本当はどうでもいい。僕はただ、いつだってドキドキしていたいのだ。
初めて人を好きになったときの気持ち。知らない街で暮らし始めたときの気持ち。そして、プログラムが思い通りに動いたときの気持ち。
それを持ち続けていたいのだ。いつだって新しい世界にワクワクしていたいのだ。
ふと目を閉じれば、まぶたの裏に映る、あの日のメッセージ。
"Hello world!"
このお話はたぶんフィクションです。実在の個人や企業とはあんまり関係ありません。でも、ここに綴った僕の想いは、ノンフィクションです。
夕日の下に 山なみが続く
山はどんなに高くても
天には届かない
愚かな者たちが はびこる時は
ただ退いて 距離を保とう
世の中が乱れ つまらない人たちが
勢いを得る時には
山の彼方に 隠遁しよう
勇気を持って 退くことは
相手を恐れて 逃げるのではない
相手を憎んで 去るのではない
天の運行を さまたげないために
ただ いさぎよく 退くのだ
時に応じて戦い 時に応じて退く
退くときを逃してはならない
力も地位もある間に
厳しく自分を守って退こう
その厳しさは 愚かな人たちにも
教えることがあるだろう
その力強さは 愚かな人たちを
遠くにとどめるだろう
真実を守り通す力があるなら
すべてを棄てて 恐れずに退く時だ
2爻 Line2
自由があまりきかない今、死んだふりをしてチャンスをうかがうことも必要です
衰えつつある時の流れに逆らわず、中央から逃れ退いて田舎や地方などに身を隠し、
じっと再起のチャンスを待つべき時です。何事も潔く退き、深入りしないことで
難を逃れることができます。見栄も外聞も気にかけず、逃げるが勝ち、
The power of the dark is ascending. The light retreats to security, so that the
dark cannot encroach upon it. This retreat is a matter not of man's will but of
natural law. Therefore in this case withdrawal is proper; it is the correct way
to behave in order not to exhaust one's forces.
読者層がそういう話を好むのだから、そういう話が量産されるのは当然のような気がする。
読者のルサンチを晴らすために、悪役は悪役らしく(浮気相手の役)愚かな者はとことん愚かに(たいてい女の役)描かれ、読者の投影である>1は理想通りに行動し、最後にちゃんと悪者を懲らしめ、誤解を解き、勇者(>1)は惜しまれながら去り、とカタルシスを味わえる構成になっている。現実だと、どうしようもない理不尽さとか、最後まで解けない誤解とか、悪役になりきれないただの人間の行為が重なった結果とか、そういう割り切れないものが残るからね。
逆に自分は、こういうの読んでると素人の創作すごいなーと思うよ。読者の願望に対する嗅覚とそれを実際にやれる厚顔さがすごいと思う。>1スタイルというのか、2ch以前はなかったけど今じゃ当たり前にあるスタイルというのも考えようによってはすごい。臨場感を上げるために挿入される書き込み中の>1の描写とか。