はてなキーワード: 情報処理とは
168を旗艦にして、SS率、効率性の上昇、ボーキサイト消費量の低減と引き換えに
好きでもない女の声をずっと聞かされるのが辛い。
見た目のステータスが、35Lvくらいから星5つで止まったまま比叡さんの顔を見ていると、
戦艦として、護衛艦として、歴史背景に胸を穿ったのが、ちょうど2週間くらい前。
だからと使い続けて、女の顔は三日で飽きることを儚くも証明してしまったのが辛い。
北上さんを改造して、開幕雷撃で活躍してくれるようになったけど
時々改造する前の台詞を言ってくれないかな...と期待するのが辛い。
五人目の榛名さんが出ても金剛お姉様だけ出なくて第四艦隊が解放できないのが地味に辛い。
2-4の低レベルクリアを目指して(多分)結構誇れるレベルで達成したけど、
代わりに赤城さんを失ったショックで証拠のスクショを取り忘れたのが今更辛い。
飛龍•蒼龍×2+五航戦+軽空母全員はいるのに、未だ赤城さん、加賀さんが来ないのが辛い。
同人誌で「烈風? いえ、知らない子ですね」とネタになるたびに、もうあの娘の声は聞けないんじゃないかと
胸が張り裂けそうになるのが辛い。バケツ飯って陰口叩いたことを咎める良心の叱責が辛い。
そうなったときに、遠征でお母さんを選んでしばし心の安寧を取り戻すのが幸い。
青葉をドロップしたら、流れでなぜか今頃になって第六駆逐艦隊のクエストが表示されて、慌ててドックを探したけど
とっくに全員普通の女の子に戻っていて「あの娘は今?」状態なのが辛い。
補給地点に止まる度に遅い遅いと苛立ちしか見せない艦娘と俺が好きな神通さんが同じ中の人というのが辛い。
好きではないが必要ではある娘と長時間付き合う唯一の報酬がステータスの変化なのに
ステータスが50手前で自然にしててもカンストしてレベルしか変化がなくなるのが辛い。
妖怪猫吊るしを直に見たことがなく、繋がらない苛立ちを別のもので発散させる動機になるほど
今の鎮守府が不安定ではない中途半端さが辛い。横鎮や呉鎮、舞鎮の絶叫に乗れないのが辛い。
ちょうど高校時代のクラスカーストでオタクが浮いてた年代を思い出すようでやっぱり辛い。
会社から取るように言われた高度情報処理資格の勉強がほとんど手付かずになったまま、ひと月が過ぎたことが辛い。
ほんと、どうしようか。
僕はプログラマー歴3年なんですが
WEBサイトを作れるようになりたいと思っている人へ
つまり
最低限の力をつけたら、自然に勉強出来る環境を作っちゃって、あとは楽しみながら慣れる
という事。
外国人と会話をしていると
知らない単語があってもジェスチャーとか雰囲気とかでなんとなく理解できます。
そんな風に誤魔化しているうちに、すぐに会話が出来るようになります。
Wordpressの構築をしていると
分からない事が出てきたとしても、ググったりコピペで何となく動くものができます。
そんな風に誤魔化しているうちに、すぐにプログラミングが出来るようになります。
とりあえずまずはレンタルサーバー借りちゃおうぜ。と
先週ぐらいに某議員がBlog炎上して自殺した(実際どうかしらんけど)だのなんだので、
炎上関連の記事が結構あったけど、そういうのもすっかり落ち着いたのでこっそり投稿。
実話を元にしたフィクションだと思って下さい。
友人、仮にAとしよう。
Aはゼミである分野の研究をしていたが、院に進むかどうかずっと迷っていた。
そんな時、とある公的な臨時採用の試験にたまたま受かったのでそこで働きながら
お金を貯めて(もし進むならその費用に充てるつもりで)院に進むかどうかを
もう少し考えようと思った。
そうして大学を卒業し、働き始めて半年ほどが過ぎた頃、Aに卒業した大学から
一本の電話がかかってくる。
「A君、君の個人情報がネットの某巨大掲示板に掲載されている」と。
それと同時に友人たちからも連絡が。
「お前の個人情報が某巨大掲示板に載ってるけど、どうしたんだ?」
Aは驚き、その掲示板を初めて覗いてみた。
「確かに載っている!これはオレだ・・・」
Aはネットに疎く、そういったものはよくわからない怖いものだと考えており、
当時有名になりつつあったその巨大掲示板を見ることはおろか、
それはAがゼミでHTMLの練習で作ったプロフィールページにあった。
某巨大掲示板に掲載されていたAの個人情報は全てそのプロフィールに
記載していた内容だった。
そこにAは顔写真、自分の名前、年齢、血液型、趣味などを書き、
最後にこう書き記した。
「好きな曲は●●です!」
これだけなら問題にはならなかったのかもしれない。
だがしかし、Aはちょっと変わったことをやりたくて、HTMLでその●●に
リンクを貼り、他のゼミ生がCDから取り込んで共用のパソコンに入れていた
音楽ファイルへ拙いHTMLの知識を動員しリンクを貼ったのだった。
Aはそもそもこのプロフィールが学外に公開されている認識は無い。
そして当時のゼミ生達にもなかった。
しかしそのゼミ共有のパソコンは、学内のネットワークから学外に
公開された状態になっていた。
今では殆ど考えられない事だけどね。昔はURLを削ると上の階層が丸見えとか
話を戻して・・・
そうしてそのまま作られたページは・・・最初にゼミ生同士の自己紹介の
手助けを多少は果たしつつも、作られたたまま忘れさられてしまう。
ゼミ生は新しい生徒が入ってきて、そしてその1年でHTMLの講義は
新しいゼミ生がHTMLの練習でプロフィールページを作ることも無くなり・・・
誰もが忘れ去ったまま、HTMLファイルと皆が持ち込んだCDの音楽ファイルだけが
やがてAはそのまま卒業し、進路に多少悩みつつも冒頭のように公的機関で臨時として
働き始めたのだった。
折しもファイル共有や、音楽ファイルの無断配布などが問題になり始めた頃だった。
ある日、巨大掲示板にAのプロフィールページへのリンクが貼られ
こう書かれる。
「☓☓大学■年生 ●●●●君 音楽ファイルをネットで違法に配布!」
スレッドは瞬く間に伸び、ディレクトリを漁った者達がAの個人情報を、
残っていた他の当時のゼミ生のプロフィール情報を掲載していく。
ネットに疎いAはまず巨大掲示板へ友達に頼んで書き込みを消してもらうよう
書き込んでもらう。
だが当時、その巨大掲示板では書き込みの削除は滅多に行われないことだった。
友人達が書き込むことで巨大掲示板の住人たちは喜び、スレッドはどんどん
炎上していく。また友人もAを擁護する発言をしたせいで非難されていく。
しかし警察で言われたのは「実際に被害がない限り動けない」の一言だった。
個人情報に対する考え方も今とは違う。
警察も動いてくれない。
ネットで自分の名前を検索したらその記事ばかりがヒットする・・・
初めて会う人が怖い・・・
夜も眠れなくなる・・・
臨時の今の職場に説明はしたがこれからどうなるかがわからない・・・
自分だけならまだしも当時の仲間たちの情報まで掲載されている・・・
仲間たちは皆「気にするな」とか「人の噂もなんとやらだよ、そのうち
だったのが問題だろ?」などと慰めてくれるが、自分がキッカケに
なったのは間違いない・・・
・・・その後Aが、どうなったのか?そこまで書いたほうがいい?
と書いていてなんだが、実のところ、完全競争市場において資源配分計画を行う主体が情報を十分に持っていて合理的ならば
共産主義経済のパフォーマンスと市場主義経済のパフォーマンスは同じ。
これは1920年代から1940年代で「経済計算論争」というのが行われて、その中でオスカル・ランゲって人が証明してしまったものなのです
(数学的に完全な説明がついたとされるのは別の人たちの登場を待つけど)。市場経済こそが最高の効率だっていう所に、共産主義も同じだよ?っていわれたときの衝撃は、
ガンダムでいうなら、ダカール演説でクワトロ・バジーナことジオン・ダイクンの遺児であるシャア・アズナブルがアンチ地球連邦政府だけど
地球人類を粛清しようとは思っていないと知らされた時の地球人の衝撃みたいなものかと思われる(どちらも、ま、そうだよね派もいたかと思うけど)。
ということでこの衝撃は、市場を重視する経済学者達の思想を根底から揺さぶったんだけど、これについて有効な反論を行ったのが
池田信夫大先生でおなじみのフリードリヒ・ハイエク。彼は「資源配分計画を行う主体が情報を十分に持っている」という点があり得ないと述べ、
分権的なメカニズムである市場でなければ効率的な資源配分が行えないと述べた。ハイエクは、そのような情報を一握にしようとする組織は文明をも破壊する
と述べるんだけど、アムロもダカール演説を知って、あ、このキャスバル、地球に隕石落とすに違いないと思ったはずなのと似ている(そんな描写ありません)。
さて、この論争どう決着がついたかというと、新訳版にダカール演説が消えたようになかったことになりました。結局、ランゲはこの後、どうやって情報を集めるかってことに
力を入れ、ハイエクは30年くらい冬眠させられる。戦後の2~30年主流となるのは第三の道である介入型市場経済を掲げるケインズ経済学で、それも冬眠からさめた
ハイエクに批判されるのはご存じのとおり。やっぱり重要な論点は政府は情報を集約しきれないところにある。
総括すると、共産主義が駄目な経済理論的な理由は計算不可能性に帰せられ、常識的にはやはり駄目そうということになる。
とはいえ、じゃ、計算できるようになればいいんじゃねと夢を膨らませることは可能である。うん、けど、情報処理能力を高めるのは無理そう。
じゃ情報処理量を抑えればいいんじゃね?人も資源もさ!なら、隕石落とせば…
追記
トラバついたこと、また、トラバついている最中に書き直した点があるので返信します。
まず、十分な情報という点を数学的にという点ですが、残念ながらこの論争はそこまで深い話に行きませんでした。
というより、私の書き方がまずく、数学的証明というのは完全競争市場においてすべての財の受給を一致させるある価格が存在するという
一般均衡の存在が数学的に証明されたことを指しています(角谷の不動点定理とかおなじみの奴ですね。院レベルの話は下段で)。
これが証明されることは、すなわちランゲの主張するように計画主体がすべての財の受給を一致させるある価格を決めることが出来るのであれば
完全競争市場で実現されるような財の配分が共産主義経済にても実現されることを指しました。
さて、本来であれば、その価格決めにおいて計画者と市場どちらがロスが少なく決められるかの論争が行われるべきでした。
しかし、上記のごとく、ランゲはその価格決めの調整過程の研究に入りましたが市場との比較を行うことはありませんでした。
また、アメリカの経済学では(同じように!?)市場で一般均衡解が決まるまでの動学的過程への関心が1970年代以降強まりますが、
調整方法が市場であるか計画であるか言及する人はいませんでした。そうしている間に、1991年ソ連は崩壊し、経済学もアメリカの経済学に収斂します。
残ったのは市場経済と動学的一般均衡モデル。もはや、計画者と市場という論点は消滅しました。
ということでトラバの方には、学部上級レベルの齊藤先生には飽き足らずもっと深い(己の数学的才能のなさに絶望する多分一番経済学の分野でできつい)世界へ進んでもらいたいと思います。
ESの〆切をブッチしたり、説明会の予約をブッチしたり、しまいには布団から出れなくなったり。
就活成功の唯一の秘訣は就活をやめないことだという。それさえできなかった私はなんなんだろう。
まあ体調が悪いわけではなかったので、要は甘えか怠けか……。
まあ、本当にどうかしていたと思う。無駄な時間を送ってしまった。
せめて他人への損害が薄いとよいのだが。
今が健康か?と言われるとよくわかりません。ただ大学へは行けるようになりました。
今週は数件面接がある。来週以降の予定はない。もう、最後のチャンスだろう。
現時点で、逃げたくて仕方がない。
仕様もないことを考える。
私は院生で、今年の秋にある学会でポスター発表をしたいと考えていた。
でももう無理だろう。これは私の努力不足だったのだ。
内定がまずないということもあるし、そもそも1月以降本当に進展がないのだ(就活の間に駄目にしてしまったサンプルもいくつかある)。
就活をしながらでも実験は、できる。うまく計画を立て、うまく気持ちをもたせることができれば。
私にはそれができませんでした。
研究がしたくて大学院に入ったはずなのに、就職活動を始めるとその研究が邪魔にしか感じないというのが、ひどく情けなくてならない。
たった数カ月だが就活に取り組んでみて、私が思ったのは『どうしてみんなこんなに難しいことができるんだ』ということ。
この『難しいこと』というのは、なにも面接ハウツーとかエントリーシートの書き方とか、そういう分かりやすい難しさに留まらず、むしろ私は他のことの方が困難に感じた。例えば以下のようなことである。
こうして見ると、何も特別な能力は必要とされていない。ひととして、学生を卒業し社会に羽ばたいていく人間として、持っていて当然と言われてしまえばそれまでだ。できて当然かもしれない。
けれど私には、とんでもなく難しかった。
モチベーションをコントロールできない。すぐに体調を崩す。怠ける。自暴自棄になる。また頑張ろうとする。成果には反映されない。etc etc
内定を得るためには努力が必要だ。けれど『就活を頑張る』だけで、それはもうひどく努力を要することのように私には思える。こんな大変なことを、誰もが当然のように頑張っているのが、私には驚異的なことのように思えてならない。いや皆さんそりゃ頑張ってるからできてるんだよと言うのかもしれないが、現に私のように頑張るのを止めてしまって自暴自棄になる人間もいる。要は、続けられない私がクズなのだ。
いずれにせよ、けれど私は『就活を頑張らなければならない』ということに変わりはない。だから就活を再開する。
体力も精神力も枯渇気味で、パフォーマンスも最悪。でもエンジンをふかさなければこのまま錆びついてしまうので鈍足でも前進しなければならない。
就職が不可能になった時点で身体がしめやかに爆発四散するようなオート・プログラムを埋め込まれたい。そんな妄想を抱きつつ、未だ見えぬ春を思う。
追記:このような記事を見つけた。
【就活で就職目指すのは負け組】 普通の学生の為の正しい“就活”作法の話 http://togetter.com/li/484679
納得できる話ではある。でもまあ、だからどーせいっちゅう話ですな。
日本のフォントメーカーが、中国の規制の強制部分と標準部分をごっちゃにして、
買う必要がないビットマップフォントを日本の企業に売りつけているんではないか?
という話です。
購入して使用しなければ、中国には輸出できないということを言っている
http://www.lim.co.jp/products/chinese.html
字形に関しても規定が行われビットマップフォントに関しては、中国政府認定のビットマップフォント以外は使用できなくなりました。
http://www.founderinternational.com/jp/structure/pro/201107/show20110704160230883.htm
http://www.arphic.jp/news/epaper/AR%20News_CESI%20Certification.pdf
http://www.dynacw.co.jp/oem/embedded/tabid/159/Default.aspx
GB13080の原文を探したのですが、なかなか無い。
以下でやっと見つけました。
GB13080原文
原文の強制部分を機械翻訳すると、
(翻訳が正確かどうかはわかりませんが)
http://baike.baidu.com/view/889058.htm
(1)製品は正しく、出力、処理のGBを入力することができます 18030-2005は一部の規定の全部の漢字のキャラクターを強制します;
(2)製品は正しくGBを識別することができます 18030-2005強制性の一部の規定の全部の漢字のキャラクターの対応するコード。
うーん、文字コードを正しく扱って全部表示してねとしか書いてないような気がします。
もっと下の方をみてみると、標準を規定した部分に以下のような文が。
~中略~
ビットマップフォントについては単なる標準規格だと解釈出来ます。
認証を受けていなくとも使用については問題ないと判断出来ます。
なんか原文に当たるすべが無いもしくは面倒くさい企業に対して
現実世界を個別科学の立場から切りとるのではなく社会の期待と要請に応えて既 存の学問領域を超えて新しい学の創造をはかり未知の地平を切り拓く…(中略)…この5つの理念にもとづき革新的な研究と教育を行い創造と実践を通して“知の 再構成”を試みます。
「環境」は、白然環境、社会環境、人工環境など、さまざ まな人間生活の場を含む、現代社会の基本概念の1つです。 「環境」の中心となるのは、あくまでも自分自身です。みず からの決定と行為が「環境」に影響し、結果として自分に戻 ってくる原理を理解し、その上でいかに行為すべきかを考え る、これが環境間題を問う根底にある発想です。傍観者では なく、あくまでも当事者としての立場から問題を立て、み ずからの行為を通じて解決していく実践的能力が要求されています。
「情報」は、20世紀が生みだした最も重要な概念だと言わ れています。21世紀は、あらゆる事象を、物質とエネルギー に替わる「情報」という概念に基づい見直すことによって、 世界観の転換が期待される時代です。人間は道具をつくり、 使いこなすことによって、独自の進化をとげてきました。今 日では、コンピュータをはじめ、多くの情報機器を使いこな すことによって、われわれはイメージの世界を大きく広げよ うとしています。人間を、物質・エネルギー系として捉える のではなく、信号や記号を生成・処理する存在として理解することによって、はじめて人間の全体像を描きだすことができるのです。
現実の選択や決定は、それがいかなるものであれ、諸科学 横断的な総合的視点と判断を必要とします。とくに、政策の立案、検討、実行にあたっては、物事を多面的に解釈し、総合的に評価する能力が問われます。意見の対立を解消し、利害を調整するためには、一方において、同意を得るためのミ ニマムな共通項を見いだすとともに、他方、構成メンバーの要求に見合った、柔軟で多様なメニューをつくりだし、異質 性をむしろ積極的にとり込んでいくことが不可欠となります。
交通・通信技術の発展にともなう地球規模での相互依存関 係が一段と深化するなかで、国家間の相互理解、異文化間の交流は、21世紀にむけての最大の課題となっています。とりわけ世界のさまざまな大学・研究機関・個人を結ぶネットワーク化がすすむなかでは、多様な文化についての知識と言語運 用能力を基礎とするコミュニケーション能力が一段と要求さ れることになります。グローバルな発想と視野を身につけた 受信・発信の能力を養うことが何よりも必要となります。
創造性の重視
従来の教育では、知識の伝達、継承、与えられ問題の解決技法の習得に重点がおかれていました。これからの社会では、みずから問題を発見し、解決する能力、さまざまな情報 をひとつの知識へと体系化する能力をもつ、創造型の人間が期侍されています。そのため、あらゆる研究に共通な知的基 本動作の習熟、自然言語と人工言語の運用能力を前提として、 多様な発想と討論の場をつくることが必要です。既成概念の束縛から解きはなされた自由な発想と知的好奇心にもとづい た“創造の愉しみ”、それがSFC教育の基本姿勢です。
しばらく前に図書館業務をCCCに委託し、T-ポイントカードの提携を行うと発表した。それに対して図書貸し出しの守秘義務などを理由にネット上で反対意見が起き上がった。図書館業務の民間委託は既にあったが、その情報処理については、思想信条に関する機微に触れるとの事で、外部に安易に渡すべきではないという話だった。
また、市長自身の不手際で住所などの情報が流出した。この時はさすがに落ち度を認めたが、その後、情報管理体制の変更は外部には告知されていない。そして、市長は相変わらずいろんな情報を外部に積極的に公開するなど、プライバシーについて却って無頓着になるばかりだった。つい数日前には、市の情報の生データを提供するという発表があった。もちろん大いに非難されたが、撤回する気配はない。
なぜだろうか。なぜあれだけの意見が出ているにも関わらず、市長は態度を変えないのだろうか。
高木のコメントの特徴は、丁寧に言えば率直、悪く言えば口汚さにある。いざとなれば、「黙れクソが」などと、中学生でも言わないような罵倒を平気で言う。事態が進めば進むほど口汚くなり、どんどんと説得から遠ざかっていく。最初はいいでしょう。でも、それが進むと、幼稚さが目立つようになり、話を聞く方は気力が失せてしまう。要するに、途中からは事態を悪化させるエンジンにしかならないのだ。
そして、もっと面倒なのが、その取り巻きである。高木の言った事を再度繰り返すだけの幼稚な取り巻き。これが事態の悪化に拍車をかける。
途中から、彼らは自分たちが何をしたいのかわからなくなり始める。事態を改善したいのか、悪化させたいのか。もう単なるイジメの集団でしかなくなる。
もちろん、きちんとした法的、技術的見地から説得を試みる良心のある人たちもいる。でも、高木と取り巻きの暴言によって市長は耳を塞いでしまった。それどころか、FacebookやGoogleに招待されたおかげで、彼は自分のやったことに自信を持ってしまった。もうこうなったら、取り返しは付かない。
じゃあ、どこで、どうすればこの悪化は防げたか。早めに上位の官公庁(たぶん総務省?)に注意を促して、より上位の立場から説得する必要があったのではないか(実際、そういう立場の人が全く説得に動かないのは、疑問もある)。それをせずに罵倒を浴びせるような真似を続けた事で、事態は悪化するばかりだ。
二度目まして、はてな。
就職を諦めるという選択を書いた者です。
思った以上に反響があってびっくりした。
応援の言葉も読みました。
スペック書いてなくって、自分を男だと思った奴がいたことがイチバンビックリしたよ。
サークルみたいな活動は3つくらいノリで掛け持ち。
スキルは普通自動車免許と情報処理関係が3つ、簿記会計が2級。
http://anond.hatelabo.jp/20120724025818 さん、あたりー、応用情報持ってるよー。
初級シスアドを高校のときにとってたら、大学でタダで受けれた。
学費は9月までに後期分納めたらもう考えなくていいって思うと、にやにやしてしまう。
http://anond.hatelabo.jp/20120724025818
容姿の話も気になった。
そんなに酷くない顔だと思うんだけど、こればっかりは他人の意見を聞かないと分からない。
接客のバイトで吉高由里子を幼くした感じっていわれたことがある。
自信は全くない、整形したいって思うほどではない。
女子力低いのは否定できないですヨ。
http://anond.hatelabo.jp/20120724025818
・3年くらいは生きてそうなこと(公開されている資料みて)
・説明会で質疑応答の時間があるか
休日がなかったり、給与はナマポ以上ほしいけどムリならまあいいかくらいに考えてる
自分ひとり生きていくための生活目標で、多く望んでないと思う。
実際、はてなからみてブラック企業と思われる企業(入れ替わり激しいという噂)にもイラナイっていわれたから、もしかしたら贅沢なのかも。
こんな感じ。
あと、1つ黙っていたことを追記する。
はっきりいって、これが自分の就職活動が上手くいかない原因だと思うので、悲劇のヒロインになりたくて黙ってました。
自分は高卒で働く予定だったこと、つまり自分が本当は大学いけるほど頭がよくないってことだ。
就職活動するのは2度目。
高卒で内定貰ってた会社はサブプライムによる経営破綻で高3の夏に消えた。
大きな会社じゃないけど、働いてる人は一生懸命で、事務職でそういう人たちを支えるだけの存在になれるってなって、内定してうれしかった。
うれしすぎて、全商全種1級とか初級シスアドとかに挑んで、一人でバカみたいに浮かれてた。
大学に進学することになったのは、割愛。
高卒で就職するつもりだったから、リクルートスーツきてるにーちゃんねーちゃんと同じ位置で面接とか受けてたよ。
だいたいは1夜漬けと直前暗記でしのいだり、人脈で勝負してきた。
高卒で就職するのが当たり前な、しかも、就職と書いてニートと読むのが当たり前のような高校を出てる。
アルファベットは大学に入るまえの事前学習で教えてもらったレベル。
>文章を読む限りだけど、採用しないと思う。仕事を学校の延長にみてるように感じるよ。
仕事を失って大学きちゃったんだから、世の中不思議なもんです。
短い内定期間に研修受けて、仕事がどんなものかは、うっすら分かってるつもりだった。
なんかね。
「偏差値低すぎる自分」が企業にばれちゃって落ちてるんじゃないかなあって思ってたんだよ。
高卒で内定貰ってそこつぶれていま就職活動してまーす、なんて履歴書に書いてるわけでもないけど、どこかで品のなさかなにかがばれちゃってると思ってた。
今日のお祈り通知も、鳴らないスマフォも、前期期末テストも。頭悪いからだけじゃない。
運が悪いだけでもない。
「運が悪いだけだ」という周りの声はどうしようもないから、これからも悩むかもしれないです。
一緒に仕事をしたいと思わせることって、難しすぎですな。
一緒に仕事をしたいと思ってもらえるって、幸せすぎなんでしょうな。
情報処理3つって事は最低でも応用情報+簿記二級で無い内定ってマジかよ!?
(ひたすら打ち込んだため、タイトルから全力で話がそれてるかもしれんです。)
就職活動をしてるんだけど、どこにも引っかからない自分に嫌気が差してきたので、吐き出してみた。
現役4年で3年の12月から大手から零細までブラックを回避しながら就職活動をしてきた。
スキルは、普通自動車免許と情報処理関係が3つ、簿記会計が2級。
正社員になりたかったただの大学生です。専攻は文系情報処理学科。
自分では就職活動がんばった結果が今なんじゃないかなあって思ってる。
色んな意見があると思うけど、自分が自分で見つけてしまった限界がココだった。
内定は0。
内定はなくても、最終選考には人事の気まぐれみたいにたびたび行ってたりする。
落とされるたびに泣いちゃうくらい気合入れて企業と対してきた。
悔しくって東京のどっかの橋の上で泣いてたら警察に保護されたのはいい思い出だ。
どうしておちるのか分からなくって、大学の就職課に行ったら「特に悪いところはないよ。まあ最後は運だからねv 縁がなかったんだよ」と言われた。
親は普通に働いてて、普通に暮らしてるけど、高校進学のときに話した1回以外でしゃべった記憶がない。
育ての親はしんだばあちゃんだしな。
ぶっちゃけ親の手料理よりカップラーメン食った記憶の方が色濃い。
普通に働いてるから話を聞けるはずなのに、顔も微妙な記憶のかなたにある家族だから打ち明けることもできない。
このままだとどうなっちゃうか、わかんなくてこわい。
就職ができないとしか思えなくって、大学のゼミの教授に紹介されたところに行ったんだけど、なぜか落ちた。
教授も「まあ、運が悪かったね。今回国立が多かったらしいから」とかよく分からんことを言われた。
だれもかれもに運が悪かったといわれてしまうと、しようがないなあと思うようになった。
いま、就職をあきらめて、別の道を探そうかなあって思ってる。
夜中の車運びも体力ある限りできると思ってる。
おばちゃんに混じって清掃するのも慣れてる。
などなど、現実味のないこと色々考えてるつもり。
イチバン現実味があるのは生活保護ですな、ハローワークでも驚かれる不採用の数にケースワーカーもびっくりですわー。
でもさ。
「運が悪い」だけで正社員になれない自分が、ナニカをやって上手くいくと思えないんだよね。
だから、働くの諦めたいなあって思った。
ネットサーフィンしたり、アイドル追っかけたり、アニメ見たり、腐女子活動したりするくらい。
現状をもって諦めたのは、遠い将来私設図書館か古書店をやる夢をもつ予定だったりもするよ。
自分の周りには内定10個ほど貰ってる人もいて、すごく羨ましい。
どうせ9個はお断りするというのに、「運が悪かった」だけで落とされる自分がすごく惨めだ。
悔しくてたまらん。
自分自身は自分の運が悪いから落ちてるって思ってないし、8月の内定ラッシュまでは頑張ろうと心に決めている。
本当に辛くなって、身が入んなくなっちゃったから、ここに書きました。
つきあってくれてありがとう。
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20120528/1338173209
切ない気持ちで読んだ。私が高卒のことは、会社の人はほとんど知らない。人事と直属の上司ぐらい。聞かれないから答えないだけ。
母はずっと「商業高校に行きなさい」といっていた。だから中2で進路の話をするときに、「商業高校にいきたい」と先生に話すと「商業高校にいったら大学にはいくのは難しくなるけどいいの?よく相談しなさい」と先生に言われた。そうか、大学、いきたいな、と、漠然と思った。母に相談すると「早く就職して働いて家計を助けて。どうせ女は結婚するのだし大学など行く必要はない。従兄弟(唯一の大卒のおじの娘)だって大学にはいってないんだから」と。お金がないなら奨学金もあるって、といったら「30歳過ぎまで借金返済しないとならないけどいいのか?」と。私にとって「走る必要は、ない。」と言われたときだった。
15歳で30歳のときの借金のとこなんて考えられなかったし、怖くなったから、結局、商業高校にいって、情報処理科でプログラミングにふれて、おかげで今があるんだけど。でもいまは、借金しても大学に行っておくべきだったと思う。
もうすぐ40歳で、結局、結婚はできず、仕事は一生続けていくことになって、一応それなりに稼げてはいるけれと、自分に基礎的な知識というか、根本的なものがなにか足りないことを日々実感してる。いままではだましだましやってきたけど、ほんと、もう、だませない感じ。きちんと知識があって、勉強の仕方、学び方を知っている人とは何か違う気がして。
高校は、商業高校の情報処理科で、ほかの商業高校より偏差値は高くて、クラスメイトには「頭はいいからちゃんと勉強すればもっといい学校にいけるのに、あまり勉強をする気がしなくって」という子が多かった。だから、割とみんな、ちょっとやればそこそこできる。走る必要はない、と言われた子たちが多い環境だったのかもしれない。
父は配管工で母はパートで二人とも中卒で、高校まで行かせてくれたことはとてもとても、感謝してる。本当にありがとうと思う。
でも、借金の苦労をさせたくなかったのだろうけど、奨学金の正しい知識がなかったこと、そうやって学ぶ可能性を否定されたことは、絶対に忘れない。
借金の苦労はしなかったけど、別の、大変な苦労をしているよ、お母さん。
小学生のときによく買ってくれた本は、キリスト教系の本で、市販していないような、いま思えばどこかの宗教団体が出しているような本だった。「いい本だから読みなさい」って渡されて読んでた、うちはキリスト教なんかじゃないのに、母はどこからその本を買ってきたんだろう?と今でも思うけど、きっと、知り合いにでもおだてられて買ったんだと思う。自分はよんでいないのに「いい本」ってなんだったんだろう。その後本は、自分で図書館で借りるようになった。
救いは、父が新聞好きのNHK好きの映画好きだったことかもしれない。今でも母は嫌いだが、父は好きだ。
ねだって買ってもらった絵本の初めの記憶は「しろいうさぎとくろいうさぎ」。幼稚園でもらったチラシのうさぎの絵がかわいくて、無理を言って買ってもらったんだった。そういえば。どうでもいい話だけど。
3 この法律において「児童ポルノ」とは、写真、電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物であって、次の各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいう。
一 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
三 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの(専ら医学その他の学術研究の用に供するものを除く。)
14歳の裸は3に該当しないと考えられるが、DVDや放映されたものには12歳の少年が11歳の少女の胸を触っているシーンが映ってる
さすがにこれは3条の1に該当すると思う
宗教的経験
カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実的であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。
オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教的経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教的経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。
このように、宗教的経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教的経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。
以下、宗教的経験の検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います。
前述のように、高校三年生のときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想を指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイトに忙殺されていたのです。
そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱。悟りが気になりました。
最終的な解脱・悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己が存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。
不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在が事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。
また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子を指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教やインドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。
前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。
しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体「オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムはほとんど無名の団体でした。)
私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生のときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。
この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書の解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。
このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。
ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。
「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒は危険だ」―オウムの本の記述は別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。
突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。
オウムの宗教的世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル(修行と指導する師)として、解脱・悟りを目指すことが私の「生きる意味」であると確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニーが自然に覚醒したのは、前世のグルの著書を読んだために、修行者だった私の前世の記憶が甦ったからだと思いました。
このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています。
突然の回心は、被験者そのものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。
漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである。
すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。
二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。
この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。
漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。
私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。
このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています。
私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。
オウムの宗教的世界観が現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニーが覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑を広瀬君から感じた。」と法廷証言しています。
こうして、オウム真理教の在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践、ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。
オウムの教義と修行の目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。
教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり、輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。
それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。
私たちは自己が存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼、快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。
これらの煩悩と行為は過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした。
カルマの法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですから、オウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。
[なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人の日常的な行為はほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死に修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]
また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。
回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますます深まりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。
なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)
なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観が現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです。
現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒が帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教的経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教的経験」のほうがリアリティがあるのです。
このような宗教的経験の作用について、文献には次のように述べられています。
アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システムを概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋の伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存の宗教を粉飾する。
超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズとフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者と精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。
宗教的経験のコンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神的プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。
(A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験が西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。
(西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九)
(プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間の情報処理を一定の方向に誘導すること)
瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身の感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニーの覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想の伝統によれば、非常に深刻になるものだ。
※「輸血拒否事件」1985年6月に神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。
そういうのって、あれだよね
疾病利得
拒食症じゃないけど、食べるのを絶つと脳の神経伝達物質の分泌にも異常が出るらしいね
この分泌はかなり重要で、人の認知・情動・情報処理等々のあらゆる領域機能に問題が起こる
当然、正常な判断なんて出来っこない
検査されて内臓とか脳とか調べられる
当然、あらゆる部分に異常が見つかるだろうな
少し安定したら、今度はカウンセリングやらを受けさせられる
お前の歪んだ認知(痩せたら価値が出る!心配してくれる!)を矯正しようと、あれやこれやと話してくる
そして、その過程でお前は生育歴から恋愛遍歴まで全ての個人史を赤裸々にされる
で、「一緒に頑張りましょう!」とか言われるようになる
その頃には家族やら知り合いに哀れで厄介なものとして扱われるようになるだろう
まあ、俺はお前なんて死んでも良いけどな
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
超氷河期だそうです。(これも就活ビジネスの煽り文句な気もしますが)
いや、でもまあ、確かにそうなんでしょう。周りも非正規が多いです。
「何がリーマン崩壊だよ!リーマンになれねーじゃん!」とか笑えないけど笑ってた気がします。
あのタイミングでこれはねーよ、と。
なにせFランクラス(ちょっと言い過ぎ?)の大学(校)だったので。
好きでやってたITだったので資格を取っておいたのだけが救いでした(応用情報技術者試験)
まあ、でも、終わってみればという感じです。
7、8社ほどで内定をいただきました。
ニュースでやってる、100社落ちたとかってのは余程訳があるのかなぁとか、考えたりしたもんです。
就活(笑)解禁だそうなのでメモ程度に経験を残しておこうと思います。ただ、人によっては全く参考にならない気も(笑)
1.中小のみ狙う。
1社だけ入りたかったウェブ関連の会社があったのですが(まぁ、中小ですが)、イミフな試験で落ちました。(愛と恋の違いだの何だのを書けとか書いてありましたね)
地方住まい、通勤圏内を求めていたのですが、県内にいい会社が見当たらなかったので高速で通える県外にしました。
本当は東京にでも出て、やりたい仕事をやっても良かったのですがやめました(理由は後述)
とにかく合同企業説明会(笑)でも人がいないところを狙います。
地方なんかだと地域でやってるUターン誘致の説明会とかジョブカフェのやってる説明会が狙い目です。
むしろリクなんちゃらとか、今話題のマイなんちゃらとかのは行かなくていいです。時間の無駄です。
2.話の合う人事の年齢を見つける
僕は年寄りに話を合わせるのが得意なので、年寄り人事がいる会社をさらに集中して狙いました。
若い人と話すのが得意なら若い人を狙えばいいと思います。
人気の無い企業の人事はとにかく暇なのでガンガンしゃべります。
話を聞いてくれるだけで嬉しいようです。(彼らだって暇なんだから当たり前っちゃ当たり前ですが)
3.乱発しすぎない
僕も焦っていろんな会社を手当たり次第に受けたことがありますが(最初の3社くらい)、あれはやめたほうがいいです。
時間もお金も有限です。企業をリスト化して優先順位(行きたい順だけじゃなくて入れそうなことも加味して)をつけて狙っていったほうが良いです。
4.自分を捨てる
よく言われているように、企業は技術や個性なんて求めちゃいません。
僕はある中堅ITの子会社で「僕はコンピュータが大好きです」といった直後に
「この仕事は、極端に言えばコンピュータがなくてもいい仕事だと思っています」とかなんとか言いました。(あほらしい話です)
SIerは技術者を軽視しているのが隅々まで行き渡っているのでこれであっさり受かります。(当然、蹴りましたが...)
自分の本当の考えなんて大して必要ありません。
5.なんだかんだで資格
学校名で「は?(笑)」みたいな感じでも「応用情報技術者試験受かりました(キリッ)」とかやっとけば覚えてもらえます。
中小企業だと「とりあえず一人はコイツでいいか」的な空気が会場一杯に広がります。
以上5点に気をつけると不本意な気分満点ですが、とりあえず内定しますよ。やってみてくださいね〜。
(以下蛇足)
此処から先は独り言。
僕は情報処理技術が大好きです。高校時代は文系で、心理学に興味があったのに、いつの間にか....。
実は大学(校)に入った理由は学費が安いということが一番で、ついでに興味のあるパソコンを、という気持ちだったのですが...。
大学時代は僕の人生で一番(一番は社会に出てからの今かもしれませんが)勉強した時期です。
あれほど熱中するものがなかった自分がここまでのめり込むとは思いませんでした。
OS、コンパイラ、画像処理、組み込み、データベース、ネットワーク。
何でもやりました。学校もなんだかんだで多くを学べる所でした。
実を言えば東京のベンチャーみたいな会社に憧れたりしたのです。
最先端で戦ってみたいという気持ちが今でもあります。(今はVBでサビ残して詐欺みたいなモノ作ってますからね)
ただ、長年付き合った恋人や、家族なんかのことも考え、今は地方にいます。「今は」
僕は三年は勉強期間だと思っています。社会のルールも知らないのですから。
もし、中小は嫌だとか不安だと思うのなら、こう考えてはいかがでしょうか?(あれ、独り言じゃない)
「三年間の職業訓練」
会社や社会人の方に怒られそうですね。3〜5年でやめられると中小には痛いそうですし。
でもまあ、雇った方も自己責任だし、ね。(こういう内容だと自分のブログに書けないから増田はいいと思う)
3年経てばテレワーク事情ももうちょいマシかも(さすがに無理?)
だめならこのまま人生を切り売りするか、バイト時代好きだった小売にでも転職しようかな、と考えたり。
(正直同じハードさなら小売のほうが楽しい。この業界PGはいてもプログラマいないし。OSS開発もできるからね)
だから、3年間だけ。
とりあえず昨日アマゾンから補充された、机の上に積み上げられた本を読まねば....。とりあえずトランザクション処理からにするか...。鈍器だろこれ