はてなキーワード: 性善説とは
これを読んでる人は漫画村が何かを知ってると思うが、説明しておくと瀕死の出版にとどめを刺したのが漫画村だ
そーゆー存在だ。
そして、私は漫画村の潰し方を知ってる。
最近、ツイッターで新人漫画家や中堅漫画家が漫画村について言及している、それがバズったりもしてる。
大体パターンが決まってて
作者の意見を言うキャラが、無自覚な漫画村ユーザーに「無料で読めるサイトがあるよね、でも作家にお金が入らなくなって読めなくなるよ(ギロッ)」
みたいに怖い顔して終わるのが多い、概ね倫理観や正義を説いている。
そういうのは諸刃の剣で、
「へぇ、そんなんあるんだ検索してみよ、めちゃ使えるやん」と考える人、
2パターン生み出すだろう。
ツイートしてる中堅以下作者は前者が増えると思ってツイートしてるんだろうけど、現実的にはバズればバズるほど後者が増える。
悪いことだけど、あらゆる漫画を読めてしかも捕まらない。当然使うでしょ
はっきり言って、今ぐらいの漫画村の知名度が一番、中堅以下作家にダメージを与えてると思う
そりゃ中堅以下の作家にとったら死活問題だから発言したくなるのはわかる。
多分、漫画村の宣伝になると分かりながらも、性善説にかけてツイートしてるんだろう。
で、結果で言えば漫画村の知名度と勢いは増してる。自らの首を絞めてる。
さて本題の「ワンピース作者が漫画村を宣伝すべき」についてだ。
「漫画村」というが漫画村だけでなく似たようなサイトにも通用するやり方だ。
それは、最初に書いたように、全国民が漫画村を利用することだ。
多分現状、大物作家は漫画村を知ってても静観してるだけだろう。
理由は2つある
そしてもう1つは「そんなことをしても自分にメリットがあまりない」からだ。
日々の連載に忙しくて、業界のことなんかどうでもいいだろうし、大金持ってるから売れなくなっても死活問題じゃない。(大勢固定客がいるから、漫画村あってもコミックス売れてるだろうけど)
というか、そもそも作家は個人であって組織は関係ないから、業界を守る責任も義務もない。
そーゆーのやるべきは出版社だ。
中堅以下の作家が必死になって訴えてるけど、本当にやるべきは出版社だ。
作家の仕事は面白い話を考えることであって、漫画村の対策を考えることじゃない。
前ツイッターで、不安になった漫画ファンに向けて出版社の人間が
「対策に動いてますけど、うちうちに業界全体で取り組むべき問題なので発言を控えます」
とか呑気なこと言ってるのを見た。
なぜ不安な読書に向け、出版社が早々に公式声明を出さないか?なぜ焦らないか?
答えは「売上減ってるけど、今の時点で死活問題じゃないから」だ。これに尽きる。
作家個人で死活問題が多発していても、その上の出版社という組織にはまだ危機感が出ない。
作家が全員死んで、やっと気付くだろう。
仕方ないが、大きい組織は動きが遅い。
そこで、ケツを叩くために漫画村がもっと話題になればいいと思ったわけだ。
話題にするにはどうすればいいか、大物作家が漫画村を宣伝すればいいのだ
「これは悪いサイトだよ〜、あらゆる漫画が読めて捕まらないけど悪いんだよ〜」と宣伝する。
そうすればもっとみんなが利用するだろう
そして、日本で”出版”という物の売上げ額が「0円」になる日が来れば、さすがに焦って組織が動くだろう。
「不況」とは言え出版社もそれなりの力と知識を持ってるはず、見せしめに1人ぐらいしょっぴいてくれるだろう(大人たち頑張って!)
1人捕まれば勝ちだ。
1人だけで、利用者はぐんと減るだろう。
ただ減った漫画村ユーザーが、コミックスに来ることはないだろう、
でも、少しはマシになると思う、少しは売れるようになると思う、業界が少しは延命できると思う。
少しは中堅以下作家が救われると思う。
職場の人権研修で、障害者だ貧困だ難病だ、話を聞いたり動画を見たりして気になったのは、いずれも「偏見に晒されたり不当な不利益を被る人達がいかに立派な人か」という擁護?が混じっていることだった。ホームレスの中には少し前まで大きな会社にずっと勤めてたという人がいるんだとか、足の悪い○○さんだけ津波に飲まれたけど優しい人でとか。
じゃあ人間の屑だったらどうなんだと私はそっちよりだったんで思ったし、生活保護の支援団体の人までそういうくちっぷりだったのは少々辟易した。中には運命の歯車がほんの少しずれてしまっただけの人だっている、それはその通りだ、でも中には居るだなんて言ってたら、本当にただただ働くとかそういうの面倒くさいだけのテンプレなずるい人だっているだろう。障害ゆえに津波に飲まれた人は性格が悪くて周りから嫌われていたなら割り切りがつくのか。手を差し伸べる人を傷つけるような弱者に、差し出された支援にあぐらをかくようなヤツに、本当に我々は、じんけんとは、うんぬん、しなくちゃならないのか。話は逸れるが人権研修のメニューはいろいろあって選べたりするんだけど発達障害についてが無くて、じゃあ空気読めなくてどこにも就職できない無能は、みんな、車椅子の聖人君子を相手にするように自然と配慮だかなんだか、社会はそこまで成熟してるのか。いや、成熟する必要があるのか。ハンディキャップを活かして駆使して援助者をせせら笑うクズからは、そんな権利なんかとりあげちまうのがすじなんじゃないか。
そんなことをつらつら考えていた。
そしたら今更ながら、世界人権宣言を読んだ。
これは1948年に国連で採択されたもので、世界中の人権の話はたどっていくとこれに基づいている。
第1条にはこう書かれている。
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
これが答えだった。国連の下にいる国の、国民は、世界中の我々は、この宣言の元にいるのだった。
性善説だ。人権なんか無いようなどうしようもないクズだなんていませんよというのがスタートだった。考えてみればあたりまえかもしれないけれど。
法律というのは第1条に主旨を置く。これからごちゃごちゃ具体的な話を書いていくが思っていることはつまりこういう気持ちなんだというのが第1条だ。社会や人間はそこまで到達できないし到達できる気もしないが少なくとも建前はここに書いてあったのだ。
ひとつすっきりした。
昇給すれば社員は忠誠心を強固にして会社に尽くしてくれると信じて裏切られる
“性善説に基づく出産一時金42万円等 健康保険を外国人が乱用” http://blogos.com/article/262409/
ここでは「性善説」とは誤用なので、「善性」とでも読み替えて考えよう。
記事の内容や事件の詳細についてはどうでもよい。今回考えるのは「善性に基づくルール」が実質的にどのような意味を持つのか、である。
このゲームは「積極的に動き回り、遭遇した他プレイヤーと殴り合いをする」というデザインである。勝利条件は「生き延びてなるべく多くのプレイヤーを殴り倒す事」であったとしよう。
この「積極的に動き回る事」は「善いこと」の一つである。しかし、もしも「ある一か所にとどまり続け、動くプレイヤーを不意打ちで倒し続ける」という戦略が優位であるならば、
このゲームは実質的には「積極的に動くマヌケなプレイヤーを暗殺するゲーム」となってしまう。この「実質的」という点が重要である。
このゲームは本来の「積極的に動き回る」という傾向を推奨する何らかの調整を行うべきであって、決してプレイヤーの「善性」を謳い、期待すべきではない。なぜか?
そのゲームが愚かにも善性を信じ、ルールを調整しなかった場合、最も得をするプレイヤーは狡猾な暗殺者たちであり、そのワリを食うのは善性に準ずるプレイヤーとなるからだ。
これは「善性に順ずるプレイヤー」に対する不誠実であり、冒涜以外の何物でもない。
件の記事のような「善性に基づき」などと言う謳い文句は、ルール調整を怠るためのただの言い訳でしかない。怠けでないなら浅はかだ。
「善性」を信じ尊ぶというのならば、決して「善性」に寄りかかるべきではない。それは善なる人の負担にしかならず、むしろ人はみな狡猾であれと推奨してさえいるのだ。
一方で、このような記事もある。
“日本社会に秩序があるのは「性善説」を前提にしているからだ=中国報道” https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20171105/Searchina_20171105001.html
日本には中国よりも「誠実な」人間が多いのではないか、それによってより効率のよいサービスができているのではないか、という趣旨である。
私がこれについて「なるほどその通り、日本人は中国人よりも誠実な民族なのだ」とは特に思わないが、そのような「教育」が成立し、不誠実な行動に罪悪感を覚えやすい人が多いのではないか?と考えることはできる。
しかし、この件でそれ以上に影響が強いのは、つまり「十分に高いホテルの利用者は、ホテルにある備品程度のものは必要だとは考えない」ということだ。
中国にしても、十分高級なホテルならば、チェックアウト時に備品チェックなどという失礼なことはおそらく行わないだろうし、日本でもカプセルホテルのような安いホテルでは盗めるような備品自体がそもそもないだろう。
無人販売所については、これはむしろ村社会的相互監視の恐怖や罪悪感の方が重要であろう。実際のところ「ここに住んでいるのは野菜を盗むような奴だ」と噂されて得をする人間はいまい。
私は昔「無人販売所でお金を払わない人はいるのか?」という趣旨のテレビ番組を見たことがあるが、「1円だけ入れる」ような所作で野菜を盗む人は複数人いた。この所作には罪悪感や監視を恐れる感情が見て取れる。つまりこういう不可視の「罰則ルール」が無人販売所というゲームを保たせているのだろう。
有名な観光地である豫園(よえん)近くを歩いていると、後ろを歩く友達が誰かに話しかけれれたようで、立ち止まっている。
横には20代と思しき中国人の女性。スマホを渡しながら「写真を撮ってくれ」と頼んでいるようだった。
話しかけられた友達のことを「若い女性に頼まれたんだから撮ってやれよ(笑」とからかいながら様子を見ていると、写真を撮られ終わった女性が「あなたたちの写真も取りましょうか?」と聞いてきた。それも英語で。
シャイな友達は「いいです、いいです。ノーサンキュー」と断ってしまったが、自分は(まぁこういうときはお互い様だ)と思いながら、自分のスマホを渡して写真を撮ってもらった。
あとになって考えれば、これがすべての始まりだった。
「写真撮って」をきっかけにして、相手の中国人女性が英語で色々話しかけてくる。
聞けば職業は幼稚園の先生で、2年前から上海に住んでいるという。日本語はちょっとだけ勉強したことがあり、この前の夏にはクルーズ船で福岡に行ってきたとか。
今度はこちらに質問してきて、いつから上海にいるのか、何日間いるのか、今日はどこに行くのか、どこどこ(上海の有名スポット)には行ったのか、などなど色々聞いてくる。
私のほうが英語が得意なので(そう、中国人女性との会話は英語で行われている)、相手の質問に答えつつ、友達との間に入って通訳っぽいこともしながら、5分ぐらいは路上で立ち止まって話していただろうか、さり気なく女性が「お茶は好きですか」と聞いてきた。
「ええ、お茶は好きです」
そう、私は中国茶&台湾茶が好きだ。大学生のころには、毎月のように横浜中華街の馴染みの台湾系茶屋に通っては、いろいろなお茶を買いつつお店のご主人の講義(?)を聞いたりもした。今でも台湾に行けば、台湾茶を大量に買ってしまう。そんなお茶好きと知ってか知らずか、相手がお茶の話を振ってきたので、私はすっかり警戒心が薄れてしまった。
「この近くで、年に一度の茶道(ティー・セレモニー)をやっているのですが、一緒に見に行きませんか?」
うん、見てみたい。それが、その時の正直な気持ち&答えだった。
ティー・セレモニーとは、なんだか仰々しい動きをしながら中国茶を淹れるパフォーマンスで、いわゆる「ザ・観光客向け」のショーなのだが、実は一度も見たことがなかった。それは、私自身がひねくれた性格(あんなもんは観光客向けの見世物だ!)だからわざわざ見ようとは思わなかったし、今までに日本や台湾で行ったお茶屋さんが本気の真面目な(?)お店でそういうショーをやっていなかったこともある。
しかし、この時ばかりは、どういうわけか、暇つぶしというか見世物として、そういうのを見てみるのも悪くないなと思ってしまったのだった。
「じゃぁ、一緒に行きましょう」というわけで、女性に連れられて(今思えば”釣られて”だ)上海の街中を歩いて行く。
歩きながらも女性は、こちらの年齢やら職業やらホテルの場所やら、なんやらいろいろと聞いてくる。私は他人からプライベートなことを根掘り葉掘り聞かれるのが嫌な性格なので、多少は誤魔化しながら適当に答えていると、今度は干支やら星座なんか聞いてくる。てか、干支はともかく星座の英語名なんて知らんがな!このお姉さん、英語力はかなりのものだった。
まぁそんな訳で、移動中もずっとしゃべりながら5分ほど歩いただろか、着いたのは(連れてこられたのは)裏通りにある間口の狭い古道具屋?お茶屋?のようなお店。
お姉さんは、店頭に立っていた赤い民族衣装を着た老女に「ティー・セレモニーはやっていますか」と話しかけ(いま思い出したが、英語で話しかけていた。老女は英語はチンプンカンプンのはずなのに)、そのまま我々を店内へと導く。
店の奥には、壁にやいかにも中国っぽい書や絵が飾ってあり、一通りの茶道の道具(茶葉やらお椀やら急須やら薬缶やら)が小さめのテーブルの上に置かれ、その周りを囲むように椅子が5脚ほど並んでいる。
ここでもまた世間話のようなものが交わされ、茶屋の赤い民族衣装を着た老女は「ティー・マスターの先生」だと紹介される。
ティーマスターの老女が中国語で話し、それをお姉さんが英語に訳し、我々がそれを拝聴するという翻訳リレーのティーセレモニーが始まった。
最初は茶道の歴史やらウンチクやらを語っていたのだが、おもむろに老女が”メニュー表”を出してきた。
内心で「あーやっぱり金とるのか」と思った。ここまで一切お金の話は出ていないが、こちらはなんとなくタダで見れるものだと思い込んでいた節がある。
しかしまぁ向こうも商売なわけだし、中国人がタダでわざわざショーを見せてくれるとも思えない。まぁそれ相応の金額であれば払っても仕方ないかと気を取り直して、メニュー表を見てみる。
メニュー表といっても、白黒印刷のちゃっちいものではない。それなりの厚紙にカラー印刷され、製本されている。背景には、茶器や茶葉の写真が印刷されており、まるでどこか高級料理店のメニューのようだ。おまけに、すべて英語表記。
老女がメニューの1&2ページ目を開き、お姉さんがメニューの一部を指して話しかけてくる。「この料金だけどいいですか?」
お姉さんの指の先、2ページ目の中ほどには「RMB48 / kind / person」とある。(RMBは人民元の英語表記)
一人48元。日本円だと約1,000円だ。高いとも言えず、かといって納得もできない、絶妙な値段だ。
普段はお金にうるさい私も、この時ばかりは、納得はしていないけどこの値段なら仕方ないという感じで「ああ、構いません。OK」と受けてしまった。
しかし、はて、見開きページの左下には”ルームチャージが20元”やら”テーブルチャージが30元”やら、なんやら書いてあるのだが、この説明はなし。
すっかり警戒心が薄れていた私は、(取り立てて説明しないということは、きっとこの表記は関係ないのだろう)と思い込んでしまった。
また、2ページ目のタイトルが「1.高麗人参茶」で、2番以降の続きがあることを思わせる表記だったが、メニュー表は老女が持ったままページをめくるでもなく閉じてしまったので、その先は見ていない。
そんなこんなで、ティーセレモニーが始まった。が、茶道の詳細は割愛する。
パフォーマンス自体は面白かった。合計で6種類のお茶を飲んで、それぞれの茶葉の解説。その間に、金運を呼び寄せる(?)ガマガエルの置物を撫でたり、お茶の淹れ方を教わったり、内容自体は悪くなかったともう。
パフォーマンスが終わると、老女が、先ほどとは別のメニュー表を出してきて、茶葉のお土産はいかが?と売り込んできた。
値段を見て、私は「むむむ、、、これはボッタクリやな」と思った。
ジャスミン茶やら鉄観音やら10種類ほどの茶葉が載っており、それぞれ大・中・小と3種類のサイズが有るようだが、小サイズの一番安いやつでも380元、なんと7,600円もする!
普段から飲む中国茶は100g 1000円もあれば十分、と思っている私の味覚&金銭感覚からすれば、これは完全に予算オーバーだ。
いや、もちろん超一級品の茶葉には驚くほどの高値がつくこともあるだろうが、私の感覚ではナシだ。それに、いま飲んだやつにそこまでの価値があるとも思えない。
「わー、美味しいお茶だった。私はお土産に少し買っていくわ」というお姉さんに影響されたのか、財布を取り出して買おうかどうか迷っている友達に小声て「買うのやめとけ、高すぎ」と耳打ちする。
お姉さん、こちらの戸惑う様子に気づいたのか「ああ、いいのよ、買う買わないは自由だから。私は買うわ。んで、あなたはどうする?」とあくまで買う雰囲気を作り出そうとする。
なんか嫌な流れになってきなたなぁーと思いつつ、「悪いけど、やめとくよ。最近は紅茶にハマっててねぇ、まだまだ在庫がいっぱいあるから」と半分本当・半分ハッタリの話をしてお土産購入は断った。
なんか早く帰りたいなぁと思っていると、店の老女、もといババアが勘定書を持ってきた。
おい、1,280元って、日本円でざっくり2万5千円だぞ。本気か、こいつら。
一瞬にして頭に血が上った私は、思わず「これちょっと高すぎない?」と文句を垂れる。
いわく、お茶1種類1人あたり48元で、3人で6種類飲んだから
48元 × 3人 × 6種類 = 900元 だという。(実際には48元より高いお茶もあったので、大雑把な計算で)
そこに、客引き女のお土産代が加算されて、締めて1,280元だという。
金額にピンときていないのか、財布を取り出して札を数えようとしている友達の動きを慌てて止めて、スマホの電卓アプリで日本円に換算した結果を見せて「高すぎだろ、こりゃ」とキレ気味にいう俺。
敵に向き直って「最初のメニュー表をもう一度見せてくれ」という俺。
奥から取り出されたメニューには、確かに”それぞれの茶葉のページに”「RMB48 / kind / person」、つまり「茶葉1種類当たり お一人様48元」とある。
あーそういうことね、このおちょこ口一杯にも満たないお茶一つに約1,000円を課金し、それが6種類だから6,000円だと。
あーそうですか、確かに書いてありますね、はい、そうですか、って納得できる訳がない。
「こんなの高すぎだろ」
「いや、ティーマスターの先生がこれだけやってくれたんだから、決して高くはない」
「日本でもこんな高くねぇぞ」
「茶道のパフォーマンスを受けたのは認めるが、この価格には納得できん」
「お茶一杯の値段は高いかもしれないが、ここ上海では、急須にお湯を継ぎ足しながら何倍もお茶を飲んで、何時間もおしゃべりできるシステムなのです。ほら、メニュー表のここにも書いてあるでしょ」(確かに英語でそう書いてある)
「そんなこと言ったって、こちとら、メニュー表の1&2ページ目しか見せられてないし、そこにある『一人48元』だけ払えばいいのかと思っていた」
とかなんとか、英語で喚き散らして少し興奮が収まった俺は、勘定書を手に取って冷静に考えてみる。
合計金額は2万5千円だが、そこには客引き女のお茶代とお土産代も含まれている。純粋に我々が払うべきは、相手の言い値では1万2千円、一人あたり6千円だ。
さて、この茶道パフォーマンスにそれだけの価値があるだろうか?いや、ない。払いたくない。だからといって、払わなくて済むわけでもない。
俺は手を顎に当て、少し考えながら、黙り込む。
客引き女が何か話しかけてきたようだが、怒りのあまり全然気づかなかった。
しばらくすると、敵も「面倒くせえ客だな」と思ったのか「じゃあ、いくなら払うのか」と態度を軟化させた。
なーんだ、やっぱりボッタクってる意識があるんじゃねぇか(笑
ここはあくまで、当初の理解どおり「一人48元」で押し通そうと、「3人分で150元なら払う」と言ったつもりが、相手は「1人あたり150元」と誤解したようで、「ならそれで構わない」ということになった。
横でポカーンとしていた友達に、小声で「悪いけど100元払ってくんない?」と言って、財布から100元札を取り出してもらう。
この時、財布の中に、100元札が2〜3枚と、日本円で1万円札が2枚、さらにパスポートまで入っているのが丸見えだったので、財布をさっさと仕舞わせる。
「んじゃ2人分で100元ね」
「え、いや、1人150元でしょ」
「いやいや、だから、最初から言っているとおり、1人48元だと思っていたの。だから、細かい端数は無視して、2人で100元!」
これには、さすがの店のババアも客引き女も怒ったらしく「そんなの少なすぎよ!」とかなんとか言っている。
「そんなのってあり?もう、まったく。せめて部屋代としてもう100元出しなさいよ」
(あーあ、面倒くせえなぁ。でも、あと100元でケリがつくなら)と思ってもう100元を出した。締めて200元のお支払だ。
この期に及んでも、客引き女は演技(?)を止めないらしく、
「あなた達が200元しか払わないなら、残りの分は私が全部払うわ」といって、本当に財布から100元札を取り出して払っている。
疑い深い私は、この光景を黙ってボーっと見ながら、頭の中は「なんだ見せ金か。払うふりして、あとで取り戻すんだろうな。わざわざこんな演技しなくても。」と冷めていた。
でも、この見せ金に釣られて、やっぱりお金を払ってしまう人もいるんだろうなと思った。
まぁ、兎にも角にも、支払いを終えて、そそくさと店を後にする。
客引き女は相変わらず話しかけてきたが、もう俺は怒りと情けなさとで、会話する気力もなかった。
「この後はどうするの?豫園を観光?」とかうるさいので、とにかく客引き女と離れたかった俺は「いや、ホテルに戻るよ。だから地下鉄の駅まで。」と言った。
本当は歩いて帰れる距離のホテルだったのだが、一緒に歩く友達に「余計なこと言うなよ!」と目配せしながら、「地下鉄でホテルまで戻る」と言い、客引き女とは駅前で別れた。
さて、結果的に2人で200元。1人あたり2000円弱の被害額(?)で済みましたが、百歩譲っても適正価値は半分の1000円ぐらいだろうと思っています。
ネットで検索すると、同様の被害例がこれでもかと出てきます。引っ掛けのパターンとしては、典型的な手口なのでしょう。
それは、相手が片言の日本語ではなく、英語でベラベラ話しかけてきたことも大きく影響していると思います。
ネイティブ日本人の私達にとって、片言の日本語にはとても違和感や警戒心を覚えることでしょう。しかし、相手が流暢な英語を話すとなると、日頃の英語コンプレックスも相まって、相手が対等もしくは上等の立場にすら覚えてしまいます。
もしかしたら、このボッタクリ集団の元締めは、そういった日本人の英語コンプレックスを付け入るために、あえて日本語を使わず、英語で商売をしているのかもしれません。
・英語が完全に理解できなくても、とりあえず「OK」と言ってしまう日本人(なまじっか少しは分かる言葉だけに、タチが悪い)
・英語で書かれたメニュー表をよくよく見てみれば確かにそう書いてあるので、仕方ないかと思ってしまう
・もし不満があったとしても、英語では言いたいことも言えずに、泣き寝入りするしかない
日本の振り込め詐欺のように、ある程度マニュアル化&パッケージ化されているのかも。
写真を撮ってくれと頼まれること、また旅行者同士で世間話や情報交換をする、それ自体はとても楽しいことです。
また、善意の現地民がおすすめの観光地に連れて行ってくれることも、本当にあるのかもしれません。(滅多にないからこそ、メディアが美談として取り上げる?)
・お茶屋に連れてこられた時点で「このお店は大丈夫なのか?」と、自分で立ち止まって考えなかったこと
・メニュー表を見せられた時点で、「総額はいくらなのか?」と相手に確認しなかったこと
要するに、自分自身でよく考えて、納得してから行動する、という基本原則を疎かにしてしまったことが、今回の失敗につながってしまったのでしょう。
がとっさにできなかったことです。
私の場合、スマートフォンをネックストラップで首からぶら下げていたのに、いざパニックになっていまうとスマホのことなどすっかり忘れてしましました。
今回の場合は、まぁしょうがねぇかーという感じで、いい勉強になったと思っています。
これが下手にマッサージ店とかに連れていかれたら、それこそ身ぐるみ剥がされていたかもしれませんし、被害額も少なく済んだと思って諦めつつあります。
同様に被害にあう方が一人でも減ることを願うばかりです。
左派リベラル(ソーシャル)=政府の介入によってこそ自由は達成される
で、多くの人が勘違いしてるのが、ネオリベラルは弱者を見捨てる思想だということ。
そうではなくて「民間による福祉」という前提があってこその政府による福祉の否定だということ。
それに対して、左派は政府の介入なくして平等で自由な社会は達成できないという意味でネオリベラルを批判しているってこと。
ネオリベラルの論者当人は「弱者を見捨てる思想」だとは考えていないということ。
すなわち、ネオリベラルは政府がやらなくても人々は自発的に弱者を助けるものだという性善説に立っているということ。
左派から見れば右派のリベラルの主張は右派リベラルの言うようには上手く機能せず
結果的に弱者を見捨てることになってしまうから、「弱者を見捨てる思想」だと批判するのだということ。
よって「弱者がどうなっても構わない」と考える思想はネオリベラルではないということ。
平時のマニュアル外の行動を個人の責任で勝手にやってるのかそれとも上にやらされてるのか不明だけど
統率のある組織行動がとれてないことからその場でイレギュラーな何かが起きてるのが明らかだから
増田が「薬の成分が血液から検出されなかった」の部分が真実なのか疑って健康被害を心配する背景はわかる
不正があると考えるとそもそもの出発点の「血液から何も出ない」が事実ではなくて
敵にわざと嘘を伝えて状況を操作しようとしてる可能性を疑わないのはノー天気だろう
やりとりが事実だとすれば治験に応募してくる患者の命は安いが医師免許を持つ側の常識で
まともな人がこういう仕事に関与してない世界なんじゃないのかな
仮にそうなら監視や仲裁を行うとされる組織もただ建前的に存在してるだけで仕事する場所とは誰も思ってない
性善説で登場人物がぜんいん正直者とすると残りの可能性は薬の製造のどこかにミスがあって薬が解けずにウンコと一緒に排出された可能性だな
はてなの外で擁護生地が出ててそこでは増田の話は信じない前提なのに機関側の主張は全面的に信用して薄気味悪さを感じて書き込んだ
悪いことはやってない、けれど、その要領を得ない性格のせいで理不尽な目に遭ったっていう感じよね。
おかしな集団のおかしな意識に飲み込まれずにあなたはあなたを保てたのだから。
でも、その逆にあなたはあなたを保とうとするばかりに他者の気持ちを鑑みれなかった。傲慢な教師に性善説を振りかざしてしまった。けれどそれは失敗であって、罪ではない。
結果、単なる罵倒で終わってしまったけれど、本来怒るべきはあなたに対してではなくその教師に対してであった。だけど勝てなかったからあなたを無視した。その時点で彼等は精神的に敗北してしまった。
つまり、あなたはクラスの人間よりも上位にいるのだ。誰もあなたを褒めなかったとしても私はあなたを褒めるよ。
勿論、これからもその不器用を続けろだなんてひどいことは言わない。だけど、その不器用な正義が彼等に軽微な罪を共有させなかったことは良い事だろう。
しかし社会はもっと仄暗くて、真面目だ清楚だな彼氏彼女達が吐き気を催すような外道行為に走っている場面も見受けられるだろう。
だがもう、赦してやってほしい。彼等はあなたになれなかったのだ。どれだけお金を稼ぎ、どれだけ立場が上がり、どれだけ幸せな家庭にその身を埋めていても。
あなたのような正義を持てなかったから軽々しく禁忌に身を染めていくのだ。
そんな彼等を赦してほしい。上位におられるあなたならばきっといつかの彼等も、愚かな教師も、無知蒙昧な増田も奸佞邪智な2ちゃんねらーも赦してくださる筈です。
嗚呼、憐れな我々にどうか御容赦を。