はてなキーワード: 思い入れとは
料理すんのめんどいからIHヒーターとか一切なしで低温調理器用の水槽をキッチンに3個並べてんのね。
鶏むね肉用、ローストビーフ的なやつを作る用、煮豚的なやつを作る用みたいな感じで
で、こないだ彼女を家に呼んだんだけどキッチンを見たら「こんなのキッチンじゃない」って言い出して
えー!?じゃん。
毎日鶏ハムとローストビーフ的な牛肉と煮豚煮魚的なアレを作ってる男そうそういないよ。知らんけど。
「これはキッチンじゃなくて理科室」「キッチンに対する冒涜」とかさんざんな言われようで、
いや、君が料理するの好きなのは知ってるけどさー、俺は俺なりに最大限努力してるわけじゃん。
でもでも作った料理だって今日はパサパサしすぎてたからちょっと温度下げてみるかとか
それは認めてくれてもいいじゃんかー。
まさかそこまでキッチンに対して強い思い入れがあるとは思わなかったよ。
俺は今の食生活に非常に満足してるし将来的にも定期的に低温調理した料理が食べたいと思ってんだけど
ここの価値観のすり合わせって意外に難しいんだろうか。
→今は別のゲームにハマってる。
旦那はやってないけど一緒にYouTube見たりはしてるからイベント内容とか仕様は理解してくれてて「イベント進んだ?」とか聞いてくれる。
私も旦那だけがやってるゲームの内容を把握して一緒に話したりしてるから、同じものを共有して相手に楽しんでもらうっていう気持ちがあればたぶん大丈夫だと思う。
個人的に入念に下調べして合わせてくるタイプは苦手なんだけど捨てる神あれば拾う神ありだよねえ
相手の方が変なんだと思っとけ。人の相性はほんと個人差あるから)
→これはほんとにそう!!!
相手に合わせて変に修正したところで付き合う事はできたとしてもそれをずっと続けるの大変だし。
そのままの自分でも一緒にいてしんどくない人を見つけた方がいいと思う。
(追記終わり)
仕事終わりに食事をしたんだけど、彼は緊張してるのか表情もあんまり変わらないし口下手で会話も弾まないしで、「あんまり楽しんでもらえなかったかな?次は無さそうだなー」って思ってた。
ちょうどポケモンGOのリリースから数日後だった事もあってその話題も出たんだけど、その翌日「次は食事だけじゃなくて1日デートしない?ポケモンGOしよ。」って誘われた。
私はけっこうオタクで、ポケモンGOにもハマってたんだけど一緒にやってくれるほどハマってる友達もいなかったから二つ返事で会う日を決めた。
とは言いつつ、今までもゲームをダシに誘っといて結局月並みなデートコースだったりすぐ告って来る人もいたからそこまで本気じゃなかったんだけども。
なんと彼は6時間くらい公園を散策したりレアポケモンが出るという場所を調べてきて一緒に遊んでくれた。
彼は全くオタクじゃないし、ポケモン自体も初代をちょこっとやった程度でそこまで思い入れもないのに嫌な顔1つしないで付き合ってくれた。
そんで彼は彼でマイペースなのでこっちも気を遣わなくて良かったしすごく楽しくて、トントン拍子に付き合って結婚してってなった。
あれから6年経って、私のポケモンGOへの熱は冷めたけどログインだけは毎日してる。
旦那も私に合わせてログインだけはしてくれて、「このポケモンなに?」とか「1人じゃ倒せないからレイドバトル手伝って~」とかやってる。
ポケモンGOがあのタイミングでリリースされてなかったから1回目の食事で終わってたかもしれないので、旦那とポケモンGO起動して遊んでると毎回感謝する。
トプロはやたら良い子ちゃんなキャラ付けで面白みが全く無く、語られる内容もウマ娘なら誰にでもあてはまりそうなものばかりだ。
アヤベは完全にメンヘラとなってしまっていて、目の前のレースにも人間にも集中せず自分の脳内にしか存在しないものに延々と執着している。
オペラオーはオペラを引用して諳んじる割合の大幅ナーフにより芝居がかった態度を取るだけのキャラクターとなった。
非常に残念だ。
競走馬の歴史を擬人化するというコンセプトにおける解像度が大幅に下がっている。
というか、自分たちで一度は作り上げたウマ娘像への思い入れも薄くなっているのではないか。
ウマ娘第1・2シーズンにあったそれぞれの競走馬のイメージに対する集合意識を描き切ろうという執念が失われているように見える。
主役でないウマ娘が雑多なキャラクター性に埋もれてしまうことに対して諦めはつく。
ドトウがオペラオーの太鼓持ちみたいになっているのも今回はモブだから仕方がない。
主要3人の描き方に奥行きが感じられないのは流石に問題だろう。
アドマイヤベガを「双子だったから片方を潰した」というストーリーを中心に描くこと自体がどうなのかというのがまず疑問で、ウマ娘というワンアイディアで作品を作ること自体がもう限界に近いのではとさえ感じさせる。
オペラオーのキャラ付自体は成功していたと思っているのだが、その尊大さを見ていて楽しいものとして描くことが出来ておらず、王道を外したキャラクターの魅力の出し方自体が共有されていないのではないのだろうか。
ウマ娘初期の頃にあった何を描いても競走馬の擬人化というコンテンツの目新しさのおかげで評価されるという時代は過ぎた。
今度は個々のウマ娘の個性によってユーザーがまだ耐性のついてない刺激を見つける必要があるというのはよくわかる。
トップロードの物語は他の2人と比べてもバランスがよく王道の安定感はあったが、それは既にウマ娘の世界において見飽きたドラマの再上映でもあったからだ。
濁す必要ないぐらい丸わかりなタイトルだと思うけど、出すユニットが選べる戦略シミュレーションゲームを遊んでいたんですよ。
俺はチマチマしたプレイが好きだから低威力・高機動のユニットでだらだら時間をかけて削って倒すプレイスタイルで進めてて、そういう特化プレイだと難しいところもあったけどギリッギリなんとか進めることができた。
そしてとうとう最終ステージに到達した。
しかし、そのラス面が鬼畜すぎた。ラスボスだから多少の強さは覚悟してたけど
・高耐久
・高威力
・高命中
・高回避
これだけでもまた一段階上の総力戦を覚悟するものだけど、それに加えて
"ターン制限"
があった…
最後の最後に思い入れより駆け足プレイを強制されるとは思ってもいなかった。
これにより俺の使ってたユニットはほぼ役立たずになった。
まず、低威力のためボスを削りきれない。そもそも取り巻きを倒して道を切り開くのにも時間がかかってタイムオーバーになる。基礎命中力を重視していたせいで相手の高回避で必中ではなくなり、低威力がさらに加速する。
ボスの高威力はこちらの体力を一撃で吹き飛ばし、トレードオフで伸ばしていたこちらの回避力は相手の高命中でつぶされている。普段なら確率の問題で数体落とされても気にしないが、時間制限の中では頭数の減少は火力の減少であり死活問題だ。ラスト付近でしか許容できない。
結局、クリアするには相手の攻撃は高耐久で無理やり耐えて、威力だけをごりごり伸ばして必中補助で削るというプロレスプレイを強要された。もちろん思い入れの薄い、愛用してこなかったものでだ。ほかの解法はいろいろあるんだろうし縛りプレイ動画もあるようだが、自分はあまりゲームが上手くないためこの方法でもかなり苦戦した。普段のラスボスの苦戦とは違う公卿だった。
増田は世界樹やメガテンもプレイするので戦略重視のゲーム自体に否定的ではないのだが、流石に最後だけプレイスタイルを変えるのは堪えた。
時間制限なしか前面がクリアできる戦力でクリア可能のどちらかなら許容できただろうが、二つ強要はもう尊厳破壊と言って差し障り無いでしょう。
XT-6が主流だけど、品薄だしちょっと逆張りたい。でもXT-6みたいにシュータンのテープがカラフルな奴がイイから、スピードクロス4に落ち着いた。
トレラン用ではあるけど、普段履きでも満足の履き心地だ。ただ、アスファルトだとソールがゴリゴリ削れてる気はするけど。
シルエットも良い。
私はマジのシューゲイザーだから上から、自分から見た時の形にこだわりたい。エアマックス95なんか横から見ると抜群だけど、上からだとイマイチだから好きになれない。
尖ってるのは趣味じゃないし、ボテっとし過ぎてても締まらない。指の付け根の辺りで程好く膨らんで、トゥが若干丸いのがベストだ。
足小さめだし横幅も広めだから中々そういう形になってくれんのだけど、サロモンは型崩れもせずようやっとる。
ただ、後継モデルはテープの色が普通のやつしかない。今の死んで買い替えるとなると、次は諦めてXT-6だろうか。長く保ってくれよ。
あと同じく最近流行りのアシックスを今日ポチった。前々から気になってたけど、GWセールだったから。
プロトブラストは不人気色っぽいけど、私は緑好きなのでOK。黒と赤と緑は最もかっこいい色に違いない。
トラブーコはgtxだからこれからの時期バッチリだ。雨用ブーツもあるけど、スニーカーなら楽でイイ。
どっちもスラックスに合わせたいね。ありきたりだけど。上には何を持ってこようかな。冬になったらテックに寄せるのもイイ。
BW AMRYは結構履いてるけど。ドイツの会社が出してんだから本物に違いない。スタンスミスよりジャーマンの方が好きかもしれない。流行りに躍らされてんのかな。
スーパースターもめっきり履かんけど、手放す気にはなれないな。気まぐれにHIP HOP聴いて衝動的に履きたくなる事あるし。
定番の品は手元に置きたい、なんて思ってたけど結局は思い入れが大事だな。
わざわざ海外のサイトで安く買ったCT70も全然履かずに売ったし。小遣い稼ぎにはなったな。
NIKEはなんかいけすかねえから履きたくないけど、AF1は避けて通れなかろうと思って買った。
でも投げ売りされてた真っ黒のライバルリーを気に入って、結局あっちは売っ払った。いつでも買えるってのはすごく強いと思うけど。
全く履いてない靴もある。
2002Rは流行ってたから買ったけど、まだ履き下ろせてないな。このまま寝かせて新品でメルカリ流せば…って気持ちが躊躇させる。
マーチンとか履くのが億劫で1年以上ご無沙汰だけど、これは手放す気になれないな。
靴箱に置いた時にこれがある安心感は、やっぱり定番の魅力なのかな。血を滲ませながら履き慣らした思い出もある靴だし。
たまには履いてやらんとな。靴は履いてナンボだ。
Gel-chappalは履く頻度こそ少ないけど、お出かけすっぞ!って日にはこれだな。
自分は三重県鈴鹿市出身で現在も鈴鹿市在住、幼い頃から鈴鹿という言葉に囲まれて育ってきた。
私の地元には鈴鹿と名のつく施設がたくさんある。遊園地、学校、山脈、企業、デパート等、様々な場所で鈴鹿という言葉が使われているが、それらはもちろん鈴鹿に縁を持つから鈴鹿を名乗っているわけだ。
そんな自分が同じく鈴鹿を名乗る、新進気鋭の俳優「鈴鹿央士」を見ると、どうしても「鈴鹿央士って誰に許可得て鈴鹿を名乗ってるのか?」と感じてしまう。
そもそも鈴鹿という言葉の出自は非常に古く、地名の成立から定かではない。
最も古いところでは日本書紀(西暦720年完成)にも鈴鹿の名は登場し、それでいうと我々鈴鹿市民は1300年以上鈴鹿という地名を守ってきたことになる。由来も鈴をつけた鹿がいたとか、鹿に鈴をつけて川を渡ったとか、古い地名によくあるように色んなふうに言われている。
だいたい鈴鹿をスズシカでなくスズカと読むのもその成立が古いことを表す証左だ。古代の日本では鹿のことを単にカとか、カノシシなどといった。もし令和の時代に鈴と鹿を使った地名を作るならスズシカだろう。でも鈴鹿市は1300年代々住民がその名を守ってきたからスズカと呼ぶのだ。
日本には他に鈴鹿という地名や鈴鹿と呼ばれる事物はない。正真正銘鈴鹿の民がずっと守ってきたからこそ、鈴鹿という日本語が存在するわけである。
鈴鹿央士に関して特段の説明は不要かと思う。それでも知らない人のために説明すると、彼は映画やドラマで広く活躍している俳優だ。最近だと2022年に大ヒットした木曜劇場のドラマ「silent」にも出演していた。要は期待の若手俳優である。
この鈴鹿央士なる人物がテレビに出てきた頃、自分はてっきり鈴鹿という名字は本名なのだろうと思っていた。しかし、名字は芸名で後からつけたものらしい。そうなると鈴鹿という芸名はやはり鈴鹿市に由来するような名前なんじゃないか?とちょっと期待してしまう。鈴鹿央士の芸名命名についてのエピソードがあるので紹介する。
央士が高校2年生だった2016年、ある映画のロケが通学していた高校で行われ、エキストラとして参加。その際、出演者の広瀬すずの目に留まり、広瀬がマネジャーにスカウトするよう進言した。
2018年、スカウトをきっかけに、東京の大学へ進学すると同時に芸能事務所に所属。広瀬すずの「すず」にちなんだ芸名として「鈴鹿央士」とした。
驚いたことにこの俳優は鈴鹿を名乗りながら鈴鹿市とは何ら関係がないらしい。ただ広瀬すずになぞらえて鈴がつく名前なら何でも良かったようだ。
鈴鹿の民が1300年守ってきた鈴鹿という地名、なんら鈴鹿との関係も持たない俳優が、ただ鈴が付く言葉なら何でもよかったという理由で自分の芸名として使っているのはなんだか釈然としない。
それに加えて情報汚染である。最近ニュースサイトでも鈴鹿が踊る題目をたびたび目にするようになった。しかし中身を開いてみると鈴鹿央士の話題である。テレビを見ていても「鈴鹿が〜」という話を聞くことがあった(日テレ系だったと思う)。なんだなんだとテレビを見るとこれまた鈴鹿央士の話題。鈴鹿と言うのに鈴鹿市関係なくガックリくる。
鈴鹿という言葉はこれまで我々鈴鹿市民が使い、我々鈴鹿市民のためにある言葉だったはず。どうして鈴鹿の地に関係のない人間の話題に吸い込まれないとならないのか。
鈴鹿市民だからといって鈴鹿央士の名にケチをつけるな、鈴鹿を名乗ることぐらいいいじゃないかというご意見ももちろんあることと思う。おそらく鈴鹿央士に対するこの憤りは、幼い頃から当たり前に鈴鹿という地名に囲まれてきた人間でないと通じない。なので1つ思考実験をしてみたい。以下はあくまでフィクションの話だ。
最近ハリウッドで新進気鋭のイケメン俳優がデビューした。身長190cm、ふわりとした金髪に青い目、スーツのよく似合う長い足は白人の特徴をよく表している。彼は芸名Mr. Japanを名乗り、現在もドラマに映画に大活躍している。
Japanを名乗った理由は意外だ。彼は学生時代、Justin Bieberに声をかけられそれをきっかけに俳優の道を歩むことになった。この道を進むきっかけになったJustinに感謝の気持ちを込めて、芸名はJで始まるものにしたいと考えた。別に日本に思い入れはなかったがJから始まる適当な単語でMr. Japanを名乗っている。
彼の活躍はニュースサイトでもよく見かける。「Japan映画が大人気!」「いま大注目のJapanに密着」。日本で生まれ育った私達が密かな期待を込めて記事を開くと、その中身はMr. Japanのニュースだった。テレビでもJapanの声を聞く。「Japanの演技は最高ね」「会ってみたいセレブはやっぱりJapanだよ」。メディアではもうすっかりJapan=日本のイメージではなくJapan=イケメン映画俳優になった状況に、日本で生まれ育ったあなたは深く溜息をつくのだった。
もしあなたが上記の思考実験でため息を付いた人物であったら、Mr. Japanに「誰に許可得てJapanを名乗ってるの?」と文句の一つでもつけたい気持ちになったりしないだろうか。そうであればその気持ちは今自分が鈴鹿央士に感じているものと同じものだ。
私は鈴鹿央士に特に攻撃的な感情があるわけではない。ましてバッシングしようとか活動止めさせようだなんてことは微塵も思っていない。ただそれでもやはり、鈴鹿市になんのルーツも思い入れもないのに勝手に鈴鹿を名乗っていることに、深い憤りを覚えてしまうのだ。
最後に、どうして携帯電話でスズカと入力して一発で鈴鹿と変換できるのか、それは鈴鹿市民がこの地名を大切にし守ってきたからこそなのだ。鈴鹿央士さんが鈴鹿市で1300年守られてきた鈴鹿という地名になんの思いも持たないのであれば、さっさと改名してもらいたいものである。
オープニングの前の任天堂のスーパーマリオのシーエムで泣いてしまいそうなほどそんな思い入れは無いんだけど
もうあれはひっちゃかめっちゃかの1-1のステージにクッパが何匹もバトル勝ち残っている終盤には出てくるというカオスさがスーパーマリオなのね!って思って
Switchで色々遊べるスーパーマリオがあったのでそれで遊んでみたぐらいの私のスーパーマリオ歴なんだけどね。
なんかでもゲームの画面がそのまま動いてこれもうゲームにしても面白いのかもね!って思うぐらいなワールドで
あれだわ、
スーパーマリオランのキノコ王国!ってあれがもっと密度がギュッとキノコ王国を集めた感じの景色だったのよね。
自ら文字通り私自ら出る!って勢いで戦いに行くあれファイヤーピーチになるとき服の色が変わるのが最初意味が分からなかったけど、
ああ!そう言うことねってマリオもファイヤーマリオになるのと同じ理屈なんだわ!ってプログラムをあとで読んで腑に落ちまくりまくりまくりすてぃーだったわ。
私が好きだったのはファイヤーフラワーのお花畑が綺麗だったし、
ドンキーコングと戦うときのステージにはてなブロック叩いてアイテムゲットしたんだけど、
あと、
ノコノコが意外と強いってことよ。
おまえそんなワザ秘めていたんかーい!って
踏んづけて蹴飛ばされるだけじゃなかったんだわ。
あんた強いのね!って言って言えそうなレヴェル。
総じて良かったけど、
私もSwitchで遊べるマリオをやろうと思って遊びたい気持ちはあるんだけど、
今はスプラトゥーン3のヨビ祭中だし、
もうさ、
昨日は勝てず調子悪くこんな時は寝るに限るわね!って調子だった。
うふふ。
渋々と思いながら食べるのは良くないわね。
お茶を入れるガラスの容器と私がルービーを飲むガラスのコップがそれを使うと足りなくなるので、
また私の好きなガラスのコップのことについては書くわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
・なぜか映画のストーリーでマリオは父親に認められたことになるらしい
・とにかくドラマが足りない
・描写不足
・ピーチやピノキオ隊長はマリオを一瞬で受け入れすぎではないか
・ピーチとピノキオの出会いなども語られているがあそこはもっと掘り下げるべきではないか
・結婚式で捕まった面々が生贄にされるのは意味がわからないしストーリーの都合でしかない
・マリオギャラクシーに出てきた青い星は何かストーリーに関わってきそうでひたすらネガティブなのことを言ってるだけで何もない
・そもそもクッパがピーチに求婚する理由やそのきっかけがまるで描写されていない
2年前に父親を亡くした
父親にはそこまで思い入れがなく、亡くなった時も涙は出なかった
父親は寡黙な人で、あまりコミュニケーションを取ったことがなかった
自分が幼い頃は遊んでもらったこともあったが、中学生以降は話すらあまりしなかった
自分は大学に入って一人暮らしを始め、さらに父親と疎遠になった
そして自分が社会人になって5年後、病に倒れ亡くなってしまった
60代そこそこという早い死だった
その父親が、何度も何度も夢に出てくる
父は気難しいところがあったが、夢の中では穏やかだ
生前自分が叶えられなかった父親とのコミュニケーションを、夢で叶えているかもしれない
2年で父親が夢に出てきた回数は100回以上。
現実には父親は亡くなっているが、これだけ出てくると父親が生きてるかのような気持ちになる
寂しくないし、現実には会えないけど夢の中では会えるので、体感としては生きているのと同じだ
だから、もし誰かが亡くなっても、夢の中で会えればそんなに寂しくないのかもしれない
ジャニオタは母数が多いからヤベーやつも多いっていうのは本当にそう。えてしてやべーやつの方が声が大きいからやべーやつしかいないようにみえてしまうけど、そんなことはない、はず。
先代性加害に対するジャニオタの反応で今まで知られてるものとしては
・よく知らないし興味もない、楽しいことだけ考えていたい。割り切り層。
・なんか嫌な気がするけど深く考えると怖くなるから見ないふりをしている。逃避層。
・推しが変に思われたら嫌だから黙ってほしい。事なかれ主義層。
・みんなに慕われてる先代がそんなことするはずない!ジャニーズを貶めようとするデマ!純粋層。
・今さら何言ってんの? だから何? 売名うざい。売れないやつの僻みだよね。抑圧層。
などが多いと思うんだけど、私は数年前にここに
・何が起こっているがよく承知しているし問題の重要性もわかっているがその上で残酷エンタメを楽しみたい層
がいるというのを知ってしまい、大変なショックを受けたものだった。
普段推しにキャーキャー言ってるだけの人がジャニーズへの思い入れで問題から目を背けるとか本質をごまかそうとするのはまだわかるんだよね。
そうじゃなくて、教養があって、冷静で、物事を分析できて、お金の使い方に余裕があるおそらくそれなりの年齢の人が、『良識ある女性』が、
「ジャニーズのエンタメは女を性的に見てこないから安心できる、だってジャニーが好きなのは少年だから」とか「(手を出されたことによって)陰が出た少年は色気がある」とか言ってるのがマジでキツくて、その人たちは先代が好き勝手にふるまう事を「も~おじいちゃんはしょうがないなぁ」みたいな感じで受け止めていて、彼の加害をちょっとしたおいた、どころかそれ(性的な目線)があるからこそ美しく魅力的で才能ある『ジャニーズらしい』少年を発掘できると評価しているのだった。
一方タッキーと少年たちとの関わりは兄貴分と舎弟みたいな感じで、これはこれでホモソーシャル感はあるが少なくとも性的な意味合いはないので、彼女たちは「タッキーとは男の趣味が合わない」が口癖だ。
同年代の少年たちと時に競い時に親しくしながら権力者から望まぬ性的な扱いを受けるというストレス負荷の高い環境で、それでも生き残る才能と偶像に化けるスター性を持ったどこか憂いを帯びた美少年、それが彼女たちにとっての『ジャニーズ』である。
なぜ私がこんなに詳しく彼女たちのことを知っているかというとわりと趣味が似ていたからだ。だからツイッターを見ていて楽しかった。言語化が上手く、フォロワーが多い人たちだった。
でもそういう趣味が許されるのって二次元限定だと思う。彼女たちの、自分の楽しみのためならば子どもに辛い思いをさせてもいいと思っているその根性、アイドルをまるで人間扱いしていない態度があまりに邪悪で、見るにつけ怖気が走った。
あんなに讃えているのに、あんなに才能を認めているのに、そこに人としての情愛はなく、ただ理想のお人形を愛でているだけなのだ。
そして彼女たちはそれを『正当なファンの楽しみ方』だと思っている。長年ジャニオタを続けてきた『事務所推し』としてそう確信している。いまもなおジャニオタではあるが、『偉大な先代』の性的な目線を失ったジャニーズは普通の芸能事務所みたいになっていってつまらないなぁと感じている。
もう本当に腹が立つので、ジャニー氏の騒動がどうなるにせよ、この人たちが全員泣きを見る結果になってほしいと私は願っている。
映画好き、というか映画館が大好きで映画をよく観る。平均するとだいたい年に70~80回くらいは映画館に足を運んでいるので、まあまあ映画をよく観ている方だと思う。
東京に住んでいるのでシネコン、単館、名画座含めて都内のほとんどの映画館に足を運んだことがあるけれど、私が一番大好きな、自分にとって宝物のような映画館は109木場だ。思い入れのせいもあるかもしれないけど、この評価は20年間変わっていない。
109木場は名前のとおり東急系列のシネコンで、109シネマズの中でも港北に次いで2番目に古い2000年オープンだ。
郊外によくあるようなイトーヨーカドーの3階の片隅にある何の変哲もないスーパー併設型のシネコンであり、特別お洒落でもないし、日曜日には家族連れで来た子供たちが騒いでいるし、特別設備が優れているわけでもなくロビーだって狭いし、トイレだってロビーの1か所にしかない。
それなのに、いつだって映画体験の満足度がとても高い。そんな不思議な映画館だ。
トラバした記事のブコメを見ると、たぶん同じことを考えていてひっそり109木場を愛している人がちらほら居そうなので、こういうことを書くと「お前黙っとけよ!」とツッコまれそうな気がしないでもないんだけど、はじめに”なぜここが素晴らしいのか”の身も蓋も無い一番の理由を書くと、「いつもやたら空いているから」だったりする。
イチ押しの理由が「映画好きが観たい映画を観たいときにガラガラだから」という、映画館にとってはネガティブな理由を素晴らしいと言われるのはちょっと困りものだと思うし、それが理由で人気が出て混むのも正直嫌だったりもするんだけど、お客さんが入らなすぎて潰れてしまいでもしたらもっと嫌だから、ほどほどのところで素晴らしい映画館であり続けてほしいという複雑に我儘な気持ちがある。
少し前にアド街で木場の特集が組まれたときにギャザリアが上位になって、それを見た女優さんか誰か(失念しましたすみません)がチラッと「ここの映画館がとても好きでよく来るんですよ、その理由は、いや、うん」みたいな歯にものの詰まったような言い方をしていて、あなた絶対今同じこと考えていて喉元まで言葉が出掛かってたでしょ?と思って笑ってしまったのだけれど、でもとにかくここの映画館はシネコンの安定した品質と快適な空間のバランスが程よくて居心地が良いのだ。
最近、109シネマズが歌舞伎町タワーにプレミアムシート専門の映画館を作って話題になっているけれど、ターゲットが違うと言われようが貧乏くさいと言われようが私なら歌舞伎町に行くくらいなら木場まで地下鉄に乗ってこの何の変哲もないイトーヨーカドーの隅の映画館に行く。ここで映画を観るときは予約すればほぼ確実にプレミアムシートが取れるし、追加料金も無いしね(なんならガチで貸し切り上映だったり……んがんぐ)。
で、ここまで書いて「なんだ中途半端なところにあるからガラガラだっていう話かよ」ということになってしまいそうなんだけど、それだけじゃないんだよということを書きたいというのが本題だったりします。
私自身は今は東京区部の西側に住んでいるので、木場は都内を横断して反対側に位置している。実際のところ一番よく通う映画館は新宿三丁目界隈だし、一番設備がいいシネコンは池袋のグラシネだと思うし、お祭り騒ぎを楽しみたいときは立川にも行くし、渋谷や馬場や中央線沿いの単館や名画座にも大好きな映画館がいくつもあるけれど、それに負けない魅力が109木場にはあるのです。
まず映画館の在り方として、設備の程よさ、ちょうどよさが心地よい。スーパーの一角にあるから当然気分がムーディーに盛り上がってまいりました!という感じではないけれど、建物の入り口からの導線が短くてコンパクトにまとまっていて気分が散漫になることが無いし、テナント群との距離も取られているので騒がしくもない。最近のシネコンはスクリーン前の廊下まで明るくモダンな内装にするところが多いけど、ここは良い意味で一昔前の郊外のエンタメ施設っぽい暗い廊下が映画への集中を促してくれるので好きです。
もう古いほうのシネコンになるけれど、肝心の映画設備はスクリーンも席も行き届いていて快適です。かなり初期からIMAXを備えた数少ない映画館だったので「立派なIMAXがある劇場」という先入観があったせいもあるかもしれないけど、音響も悪くない(というか結構良い)と思う。そんなIMAXも古いだけあってずっと希少ですらあった「ただのデジタル」だったんだけど、つい最近IMAXレーザーにリニューアルされて現代スペックになった。サンキュー東急。
109の中の人によくわかっている人がいるのか単に微妙に山手線圏内と商圏がかぶらない場所にあるからなのかはわからないけど、なぜか一部で話題になっているような映画ファンのツボに入る映画を引っ張ってきて掛けていることが多いのも109木場の特徴。新宿ピカデリーでやっているようなインド映画の大作とか、ミニシアター系の話題作なんかも109で木場だけ上映していることがよくあって、そういうときはここで観るとプレミアムシート(無料)で快適に観られるので圧倒的に満足度が高い。何かそういう配給の仕切りがあるのかな?
んで例えば過去で言えばバーフバリIMAXとかバジュランギおじさんと小さな迷子とか、最近ならRRRみたいな歌って踊れる映画をやると、ファミリー層向けのシネコンとは思えないような音量を鳴らしてきたりして、ああシネコンの音響って本気出すと爆音映画祭みたいなスピーカー無くてもこんな音量が出るものなんだって感動したりする。当然、確信的にやってますよね?(知らないだけかもしれないけど、同じ109でも他のところではそういう感想を持ったことが無い気がする)
あとは、これは映画館の力ではないけれど、やっぱり木場という街のロケーションが良いですよね。
ほぼ都心と言っても間違いではない場所なのに、シーンとした郊外のようでもあるあの不思議な感覚。平日の夜レイトショーで映画を観て帰ろうとすると、休日のお昼なら子供たちの声が聞こえてきて騒がしいんだろうなあなんてことを想像しつつ、人もまばらで誰もいない(ガラガラだから……)ショッピングセンターのシャッターが閉まったフロアの脇をすり抜けて地下鉄の駅へ向かうあの感覚がとても良いです。オフィス街でもあるのであの辺で働いている人にとっては何言ってんだこいつという感じかもしれないが、そもそも郊外型のショッピング施設なのに都心のオフィス街の中にあるという独特な雰囲気がある場所って結構珍しくて、そこが似たような立ち位置にある近隣のシネコン(豊洲とか亀有とか市川とか)とはちょっと異質な雰囲気の元になっている気がする。駐車場に泊めたクルマで帰ろう、というのではなくて、ああ良い映画だったなあ、って思いながら木場駅に潜るあの瞬間がとても好きだ。
もちろん、トラバの記事にあるように木場の街自体とても魅力が高い。MOTで気に入った展覧会を観てから木場公園を抜けて映画を観て帰るとそれだけで充実した休日になった気がするし、数ある人気店のラーメン食べたり、木場らしくタンギョー食べたり、美味しいカレー屋も多いし、清澄あたりでコーヒー屋めぐりをしてから向かっても良いし、なんならギャザリアのレストラン街やフードコートのぽっぽで時間を潰す休日も良い。
応援している人間はもれなく被害を大きく捉えないようにしてるよね、実際はそんなにたくさんじゃないはずみたいな、多分逆だと思うけど
どうしてもデビューさせたくて少しだけ手を出して免除したジャニーズとかいるのかな?
だとしたら自分の代わりにたくさん被害にあってる人間がいて口にできないとかあるのかなあとちょっと思った
自分は拒否して少ししかされなかったから拒否できなかった人間に後ろめたいとかね、そういうのあったらえぐいな
耐えられなかった人間が辞めるんだから売名もクソもないし、性虐待が嫌でやめた元Jr.の話とかけっこう出てくるよね
ただ被害者であるアイドル本人がジャニー喜多川を讃え褒め被害を口にしないから応援する人間がそれに触れないのはわからないでもない
全く思い入れのない自分ですら被害者が口にしないのに被害を騒ぎ立てることに若干後ろめたさあるし、よく考えてみたら大抵の性被害は被害者が訴えてることから始まるもんね
もちろん拒否している人間がいてその人たちは黙らされてるから被害者はたくさんいるしジャニーズなんか国と警察が無理やり解体しちゃえばよかったのにと思うけど
今回もその点はちょいちょいある
ただしかし最近の作品の中だと、言うほど…なのでその勧め方はよくない
脚本家はおそらく原作を未だにまだちゃんと読んでないんだと思う。この脚本家はずっとそう
でもまぁいいや。コナン✕灰原もいい。そこへの想いは伝わった
勿論端々で今、青山の手が入ったなと思うところは多いのだが、行動で崩壊していくのだ
そして原作での立場だと「そうはならんやろ」ということも多く「脚本原作読めよ」と言う思いが強くなっていく
もう何年も脚本してるのにね…だからこそ今作の脚本の雑さが分かって辛かった
もっとちゃんと組み立ててくれてたのに今作はどうしてそうなった?という出来
インタビューを見ると最初の事件案から付け足したり消したりして残った設定が散見されたのだが、本当に残った設定がゴミのように散らばっていて目障りで仕方なかった
確かにコナンと灰原のストーリー部分だけ見たら、原作灰原とかなりキャラ性が違うが、二次創作灰原と思えば丁寧に描かれてたと思う
しかしそこ特化しすぎたのではないか。これじゃあ本当に同人誌みたいだ
OPも酷かった。これ過去最低。音楽も入れ方が酷い。作画もここ6作くらいでは一番だめ。なんで?監督にはがっかり
盛り上がるところもない。ノルマのような「いつもの」も地味すぎて「お約束」にはなってない
画面が常に同じ、薄暗い、カタルシスもない。事件規模が小さい。単調
別に自分は灰原との恋愛模様あたりも青山が加えた流れで納得した部分があり、いわゆる炎上部分は否定的ではないのだが、