はてなキーワード: 庵野秀明とは
庵野が「シン・ウルトラマン」&「シン・仮面ライダー」が控えていることもあり、
かなり濃ゆい昭和特撮談義に花が咲いていて非常に興味深かった。
あの二人のクリエイティビティの源泉は昭和特撮だ、と言ってしまっても過言ではないと思う。
さてここで本題。
はてなに多い昭和50〜60年くらい生まれの世代の連中は学生時代に少年ジャンプが
全盛期だったせいか、とかくアニメと漫画ばかりを必要以上に過剰に持ち上げて、
当時洋画に押されて元気が無かった日本特撮を幼稚だショボいだとメタクソに貶す輩が多い。
この世代より生まれが5年以上早いと昭和特撮は本放送・再放送で目にしてることが多いし、
5年以上遅いと平成特撮をテレビなり劇場で見たり、あるいは昭和特撮を
レンタルで見てきた連中も多く、そこまでの拒絶感や蔑視はほとんど感じない。
最近の子供もサブスクで新旧作品が観られる分、日本特撮リベラルと言ってもいいと思う。
年寄り除くとこの限られた世代だけが日本特撮を取るに足らない低俗なモノとして、蛇蝎の如く嫌ってる。
その時期にノリダーとかゴレンジャイやってた悪影響もゼロじゃないけど、
それにしても嫌い方が酷推ぎてこの世代にあんまり近寄りたくないんだよな。
そのくせ日本特撮オタクのタランティーノやティム・バートン、最近なら
ジェームズ・ガンやギレルモ・デル・トロなんかの作品は神の如く崇めたりしちゃってさ。
それこそエヴァやシン・ゴジラもそう。お前らが好きなもんの構成成分に日本特撮は相当含まれているんだ。
一旦、色眼鏡を外して純粋に作品として楽しもうや...って言っても、もう無理だろな。彼ら既に中年に差し掛かってるから。
追記:
なんかワクチン打ちに行って一休みしてる間に思いの外、伸びてた。
脊髄反射で「ショボい」を連呼する輩たちがワラワラとさ。こいつらだよ、俺が糾弾したいのは。
なんつうか「特撮」と聞くと単に映像技術の事と捉えてるんだよな。
特殊技術が現代視点から見るとショボいという表層的な事で作品そもそもの価値や優劣が決まると信じ込んでる。
俺が言ってるのは撮影技術は勿論、緻密なデザイン・ストーリー、設定・世界観構築なども含めたトータルの話なわけ。
先の対談で松本が触れてたように、ウルトラセブンは地球人=善、宇宙人=悪という構図に常に疑問を投げかけてた。
すなわち「正義vs悪なんていうキリスト教的二元論はそもそも疑ってかかるべき」、という超リアリスティックなスタンスだった。
その思想の権化が「超兵器R1号」や「ノンマルトの使者」というエピソードだ。説明はめんどいからググってくれ。
そら今じゃその手の物はありふれてるだろうが、よく考えてみろよ?1967年製作の子供向け番組だぞ?めちゃくちゃ慧眼だろ。
次作の帰ってきたウルトラマンでは、宇宙人が聴覚障害者の無垢な少年に化けて侵略を企てる、というエピソードもある。
この宇宙人は、周囲の人間には聞き取れないテレパシーで主人公のウルトラマンを挑発し続ける。
「こいつが宇宙人だと叫んで私を引っ捕まえるか?止めとけ。周囲からきちがい扱いされるぞ。ははは。」とか嘲笑ってな。
良識ある大人たちは「聴覚障害者の無垢な少年」を疑って尋問するなんて真似は道義的にまずできない。その弱みを突いた。
ダークナイトのジョーカーも青ざめるような道徳ジレンマを容赦無く投げつけてくるわけ。これで1971年製作ね。
俺が見て欲しいのはこういう根っこや芯、いわば思想の部分である。上っ面でバカにしたり、貶すのはやめろ、って話だ。
あと、その時期には戦隊やメタルヒーロー、平成ゴジラがあっただろって指摘。これはごもっともだ。
でも、この辺を幼年期に熱心に見てたのにも関わらず、貶す奴が異様に多いんだよ。
追及してくと「あ、サンバルカンは見てたわ・・・」とか「ごめん、ギャバン好きだったかも・・・」とか白状するんだよね。
多分通過儀礼として特撮は「卒業」して、洋画やアニメに流れるっていうしきたりがあったのでは、と勝手に推測しているが。
俺の周囲だとガンダムとかリアルロボット好きな奴に多いんだよな。俺はガンダムも普通に好きだからその手の発言に出会う度に悲しくなる。
その時期のビデオ劇場オンリーのウルトラマンや仮面ライダー挙げてる奴いるが、流石にそれ系は観る人が相当限られてたと思うぞ。
俺も好きだけどね。パワードとかZOとかさ。でも悲しいけど、一般知名度は無いに等しいよ。誰も知らないよ、ケイン・コスギがウルトラマンだったなんて。
追記2:
一例として挙げたまでだよ。そんくらい分かるでしょ。俺だって話したいよ。
例えば大魔神のミニチュアの素晴らしさとかスペクトルマンの毒々しい怪獣デザインとか、
メタルダーの凱聖クールギンの常軌を逸した格好良さについてとかさ。
でもそんなマイナーなこと長々と書いても誰も見ないっしょ。
10年で区切った上に前後5年約20年間の世代を一括にしてバカにした上で
俺の周囲だと異様に多いって観測範囲も狭いし、全トラバ16個でブコメも超拡大解釈してもせいぜい悪く言ってるの10個そこらなのに
https://anond.hatelabo.jp/20210404105223
「絵やデザインが古すぎて見たくもねえわ」「ショボいしダサいし興味ない」
「でも幼稚だからな」その手のトラバやブコメはほぼほぼ見受けられないんだよな。
俺が指摘してるのはこの扱いの違い。印象だけの思考停止で否定する奴の多さよ。
俺がマイナス方面の問いかけをしたからマイナスの反応が返ってきたと言わんばかりだけど、
実際特撮が良い方面で話題になってもこれとさして変わらない反応が毎度の如く見受けられるからな。
他にも「そんな奴見たことねえよ」とか言ってる奴がいるが、ほら現に居るだろうがよ、って話。
興味無い物・見たくないもの手あたり次第に突っ込んでる
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各シリーズを作った本数順にまとめていく(他は順不同、敬称略)
富野監督がレジェンドであり、それ以降のロボットアニメの名監督・後継者ははっきりと出ていない状況
庵野監督はネームバリューはあるが手掛けたロボットアニメのシリーズ数はそんなに多くない
ロボットアニメの世界では創聖のアクエリオンやマクロスFなど手掛けた河森正治監督が庵野監督への対抗馬筆頭候補となっており、統合的には富野監督の後継者たる次のロボットアニメのレジェンドの登場が待たれている
映画館で拍手するのはいいけどよ、そんで過剰感激拍手発生報告ツイートすんのもいいけどよ
エンドロールが流れ始めたら拍手するオタク→こっちはOne Last Kissのリズムの絶妙なリズムに身を任せてんだわ
総監督 庵野秀明 が流れてきたら拍手するオタク→こっちはBeautiful Worldの静謐なアウトロに浸ってんだわ
総監督 庵野秀明 が消えたら拍手するオタク→こっちはしーーんとした世界の中で突然まっしろな光に包まれて終劇するのを待ってんだわ
終劇 で拍手するオタク→こっちはエンドロールの暗闇から真っ白な光(=現実のメタファー)に包まれて終わるエヴァにしんみりしてんだわ
映画で誰からも許される拍手していいタイミングは、会場の電気がついたタイミングだけだ
それ以外でのタイミングでする拍手ってのは、場の空気が一体になったときのみ許されるんだ
もう一度いう
覚えとけオタク
漫画家たちの中には「才能の違いを見せつけられた」「やってられない」など言って、
これついて、そんなこと言わなければいいのに、と思う。
昔、『シン・ゴジラ』が流行ったときに、庵野秀明監督と同大学同期で因縁を持つ島本和彦先生が
「やめろ庵野、俺より面白いものを作らないでくれー!」と感想を表明し、バズっていた。
うぬぼれ屋の主人公ホノオ君がすごいものを作っていく庵野君にボコボコにされ続けては悶えるというお馴染みの展開があり、
それを現実でリアルタイムでやるというネタであり、好敵手?への最大級の賛辞だ。
島本先生の漫画を読んでいないSNSの観客にもこのリアクションは面白がられ、
すごい庵野監督=小者っぽい島本先生 という構図が笑いの種となった。
島本先生のリアクション自体についてはハハハやってるやってると思いつつも「そういう認知」が「事実」として広まっていくと、
私はなんだか笑えなくなっていった。
というのも、私については単純に『シン・ゴジラ』よりも『アオイホノオ』の方が好きで、
作品レベル的なものも上に見えていて、才能的なものも上に見えていたからだ。
シン・ゴジラの観賞料が1万円だったらきついな
でもアオイホノオは全巻そろえて1万円払っても満足感しかないな
あとシンゴジラを二周目三周目する気は私はないけど
ということで、自分の中では「アオイホノオの方がすごい」という結論があった。
「庵野は天才」「俺より面白いものを作るな」的な発言をされていて、
「島本和彦は、庵野秀明より面白いものが作れない」という認定がSNSにおりていくのは…
やめてほしかったなー。
作者自ら『アオイホノオはシンゴジラより面白くないんです』と取れる発言をされると
一読者は何も言えない。
読者は全然そうじゃないと思っていても、あ、作者はそう思ってるんだ、なんか悲しいな、と思う。
もし作者が、創作家ならではの観点で本当にそのように見えていたとしても
ここに新刊を発売日に買い続けていた人がいる以上
審美眼が劣っているのかもしれないけど、
まあそんなわけで、追い続けているファンがいる以上
もし本当に思ってても、プロは言わない方がいいと思う。
ファンやファンでない人には全然劣ってるように見えてないかもしれないし、
あなたこそ真の才人、創作者として生活に潤いを与えてくれるヒーローと本当に思っているファンは、
同人絵描きさんに「本当に素敵です!」って言ったら「自分なんかゴミ絵しか描けなくて生きてる意味がない」って返されたあの時に近い。
アマチュア界ですら「そういうのは誰も得しないからやめよう」って常識化されてきたように思うのに、
今この時代にプロたちがしているのを見てなんだかなぁと思った。
もう一つ。
自分もある分野における専門職で、そこそこ重宝してもらっている。
一つプロジェクトが終わったときのお疲れさん会で別会社の作品の話になり、
私はそっちにいる同業の人の腕前を尊敬していたので
「あの人は天才ですよ」と褒め称えた。
べつに、自分を下げて褒めたわけではなく、単純に「あの人は本当にすごい。天才。尊敬する」と言っただけ。
すると何が起きたかというと
「え?そうなの?」「増田さんって、超すごいと思ってたけど中堅ぐらいだったの?」みたいな空気になった。
そのプロジェクトでは私の分野は私一人で回していたので、
内容レベルに対して詳しい人がいなかった。
みんな私の納品物を「すごい」「これなら勝負できる」と思ってついてきてくれていた。
だから「もしかして自分たちが作ったものは、あまりすごくないものだったのかな」みたいな疑念を抱かせてしまった。
実際は「向こうもすごいが自分も絶対に負けていない」と思っていただけに、誰も得しない発言をしてしまった。
さらに、そこに同席していた特に親しいわけではないマネージャーがその後、私が「天才」と褒めた方を雇ったと聞いた。
「すごい仕事をしてくれた増田さんが天才と褒めるのだからすごいに違いない。増田さんと同額程度だし」だったそうだ。
つまり、本来私のものとなる確率が十分にあった仕事を1つ奪われてしまったわけだけど、
まあ私の言葉を素直に受け取ったらそうなるよな…と納得してしまった。
(単純に、私の仕事の評価が低かった節も当然ある。その場合は私の発言が乗り換えの決め手になったのだろう)
1つ空いた雑誌の新連載枠に対して
「Aさんは天才です」と言った待機中の漫画家Bではなく、Aさんが引っ張ってこられた。
払うお金が同じぐらいなら、お試しや人脈拡大の気持ちも手伝ってそうなるのは自然なこと。
そういえば、宮崎駿は安倍晋三を愚劣よばわりしたり30000はてなポイントの成果物を生命に対する侮辱とか言ってたな。駿は世代的に戦争や死をこねくり回して弄ぶことへの後ろめたさを抱えているので、安倍や30000ポイントに対して同族嫌悪を感じているのだと思う
しかしかわいいかわいい庵野秀明に対しては、彼が演出というものにしか関心がなくひたすら戦争や死をこねくり回してる創作者であるにもかかわらずものすごく特別扱いしててやっぱり人間だなと思う
(風立ちぬで抜擢したのとかも、庵野の病気をどうにかという側面の他に、そのものズバリのテーマで自分の考えるあるべき思想を忖度してほしいとか考えたんじゃなかろうか。もちろん庵野にそんな目配せが通じるとは思えぬ)
庵野秀明の人生がもうフィクションとして楽しめる作品になってるから
彼は気付いてないけど、「現実に目覚めろ」と言いつつ自分の実写の街とアニメキャラを重ねる芸当が
結局庵野秀明って「大きな子供」じゃなくて「子供だけど大きかった」ってのが正解だと思うんだよな
大学も自分で選んで、優秀な成果を在学中に上げて、中退してトップレベルのアニメーターと共に仕事して会社立ち上げて
結局「優秀な人」が「子供の目線に立って」作ったのが真相だと思うんだよね
結局はさ、人付き合い苦手な親父が子供と日曜キャッチボールして
「明日から勉強頑張りなよ」ってのが「エヴァンゲリオン」って作品だったと思うんだよ。子供目線から見るとさ、親父は手加減してくれてるから
「親父しょぼいなぁ」なんて思っちゃったりするけど。庵野は子供だなぁ、大人になりなよって言っちゃったりするけど
偉大な人間はさ、努力してない訳よ。努力じゃなくて夢に向かって走ってただけで
何もない人間がもがいてもがいて、結局手にするはした金の重み何て優秀な人にはわかるわけないのよ
エヴァの元ネタはウルトラマンだとよく言われている。ウルトラマンは巨大で強く、強い自己の化身でもあり、男の憧れる父親そのものでもあり、自分を包み込んでくれる母親でもある。
庵野秀明にとって、エヴァンゲリオンという「作品」は外界と自分を繋げる唯一のものであり、庵野秀明は監督としてそれを操作していた。同時に、エヴァという機体は自分自身の才能でもあった。
同時にその「巨大で強い自己の化身」は、自分のコンプレックスの表れでもある。シンジの持つエヴァの搭乗への葛藤は、創作の才能一つで生きてきた庵野にとっての葛藤そのモノであったのだろう。
エヴァを作るころには周囲には才能を認められていた。宮崎駿やその他の監督、自分の親からの期待、「逃げちゃダメだ」という言葉は、まさに当時の庵野秀明の感情でもあったのではないか。
同時に、当時エヴァの最終話での制作の難航と、それに伴うネットからのバッシング。そして思った以上の膨大な反響、オタクたちはエヴァ作品にのめり込み、数々の作品がエヴァに影響を受け始め世界の潮流を変えた事。
自分の人格を込めたエヴァへの批判は、シンクロすればシンクロする程思い通りに動く作品の代償として、そのまま彼の精神自体に傷をつけただろう。心を無にして、ダミープラグを使いたいと思ったのではないか。
これはエヴァの暴走そのもので、彼自身にとっての作品の勝手な暴走、庵野にとっての一番大きな原体験となっただろう。同時に作品にそれらを「重ねる」という事もまごころを君にでやり始める。
エヴァに頼るな、現実を生きろ。そういうオタクへの批判は同時に、自分自身への批判でもあったんじゃないだろうか。
新劇場版はそういった「エヴァンゲリヲンという作品の制作」を通じて感じたことを再度「エヴァと言う作品」に落とし込む作業だったんだろう。新エヴァでは特に、「エヴァへの搭乗に対するシンジの心の変化」について重点的に視点がある。これは庵野のエヴァ作品への向かい合い方を落とし込んだに違いない。
やれと言われてやった(作った)→批判された(バッシング)→自分に選択肢はない(拗ねる)→他人に任せる。批判されて辞める(エヴァから手を引く)→やっぱり調子に乗って自分の為に乗る(つくる)→失敗……そこから先は庵野の「エヴァと言う作品の向き合い方」そのものなんじゃないだろうか。「エヴァと言う作品」を作った事により、他人を虚構へ誘った罪の意識から同時に、「ニアサーも悪い事ばかりじゃなかった」という言葉は自己への客観視と許しにも思える。ニアサーが起きた後の世界は、エヴァのテレビシリーズが出てからの彼から見えた世界。自分が引き起こした破片があちらこちらに浮かぶ。シンゴジラと言う作品は彼にとって第三村のようなものだったのではないか。
おそらく新劇の時から欝の兆候があったんだろう。周囲に「エヴァを作るな」と言われたことは、そのまま脚本へ落とし込まれていると思う。それでも乗り、精神を壊し、作品を狂わせてしまった。
その作品の中で、異色の存在が出てくる。エヴァを難なく乗りこなし、明るく自分に接してくれた存在。これって妻である「安野モヨコ」そのものなんじゃないかと。いろいろな「エヴァ」つまり「作品」を吸収し、精神も病まず自由に乗りこなす彼女。友達に紹介されたそうなので、パラシュートで降りてきたような物だろう。今まで他人に拒否される事に恐れていた庵野にとっての救済だったのではないか。
庵野にとっての「人類補完」へのあこがれはこの結婚によって無くなったんじゃないかと思う。この時点で多分、「妻にもう一度会いたいゲンドウ」にしか感情移入できなくなってる。
世界を変えてしまった庵野にとって、ニアサーの後の世界は、新劇を作り始めた時の世界そのモノだったんだろう。やっぱり彼は止められても新劇を作り、自分を傷つけた。そしてギリギリ自殺しそうになったのをニアサーで表現したんじゃないか。自分を、他人を変えたいと思い始めた創作、エヴァ化しそこなった首の無い人はファンたちの事だろう。
ミサト率いるヴィレは自殺を止める自分の理性であり、シンエヴァの幻想的な戦いは彼の心象風景そのものだったんじゃないか。
・エヴァの居ない世界は、そのまま庵野にとって「エヴァを作る必要のない世界」の事
作中の突如現れる空白の14年は、庵野にとってエヴァを作らなかった数年の事だろう。当時の声優も、アニメーターもファンも大人になってしまった。
第三村で、嘗て殴ってきた友達も、カメラ片手にちょこまかしてたアホガキも、かたや医者になり子供を作り、かたや一人で生き抜く一人前の男になっていた。
色に乱れてた赤城リツコも「煩悩」を髪の毛と一緒に切り、ミサトは母になった。その中で、エヴァを作り続けて悩んで苦しんでる庵野は自分自身を「何も変わってない少年」だと思っただろう。
庵野にとってそんな自分に優しく手を差し伸べる周囲の人間は、なお一層コンプレックスを掻きたてたに違いない。しかし一方で、「エヴァで皆を助けただけでも偉い」という自己肯定の言葉もちらほらみられる。
シンゴジラも成功したし、安野モヨコの夫婦漫画でありのままの自分を受け入れてもらえるし、庵野は社会的地位を手に入れて金もある。尊敬もある。
彼は自分自身を知ってもらうために「エヴァ」を作る必要などないのだ。エヴァに乗る必要なんかない。エヴァを作らなくても、エヴァに乗らなくても自分を認めてくれる人が沢山いるから。
もう他人の血も、友達を殴った手の感触も、やけどする程の熱さも、自慰で流した精子も、彼の右手には必要ない。だってもう彼の右手には握ってくれるもう一つの手があるのだから。
・雑感
無責任。これに尽きる。最近の監督は無責任だ。新宿を綺麗に描くのが得意な監督は、今まで自分が作ってきた、願った世界を子供に押し付けて「大丈夫だ」なんて言わせるし
庵野秀明は勝手に悩んで、勝手に大人になって、ずっと自分しか見えていない癖に、子供のままの俺たちを置いて去ってしまった。
世の中にはな、世界を作れなかった人間、人を気にして何も動けず下敷きになってしまった人、大人になれない髭の生えた子供たちが沢山いるんだ
そういう人に寄り添ってくれる作品を作ってくれる人はおらんのかね。若者に厳しい世の中になってしまった。
ここまでが「ポジティブな人気」の要因かな
これでオタクの間で荒れに荒れて、皮肉なことに一般層にうっすら話題が及ぶくらいの騒動になった。
オタ以外の社会現象と言えるレベルで完全にブレイクしたのは映画(旧作)よりも更に後で、
深夜再放送+パチ辺りだと思う
ドデカ明朝体の使用(これは当時エヴァに何の関係もないサブカルやオタク色すらないテレビ番組や雑誌すら模倣しまくってた)、衒学的な神話や哲学用語の使い方(本屋にエヴァの引用元を集めたコーナーがあった)、上手いアニメーターには手間のかかるアクションカットをひとつ任せるよりも止め絵を一杯やってもらった方がクオリティアップに繋がるという庵野秀明の計算から生まれた特徴的な静と動の絵作り。まあどれもトップやナディア終盤でもやってるけどね
他の人も言ってるけどオタクメディア以外も騒いでいたというのが本当に異様な空気を醸成していた
自分はエヴァのTVシリーズ第1話から録画していて、最終2話には驚いたし、セガサターンのエヴァのゲームもやったし、スキゾ&パラノなどの関連本を読み込んだし、それでDAICONアニメまで過去作を振り返ったし、もちろん新劇場版も4作全部初日に見に行ったクチなんだけど、まあそうやって26年エヴァ追い駆けた末にシンエヴァ見終わった感想としては、「やっぱ俺はガンダムだな~」だった。セラムンと並んでVガンもエヴァに露骨に影響与えてるから機会があったら見ると良いよ
小室圭とマーク・ザッカーバーグと立花孝志(敬称略)の三名に恨みがあるわけではないが、この三名の顔から似た印象を受ける。失礼を承知で書くと胡散臭さを感じる。顔立ちが特に似通っていないのに不思議だ。強いて似ている点を挙げればアゴの形かもしれないが、じっくり見てみるとそこまで似ているわけでもないし、彼らの性格が共通しているわけでもない。三人ともメディアで悪く言われることが多いので、偏見を持ってしまったに違いない。
直接彼らと対面して、彼らなりに抱えている事情について聞いてみれば考えも改まるかもしれないが、おそらくそんな機会はない。
書いてみて本当に失礼な日記だと思う。たぶん自分は根拠のない自信にあふれた相手が嫌いなだけだ。ある種のひがみだろう。
異世界ファンタジーなんかでビキニアーマーを見るたびに「こんな戦士なんているわけないだろ」的な気分になるのだが、古代のピクト人だったかケルト人だったかは、全裸に帯をまいただけの姿でローマ軍に襲い掛かってきたそうだから、全くのでたらめというわけではなさそうである。実際、全裸のおっさんが襲ってきたらかなり怖い。ところで、九十年代のビキニアーマーや前垂れ(ふんどし? スリット?)で目覚めた性癖を持つ、自分と同年齢の男性は少なくないんじゃなかろうか。
そういえば、三国志には蜀の南方に位置する敵である孟獲の妻、祝融夫人が出てくるが、最近のゲームだとこれもビキニアーマーだったり毛皮ビキニだったりする。実際、当時の雲南省の人間がどんな格好をしていたのか知らないのだが、これはさすがに違うだろう。もっとも、実は漢の服装もわかってない。
ちなみに、調べたら孟獲は元来漢の人であり、南蛮人になったのは三国志演義の演出らしい。
用事があって横浜駅西口のカラオケ屋に数年ぶりに行ったのだが、廊下まで聞こえる音量で奇声を上げている連中がいて閉口した。夜の客引きも増えたことだし、治安が悪化しているのではないか。というか、そもそもまん延防止措置下でも「お酒ありますよ」という呼び込みが多数あった。やれやれ。
入口の前で溜まりこんでいた大学生は不倫を自慢げに話していたのでこれも不愉快であった。だいたい、こうした話はフィクションだから面白いのであって、実話ではちっとも面白くない。本当はもっと落ち着いたパセラあたりでやりたかったのだが、満員だった。向かう直前に電話すべきだった。
ところで、公共の場ではできない重大な話を自宅以外でするときはどこですればいいのだろう。会議室だろうか?
……これを書いている途中、surfaceがマウスを認識したりしなかったりする。いちいち抜き差しする音がするのだが、マウスの寿命かもしれない。
熱中こそしていなかったがクラスのみんなが見ていたアニメの細部を、何の脈絡もなく思い出す。たとえば「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」に「二郎丸スペシャルスペシャルスペシャルスペシャルスペシャル」という実況泣かせのマシンがあった。なんか「ダスダスダスダス!」と叫びながらマシンを加速させていた覚えがある。
近頃はウィキペディアの漫画とアニメの記事がやたらと充実しており、調べては懐かしい思いに浸るのだが、最近になって土方レイが女の子ではないことを知ったのである。
この頃のアニメは思い出補正もあるせいだろうか、当時のアニメの画像を見ると、思っていたよりも絵が荒いというか、癖のある画風である。九十年代のアニメはスレイヤーズをはじめとして目鼻をクシャっとさせた画風だった。あるいは、アゴと比べて不思議な場所に口があった。スレイヤーズは見ていないけれども。
この日は個人的な調べ物をしていたらあっという間に夜になってしまった。七時が日没だったのに。日が暮れてからはだらだらと増田を眺めてしまって無為な時間を過ごす。大体、九時半から十時半が一番眠く、寝床に入るのは自慰をしない限り十一時頃である。とはいえ、人生の時間をすべて有意義に使おうとするのも一つの強迫観念ではある。
自慰といえば、最近コンドームなしで自慰をしたら、精液を飛ばし過ぎたりティッシュからこぼしたりしたので懲りた。
手帳に日記を書いてから郵便局へ行って、ちょっとだけ家事をやってから筋トレとジョギングをし、アガパンサスとヒマワリとオシロイバナが咲いていたので写真に撮ってランチ垢に載せた。で、シャワーを浴びてから靴下とプロテインを買った。ところで、近頃の薬局はコンドームを紙袋に包まないと以前に書いたが、店によるようだ。
それから、ネットをだらだら見ていたら、いつの間にか有給休暇がほぼ終わった。
数年前は休日を無駄に過ごすことを惜しむように美術館に足しげく通ったものだが、緊急事態宣言のせいで美術館なしでもやっていけることに気づいてしまったせいだろうか、近頃は月に一度しか行かない。
すっかり出不精になってしまっており、いよいよ終映が近づいているエヴァンゲリオンを見るのもだるい。確かに薄い本は欲しいし、一度目に見逃がした細部も気になるが、そんなことよりも自分の中でエヴァンゲリオンが完全に成仏してしまっており、過去のものになってしまっている。庵野秀明の目論見通りだ。
そうそう、ジョギングの成果だろうか、数年前は右脚の付け根の骨が骨盤(?)から外れそうなゴリゴリした音を立てていたのだが、近頃はそんな様子は全くない。
しかし、さっき口の中で皮がむけて血が出た。なぜだ。
宇多田ヒカルがクィア的であるというのは、コアなファンやクィアのファンの間ではかなり昔からの共通認識でありました。
もちろん、宇多田ヒカル本人がしばしば口にするように、宇多田ヒカルの歌詞というのは大衆の誰にでも伝わることについて大変真摯に考え抜かれており、決してクィア的な読みが介在しなくても成立するものがほとんどです。ですから、当事者の人間がひっかかりを覚えて、ある種の確信や疑念を抱いて聴き込むというような経験がなければ、宇多田ヒカルのクィア的な側面について、その通底する感触すら意識することがなくても不思議ではありません。そして、そういう構成である作品だからこそ、当事者にとっては強く胸を打ち、強く励まされるものでもあるわけです。『ブロークバック・マウンテン』や『ムーンライト』がちょうど、ゲイに限らない、誰にでも共感できる恋愛感情そのものを描いているといった具合で高く評されている、というのと似ています。
一方で、宇多田ヒカルが自身の内面を初めて強く出して制作したと語るアルバム『ULTRA BLUE』や、活動再開後に発表されている楽曲の数々において、勅裁にクィア的な表現の歌詞である楽曲や、クィア的な読みの方が自然と思える楽曲も増えつつあるように感じられます。以下では、そうした楽曲を見ていきましょう。
([ ]は収録アルバム、( )はシングルも含めた初出年です)
引っ越していく親友についての愛情を歌った歌です。愛情の対象として「友」が選択されているという状況は宇多田ヒカルの歌ではよくみられます。
「新しい部屋で君はもう Making Love」「ヤサシイカレトノケイザイガク」「ワタシガハジメテホレタオンナ」といった表現から、親友である女友達が彼氏と同棲を始めることについての喪失感といった情景が浮かんできます。
宇多田ヒカルの歌には「規範への疑念」「規範からの逸脱」を指向しているととれるような表現がしばしば現れます。たとえば、「不倫の恋」を想起させるような楽曲がちょくちょくあります(『誰かの願いが叶うころ』『One Night Magic』『二時間だけのバカンス』『誰にもいわない』)。『Passion』では、「昔からの決まり事」をどのように捉えるかというところに余白があるように感じられます。「ずっと前に好きだった人/冬に子供が生まれるそうだ」とある「好きだった人」は異性・同性どちらにも読むことができそうです。「わたしたちに出来なかったこと」という言葉は同性愛経験者には強い響きがあります(もちろん、失恋経験のある人にとっては、性指向に関わらず共感するところがあるでしょう)。
宇多田ヒカルのオリジナルキャラクターであるくまちゃん(チャン・くま)がゲイであるというのは、以前から公式ブログで発表されていました。それを念頭におくと、ゲイの男性がほんのり抱える困難がモチーフになっているように聞こえてきます。
「けんかはやだよ くま くま くま」
「冬は眠いよ くま くま くま」
どうでしょうか?
ドラマ『ラスト・フレンズ』の主題歌として、友達にたいする愛情や、性別を超えた愛憎のようなものを歌詞にしてほしいという依頼のもとで制作された歌詞です。それに応えるように、確定的にクィアな側面から見ることができるとはいえない構成が、ことさらに意識されていると感じられる楽曲です。しかし、裏を返すと、異性愛的でないという感覚がどれくらい読み取れるかというところに解釈の豊かさの入り口がありそうです。
「人知れず辛い道を選ぶ/私を応援してくれる/あなただけを友と呼ぶ」であるとか、「残酷な現実が二人を引き裂けば」といったバースはどうでしょうか? 異性愛的に読む、同性愛的に読む、どちらの方が、どれくらい可能でしょうか。そもそもそれぞれの読み方に違いはあるのでしょうか? 異性愛的視点と同性愛的視点というのは、線引きが必要なのでしょうか?
宇多田ヒカルと椎名林檎のデュエットであり、MVの印象も強いため、百合ソングとしての印象が初出から強く一般的に浸透していたと思います。また、冒頭の「クローゼット」というモチーフが、クィア界隈で「性指向をオープンにしていない状況」を表すのに用いられる言葉でもあったため、その点でも話題となっていました。
もちろん歌詞単体でみれば、家庭をもつ男女の不倫のような趣もあります。椎名林檎のパートでは一人称が「僕」となっているのも印象的です。
この歌詞でバカンスに繰り出す二人組を、どのようなペアであると想像するでしょうか?
個人的には、かつて親友で、いまは家庭をもつ主婦同士が、時間を縫って…という情景が浮かびます。
一方で、「ほら車飛ばして 一度きりの人生ですもの」「今日は授業サボって 二人きりで公園歩こう」といった並置からは、特定的な1組のカップルの情景ではないという余地をあえて作り出そうとしているのも感じ取れます。
宇多田ヒカル本人が「同性愛者の心情を歌っている曲だと気付いた」と語った楽曲です。
「君に触れるあいつ見てる/報われない想いばかりが募る夜更は/どうしたらいい?」
「気付かないフリとか/中途半端な優しさに 泣きたい」
など、全体を通して当事者的な感覚が非常につよい言葉で構成されている歌詞だと感じられます。
この楽曲が最初に発表されたのはNHKのSONGSで、楽曲の直前に宇多田ヒカルの上記の発言が挿入されたのですが、宇多田ヒカルがこの意図を隠し続けていたとしたらどのように受け取られていたのだろうというのは気になるポイントです。
「カレシにも家族にも言えない/いろんなこと/あなたが聞いてくれたから/どんな孤独にも運命にも耐えられた」
「大好きな人にフラれて泣くあなたを/慰められる only one である幸せよ/だけど/抱きしめて言いたかった、好きだと」
この楽曲も「友」が相手の曲ですが、その友に対する気持ちは「恋愛なんかの枠に収まる二人じゃない」と表現しています。この楽曲もまた、女性の友人同士の関係性についての情景が浮かぶのが自然であるような歌詞だと感じられるでしょう。異性愛的な恋愛・結婚よりもつよい愛情というのは『二時間だけのバカンス』と似ているところがあります。
先に、宇多田ヒカルは大衆の誰にでも伝わることを真摯に考えていると述べましたが、これは裏を返すと、クィア的な読みをする必要がないということでもあります。しかしながら、宇多田ヒカルの歌詞が全般的にクィア的であると当事者にとって感じることができるのは、ほとんどの歌詞において、巧妙に「異性同士」の歌であるとしか読めない状況を避けるような意識がこめられた言葉遣いがなされているからです。ポップスの歌詞における「あなたと私」という主題の問題や、女性シンガーが歌詞でつかう「僕」という一人称の問題など、ポップスの歌詞においてジェンダーを与えた解釈をするときに問題とすべきことは多々ありますが、それらは一度おいておきますと、宇多田ヒカルの歌詞は、とくに二人称において、特定の性に限定できるような状況が回避されているものが多いと感じられるわけです。こうしたものが通底している作家の楽曲は、当事者にとっては、異性愛的な恋愛を歌っているポップスとはやはりどこか感触が異なって聞こえるものです。
よく、「エヴァンゲリオンは鏡である」というようなことが言われます。エヴァンゲリオンについての解釈は、みた人自身の性質や考えがそのまま反映されてでてきたものでしかない、ということです。それは、製作者がつねに大衆に伝わるようにと心を砕く姿勢によってできあがった鏡なのだということが想像できます。宇多田ヒカルの歌についても同じことが言えるのでしょう。異性愛がベースがある人には異性愛的な歌に、同性愛的なベースがある人には同性愛的な歌に聞こえるというのは、「誰にでも伝わる」ということを目指した結果に他ならないと思います。庵野秀明と宇多田ヒカルの作家性が奇跡的に似通っているというのは、そういった点にも感じることができます。
このことからさらに思うのは、宇多田ヒカルとクィアを結びつけるような意見に対して人々がどのような反応を示すかというのをみると、その人が「『クィア』というものをどう捉えているのか」がよくわかるのではないか、ということです。
どうでしょうか? いろんな人の反応をみてみてください。異性愛者の人たちの反応も、クィアの人たちの反応も。どうしてその人は、そのように反応したのでしょうか?
ですが良いオーストラリアもあるはずです。
そこで雁屋哲に良いオーストラリアを伝えるべく、各界の著名人にお越しいただきました。
スタジオぬえかは知らんが、富野小説版に出てない設定は全部ここが作ってる気がする。
設定を作るもの同士、どっちが上手く作れているかの戦いになるが、鼻血を出すのはSF考証として明らかに劣っているため雁屋哲側が劣勢。
石井マークの必殺技Gは自慰のGで孤独な独身生活もイチコロだ。
このあの子を思い出す榎本温子と、虐められたことを思い出す雁屋哲は背反する関係にある。
西の空に明けの明星が輝く頃ひとつの光が宇宙へ飛んでゆく。それが遠い夜空に光る小さな星なので、庵野秀明さんも大満足です。
宮村優子オフィシャルブログ「Skidamarink a dink a dink ~オーストラリアで子育て~」だから。
「こちとらには一万二千回の庵野への気持ち悪いと、あかほりさとるへの感謝があるんだからっ」です。(ラムネの新作小説連載開始だよ)
みやむー大好き改め坂本真綾大好きおよび鈴村健一憎しみ監督は、好きの気持ちと憎しみの気持ちを両立してエヴァを完結させたので、美味しんぼを放置している人間とは格が違う。
X星人に操られてシドニーを襲撃する怪獣。必殺技はハイジャンプキック[14][17]。
劇中前半でシドニー・タワーを破壊し、街を壊滅させる[14]。ンゴね。
チェックのスカート似合ってる。
雁屋哲にロマンとマロンは大違いだと諭すミニモニが面白いと思いました。
ナレーションなしでうまく本人とかまわりの人間の言葉でつないでてよかった
ただ、やっぱり毎日完全密着というわけでもなかったのと、
特に後半コロナになってからはかなり時間が飛び飛びになったのが残念だった
前半の鬱屈とした行き詰まりをどこで打破して制作が動き出したのかが結局よくわからなかった
プロフェッショナルとの違いでとくによかったのは、故郷の山口の取材シーンが追加されてたこと
同級生と話したり、中学の美術の先生と話したVTRが追加されてた
宿題で絵をかけっていったらマンガでもいいですかってきいたうえでヤマトの絵をかいてきたってこと
もうおじいちゃん先生になってたけどいまだにおぼえてるほど印象深かったんだなって
でもうざかったのはBGM
エヴァへのオマージュでクラシックを冒頭に入れる程度ならいいけど本編でもちょいちょい入ってくるのがすごいうざかった
BGMのせいでインタビューのボソボソ声が聞き取りづらくなっててかなりイライラした
bgm自体もそこまで盛り上げたりとか効果とかあんまなかったし
終始BGMなしでよかったのに
あとはこれはプロフェッショナルのときからあったけど、エヴァ終わったら即次ってのがまじですごいと思った