はてなキーワード: 平安時代とは
化繊は部分的ならば洗うことが出来ます(丸洗いはできませんが)。
実用に用いるには化繊の方が便利であることは間違いございません。
平安時代に化繊がございましたなら、きっと公卿たちは化繊を使っていたに違いないと私は思うのでございます。
ですから私は、伝統を重んじ、昔通りの方法を守ることと共に、新しい装束のありかたも模索して良いのではないかと考えております。
「化繊など使うことは装束に対する冒涜である」とは私は考えておらないのでございます。
このあたり、伝統重視の皆様方と考えを相違するところかと存じますが、私もすべてを化繊にすべきと申し上げているのではなく、旧来の伝統を固く守ることと、時代の変化に対応していくこと、その両方を大事にしなくてはならないのではないかと考えているのでございます。
どちらが上だ下だというような比較はナンセンスなものと考えております。正絹にも化繊にも、それぞれ長短がございます。
これらをもって相対的な立場の上下を云々することなど、浅ましい限りでありましょう。どうぞ誤解なきようにお願い申し上げます。
ヨーロッパじゃ長らく、フランスはドイツと仲が悪く、ロシアもドイツと仲が悪く
イギリスとアイルランド、ロシアとウクライナ、アメリカとメキシコ
「隣接してる国だから言葉も文化も近くて仲がよい」なんて想像する馬鹿は日本人だけ
これも陸続きの隣国がないことが影響してる……と思うのだが
日本人も昔は分かってたんだな
日本と一番近いのが新羅なんだから新羅と仲がよかったなどという話はなく
で、比較的に友好的関係だったのが新羅の反対側に位置してた百済
ところが、百済と高句麗がなくなって朝鮮半島全部が新羅になった途端
今の日本人は「韓国が中国とグルになって日本をいじめている」という図式が好きだが
今の韓国(新羅)と中国(唐)が仲良いのは間に北朝鮮(高句麗)が挟まってるからだよ
中国大陸と朝鮮半島の国の間じゃ、間島とか白頭山とか潜在的な領土対立は少なくない
北朝鮮は社会主義国同士の同盟のため、南朝鮮の了解なく無断で今の国境を決めた
2002年ごろには中国が「高句麗は中国王朝の地方政府だった」とか言い出して
韓国民は大怒りして高句麗王朝を題材にした歴史ドラマをばんばん作った
――といった歴史をふり返れば、日本が外交的に中韓の離間をはかるスキは幾つもあるし
中韓の頭ごしに北朝鮮との独自パイプを作れば中韓の面目を潰せる
とかいうようなことを考える頭が、日本の「特亜厨」にはまるでない
アニメ・アンパンマンの「アンパンチ」について、幼児が暴力的になるのではという話題になっている。
私・元増田としては、アンパンチに関しては別の意味で問題になるのではないかと考えているので、これから書いてみたい。
現代社会では、暴力を行使する正当性を持っているのは警察や軍隊、裁判所などの限られた機関だけである。
詳しい話は、マックス・ウェーバーの『暴力の独占』の項目を読んでもらうとして・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E3%81%AE%E7%8B%AC%E5%8D%A0
分かりやすく言うと、一般人は暴力を行使してはならず、許されるのは国家機関だけだということ。
では、アンパンマンの暴力は私刑ではないのか、ということである。
アンパンマンが国家からその権限を委託されているのであれば、いいかもしれない。しかし、「アンパンチ」を行使するのであれば、毎度裁判所に許可を求めなければならない。
何が言いたいかというと、国家によって管理された暴力であればいいと思うが、管理されていない暴力は非常に危険だということである。
アンパンチの何が危険かと言えば、子供たちは「正義」さえあれば悪者を懲らしめてもいい、という価値観を植え付けてしまう可能性がある。
日本では、平安時代まで寺社が武装していたことがよく知られているが、そのせいで戦乱が絶えなかったではないか。
アンパンマンの住んでいる世界には、主権国家という概念が存在しているようには見えないし、暴力を行使できる軍隊や警察も存在していない。
北斗の拳世界のようなものだと考えればいい、と言えば納得できるが、それはそれで幼児たちに悪影響を及ぼす可能性が高いのではないか。
まず単純に、名前の二文字目が「子」で固定されると、必然的に読みは三音になりやすい。
これは若干の異論がある。
どうも平安時代には、今では考えられない読み方をしていた例が色々あったらしい。
たとえば、藤原良房(皇族以外で初の摂政になったことで有名)の娘で文徳天皇の后、清和天皇の母だった藤原明子という女性は『あきらけいこ』と読み、
関白・藤原基経の妹で清和天皇の后、陽成天皇の母だった藤原高子という女性は『たかいこ』と読んだ。(四音の女性名になるね)
そして、地位の高い人の諱はあまり呼ばれない。これは今でもそうで、会社の上司に対しては一般には名字+役職で呼ぶ。
昔も同じで、諱(そもそも忌み名である)は呼ばれずに地位の高い女性は本名ではなく通称で呼ばれることが多かった。清少納言や紫式部も通称だ。
結果、女性の名前は記録にすら残っていなかったり ─蜻蛉日記の作者である藤原道綱母などはその典型だ─ 名前は伝わっていても、読みが分からなかったりする。
彰子、妍子、威子、嬉子(いずれも藤原道長の娘)などが典型で、名前の漢字は分かっているが読み方が分からないのでとりあえず音読みで呼んでいる(これを有職読みという)。
言葉とはなんだろうか。
私は言葉とは服のようなものだと思っている。それを着る人の第一印象を決める。服に着られるとも言うように、身の丈にあった、あるいはその人の個性にあったスタイルがある。それを楽しむ人もいれば、実用的な使い方しかしない人もいる自由がある。挙げればキリがないが、これだけの、しかも重要な点で重なるのは、この2つが人を人たらしめる大きな特徴だからではないだろうか。
そう考えるからこそ、言葉を縛る文化にはほとほと嫌気がさす。「正しい日本語を使いましょう」、なんて傲慢な言葉だろうか。
少し話がそれるが、私は社会人だ。今年2年目の若手社員である。うちの会社は基本的に服装に特に規定はなく、制服もないので、まあ、男性は大概スーツで女性はオフィスカジュアルという人が多い。ただ寒冷地で冬場は冷え込むので、オフィスカジュアルというよりはカジュアルにかなりよった服装になっている。だからといって服装について女性たちが「ちょっと今日の服装ラフすぎるんじゃない?」などと管理職に言われているところは目にしたことがない。私自身も服装については特に指摘されたことはない。それはなぜか。よほどの奇抜な服装でなければ職務に支障はないからだ。当たり前のことだろう。今時ネクタイの柄が派手すぎるとかスカートが短いとか、外回りに行くわけでもないのに言う人はいない。個人の自由だ。規定の制服であれば着崩せば問題はあるかもしれないが、それも勤務中だけであってプライベートでは何を着ようが文句を言われる筋合いはないし、言う方がおかしい。これも当然のことだ。
先ほど、服装について職場で指摘されたことは特にない、と言った。一度もない。この一年と二ヶ月で。なのに言葉については数え切れないほどある。直接的ではなくとも、咎めるように遠回しに言われたものも合わせれば結構な回数だ。私の言葉の使い方に著しく難がある?ここまでの文章が恐らくそうではないという証明になっていれば何よりだ。直近の例で行くと、全然、という言葉だ(しかもこの指摘は、一応プライベートであるはずの飲み会中になされた)。肯定的な全然は一応は一般的に誤用とされている。つまり、「全然大丈夫」のような用例である。しかし、はっきり言ってしまうとこれは誤用とは言い切れない。現代の人々が「誤用である」としただけで、夏目漱石も肯定的な全然の表現を使っているし、それ以前にもその表現は散見される。あなたたちに、夏目漱石もその表現を使っている、という暴力的表現を覆すだけの論拠が提示できるのか?
というか、人は何をもってして「正しい言葉」なんてものを判断するのか?もし「正しい」という単語を「その時代の多くの人々が使う用法で用いられていること」と定義するのなら、方言は大概間違った言葉だろう。それでいいと思っているのなら正しいという言葉を揺るぎなく使い続ければいい。でも私はこの風潮が、本当に本当に嫌いだ。正しいという言葉の傲慢さ。マナーという点では同じなのに、なぜ言葉を縛ることは服装を縛るよりも圧倒的な正義だと考える人が多いのだろう。言葉そのものが保守的であるという側面はあるにせよ、それを指摘することそのものを「正しい」と疑わない感性こそ、私は「正しくない」と思う。平安時代から行われてきた先輩方からのありがたいご助言とご指導ご鞭撻に、今さらやめろと言ったって仕方がないかもしれないけれど。ファッションの多様性がなんとなく認められるようになってきたように思う現在、せめて「正しい」ではなくて「適切な」という形容を使う程度には、現代人にも繊細で適切な言語感覚を持ってもらえないものかと思う。
やってることと言えば、自己中で付加価値の皆無の自己実現ばかりだった。
付加価値がないばかりか周りに害を与えているのでヤク中がラリっているのと変わらない。
派遣会社があくどい以上に、派遣なんかやりたがるような軟弱者が多かったせいだ。
忘れている奴も多いが、派遣社員は一時期正社員ほど働く必要がないとして注目されていた。
日本史上、これに匹敵する堕落な日本人は平安時代の貴族しかいない。
平安貴族は遊ぶのが仕事で、あまりに体を動かさないから少し驚かされただけで気絶するし、
女にいたっては走って息切れしただけで死んだりしていた、どうしようもなく軟弱な奴らだったのだが
どうせ土器が二種類ありました卑弥呼がいましたくらいしか習わへんし
「土器が普及してから大和王権が成立するまで」の先史時代的な定義で。
「大和王権が成立してから大宝律令が制定されるまで」と定義して、
で、そのあとは王朝国家体制期という意味での「王朝時代」なんかな、よくわからんけど。
仮に朱雀天皇の即位および藤原忠平の摂政就任を区切りとすると930年か。
ここは短すぎるんよなあ。
明応の政変から安土桃山時代までを「戦国時代」として独立させるほうがええかもしれんね。
またなんか大きな変化があるまでひと括りでええんちゃうの。
昭和・平成・令和から取りつつ憲法にも引っ掛けて「平和時代」とかどうやろ。
土器時代 | 〜3世紀 | |
大和時代 | 3世紀〜701年 | |
律令時代 | 701年〜930年 | |
王朝時代 | 930年〜1185年 | |
鎌倉時代 | 1185年〜1336年 | |
室町時代 | 1336年〜1493年 | |
戦国時代 | 1493年〜1603年 | |
江戸時代 | 1603年〜1868年 | |
帝国時代 | 1868年〜1945年 | |
平和時代 | 1945年〜 |
どやろ?
かなり恥ずかしいところに恥の上塗りで大変申し訳ないけど、NANAパロを、一応上流気取りのファッション誌(上流気取らないと碌な広告がつかないから)でやろう、という編集者の判断自体が「あーいう風にならないようにしよう」を売りにしてると言うことを言いたかったんだけどね。伝わらない文章で大変申し訳ないことしきりですわ笑
っていうか少女マンガというか女性向けの小説などにおいて「ああいう女にはなってはいけない物語」って一大ジャンルなんだよ、それこそ平安時代から現代まで「そういうもの」を娯楽として消費する性でもある、女って。まぁ女に限らず説教譚みたいなのは人間になりたてのころから存在する情報伝達手段。