はてなキーワード: 帰納とは
この類の話ってのは、まあよくある話ですし、帰納することでLGBT以外のマイノリティにも同じように演繹できるんですよね。
で、わたしもそのLGBT以外の属性のマイノリティなんですけども(メンタル系)、社会を殴りたいのはありますよ。毎日。しかしいちおう働けて経済自立できているし、恋人は作れないけど性欲のほうは自己完結できてるし、そこまで困窮してないから冷静に言えるのだろうけども。困窮してたら冷静になれないだろうなーとは思う。保護してくれ。
ちなみに自分がどのくらい社会を殴りたいかというとこのくらい:https://anond.hatelabo.jp/20170817024451
わたしは例の記事から「LGBTは自戒として、力いっぱい社会を殴り続けるようなことをしてはらない。そんなの相手が辛いだけだ」という教訓を得ることを狙っている、と受けとったのですが、その狙いとは真逆の反応が多くて困惑した。
https://withnews.jp/article/f0180406003qq000000000000000W03j10101qq000017134A
だから、なおさらこの記事の狙いであろうことを今後も言い続けたほうがいいのでは、と思いました。何を言われているかちゃんと理解していますか?してないでしょ・・そんなだからこの記事を書かれてるんでしょう・・・。まさに。
しかし譲ってさらに突っ込んで考えると、「もはや冷静になって非LGBT者を対等な人間と考えてコミュニケーションを図る余裕すらないほどに深刻に困窮している」と捉えることができ、それはもはや自戒を課すことのできる状態ではなく、それ以前の問題であり、つまりは自立した人間でなく要保護・要介護のレベルと見なさざるを得ないことになるのですが・・、その判断をするにはちょっと躊躇している。
そんなことは無いですよね。
もちろん、自立できますよね。
もし本当に対等にコミュニケーションが取れないほどに困窮してるとなると、うーん生活保護とか、カウンセリングとかを申請することになるのでしょうか。よくわからないけども。
私には、何度も二人で出掛けている女性(Aさんと表記する)がいる。
Aさんとは趣味が共通しており、ここ半年くらいの間、2週間に1回の頻度で、遊んだり食事に行ったりしている。
毎回楽しい時間を過ごせている(と私は思っている)し、食事は基本的に割り勘であるのにAさんからはお礼のメールが毎回届く。
恋愛関係の話題になっても、どこか会話のメタ度が高く、私たちの次元まで会話が下りてこない気がしている。
二人でいるときにムードが高まることもない。それどころか手を繋いだこともない。
先日は、二人でランチに行った。
待ち合わせ場所に行ってみると、Aさんと共にAさんの女友達(私とも面識がある)がおり、Aさんにとって「男との約束を友人に公言する」状況になった。
Aさんは彼女と別件があったそうだが。
その後は楽しく二人でランチに行き、付近を散歩して夕方解散した。
これは、表題のように私が箸にも棒にもかからないからなのか、半ば交際宣言なのか、頭を悩ませている。
私は別にAさんに嫌われていないと思う。
近い内にハッキリと交際を申し込もうと思うのだが、そのとき気にかかるのが、表題の状況に陥ってはいないかである。
何分、私は交際経験がないので、自力で経験則を帰納することはできない。
ああ、やっぱり分からない感じなのか。
twitterで、英単語とツイートした適当な奴にいいねを送っていたが、打率が悪いんで今回も分かりにくいんだろうと思っていた。
日本言語学会にもこういう脅迫めいたメールを送って、4日ほど経った。今回も返事は帰ってこないだろう。twitterでは半年ほどは動いているはずだから、放置してメールが来たら良いなぐらいのスタンスでいこうと思う。
このようなサイトを作り、宣伝して周っていますが、あなた方が「日本言語学会」などという普遍的な名称を掲げ、権威として振舞っているおかげで、こちらはそれに認められてないというだけでデマとして扱われ迷惑しています。
あなた方は論文の審査と言いますが、そもそも自然言語の分析というのは既に知っているものについて明確化する作業なのであって、本来的に演繹的でなく帰納的なものであるはずです。
あなた方が何をもって論文を審査するのか理論的に分かりませんし、そのようなもののために無職である私が7000円も支払うわけにはいかないのです。
最初に書いたように、意識しないにしても、あなた方は間接的に私の活動の障害になっています。
今回に限らず、あなた方はその名称をもって一般的に、権威と認められ、障害として存在しています。
であるから、あなた方は社会的にこの質問に答える義務があります。
返答を待っています。』
追記:ああ、あんた、本当にありがとな。
昨今、議論するほど取っ散らかって、結局ちっともまとまらないリベラルとは何か、ということについて
皆さん自由はもちろん、権利や、公正や、分配のことだと言うんですよ。でもね、それって本当にそうですか?そもそもなんでそんな考えが出てきたんですか?
遡るとリベラリズムはジョン・ロックという人に行き着きます。ここまでは普通です。彼はイギリス経験論の人でした。そう、この時代までに経験論哲学が生まれ、同時にそこから近代科学が誕生したのです。
ロック氏は経験論を根拠に、国王の統治権、王権は“神”に与えられたものではなく、各人の持つ自然権を守るために委任されたものだ、という思想を発明します。これがリベラリズムの誕生です。本当です。
これってさ、科学じゃん。観測に基づいた帰納と仮説じゃん。リベラリズム、自由の生みの親は、経験主義と科学的思考や方法論なのです。
※ブコメなどから、社会契約説の元ネタは聖書である、だから信仰の一種である(科学ではない)とのご指摘がありました。
私はこの時代の科学と宗教を、そんなに区別していませんでした。ガリレイはキリスト教の“異説”を唱えたキリスト教徒であり科学者です。経験主義の祖のベーコンもキリスト教徒です。
なので、ロックもプロテスタント(だから王権神授説の異説を唱えた)であり社会科学者のプロトタイプなのではないでしょうか。
(続き)ロック氏から始まるリベラリズムは、この仮説をもとにして以後、市場経済や功利主義、ロールズの正義や公正などを発明していきます。また、自由と科学知識をもった者は産業革命を担い、社会そして個人の生活を科学技術的に豊な方へと変えいきました。
でも私は思うんです。いつの間にが、現代のリベラリズムからは「科学主義」が失われているんじゃないか?自由のための公正や分配もいいけど、まずそれらを科学的に考えることがリベラルなんじゃないか?
リベラリズムの遠戚である共産主義には、最初は科学がありました。そしてその頃までは栄えていました(笑) これはリベラリズムにも言えて、現在低調と言われたりするのは、科学的手法や科学技術を援用し政治することが足りてないからなのではないのか!?
翻って日本のリベラルを見てみると、どう思いますか。あれ、自民党の方が「現代経済学に根差した金融政策」してませんか?なんで理系やギーク系が自民党支持なんてすか?自民党がリベラルと言うのは、なしです(笑)
日本、または世界のリベラルが低調なのは、きっと保守に科学的手法を上手く使われているからなのだと、私は思います。リベラルの革新的な利点そのものが無くなりますからね。必ずしもナショナリズムや感情の時代だから、ではないのです。マイナンバー制度の根幹はIT技術です。IT技術であるツイッターは世界でも保守言論がよく使っています。
だからリベラルは、ごちゃごちゃとリベラルとは何だなどと議論する前に、現代の科学的議論に基づいた政策と、科学技術振興策を取ってください。
そして物理科学社会科学者と科学技術者の信頼を取り戻し、本来の科学的進歩的なリベラルに戻っていただきたい。 枝野さん、お願いしますよ。
http://anond.hatelabo.jp/20170527185142
炎上は「誰かが決定的に間違っている」から続くのではなく、「ある立場の人からみると、別の立場の人のやっていることが極めて無作法に見える」ということによって起こる。
という指摘は、まったく慧眼だと感じた。元増田はその課題として対象の慣習が不可視であるということを挙げ、解決策として基準Eを提案したが、私は基準Eの妥当性には大きく疑問がある。
「利用規約化」「標準ライセンス」は無駄な努力である。ルールがどこで策定されているか、それが法なのかコミュニティなのかは、関係ないし、炎上の防止にとって本質的ではない。例えば今回のケースでは、腐女子界隈が引用を正しく理解していなかったことが炎上に大きく寄与した。ここから言えることは、いくらルールが存在しても、それが構成員ひとりひとりに周知されていないかぎり、炎上のような民主的なプロセスに意味をなさないということである。学校であればリテラシー教育という形を使うことができるだろう。しかしインターネットの自己組織的なコミュニティにそういう「知識の強制」を適用することはできない。
また、「腐女子に頑張ってほしい」というのも奇妙だ。頑張るモチベーションが弱い。こういうことが起こるたびに燃やせばいいと考えるかもしれない。「なんであんなやつらに協力しなければいけないのか」というのが平均的な感覚であろう。とはいえ、後述するが、何らかの協力は求めなければならない。
「自分たちだけが弱者で被害者という立場でないことは理解してほしい」というのは、ナイーブなアプローチである。理解を達成することを甘く見すぎている。また、ルールの衝突が根本にある問題にたいして、また更にルールを以て解決しようというのは、「ルールがあれば、問題は解決する」という盲信だとすら思う。
私なら、これは学術側が主体的に努力する問題だと考える。研究に伴う炎上を防止したいというのは学術界の都合だ。方策としては、「界隈に存在する研究ガイドラインを推定すること」が良いだろう。具体的には、研究にあたり「どこが論点なのか」を洗い出し、腐女子にインタビューを行うことで、我々は妥当であろう研究ガイドラインを成立させる。
当事者へのインタビューは、かならず肌感覚をともなって収集しなければならない。よって事例に対する反応を収集し、良さそうか悪そうか判定してもらうのがよい。我々はそこから帰納的に基準を見出すべきだ。逆に、いきなりルールを探る試みは失敗するだろう。「法律の視点からプライバシーに配慮するなど、完全に合法な範囲であれば、研究は可能ですか」に当事者が首肯しても、いざ事態となれば、やっぱりだめだったとなるのがオチだ。
では、そうしたインタビューを誰がやるのかというのが次の問題である。個々の研究者に責任を負わせるだけでは、やはりめんどくさいので研究が停滞してしまう。「XX界隈に対する適切な研究ガイドラインの推定」というのも一つの研究ジャンルになりうるため、それを確立するというのはどうだろうか。そうすれば、これ自体が研究足りうるので、研究者として動機づけられるはずだ。
最近やたらとネット上で「私は双極性障害です。」というカミングアウトが目立つ。医師がそう診断したというのが根拠だ。
ネット上でメンタルヘルス界隈を見続けて18年超の私から申し上げると、「一昔前までは、双極性障害を自認するメンヘラーはまずいなかった」という事実がある。病名が、躁うつ病 → 双極性障害 に変わったから当たり前なのだが、じゃぁ以前に「躁うつ病」とカミングアウトしたメンヘラーがいたかといえば、とても少なかった。(うつ病の自称者はウジャウジャいた)
精神医学商売にもトレンドがある。世紀をまたぐ頃から長らく「うつ病の診断とSSRI(抗うつ薬)の処方」という流行があった。それがここ数年で「双極性障害の診断とラミクタールの処方」に変わった。かなり露骨に・・・
SSRI(抗うつ薬)に反応しない患者に双極性障害の治療をしたら治癒するシチュエーションは確かにある。双極性障害なのにうつ病診断されていた患者に、適切な病名が告げられるようになったともいえるかもしれない。
しかし、そんな医学の進歩的な理由が主因だとは思えない。今、メンタルヘルスで医者が儲けようとしたら、薬価の高いラミクタールとエビリファイという、うつ病治療とはベクトルの違う処方をした方が単純に儲かる。加えて、うつ病だと寛解したら治療が終わってしまうが、双極性障害の診断をすれば長期的な通院が期待できる。この二つが真の理由だ(あえて断言したい)
医療の世界でもメンタルヘルス界隈ほど製薬会社の戦略に安易に乗っかる分野はない。SSRIを売りたいトレンドでは「心の風邪」なる言葉と共に不必要な人にまで抗うつ薬が胃薬のように安易に処方された。それが今、双極性障害の診断の名の下に高価な薬がやたらと処方されている。それだけなのだ。
厄介なのが双極性障害にはⅠ型とⅡ型があって、後者は抑うつがメインで躁状態は軽微というパターンで、これはうつ病との診断の見極めが難しい。ちょっと前までは「新型うつ病」の新しい概念を使って患者を量産してきた、それに疑義を唱える雰囲気が濃厚になった昨今、精神科医が胡散臭くなくて、薬を選びやすい双極性障害Ⅱ型に診断名を変えてきただけだ。こんな恣意的診断にも医療費は健康保険料から支払われる。長谷川豊的嘆かわしさだ。
私の個人的経験から帰納すれば心療内科・メンタルヘルスクリニックの大半は他の医療分野と比較してあからさまにレベルが低い。安易になされた双極性障害診断に納得してはいけない。((参考:気分障害の当事者活動と「双極性Ⅱ型」について))
形式段落を意味の上で大段落に分けて、第一段落…のように形式段落ごとにちまちまと読解した覚えがあるだろう
自分も未だにそのやり方を続けている
アクティブラーニングなんかが好きな人はたぶん生理的に受け付けないんだろう
現代文(特に評論)の読解には、大きく分けて2つの読み方がある
1つは、トップダウン式の読み方で、全体をざっと理解してから細部に及ぶという、いわば演繹的な読み方である
もう1つは、ボトムアップ式の読み方で、細部を精読してそれを有機的に繋ぎ合わせるという、いわば帰納的な読み方である
多くの国語教員は後者のやり方を取ってきた、特に中学高校の教員は
今、それが古式ゆかしいと批判されて、トレンディではないらしい
トレンディであるかないかじゃなくて、もっと別の方法から、自分はトップダウン式の読み方を授業に持ち込むのは反対だ
まずもって、トップダウン式の読み方というのは、まともに書かれた文章をまともに読もうとするとき、まともに使うことは稀であるように思う
そして、トップダウン式の読み方というのは、何より、それを履き違えた形で身に付いてしまうと、
「自分の都合のいい/自分が読める箇所だけを繋ぎ合わせて何となく理解した気になって、こんなもんだろう、と都合のいい物語を勝手に作り上げてしまう」
それに、ボトムアップの読み方すらできない人は、トップダウンの読み方なんて絶対無理
むしろ、もっともっと、細かい部分をきちんと読み込めるようにしないとダメだと思うぐらい
時代の流れだとか言うけど、
「過去より現在が常に正しくて、未来はもっと正しくなる」って考え、進歩主義以外の何物でもないと思うんだよね
「新しいものだから」とか、「時代の流れなんだ」とか、それは主張の正当性を裏打ちするものではないと思う
「進んでる」とか「遅れてる」とかそういうフレーズを価値判断と絡めて使う人は大抵、論理的に正当性を主張できないから、進歩で殴るしかない
折にふれてはおもひでぽろぽろを引用して出てくる分数の割り算の話題で思ったこと。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47340
りんご6個を(1/2)人で割ると12個に増える気味の悪い事態が発端であり、
通例的な説得手段は概ね、
・りんごや人という離散量を扱うのを諦める
の三択になる。だからといって増えるりんごの気持ち悪さは拭えない。
そもそもなぜ掛け算が減っても気にしないのに、
割り算結果が増えると気味が悪いのかといえば、
掛け算が分け前の「要求」であるのに対して、割り算が「譲歩」であるからであり、
「要求しない」ときと「譲歩しない」ときに字面と数字に差異が出るからではなかろうかと思う。
掛け算は一人前の要求が×1であり、半量なども問題なく要求もできる(×1/2)。
「要求しない」とは×0のことであり、ない=0が対応して問題ないと思う。
みんなで譲歩して一人前を決めましょうということで妥当かと思う。
割る人数が増えれば譲歩の量が大きくなる。
ところが困ったのは、「譲歩しない」が÷1となることである。
ない=1自体の理解はさほど困難ではないが(競合相手がいない=自分一人)、
1より小さな数で割るときに「ないより小さいもの」を扱わねばならない。
この「無の先」こそが負数や虚数に似た気味の悪さを醸しており、
机上の空論かもしれないが、分数の割り算は結果が増えない演算からはじめると良いように思う。
(仮分数という小学教育でのみ厄介扱いされる存在を扱う必要があるが)
6個のりんごを、大人(=1人)と大人の半量を食べる子供(=1/2人)の3/2人で割る。
その為に6÷(3/2)を6×(2/3)という逆数をとる手順を追うことも受け入れられるかと思う。
手順を覚えたあとに6÷(1/2)=12の異常事態に結局のところ直面するであろうが
ひっくり返して逆数を取ることへの嫌悪感は幾分か減るかと思う。
不思議なことに彼らはお互いを見下しあっている。
両者ともに、相手方は論理的思考ができていない、と批判しているのだ。
仮に両者が論理的であれば、そうは感じないはずだが、なぜそういった現象が起こるのか。
twitterは小学生から高齢者まで、本をまるで読まない層から執筆している側の人間まで幅広く存在する、希少で特殊な場だ。
知的レベルの高いものは少数派で、多くは感情的だったり、自分の思考の偏りを認識していなかったりする。
それはもはやイチャモンだったり、ヤンキーによるカラミに近い。
彼らは議論という手続きの進め方がわからず、相手を攻撃することしか考えていないのだ。
そんな人間が多数派であるがゆえに、頭の良い層はその態度に辟易し、相手サイドは頭が悪いと帰納的に印象付けらてしまうという寸法だ。
ただし、それは少し考えればわかることである。
右よりだからバカ、左よりだからバカと決めつけるのは非常に頭の悪い考え方だ。
どのような経緯で相手がその結論に至ったかという観点が抜けてしまっている。
だから私は言いたい。
その属性で相手をバカだと短絡的に主張している人間はバカであると。
つっこみ、期待しています。
はてなでは、水素水やら塾生肉やらサーモンやら、世間で話題になった記事の批評や炎上が多い。
スマホが普及し、ニュースはキュレーションメディアやSNSで知り合いがシェアしたものを読むのが主流になりつつある中で、大量に流れてくる記事でどれがデマなのか、判断するのはなかなか難しい。デマ記事を見分ける方法としては、
・バズワード、流行もの、似非科学に類する話題は特に注意して読む(怪しそうな話題の嗅覚を磨く)
などがある。情報収集の効率の観点から、すべての記事を批判的に読みいちいち吟味するより、基本は専門家の伝聞を鵜呑みにし、1つ目、2つ目の方法がよい気はする。
ただ、自分の頭で考えて判断するのが本質的に重要だと思うので、3つ目のやり方を書く。
自分はディベートを5年ほどやっていた。ディベートではそのテーマについて資料・文献を大量に読み漁り、使える資料を見つけることが重要である。また試合中、反駁(はんばく)のパートの人は、相手の主張を切り崩す必要があるのだが、どこに着目して突っ込めばよいのかは経験を積まないとなかなか身につかない。
例のサーモン記事 (http://www.salmon-garage.com/entry/2016/05/29/175437)を例に、いかに批判的に記事を読むのかを説明する。
まずは、議論の構造を把握することが大事。今回の場合、議論の構成は
主張:日本のスーパーで売られているチリ産のサーモンを買うべきでない。
理由:チリ産のサーモンの養殖過程で深刻な海水汚染が行われているから
深刻性:??
こんな感じの構成。記事のタイトルとこの手の記事によくある食品品質の問題で間違えそうになるが、この記事の主張と根拠は決して
「チリ産サーモンの品質管理に問題がある」から「チリ産サーモンを買うのはやめよう」ではない。
この記事の著者の書き方は、(意図的か)海水汚染の話に混ぜて、日本人が食いつきそうな、チリのサーモンは品質的にどうなのか、みたいな話を混ぜて書いていて紛らわしいしよろしくないと思う。
http://www.salmon-garage.com/entry/2016/05/29/175437
「サーモンの餌は魚ではない」「養殖場には殺虫剤は流れてこない」「抗生物質はサーモンにさほど影響がない」「狭いかどうかはサーモンが決める」
こうした主張において、メリットなりデメリットが発生するポイントとしては、「発生確率」と「重要性・深刻性」がある。これは同時に反論ポイントでもある。
例えば、「発生確率」を削ってしまえば、「それそもそも起きないよね?」ということになる。
「重要性・深刻性」を削ってしまえば、「それって起きたとしてもそんなに重要じゃなくね?」となる。
ディベートでは、
「メリット・デメリットの大きさ」=「発生確率」×「重要性・深刻性」
という考え方をするので、基本は両方突っ込む。
今回の例で構成を見てみると、海水汚染がそれが世の中の人にどれほどの影響を与えているのか、記載されてないため、「重要性・深刻性」に対してこうした反論ができる。
「サーモン養殖による海水汚染がどれだけ深刻なのか分からない」
発生過程の反論も基本的には、どういう話の筋でそれが起こるのかをきちんと把握することから。
できるだけ細かく、矢印で、AAA→BBB→CCC、というように分割する。
そこで、AAA→BBBが起きる理由があるかを疑う。これは演繹的な根拠を崩す方法。
もし理由があっても、全てのAAAがBBBにならない例を探して削っていく。または、他の原因があることを示唆する。
もしAAA→BBBが実際に起きてるという実例が書いてあるなら、その前提条件を疑う。こっちは帰納を崩すやり方。
・魚の餌による汚染
②海水に流れ出した餌が赤潮を発生させる確率をどの程度高めているのか不明
③2500万匹の鮭が死んだ赤潮の例は、赤潮の発生原因はエルニーニョ現象であり、魚の餌による汚染とは無関係
④エルニーニョ現象と比較して、魚の餌による赤潮発生寄与が不明。
という反駁ができる。あと直接な反論ではないけれど、
⑤鶏→鮭→牛→鳥のエサの連鎖が海水汚染とどう関わっているか不明
というのもある。
本筋は、チリの鮭には寄生虫免疫なし→殺虫剤が必要→殺虫剤が海に流れ甲殻類を殺す、な感じ。反論はこんな感じ。
本筋は、チリ産鮭が成長するには抗生物質投与が必要→ノルウェーより1000倍くらい使ってる→海に流れて汚染。
③海に流れたとして、抗生物質が海に影響を与える原因、程度が不明。実被害も不明。
筋書きが明確に書いてないなく、正直この項は破綻していると思う。
始めは、多国よりかなり密集して飼育されてる→水質が悪化→大量死→汚染
もしくは、多国よりかなり密集して飼育されてる→ウイルスで感染が広がりやすい→大量死
のシナリオかと思ったのだが、ウイルスで死んだ実例も根拠もない、密集してることのデメリットで述べられているのは酸素濃度だけで、酸素濃度が低下したら何が問題なのか分からない、と具体的に何が悪いのか述べていない。
挙句の果てには、鮭が大量死したのは、測定されていないプランクトンの大量発生が原因、と述べられている。
例としてサーモンの記事を使ったが、記事のあちこちに、いかにも関連しそうでサーモン養殖にネガティブな印象を与えそうな、サーモンに関係のない情報が入ってくるのでとても読みづらかた。また基本的に伝聞の情報ばかりなので、根拠が不明だったり、ロジックがかなり適当。
こういう読み方をすれば、かなり浮ついている文章ということが分かる。
もし、私が白い白鳥を何度かみて
すべての白鳥は白いと断言しだとしよう
私は肯定される。
自分の考えを正す準備はあると言ったとしよう。
さて、ここで黒い白鳥が見つかったとしよう。
もし、誰かに責められれば私はこういうだろう。
だけど、すべての白鳥は白いというの発言は、本来はこうあるべきではないか
現時点ですべての白鳥は白い
こういうべきだった。
私は自分の考えを正すというのを、間違いをただ肯定するだけであり
もし、間違っていたとしても現在の私も、過去の私も責められる理由は全くない。
自分の考えを正すどころか、肯定することを運命付けられている。
ある断言を悪いというわけではないが、あまり信用できないものでもある。
そもそも間違いを責める必要性はなく、ただ彼に認めてもらわなければ
しかし、彼は認めないだろう。
つまり、彼のすべての白鳥は白いと断言した、時点での訂正が求められる。
それがお互いのためだろう。
まっつね(中原芽衣)のブログは一時期(2011~2013ごろ?)大分流行したけど、
あれがアニメカテゴリのはてダ、はてブではテンプレになった感がある。
すなわち、問題の中身(内容)に対してダイレクトな見方;登場人物の感情の機微や状況の変化から物語というもの解釈する、のではなく、俯瞰的な見方;レイアウトがどうなっていて(富野本からの上手下手の話など)、もしくはメタフィジカルな目線(これまでのスタッフのやり方、手法とか)からどうなっているか、という点から物語を解釈する、という方法。前者は帰納的な見方といえ、後者は演繹的といえる。後者に絞って考えよう。
後者は定義ありきである。すなわち、「レイアウトがこの状態であれば、キャラ同士の優位性は変化しない」みたいなカミシモ信仰を元に物語を考えていくのだから、いくぶん柔軟性にかける。客観的に物語を解釈しているというよりは、定義に従って解釈している。演繹から導かれる解釈は、違いがなく、またスタッフから解釈することもさほど異ならない(そもそもクリエイターは常に同じ手法で描くわけではなく、変化しているのだから、作っている人間から何か物語を解釈しようとすることは変なのだ)。つまるところ、(彼らは否定するだろうが)一般論になってしまう。基本的に評論というものは一般論に対しての反論であるのに対し、まっつねとそのチルドレンたちは、演繹的な解釈をすることによって、”間違いではないが、反論になっていない(一般論をなぞった)”意見を乱発させている。だから、無個性の文章が増え、面白くないのだな。そう思った。
だからファックなんだよお前らは。
俺は仮面浪人して結構前に東工大に入った。勉強するモチベーションが全くなくて、なんて言い訳して東大行けなかったからな。
入った時は意識超高かったよ、俺。勉強ももちろん頑張るし留学だってするし彼女だってつくる。
でもな。授業はクソつまんねえし、なんのためにやってんのか分かんねえ。周りの奴らは目がフシアナのキモい奴らばっかりとくる。やる気なんて起きねえよ。うちの制度は少し特殊だが、なんと院含めて俺の通算GPAは1.8だ。これでも誤魔化し誤魔化しやってこれなんだ。授業なんて、出なくていいやつはひとつも出てねえよ。
留学もしたよ、半年間。英語もある程度は話せる。TOEFLだって90点台だ。
彼女はつくれてねえよ。俺は太ってるからな。今は82kgだ。その上人前ではヘラヘラ笑ってるぜ。
でもな、俺はようやく気づいちまったよお前らのくだらなさに。レールに載せられて、外れて憐れまれて、仮面していたときから微かに思っていたが、ようやく気がついたよ。
お前らホントファックだ。結局、何も考えてねえ。お前らのくだらなさに、反吐が出る。
俺もくだらねえ。中身が何もないことにこの年になって気がついちまった。こうなると、夜に眠れなくなっちまったよ。今は春休みだからいいが、これからどうするんだろうな。
なあお前ら、どうしたら良いと思う?やりたいことなんて、ねえんだ。三島由紀夫とか、ショーペンハウアーとかクソ卑怯者ソクラテスでさえも、結局は死んでいった。俺は自殺が最適解なんじゃねえかと、帰納的に思っちまうよ。