はてなキーワード: 帰納とは
反陰謀論からすると反感を買うかもしれないが、世間の常識を無批判で受け入れる姿勢が陰謀論にハマるきっかけになる。
きっとそういう人はエーテルが常識だった時代に相対論を唱えるアインシュタインをバカ扱いしていただろう。
天動説が常識だった時代に地動説を唱えるガリレオをバカ扱いしていただろう。
世間の常識は多くの場合正しいが、絶対に正しいわけではないし、調べて自分の頭で考えて受け入れるべきだ。
そういう意味で陰謀論を"無批判で"バカにする反陰謀論者も同様にバカである。
「誰々が言っていた」「どこどこに書かれていた」だけを証拠にしない。
なぜそんなことが言えるのか。
「正しく疑う」を言語化するのは難しいけど時間がある時もっと具体化したい。
科学論文や権威ある論文は英語で書かれている。英語で調べ読むことができることは重要になる。
誰がなんの証拠でそんなことを言っているのか。
このキャラクターorカプ関係性はこうである、これが自分の解釈!
こういうのよく見る。
私は本当に解釈ってやつを言語化するのが苦手で、できる人すごいなって思ってる
なんで苦手なのか?解釈を決め打つと、二次創作の幅が狭くなるので。自分で自分に無意識で制限かかるというか。
解釈には幅がある?
それとも解釈と、こういうものが見たいから描くはまた別のはなし?
私のスタンスはどれなんだ
このキャラはこう考えてるはず!とは少し違う?
でもこういうシチュエーション・こういうリアリティライン・こういうIFならきっとこうするかも。の上で話を考えてる。
リアリティラインを私の得意な方面に寄せがち。なので本編とは少し倫理観の雰囲気がズレる。
本編通りのキャラクターではない気がする。
解釈の方がなー。
それと解釈は別と思ってるが。
Aくんはきっと家族がいないから今のような性格になったに違いない。とかは解釈なのか?設定捏造?
風呂入ってる時に敵に襲われたらどうするの図みたいなやつ?
ああいうの見るの大好き。
あれは解釈かもなぁ。○○な時、各キャラはどういう行動とるか。それをあらゆるシーンで考える。
あれを単体で考える時と、同人誌の話考える時で多少誤差が出る。
二次創作は演繹タイプで作れる人の方が圧倒的に向いてると思う。キャラ動かしてなんぼなので
眠くて頭回ってないな
また後日考える。ここは私の日記帳なので。
心理学?のナンチャラ効果、バーナムとかカリギュラとか、最近流行りの蛙化現象とか。
「完全に理解した」と「なんも分からん」の曲線とか、マズローのピラミッドとかも。
ああいうのって脳味噌の構造がこうなっているので人はこうなりがちです、っていう論理的な話よりは単にあるあるネタでしかないと思う。
帰納的な推論ともいえるけど、なんにせよまあこういう考えや認識ってありがちだよねというまでの話。
そこから得られる事といったら、せいぜい人間の考えはそうやって傾きがちだから自覚的に惑わされないようにしようね、くらいのもん。
だからその手の単語をサイエンスの顔つきで出されるとう~んってなるし、あるあるネタで個人の悩みを相対化、矮小化する事にはどれだけ意味があるのかなって思う。
タイトルのまんまなんだが、これを知らずにそのままスライドして教えてる人がいるから困ったもんだ。
もちろん、人によってはそのままの方が理解できる子もいる。しかし、ダメだったときに別の方法を知っていた方がいい。
まず、みんなが英語の勉強で想像しやすいのは高校生のやり方だ。これは、抽象的な知識をもとにする方法だ。英語にはこういうルールがある。だから、このルールを応用すると、英文が読めるというものだ。演繹だと考えると分かりやすい。
こんな感じで高校生と同じように小学生も教えてないだろうか。実はこのやり方が人によっては合わないことがあるのだ。
小学生は脳が発達段階だから、抽象の能力が人それそれなのだ。だから、ルールがこうだから、このように応用するという方法は人によっては合わないのだ。
ではどうするか。逆のことをしたらいい。帰納的に英語を学ばせたらいい。大量に英語与えたらいいのだ。すると感覚で英語を理解することができるようになる。それで抽象の能力が発達したら、中学や高校で理論を学べば良い。
こんな方法があるなら学校でやればいいじゃないかと思うかもしれないが、それは無理。時間があまりにも足りない。この方法はようは私たちが日本語を学ぶプロセスに似ている。だから、かなり時間が足りないのだ。
最近の中学や高校は文法をしっかり教えないという話を聞いたことがないだろうか。実は、学校では帰納的な学びかたにシフトしつつある。
でも結果はどうか。大失敗している。そんなの当たり前で、時間が足りないから中途半端になっているのだ。
文法を教えるというのは限られた時間の中で英語を勉強することにおいては最適の方法だ。しかも、中高生なら抽象の能力も発達している人が多いから、理解もできる。だから、学校で文法をしっかり教えるのは、良いことだと個人的に思っている。
今の学校は文法をあまり教えず、中途半端な量の英語を読ませてるだけだから、どっち付かずの状態なのだ。
よく文法をやるやらない派が喧嘩しているが、そんなのどっちでも良い。どっちも英語ができるようになるし。ただ、時間という制約を考えると文法を学ぶのが良いってこと。
演繹は、一般的な法則や原理から個別の事例や現象を導き出す方法です。12 例えば、「すべての人間は死ぬ」という大前提と、「私は人間である」という小前提から、「私は死ぬ」という結論を出すのが演繹です。2
帰納は、個別の事例や現象から一般的な法則や原理を見つけ出す方法です。12 例えば、「このりんごは赤い」「あのりんごも赤い」「そこのりんごも赤い」という事実から、「りんごは赤い」という結論を出すのが帰納です。3
演繹と帰納の違いは、推測に使う「一般論」が既知か未知かという点にあります。2 演繹では「一般論」が既知であり、それを根拠にして個別的な結論を導きます。
帰納では「一般論」が未知であり、それを発見するために個別的な事実を集めます。
私:私は「一般的な法則や原理」が存在するかを人間は感知しえないという意見(例えば、「すべての人間は死ぬ」と断言することは難しいと考える)を持っています。この観点からすれば演繹という方法は存在せず、演繹と考えられているいる思考のプロセスは、帰納を行っている間のいちプロセスなのではないかと考えます。
AI:なるほど、興味深い意見ですね。私は、演繹と帰納は相互に補完的な関係にあると考えます。
例えば、「すべての人間は死ぬ」という一般論が本当に正しいかどうかを確かめるためには、個々の人間が死ぬという事実を観察する必要があります。
これは演繹的な思考法ですが、一般論の妥当性を検証することで、帰納的な思考法の信頼性を高めることにもつながります。
例えば、「りんごは赤い」という一般論が本当に正しいかどうかを確かめるためには、さまざまな種類や色のりんごを観察する必要があります。
これは帰納的な思考法ですが、新しい一般論を発見することで、演繹的な思考法の可能性を広げることにもつながります。
したがって、私は演繹と帰納は存在しないというよりも、互いに依存しながら物事を推測する方法だと考えます。
私:帰納法についてはもっともだと思いますし、その方法は存在すると言えると考えます。しかし、演繹法についてはどうでしょうか。仮定の上に仮定を重ねることを許容するならば、帰納法と組み合わせて物事を推測する方法が成り立つと考えます。ただしそれは、あくまで不完全な前提の上での思考・推測なのだと心得た上で行う必要があると思います。
AI:私は、演繹法も帰納法も不完全な前提の上での思考・推測であるという点に同意します。
演繹法は、一般論が真であると仮定して個別的な結論を導きますが、一般論が真であるということは証明できません。
帰納法は、個別的な事実から一般論を見つけますが、個別的な事実がすべて観察できるということも保証できません。
ですから、演繹法も帰納法も絶対的な真理を導く方法ではなく、相対的な妥当性を持つ方法だと考えます。
その意味では、演繹法も帰納法も存在すると言えるのではないでしょうか?
早まった一般化 (hasty generalization)
詳細は「早まった一般化」を参照
A「私が今まで付き合った4人の男は、皆私に暴力を振るった。男というものは暴力を好む生き物なのだ」
Aの発言は、少ない例から普遍的な結論を導こうとしており、早まった一般化となる[注 2]。仮に「男というものは暴力が好きなのかもしれない 」と断定を避けていれば、その発言は帰納となる(帰納は演繹ではないので、厳密には論理的に正しくない)。Aの発言を反証するためには、暴力が好きでない男の存在(ある男は暴力的でない)を示せばよい。Aの発言は、「1は60の約数だ。2も60の約数だ。3も60の約数だ。4も60の約数だ。5も60の約数だ。6も60の約数だ。つまり、全ての自然数は60の約数なのだ」と論理構造は等しい。
この種の話法例は容易であり「ある貧困者が努力により成功した」「ある障害者が努力により成功した」などの論調により統計的な検証を待たずして命題として認証される誤謬の原因となる可能性がある。ある貧困者や障害者が「努力」を要因として成功したとしても、それは問題の解決にとって論証的に有効な提示となりえるかどうかは分からない。都合の良い事例や事実あるいは要因のみを羅列し、都合の悪い論点への言及を避け、誤った結論に誘導する手法は「つまみぐい (チェリー・ピッキング)」と呼ばれる。また、極稀な例を挙げ、それをあたかも一般的であるように主張することもこの一種となる。
https://anond.hatelabo.jp/20221229235915
この女叩き反省増田と増田につけられたブコメを読んで思ったことを書く。
この言葉が示す"女を知る"とは、恐らく現実に女と関わるということを意味していると思われる。
つまりこの言葉が示す"女を悪く言う者"とは、増田妖怪の代表格である下方婚増田のように、現実に女と全く関わらずに女の上昇婚志向という統計的な事実をもって女を叩く者等を意味しているのだろう。
いや、ぶっちゃけ下方婚増田は実は恋愛経験豊富で女友達も沢山いる既婚者かもしれないけど、その真偽はここでは一旦措いておく。
では実際に女と関わることで女を知ったことになるのだろうか?
人間がその一生で世界中の女と関わることは不可能だ。あくまで、限りある時間の中で限られたごく一部の女とのみ関わりをもてるだけだ。
この前提に立った時、女と関わることで"女を知った"人物の口から語られる女とは、限られたごく一部の事例から帰納的に結論付けられた"女の傾向"でしかないと言えるだろう。
これはあの忌まわしき経験則そのものではないか。n=1ッ!n=1ッ!!
経験則とはブクマカが大嫌いなn=1を包摂する概念であり、下方婚増田が頼みとする統計的事実の幼子だ。
だからもうぶっちゃけるけど、この言葉は論理的に破綻してるだろ!!!
こんな奴が女を知っているということになるんだぞ!?それでいいのか!?いいわけないだろっ!!!
いいか?女を叩くのがなぜいけないかと言えば、それは女を叩くのがいけないことだからだよ。トートロジー、不善、つまり倫理だよ倫理。
実際にカスみたいな女とばかり関わって尊厳を損傷したとしても、
実際に彼女にカンピロ仕込みの親子丼を食べされられたとしても、
それでもなお、俺たちは女を叩いてはいけないんだ。何故なら倫理的に良くないから。
倫理的に良くないことを批判する理由は倫理的に良くないから、で十二分だよ。
それを避けて下手な論理や権威を振りかざすから話がこじれるんですYo。
何が面白くて女を叩くのだ。
これはもう女叩きぢゃないぢゃないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。