はてなキーワード: 小さな政府とは
政治右派は国家主義的で排他的。移民や夫婦別姓、外国人参政権の付与に反対する。自国で新憲法を制定すべきとし、自衛隊を国軍として日米同盟に依存しない防衛を目指す。狭義の右派はこれ。日本会議など。
政治左派は日本国憲法原理主義的。男女間や国籍などあらゆるものに平等を求める。日米同盟にも自衛隊にも反対し憲法改正を許さない。狭義の左派はこれ。共産党、市民連合など
政治中道はその中間。日本国憲法は尊重しつつ改正が必要なところは改正する。国防は日米同盟を基調とする米国依存だが、集団的自衛権を認め、自衛隊に対しても日米同盟の片務解消と国際社会の一員としてより踏み込んだ役割を果たすことを求める。自民党の大勢。
経済右派は自由主義。政府の介入を好まない。市場原理主義で市場の失敗による貧困層には最低限度の社会保障で対応する。規制や税金の少ない自己責任ベースの夜警国家(小さな政府)を良しとする(アメリカ型。公平重視)
経済左派はその逆。政府が規制で積極的に介入して、高い税金をとって社会保障が充実した福祉国家(大きな政府)を目指す(スウェーデン型。平等重視)
経済中道はその中間。自由経済がベースだが福祉も積極的に行う。現金を配るよりも公共事業によって仕事を配ることで所得の再配分を達成しつつ社会資本を整備していく福祉国家を目指す(自民党型。失業率最小化)
これを踏まえて各党見ていく
自民党は政治、経済とも右派と中道が混在。日本会議寄りの議員が政治右派、竹中平蔵寄りが経済右派。公明は政治経済ともに中道路線
立憲民主は自民の逆で政治経済ともに中道と左派が混在。泉代表は政治経済ともに中央寄りだが、福山哲郎や菅直人あたりは政治経済ともに左派。
政党の理念なんてあってないのはどこでもで、アメリカだって昔は古き良きアメリカを体現したのが民主党で、自由の国アメリカの守護者が共和党だったが、今では180度逆だ。
しかし行政府はそれでいいにしても、立法府が既得権益者の利害調整じゃまずい。
小沢一郎が言う二大政党制というのは、国会なんて最後は多数決で賛成か反対かなんだからって理屈で、それは日本の選挙制度からすると最適解だが、行政府だけでなく立法府も利害調整を仕事にしたら、法に理念なんかなくなっちまう。
ちきりんが言ってたけど
この「家庭」って名前をつけたがるのは、個人より家庭が大事で、家父長制を肯定したい人達なんだってさ。
なんとなくわかる。
自民は時代によって大きな政府志向だったり小さな政府志向だったり、資本主義的だったり社会主義的だったりしたけど、一貫して個人主義より全体主義っぽさはあるよね。
小さな政府をかなりの期間で目指してきたこともあり、半導体産業に対しては政府・省庁は関与してない。
エネルギーや自動車は関与しているので、それなりに詳しい人が中にいると思うが、半導体はそうじゃない。
なので、政府・省庁で働く人は、一般人が見ているニュースを見て勉強していると想像している。
そもそも発表される資料が、最近のニュース・トレンドを簡潔にまとめているものが多く、
日本にどういったアセット・人がいるのか把握できてない気がしてならない。
既に斜陽産業の半導体のプロが入っても、これまでの経験の延長線上になるので、新しい切り口は必要と考えるのは正しいだろうが、
(技術的なことを全部すっ飛ばして、株価だけ見てこの企業凄そう!って考える人ばかりでは駄目だろう)
特にフォトニクスにだけ力を入れようとしているのが危ないように感じる。
最近の半導体は、データの移動だけで電力を食っているという状況はわかるが、
チップ内の2,3cmの距離だと、光に変換するよりも今まで通り電子処理したほうがよい。
大きな政府のもとで経済を統制(計画経済)して、平等な社会を目指す傾向。究極的には共産社会。
小さな政府のもとで自由な経済(自由競争)にて、強い社会を目指す傾向。究極的には無政府社会。
交渉や外交において強気(場合により交戦的)な姿勢をもつ傾向。
交渉や外交において穏健な(場合により隷属的)な姿勢をもつ傾向。
「企業の民営化」によって自由競争を促そうとするのは右派的な政策。
・ GAFAを例にだすまでもなく、自由競争によって国家を超える企業が生まれても放っておくのは右派的。
・ アリババやテンセントを例にだすまでもなく、国家を超える企業を規制して経済を統制しようとするのは左派的。
かつて日本は国家による経済政策(所得倍増計画)が成功して、結果として終身雇用が守られた。
「日本は世界でもっとも成功した社会主義だ」と揶揄されることもあった。
・ パソコンを使いこなせる若者に活躍してもらうために、年功序列を廃して「雇用の自由化」を促進するのは革新的右派。
・ 国家による計画経済をもとに、日本の古き良き「終身雇用」を守ろうとするのは保守的左派。
パソコンを使いこなす東大早稲田慶応卒業の若者が地元スーパーの店員になるしかなかった就職氷河期は
・ 「雇用の自由化」を促進した政策アドバイザーが悪いのであって、計画経済のもとに終身雇用を守り続ければ良かったのだ!は左派的。
・ パソコンを使えないおじいさんの終身雇用を守るために、自由競争政策に途中でブレーキをかけた左派野党が悪い!は右派的。
・ 日本の平和憲法は世界で最も先進的な憲法だから守るべき!は保守的。
・ 日本の憲法を時代にあわせて適宜見直してゆくべき!は革新的。
年寄りは死ぬのが自然だから無理に生かそうとするのは「虐待」というコンセンサスが国民に広くあるのであれば、それはそれ。
年寄りは大切にしなければいけないから延命手術をしてあげないのは「人殺し」というコンセンサスが国民に広くあるのであれば、それはそれ。
「ネトウヨ」だとか「パヨク」だとか叫んでると「あー、こいつなにもわかってないなー」とバカにされてるから気をつけて。
さらに、他の国のコンセンサスを中央に据えて「ネトウヨ」だとか「パヨク」だとか論じてると、さらにバカっぽく見えるから気をつけて。
ここで宿題。
ここまで読んじゃったお前はネトウヨ!
じゃな!ばーーーーーか!ちねちねちねちね!
https://www.meti.go.jp/committee/summary/0004660/index.html
最も重視したのは、世界の中での日本の産業の現実を直視することである。これまでの議論は、ともすれば、耳障りの良い「日本の強さ礼賛論」に陥ったり、非生産的・自虐的な「悲観論」に走ったり、経済実態から乖離した「精神論と美文」に終始しがちであった。
再分配による成長の限界
特定のグローバル製造業に過度に依存した成長となった2000年代は、景気の拡大期であったにもかかわらず、賃金は上昇しなかった。結局のところ、日本経済「全体」の「パイ」を拡大しない限り、成長は困難なのである。
しかし、90年代に入り、省庁間の縦割りによる弊害が目立つようになり、「小さな政府」や「規制緩和」による民間活力の発揮を標榜する論調が我が国にも広がる中で、いつしか、国は企業活動の自由を保証し、あとは何もしない方が良いという市場機能を無批判に肯定する議論や、産業政策における国の役割をすべて否定するような議論さえ台頭するようになった。こうした中で、官民の連携の強さは失われ、相互の距離は広がっていってしまった。
前回 https://anond.hatelabo.jp/20211127063143
死にたい?生きたい?
もう 死にたい でも生きたい
なにもかも投げ捨てられなくても?
うん なにもかも投げ捨てられなくても
世界全体が壊せるとしても?
うん 世界全体が壊せるとしても
自分が嫌い?
自分が嫌い
自分のままで生きていたくない?
自分のままで生きていたくない
でも生きたい?
でも生きたい
公務員ごときの癖してそれなりに専門技術を身に着けて現場で働く人もいる。
ただやっぱり、そういうのってお互いに競争してる民間の方がクオリティが高いわけで減ってきている。
そのスタートがOBの圧力だったり役人の手回しだったのかはもう分からない。
そんな人達から回ってきた仕事をありがたくやらせていただく仕事をすることになった。
準公務員ってやつだな!
競争しているのでクオリティが高いとさっきは言ったが、これは単に同じ金をかけた場合の話であって、当然安い価格でやらせれば安い仕事しか出来ない。
もしも安い仕事しかできない業者お断りとなれば、本当にクオリティの高い会社が残っただろう。
だが、専門性が超高いのだけ製造業者とかに頼むから軽いメンテはクソ雑魚でええわとなっているのが現状らしい。
つまりは我々のような落ちこぼれを安く雇って安く使う会社だけが生き残ったというわけである。
競争入札を重んじる小さな政府を国民が望むってそういうことよね。
淡々と日々が過ぎる。
思ったよりも忙しかった。
役所と同じように自分たちの所も人が減ってきているし、老朽化に対して予算ぐりが追いついてない。
アタリマエのことが出来なくなっていく日々が行政のレベルで進行していっている。
その行政から回ってくるはした金と、「金がないからギリギリのメンテで耐えて」な発注書。
それに従って首の皮一枚を二枚に増やし、一枚が吹き飛んでも耐えられる程度にする。
この国は老人なのだと痛感させられる。
健康な新陳代謝と呼ぶにはあまりにも新しく生えてくる機能がなさすぎる。
延命処置の技術だけが発達していって、病人につなぐスパゲッティ装置のコスパがよくなっていくだけだ。
死にかけの老人が若者に蘇る手術の予定はない。
どうしようもない人生の行き詰まりの果てに、同じように人生が行き詰まった奴らが、行き詰まった国の現状を直視しながら目を逸らしながら仕事をする。
精神を削る魔物を見つめるように、視線を交差させないようにしながら細部を見ながら、見すぎないように、覚えようとして、それでいてすぐに忘れるように。
「公務員なんてのは雇用のセーフティネットなんだよ」と馬鹿にする声を前に聞いた気がする。
そのとおりだ。
その網にかかって私は今、いつか、あのベランダの屋上からコンクリートにぶつけるはずだった頭を今でも頭に乗せて生きている。
生活インフラの整備をしていると、人の目につかないような場所にフラリと行くことがある。
それはどこか薄汚くて、嫌な匂いがする。
町を生かすために必死に動いているのに、それを見ていると気が滅入ってくるようだ。
こんなものを縁の下に引いて動いている町で、キラキラと働いていると思っている人がいると思うと滑稽だ。
誰かが便所掃除をするから、汚物を日々ブラシで削り落としているから、汚物の匂いがこびりついた便所で用を足さずに住んでいる。
子供の頃読んだ図鑑で、食物連鎖は結局の所、腐葉土の中にいる微生物によって支えられていると読んだことがある。
なれたのだ。
これでいいのか。
分からない。
ただ、世の中のためを思うなら死ななきゃいけないような、生きてるだけで迷惑な人間と言われるほどの筋合いはないだろう。
どこかで税金泥棒じみたコスパの悪い働き方をしている自覚はある。
その原因は本物の公務員様からやってくる仕様のせいだが、面倒だから逆らう気にもなれない。
状況を改善するには今この界隈にいる人間よりも一回り有能な人がいるだろうが、こんな所に有能な人は転げ落ちては来ないだろうし、転げ落ちた時点で才能を使い切ったあとの出涸らしだろう。
コスパが悪いことを自覚しながら、それに自分で苛つきながら働くことと引き換えに、身分と給与を保証された腐った匂いのする微生物としてこの社会の下で蠢いていく。
私の人生にもこんな惨めな気持ちにならずに暮らせる可能性はドコかに合ったはずだ。
ただ、それを選んで幸せになれるだけの才能があると信じられなかったのだろう。
そして、実際ソレが正しくなる程度の才能しかなかったんだろ。
私は、自分に与えられた人生を社会に対して最低限ここまでは出してくれと願った価格よりは少しマシ値段では売り払えた。
もうこれで十分だ。
伸びたのは経済スタンスがはっきりしている党。維新、国民民主党、れいわ。
国民民主党と、れいわの比例票数を合わせたら維新とだいたい同じぐらい。
もっとも、国民民主党は連合の支援を受けているが、連合は大企業の労働組合なのでスタンスとしては小さな政府・新自由主義側となる。
希望の党結成時に、安保法制や消費税増税に賛成しないと公認しないというの騒動もあったし、選挙終わってすぐに維新との連携なんてこと言ってるからやっぱり国民民主党は信用できないなとは思ってる。
前原元外相テレビ出演詳報(1)「共産党はシロアリだ。協力をしたら土台が崩れる」
--例え選挙協力であっても共産党と手を組むわけにはいかない、というスタンスか
「共産党とはまったく違う。私は京都なので、非常に共産党が強いところで戦ってきた。共産党の本質はよく分かっているつもりだ。シロアリみたいなものだ。ここと協力をしたら土台が崩れる。われわれはやはり、外交・安全保障は政権交代があってもそれほど大きく変わらない、現実的な柱で。しかし内政は、『小さな政府』や新自由主義とは対峙(たいじ)していく。大きな野党の家を、共産党が主導するのではなくて、民主党が中心となって作っていくことが大事だと思う」
https://www.sankei.com/article/20151114-KR4TKX5N2RIETERY5266JPDICI/2/
新自由主義以前のケインズ主義はアメリカ、イギリスでは失敗してた。インフレだが、増加した需要を自分たちがつかめないスタグフレーションになったからだ。負けた相手は戦後復興したケインズ主義の欧州や日本であって新自由主義国じゃないけど。
なので、小さな政府に戻した。一つが費用対効果に立ち戻ることだ。
だけど、この費用対効果観測がとにかく近視眼だから、効果が見えるのが先になってしまう基礎萌芽研究投資は「費用対効果がない」ということで削られる。
大学ファンドも費用対効果を求めたために、実際の研究に投資せず、海外投資するファンドになって「競馬で勝ったら焼肉をおごってやる」程度の代物になってしまった。気分がいいときにおごりでやる程度のものでしかないってことだ。さらに円安の原因になってる。
最近生産的政府支出だとかいう人間がいるが「生産的か生産的じゃないか」の指標が近視眼的な費用対効果である以上、基礎萌芽研究投資は生産的政府支出にはならないだろう。それは大学ファンドの顛末をみても分かる通り。
他に教育や貧困者対策もある。教育も初等教育の影響が出るのは20年30年後だ。貧困者も食い詰めたやつが一部京王線事件みたいに殺傷事件起こすことがあるからな。
マスとして一部べらぼうに効果があるというのを、せめて過去の実績から推計すること、さらにいくら出せばいいかを推計していく必要がある。推計ができない状態なら感覚でばらまいたほうがまだマシということは言える。