はてなキーワード: 大卒とは
先月から鳶の会社で事務をしている。建設会社を選んだ訳では無く、時給と職種で選んだ。土木作業員の友人や親族はこれまで身近にいなかった。
驚いたのは鳶職人の待遇の良さだ。20代で年収800万円。8:00-17:00で土日休み。住宅手当や子育て手当、資格取得手当などもある。稼ぎたい人は人より多めに働いて年収1000万。資格を取ったり独立するともっと稼げる。
鳶職が楽な仕事だとは言わない。力仕事だし、高所に登るし、まだよくは知らないが危険がつきものだと思う。身体の弱い自分には残念ながら無理だ。ただ大卒の人が商社やコンサルに勤めようとするほど狭き門ではもちろんなくて、間口は広い。中卒でもなれる。
うちの会社は事務所もカフェみたいで、ジャズが流れてて、コーヒー飲み放題で、社員も優しく、「3k(きつい、汚い、危険)」とは結構イメージが違う。休みの日は釣りやキャンプやサーフィンをしてる人が多い。
それでもやっぱり肉体労働はハードルが高いのか、なり手が少なくて超売り手市場、人の取り合いになってる。給料もどんどん上がってる。
こんな世界があったんだなぁ。
一口に「文化資本」といっても色んな範囲の括り方が可能ではあるけど、一般的に語られる文化資本って家庭における話だよね。
家に岩波文庫が揃ってる本棚があるとか、親が家でクラシックのCD聴くとかオペラ観てるとか、幼少期に歌舞伎に連れてってくれるとか、家にピアノがあるとかそういうことでしょ。
東京は平均年収が高くて、大卒が多くて、環境として文化に触れられる機会に溢れているので文化資本度の高い家庭が生まれやすい。
こんな感じの、受験問題の内容が研究対象とは全くならないみたいな考え方をする人が一定数いるけど、なんか固定観念ありきで自ら視野というか可能性を狭めてる感がある。
別にいっぱしの研究者でも初等幾何学を掘り下げたっていいじゃんね。
防衛大は入った時点で自衛隊に就職できることがほぼ確定している。
同じように、旧帝大の学生は入学した時点で公務員(準公務員も含む)になれることはほぼ確定。
みたいな感じにしてやったらいいと思うんだけどどう?
県庁の総合職、技術職、(もうちょい待遇を上げた上で)国公立小中学校・高校の教員、国公立図書館司書、国公立美術館・博物館の学芸員など
これらには、よほど成績が悪かったり素行が悪かったりしない限りほぼ確実になれる。
旧帝大に入れる時点でそれなりに性格も真面目で地頭もいいだろうから、仕事は務まると思う。
もちろん公務員になるには旧帝大じゃなきゃいけないってわけではなくて、他大卒用の採用枠は用意する。
あと旧帝大に入ったら絶対公務員にならなきゃいけないわけでもなく、民間就職したければしてもよい。
いや、なんというか、
能力的には申し分ないんだから、さっさと国が雇って、国のために働かせればええやん。
芋っぽくて大人しいけど真面目で優秀な彼らには公共の仕事がうってつけでしょ。
なにSPIで小学生レベルの算数解かせてんねん。コミュ力とか容姿で落として自信失わせてんねん。
嘘のエントリーシート書かすな。
そんで「就職できなかったらどうしよう・・・」ってビクビクさせるんだろ?
あと、優秀層の囲い込みという意味もある。
旧帝大でも垢抜けていてコミュ力抜群なやつはいるけど、結局、そういう層は外資に取られてんじゃん(特に東大)。
外資に取られるくらいなら、日本で公務員やってくれた方が良くない?
大学で研究して新技術を開発したり、歴史・文化の保護をしたり、地域のために働いたり、子どもの教育に携わったり、
そうしてくれた方が良くないか?
学歴社会叩きとか公務員叩きとかあるけど、そんなの全部嫉妬じゃん。
ちゃんと社会全体で優秀なやつを持ち上げて(上手いことおだてて)、安心して活躍してもらった方がええに決まってるやん。
変に引き摺り下ろそうとするから、民衆に敵意を抱いたり、自分の利益しか考えなくなったりするんや。
旧帝大生の人生を保証してあげることで、安心して国の発展のために働いてもらう。
だと思うんだけど、どう?
【追記】
別に低学歴をいじめろとか一言も言ってないのに、みんな意地悪やな。
中卒だからというより、中卒相当の年齢だから社会との関わりもまだ少ないだろうし、基本的なことから教えてるだけじゃないの?
バイトでも大学生と高校1年生(←将来的に大卒になるとしても)への対応は違うと思うよ
中卒は社会性がない(から雇わない)という考え方にもやもやしています。
先日のゴトゴト石の事件や神戸大学のテニスサークルの器物損壊事件を見るにつけ、果たして学歴で社会性など決まってくるものなのだろうか、と疑わしく感じます。
・会社に来るときはヒゲを剃ってから来い、といちいち教えなければそうしない
・会社に来るのにふさわしい服装で来なさい、といちいち教えなければそうしない
・会社に来たら直接の上司じゃないけどおはようございますを言う(後略)
しかしこれらのことは果たして中卒であることと関係しているのでしょうか?
別に高校では、「会社に来るときはヒゲを剃ってから来るものだ」などということは教えませんよね?だって高校は別に職業訓練校じゃないのですから…。大学はいわずもがなです。
とすれば、上記のようなことが教えなくてもできるかできないかは、「それ以前に誰がか教えたかどうかにかかっている」ようなことではなく、単なる個人の資質の問題に思えます。
そう考えると、中卒であることと、こうした社会性の程度を関係づけるのは、根拠に乏しいただの偏見であるように感じてしまいます。
それには、中卒が何かをやらかしても意外性がなさすぎて(というっ感じ方自体に根の深い偏見が原因している可能性もあるが)報道されないということがあるのかもしれません。
しかしたとえばゴトゴト石の件は、中卒だったら報道されなかったでしょうか。そうは思えなくないですか。
中卒に対して、極度の発達障害だとか、犯罪歴があるはずだとか、散々なことを言う人も見ました。
けれど今の世の中、高校に行きたくないから中卒、というような、本人に由来する事情はむしろまれで、実際は家庭に問題がある場合がほとんどではないでしょうか(たとえっば親権者が同意しなければ、進学はできないでしょう。毒親が何らかの理不尽な理由で、子供の進学を妨害する場合があるかもしれません)。
つまり、中卒である原因としてむしろ多いのは、いわば、大卒でがよく使う「一身上の都合」によるものであって、こうした可能性に考えが及ばず、やれ犯罪者だからだなどと決め付ける大卒がいるのだとすれば、これは大卒に相応しい教養を全然感じられない態度だと思います。
母親は内心は知らんが事実として私の面倒はめちゃくちゃよく見てたので前者かなと思う
幼少期は病弱で医療ケアが必要だったからめちゃくちゃ面倒見てもらったし、勉強も中学まではかなり教えてもらった。おかげで大卒になれた。
「産みたくなかったけど産んだら責任があるからめちゃくちゃ子育て頑張った、私虐待で通報されたくないし」というスタンスだったかなと感じてる。
が、「子供欲しくなかった」と母親に言われたことがあって〜と友人に話したらめっちゃドン引きされてそれ毒親では?そんなの言われたら泣くよ的なこと言われたんだよね。
私自身子供欲しくないし、母親の子育ての様子見てたら「わたしもこんなのやりたくないや」としか思えなかったからその友人の反応にびっくりしてしまった。
この間、SNS上である議論に参加というか巻き込まれて、私含めた数人の参加者のレベル的にそれで結局答えなんか当然でなさそうな雰囲気だったので
「結局これはどっちもどっちってことなんじゃないの。こんなことしてるより別のことをしたほうがいいよ」みたいな返事をしたら
「それは悪しき相対主義だ」「相対主義の皮を被った保身でしかない」みたいなことをある人からいわれた。(「別のことをしたらいい」というのが相対主義?なのかはよくわからん)
でもそいつも全然、自分の意志があるのか怪しい話しか出来てない感じだったが。
しかし、この10年ぐらいの間に、「相対主義はとにかく悪い」という人たちの意見が目に付くようになった。
今日の晩御飯の内容から、ガンダムみたいなアニメの評論、日本とアジアの歴史問題認識の差まで。軽い話題から深刻な内容まで、一つの物差しでそれぞれの問題を計るわけにはいかないにせよ。
でも「相対主義は責任の放棄であり社会問題の根源~」みたいなことをいう人はリベラル側に結構いる。
資本主義でも社会主義でも、いじめっ子でもいじめられっ子でも、ドリフでもひょうきん族でも、連邦軍でもジオン軍でもなく、相対主義。
ほとんどの日本人は6・3・3制の学校で、まあ、社会の処世術とでもいうものを学ぶはず。日本人の「思想」「思考」が問題にされるとき、大体学校教育まで遡って批判されることが多い。
でも、私は小学校から高校まで「相対主義」なんて学んだことはない。相対性理論はあるけど。大学でも、ゼミでいろいろやったが、具体的に相対主義とは言わないにせよ「中立的」な見方・記述をするようにはいわれた。
我々もそうだったが、年に何十万人の若者が、中卒・高卒・大卒のいずれであれ社会に旅立ち、この社会を構成する。そしてほとんどの人々は、リベラル派の危機意識からすれば(どう形容していいか分からないが)、「相対主義」者ということだ。
学校で、国が定めた教育課程により(理系は一先ずおいといて)国語・社会・公民・図工美術・音楽・語学・道徳などの授業を6年間や3年間学び、家庭生活も過した人々が、学校を出る時には「相対主義」者として再生産される。
そしてそれは悪いことなのか、私にはわからない。この国は民主主義であり、自由主義であり、自分の思想を選ぶ権利があり、その上で、多くの人々は確固たろうが適当であろうが、相対主義を選択し、それで別に社会を維持できている。
少なくともこの社会のかなりの部分が、毎年再生産される「相対主義」で維持されているのは事実だ。相対主義者による虐殺であるとか強制収容であるとかも見聞きしたことがない。何がよほどの悪なのだろうか。
逆に、「相対主義」であることを徹底的に拒否する教育や生活とは何なのだろうか。
私は相対主義への批判を見るたびに、言っている人々の普段の言動と比較しても、なんだか検閲や全体主義に近しい論調だなと感じ続けている。
社会の授業で世界の国々や選挙制度について学ぶときに、ある国は素晴らしく、ある国は劣っていると教育するのだろうか。ではその上で日本の立ち位置をどう教えるのだろうか。
ベートーベンの曲を聴いたりピカソの絵を鑑賞した時に、楽譜や色調に現れる技巧は別として、徹底的に「ベートーベン」「ピカソ」の何たるかを国が定義し・教師もそれに盲目的に従い・生徒に刻み付けるのだろうか。
(よく相対主義の引き合いに出される)機動戦士ガンダムを視聴するときに、連邦軍やジオン軍のいずれかが徹底的な善であり対極は悪であると必ず親御さんが傍で「アドバイス」し続けるのだろうか。あるいは制作時まで遡って指図されるのか。(ゆうきまさみがそんな漫画描いてたな)
相対主義は決断や責任の拒否かもしれないが、では非・相対主義は決断や責任の日常的な強制にはならないのだろうか。それは反世俗主義的なカルトや閉鎖的な集団の思考(例えばエホバの証人、旧統一教会、搾取を目的とした自己啓発セミナー、戦前の日本政治など)とどう違うのか。
これらの集団が若者・二世三世信者に対してどう当っているのかも含めて。
もっと言ってしまうと、リベラル的なさまざまな批判や許容の精神は、人々に曖昧に巣食う相対主義という岩盤の上で存続できているのではないか。
長々と書いてしまったが、私としては、相対主義であると言われることは受け入れた上で、それが悪いとか変わるべきだとする思考には至らなかった。
ただ考える中で、他の問題も含めて、「教育・学制」というものはかなり意識する必要はあると思った。
毎年、「相対主義」であり、「自民党を『安易に』支持」し、「映画や音楽を『表面的』に」しか鑑賞できず、あるいは「胡散臭いやり取りを『プロレス』、くだらない文章を『ポエム』と呼ぶ」大衆が再生産されている。
そして大学の教授や活動家がいくら「再教育」しようとしても改まることはない。果してこの毎年の大衆の再生産の渦とでもいうものは「悪」「間違い」なのだろうか。