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はてなキーワード: 墓石とは

2008-10-27

http://anond.hatelabo.jp/20081027232006

というか、墓石・仏壇等と生命保険金の非課税部分(500万円×相続人数)以外は

すべて相続税の課税対象だと思ったほうが良い

2008-10-02

バナナダィェッ├効果ぉ10倍にιちゃぅ方法見⊃けちゃぃまιたぁ☆(/ω

俺だよ!!(http://anond.hatelabo.jp/20080929213709)

ようやく気分が落ち着いて穏やかな俺に戻ったよ。数年振りにブチギレてもう先日のような勢いは無いから只の後日談・報告だけ

失敗したなと思うのはこれだけの人が読むならタイトルに「バナナダイエット」という単語を加えれば良かったことだ。

Google先生の上位に入れてたら主婦の方々の目にも入ったはずだ。悔やまれてならない。だから今回は入れる筈だったタイトルにしといた。

昨日はバナナを買いに行くバナナの日だから帰り道先日とは違う別のコープに寄った。小さなバナージュ2個しか無かった。少な過ぎる。

続いて近所のピーコックに向かい同じく高地栽培の甘熟王(298円)を買おうと思ってバナナ売り場に目をやったら黒ずんだ見たこともない

(13-4cm)くらいのとんでもなく小さいバナナだけが2房死骸のように転がってた。怖えよ!

田辺さんのバナナ」やいつもは腐る程ある189円のバナージュは一つも無い。しかし横の359円以上もする台湾バナナや有機栽培バナナ

手を付けた痕跡すらない程残ってる。・・・

しかし俺は高地栽培と気心知れた仲なので家に自転車を取りに帰り先日の巨大なコープに向かった。

なんか先週の金曜日にまたバナナダイエットについて放送したらしく、どうせ荒野の雑草状態だろうと思ったんだよ。

そしたらなんといくつだったと思う?!0個だよ!!!!ついに我が町からバナナが消えたwwwwwwwオワタwwwwwww!!!!

代わりにバナナの棚に申し訳無さそうにいちじくが並んでた。ふざけんなコラ!!。横に墓石のように「先日テレビでバナナが大きく

取り上げられコープ全店でバナナ入手困難となっており供給が追い付かず輸入量にも限界が云々」と印刷された張り紙があった。

あの身近でフレンドリーなバナナが全国の店で入手困難wwwwwどんな出世だよ!!さすがのバナナマンもこの事態は予測出来なかった。

ここ数年欠かさず週3回決まった日に買いに来ていた俺が初めて来なかった訳だから「あのバナナ男が買いに来なかったwwwww」と笑われたと

思うと非常に悔しい!もう太った主婦バナナ売り場の前に立っていようものなら後頭部を(バナナの)形が変わるぐらい殴打してやろうかと

思った程だ。

この3日で散々怒ったり悲しんだり嘆いたり、もう疲れ果てた。これから毎日こんな日が続くのかと思うと気が滅入るよ。

大した事ないと思うだろうがご存知の通りもはや俺にとってバナナは皆さんにとっての米のような物で、とうに好き嫌いなどの表現は超えている存在だ。

1日でも切れると思うとソワソワしてくる。およそ4年間家でバナナが姿を見せなかった日など無いというのに。極論だがバナナを米に置き換えて

しばらく食べれない生活を想像して欲しい。

今回みたいな本の著者は流行るかもしれない物を常備菜とかにした場合まずどういう事になるか考えて欲しいよ。

先日は感情のままに少し書き過ぎたかも知れない。バナナを愛する一人の人間であるなら彼女らを微笑ましい目で見守る余裕を見せないと駄目だよな。

現に俺は数年間毎日食べ続けた訳だし今回は身を引くべきだよな。俺がきゅうり齧ってれば済む話だしな。

見方によってはマスメディアの言う通り単純に買っちゃうなんて可愛いもんじゃないか。軍隊アリなんて書いちゃったけどどう見てもイナゴの大群の

間違いだよな。

また明日から元の一バナナマンに戻るが今回の騒動の事は忘れないよ。








PS.おいしいバナナの選び方(高地栽培)

ポイント1・・・「なんと巨大なバナナ・・・!!」しかしここで踏み止まらなければならない。巨大過ぎる物は甘味が拡散され大味な物が多いのは

        この業界では常識である。しかしこれは経験を積んだプロでも難しい。どうしても自分の欲と戦わねばならないからだ。

        基本であると同時に極意でもある。

ポイント2・・・バナナの向きに注意する。向きが明後日の方向に向く物は経験上水分含有量が少ない物が多く、また芯が固い物に当たる確率

        非常に高くなる。

ポイント3・・・皮の角張りに注意する。一見他の物より大きく見えるが1を学んだ方ならもうお分かりであろう。無論ここでも紳士たるものすぐに

        飛び付いてはならない。中身は通常サイズのそれすら下回る。

*この時売り場から一歩下がると視野が広がり視線移動が楽になる。

以上の選別眼は真剣バナナと接すれば1つ1つポイントを確認せずとも瞬時に見極められる様になる。

誇れる物が何一つ無い俺でもバナナ両手に見比べる主婦の隣で縦横合わせ100房程のバナナの中から5秒程度で最低基準を満たすそれを

発見する事が可能になった。ぜひとも修得して欲しい。

2008-05-06

ただ土を盛り上げて、そのかたわらに松か杉を1本植えておけ

私を葬るに分を超えたことをしてはならない。

墓石を立てることはするな。

碑も立てるな。

ただ土を盛り上げて、そのかたわらに松か杉を1本植えておけばそれでよろしい。

二宮尊徳

2008-01-26

教委主催講演会に行ったら、講師が「つくる会」だった件。

 

前書き

ほぼ記事タイトル通りの出来事があったので思わず匿名ダイアリー

(厳密には、八木氏はかつてはつくる会会長だったが、今はつくる会とは無関係

 

書くの初めてなので、読み難ければ申し訳ない。

 

先に書いておきますと、私は公立校勤務です。

で、私が勤務する地域では、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書を採択しています。

 

この教育講演会教職員一斉研修会)は、教委が主催したもので、基本的に地区内の全職員(学校事務職員も含む)が参加しました。

 

講師は八木秀次氏(日本教育再生機構理事長)。

 

恥ずかしながら、誰だか知らなかったんですが。

 

忍び寄る何か

開会前、もらったレジュメを読んでいると、最初に出てきたトピック

“「不当な支配」の主体の転換”

という内容。

 

教育基本法の、

教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである(旧第十条)」

という規定が、

教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない(改正第十六条)」

と改められたことによって、服してはならない「不当な支配」の主体が、

 

before:政府の圧力

after:日教組などの職員団体

 

と変化しており、政府首脳部からもそのような見解に立った発言が相次いでいる……という鋭い指摘。

 

私としては、

「なるほどそうか……。これは大変だな」

と思ったわけなのですが、その先を読んだら

「……なんか違う?」

 

なにしろ、いざ講演が始まったら、この

政府=正当な支配」

「職員組合=不当な支配」

という立場を全面的に賞賛する論調でして。

 

日教組に参加してる職員が1%切ってる本地区でそんなこと言われてもな……。

(うちの地元には、「教職協議会」という、日教組とは別の組織があり、これが97%の組織率を誇っています。

方針としては、行政との対話路線。

私もそっちに入っています。

まあ、日教組の勧誘姿勢もアレだし。

新採の時、勧誘パンフが送られてきて。

ガリ版刷りの楽しげなパンフレットだったんですが、封筒に

「教え子を戦場に送るな!」

って書いてある。

言いたいことはわかるがちょっと引いた。)

 

内容は、なんというか、ツッコミどころ満載だったんですが、まず特に違和感を感じた点。

 

滅びこそ我が喜び。死にゆく者こそ美しい。 byゾーマ(DQ3)

講演の中で、エルトゥルル号の遭難とか、有名な“美談”がいくつも紹介されるわけですが、その中に真岡郵便電信局事件の話も出てきました。

 

第二次大戦末期、樺太ソ連軍が攻め寄せてきた時、最後まで電話交換所に残った女性達が、青酸カリを飲んで自決した事件です。

事件名とか知らなくても、

「みなさん、これが最後です。さようなら……さようなら……」

とかいう台詞は聞いたことある人は多いのでは。

 

で、八木氏は、自決した9人の女性電話交換手のことを、

日本人公共心の高さ、責任に殉じる態度が現れたもの」

とか褒め称えるわけです。

 

……ところで、これは教育講演会なんですが。

このエピソードを教育にどう生かせと?

 

彼女たちの行動こそ、日本人の鑑、責任に殉じる素晴らしい態度である。

お前達も、もし同じような状況に置かれたら……」

 

置かれたら?

 

自分の子どもになんと教えて欲しいかは、人によるかも知れませんが。

 

私としては、子どもたちには

「なんとしても生き残れ。命を大事にしろ」

……って、教えるべきなんじゃないかと思ったり。

 

ちなみに、八木氏は全然触れなかったことですけど、その時当直だった女性交換手は、全部で12人いたんです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

で、死ななかった3人は、最初は押し入れとかに隠れててですね。

そのままソ連統治下で職員として再雇用され、日本にも無事に帰ってくるんですけど。

 

彼女ら3人は、「責任に殉じ」て死ななかった駄目な日本人なんでしょうかね?

 

少なくとも、八木氏の言う

ソ連軍は、刑務所から出てきたゴロツキみたいなのを最前線の兵士として送り込むわけですよ。だから、女性は陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです」

……というのは、この場合は事実に即してないと思います。

 

……まあ、ソ連軍がひどかったのはわりとかなり事実だと思うんですけど。

 

また、沖縄集団自決の件について、八木氏は、

沖縄というのは、長らく琉球王国という日本とは違う国で、その後は島津の統治下になり、近代化されたのが他の地域よりも遅れた土地なんです。

だからこそ、日本人的であろう、という責任感が逆に強くなって、それでああいう事件が起きたのではないかと思います」

 

という、目の覚めるような主張を展開します。

 

なんで目が覚めるかというと、すごいアクロバットだから。論理の。

危険なのでよい子はまねしないでください。

 

もし沖縄県民があの場にいたらかなり血圧が上がったんじゃないか、と思うんですが、あれはたぶん、戦わずして論敵を脳溢血で葬ろうという高度な戦術なんだと思います。

危険なのでよい子はまねしないでください。

 

ていうか、「集団自決」と「責任感」がどうつながるのかそもそも良くわからんのですが。

なんか、とにかく死ね責任感がある、みたいな話で、日本文化の奥深さを感じました。

 

「命どぅ宝」のお婆さんは、やっぱり駄目な日本人なんじゃろうかね。

近代化が遅れた地域だからな。

 

あとまあ全般に言いたいことは山ほどあるんですが、重箱の隅つつきは後回しにします。

 

本当の戦いはこれからだ!(打ち切り

とにかく、こういう歴史観のリビジョン促すような講演会に、公務として参加させられるのが、本地区の実態なわけですね。

開会が14:00でしたから、どの学校も特別日課で対応したと思います。

本校でも、当日は授業を午前中で切り上げて参加したわけですよ。

 

もちろん、講演聞いてる間にも給料が出てます。勤務時間内ですから。

なんという教育予算の有効活用

 

内容に疑問を感じたのは何も私だけではなくて、翌日の職員室では批判大会

 

「○○中学校社会先生も、あれはひどいと言っていた」

「○○小の先生に聞いたら、あれは有名な右翼だと」

「終わった後、あの先生と偉い人達とで飲み会があったらしいから、八木先生は急いでいたわけじゃないらしい。なのに質疑応答の時間を設けなかったのは、意図的なものに違いない」

 

……ええーっとですね。

つまり、「つくる会」の教科書採用した地域の学校だからといって、教員が唯々諾々と「つくる会史観に染まるわけではない、ということですよ。

 

このことは、左右どちらの論者にも覚えておいて欲しい、と思います。

我々はロボットではない。

 

いや、染めることを目的にした講演会だったんでしょうけどね。

 

本地区では、教育長はじめ偉い人が「つくる会」の支持者です。

その一存で採択が決まったようなもので。

 

しかし、「つくる会教科書を採択した、というだけで、かなり外部からの批判にもさらされてるし、学校現場にも不満があるのが実態です。

なので、教育委員会の方針に疑問を持っている教員を「啓蒙」しよう、というのが、この講演会趣旨だったんだと思います。

 

しかし、今どき、中学生ならネットくらい使いますよ?

真岡郵便局には女性交換手が12人いた」

くらいのこと、10分もかけずにわかっちゃうわけですよ。

 

授業で、“公共心ある日本人”の美談を得々と語って聞かせたら、生徒から史実に基づいたツッコミが入る可能性くらい容易に予想されるじゃないですか?

そういう意味では、都合のいいことだけ書いた教科書というのは、発行する側は気分がいいかもしれないけど、現場人間にとっては迷惑そのものなわけですよ。

 

……ああ、そうか、授業で質問の時間を設けなきゃいいわけですね。

さすが日本教育再生機構理事長

率先垂範を地で行っておられる。

 

で、その他、「作る会」教科書を使ってると高校受験に対応できないとかいう現場の苦悩をよそに、首長とか教育長とか、講演会場の最前列に座っていてですね。

で、講演会が終わった時なんか、立ち上がって喝采してるわけです。

 

スタンディングオベーションかよ偉い人。

 

とりあえず絶望した。

現場がなんとかしないとならん。

 

重箱の隅つつき。

以下、こまごまとしたこと。

 

*紀元は2600年。

八木氏は、聴衆に「日本の建国はいつか?」と問うて、「それは西暦600から700年前後である」とします。

 

なぜなら、「日本」という国号が成立し、「公」の意識誕生したのがその時代だからだ、というのです。

ちなみに、ここで言う「公の意識」とは、天皇を中心とした中央集権体制の確立のことを指します。

天皇独裁者ではなく、「国家の公的統治を究極において体現すべき地位」だというのですね。

 

……飛鳥時代象徴天皇制だったのか。

 

八木氏は、「皇室ニッチ産業」だ、という、寛仁親王言葉引用します。

政府行政の足りないところを補う。それが、皇室の果たす役割なんです」

 

確かに、障害者スキーへの支援とか、結構なことですね。

 

「このような皇室の在り方は、古代からずっとそうだったわけです」

いや……そうなの?

 

革命史観

八木氏は、他の教科書にある

平安時代貴族は贅沢な生活をしていた一方、庶民は貧しく、奴婢は売買の対象だった」

……とかいう記述を「闘争的だ」と評します。

 

これらが、マルクス階級闘争史観子どもたちを導くものだ、というのです。

 

君の教科書もまっ赤っか! これはレッドベアーの陰謀だ! 愛國戦隊を呼べ!

 

……別に教科書記述は、富裕層の打倒とかを呼びかけるものじゃないし、そもそも平安朝だって、階級闘争によって打倒されたわけじゃないんですが。

なんでマルクス

明治維新を含めて、日本には「階級闘争」とか「市民革命」とかいうものはないんじゃないですかね。古い見解でしょうか?

 

明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した改革だった」(「新しい歴史教科書」。レジュメの孫引き)

うわ新しい見解だ。色んな意味で。

 

そんなに昔から日本人の自覚とか公共の意識とかがあったなら、もう少し早く戦国時代が終わりそうなものですが。

武田信玄「こうして同じ日本人同士が争っていても仕方がないじゃないか!」

上杉謙信「そうだとも! 天皇陛下の元にはせ参じ、一つの国を作ろう!」

……みたいに。

 

八木氏によると、現在学校教育では、歴史教育で闘争的姿勢を学び、公民教育で具体的な闘争目標を与えられている、というのです。

 

その闘争目標とは、電通経団連の打倒……ではなく。

「公民教科書には、夫婦別姓など、まだ法的に定められてもいないトピックが取り上げられている」

とかいうのが「闘争目標の提示」だと。

 

……ずいぶんせこいマルクス主義ですね。

 

歴史に学べ。歴史は繰り返す。

仮に、八木氏の言うとおり、飛鳥時代平安時代がそんなに素晴らしい時代だったとしたら、逆に言って、日本社会は1400年の長きにわたって大して進歩していないことになるんですが、それでいいんでしょうか。

 

奴婢の話とかって、私は

「私たちの社会は、昔より良くなっているのです」

って趣旨の話だと理解していたんですが。

人類歴史進歩と改良の歴史なのです。私たちも、もっともっと素晴らしい世の中を作っていきましょう。明日が今日より良い日であるように」

的な。

 

八木氏に言わせるとこれも「闘争的」なのかも知れませんが。

 

私としては、貴族平民に大きな差があったとか、事実なんだから仕方ないんじゃないか、と思うんですがどうでしょう。

八木氏も、それが「事実ではない」とは言わなかったし)

 

都合の悪い歴史事実は教えない、という態度の方が、むしろ我が国を危機に追いやる気がします。

それこそ、遺伝学におけるソビエトルイセンコ学説みたいに、学問イデオロギーに従わせようとした挙げ句、研究開発で西側に後れを取るような。

 

まあ、「歴史科学ではない」が、「つくる会」の立場なんだそうですが。

 

でも、望ましい思想を注入するために、歴史事実の方を改変する、っていうのは、それこそ共産国十八番なんじゃ。

ソ連生まれのくせに白頭山で生まれたと称する誰かさんとか。

 

日本の伝統を尊重しよう。祖先精神を大切にしよう。

基本的に「公共の意識」だけで日本の歴史・文化を語ろう、というのは、無理だと思うんです。

「恥の意識」とか「武士道」とかと同様、一言で語りきれるほど、日本人精神というのは浅薄なものじゃないんじゃないでしょうか。

 

そもそも、「公共の意識」が飛鳥時代から日本にあった、という主張自体いかがなものか。

確かに「公」という漢字自体は大昔からありますが、古文に出てくる、「公家」とかいうときの「公」と、「public」の訳語としての「公」を同一視するのは誤りだと思うんですが。

八木氏は、「公共」の意識が近代になって成立した、というのは誤りで、日本人日本人としての自覚はずっと以前から存在した、と言うんですが、それは逆に言って、国民国家建設のために尽力した明治の人々を愚弄するものではないでしょうか。

 

ちなみに八木氏は、中教審が、縄文時代記述を重視するよう議論しているのに不満を表明しています。

縄文時代は公共の意識が発生していない」=「日本ではない」

から、というわけですが、これは循環論法ではないですかね。

 

日本あけぼの」って言えば、普通縄文時代を指しますし。

逆に、明治憲法現行憲法の発布、あるいは江戸幕府なり鎌倉幕府なりを「日本」の成立、と見なす立場だってあり得るわけで。

 

縄文人だって一生懸命に生きていたのだし、彼らが苦労して稲作技術を会得していったからこそ、現代の日本があるわけで。

縄文人は日本人じゃない」という言いぐさは、縄文人に失礼だと思いますが。

 

八木氏は、チェスタトンの「伝統とは選挙権時間的拡大」「死者には墓石投票してもらわねばならない」なんかを引用して、伝統の大切さ、先祖の意思を尊ぶべきことを訴えるわけですが、縄文人は先祖じゃないらしいです。

……天孫降臨

 

ちなみに、八木氏が引用した中には、相田みつをの「自分の番 いのちバトン」とかまで含まれるんですが、相田さんってそういう主義の人だったのか。

走者がバトン渡す前に死んだらリレーにならなくね?

 

ところで、八木氏は「死者の民主主義」(チェスタトン)がお気に入りのようですが、私はむしろ、「地球は子孫からの預かり物」(ケニアのことわざ)の方が好きです。

死んだ世代の意思よりも、次の世代の幸せの方が重要だ、と、私は信じます(これでも学校関係者のはしくれですから)。

 

……ケニアのことわざの割に「地球」とか、かなり超訳の気配ですが。

 

*美しい日本語を守ろう。

八木氏、「屋久島の灯台守り」という、これまた美談を紹介してくれたんですが。

 

「顔は土気色」を「どきいろ」ってあんた。

一瞬、弥生式か縄文式か悩んじゃったじゃないですか。

 

自分で持ち込んだ資料が正しく読めないって、早稲田大学法学部卒が泣くぞ。

 

日本の文化がどうとか言う前に、八木氏はまず日本語くらいちゃんと読めるようにすべきだと思います。

 

返信欄

なんかあれこれコメントをもらってるようなのでここへ部分的に返信。

 

教育委員会主催講演会とかに行って何かを得たことがあるの?

ありますよ。

まあ、教育関係者の講演、というのは、聞いてすぐに教室で使える内容が多い一方、似たような話も多い……というか、教育界の通念を上手にまとめただけの、刺激に乏しい講演も多い、とは思います。

……ちょっと今回は刺激的すぎましたが。

 

>その場でぶつけてくれたら面白かったのに。

まあ、チキンなので。

 

偉い人が「つくる会」支持者で、しかも同席してるわけですから。

そこでこれだけのことを言ってしまうと、後々どんな処遇を受けることか。

 

それはもう、陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです。(流言)

 

それに、ここに書いた内容は、これでも推敲した内容です。

これをとっさに思いつける程度には賢くありたいのですが。

 

っていうか、偉そうなことを書いておいて恥ずかしいのですが、「女性交換手が12人いた」ということもその時は知らず、家に帰って調べてわかった次第。

 

でも、何か質問はしてやろう、とは思っていて、講演の間中必死で考えていたのも事実

古代以来、皇室ニッチ産業としての役割を果たしてきた、とのお話でしたが、私、不勉強でそういったことを存じませんでした。

そこで、例えば平安時代朝廷が、そういった役割を果たしていた、という実例を2・3ご教示願えるとありがたいのですが……」

くらいのことを聞いてみよう、と思っていたのですが、本文で書いたとおり、質疑応答の時間がなかったので不発に終わりました。

 

>自分のはてなダイアリーで書いたら?

少しでも匿名性の高いところで、と思ったのです。

何か使い方として問題がありましたら申し訳ない。

(ていうか、そもそもこの内容自体トラックバックで返すべきなのかも知れませんが、匿名ダイアリーに慣れてないので、返信があちこちにばらけるのが落ち着かないのです。なんでコメント欄がないんだろう)

 

こんなにブックマークをもらうとは思ってなかったのでちょっと動揺しています。

偉い人にばれたらどうしよう。

 

>「教職協議会」つーのは要するに「全日http://www.ntfj.net/tanidantai/」系団体だよね。共産党系の。

右寄りではないかも知れませんが共産党系とも思ってなかったのですが。「美しい日本人」がどうとかこうとか。どうなんでしょうか。

会員でありながら組織背後関係とかは知らないのです、申し訳ないです。(でもたぶんみんなそう)

 

>教師という連中が本当に馬鹿ばっかりでイデオロギーの固まりだということが良くわかった。

ククク、その通り。だが、気付くのが遅すぎたようダな……(ロシア訛り)

今や日本教育は、我がレッドベアーの(不当な)支配下にあル!

あと10年もすれば、この国はコミンテルンの軍門に降るだろウ……!(遅すぎる)

 

馬鹿冗談はさておき。

大学になるまで歴史教えるのやめちゃえば?自分で判断して学ぶまで教師の馬鹿どもから余計なノイズを入れないで欲しい

難しいところですね。

 

おっしゃるとおり、批判精神の薄い子どもに、イデオロギー教育をするのは禁忌だと思います。

 

その一方で、基本的な歴史知識は、全国民が持っているべき教養だとも思うのです。

そして、大学専門教育の場であるべきで、そういうことに時間を費やすべきではないと考えます。

だから、結局は義務教育に基礎的な歴史教育を盛り込まざるを得ないのではないかと。

 

その内容としては、重要歴史事実を教えるにとどめ、それをどう解釈するか、という思想的側面は、個々人に任されるべきだと思います。

 

……もっとも、「歴史事実」というのは現実にはほとんど無限存在するわけで、その中から何を「重要」として採り上げるかに、思想的問題が絡んで来ざるを得ないのも事実ですが。

エルトゥールル号を採り上げて奴婢は省くのか、その逆をやるのか。

 

でも、できる限り中立であろうとする姿勢は必要だと思います。

2007-08-07

http://anond.hatelabo.jp/20070807125859

うちの田舎では、盛り上がった土がぺったんこになったらば土に戻ったんだということで、木の社をどかして墓石を載せることになっている。骨は掘り出さないなあ。

2007-06-26

僕の出身は結構田舎の方だ。どういう所かっていうのを説明するのは難しいけど、家のすぐ近くに狸が出るっていえば分かってもらえるかもしれない。とにかく最寄駅は徒歩三十分で、電車は、……電化されていないから電車じゃないんだけど一時間おきにしか来ないような、まぁそんなところだ。

僕は、ここの中途半端田舎っぽさが大嫌いだった。中途半端田舎っぽさっていうのを別な言葉に置き換えると過干渉になる。地域的な人と人との係わり合い、つまり近所付き合いってのを否定するつもりはない。けど、何事にも程度ってものがある。それを過ぎているのに気付かないのだ。僕は、中学卒業してすぐに寮に入ってここを離れることになるんだけど、その原因の一部は確実に周りの人の過干渉にあるし、僕の性格形成の一端を担っているのは間違いない。

今までのは、僕がいた"地区"での話なんだけど、すぐ隣の地区ではあまりそんなことは無かったような気がする。今考えると、僕がいた地区は山の裾に位置しているもんだから新しい家も建てにくくて、他の地区に較べると人の入れ替わりが少なかった。つまり、あそこは淀んだ場所だったのだろう。僕の持っている少ない情報では、最近家も増えてるみたいだし、もしかするとああいう風習も少なくなっているのかもしれない。

話は変わるけれど、僕が通っていた小学校は、最寄駅のすぐ近くにあって六年間もえっちらおっちら歩いて通っていた。そのまたすぐ近くに、公立の高校があって僕の同級生はかなりの確率でその高校卒業してるし、僕も多分中学二年生ぐらいまではその高校に行くつもりでいた。その小学校までの通学路の途中に、祖父母の住んでいる家があって、これまた近くにある神社夏祭りがあるときには必ず行っていた。でも僕が記憶しているそれは、夏祭りではない。でも、暑かったような気もするし、その内容から考えると盆の時期だったのだろう。

僕の家からその高校に行く為のショートカットというか、近道というか、裏道があるんだけど、そこに墓地があって僕の先祖の方々の何人かはそこで眠っているらしいのだ。そのときは夜が更けてだいぶ涼しくなった頃、といっても多分八時かそこらなんだろうけど、その墓地に行った。当然田舎のことだから街灯も少なくて暗いはずなんだけど、蝋燭なんかがついていて、もしかすると提灯なんかもあったかもしれない。で、線香をお供えして拝むわけだけれど、まぁここまでは普通墓参りと変わらない。僕が奇異に感じたのは、この先である。墓石のあるその周りに、普段は使われることなく専ら運動会だけでその役目を果たしているようなレジャーシートを敷いて、まるで花見の時みたいに食事というか、飲み会を始めたのだった。周りにも結構多くの人がいて、墓地だからそんなに広いわけでもなくて、30cm先には他の墓の人たちが酒を酌み交わしているのだ。僕はちょっと、本当にほんのちょっとだけ怖かったけど、赤と青と白のストライプのレジャーシートの上でおにぎりを食べていたような気がする。

そのときの僕は、少し変わっているなと思っただけのような気がする。気がするというか、最近ふとした拍子に、そう、その思い出した原因みたいなものも忘れてしまったふとしたきっかけで思い出しただけなので、今でもあやふやな記憶しかない。ただ、暗かったのか明るかったのかよく分からない、なにか独特の空気というか雰囲気みたいなものがあったのは覚えている。で、これはさっき思いついたんだけど、もしかするとその墓に入っているはずの人の何人かはそこに帰ってきていたのかもしれない。もちろんそんなことはありえないけど、そういう想いみたいなものがあったんじゃないかということをその風景を思い出した時に感じた。

僕の話はここで終りである。なんだかまとまってないけど、僕がそういうところで育ってそういう体験をしたというただそれだけの話だと思ってほしい。

2007-03-15

葬儀にて

子供(たしか小学 3,4年のころ)叔父の葬儀に強制出席.

面識がなく,ろくに話をしたこともない人の葬儀

何故参列しなければならないのかと疑問を抱きつつ…

その時は通夜には出ず,告別式のみ参加.

初めて参加して周りの大人たちは皆,同じ神妙そうな顔をしているが

故人とって一体何の関係があるんだろうと余計なことを考えていた.

坊主が最後の締めのつもりなのか,(語呂的に)「喝ッ」のようなことを

大声で叫んだのを聞いて,思わず噴出してしまった私.笑いを堪えるの必死な私.

その時,その坊主のただの自己満足だろうと思われる最後の締めもそうだが

故人にとって葬儀に一体なんの意味があるのだろうか?と思った.

車での帰宅中,親にその疑問をぶつけてみる.

お金を掛けて(こんな無意味そうな)葬式をする必要があるのか?と

親「お金の問題じゃないのよ.気持ちの問題なのよ」

私「気持ちの問題なら,お金掛けてやらなくてもいいんじゃないの?

心の中で亡くなった人のことを思っていれば.」

親「・・・」

--

高校の時,飼っていた犬が死んで「あっ,止まった」と思った.

可愛がってたつもりだったが,死んだことに対してではなく

そんな感情しか抱かない自分に対してショックだった.

--

そんなこんなで私も大人になり,先日,最初に書いた叔父の妻,

つまり叔母が亡くなった.子供の頃の疑問を未だに抱きつつ…

この疑問の答えを見つけようと葬儀に出席.

今回は通夜にも出席.

狭い会場を見渡してみる.(叔父・叔母夫婦は貧乏な方だったが)

当人たちが食べたこともないような高価そうな果物

見たこともないような高価そうな花が大量に並べられている.

告別式はともかく,通夜には故人のかなり身近な人が集まるものと

思っていたが,どうやら間違いだったようだ.

悲しみを隠す為とは到底思えない酒の飲みっぷりと愚痴を言い

挙句の果てには酔い潰れていびきをかいて寝ている男.

ただの世間話をしている女.結局徹夜したのは自分だけだった.

そして告別式

式の途中,居眠りしている坊主木魚の棒で坊主の頭を思い切り叩きたい)

叔母の子供であり私の母のパートとしての勤務先の店の店長

叔母とは全く面識のないはずなのに何故か現れるという不思議

式と火葬は終了.

皆何事もなかったかのように貰う物だけ貰って帰っていく.

葬儀業者も終わった途端さっさと手際よく片づけを始める.

これらを見ていると葬式は故人の為に行われるものではなく,ただ世間体の問題.

亡くなった人の意志ではなく周囲の人の都合により行われるものである気がする.

植物状態に陥ってしまった人が,当人の意志ではなく身内の意志で生かされるように…

葬式は感慨も思いでもない学校卒業式を思わせる.

親に見せる為に行われるのが卒業式.でなければ練習など必要ない.

思ってもいない事を言わされ,国家と校歌を歌わされる.

当事者がこの世を去っているという点がそれとは異なるが…

本当に故人のことを思うなら,葬儀の為のお金(それ以外のでもいいが)で

生きている間にどこかへ旅行に連れて行ってあげたり,

美味しいものを食べに連れて行ってあげる等してあげた方が

亡くなった方にとってどれだけ嬉しいことだろうか.それをしないのは何故か.

自分にとってはその方が何倍も嬉しいのだが…

そもそも葬儀を行われても既に死んでいる故に嬉しいと思うこともできない.

そして墓が作られる.墓にも一体何の意味があるのか?

私の中で墓とは「生きた証」ではなく「存在した証」である.

何世紀も後に自分の子孫にあたる子にその親が

「あなたの先祖にあたる人が居て今のあなたが居るのよ」

という私の嫌いなお説教の為だけのものだ.

墓石の名前を削ったり,適当に名前を刻み込んだとしても

同じ苗字を持つ別の家計墓石と交換しても

その遠い子孫にあたる子供にとってはたいした問題ではない.

墓とは「写真」のようなものだ.私が他人の写真に自分の名前と

撮った日などを書き込んで,見つかりにくい場所に丁寧にしまっておけば

何世紀か後にそれは自分になる(そうする必要性はないが)そんなものだ.

本当の「生きた証」というのは,そのような物理的・視覚的なものではなく,

その人が思ったことや考えたこと等,思索の後を残しておくことだと思っている.

葬儀などあげてくれるな!!」「墓など作ってくれるな!!」

遺書を残しておくべきか・・・

異邦人

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