はてなキーワード: 場の空気とは
「酒と自転車は飲み合わせが良いんだよ!」と言いながら、
生ビール中ジョッキを飲み干した彼が、自転車にまたがるのを、俺は止めることが出来なかった。
俺の少ない語彙力/表現力では、彼を叱りつけるかせいぜい皮肉を言うくらいしか出来なかったので。
そんな事をしてもただただ場の空気が悪くなるだけだという事くらいは理解していたので、俺は沈黙することにした。
俺が取るべき最善手は「温和にたしなめ、彼の考えを改めさせる事」だったと思うから。
飲酒運転は重罪だ、だとか殺人的行為だ、だとか以前に、そもそもとても危険な行動なので
その場で叱りつけて、その一時だけ「あーはいはい(こいつうるせー」とハンドルを握らせないようにしても、あまり意味が無く、
彼の考えその物を「飲酒運転をすべきではないな」と思うように変えなければならなかった。
ただ、俺には空気をぶち壊すことなくそれを伝えることなんてできなかったし、
考えを変えさせるだなんてことを成し遂げるスキルは、まるでなかった。
こういう時に、空気を壊さずに良い方向へと場を導く事ができるような人は、優秀な人なのだなと、つくづく思う。
どういう風に声をかけるべきだったのか。ベターな答えを知りたい…
「所有者が死んだら」と書かれているから、分譲前提でしょ。
その状況では家主や相続人に出て行けと言われたら「判決が出て執行されるまで粘れる」という以上に居住権と呼べるようなものはないよ。
そもそも日本の民法にも借地借家法にも「居住権」という用語はないので、法律の話をしているときは使わない方がいい。「居住権」という概念があると思うと法律理解が歪む。
そんなの実際は法律ではなくその場の空気で決まるもんだから子どもがいようが他の身内よりその場の力関係が弱ければ追い出されるだろ。
例えば、マンションの一部屋にカップルが住んでいて、所有者のほうが死んだとき、夫婦ならそのまま相続でき(最近は事実婚でもある程度の権利が認められることもある)るけど、同性同士だと追い出される。
賃貸という前提で、例え貸主に無断で住んでいて更に家賃が払える財力もない、という最悪の条件だとしても
居住権があるのでそう簡単に追い出されるわけないんだが。
(そして家賃払える財力がなければ夫婦だろうといずれは追い出されるだろうし)
分譲なら遺言書いて相続出来るようにしておけば良い。遺言無ければ法定相続人に取られて追い出されるだろうけどね(それでも居住権があるので以下同文だけど)。
http://anond.hatelabo.jp/20150628084321からのツリーでもあるけど、そんなの実際は法律ではなくその場の空気で決まるもんだから
子どもがいようが他の身内よりその場の力関係が弱ければ追い出されるだろ。
そもそも「子どもがいれば結婚の意味があまりない」のが本当なら、
2chで垂れ流されている悪思想に国民が洗脳されてるからなんじゃないかと思う時がある。
先人の残した知恵を本などで学ばず、
2chという手軽な情報源で幼稚な思想を吸収していく人たちの、
なんと多いことか…
2ch教は、負け犬の思想がつもりつもって巨大化した化け物(生き物)のように、日本国に存在している。
足を辛めとられてしまう…
本人は、洗脳されていると気づかない。
むしろ、裏事情を知っている自分は情報通でスゲーって思っていたりする。2chの情報は正しいと思いこみ盲信してる。
2ch教は、ニヒリズムを蔓延させ、後ろ向きでひねくれた発想、批判精神をも植え付け、人生をじわじわと破壊していく。
自業自得といえるのだろうか
ぼくは大きく2つ。
"安心安全"を一緒にして使うか(○○の安全そして住民の方々の安心とか、意味として分けて使うならセーフ)ってのと、血液型性格判断を信じないか(消極的な否定でもOK)の2つです。
"安心安全"を一緒にして使ってるのを耳にすると、言葉の意味や内容について頓着しない人かなと思って、その人の評価から2ポイントくらい引く感じです。逆に意味として分けて使ってる人は、そういうことに敏感そうだなってことで+2ポイントって感じです。
血液型性格判断は、信じてないってそぶりが見られたら+3ポイントです。その場の空気とかに流されず、理論的、科学的な判断する人かなーと思うので。
ただ、血液型性格判断は積極的に信じてなくてもコミュニケーション上有効なネタとして流通してるし、安易に否定すると空気読まない感も出るので、あんまりよく分からないんですよねーとか言って話に参加しないとかの、消極的な否定でもOKです。言いにくいからこそ、そういうそぶりが見えたら+3ポイント、話に参加すること自体は±0って感じです。
「リトマス紙みたいに使ってる言葉や行動」っていうのは、あまり文脈に左右されず、ある言葉や態度を見ることで相手への信頼感が増えたり減ったりする自分基準、というような意味で書きました。
これはいわゆるスクールカーストにおける過剰な「キャラ」的コミュニケーションによって引き起こされている問題ですね。
現代の日本の若者は、各自の実際の性格だけではなく場合によっては場の空気による暗黙の圧力で配分される「キャラ」を演じてコミュニケーションをとるというスタイルが定着しており、教室内は例えば「不思議ちゃんキャラ」「毒舌キャラ」のような様々なキャラがひしめきあう状態となっている。こうした環境はスクールカーストの形成やいじめの発生と密接に関係しており、スクールカーストという序列は各々の「キャラ」に対して行われる格付けであるともいえる。うまくキャラを確立できた者が勝利するという構造は日本の芸能界におけるお笑い芸人の生存競争にみられるものであり、与えられたキャラを演じる若者の作法は日本のお笑い番組・バラエティ番組における彼らのやりとりの影響を強く受けている。
日本人は議論というと国会討論のようなものを目指すのかもしれないし、またディベートについても誤解があるように思う。
意見を言ったらそれに対する反論にさらに反論せねばならないという重荷を感ずることもなく、
また誰かに承認されたいという欲求もなく、ただ自分の経験を語る、というパターンが多い。
確かにたった一人が延々やっていればうざい。
けれど、10人がそれぞれ経験した出来事を 100ー300 words で語るとその場の空気というのは少し変化を見せてくる。
そもそも「いいね!」が誕生したのだって、この手の議論の進め方が多いからでしょ。
日本のネット上での喧嘩にいちいち「いいね!」なんてしないでしょ。
議論の途中で色々な人が色々な意見を言うからそういうインターフェースになるのが必然なんで。
この国には言論による喧嘩を好む人が多いし、PV乞食が多いから、炎上すれば内容はどうでも良いや、という雰囲気を感じる。
それに対して閉塞感を感じている人が多いような空気も感じているけれども。
今ファミレスで食事中。隣の座席、60代か70代以上の女性と20代か30代の男性。
日本で未発売のISP細胞使った化粧品を扱おうとしてるとか、俺、いかにも凄い的な話をガンガンしまくる。
その後、あれ?と思ったのが、結婚しないの?と言い出した。年齢的にはどう見ても親子か孫かという関係に見えたから。
おばあちゃん、そんなもう無理よとか言いながら、デレデレ。
男も、独り身だと色々とあるよ、と言い出す。
また俺って凄い的な話。
合間に、こういった話は他の人に言っちゃ駄目だよ、と釘さし。
しばらく俺凄い的な話から、保険入ってないの?や貯金や税金対策の話。
保険は日本人の9割が入ってるとか、貯金がどうのとか、通帳がどうのとか、誰に預けるとか、そんな事を言い始める。
さすがにおばあちゃん気づいたのか、口数少なくなる。
また俺凄い的な話。
300万貸してくれるならそれだけの信用がある人間、3000万貸してくれなかったらそれまでの信用。わかる?
・・・ああ、そういや、入ってきた時に聞こえたのが、お金じゃ信用買えないから、という言葉だった。
俺凄い的な話や金の話は抜きにしても、
普通、信用の話て、一般人は会話に入れないよ。金と信用に困ってる・執着してる人しか言わないよ。
これまで聞こえてきた会話を総合すると、俺凄い的な奴、あんたの余ってる貯金を俺に貸して、てところでしょうか?
もう流石に理解したのか、場の空気が悪くなったか、帰っていった。
俺がおごるから、とか言ってるけれど、二人ともサンドイッチ。夕方のデニーズで。他にもっと頼めるものあるだろが。
帰り際、おばあちゃん、落ち込んだ顔してたから、気付いたと思う。トイレに立ったら口添えしようかとも思ってたんだが。
ここで、詐欺(金融商品の営業かもしれないけれど)や人を騙そうとする人の典型例のまとめ
・女だと、結婚やブランド物や化粧品の話を入れて興味を引かせる
・俺凄い的な話をする;いかに金を持ってるか、金を生み出すか、的なキーワードを入れる
・その場で、金の話を切り出したら、騙せると思ってる証拠、普通は即座には言わないだろう
こんなところでしょか。
という出羽守っぽいのがいるが
アメリカだと基本的に学食で食おうが自前のランチ持ってこようが自由で、
学食の内容が酷い(週一でピザとかな)し、アメリカ風ランチというのも「適当なサンドイッチにまるごとリンゴつけて終了」みたいなものなため
他の子と違うもの食べているといじめられるから敢えて日本風弁当は持たせないとか、
子供の方が他の子と違う日本の弁当を嫌がるという話は聞いた事がある。
勿論学校とかコミュニティとかその場の空気とか色々あるわけで、平気で日本風弁当持って行って何の問題も起こらない子もいるけど。
どこの国でも似たような問題はあるんだなあと思った。
人間、「自分と同じ食事をしている人」に親近感を覚えて「自分と違う文化圏の食事をしている人」に違和感を持つ、ってのは本能的なものらしいね。
いじめは受けていなかったけど、いじわるはされていた。
下校の時に靴を隠されたりしていた。
彼女は気にせず裸足で家に帰っていたが。
(しばらく裸足で登校していた)
いわゆる、本物の天然だったのだろう。
ぶりっ子してる性悪は、それが鼻につくようだった。
だけどいじめではなかった。
私は、そんな彼女に世話を焼いたり、焼き切れずに放置したりしていた。
仲は良い方だったと思う。
高校を卒業して、私は地元の国立大学へ、彼女は東京の誰も知らない私大へ行った。
はじめこそ連絡を撮り合ったりしていたが、距離が離れてしまったら交流もなくなった。
彼女は晴れの舞台だというのに、しまむらで買ったようなニット一枚で来て、寒い寒い言っていた。
こいつは本当にバカなんだなと思った。
それなりに幸せで、それなりに忙しく、グチと不満と喧嘩に満ちた、充足した日々。
彼女は欠席だったはずだが、当日になるとひょっこり顔を出した。
10年ぶりに顔をあわせる彼女は、相変わらず垢抜けない格好で、顔つきも変わってなくて一目で彼女だと分かった。
懐かしい再会の嬉しさもあったが、来るのに参加の連絡をしない非常識さにいらついた。
そういう所も相変わらずだった。
彼女にいじわるしていたグループも、勝手にいい思い出に変換しているようで、なんだか親しみを感じているようだった。
よっぽどお腹が空いてたらしい。
彼女の生活が本当に苦しいらしくて、ろくに食べるのも難しいとか。
さもありなん。
全員がそう思って、女社会のシビアな格付けが決定されたかに思えた。
「こんなに儲からないって知ってたら、学者になんてなろうと思わなかったのに」
詳しく話を聞くと、あの後彼女は数学の方面で才能を開花させ、今では東京大学で数学の研究をしているらしい。
今日も、たまたま地元で開かれた学会に出ていて、その帰りによったのだとか。
大学で先生をしているなら、たくさん給料が出ているのではないのかと思うが、給料は出ているがまだ学生らしい。
それに、彼氏の面倒も見ないといけないから全然足りないらしい。
「医者になればすぐお金持ちになれるっていうのも、嘘なんだよー」
彼は苦学生で、その援助のために海外の研究所が1億円の賞金をかけた数学の問題を解こうとしたのがきっかけで数学にのめり込んだとか。
その問題は解けなかったらしいけど、似た問題を解いたらあれよあれよと出世したそうだ。
海外の大学にも何年も国費で留学したり、世界中に友達がいるらしい。
彼女はそんな私達の気も知らずに、会の出席者の人数を聞いて会場の広さを計算して言い当てる一発芸を披露していた。
今思えば、確かに片鱗らしきものはあった。
あと、教科書を隠されたり破られたりして、ちゃんと勉強できなかったはずなのに、理系の教科はいい点を取っていた。
それと、教科書に出てくる歴史上の人物の誕生日を全部覚えていた。
最近では生まれた日だけじゃなくて、死んだ日も暗記していると言っていた。
なんでそんなことを覚えているのか聞いたら、
とわかったようなわからないようなことを言っていた。
彼女とは、やっぱりそれっきり会っていないけど、それからというもの、自分の人生がいかにも平凡な物に思えて、どうしようもない。
なんなんだろうね、この気持ち。
胸の奥の苦しさが収まらない。
そもそもブレインストーミングは、「これはダメかも…」「あんまいいアイディアじゃない」みたいな躊躇いをなくし、
だからこそ、それを行う際には必要よりも少し長めに時間を取って行う。
そもそも言葉が矢継ぎ早に出てこないし、韻なんてもちろん踏めない。
しかしそこに「しゃべり続けなくてはならない」というルールを設けることによって、
最初にハイタッチなどをしてアイスブレイクを行うことも重要だ。
まず恥ずかしさを捨て去ることが大事なので、
最初は昨日の出来事などをラップしてみるなどで場の空気を作っていく。
なぜ昨日の出来事なのかというと、客観的事象であるため簡単に話せるからだ。
ちなみに「yeah」とか「come on」とかそういうのは禁止である。
ちなみに、可愛い女の子が困りながら「come on」と言い続ける姿はとても可愛い。
上記の提案を行い実践しようとしたところ、
誰もやってくれなかった。
だから誰かに託したい。
フリースタイルラップこそ最高のブレインストーミングであるという証明を!
小中学校時代ずっと顔のことでいじめられていた。だれからも「変な顔w」と笑われていた。ぼくがどんなに努力しても「でも顔は変だよねw」といわれて終わってしまう。小学生時代は走るのが速かった。運動会のリレーの選手だった。でも結局ぼくは「変な顔のやつ」でしかなかった。「ヘンガオ」や「怪物くん」があだ名だった。中学時代も高校時代も学年トップレベルの成績だった。でも「変な顔のやつ」でしかなかった。いったいどうしたらいいのかわからなかった。だれもぼくを認めてくれない。
これはもう東大に行くしかないと思った。でも落ちて、結局地方の旧帝大に行った。そこには絶望しかなく、もうすべてがいやで、むなしくて、かなしかった。
ぼくはなぜか大学時代「イケメン」「ハンサム」「かっこいい」といわれるようになった。まったく意味がわからず、これが社交辞令というやつか、まったく世の中歪んでいるなくらいの認識だったが、それは完全な確信をもってそう思うのだし、ぼくはどう見てもおかしな顔で、いまだに毎朝エレベーターの鏡を見て落ち込むわけなのだ(あとで説明するがぼくはいま障害者向けの作業所に通っている)。
なんども鏡で確認する。どう見ても奇形だ。骨格がおかしく、人間に見えない、なんだろうこれは、ペンギン? それともピスタチオ? 鏡を見るたびに落ち込む。鏡を見てこれはひどいと思ったらもう外には出れない。ひたすら寝込む。引きこもる。そうやって大学5年が終わった(大学にいけなくて1年留年したのだ)。
いつのまにかぼくはメンヘラになっていた。大学1年からその傾向はひどくなったかもしれない。大学5年目は卒論を書くだけだったのでなんとか卒業はしたが、もちろん就職活動などはしていない。じつは大学4年目に就職活動をしたのだが、もうまったく完全に頭が真っ白になってしまって、どうしようもなかった。ぼくはわけのわからないことをくちばしっていただろう。それ以来トラウマで、大学卒業後実家に帰ってきて、就職活動を親に迫られるとぼくはパニックになってしまって(過呼吸になって呼吸困難になる)、身動きできなくなっていった。どうしたら他人に認めてもらえるのかぼくにはまったくわからないのだ。ぼくは「変な顔のやつ」だ。それはもうどうしようもない。どうしようもない状態からいったいどうやってだれかにぼくの価値を認めてもらったらいいんだ。それはまったく完全に究極の難題だった。死について考えてぼくはよく小さなころからパニック状態になっていたが、まさにそれと同じ現象が起きた。考えが及ばない、まったくの未知、理解の範囲外、それは神、神だ! だが神なんかいない! 神の姿なんてぼくらはだれもわからない、というより神に姿があったらそれはおかしいのであって、ぼくにとって、《就職活動=他人に自分の価値を認めさせる》という儀式というものは、まったくの神秘であって、考えの及ばない、彼方の彼方にあるほとんど魔術的な妄想とでもいうべきもので、一般企業で働くということは完全に奇跡のわざでしかなく、それも実現不可能の絵空事、定義の及ばない、ことばの射程の外にある、まったく完全な神秘だった。しかし世間の人間はみんなそれをあたりまえのようにこなしているという事実がぼくに重くのしかかってきて、それは絶望ということばだけでは言い表すことのできない、とてつもない、ある重層的な空虚、陳腐な言葉で言えば、そうだ、まさにそれは「世界の終り」だった。そう、世界は終わってしまったのだ。ぼくには理解できない、おそらく認知すらできないなにごとかがこの世界では行われていて、ぼくはそこに存在するだけの強度をそなえていない、おそらく世界の脆弱性とでもいうべき……、異端! おお! すばらしい! 圧倒的少数にして弱者! 愚者であり賢者! ぼくにはもうこの物質世界は見えていない。文字通り超然としている。だがなんだ、超然としているというのに、ぼくはこの物質=顔にこだわっているではないか。ぼくの精神は完全にこのけがれた体から離脱しているというのに、しかしぼくのトラウマはまだ完全に顔にとらわれていて、むしろ顔こそすべてであって、かわいいは正義であって、ぼくは美少女が好きであって、いまだに勃起するではないか! なんなのだこれは。とらわれている! この世界に! ぼくはこの世界で認められたかったのか、それともこの世界を否定したかったのか、いやちがう、ぼくは自分自身が否定されたことによって、まさに自分自身が否定される世界というものを肯定することによって、ここに自分の存在を確立したかったのであり、だがそれは自虐でしかなく、自滅でしかなく、まさにこの自縄自縛のなかで、どうしようもない破滅的な未来へ向かってぼくは生きてきたのであった。だが、それも考えてみると、結局、死にたいという欲望に突き動かされたものでしかなく、しかしいざ死のうと思うと死ねず、しかし死のうという意志そのものが生きることを肯定するなにかとなっていたのであり、もはやなにがなんだかわからない状態で、結局ぼくは精神科を受診することになった。
精神科というものはまったくわけがわからない。まともに話したのは最初の診察のときだけだ。投薬治療をつづけてきたが、まったく改善は見られない。投薬治療だけでは無理ともちろん医者はわかっていて、カウンセリングも並行してやっているのだが、いや、しかしだね、臨床心理士といっても、しょせんぼくより頭の悪いひとなわけだ。ぼくがひたすらこの世の不正や不正義や不条理について語っていったところで、ぼくの真向かいに坐っている、この美女はなにか理解しているのだろうか。ホメロスやオウィディウスやプラトンについて話していたとき、ホメロスも知らなかったのだが、これは大丈夫なのだろうか。いやしかし美女とお話できたのだからよしとするか、というかそのひとはぼくを捨ててさっさと結婚してしまって、いまはもうカウンセラーやってないっぽいのね。まったくね、なんなのかね、結局口だけというか、そりゃカウンセラーにはカウンセラーの人生があるわけだが、こっちだって人生かけてしゃべりまくっているわけでね。ぼくはいってやったよ。あなたのことが大好きです、幸せになってくださいってね。うん。そうだ。彼女は幸せになったのだからぼくは泣いて喜ぶべきなのだろう。でもなんなのだろうねこのむなしさは! ぼくは結局利己的にすぎないが、自分がしあわせになりたいのだよ。しあわせになりたいよ。しあわせってどういうことなのだろうね。いや、もしかしたらいまの状態もしあわせなのかもしれない。障害基礎年金をもらっていて、医療費には困っていないし、両親はまだ生きているし、むしろあんなに厳しかった父親も……、ぼくは彼に虐待とまではいかないのだろうが、幼少期かなり暴力を振るわれて、ちょっとトラウマになっている。まあだからといってアダルトチルドレンというわけではないのだが。むしろいま父は仕事を退職してかなりやさしい性格になっている。父があんなにぎらぎらしていたのはまったくくだらないあの世界の滓とでもいうべき労働のせいなのだ。まったくこの世は腐っているね。でもとにかく両親はやさしい。ぼくはまったく役立たずで、そりゃ洗いものや掃除くらいはするが、だからといって、妹みたいに金を稼いでこないわけでね。
就労に向けて頑張りましょうという。ぼくは作業所に入った。B型ではなくて就労移行だ。一般企業での就労? それってどんなものなのだろう。ぼくは最低賃金で事務系のアルバイトを体験してみたことがあるが、そこは一日でやめた。そこのババアの指示がまったく理解できなかったため、ここで働くのは無理だと感じたからだ。あれはぼくがおかしかったのだろうか。支援者にはそういわれた。ぼくがおかしかったのだと。おまえに歩み寄りの気持ちが足りないのだと。でもぼくは真剣に真面目に全力で全身全霊を込めてやっていたのだ。しかし、その初日というか、唯一働きに出た日だが、そこをしきっているババアは朝いってもそこにいず、アルバイトの女性スタッフがぼくにいった。こんな感じでこんな感じのを作ってください、とね。いや、ぼくは大学卒業後まったく社会に出てなかったわけで、こんな感じの資料をつくれといわれても、いや、そりゃあね、見本があればぼくだってエクセルくらい使えるから、作れるんだが、その見本がないので、その指示、つまり「見やすいように作ってくれ」の「見やすいように」というのがどういうものなのかがまったくわからないわけだ。それはこちらの頭の中に知識として入っていないわけだから。そしてぼくに職歴がないというのはわかっているはずなのに、そういうことを要求してくる。それなので、ぼくは自分にとって見やすいように作ったのだが、それはちがうという。だったら見本を見せろと返す。見本はないという。なんだそれは。ここの職場はいままで同じような資料を作ったことがあるだろうに、そういったノウハウの蓄積といったものはないのか。ないという。なんだそれは。もう意味がわからない。そしてぼくは悪者にされた。ぼくは積極的に説明を求めた。人と話すのは苦手だし、さらに人に話しかけるなんてことはほとんどもう中学以来したことがなかったというのに、そのぼくが、そうだ、障害枠ということでやっているのに、そのぼくがやっと話しかけたのに、不完全な情報を断片的にしか与えてくれない。なんなのだこれは。この資料をもとに作ってください、といわれる、だが、作っている途中にその資料が不完全だということがわかる、なので、ぼくはこの資料だけではつくれないので、もっと正確な情報をくれという、そうすると、なぜだかわからないが、いやいや出してくる。意味がわからない。というか、最初からちゃんと資料を用意しておいてくれないと、いちいちこっちが催促しないといけないのか。なんなのだ、この非効率な仕事は。指示するなら、完全な指示をしてほしい。こっちは最低賃金でやとわれている、それも障害者枠でやとわれているクズなのだ。そのクズに創造的な仕事をもとめないでもらいたい。わけがわからない。これが社会。これが社会。おそろしい。そもそもなんで入って初日のぼくがそこの常識みたいなものを知ってると思っているんだ? あまりにも想像力がなさすぎないか? なんでぼくがそこの常識、たとえばA班とはどこでなにをやっているどういった人間たちの集まりだということ、そういうものをどうして入って初日のぼくが知っているという前提で話が進んでいるんだ。おかしくないか。どう考えたっておかしい。しかし支援者はぼくにコミュニケーション能力がなかったせいだなどという。それはちがうだろう。ババアのコミュニケーション能力というかもっと大雑把な意味での能力の問題だ。管理し指示を出す側の人間がしっかりしているべきじゃないのか、しかも障害者枠で、職歴なしで、やっとここで社会復帰のためのちょっとした労働をさせてもらいますみたいな人間に対してなぜ的確な指示を出さないのか、ぼくにはまったく意味がわからない。その職場の空気読んでやってねってそんなのわかるわけがないだろう。3ヶ月や半年そこにいればその場の空気やルールというものもわかるだろうが、入って初日に、どうしてそういった超人的な想像力が要求されるのだろう。それは理不尽じゃないのか。そしてそれを理不尽と感じるということがぼくの甘えだと論破される。これはおそろしい。思ったよりも、社会は遠いところにある。いったいどうすればいいのか。社会というものは理不尽だとみんな嬉しそうに言う。腐ってやがる。
作業所に行くと、○○さんは高学歴だし、なんでもできるよね、だからどんどん面接受けようぜみたいなことになっている。たしかにハローワークでGATBというテストをやったところ、一番高い数値は160近くあったし、ほかもおおむね130を超えていた。向いてる仕事というのがそのテストでわかるらしいのだが、困ったことに、ぼくに向いてない仕事はない! なんだそれは。この役立たずが! なんでもできるということはなにもできないということだ。ひとは制限があるから頑張れる。無限にひらかれていては神秘主義者になって終りだ。
なにもぼくは自分が天才だといいたいのではない。東大には受からなかったし、ネットで例のIQテストをやると138しかでない。こんなものは天才でもなんでもない。ちょっと平均より頭の回転が速いだけだ。中途半端、それがぼくに与えられた称号。といいたいのだが、だが、ぼくの顔は中途半端どころではなくどろどろに崩壊していて、もはや人間ではなく、だが、作業所にはダウン症のひとたちもいて、そういうなかにいると、たしかにぼくはそういうひとたちの一部ではいられるのだけど。でも世間はぼくらを人間とはみなしていない。障害者は殺せ! 隔離せよ! という。生きる価値がないという。
ああ、たしかにそうだ。ぼくらには生きる価値なんてない。でもなぜか生きている。みんな死にたいはずだが、でも生きちゃっているものはしょうがないのだから、結局生きている。
さて、どうやってこの顔と向き合っていけばいいのだろう。結局ぼくは自己肯定感をもてずにいるわけだ。結局それなのだ。自分に生きる価値があるとだれかが、家族以外のだれかが認めてくれれば、それだけできっと見える世界は変わってくるのに。見える世界を変えるためには努力しなければいけない。しかし努力の方向性がわからない。ぼくは存在そのものを否定されている。能力についてなら努力でかえられるだろう。性格についてならある程度の矯正は可能だ。しかしぼくの顔は! どうしたらいいのか。そういうわけで、ぼくはしばらく口をすぼめて生活していたことがあった。口をすぼめることによって、見える顔が多少変わるからだ。ぼくはそれによってマシな顔になったと信じていたのだが、まわりのひとたちはおかしいからやめろという。マスクをしていたら、マスクをはずせといわれる。なぜなのか。
露骨な容姿差別は存在する。容姿差別はなぜか問題にならないが、かなり重大な問題なのではないだろうか。ブサイクだとなぜいけないのだろう。奇形だとなぜいけないのだろう。
破壊衝動に身を任せてはだめ、テロなんてやっちゃだめだからね、と医者にいわれている。たしかにそうだ。もちろんぼくはそんなことできないだろう。せいぜい机をぶったたいて自分が骨折するくらいだ。むなしい。でもすべてをぶっこわしてやりたい気持ちはたしかに存在する。
でもさ、本当の猫の性質ってよく知られてない気がするんだよね。
そりゃさ、猫の実質的な飼い主はよく知ってると思うけどね。
猫かわいいーきれいー猫って賢いーみたいなことをその場の空気で言う人は結構いるんだけど、実際に猫飼ってる人って少ないんだよね。
どんなエサを好むかとか、どんなときに攻撃的になるのかとか、攻撃的になったときにどんな恐ろしい顔するかとか、可愛い顔してものすごくズルイことするかとか、つめ立てられた時の痛さとか。
それでも最近は周知されてきた感はあるけどねwww
まあさ、みんなが猫の飼い主になるのは経済的にも難しいから飼ってみてよ!とは言えないんだけど、大事な猫ちゃんのことはよーく観察してほしいなって思う。
これって
冷凍したご飯を温めて食べる人って、よくあんなので満足できるな
これのつもりで書いたんじゃないかなあと、初めて読んだときに思った。
つまり煽っておいて面白いもの教えてもらおう、という意図なのかなと。
でも誰もそういう指摘してないし、追記で書いているにも関わらずコメントでもそんなにいまの栄えてる文化薦めてない。
末法思想の奴はどんな時代でも一定数いて、大体はその考え方自体がおかしいので、そこばっかりたたかれるのはしょうがない。(たぶん2chとかでやったほうがまし)
でもあえて、自分が面白いと思っている「今」めちゃくちゃ面白いことを挙げてみようと思う。
別に共感が欲しいというわけでもなく(たとえば例の高校生はlainが面白いとか言っていたが、ほとんどの人は共感しないと断言する。でも面白い)今だってめちゃくちゃ面白いものがあると思っている人は一定数いるはずで、そういう人が表面化すれば文化が活性化する、とか大層なことを考えてるわけでもないが、ただいるんだよ! と主張したい。
文化は「物」じゃなくて「事」。個別の作品の質だけじゃなくて作品周辺のコミュニティーや作品同士のつながりだ影響力だとかなんかよくわからん空気だとか、が文化であり、物である作品は文化の一側面でしかない。
「いま創作がおもしろい」と聞いたら、「ニコ動もようつべも質の低い素人動画ばっかりだし、なろうは異世界に行くクソ話ばっかりwwww」とかみんな言うだろうけどそれは文化が「物」だと思い込んでいるから。
普通の人が創作物をすごい勢いで作りまくってそれが容易に全世界に供給されている現状は異常で非常に面白い状況だと思う。
この文化を最高に楽しむたった一つの方法は、間違いなく作る側に行くことである。
ついでに言うと、この範疇に増田を含むはてなのサービスも入る。
高校生も自分が増田に書きなぐった記事にブクマがつきまくったときには、わけのわからん高揚を感じたはずだ。
それ、ひどくなると気が狂う人もいるから気をつけよう。
俺も昔はラモーンズのライブに行きたかったなあ、もうちょっと早く生まれていれば……なんて考えていたけど、CDなどのパッケージが死につつある今こそライブである。
最近はたとえサブカルやオタクでも、家にこもってパッケージを楽しむだけでなく、実際にライブで本物を目の当たりにしてその場の空気を楽しむほうが面白いということが、露見している。
一体いつの時代にアニソン歌手がドームでライブなんてやってたか。
この夏もライブやイベントやら沢山あるので少しでも興味を持てて行けるなら行くと良い。
行ったことないが、DJイベントやらもおもしろそう。(個人的にはエレクトロニカやクラブ系のライブは盛り上げるのがうまくて非常に楽しい。あとライブにはたまに初めて名前を聞くようなバンドなのに一音、一フレーズで会場全体を盛り上げてしまうバンドがいる)
あと、ライブの空気感をそのまま作品にするという意味で、石ダテコー太郎が始めたラジオとアニメを融合させる試みが非常に興味深い。
"今やってるの"は正直そんなだし(まだどうなるかわからないけど)、将来的にどう評価されるのか一時的な流行りですぐすたれるのかわからないけど、とにかく挑戦的でどうかしているのは間違いない。
正直アニメとかも、ピンポンとかスペダンとか面白すぎて全然衰退している気がしない。今の高校生中学生はSAOなんかに夢中になっていてもおかしくないと思うし、なんか妖怪ウォッチやばいらしいと聞く。
素直な気持ちで自分の面白いと思うものを追求し続けていれば、いまの面白いものにもキャッチアップできるはずで、文化の繁栄とかどうでもよくなるので良いと思う。
最近の閉塞した人生を少しでも変えようと街コン参加を決意して、色々と調べたら大変面白いイベントへ参加出来たのでメモがてらレポを残しておく。ちなみに筆者は男です。
09:00 小田原集合
15:15 九頭竜神社参拝
朝から夕方まで分刻みの忙しいスケジュールだが、箱根パワースポットバスツアーの名に相応しい要素を抑えていると思う。
参加費は、男性\16,800、女性\9,800と、中々にツボを突いた値段設定と思う。
集合場所は小田原駅。箱根湯本で無いのは個人的に残念なものの、新幹線の駅もあるしロータリーも広く妥当な所だろう。
バスの前に行くと受付で名前を告げてバスの座席順決めのための最初のクジ引き(マッチング①)。バス座席は左右2列ずつの普通の観光バスで、窓際女性、通路側男性となるよう番号で決められていた。覚悟していたとは言え、狭い空間で初顔合わせの男女で二人きりという状況は、中々のスキルが要求される。さっそく仲良く話始めるペアもあれば、気まずそうな沈黙に包まれるペアもある。もう戦いは始まっているという事だ。15分ほどでひと通り集合・出発。
バスは箱根の山道を左右に揺らしながらガンガン進む。出発時に参加人数が40弱である事が発表された。(しかし、驚愕の発表として、うち男二人が集合場所を新宿と勘違いして集合出来なくなるハプニングも…。ちなみにこの二人は頑張って昼食から合流してました)
道中最初の自己紹介タイム。全員にプロフィールシート表が配られていたが、これがわかりづらい!A4の厚紙に合計12箇所の記入欄があり、それぞれに名前や仕事・趣味といったことを書く欄があるシートとなっていた。はじめは全てに頑張って記入し、切り取って相手に渡していくのかと思ったが、実はこのシートをそのまま異性に渡して、その異性にプロフィールを書いてもらうという仕様となっていた。つまり、ツアー終了時には12人分の異性のプロフィールが自分の手元に一つのシートとして残るわけだ。ともかく一人目のお相手に書いてプロフィールを書いてもらって、それをネタに雑談を進めていく。その他にはジャンケン大会などを行いながらほどなくガラスの森へ到着した。
バス内で事前に8チームになるようクジ引き(マッチング②)を行って、4~6人ずつでガラスの森へ。夏休み突入直後ともあって館内は子供連れも多く気恥ずかしい。しかし大変天気も良く、美しいガラス細工を見ながら館内を鑑賞。途中、グラスハーブなどによる生演奏が開催され、柔らかくも美しい音色に聞き入る。実に良い経験をさせてもらった。散策時間は約1時間ほどだったが、ゆっくり見てまわるには少なすぎる。チームの互いの紹介もままならない状態でバスに帰還となった。バスに戻る際に再び座席決めのクジ引き(マッチング③)で先ほどとは別の異性と相席する。プロフィールを交換しながら雑談しているうちに次のザ・プリンス箱根へ程なく到着した。
ガラスの森と同じく、バス内で事前に8チームになるようクジ引き(マッチング④)を行って、ザ・プリンス箱根のパーティー会場「相模」で昼食。食事はビュッフェ形式で、ビーフシチューやパスタ、ピザ、ドリア、サラダ、スープ、カレーなどなど、種類は豊富。食事の量も人数分しっかり確保してあり、後半メンバが足りなくなるような事はなかった。ただ、全体的に味付けが濃く、夜のお酒を片手に行うパーティー向けなのは少々残念。飲み物はソフトドリンクとしてオレンジジュースや烏龍茶が用意されていた他、アルコールはビール、ワイン、焼酎とこちらもホテルのパーティーらしい品揃え。全体的には過不足ないが面白みも無いメニューだった。ただし、ピンクカレー。テメーはダメだ。食事中にツアーの目玉の一つである専門の占い師による無料恋占いの整理券配布が行われる。先着順ともあり、女性の皆様は一斉に整理券ゲットに走っていた。すぐに順番に呼び出しがかかり、個別ブースでタロット占いを行ってもらっていた。一人5分弱?くらいと思われる。食事は20分ほどで終了。ちなみに途中で新宿野郎たちも合流していた。ホントに来たよ。ある意味尊敬する。
食事もそこそこに、マッチングタイム開始のアナウンス。ちなみにこの間も占い呼び出しは続行中。まずは女性がクジ引き(マッチング⑤)で席替え。食事の時とは違うメンバでマッチングタイム開始。円卓のテーブル内で男女4~6人の円テーブルを囲みながら1回7分ほどのコミュニケーションを取っていく。ただ、例のプロフィールシートを書くのに忙しく、大半の時間が記入に消えてしまう。書き終わっていざ話を盛り上げようとしても、あっという間に時間終了で、ろくに会話が出来ないのは残念すぎる。時間経過後は、男性のみテーブル移動。クジでは無く、男性の自由意思でテーブル選びを行う。熾烈な争いの場だ。途中休憩をはさみつつ、合計4回の移動(マッチング⑥~⑨)でコミュニケーションを取っていく。正直後半はダレて来てプロフィールシートを埋める作業になりつつあり、顔と名前が一致しなくなる。ある意味、ココでどれだけ集中力を持続させ、最大のパフォーマンスを発揮するかが求められるだろう。
戦いの余韻を残しながら、アンケート記入タイムへ。Webに掲載されていた前回開催時の率直なアンケート結果を事前に見ていたこともあり、割と辛辣な事も書きつつ良い機会を用意してくれた事に感謝を表明しておく。
その後はお楽しみ抽選会で、箱根の温泉入浴券や箱根園水族館チケット、さらには\30,000相当の箱根宿泊券など、開催規模から考えたら中々の商品が当たるジャンケン抽選会。箱根観光協会の本気と実力が窺い知れる内容だった。
そして時間は運命のカップリング発表へ。カップリング決めには、各人に配布された希望シートへ第3候補までの異性の名前を記入し、お互いがマッチすれば晴れてカップリング成立となる。今回は合計8ペアのカップリングが成立となった。参加人数が40人弱であるため、成立率は約40%となる。街コンとしては驚異の成立率だろう。ココが一番の盛り上がるシーンのはずだが、人間は素直なもので発表が進むにつれ場の空気は大変重くなっていく。最初のペアが発表された時は気軽に拍手の祝福があったが、最後のペア発表時は本当に悲しいくらい弱々しい拍手だった。今日一日の戦果が決した瞬間である。
見事カップリング成立した8組が先行しつつ、徒歩で九頭龍神社参拝へ。片道30分ほどの距離。カップリング成立したペアはお互いの親睦を深めつつ長い道のりをゆっくり進む。逆にカップリング成立しなかったメンバはフリー移動で続いて神社へ。ココでさらに声をかけて仲良くなる人もいたようだが、やはりカップリング不成立の壁は大きい。中には孤立する人も抱えながらゆっくり神社へ歩を進めていく。午前中の快晴と打って変わって深い霧に包まれた芦ノ湖を見ながら程なく神社へ到着し、順番に参拝を済ませていく。途中、白装束に身を包んだガチの参拝者もいらっしゃっており、無作法な人間が多く参拝していた事が少し申し訳ない気になった。道中は特にマッチングのイベント等は無く、カップリング成立者と非成立者で明確に天国と地獄が別れた時間だったと思う。
ホテルへ戻った後は30分余りの休憩、おみやげタイム。気の合う人たちはラウンジでお茶を楽しんだりしていた。また、主催者はバルコニーに出てアンケート結果らしきものを眺めながら一日の反省会をしていたようだ。
帰還のバスも自由着席でカップル同士や同姓同士、ボッチなど様々なスタイルを反映しながらの道程で、一日の戦果を客観的に教えてくれるものだった。小田原到着後の解散もあっさりしたもので、2次会らしきものに行くメンバも見当たらないまま流れ解散となった。
批判的な所も書いたが、率直な感想としてツアー代金以上の価値があると思う。ある程度運も要求されるが、前半のバス搭乗~食事までは異性と強制的にゆっくりと話す時間が設けられており、ココで気の合う異性を見つけられた人がカップル成立となっていったのだと思う。特にガラスの森は女性受け抜群で、適当に会話をあわせるだけでコミュニケーションをとれるので口下手な人でもネタには困らないだろう。逆にマッチングタイムの忙しさが際立ってしまったのは残念で、正直自分はココで会話した異性の印象はほとんど無い。1日で最大多数のマッチングを取るためには致し方ないが、もったいない気がしてならない。
参加者の質としては、男女ともに2割くらいがハイスペックだったと思う。容姿だけで無く、年齢や仕事など総合力に優れる人はやはりカップリング成立となっていた。自然の摂理とは言え自分が鋭く評価されるものであるため、結果をどのように受け止めるかが今後にも繋がってくると思う。カップリング不成立だった人は不満タラタラだと思うが、今日1日で同姓のドコが評価されていたかを観察できたのでは無いだろうか。今日の結果を踏まえて改善出来なければ今後には繋がらないという残酷なまでのメッセージをだと思う。
逆にカップリング成立した人たちに対する九頭龍神社参拝は、一日の熾烈な戦いに勝利したご褒美だろう。都合2時間弱の時間を強制的にペアを組んで行動するため、コミュニケーションを深めるにはうってつけだ。神社のご利益も相まって、主催者の狙い通りの展開となっていた。
主催者側については、箱根観光協会ならではの趣向で楽しませてもらったと思う。ただ、全体的に手作り・手探り感が拭えず、進行もわかりずらい点が多々あった。今後に期待。
主に男性視点。まず身だしなみは大変重要と再認識。だらしないシャツ着てるヤツは論外。目立つだけの服装もNG。コミュ力はどうしても要求される。主催者側はマッチングやプロフィールシートできっかけ作りに腐心してくれているが、結局はそこから会話に繋げられるかは参加者自身の問題だ。会話が続かなかったり、トンチンカンな受け答えしている限りカップリング成立は夢のまた夢。イケメンがカワイイ子をゲットしていくのは当たり前と了解した上で、いかに自分の土俵で勝負するかが問われるということだろう。ただ、参加者の質は本当にピンキリなので、最上でなくとも中の上を意識して目指せば、カップリング成立はそれほど難しく無いのでは無いだろうか。
あと女性側へ。30後半は正直厳しい。ともかく、男女問わず空気嫁。