はてなキーワード: 因果応報とは
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「恥の意識」だよな
親兄弟とか友人の世話になったり借金するのは構わないと思っても
赤の他人の助力を受けるのはみっともない
助けられる先方もそのように考えるだろう(だから相手に恥をかかせてはいけない)
また、赤の他人を助けると「ええかっこしい」「偽善者め」と見られるのが怖い
――ここまでは多くの人がすでに同じ事を考えてるだろう
ではなぜ、赤の他人に助けられると恥だと思うのだろうか?
***
駅までは一緒に運んでやるとか苦には思わない
以前、階段で乳母車を押してる人がいたんで下から支えてやったことがある
この場合、大荷物を持った老人にも乳幼児連れの人にも何の落ち度もない
学生時代は新聞配達の店で働いていたが、夕刊の配達時にはたびたび
前カゴに数kgの新聞を満載した自転車を上手に停車して降りられず
このようなとき、見ず知らずの通行人――確実に俺より身なりの良いビジネスマンだの
汗臭い新聞配達員の俺に近寄るだけで可哀相な若い女性などが拾ってくれようとすると
申し訳なさの余り切腹でもせねばいけないような気分になったものであった
だって、どう考えても、五体満足な成人男性の自分が、上手に自転車を停められず
自分に夕刊の束をぶちまけてるのは、言い訳のしようなく自分のせいだ
相手に対して感謝の念をすっ飛ばして「加害者」になったような罪悪感を覚えてしまう
無論、地面に散らばった夕刊を拾ってくれた人は
俺のせいで被害を受けたなどとは一切思ってない「かも知れない」
が、「かも知れない」であって、本心は分からない、それが怖いのだ
***
ではなぜ、人に助けられると罪悪感や加害者意識を覚えてしまうのだろうか?
つまり、助けられたら相応のお礼をせねばならない
乳母車で段差を越えるのを手伝ってもらった……といった程度のことなら
が、「本当なら相応のお礼(自分の失敗に起因するなら「お詫び」)」
をしないといけないのに、それをせずに他人の善意を受けるというのは
(まあ、別の機会に別の赤の他人に親切にすればいいんだが、そんな機会はいつあるかわからない)
***
要するに、因果応報とか、権利には義務が伴うとか、目には目をとか
そういう「世の中はプラスマイナスゼロの均衡があらねばならない」
という価値観が、無償の人助けを「自然に反する異例なこと」のように
思わせているのではないか?
***
金持ちが見ず知らずの貧乏人を助けたりすれば死後アッラーに高く評価され
逆に助けられた方も「助ける機会を作ってやった」という善行と見なされるとかいう
この後段部分が重要だ
つまり、一方的に助けられることを精神的な負債と思わずに済むような
(仏教渡来の初期には皇室が悲田院とかやってたけど恒常的には定着しなかった)
ただまあ、この日本の「他人に助けられるのは恥」という文化のおかげで
日本では生活保護を忌避する人が多く、社会保障費が安く済んでいるのは確実
悪い意味でも、世の中よくできてるよなあ……と感じるばかり
きっとちがうよ
だって私は わたしが生きるために あの人に生きて欲しかったんだから
それはきっとちがうんだよ ちがったんだよ
それはきっと あいなんかじゃないよォ…
某所より気になった感想を抽出し、思いついたことを書いていく試み
171 ななしのよっしん
2018/09/30(日) 13:48:11 ID: f8xlQvMm3b
あさひもしょうこも(てかこの作品のほぼ全員)私が生きるためにあの人に生きてほしいを地でいくキャラだったからあの結末は残念でもないし当然
あさひはこれからのこと考えると可哀想だがしょうこは裏切ったうえに盗撮までして友達の私を信頼してはほんと無理だったから死んでよかったよ
173 ななしのよっしん
2018/09/30(日) 15:30:33 ID: 6m5ZAUyP0F
友人思いのあつかましさや正義感が仇になってさとうを裏切り殺されたしょうこ
大人の女性からセクハラを受けまくって気が狂いしおからも見捨てられて廃人化した太陽
元からの変態性に加えさとうを詮索してやり込めようとして失敗し逮捕された先生
DVを受けていたとはいえしおを拒絶して全ての元凶になった母親
絵のモデルとしてさとうを招きしおに対するさとうの気持ちを察するや自分の望むさとうでなくなることに怒り、手を挙げて殺された部屋の主
さとうと愛の形で対立しつつも結局最後までさとう達に協力して逮捕された叔母さん
必死に妹を思い自分と自分の母親の元で幸せに生きさせようとしたが、最後にはしおの心を完全に奪われたあさひ
愛の形を証明し心中を受け入れるも、結局しおを生きながらえさせて、しおを自分の愛の結晶としてこの世に残すことに成功したさとう
幼児退行や記憶障害は治ったが、さとうの愛に完全に共鳴して強い意志を持って傾倒する狂人となったしお
全登場人物で本当の幸せを掴んだのは実はさとうだけかもしれない、しおは客観的に見ると環境が災いして人格を塗り替えられた不幸な子だと思った
182 ななしのよっしん
2018/10/01(月) 05:10:48 ID: CEiFINjjYU
一見人魚姫みたいで綺麗な終わり方だけど冷静に見ると、さとうがおばさんにされて嫌だった「愛ってこういうものだよ、とても素晴らしいよ」の押し付けを結局しおにも繰り返してるだけっていうのがなんか考えさせられる
表面は綺麗だけど、しおもかつてのさとうみたいに歪んだ愛の価値観に縛り付けられて生きると思うと…
185 ななしのよっしん
2018/10/01(月) 11:23:57 ID: VrrOXonf2W
しおはさとうの愛で満たされてるけど
190 3543
2018/10/02(火) 09:27:55 ID: PTz4syDQ1u
こういう話は因果応報とは無縁の話だと思ったら、しお以外は因果応報の形になったのが意外。だが単純に法とか、一般的な善悪道徳を元にした勧善懲悪の因果応報じゃないのがミソだな。
だから、普通なら報いを受けそうにない立場のしょうこも、勝手な「ごく真っ当な価値観」のままさとうに迫り、信じると言いながら結局目を逸らしてしまったことが、致命的な罪となって、その裏切りの報いとして死んだ。
単に犯罪したからだけじゃなく、自分の価値観を押しつけ続けて相手を碌に見なかったり、何より愛に真摯じゃないキャラは報いを受けた訳だ。
しおに関しては、さとうと限りなく噛み合っていたが、共犯者の面もあるし、最後に庇ったさとうの愛が本当の愛なのかしおへの裏切りなのか、あの結末が救いなのか呪いなのかわからんのはいい感じだと思う。
206 ななしのよっしん
2018/10/15(月) 17:02:35 ID: MYkV3cCihu
さとうはあらん限りの意志の力によって、
ある意味、恋の夢である「愛する人とひとつになる」を実現してしまった
人間の精神が分割できないindividual(個人)という見方は社会的な事務上のフィクションで、
内面には複数の「分人」がいるわけで、その一つとしてミニさとうがしおの人格にインストールされた
だが本当に恋の夢が実現されたとしてそれは本当にいいものなのか?と思わされる
意志の強烈な輝きと同時に、それがもたらす災厄も描かれてる
強い意志というのは、結局高確率で目的を果たす魔力はあるけど、被害も生むことを示してる
214
2018/11/14(水) 00:15:54 ID: DvW+BJx4zX
この作品、ほぼ同時期に映像化(向こうは実写化だけど)された監禁モノ作品と決定的に違う所がある
これこれこういう可哀想な目にあったから容認すべき・同情すべき、という風な作品のトーンにしてない。あの純真そうなしおちゃんも含め、出てくるキャラが(一部以外)殆ど全員自分のエゴの為だけに動いてる。
さて、感想
「わたしが生きるために あの人に生きて欲しかったんだから」という叫びで自らと登場人物すべての罪を糾弾したこの言葉
では、いったい何が愛だったのか、どうすれば愛だったのか、愛は何故減るのだろうか(ニヒリズム)
「お互いの事を思いあい、助け合い、真に理解しあう」が、「プロレスは本気で戦っている」と同様のお約束であることは肯ずるところだろう
富めるときも貧しきも、病める時も健やかなる時も、死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います。
本作でも繰り返し述べられる誓いの言葉だが、やはり難しい
貧すれば鈍する、衣食足りて礼節を知る
満たされない人間が愛についての理想を掲げ、存在しないものを追い求める様は悲喜劇的である
残念ながら、愛というのは幻想入りしている
では何が存在するのか、現実・日常に耐えられるだけの実在性を担保できるのか
逆説的だが、まさにそれこそが愛、つまり個々人の中にしか存在しない幻想だと思われる
「相手は分かってくれくれるかも知れない」「自分を救ってくれる誰かがいるかもしれない、そんな時が来るかもしれない」「これこそが愛の本質なのかもしれない」という期待、幻想、思い込み
それに従って相手を志向し、期待し、求め、望み――そして、拒絶され、断罪され、絶望する
その果てに関係性を何度でも再構築し、自分自身の幻想・信念ですら変えていく
自分に合わせて現実を変えるのではなく、圧倒的な実在性(=他者性)のある「現実世界」に打ちのめされ、変わらされていく
他者論という観点から見れば、「誰にも否定されない絶対的な真理」を作り出すことは不可能である。一方で「他者」は、単に真理への到達を妨害する忌むべき存在というわけではなく、「私」を自己完結の孤独から救い出す、「無限の可能性」でもある。いかなる哲学、科学、数学を作り出しても、必ずその外部から「違う」と叫び叩き潰してくる、理解不能で残酷な「他者」が現れる。「他者」が現れるからこそ、自己は自己完結して停滞することなく、無限に問いかけ続けることができる。
然し、真理といふものは実在しない。即ち真理は、常にたゞ探されるものです。人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。
(中略)
もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを。然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。それより外に仕方がない。
――坂口安吾「余は弁明ス」
「人間の精神が分割できないindividual(個人)という見方は社会的な事務上のフィクションで」
という言葉が正鵠を射ているように、人間はそれ単体で存在し得ない
人のすむところ。世の中。世間。人が生きている人と人の関係の世界。またそうした人間社会の中で脆くはかないさまを概念的に表すことば。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
永遠に求めるが手にし得ないものを、その霊台方寸のカメラにおいて捉える故に、他者を必要とし、そしてそれに打ち倒される
揺るがない物理的存在としての肉体がその繰り返しを支え、人を生き長らえさせている
今日、愛の不在を叫んだ神戸しおも、その10年後には同じ気持ちでいるかは分からない
「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」は、決して絶望の言葉ではないのだ
BPDの症状が年齢経過で落ち着いてくるということと似ており、時はすべてを均してくれる
凡人に身をやつすことは、救いでもあるのだ
今後、父親の気持ちが変わるタイミングが少なくとも三回は来る。
一回目は双子の赤ん坊の顔を見て抱いた時。この時に感じる感覚はもはや理屈ではない。
二回目は子供が話しだし、歩きだし、父親がどれだけ好きかを伝えだす時。孤独からの開放。
三回目は自分の寿命を意識して、自分が消えてもこの子が残ると心で分かった時。子孫の中で生き続ける自分がいる。
結婚相手を誰もが尊厳ある人ではなく若さや見た目や収入で判断し商品化する社会。子供が宝ではなくコストと化した時代。
このような中で人は結局、どれだけの地位や学歴を手に入れても、いずれ老いて捨てられ踏みつけられる。
その時、傍らにいるのは伴侶であり、子供たちだけだ。
今自分を優先すればやがて自らを優先する人々に切り捨てられる。今その人々を優先して殺さなければ、その人々もあなたを生かしてくれる。
昭和の歌は、戦争から帰ってくる息子を待つ歌や、人生の悲しみを歌う歌があり、東京以外の地方を歌う歌があり、それはそれはしっとりと見事に歌う歌い手もいて、そういう歌って、もう無いよね。
人生の悲哀を掬い上げる歌がもう、無い。現代の、生き辛さを抱える若者たちも、心は救いを求めるけれど、その気持ちを受け止める歌が無い。流行歌が無い。
そのくせ、軽薄な歌ばかり聴いている。エグザイルとか。重厚さが足りない。それじゃあ、君の悲しみは収まらない。
君たちが生きづらいのは、真剣に生きるものを、馬鹿にし続けてきた結果じゃないのか?因果応報…は結果論でしか無いが、その辛さは、かつて君たちが馬鹿にしてきた者たちの声なき声が覆いかぶさってきたものなのだ。
未来は、現在進行形で作られている。君たちが、団塊の世代を恨むように、次の世代は君たちの世代を恨むだろう。
でも、まだ間に合うようよ。祈れ。隣人を馬鹿にするのをやめろ。今から、晴れるよ。ハレルヤ。
そういえば、選挙のことを歌った歌ってないんですかね?
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。