はてなキーワード: 古来よりとは
人間の脳とはどうにも不便なもので、積み重ね続けているはずの明るく優しい記憶はその隙間に挟まる嫌な記憶に塗りつぶされてしまう。古来より経験から学習して危機を回避するために必要な仕様なのだと考えれば理解はできるのだが、現代に慣らされたわたしにとっては、ずっと自分を縛り続ける鎖のように重苦しい。
虐待、という言葉は日常的に――さまざまなニュース、ネットの記事、大学の授業、書籍なんかで――目にする。その程度に軽重はなく、そしてその辛さに貴賎はなく、当事者が辛かったと感じ、または自覚なくとも傷つき、倫理と法に照らし合わせたときにそう判じられたのなら、それは虐待になるのだろう。
多くの人が、まずぱっと想像するのは保護者から子への虐待であろう。母から、父から。扶養者から。祖父母から。近年では、養護者による高齢者に対する虐待も問題視されている。わたしのiPhoneに標準搭載された辞書によると、虐待とは「むごい取り扱いをすること」。調べれば、厚生労働省による児童虐待のページも出てくる。それによれば、児童虐待は「身体的虐待」「性的虐待」「ネグレクト」「心理的虐待」の四つに定義されるらしい。なるほど、思いつく大体はさらっていそうだ。長くなるのでそれぞれの具体的な例は省略するが、暴力や言葉による脅しなどが挙げられている。
そして、本題である。
寓話だと、シンデレラの義姉が一応それに当てはまる。義理の兄姉、弟妹、そして実のきょうだいからの虐待、である。
わたしは未だ、自らのそれを虐待ということに疑問を覚えている。確かに暴力があって、辛い言葉があった。けれどやっぱりきょうだいだから、そして自分でも信じられないことに、生まれてこの方家族のことを明確に「嫌い」になったことがない上、いくつかの発端は自分に非がある喧嘩だった覚えがあるために、はっきりとした定義づけができないのだろう。
でもたぶん、あれは虐待だった、と言っていいのだと思う。
わたしには、四つ上の姉がいる。はっきりとした実感では思い出せないが、間違いなくわたしは姉が好きだった。生意気だったし、変な子どもだったけれど、姉のやることをいつも真似して、遊んでほしがった記憶がある。面白いと言っていた漫画を読んで、図書館で本を借りて、拙い四コマを描いていた。女の子のお人形やミニチュアが家にあったから、それで一緒に遊んでほしかった。まあ姉は真似されるのを嫌がっていたし、あまり遊んではもらえなかった気がするが。母に諸々が露見するまで部屋も一緒で、二段ベッドの上下で眠っていた。
ひとつ、間違いなく自分に非がある発端として思い出せるのは、借りた本のことだ。当時姉はあるシリーズの小説にはまっていて、それをわたしも読んでいた。今思うと意味が分からないのだけど、ホラー作品の影響か、知らない内に血痕が増えていたらおもしろいだろう、と、当時のわたしは考えた。ちょっとした騒ぎになることで、家族の気を引きたかったのかもしれない。馬鹿な思いつきで、抜けた歯かなんかの血液を、本のページになすりつけたのだ。
単純に汚いし、本当に意味不明だ。弁償しろと言われたらそうすべきだし、怒られたら謝るべきだ。
姉は怒った。当たり前だ、妹が自分の本を読んでいたと思ったら、返ってきたときに謎の薄茶けた汚れが付いていて、あまつさえそれが不衛生な血液なのだから。生理的に拒絶して責められても仕方ない。
それで、姉はわたしを蹴った。蹴って、床に置いてある座布団の上に転がして、そこで背中を踏みつけた。座布団の上だったのは一縷の優しさなのか、当時の部屋は恐ろしく汚かったので、床に放置された物ものをわたしの身体が潰すのを嫌がったかもわからない。とにかくそんな感じで、わたしは泣いて謝って、しばらくののちに姉は怒ったままひとまず足を退けた。本をどうしたかは覚えていない。
そんな調子だった。二人とも通っていた小学校の校門前で、下校時刻にみぞおちを蹴られて――これは何が原因だったか忘れてしまった――動けなくなり、野次馬にじろじろ見られながらどうにか帰ったこともあった。姉はさっさと帰ってしまったので、持っていた傘を杖にして耐えていた。わざとかどうか分からないけれど、的確にみぞおちへ爪先が入って、ちょっと吐きかけた。
ここで弁明しておくのだが、両親は見て見ぬふりをしていたわけではない。というのも、わたしたちは鍵っ子で、昼間は父母ともに家にはいなかったのだ。そういったいざこざが起こるのは大体ふたりが帰ってくるまでの時間帯だったので、そしてわたしは姉に言い含められ、かつ自分の受けているダメージの深さに無自覚だったので、親にあまり言い募ることもなかった。父母の見ている前で姉の手が出たらさすがに止められたし、姉は叱られていた。まあそれによって機嫌の悪くなった姉の言動がさらに悪化することもあったのだが、とにかくそういうことだった。
契機は、特に姉の機嫌がひどい夜だった。母は父を迎えに行っていたので、両親ともいない。子どもは夕飯もお風呂も済ませて、あとは寝るだけという時間だった。
「ねえ、電気消して」と言われて、わたしは断った。前述したが、わたしたち姉妹は二段ベッドの上下で寝ていて、付け足すと姉が上段、わたしが下段だった。部屋の照明にはよくある紐が付いていて、天井の真ん中から垂れている。姉のいる上段からは手を伸ばせば届くが、わたしは一度ベッドから出ないと届かない。舌打ちが聞こえた。電気消せよ、と言われて、お姉ちゃんの方が近いんだから自分で消してよ、ともう一度断った。それで、姉は怒った。
足音を荒らげてはしごから降りてくる音に身体が強ばった。怒られるんだと思うと本当に嫌で嫌で、それでも、今日ばっかりはわたしは悪くないのだから、と頭の中で唱えていた。電気をどっちが消すかなんて、どう考えても至極どっちでもいい張り合いだ。変な意地は、それでも道理に合わないことに従いたくない一心で、そのあとに予期される出来事よりも優先されてしまった。
ぎゅっと身体に力を入れ、壁側に背中を向ける。お腹は内蔵に直接響いて辛いので、せめて背中側ならという発想だった。ベッドから引きずりだされるのが一番怖くて、でもそうはならずに、背を向けたわたしへ、そのまま足が飛んできた。電気消せよ、消さない、の、文字だけだと死ぬほどしようもない、馬鹿みたいなやり取りをしながら、ひたすら泣いて背中を蹴られていたと思う。どれだけやってもわたしが動かないことを察したのか、姉は苛立たしげに身を引いた。そして戻り際、「絶対チクんなよ」と残してはしごを再び上がっていった。電気はそのままだったので、結局どっちが消すかなんてやっぱり大事じゃなくて、「妹が自分の言うことを聞かずに口ごたえしてくる」ということがとにかく気に食わなかったのだろう。
ほどなくして、父と母が帰ってきた。ただいま、と言って部屋に入り、声をかけてくる母からわたしはとにかく顔を隠した。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、それでもうまく強ばった身体は動かない。異変を察知した母にどうしたのと問われても「なんでもない」で通した記憶があるが、声が震えてぼろぼろだったので、そんな嘘はあっけなくばれてしまった。
そのあとは、わたしはリビング、姉はそのまま自室にと引き離され、事情聴取が行われ、部屋はやっぱり離すべきだ、という結論に両親が落ち着いた。そのあともしばらく姉の気性は荒かったが、思春期の前半を過ぎて彼女が高校に入ったあたりから本格的に落ち着いて、そんな騒動はぱったりと止んだ。ギターで頭を殴られたりだとか、背中にものを投げつけられたりだとか、怒って一瞬包丁を持ち出されたり(見せられただけだったが)だとか、壁に首を足で押さえつけられたりだとか、まあ色々あったが、そんな感じだった。
「口ごたえするな」「使えない」「気持ち悪い」「何で生まれてきたの」――そしてまた、言葉というのは厄介で、簡単に口からこぼれるのに、言われた側はその感情まで受け取ってずっと抱えてしまう。身体に対する物理的なあれこれは間違いなく痛くて、それも勿論辛かった。でもたぶんその根本にあるのは、自分がそういう扱いをされていること、そうしてもいいと思われていること、好意や情の非対称性だったのではないかと今は考えている。お前は愛されていない、だめな人間で、嫌われていて、いない方がよかった。それの真偽はともかくとして、真正面から突きつけられるには痛すぎる。身体的な暴力は衝撃的に覚えているけれど、思い出したときにじわじわと首が締まっていくのは言葉のほうだ。そして、日常的に放り投げられるのにいつだって避けようがなかったのも、言葉のほうだ。
姉はいわゆる癇癪持ちというやつで、怒ったら自分で制御ができずに手が出てしまっていたのだという。でもそれが友人に向くことはなかったし、たぶん妹は格下の、彼女にとってそれをしてもいい人間だったのだろう。自分の中で、怒ったら手が出てもいいし、ひどい言葉を投げてもいいし、言うことを聞かないのはおかしい存在。何なら、日常的に何を言ってもいい存在。
幼い頃から培った「この人と自分は平等ではない」という意識は根深い。何ならそれは今でも、姉妹揃って無自覚に残っている。実は現在、姉妹間の仲はそこそこに良好だ。ただその前提に、姉は大人になったけれど、間違いなくわたしのことは下だと思っている。わたしは大きくなったけれど、姉に対して嫌に思うことがあっても諦めているし、そういうものだと思っている。そういう暗黙の了解が存在しているから、比較的穏やかな日常が保証されるようになった。
でも、色々なことがぼやけてしまった幼少期の記憶の中で、ぐちゃぐちゃとした嫌なものばかりが輪郭を持ち続けて、わたしはそれを手放せない。姉と笑顔で話しながら、ふっと影がよぎるみたいに、昔のことを思い出してしまう。やっぱり、した側が覚えてなかったとしても、された側は覚えているものらしい。
この文章は間違いなく恨み言だ。でも、これを姉にぶつけたいわけじゃない。やっぱり姉のことを嫌いになりたくなくて、でも傷ついた自分のことも認めてあげたくて、好きなものが好きでいたいだけだ。だから、取り残された感情や記憶を吐き出して保っている。
わたしは今も、生まれ育った家で姉と共に暮らしている。実家を出ようとはあまり思っていなかったのだが、最近になってふと、「この人と一緒にいたら、わたしはこの先もずっと自尊心を削られつづけるんだ」と悟って――そのうち、家を出なければならないことに気がついた。母は姉を出すと言っているものの、姉を一人暮らしさせてうまくやっていける気がしない(わたしもあまりできる自信はないけれど)ので、全員の健康を考えたらそのうちここを離れることになるのだろう。
あのときと比べて、身体はずいぶん大きくなったし、精神も成熟したところはあるはずだ。それでもわたしはまだ、自分の中にずうっと、声を殺して泣いている子どもがいるような気がしている。
見たくないんだが同居人が週間として朝飯時刻に時計代わりにつけているので見てしまっている…その場にいる全員でツッコミ入れながらだけど。
もうツッコむ気力も失せた。
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沖縄とは何度か観光した以上の縁がなく民俗研究とかしてない身だけど、沖縄文化はご先祖様を大事にしてお盆は盛大にやる、くらいは知っている。こちらでいうお盆はウークイといい、旧盆の時期にやるのだそうだ。古来より盆暮正月は帰省が許されるんだから、お母ちゃんの再婚の噂で「すぐ帰る!」とかトチ狂ったこと言わすんでなく、ウークイだから帰ります、でいいんじゃねーのかよ。旅費高いから数年ぶりの帰省って感じにすれば当時の沖縄との距離もだせたじゃんよ。
ウークイは盛大にやる=準備が忙しいわけで、こんな時期に「だけ」遺骨収集にいくお母ちゃんっておかしいだろ…比嘉家なんも準備してねえな?お父ちゃんのお迎えとお送りしねえの?いや、自分ちが親戚全滅してたとしても近所のお手伝いとかあるじゃん?社会から完全位孤立してんのか比嘉家。これまでの行いからして孤立してても不思議じゃねえけど。
そもそも山原(沖縄の北のほう)からガマのある南部って片道移動に半日かかるぞ…。
で、石川家の嫁、なんで実家にいんの?ここんとこ娘の姿がねえな、どこにやった?海に沈めたのか?子役のスケジュール押さえられないなら、子供出すなよ。
そもそも博夫は実家から出てアパートで暮らしてんだから、そこに合流すればいいだけなのに良子が実家にいる理由はなんだ?実家に入れば育児は歌子に丸投げできるからだろう?「この子の母親は私しかいない!」とか言ってたのは無かったことになったんだな。
だいたいそもそも、ウークイは毎年巡ってくるだろ?子供時代のお父ちゃん死んだ初盆で子供に教える体でお作法とかやって、お父ちゃんとお母ちゃんの話をちょっとして「幸せになりなさいね」ってやればよかったやんけ。そしたら視聴者もウークイの勉強になり、ストーリーもなんぼか見られるかたちに積み上がったのに。30近い兄弟が雁首揃えて、はじめてのウークイの体ではじめてお母ちゃんの昔話聞いてる体が不自然すぎる…気持ち悪…。
昔話パートでも、親戚探しにいくと言って、親戚の一人でもあるオーナーに親戚の消息を報告するでもなしにいきなり結婚して山原に住むと事後報告とか、お父ちゃんも大概だな。
そして沖縄戦の悲劇は合計30分未満の語りで終わって、ノブコとクズピコのラブシーンの踏み台にされただけだった。は?きも。海と三浦大和の歌で誤魔化しきれると思ってんのか?八百屋のあんちゃんはもう退場なのか?オーナーの、メイレイハゼッタイって要らんだろ。きも。
ただ、昔語りの2日間はノブコが「マサカヤー」「アリエン」と金切り声あげなかったから耳に優しかった。それだけは評価する。どうせなら顔映すのもなくてよかったかな。あの人声が良くねえ。あの子供っぽい喋り方はそういう演出なのか?厨房では髪を結べ、汚えな。
本土復帰50周年作品と銘打ってしまったから沖縄を使ったけど、沖縄の文化を描くでもなく、本土復帰前後のもろもろの社会運動や復帰後の混乱を描くでもなく、ただ顔の濃い方言女子におっさんの考えるカワイイムーブさせたかっただけじゃねーか感。
料理とか取ってつけた感しかないし、イタリア料理について調べもしてない。食材ぶちまけるとか焦がすとかいう寒いギャグの連発を見るに、製作陣は、食事はエネルギー補給のエサとしか思ってないんじゃないか。鶴見の居酒屋に下宿して、自転車10分の横浜寄りの小綺麗な洋食屋で修行でよかったじゃないか。
そして1970年代80年代前半の新聞記者様(エリート)は当時の鶴見なんぞには絶対に住まないので、クズピコとノブコが同じ下宿=やりまくりですね!になるんだよ。あーあ下半身の相性が良すぎてステータスと金を持ってくるはずの婚約者切っちゃった、とな。
放送開始前に思い描いたのは、沖縄を舞台にして綺麗な海や山原のモリモリの森やギンギンの太陽を背景に、地元食材を使って、戦争の傷を抱えた人々とともに食のアメリカ化に抗う沖縄料理食堂を切り盛りする物語だったのに…。なんでこんな…。
いや冗談抜きでさ。
まさかと思うところにカルトがするりと潜り込むとはよく言われるけど、はてなーがその例外か?って言われたら否定できないわけじゃん?
ほら、おそらく今まさに一部のはてなーが「○○派はカルト教みたいなもんだしな」とイデオロギーへ固執して極端な思考へ走ってるだろ。
それだよそれ。陰謀論者の思考だよそれ。
安倍ぴょんの横死がセンセーショナルだったからこそ、少なくとも宗教が関わっていること、アベガーが更にそれを加速させていた懸念があること、日本の政党は共産党すら宗教と関わりがあること。
正直、情報量が多すぎて思考をシンプルにまとめようとした結果に「わかりやすい結論」へ至ってしまうのも理解できる人は多いのではないかと思う。
例えば「宗教のすべてがわるいわけではないのだ、だから○○はシロ」と結論付けるのは非常に簡単なのだけれど「いや違うだろ?本来は政治と同様に市民が地域の宗教を監視しなければならないはず。古来より宗教は権威なのだから」と返されたら後者のほうが正しいと判定できるはずだ
ただしこれには個人個人へ大きなコストが掛かりやすく、それもまた多くの人が自身へコストがかかると判定できる教養があるからこそ「実行しやすい結論」へ至ってしまいがちなんだよ。
そう我々は「わかりやすく実行しやすい結論」に至ってしまいがちなのだ。
そしてそれは陰謀論へ非常に親しい思考であるのもまた事実なのだ。
それは反自民であれ反共であれ反カルトであれ反DSであれ何だってそうなのだ。
間違い。
なんか、真に受けてる人が多いみたいなのでちゃんと書いておくけども。一部ブクマが指摘しているとおり、「公共の福祉」を人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であると解する立場は「一元的内在制約説」と呼ばれ、昭和30年代からわりと長らく憲法学の主流な学説とされてきた。
けれど、机上の空論に過ぎないことが既に広く知られている。
みんな大好き長谷部教授の「新法学ライブラリー2 憲法」(新世社。当増田の底本は第4版(2008年))から持ってきてみよう。
もっとも,一元的内在制約説については,より根底的な点で,その妥当性に疑問を呈することもできる。
第一に,人権を制約する根拠となるのは,かならず他の人権でなければならないとの前提は,「人権」という概念をよほど拡張的な意味で用いない限り理解が困難である。たとえば表現の自由を規制する根拠として持ち出される街の美観や静穏,性道徳の維持,電波の混信の防止などは,いずれも個々人の権利には還元されえないものであり,社会全体の利益(公共の福祉)としてしか観念しえない。一元的内在制約説のよって立つ前提は,政府がかならずしも個々人の権利には還元し得ない社会全体の利益としての公共の福祉の実現を任務としているという明白な事実をあいまいにするばかりでなく,現にある人権が制約されている以上,その制約根拠となっているのも人権であるという誤った思考を導く危険がある。
元増田は、一元的内在制約説という古い欠陥理論に依拠している点で誤っているのみならず、一元的内在制約説の解釈適用においてすら、「『人権』という概念をよほど拡張的な意味で用い」る必要があるにもかかわらず、表現の自由の対抗利益に置きうる「人権」を限定的にすることで「公共の福祉」概念を過小に設定している。
一元的内在制約説は1955年に登場した古い学説で、かつては一世を風靡したが、今じゃ(というか十数年前には既に)芦部憲法に高橋教授が個人の人権の間に損する矛盾の衝突の調整と、自由国家にとって最小限の任務とされる社会秩序の維持と危険の防止である
という定義を付記せざるを得なくなっている。すなわち、現代ではもはや維持されていない学説だ。
そもそも元増田自身が「最低限の性道徳」による制約を引っ張ってきた時点で気付かなかったのだろうか。
そして増田の論はその後、創作物規制・広告規制を行うとするならば、それは当然に『表現の自由』に対抗できるだけの権利・利益が無いといけない。
という独自の見解を開陳し、それを武器に、対抗利益の要保護性をお気持ちで断じてバッサバッサと巻藁切りを始める。
まぁこれは、一元的内在制約説の広く共有された欠陥である「制約の可否を判断する具体的な基準が導かれない」という弱点の犠牲になったものとみることもできるが、それにしても、トラバで指摘されている屋外広告物規制条例のように「そうはいっても結構規制されてるよな?」と気付かなかったのだろうか。今じゃ常識の三段階審査とまでは言わないまでも(交通事故が業務上過失致死だと書いているくらいだから、法律を学んだのは何十年も前のことなのだろう)、古来より伝わる二重の基準くらいは持ってきて欲しかったものである。
「女性だけの街」の元ネタと「優しさ」資源の話
https://note.com/aozora_aoina/n/n9a98e5d8df24
ブコメにも散見するけど「現代では腕力を伴わない機械がある」論が見えてないのは「その機械は男性が使用することを想定している」んだよ。
ホントに機械がある論者はマジで何もわかってなくて、例えば街インフラを整備するのに必ず出てくる機械である「パイルバンカー」の重量が一体いくらくらいなのかググってすら居ないだろう。
パイルバンカーは質量と加速度を用いてコンクリートやアスファルト、岩石などを砕くという性質上から機械自体の重量はある程度担保されておくべき機械であり、一般的な女性が扱える重量まで落とし込めばパイルバンカーとしての機能性能は実現しにくくなるのは明白。
パイルバンカーの問題を何らかのカタチで解決したとしよう。
じゃあ次は砕いたコンクリートやアスファルト、岩石を運搬するために登場するのは一輪車(ネコ車)だ。
一輪車はその性質上、重心が高くなるので意外なほどバランスが悪く、運搬するにはかなりの腕力が必要になってくる。
男性であれば腕力と体重の重さから何とかバランスを取っていられるが女性であれば非常にキツイ仕事になるのは想像に難しくない。
一輪車も機械化すりゃ何とかなるって? その機械化新型一輪車は一体いくらするんだ?
男性は古来より労働の基準としての地位が(半ば強制的に)与えられており、古からの経験則で男性へ最適化されたコストの面で効率的な道具を扱え、女性が担当するよりも低コストに道路工事を行えてしまうんだよ。
女性が作る道路は現状だと男性が作る道路よりも高コストになる。ここから目を反らしてはいけない。
さぁ社会へ目を向けよう。
労働環境・道具・時間etc...世の中には様々な労働があるけれども、アナタの知っている労働の中に「男性が基準として設定されている」要素はいくつもあるはずだ。
その要素から目を反らし、女性のみの街を作ろうなど笑止千万、無謀無策無責任と言って過言じゃない。
良いか?よく聞け!
女性が女性だけの街を作ろうと訴える前に女性が先ず訴えなければならないことは労働のジェンダーレス化だ!
女性は社会へこれまで半ば強制的に男性の心身を労働の基準として置いてきてしまったことを認め、社会全体へ存在するあらゆる労働環境・道具・時間をジェンダーレス化せよと訴えなければ女性だけの街など作れないんだ。
男性の心身を基準としたパイルバンカーではなく性別によらないパイルバンカーを作れと社会へ訴えなければならない!今のパイルバンカーは女に扱えないからと訴えなければならない!
今の一輪車は女に扱えないからと訴えなければならない!
インパクトドライバーも重い、ゲンノウも重い、ワイヤーコイルも重い、作業ベルトも重い、大型特殊自動車の座席までは高すぎ、小型船舶の原動機のグリップは短すぎ、電柱は風が吹き荒れ、金属鋳造工場は熱く、工事警備員は通行車両に轢かれそうで危ない!
女だけの街なんて無理だと言われカッとするんではなく、男性基準の労働に怒りを示せよ!それが女だけの街作りに繋がるんじゃねーか!!!
男の仕事を楽に容易に軽くすることが女だけの街作りへの道であることから目を反らすんじゃねーよ!!!
わかってねーなマジで!!!!!
心身能力の高い女性へ心身に高負荷な仕事を任せれば良いという主張は「男性は女性よりも平均的に屈強だから心身に高負荷な仕事を半ば強制的に負わせる」のと何も変わらないじゃないか!
これこそがジェンダーバイアスの正体なんだよ!お前らのそういう素朴さにバイアスが掛かっていることを自覚しろよ!!!
まさにジェンダーロールの追認であり、男性基準の労働の容認であり、女の子だから文系大を半ば強要することであり、運動部だからブルーカラーを半ば強要することであり、その素朴さは女性が働きにくい社会にしている根本的原因だとハッと気付いてくれよ!!!!!
はてなーですらバイアスの掛かった素朴な認識が散見する現状をしっかりと認識してくれ!!!!!
結論から始めるとガンプラユーザーは転売屋に完全敗北したのだ。
市場もユーザーモラルも転売屋の手によって崩壊させられてしまった。
ここまで転売屋に屈した界隈は他を見ても無いのではないかというレベルで敗北している。
しかしそうなった原因は紛れもなくガンプラユーザーであり、転売屋を倒すと意気込んだつもりが自ら首を絞めた上での壮絶な自爆であったのだ。
「HGUCガンダムトリスタンを転売屋に押し付ける事に成功してアイツらが損をした。」
転売屋が気に入らないから損をして欲しい。という願望から事実確認が行われないままこの情報の独り歩きが始まったのである。
古来よりガンダムファンの間では気に入らない作品を叩く為に根拠の無い曖昧な内容、事実や状況を意図的に捻じ曲げた悪意をさも事実である様に広める癖があり、後者についてはキラ・ヤマトの「やめてよね」発言に纏わる評価が好例だがここでは割愛する。
実際にはその噂が広まった以降も転売屋はガンプラから全く手を引かず、RG Hi-νガンダムや人気機体の再販キット等が次々と餌食となり続けた為、これは結局嘘でしかなかった。
しかし「転売屋は無知であり、何も知らないだろう」という先入観から生まれ、捻じ曲げられた「トリスタンで転売屋が損をした」という噂を信じきってしまったガンプラユーザーの中ではある考えが浮かび始めたのだ。
「転売屋に要らないキットを無理矢理押し付ければ転売屋は倒せるに違いない」
「そういう事を言っておけば周囲からチヤホヤされて承認欲求を満たせる」
その結果、ガンプラユーザー達は他の界隈で見られる「転売屋からは決して買わない」という注意喚起よりも「転売屋にトリスタンなどのキットを押し付ける」というネタを擦り続ける事を優先し出してしまったのである。
これによりガンプラユーザーは転売屋からは「こちらを妨害しようとはせず、ただ効果の無い大喜利を本当に効果のある物と信じて擦り続けるだけのチョロい連中」という烙印が押される事となる。
━発展、仲間割れ━
しかし転売屋とてやはり自分達へのヘイトはなるべく逸らしたい物である。
そこで実は転売屋側では密かにある戦法が実施されていたのである。
「他のバンダイキットをトリスタンの様に扱う動きを助長させよう」
トリスタンで承認欲求を満たす事と転売屋にダメージを与えてるという妄想に取り憑かれたガンプラユーザーは他の自分達が気に入らないキットでも同じ事を既に始めたのだ。
それに着目した転売屋側ではユーザー側を装い、SNSや匿名掲示板でそういったネタを流す、そういう発言をしているユーザーを持ち上げる、といった行動を開始。
実際に私もそういった行為に加担させてもらったが結果は…
面白いくらい引っかかった
SDWヒーローズ、ガールガンレディ、境界戦機への擦り付けは見事なまでに成功した。
特にSDWヒーローズは中国バンダイの工場で生産されており静岡工場の生産ラインに影響を与えていないにも関わらず叩き始める人が多く、「ガンプラの事を何も知らないだろう」というのは"転売屋ではなくガンプラユーザーの方だった"というのがよく分かる一例だった。
こうして転売屋を騙すつもりが実は転売屋達に騙されてるという状況がここに完成したのである。
そして更にガンプラユーザー達は助長しトリスタン大喜利を擦る事で承認欲求が満たせなくなってくると「俺の気に入らないキットを生産しているバンダイが悪い」「積みプラをしている奴らが悪い」等、なりふり構わず矛先を別の物に向け始めるようになる。
そしてそれに異議を申し立てた別のユーザーと対立し仲間割れを次第に始めるようになっていった。
ガンプラユーザー達が殴り合い宇宙をしている一方で転売屋はというとその間にガンプラを確保し、転売屋から購入する事に躊躇の無い人間から利益を得続けたのである。
ガンプラパトロールや再販情報で承認欲求を満たしたりYouTubeの再生数を稼ぐ動画の情報は非常に有用であり、実際確保出来たジオングにリシェッタ、コマンドクアンタなどはよく売れた。
ごちそうさまでした。
━崩壊、敗北━
さて「転売屋に対して効果的な事をしている筈なのにガンプラが買えない、転売屋が消えない」という事にイライラを募らせ続けたガンプラユーザーは次第にネットでも現実でも暴れトラブルを起こす様になる。
特にパニック状態に陥りどんな手段を使ってでもガンプラを買う事になりふり構わなくなる「パニおじ」が全国で大量発生し、
「効果のないトリスタン大喜利を信じきった馬鹿」「決め付けだけで無関係な物に八つ当たりする正義マン」「転売屋から買う事に躊躇がない養分」と合わせてガンプラユーザーのモラルはここに崩壊したのである。
例えガンプラの供給が安定し出したとしても、転売屋に破壊されてしまったユーザーモラルが戻る事は決してないだろう。
かつてここまで転売屋に敗北した界隈が存在しただろうか?あまりにもガンプラユーザーは弱すぎた。