はてなキーワード: 勝敗とは
交易の需要と供給が時間的にも場所的にも一致することは稀であり、現在当たり前のように行われている交易や交易に基づく経済制度のほとんどが存在し得ないほどであった。さらに、新しい家族の形成、死、犯罪、戦争の勝敗など、親族集団にとっての重大な出来事と需要と供給が3回も重なることは、もっとあり得ないことであった。後述するように、一族や個人は、これらのイベントの際にタイムリーに富を移転することで大きな利益を得ていた。このような富の移動は、消耗品や他の目的のために作られた道具よりも、より耐久性のある一般的な富の貯蔵庫の移動であれば、より無駄のないものであった。したがって、これらの制度で使用するための耐久性のある一般的な富の貯蔵に対する需要は、貿易そのものよりもさらに切実なものであった。さらに、結婚、相続、紛争解決、貢ぎ物などの制度は、部族間の交易よりも先に行われていた可能性があり、ほとんどの部族では交易よりも大きな富の移動が行われていた。このように、貿易よりもこれらの制度の方が、初期の原始的な貨幣の動機付けと育成に役立ったのである。
ほとんどの狩猟採集民の部族では、この富は、とんでもなく裕福な現代人には些細なものとしか思えないような形でもたらされていた。たとえば、木の道具、火打ち石や骨の道具や武器、紐につけられた貝殻、おそらく小屋、寒い地域では汚れた毛皮などのコレクションである。時にはそれらをすべて身につけていたこともあった。とはいえ、これらの雑多な品々は、我々にとっての不動産や株式、債券と同様に、狩猟採集民にとっての富であった。狩猟採集民にとって、生きていくためには道具や、時には防寒着も必要であった。その中には、飢えに備えたり、仲間を買ったり、戦争や敗戦の際に虐殺や飢えの代わりになるような、価値の高い収集品も多くあった。生き残るための資本を子孫に移すことができるのも、ホモ・サピエンス・サピエンスがそれまでの動物に対して持っていた利点である。さらに、熟練した部族や一族は、余った消耗品を耐久性のある財産(特に収集品)と交換することで、時折ではあるが生涯にわたって累積的に余剰の富を蓄積することができた。一時的な体力の優位性は、子孫のためのより永続的な体力の優位性に変換することができる。
考古学者からは見えない別の富の形として、役職名があった。多くの狩猟採集民の文化では、このような社会的地位は、有形の富よりも価値があった。例えば、一族のリーダー、戦争部隊のリーダー、狩猟部隊のリーダー、(近隣の一族や部族の特定の人物との)長期的な交易パートナーシップのメンバー、助産師、宗教的なヒーラーなどが挙げられる。収集品は富の象徴であるだけでなく、一族の責任ある特権的な地位の称号を表すニーモニックの役割も果たしていた。死後、秩序を維持するためには、そのような地位の継承者を迅速かつ明確に決定する必要があった。それが遅れれば悪質な争いを生むことになる。そのため、一般的な行事として、安置の宴が行われた。この宴では、故人を歓待するとともに、慣習や一族の決定権者、あるいは故人の遺言によって決定された有形・無形の財産が子孫に分配された。
マルセル・モースをはじめとする人類学者が指摘しているように、近代以前の文化では他の種類の無料贈与は非常に稀であった。一見すると無償の贈り物は、実は受け取る側に暗黙の義務を課していたのである。契約法が制定される以前は、この「贈り物」の暗黙の義務と、暗黙の義務が果たされなかった場合に続くコミュニティの不名誉や罰が、おそらく遅延交換における最も一般的な互恵の動機であり、今でも我々がお互いに行う様々な非公式の好意に共通している。相続やその他の親族利他主義は、現代人が「適切な贈与」と呼ぶもの、つまり受取人に義務を課さない贈与の唯一の形として広く行われていた。
初期の西洋の商人や宣教師は、原住民を子供のような原始人と見なし、貢ぎ物の支払いを「ギフト」、取引を「ギフト交換」と呼ぶことがあった。これは、大人の契約や納税の義務というよりも、西洋の子供たちのクリスマスや誕生日のプレゼント交換に似ているかのようである。これは、偏見によるものもあるが、当時の西洋では、義務は原住民が持っていない文字によって形式化されるのが普通だったという事実もある。そのため西洋人は、先住民が交換制度や権利、義務を表す豊富な言葉を「ギフト」と訳していたのである。17世紀にアメリカに入植したフランス人は、より多くのインディアン部族の中に薄く散らばっていたため、これらの部族に貢ぎ物をしていたことがよくあった。それを「贈与」と呼ぶことで、そのような必要性に迫られていない他のヨーロッパ人との面目を保ち、それを臆病だと感じていたのである。
モースや現代の人類学者は、残念ながらこの用語を使い続けている。未開の人間は子供のようなものだが、今では子供のように無邪気で、我々のような卑劣で冷酷な経済取引に身を投じることのない、道徳的に優れた生き物である。しかし、西洋では、特に取引に関する法律で使われる公式用語では、「贈与」とは義務を負わない譲渡のことを指す。現代の人類学者は、我々が現代的に使っている「ギフト」という言葉の中で一般的に言及している無料または非公式のギフトを全く意味していない。現代の人類学者は、現代の我々がよく使う「贈り物」という言葉の中で、自由で非公式な贈り物を指しているのではなく、むしろ、富の移転に関わる多種多様な権利と義務のシステムを指しているのである。先史時代の文化において、現代の「贈与」に似た唯一の主要な取引は、それ自体が広く認識された義務ではなく、受取人に何の義務も課されていないという点で、親や母方の親族が子供の世話をしたり、相続をしたりすることであった。(例外として、地位を相続すると、その地位の責任と特権が相続人に課せられることがあった。)
ある種の家宝の相続は、何世代にもわたって途切れることなく続くかもしれないが、それだけでは収集品の移動の閉ざされたループを形成することはできない。家宝は最終的に何かに使われて初めて価値を持つ。家宝は、しばしば一族間の結婚取引に使われ、収集品の閉ループサイクルを形成していた。
収集品によって可能になった小さな閉ループ取引ネットワークの初期の重要な例は、霊長類に比べて人間が子孫を育てるために行う投資がはるかに大きいことと、それに関連する人間の結婚制度に関するものである。一族の間で取り決められた交配と子育てのための長期的な組み合わせと、富の移転を組み合わせた結婚は、人類の普遍的なものであり、おそらく最初のホモ・サピエンス・サピエンスにまでさかのぼることができる。
親の投資は長期的で、ほとんど一回限りのものであり、繰り返し交流する時間はない。怠慢な父親や浮気をした妻との離婚は、浮気をされた側にとっては、遺伝的適性の観点から、数年分の時間を無駄にすることになるのが普通である。子供への忠誠と献身は、主に義理の家族、つまり一族によって強制された。結婚は一族間の契約であり、その中には通常、このような貞節と献身の約束に加えて、富の移転も含まれていた。
男性と女性が結婚生活にもたらす貢献度が同じであることはほとんどない。結婚相手の選択が氏族によって大きく左右され、氏族のリーダーが選ぶことのできる人口が非常に少なかった時代には、なおさらそうであった。最も一般的には、女性の方が価値があると考えられ、花婿の一族は花嫁の一族に花嫁代金を支払いた。それに比べて非常に珍しいのが、花嫁の一族が新しいカップルに支払う「持参金」である。これは主に中世ヨーロッパやインドの一夫一婦制でありながら格差の大きい社会の上流階級で行われていたもので、最終的には上流階級の娘よりも上流階級の息子の方が繁殖能力がはるかに高いことが動機となっていた。文学は主に上流階級について書かれていたので、ヨーロッパの伝統的な物語では持参金がよく登場する。これは、人類の文化圏における持参金の実際の頻度を反映したものではなく、非常に稀なものであった。
一族間の結婚は、収集品の閉ざされたサイクルを形成する可能性がある。実際、2つの氏族がパートナーを交換しても、花嫁が交互に来る傾向がある限り、閉ループを維持するのに十分である。一方の氏族が他の種類の譲渡によって収集品がより豊かになった場合、その氏族はより多くの息子をより良い花嫁と結婚させるか(一夫一婦制社会の場合)、より多くの花嫁と結婚させるか(多夫一婦制社会の場合)する。結婚だけのループでは、原始的な貨幣は、生殖資源の偏った移転の間に長い期間にわたって一族間の記憶と信頼を必要とすることを置き換える役割を果たすだけである。
相続、訴訟、貢ぎ物のように、結婚にはイベント(この場合は結婚)と需要と供給の3つの一致が必要である。譲渡可能で耐久性のある価値の蓄えがなければ、新郎の一族が新婦の一族の現在の欲求を、新郎新婦間の価値のミスマッチを埋め合わせるのに十分な大きさで、しかも政治的・恋愛的な制約を満足させることができるかどうかは、かなり微妙なところであった。一つの解決策は、新郎またはその一族から新婦の一族への継続的な奉仕の義務を課すことである。これは既知の文化の約15%で行われている。それよりもはるかに多い67%の文化では、新郎または新郎の一族が新婦の一族にかなりの額の富を支払う。この花嫁代金の一部は、結婚の祝宴のために収穫された植物や屠殺された動物など、すぐに使える消費物で支払われる。牧畜社会や農業社会では、花嫁の対価の多くは長期的な富である家畜で支払われる。残りの部分、つまり家畜を持たない文化では通常、最も価値のある部分は、最も希少で高価で耐久性のあるペンダントや指輪などの家宝で支払われる。花婿が花嫁に指輪を贈り、求婚者が乙女に他の種類の宝石を贈るという西洋の習慣は、かつては実質的な富の移転であり、他の多くの文化で一般的であった。約23%の文化(主に現代の文化)では、実質的な富の交換はない。約6%の文化では、新郎新婦の一族間で実質的な富の相互交換が行われている。花嫁の一族が新婚カップルに持参金を支払う文化は約2%しかない。
残念なことに、一部の富の移転は、相続財産の贈与のような利他主義や結婚の喜びとは程遠いものであった。貢ぎ物の場合は全く逆である。
ガウガメラの戦いは、紀元前331年ヨーロッパ東方のペルシアにおいて、当時のアケメネス朝ペルシャの本軍と、アレクサンドロス率いるマケドニア軍が激突した戦いである。
これまで取り上げている二つの戦いから分かるように、戦争芸術の定義は「圧倒的な戦力差、戦略的不利を、指揮官の機転によって打破する」ことにある。このガウガメラの戦いはそのような意味合いで、戦争芸術の極致と言える。
当時ギリシャの一小国に過ぎなかったマケドニアは、アレクサンドロスの父であるフィリッポス二世の尽力によって急速な軍事・政治改革を遂げ、瞬く間にギリシャ全土を手中に収めると、フィリッポス二世の死後マケドニアの実権を握ったアレクサンドロスの指揮下、紀元前334年ボスポラス海峡から小アジアへと渡り、東の大国アケメネス朝ペルシャに対し征服戦争を仕掛けた。これが世に名高い東方遠征である。
その後十年の長きに渡って続いた戦いは、アレクサンドロスが企図した、アレクサンドロスによる、アレクサンドロスのための戦いであった。
アレクサンドロスは紛れもない西方世界の英雄であり、破壊者であった。当時アレクサンドロスが破壊し、虐殺・略奪を行った都市は数多に渡って存在している。
アレクサンドロスの猛進を前に、時のペルシア王ダレイオス三世はペルシア西岸のイッソスにて、王自ら率いる五万以上の軍勢をもって決戦を挑み、敗北した。数的優勢に立ったペルシア軍は川を挟んでマケドニア軍に対峙し、防衛を試みるが、果敢にも渡河を遂げたアレクサンドロスを前に有効な機動戦法が取れず、壊走したのである。ダレイオス三世自身が率いるペルシア本軍敗北の衝撃は余りあるものであり、敗戦の後、ダレイオス三世は堪らずアレクサンドロスへと講和を願い出ているものの、アレクサンドロスはこれを一蹴している。
それから二年、ダレイオス三世はアレクサンドロス本隊を壊滅させるべくイッソスの戦いを上回る規模の軍勢を招集し、ガウガメラの荒野にてアレクサンドロス軍を迎え撃とうとしたのであった。これがガウガメラの戦いである。
この一戦のためにダレイオス三世はありとあらゆる準備を重ねた。
第一に、(当然のことながら)数的優位を築くこと。マケドニア軍五万弱に対して、この時ダレイオス三世の招集した軍勢は傭兵を含む十万以上であり、つまりアレクサンドロス軍の二倍以上に当たった。この規模の軍隊は当時の兵站で維持可能な最大レベルの軍隊と言え、当時におけるペルシア軍の威信の程が推し量られる。
また、彼らの戦いの数百年の後に行われたカンナエの戦いにおいて、勝敗を分けたのは騎兵戦力の優劣(とハンニバルの用兵)であったことは先述の通りであるが、マケドニア騎兵七千に対してペルシア軍騎兵の数は一万を超えており、質はともかくとして量においてはペルシア軍はマケドニア軍を圧倒していた。ここにおいても油断は無かった。
更にダレイオス三世は当時最新鋭の兵器の一つであった戦車(チャリオット)を陣中に大量に配置した。これは複数の軍馬によって牽かれる戦闘用の馬車のようなもので、車輪の左右には鋭利な刃物が取り付けられると共に、車上には弓兵が配置されており、通常の歩兵戦闘において絶大な威力を発揮する筈であった。ダレイオス三世はこのチャリオットの突進力によってマケドニア軍を圧倒しようとしたのである。
また、ペルシア軍は戦場の整備をも欠かさなかった。チャリオットの機動を阻害する石や木の根などの障害物を、決戦の事前に排除しておき、イッソスの戦い(ペルシア軍は閉所にて有効な機動ができず壊滅した)で舐めた辛酸を繰り返すまいとしたのである。
相手に倍する軍隊、奥の手としての秘密兵器、駄目押しにその秘密兵器の機動を有利にする戦場整備、限りなく万端に近い準備の上で、ダレイオス三世は決戦の時を待った。
紀元前331年10月1日、ペルシア軍とマケドニア軍の双方はガウガメラの地にて対峙し、戦闘を開始する。
この時、マケドニア軍の司令官であるアレクサンドロスの立てた作戦はシンプルなものだった。それは、緒戦から防衛に徹し、敵の隙を見て騎兵を突撃させ、敵の本陣を陥れるというものであった。
言うは易しだが、何しろマケドニア軍とペルシア軍の数的差は一対二であり、言い換えれば、敵軍には五万以上の余力があった。そんな状況で、本来であれば隙など生まれる筈はなかったのである。
開戦直後、アレクサンドロスは全軍を緩やかに右斜め前方へと斜行させる。本来であれば軍隊の斜行は自陣に綻びを生む可能性の多い行動であり、採用されることはまず無かったものの、アレクサンドロスは自軍の機動に合わせてペルシア軍の不用意な機動を誘った。案の定、折角整備した戦場から離脱されることを恐れたダレイオスは、三方(正面、右左翼)から雲霞のごとき兵数を動員し、マケドニア軍を包囲しに掛かった。
その大軍の王道とも言うべき用兵に対抗するべく、アレクサンドロスは自軍を純粋な横列ではなく、左翼と右翼を折り曲げた弓状に変形させており、この鉤状になった右翼と左翼を持ってペルシア軍の猛攻を受け止めようとした。
しかし兵数の差が決定的であったことから、持久戦となればマケドニア軍の敗北は自明であった。左右のいずれかを突破され、後方にペルシア軍の進撃を許した時点で、マケドニア軍の崩壊は決定づけられる。更には、マケドニア軍正面にはペルシア軍の虎の子であるチャリオット隊の猛攻が迫っていた。
とは言え結論から言えば、このチャリオット隊の猛攻をマケドニア軍は退ける。
曰く、マケドニア軍は軍馬というものの持つ本能――顔面に鋭利な物体(槍など)を突き付けられると足を停めてしまう本能や、チャリオット特有の旋回能力の低さを突いたと言われている。つまり、チャリオットの突撃を部隊の散開によって躱し、その後方から弓などの武装によって攻撃を仕掛けたのである。恐らくは事前の情報やこれまでの戦闘から、マケドニア軍は対チャリオット戦術を磨き上げており、どのような場面においても遅れを取ることはなかったのであろう。
これらの柔軟な対応によって、マケドニア軍に対する有効な戦果を挙げることのできないままチャリオット隊は壊滅することとなる。
さらには、マケドニア軍両翼はその圧倒的な数差にも関わらず極めて堅陣であり、容易に抜かれることは無かった。強いて言うならば、アレクサンドロス本人が率いる右翼騎兵に比べ、左翼を指揮するパルメニオン将軍は劣勢を訴えていたものの、それでもペルシア軍の猛攻をひたすら受け止め続けていた。
ダレイオス三世の予想に反し、戦況は膠着状態に陥る。ダレイオス三世は本来であれば本陣の防衛に充てるはずであった予備兵力の騎兵を動員し、マケドニア軍両翼の騎兵に対する圧迫を増大させようとした。短期決戦によってマケドニア軍を壊滅させようとしたのである。
この決戦から二千年以上もの時が流れた後では詮無い事だが、この時ペルシア軍が持久戦に徹し、その両翼での戦闘を維持し続けていれば、ガウガメラの戦いにおける帰趨は逆になっていたかもしれない。
アレクサンドロスは超人的な直感によりペルシア軍の崩壊を予知した。右翼の防衛に当たっていた自ら率いる騎馬隊を突如ペルシア軍正面へと転換させ、両翼へと予備兵力を割いたために手薄になっている、ペルシア軍本陣のダレイオス三世を狙ったのである。当時、マケドニアの率いる騎兵部隊、いわゆるヘタイロイ騎兵は世界においても有数の練度を誇っており、その突進力は歩兵にとって純粋な脅威であった。ヘタイロイ騎兵の突進により、ペルシア本陣のダレイオス三世の位置を告げる軍旗が大きく揺れる。ペルシア軍を支える精鋭である親衛隊は敢然とその侵攻を阻もうとするが、アレクサンドロスの猛進は止まることはなかった。
やがて、ダレイオス三世の本陣の上に翻る軍旗は逃走を始め、アレクサンドロスはその追撃へと移った。ガウガメラの戦いの勝敗はここに決したのである。
参考文献:ttps://www.youtube.com/channel/UC5dzkTCM0Jxnc5widb8arDw
いざオリンピックが開幕したとき、周りの人たちが沢山観ていた。インターネットではアレだけ批判する人間が多かったにも関わらず、だ。
結局、インターネットで声がでかいのは少数派であり、サイレントマジョリティと呼ばれる多数派の人たちこそが現実なのだなと思った。
最たる例だが、スケボー女子の爽やかさを観て泣きそうになってしまった。
今のインターネットというよどみきった世界では絶対観れないものを、オリンピックを通して感じ取ることができた。
オリンピックという舞台だからかは分からないが、どの競技も楽しく見れた。
特に負けた選手が悔しくて泣いてしまうところは、ぐっときた。皆努力しているのだ。
柔道で多かったのだが、インタビューの人が「気持ちで勝ちましたね」みたいな、「気持ちで」を連呼してたのは気持ち悪かった。
気持ちで勝敗が決まるのなら、負けた方の気持ちは~というワートリのくだりを思い出す。もっと具体的に言え。
KICK THE CAN CREWってグループを1990年代後半から2000年代前半にかけて組んでいて
2002年には紅白にも出ているので知っている人もいるかと思う。
KREVAは元々MCバトルに出ていて、当時MCバトルの最高峰だった「B-BOY PARK」で1999年から2001年にかけて史上初の3連覇を達成している。その後、殿堂入り。
今でもいくつかの当時の闇映像をYoutubeで見ることができるが、はっきり言ってレベルは低い。
現在現役でやっているラッパーからも当時のKREVAなら負けるわけないと言われるくらいにはレベルが低い。
だが今から20年前はまだまだ「フリースタイル」、その中でも「トップオブザヘッド(完全即興)」で長い韻を踏める、ということ自体がほとんど特殊能力だった時代だった。KREVAは相手が言ったことを受け取って韻を踏むという対話が強く、慶應義塾大学入学までのお勉強で培った豊富な語彙で意外性のある韻を踏んだ。
ここでちょっと余談なのだけど、最近ではフリースタイルバトルなんて言われているけど、元々フリースタイルは「音源で発表していないトラック(演奏)とリリック(歌詞)の組み合わせで演る」ことを指す。アメリカでフリースタイルが生まれた当時は音源発表したリリックを別のDJが作ったトラックにいかにうまく乗せるかで勝敗を競っていた。
そしてKREVAの対話式の押韻(ライミング)重視のバトルスタイルに対するアンチテーゼとして、歌いまわし(フロウ)重視のスタイルや迫力(パッション)重視のスタイルなど様々なスタイルが生まれ、ぶつかり統合し分裂していく過程で、KREVAは『最先端』から『基準』、最低限のスタートラインになった。
だから当時のKREVAのバトルが今見るとどれだけショボくても多くのMCはKREVAに対してリスペクトを払っている。KREVAが対話式押韻主義で怒涛の三連覇を果たしたからこそ、MCバトルの進化のスピードは飛躍的に上がったといって間違いない。
若い「今」しか見てない子にはわからない積み重ねというものがあるのだ。
じゃあ今のKREVAがMCバトルをやったらどうなのかというと中々難しい。
KREVAは今でも精力的に作品をリリースし続けており、デカい箱でライブもバンバンやるバチバチの現役ラッパーだ。作品内では相変わらずクソカッコいい韻をバンバン踏んでいるし、最近は控えめだけどオシャレに喧嘩を売るテクニックも持ち合わせている。
今から本気でMCバトルをやると決めて数か月練習してきたら、とわからないんじゃないか……
王貞治も今の練習理論と道具を最初から持って生まれてきたなら今でもHR王を獲れると言ったとか言わないとかいう話もあるし、こういうもしも話はいつになってもわくわくさせてくれるものだ。
アスリートへの誹謗中傷、モラルだけでは止められない オリンピックの勝敗の鍵を握るかもしれないSNS対策
池谷幸雄、アスリートへの誹謗中傷に持論「関わっている人はみんな必死」
松本人志、アスリートへのSNSでの誹謗中傷問題で「一番、タチ悪いのはウソ書くヤツ」
「クズ」「インチキ野郎」「日本から出ていけ」 “誹謗中傷”をぶつけられたアスリートへ「気にしないようにすればいい」という無責任さ
自分を負かした相手が男か女かで態度を変える、ってなんだか性差別的だ。
男だといわゆる勝負の負けとして普通に不快だが、女だと真剣な勝敗にはカウントせずに性的興奮する「負ける」になるわけでしょう?
もしミソジニーなら、真剣な領域での負け、例えば… 人気ブコメで女性に「あなたのマゾ論は間違いです」って指摘された挙句に自ブログで解りやすく高度に論破されたら、ブチギレてしまうと思うけど、どうだろう?
いや、まあ、ミソジニーだとしても別に誰かに迷惑を掛けたわけじゃないのでいいか。
いきなり失礼した。
性癖の成立に自分の経験を持って踏み込んだ説明をするのは、増田らしい、よい切り口だと思う。面白い。
性癖としては寝取られた相手が実は女性だった、ってわかるケースはどう? 論に従うと、わかった時点で興奮してくるのか。それとも負けの自覚シーンで目の前に女性がいる必要がある?
M男増田に合意が多いところを見ると、この仮説は広く当たってるのかもしれない。
だとすると逆に、 NTR がどうやって醸成されるのかも気になる。男に負けた経験から男への負けがクセになる、って話になるんだろうか。ホモセクシャルではなくても、経験から性的に男に興奮するようになる? ううーむ。
ニューヨークからフロリダへとヒッチハイクの旅はトラックを経由した。光り輝くフロリダオレンジの太陽が私の帽子を貫く。木漏れ日に目を細めるとトラック運転手は荷台へ向かって大声を張り上げた。
「おまえさん、こんななにもない場所へどうしたんだい!」
私のうまく起こせない上体はトラックの端にある紐で結ばれている。少し前運転手はバスケットコートのカメラから見るボールみたいに目を大きくした。私の身体は動かず、車椅子に支えられていたからだ。あんたそんなのでどうして遠出しようってんだ、と運転手は感嘆の声を上げた。それが二時間ほど前のことだ。
私は運転手に家族の集会があることを伝え、その用事がバーベキューであることを教えた。それからフロリダ州の看板が見えたので、コントラストを強く投射する景色を風に流しながら、私の名前を伝える。そうかい、メグっていうのかい、と運転手は陽気に答えた。林立するビルを縫って突き抜ける青が歯科医に飛び込んでくる。フロリダはオレンジの国じゃない。避暑地だ。だからバーベキューには都合がいいのだ。多分そうだし、そういうことにしよう。うちの家族に振り回されたことは忘れて。<溶け出しそうな>夏の頃が思い出されたとしても。そういえばあの日もこんな風に感想した風が髪の毛をさらっていったものだ。サングラスが反射する光のその先に目的地があった。
◆
「どうしてそんな事を言うの」
電話の向こう側でケンがなにかの言い訳をしている。言い訳の仕方はまるで父そっくりだ。もうそんなところばかりだ。わたしときたらそんなケンに向かっていつもは冷静なのだけど、彼が父のように逃げ続けるさまを見ていると、どうしても声を張り上げてしまう。ケンはそんな時に決まって「メグはママにそっくりだよ」と吐き捨てるようにいう。全く美味しくないチリソースをアスファルトにぶちまけるようにだ。理由はこうだ。本当はここで開催される予定だったバーベキュー大会が、父の会社の都合で大きな話になり、他企業を巻き込んだバーベキュー大会に発展したらしい。それも開催地は何故か日本。私はケンに、肉よりも寿司の日本でなぜバーベキューなのかと問い詰めたが、頭に血が上っているのかケンは日本だって神戸牛があるし、開催地としてアメリカとは違った面白さが出せるんだといい始めた。違う、そういうことじゃない。少なくとも久しぶりの家族のバーベキューが行われ、とってもプライベートなものだって聞いていたのに、どうしてそれがお父さんの会社と関わっているのか聴きたいのだ。しかしケンはこれは日本と米国の絆を結ぶためのものなのだ、と主張してやまない。ALS-CoVζ+が未だ収まっていない時期になぜそんなに話を大きくしてしまうのだろうか。そんなことはどうだっていい。それよりも、家族の一致団結できる機会が失われた事実が私にとってショックだった。素晴らしい日差しの下でトロピカルフルーツソーダの飲みながら、サンオイルで日焼けをしている人達もいるのに。
◆
「やあケン。今回は会社から大会の趣旨が発表されてね。ぜひ神戸牛とアンガス牛の対抗戦をという事になったんだ」
「それで、勝った方には?」
「純金製のメダルが贈呈されるだけだよ」
「だけ?」というケンの声がスマートフォンの不協和音とともに響いた。父のノキア製は日本ではマイナーだと聞かされて、その音質に少しだけ疑いを持ち始めたばかりだ。父はケンの懸念事項がバーベキューの開催予定地のことばかりだと思っていたが、どうやらそのノキアで聞く限りそうではないらしいことが理解された。ケンは明らかに家族の集会が壊されたことを怒っており、主催は誰だと問い詰めてきたのだ。父はやむなくドビュッシー会長という人物だと述べたが、俺はクラシックの名曲よりも古いラップが好きなんだと皮肉交じりに父の言葉を投げ捨てた。まるでそれじゃあ、ダディはまたしても「お山」の大将「だ」ろうとまでいう。ダディーはクールじゃないとまで言い放った。それは一体何のジョークだいというと、日本版の4chのセリフさ、と返すばかりだった。ゼータ株はあの頃の僕たちのキャンプを奪ったが、父は僕たちから家族の有り様を奪おうとしているのではないか、そんな懸念がケンの頭をもたげた。そのくせゼータ株は活発に人々を結びつけようとしていやがる。ニューヨークからメグを追いかけるケンはハンドルを回しながらそうつぶやいた。
◆
ケンがメグと合流して数時間後、隔離が完了して未感染者のみが利用できるビーチで突然人が溶けた。その液体は灰色と真っ黒な血をビーチに滴らせ、バーベキューの肉のようにビーチの砂を汚した。それとは関係なく海鳥は通り過ぎ、メグは声にならない声とともにジーザスという単語をピンク色のリップを塗った唇から漏らした。到着したばかりのケンは目の前で人々が弾けて溶けてゆくさまを見て、エボラか何かかと目を疑い、それが数年前に起こった悪夢の再来であることを知覚した。フロリダ州に緊急事態宣言が敷かれ、州知事は政府の圧力によって州ごと隔離されたことを発表した。通信網は途絶え、父との国際連絡も取れなくなったメグとケンは、暴徒鎮圧用のゴム弾を装備したSWATたちに誘導されて収容施設へと向かった。発電の電源はかろうじて発電機型のバッテリーとして供給され、被災地には水が運び込まれた。しかしそのどれもが決死の覚悟で運ばれてくるものであり、運転手は全身防護用の白い服を着て入念な消毒を経た後にフロリダへと入り、そして出てゆく際にも消毒を行わなければならなかった。ひとまずイントラネットとして暫定的に繋がれた外との通信によりニュースだけを見ることができた。
そうして避難所での生活が進む中、ウィルスで隔離された人々の間に奇妙な一体感が生まれようとしていた。それはヒステリックな怒りであったり、それを鎮めようとするものであったり、また話し合いによって解決しようとする者達や、殴り合ったあとで肩を組み合うレッドネックたちなどによってだ。彼等はお互いをファミリーと呼び合い、外にいる連中をウォーキング・デッドだと笑いとばした。正気が保てない人々は、普段忌み嫌っている低所得層のレッドネックたちの話をよく聞いた。富裕層たちは臨時の学校を開いて塾を作り、黒人たちは放課後と称して子どもたちにバスケットボールを教えた。そうして閉鎖空間は小さな社会になった。ケンもメグもよく話し合った。とりわけ、ゼータ株のことについてだ。彼等は先日の家族のことを思い出して悲憤慷慨し、やがてウィルスによって僕たちの絆が深また奇妙さと、ウィルスによって人々がばらばらになった悲劇を語り合った。
その頃からメグの夢枕には、なくなった叔父の姿が映るようになった。叔父は家族の異事で何かをいいかけていたが、そのたびに消えてしまう。そんな夜が繰り返された後のある朝、フロリダの海岸にある変化が起こった。その変化はイントラネットTVに映し出されると、やがて通信の全てが回復した。日本の企業ソフトバンクが提供する緊急ブロードバンド回線につながったメグたちのスマートフォンは、あるものものしい人物たちを映し出した。それは水陸両用車両のようにも見え、中から防護服をつけた人が降りてくるのが見えた。車両には見慣れない文字が書かれており、不意にケンがそれを見て叫んだ。まるでパーティーが始まったかのような喜びようだった。見なよ、あれは"セルフ・ディフェンス・フォース"だぜ! ケンの指差す画像の向こうにあったもの。それは自衛隊の揚陸艇であった。第十七小隊、フタマルマルこれより状況開始。という声とともに彼等は海岸に落ちた血や散らかった廃棄物、まるでタイフーンにやられた風に映るカビの生えた建築物を撤去し始めた。そんな作業が一週間もつづくと避難場所の衛星問題はすっかり快適になり、自衛隊の面々と記念写真すら取れるまでに改善した。ケンはその時彼等にどうして来たのが十七小隊なんだいと問いかけたが、ある隊員は、十七小隊は俺達のメダルみたいなもんさ。と笑って返すのみだった。ケンはそれを聞いて、じゃあ俺たちはあんたたちに助けられたから十六小隊でいいさ、と破顔した(筆者注:2021/08/01)。
◆
日本にいる無責任な父は流石に心配な顔をして息子たちを迎えた。ただし父は両名が無事であることを確認すると1、バーベキュー大会は玉石混交のパトルロワイヤルでありジャパニーズヤキニクとチンギスハーン、バーベキューの三つ巴の戦いだったと熱く語り始めた。勝敗の決し方があまりに不透明な競技だが、メグにとってそんな話はもはやどうでも良かった。怪しげなバーベ審査員のことにも興味がなかった。父がミヤゲに持って帰ったネギマをケンは頬張っていたが、メグはどうしたって騙されることはなかった。クールビューティーと目される荒川静香のイナバウアーが見たかったというわけの分からい答弁を無視して、メグは今回の隔離事件の顛末を事細かに語った。父はそんな事知ってるさと遮ろうとするが、メグは人差し指を父の唇に当てると子供を諭すように父と目を合わせた。彼女は、「それで今回の事件でとっても頼もしいステディな人ができたのよ。自衛隊員の人なの」、という。父は喋りかけていた口を閉じると、目を白黒させた。あのフロリダオレンジの目を見開いたトラック運転手のようにである。
しかしやはり父は普通の人間と少し違った。それなら早く紹介しなさい。次のバーベキュー大会があるんだ、と彼を巻き込もうとし始めたのだ。メグは両手を上げて首を横に振ると、やはりちょっと前の出来事を少しだけ回想しながらジーザス、と小声でつぶやいた。
ケンはそんな様子を見て、口の中のネギをすっかり胃袋の中に押し込めながら、こいつにケチャップをかけると日本人とも仲良くできるかもね、と一人で口角を上げた。ゼータ株が運んだ全ての問題は、まるでその性質のように全てを溶かして人々をつなぎ、父子は空港で呆れながら仲良く語り合った。避難所のメンバーのメール着信がなり響いてメグがその知らせに目配せする。
※別作者です。おしまい。
(オリンピック OR 五輪) (from:AbeShinzo)
「もしトルコが五輪を射止めることに成功すれば、私は世界で一番最初にお祝いを申し上げたい。しかし、もし日本が五輪を射止めることに成功したら、どうかエルドアン首相、世界で一番最初に祝っていただきたい。」と語りかけたトルコ。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) May 14, 2013
2泊6日で地球を一周する強行軍。今日から、各国首脳が集まるロシアのサンクトペテルブルグへ向かいます。続けて、オリンピック・パラリンピック招致の勝敗を決する地、ブエノスアイレスへ。東京招致を勝ち取るべく、最後まで全力を尽くします。
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 4, 2013
ロシアのサンクトペテルブルクから、2020年オリンピック招致決戦の地、アルゼンチンのブエノスアイレスへ。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 6, 2013
安倍晋三です。朝早くにすみません。ブエノスアイレスより速報です。つい先ほど、東京が2020年の五輪開催地に選ばれました!!本当にうれしい。 この心からの喜びを、皆さんとともに、分かち合いたいと思います。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 7, 2013
ブエノスアイレスでの東京オリンピック招致に向けた私のスピーチ動画です。 私の思いのたけを込めた、渾身のスピーチです。
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 11, 2013
「まだ7年もある」ではなく、「もう7年しかない」という気持ちで、しっかりと準備を進めていきたい。本日、2020年オリンピック・パラリンピック東京大会の準備のための推進室を立ち上げました。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) October 4, 2013
約束を守る旅。異例ではありますが、トルコに半年で2回目の訪問。2020年オリンピック開催が東京に決定した際には、イスタンブールをおしていたエルドアン首相は、約束を守って、真っ先に私に駆け寄り、祝福してくれました。次は、私が約束を...
安倍晋三 (@AbeShinzo) October 28, 2013
キャメロン英国首相と首脳会談を行い、日英の安全保障分野の協力強化、経済、オリンピックに向けての協力等について合意しました。今日の夜ギルドホールでスピーチします。
スーパービバホーム豊洲店前にて秋元司 @akimoto_tsukasa候補の応援演説会。東日本大震災のとき、いちはやく南相馬市に入りレポートを書き復興支援法の中味に反映させた秋元さん。東京オリンピックにむけ、若い行動力が必要です。
安倍晋三 (@AbeShinzo) December 7, 2014
2020年東京オリンピック・パラリンピックの会場となる新国立競技場の姿を、今日、決定しました。世界最高のバリアフリー、日本らしさを取り入れた設計となっており、ここが世界の人々に感動を与える舞台となることが、今から楽しみです。
安倍晋三 (@AbeShinzo) December 22, 2015
昨日、平昌オリンピック・パラリンピックの選手の皆さんを、官邸にお招きしました。日本中にたくさんの感動と勇気を与えてくれた皆さんに、感謝状をお送りしました。東京オリンピック・パラリンピックは、いよいよ2年後。世界中にたくさんの感動が生まれる素晴らしい大会にしたいと考えています。
安倍晋三 (@AbeShinzo) April 26, 2018
半世紀ぶりの東京オリンピック・パラリンピックがだんだん近づいてきたことを実感しました。
安倍晋三 (@AbeShinzo) May 11, 2019
「健康長寿社会の実現」たけみ敬三候補「東京をつよく、優しく輝く街に」丸川珠代候補いよいよ来年、東京オリンピック、パラリンピックの開催を控えた東京都では、今回の参議院選挙に自民党きっての行動力を誇る二人が立候補しております。
安倍晋三 (@AbeShinzo) July 8, 2019
世界柔道選手権が行われている日本武道館で、東京オリンピックから新たに加わる種目の男女混合団体戦を観戦しました。日本チームがフランスとの決勝を制し、圧巻の優勝でした!
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 1, 2019
来年は、新しい国立競技場でのコンサート、東京オリンピック・パラリンピックなど、2020年という節目の年にあたり、世界中に嵐を巻き起こしていただきたい。一層のご活躍を心より期待しております。
安倍晋三 (@AbeShinzo) November 30, 2019
「復興五輪」と言うべき本年のオリンピック・パラリンピックなどの機会を通じて、世界の多くの方々に、復興しつつある被災地の姿を実感していただきたいと思います。
安倍晋三 (@AbeShinzo) March 11, 2020
本日、ギリシャのオリンピアで、2020年東京オリンピックの聖火採火式が行われます。26日には、福島から聖火リレーが始まる予定であり、オリンピックの成功に向けた機運を高めていきたいと思います。
安倍晋三 (@AbeShinzo) March 12, 2020
このほか、来年のオリンピック・パラリンピック開催に向けて、今後、アスリートや大会関係者等の入国に向けた措置を検討していきます。
安倍晋三 (@AbeShinzo) July 22, 2020
本日IOCトーマス・バッハ会長よりオリンピック・オーダーの最高章にあたる金章をいただきました。
安倍晋三 (@AbeShinzo) November 16, 2020
私は本章をオリンピック・ムーブメントに貢献し、倦むことを知らず、TOKYO2020を待ち望み、成功させようと勇んでやまない、すべての日本人になり代わる思いで頂戴いたしました。
安倍晋三 (@AbeShinzo) November 16, 2020
池江選手、本当におめでとうございます。「自分がすごくつらくてしんどくても、努力は必ず報われる」。白血病から復帰し、オリンピックの代表へ。ここまで重ねてこられた努力は本当に並大抵のものではなかったと思います。
安倍晋三 (@AbeShinzo) April 4, 2021