はてなキーワード: 動詞とは
主語と述語がつながっていない。「RFCで推奨されているのは〜〜が推奨されています」みたいな前後で二重になっている文だらけ。カタカナ・英語のまま書く単語と日本語にする単語を混ぜているので、ルー語みたいになっている(ひどいときは一文の中に同じ意味の単語が日本語とカタカナと英語で出てくる)。「チケットする」(正しくはチケットを切る・書く)のように英語の名詞を動詞のように使う。正式な文章で「ら抜き言葉」を使う。100%誤字脱字がある。
「ら抜き言葉」と誤字脱字は内容の理解は邪魔しないからまあ許せるけど、この人の書いた文書がレビューに上がってくるととてもつらい。どこから指摘していいかわからないレベルで、自分が書き直した方が早いと思ってしまう。これで新卒はコンサルで技術営業していたって自慢してるんだから、その職場にもっと日本語を叩き込んでほしかった。外国出身の社員の方がよほどわかりやすい文章を書いている...
"believe"は信じる信じないというよりも、それが妥当である、みたいなニュアンスで使われることがあるよ。
ちょっと探したけどこんな感じ
https://eikaiwa.weblio.jp/column/phrases/handy_english_phrases/think-believe-suppose-feel-guess
believe は「信じる」と訳される動詞ですが、必ずしも「信仰」を意味するものではなく、むしろ「それが正しい事であると考える」というニュアンスを根幹とする語です。
自分の意見が正しいという自信がある場合、きっとそうだと強く考えているような場合、believe を使って「私はこう考える」と述べることができます。
主にTwitterの出羽守界隈なんですけど、あいつらうざいじゃん。
どうせ英語できてちょっとお金稼げるだけイキってるんだろ?英語やれやれうるさい癖に英語の勉強法とか教えてくれないしさ、知りたければお金払えじゃん。クソ拝金主義野郎だよ。しかも大抵あいつらの政治思想って左翼か新自由主義なんだよ。左翼だとポリコレジャスティス(ポリコレ社会正義主義)の社会主義者なんだわ。彼らからすれば日本人とか日本国がどうなろうが知ったこっちゃないんだと思う。だっていざとなれば英語圏に移住・亡命できるんだもん。しかもお金を持ってな。
あとさぁ、日本の英語教育はまず文法からやって意味不明な長文読解させられて単語も聞き取れないままリスニングだもんなぁ。そりゃあ英語できないのも無理はない。
だったら私が今ここでいう、正しい英語の勉強の仕方とはまず「単語と発音は大事だからまずはそれをやれ」です。これマジです。
例えば中国語(中華語)の初心者向けの勉強法サイトでは大抵みんな「単語と発音は大事だからまずはそれをやれ」で統一してるんですよね。だから多分独学しやすいと思う。文法は割と英語に近い感じです。
返信が来ましたのでそのお返しを。
入ると思う。せや、あの人古典要らないと主張した、一ヵ月後に手のひらクルッとしたからな。某革命小学生(今は中学生か)とのやり取りのみはひろゆきに軍配ですかね。私は彼のこと好きではありませんがね。あの人はどこ行っても成功できちゃう人間だから。もう知名度も持ってるから何言っても称賛されてるよね。ツッコミどころも結構ありますけどが。
>英語教育がどうこう以前に日本語と英語では文法の差が大きすぎると思う
そうですね。beや一般動詞や過去形とかは中学生レベルなのはいいとして高校レベルの文法は優先順位としては低いですね。高校の英語は発音と単語中心のほうがいいかなと思う。英文法なんて英語で文章を書く時に必要だから。ドイツ人なんかは英語の習得簡単そうですよね。
現在26歳、偏差値42前後の地方Fラン卒、月の稼働単価は100万円前後で年収換算すると1000〜1200万
仕事はフルリモートで周5稼働の8時間勤務。残業は無しで毎回定時で退勤。調整すれば普通にいつでも休める
激務じゃないし上長は良い人だし、ただ指示された機能をチャチャっと設計してサッとコーディングするだけの単純作業
なんなら稼働日でも朝会と夕会だけ参加して、一日中寝てるかYouTube見てるだけの日だってザラにある。別の日にパッと進捗出せば何の問題もない
ぶっちゃけ学生時代は月100万って冗談だと思ってたし遠い存在だと思っていたけど、今ではプログラミングスクールが謳っていることは嘘では無いってハッキリわかる
とはいえスクールに100万払ってる奴らは馬鹿としか言いようがないし、スクール出身エンジニア(笑)とは一緒に開発したくもない。
自分は普通にコード書けるくらいのレベルで難易度が高いものをやってるわけじゃない
特にコレっていう特技も無いし、何なら英語は話せないし読めもしない
be動詞って概念を知ってるくらいで、Google翻訳かDeepLでドキュメント翻訳はすれば良いだけ。
毎日何時間も必死に勉強して良い大学に入ったのに一部に就職できなかったり300万円代だったりブラックだったりと見てて心が痛くなる()笑
すまんなw
そう呟いたのは多分六年前だか五年前だったかと思う。その時俺達は喫茶店で、世の中の悪が何かについて話していた。
その場には男の先輩が一人と女の子の後輩が二人いて、先輩は「知ってる」とぽつり。女の子二人は「しらなーい」とぽつり。
勿論、俺と先輩はその話を掘り下げたりせずに、穏当に元の話題の路線へと戻り、「やっぱ世の中気を付けて生きなきゃだめよ」みたいなことを言っていた。女の子二人はケラケラと笑っていた。
◇
何で今更になってこんなことを思い出したかというと、当時テーブルを囲んでいた後輩の女の子が先輩と付き合って、破綻して、今朝がたtwitterで僕を含めた当時の関係者に対しての呪詛を書き連ねていたからである。
多分こういうのは、よくある話なのだろう。勿論僕はその後輩に横恋慕していて、そして二人の関係とか、あるいは時折後輩の見せる刺すような発言と態度に傷を負ったりしながら生きてきたのだけれど、そんなことは些事である。一々考えるようなことじゃない。
ともかく、今僕がこの文章を書いているのは、後輩の女の子が僕と先輩を含む当時の関係者にSNSで呪詛を連ねているところを見たからである。
その呪詛がどんなものだったかというと、彼女曰く、「悪を糾弾できない存在も悪だ」、とのことであった。
つまり、彼女はこう言っているわけである。当時、破壊的性向を持っていた先輩のことを僕を含む関係者は止めることができなかったし、そして、物事が落ち着くべき位置に落ち着いてなお、僕を含めた関係者は先輩のことを表立って糾弾したりするでもなく、あるいは罰したりするでもなく、淡々と日々を送っているのだと。つまり、先輩が悪であると同時に、先輩を裁くことなく静観していた、僕を含めた関係者もまた悪なのだと。
全く以てその通りだと思う。僕は悪の片棒を担いでいるのだ。物事を正しく裁こうとなど決してしなかったのである。
一応、僕は見知っている後輩らが先輩に対して好奇心なり何なりを持っているのを見咎めると、「先輩は悪人だから近付かない方がいいよ」と度々言及していた。(「悪」の具体的な内容についてはここでは伏せるが)
とは言え、一見インテリジェントで気が利いて、かつある分野において顕著な業績を収めた人物である先輩に対して、後輩たちは僕の忠告をあまり深刻には受け止めなかった。あまり僕の忠告は功を奏さなかった。後輩たちの中には、今でも先輩に連絡を取り続けている子もいるようである。まあ、それはそれで良いのだと思う。僕は別に彼女たちを悪し様に思っていないどころか、先輩にだって悪感情を持っていない。彼女たちはそれなりに幸せそうであるし、今でさえ僕は先輩と時々食事をしたり、ボードゲームに現を抜かしたりしている。
◇
スナッフフィルムについてご存知だろうか?
それは、快楽を目的とした殺人行為を撮影した映像作品のことを指している。特に、商業的意図を以て撮影されたものを指す。スナッフという言葉は、「ロウソクを吹き消す」という意味を持つ動詞であり、同時に「殺人」のスラングでもある。
勿論僕も現物を見たことはない。そもそも、「スナッフフィルムは単なる都市伝説で、実在しない」という論も根強い。
ただ僕は、二十年近く前にアングラサイトで「衝撃! 少女が公園で殺害される映像! 購入は以下のアドレスで!」的な宣伝がされていたのを見たことはある。そのサイトによれば、外国人の少女は公園で刺殺され内臓を引きずり出された後に、ガソリンによって燃やされるとのことであった。そういう宣伝を実際に目撃した人間からすると、スナッフフィルムは実在するという立場から主張するほかない。
(また、中東やロシアでの拷問や処刑の映像も広義のスナッフフィルムとみなすことができると思う)
スナッフフィルムにおいて撮影されるのは、主に少年少女である。
主なスナッフフィルムの内容は、少年少女に麻薬を与え、性的に高揚させた後で凌辱し、その後に殺害する、といったものであるそうだ。僕もよく知らない。正直この知識は既存の創作物から得たものなので、信憑性においては幾分問題があるかもしれない。
いずれにせよ、仮にスナッフフィルムが伝聞の通りに存在するのであれば、それはこの世の悪を煮詰めた存在であると思う。
それは、恐らくそれを求める人間が存在し、また、それを供給し得る人間が存在しているからだと思う。仮に、ある人物が何かを要求し、その対価としての金銭を十分に示せるとして、何者かがその要求された何かを提供できるとすれば、多くの場合そこには商業的取引が実現してしまう。可能な物事が、不可能であり続けることは難しいのである。マーフィーの法則を引くまでもない。
つまり、そのような商業的なやり取りは、人の意志を超えてしまうのだ。それが可能である限りで実現してしまう事柄に、人の意志は関係ない。そこにはある種のシステムが構築されてしまうのである。
そのようなシステムに根差しているのは、明らかに人間の欲望と暴力である。人間にとってのある種の欲望と暴力が可能である時、そこにはシステムが出来上がる。システムは、金銭と欲望達成を媒介に、暴力的に成立する。そして、人の意志とは関係なくそのシステムは自己増殖し、その体系をより確固たる存在へと変えていく。
「人々が欲望し、かつ金銭的対価を支払える事柄は、それが不可能でない限り実現する」これが、欲望と暴力のシステムにおける定言命法である。そこでは人の意志に関わらず淡々と物事が実現する。一度実現したシステムは、当事者の意志で止めることはできない。金銭を媒介に、システムは機能し続ける。
というわけで、世の中にはいわゆる悪が蔓延ることになるわけである。勿論、繰り返すようにスナッフフィルムの存在は都市伝説に過ぎない。「スナッフ」と銘打たれて販売された商品の多くが、作り物であるとも言われる。しかし、僕は「スナッフフィルムは都市伝説に過ぎない」という発言に対して、どうしても疑義を覚えてしまうのである。そう、人の意志とは関係なく機能するシステムが世の中には既に構築されており、そのシステムの内部においては、可能である事柄はすなわち実現するのである。そういった原則を振り返った時に、快楽としての殺人が不可能であると断じることが僕にはできなくなってしまうのだ。
まあいい。とにかく、世界においては、可能である限りで、そしてそこに人の欲望が存在し、金銭的な対価を示せる限りで、ある種の悪や暴力が必然的に実現してしまうという、悍ましいシステムができている。我々は、そのようなシステムに向き合わなければならない。そのようなシステムを糾弾し、ハックしなければならない。その在り方を上手く変更せねばならない、はずだ。
とは言えそのような決意が実現されることは稀である。何故だろう? 我々は多くの場合悪を放置し、看過するしかないのである。それが不可能であるからだろうか? 我々に内在する欲望を媒介に機能するシステムを、我々自身が変更し、打破しようとする行為は、そもそも自己矛盾的だからだろうか? よく分からない。
いずれにせよ、自身の欲望に根差したシステムに変更を加える行為は、決して簡単ではない。我々は、そのような欲望と暴力のシステムをどうしても看過せざるを得ない。
それは、スナッフフィルムに限った話ではない。ある種の極度に暴力的なコンテンツに限った話ではない。我々の身近には、その手のシステムが息づいている。我々は、日常的に、そのようなシステムに触れることになる。我々は暴力と欲望に根差したシステムに、普段から関与し、触れることになる。
例えば、不均衡なコミュニケーションもそれだ。一方の話者の力関係が他方の話者に優越しすぎたコミュニケーションは、暴力的な影絵を描く。そこには権力の不均衡が生じ、そして暴力と欲望充足を生じさせることになる。そのようなシステムが我々の日常では機能しているし、何なら我々はそのようなシステムに組み込まれている。
例えばそれは企業と個人の力関係においてそうであるし、あるいはある種の閉じたコミュニティにおいてもそうである。そのような力関係において、いわゆる弱者が欲望充足の手段とされることは珍しくない。我々の身近に、そのようなシステムは往々にして存在している。
我々はそれを看過しながらに生きている。あるいは、そのシステムを自身の一部として受け入れながらに生きている。
何故なのだろう?
日本語でも、医者・医師という、建築士・建築家といい、者・士・家の区別はいいかげんです。それと同じように、英語の -er、-ist、-an の区別もそれほど厳密な区別があるわけではありません。
ドイツ語におけるder/die/das、これは英語におけるtheやbe動詞も真っ青な過労詞。
今回は問題とされた"Land der Sushis"に限定して説明しよう!
ここでのderは属格(~の/of)として使われているのだけれど、属格のderは複数形につくもので、単数形ならdes (男性名詞の場合。寿司はそう)になる。
そしてSushiは英語でもそうだけど、基本的に単数形で使われる。特に料理名としては。
なのでTwitterやブコメの指摘にもある通り"Land des Sushis"なら問題なく"寿司の国"と訳せる。
しかし複数形で扱っている"Land der Sushis"の場合、料理の種類としての寿司ではなく、複数形で数えられる"何か"をSushisと呼んでいる形に聞こえる。
つまり適切に和訳すれば"Land der Sushis"は"寿司達の国"という意味になってしまう。これを日本人(あるいは選手本人)=寿司、という言い換えであるとネイティブは感じたわけだ。
これが差別なのかには踏み込まないが、そのような批判が発生した理由については納得いただけたんじゃなかろうか。