はてなキーワード: 刑務所とは
どんなに小さな憎しみや恨みも、死刑にしてしまえば一律リセットできる。
もちろん罪人の命なんてどうでもよく、金銭的被害に対する補償を望む人もいる。
それも死刑になった罪人の全財産を国が没収し、それをプールして被害者の被害額に応じた補償をすれば
だいたい賄えるんじゃないかな。
そもそも刑務所自体が不要になる。死刑執行所や執行人は必要だからコストゼロにはならないけど、
年単位の刑務所内生活コストと比較すれば、ずっと安く抑えられるだろう。
当然過失事故や労基法違反も含まれるから、交通違反による事故も激減するだろうし、
ブラック企業の経営者やパワハラ・セクハラ上司も、グッと減るだろう。
もっとも、罪がバレそうになった人や、こんな息苦しい社会に嫌気がさした人が開き直って、
周りを巻き込む無差別殺人事件をじゃんじゃん起こすかもしれないけど。
罰を与える場所じゃないの?
だって、更生を目的とするなら再犯するような人は一生出てこれないじゃん
今回の放火事件で亡くなられた方々へのご冥福と負傷した方や関係者の方々へお見舞い申し上げます
例えば刑務所で同じようなことになって同じだけの受刑者が亡くなったときに自分はどんな気持ちになるのか
たとえ話で想像できないというのなら障害者が刺殺された事件ではどんな気持ちになったか
単に自分の趣味や好きなことに近い人が傷つけられたから悲しんでいるんじゃないか
自分の嫌いな属性を持った人が被害者だったら感じ方は大きく変わっていたんじゃないかと考えてしまう
状況が違えば思いが変わるのは自然なことだよって考えても何もおかしくないと思う
生きている以上は感情を切り離すことはできないし身近にいる人が亡くなったりすればショックが大きいのも当然だろう
埼玉県内の中学校を卒業後、同県内の高校の夜間部に通いながら、県の非常勤職員として勤務していました。その後は人材派遣会社に登録をしたり、茨城県内の郵便局に勤務したりしていた記録が残っている。
郵便局での勤務を始めたのは2009年。その3年後、青葉容疑者はある事件を起こす。
2012年6月20日未明、当時34歳だった青葉容疑者は茨城県内のコンビニエンスストアに包丁を持って押し入り、男性店員から現金を奪って逃げた。その後同日11時頃に警察署に自首したため、強盗と銃刀法違反で逮捕されました。自首した理由について『オウム事件の高橋容疑者のように逃げられないと思った』などと不可解な供述をしています。当時は茨城県内の雇用促進住宅の3DKに住んでいました
青葉容疑者は服役後、さいたま市の保護観察施設に入寮。刑務所を出所した際に帰る場所がない人が最大半年間入れる施設で、宿泊代や食費の実費負担はない。
「2016年7月頃には退寮し、その後はさいたま市のアパートに居を移しました。2018年頃から住民との間でたびたび騒音トラブルを起こしていて、複数回通報もあった。今月14日には20代の隣人男性の部屋のドアを執拗に叩くなどしている。その後も部屋のドアを叩かれたため男性が苦情を言いに青葉容疑者の部屋を訪れたところ、胸ぐらをつかまれた。男性は近くの交番に通報しています
刑務所の本分は犯罪者に罰を与えることではなくて更生させることだぞ。
刑務官もそこにプライドを持って仕事している。被害者に代わって受刑者を苦しめるためではない。
だから死刑制度は刑務官のプライドを全否定する制度で刑務官を苦しめる。
理想的に言えば、刑務所よりド底辺の生活のほうが悪いという時点で政治が失敗しているんだから、刑務所の環境を悪くするよりも、まずド底辺の生活を豊かにすることに労力を割くべきだろう。
刑罰には応報としての意味合いと犯罪の抑止力という2つの効果がある、とされている。
しかし、死刑でもなんでも、実際に自分が受ける実感が無い限りは抑止力にならない。
ろくでもない犯罪が日々起きているだろう?
それでもやっちまうのは、抑止力が足りないってことなんじゃないか。
特に、クスリで判断力が鈍った奴なんて残虐な犯罪を起こすだろう?
そんな奴の脳にすら刺さるような強烈な恐怖を刷り込まむべきだ。
最初に、京都アニメーション関係者の皆様にお見舞いを申し上げる。皆様のどなたにも、こんな目に遭ってよい理由はなかった。亡くなられた方々には哀悼の意を表する。癒しがたい傷を負われた方々や深く傷つかれた方々に、心からお見舞いを言いたい。今現在、痛く、辛い思いをしていらっしゃることだろう。あなたは一人ではない。多くの人があなたを気遣っていることが、少しでもあなたの支えになることを願う。そして今生死の境をさまよっていらっしゃる方々に、匿名ながら応援の気持ちをお伝えしたい。どうか生き延びてほしい。
だが、こういう時だからこそ、以下の点は言っておかねばならないだろう。
今回の犯人――状況からみて病院に搬送され警察に事情聴取を受けている男が放火犯本人であるという前提の下で話を進めるが、他の多くの事件においてこのような前提を置くことは危険であることをご承知おき願いたい――が憎むべき罪を犯したこと、その罪は厳正に裁かれるべきこと、この点にはなんら疑いはない。個人的には、どこかで火災に遭って焼け死ねばいいのにとは思う。しかし、それはそれとして、彼を死刑にすべきではない。
死刑は撤廃するべきだ。たとえそれがどのような憎むべき極悪非道の人物であっても、死刑に処されるべきではない。理由の第一は、冤罪の危険性だ。今回はたまたまかなり高い確率で真犯人であろう人物が捕まったが、一家四人が惨殺され放火された別の事件では、おそらく真犯人ではないであろう人物が死刑判決を受け、現在も再審請求中である。人が人を裁く以上間違いはどこにでも存在する。間違った人が首を吊られるなどということはあってよいはずがなく、誤判をゼロにすることが不可能である以上、冤罪で処刑することを防ぐためには死刑を撤廃しなければならない。
理由の第二は、それが真相の究明に繋がらない場合も往々にしてあるからだ。中には改悛して洗いざらい吐いて刑場に向かう死刑囚もいようが、どうせ死刑なのだからとすべてを投げ出して語るべきことを語らず処刑される者もいる。仮釈放のない終身刑にでもしておけば、数十年後に重い口を開くことがあるかもしれない。被害者がどうして殺されたのか、本当の理由を知ろうと思うのなら死刑にせず生かしておいた方がよい。
理由の第三。死刑は過激な犯罪者を焚きつける可能性がある。オウム真理教の幹部を集団で処刑したのには開いた口が塞がらなかった。そんなに「国家権力に処刑された尊師と幹部たち」という物語を演出して、オウムの残党に彼らを神格化してほしかったのだろうか。死刑になりたかったから子供を大勢殺したのだと言い放った死刑囚がいた。彼らのような人物は、刑務所で死ぬまで惨めに生かしておくべきだっただろう。世の中を恨み、せめて大きな衝撃を与えてから死んでやろうと目論む者――ひょっとしたら、今回の放火犯もそういう動機を持っていたのかもしれない――に、死刑制度は大きな誘因を与えてしまう。彼らを英雄や殉教者にすべきではない。
理由の第四。欧州連合やスイス、ノルウェーといった主要な先進国は死刑を撤廃し、日本に強く死刑の廃止を求めている。彼らは死刑をその国の人権感覚の証と信じており、そして彼らの主張に同調する国は増えている。これが鯨食のようなそれぞれの国の伝統文化の話ならば妥協する理由はどこにもないが、別に絞首刑が日本の伝統というわけでもなし、欧州諸国、ひいては国際社会から人権侵害と糾弾されるリスクを抱えてまで維持すべきものでもなかろう。我々は中国や北朝鮮やサウジアラビアではなく、ドイツやフランスやスウェーデンと同じ側に立つべきだ。
そして、彼の行為を社会を統制するための口実にしてはならない。彼のやったようなことは事実上防ぎようがなかった。多少の安全対策で死ぬ人数は減らせたかもしれない。だが、セキュリティをどれだけ強化したところで、悪意をもった攻撃を100%防ぐことは不可能である。
犯罪防止の名の下で行われる様々な施策は、往々にして我々の自由やプライバシーと対立する。もちろんそのような行為をすべて否定するわけではない。軍用の銃器を保持する自由は制限されても仕方があるまい。だが、衆目を引く犯罪が起きる度にそれに応じた対策を採っていたら、我々の社会は生きるには窮屈になるはずだ。
新幹線の車内で凶悪事件が置きたことがあった。だからといって新幹線に乗る度にいちいち持ち物検査を受ける必要があるとなったら、ずいぶん窮屈で面倒だろう。包丁を使った通り魔事件が置きたとして、包丁の購入にいちいち面倒な手続きが必要になったとしたら、料理をする人は困るだろう。我々は秋葉原で執拗に職質をかけられ荷物を開示させられる屈辱ならよく知っているはずである。そのような社会に我々は生きたくない。
犯罪を犯す「法的な」「道徳的な」自由はどこにもない。そのようなものは認められるべきではない。だが「物理的な」自由、つまりやろうと思えば犯罪を犯せる環境を制限しようとすることには、慎重になるべきだ。
犯罪者は「事後に」厳しく罰せられるべきだ。強く非難され、その行為の報いを受けるべきだ。だが、「事前に」規制しようとするなら、それは無関係の者の自由をどこかで奪ってしまう。
包丁を屋外で振り回し無辜の市民を傷つける行為を「システム的に」抑止しようと思ったら、新居で料理道具を揃えようとするのに、あるいはふと思い立って台所に立つのにさぞや苦労するだろう。ガソリンを簡単に購入し持ち運べるのはおかしい、という主張もあったが、なぜ一人の悪人のために農機具を使用する人たちの利便性が損なわれなければならないのだろうか? そのような統制が行き着く先は中国のような監視社会だ。なんの統制もなくてよいとは言わないが――なんといっても私は日本の厳しい銃規制や航空業界の厳密な安全規則から恩恵を受けているので――我々平凡な庶民の自由やプライバシーが徐々に奪われていくことには警戒したほうがよい。
今回の事件の犯人は、相応の報いを受けるべきだ。だが彼は死刑に処されるべきではないし、彼の行為を元にして自由な社会に統制が加えられるべきでもない。
私たちオタクが自由に、幸福に生きていけるのは、自由とプライバシーが尊重された社会においてだけだ。中国のオタクが種々の不自由に耐えている姿を羨ましいとは思えない。我々の社会を監視社会にしてはならない。究極的には、自由は安全に優越するのだから。
ということで、これが死刑廃止派からの回答です> anond:20190719044907
1番は今回当てはまらないし2番は真相究明が済めばやっていいってことになるし3番はこの犯人の信者なんていないので実質的に4番の海外からの同調圧力だけってことか。まあええんちゃう。
1番は「どう考えても無実だったり10%しか疑わしくなかったり50%しか真犯人じゃなさそうな人が吊るされないためには99.99999%真犯人なやつも吊るすべきじゃない」って話やで。
個人的にはそこまで原理的な死刑反対論者ではなく、100%真犯人である人だけが処刑されるなら死刑制度存置を支持する。でも全知全能の神じゃなくて人間が裁判する以上どこまで行っても100%はありえず99.99999%にしかならないので(今回の被疑者だってそうだよ!)、その0.00001%が残っているうちは殺すべきではない。そして全知全能の神の存在が実証されない以上死刑は廃止すべき。
ちょっと古い話題だけどさ、アメリカのタレントがKIMONOと言う名前で補整下着を販売しようとして流石に批判喰らって引っ込めた件あったじゃん?
流石の京都市もブチギレ、みたいなやつ
https://www.huffingtonpost.jp/entry/kyoto-letter-to-kim-kardashian_jp_5d16adf2e4b07f6ca57d66d1
これはどういうことかというと、前は外国人が日本人に対して文化の盗用でしょそれと言われてもイマイチピンとこなかったわけよ。
例えば、コスプレ的な形で、日本人になりきるようなイメージで扮装している人、例えば京都の舞妓体験とかああいう話題の話。
これを日本人ではなく、外国人が文化の盗用であると批判して、一方で日本人からの反応は「別にいいじゃん。なんでそう言うこと言うの?。わからない」って反応が多かったわけ。
この時、文化の盗用とは何か、と言う事が理解できなかった人が、その文脈を理解したと言う話みたいね。
でもさ、この二つ、本質的に何が違うと思う?
さらに古い話題だけどさ、真木よう子氏が商用出版社の人々と組んでコミケに出ようとして、批判が集まった件あったじゃん?
https://biz-journal.jp/2017/09/post_20435.html
だけど、似たような形で出てきたのに叶姉妹があるわけよ。
(小林幸子氏は、ファンがいるならばどこまでも、刑務所慰問からコミケ、ブラジルまでどこにでも行く人なので、ちょっと文脈が違うと思う)
真木よう子氏も漫画とか好きなようだったし、叶姉妹のアレは明らかにガチっぽい感じがある。
ただ、ガンダムが登場して40年、当時の大学生は還暦を迎えている事を考えるとオタクなんて珍しくもない。
何が違うと思う?
まぁ、何かが違うかは明らかなんだけども、でも上手く言語化できない。
ここら辺、ブランディングの成功失敗にも関わっていて、何か冷静に分析されたものがありそうなんだけど何かないかな。
愛があるかないか、と言う話で整理するのはいいけど、愛という言葉は幅が広くて便利だけど曖昧で、何かもうちょっと良い分析というか取材がないかしら。
と言うのを、時前のグッズにKIMONOと言うブランドを付けようとしたアメリカのタレントが、叶姉妹の劣化版みたいだな、と思った所から徒然と連想した。