はてなキーワード: 円周率とは
上司さん、知ってますか? 円周率の少数点以下14桁分のパイを同じ種類で集めると、チンイツでアガれるんですよ。
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って言い返してやれ!
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02 | 34 | 5286 | 155.5 | 76 |
03 | 39 | 4085 | 104.7 | 46 |
04 | 63 | 5246 | 83.3 | 68 |
05 | 80 | 4931 | 61.6 | 46 |
06 | 19 | 3223 | 169.6 | 49 |
07 | 60 | 9865 | 164.4 | 49.5 |
08 | 77 | 7429 | 96.5 | 26 |
09 | 191 | 14529 | 76.1 | 39 |
10 | 194 | 14211 | 73.3 | 43.5 |
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23 | 120 | 19235 | 160.3 | 54.5 |
1日 | 2961 | 278777 | 94.1 | 39 |
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円周率は3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E5%91%A8%E7%8E%87%E3%81%AF3
これによれば実際に3と教えたことはない、とあるね。つまり増田のようにリテラシーの低い人間にはパイも3も関係ないってことだ
保育園に通っていた私は保母さんにいろんなことを教えてもらって、優しくてお母さんと違って怒らない保母さんのことが好きだった。
成長して、円周率を学んだ。
私は保母さんになったら「私、円周率なの」というジョークを言うのだと漠然と思っていた。
時は経ち、将来のことを真面目に考えるようになった。保母さんになるための道を探した。
けれどその時にはもう、保母さんにはなれなかった。保育士というものに変わっていた。
円周率も3になっていた。
ダンジョキョードーサンカクカシャカイとやらはきっと社会を良くしている。保育士になりたかった男性が、呼称を気にしなくてよくなった。
子供の世話をするといえば母である、という固定概念も取り払われつつある。
教育要綱は二転三転していてよくわからない。今の円周率はいくつなんだろう。今の人達は円周率をほぼ3と認識しているのだろうか。
とにかく、時代は変わった。
私は円周率になれなかった。
なんか最近自民党をとにかく非難していればいいみたいな言説をたくさん見るので長文を書き散らす。
こういう事を言うとネット右翼だの安倍信者だの言われるのが目に見えているので先に述べると私は自民党政権を支持していない。
その上で、こういった事があるよと言っている事を前提としておく。
表題の件で何が言いたいかと言うと、社会的正義を建前としてメディアを通じて国民を煽り、自らの利益につなげるという商売スタイルが存在するので相手や立場の善悪に関係なく全ての情報を懐疑的に評価しなければならないという事だ。
未だに真実として語られるこの事実であるが、実は嘘と言って差し支えないほどの曲解、拡大解釈である。
これによって「ゆとり教育=テキトーを教える教育」というイメージが固着し、メディアや広告を通じたゆとり教育批判によって当時の小学生達は自尊心ガリガリ削られるという状態になっていたのだ。
「円周率は3」という事実はどのようにして形作られたかと言えば、90年代末に学習指導要領が改定され、小学校の算数について「円周率は目的に応じて3を用いる」「小数は小数点以下第1位までしか扱わない」という文言が登場した。
「目的に応じて3」というのは、円っぽい図形の時のみなし計算や、見積もりみたいな大雑把な計算をするときにとりあえず3としていいよ。ということであり、小数点第一位の件についても、円周率に関しては3.14で扱うという旨が明記されていた。
そこで、とある学習塾が「ゆとり教育では円周率は3!(だから塾に行こう!)」という感じの広告を撃ち、メディアも批判的精神の観点からゆとり教育の問題点の旗印として「円周率は3」を掲げて日夜教育批判を行った。
実際にはそうではなかったのにも関わらず、「円周率は3」という見出しのインパクトによってこれは広く受け入れられた。
それがテレビや親を通じて、当時の小学生達に「お前たちは失敗作になる」というメッセージで突き刺さった。
もちろんそういった意図があった人は一人も居ないだろう。しかし、「頭が悪くなるから塾に行こう!」「間違いだらけの教育!」といったメッセージが日夜飛び交っていれば、結果そういったメッセージとして当人たちに届いてもおかしくはない。
ここまで読んだ人なら想像がつくだろうが、私はもろにその世代である。
全員が全員ではないが、私達の世代には子供の時から「何をやっても無駄」「頑張っても無意味」という価値観の人が多い。
これはゆとり教育批判の流れ弾を子供自体に食らったからではないか?と思っている。
私もいい大人であるから自分の無能や怠惰というのは自力で解決すべきことであると思っているし、教育やメディアのせいにする気はサラサラ無い。その責任を取れとも全く思わない。
しかし、そのような環境に於かれていた当人たちは大人ではなく、第二次性徴も迎えていないような子供である。
精神が未発達でこれから人格を形成していくという子供に対して「失敗作になるぞ」といったメッセージを浴びせ続けるのは果たして円周率を3で教えるよりも良いことだろうか?
社会的正義に目が眩んで子供がどのように感じるかというケアはあの当時全く無かったし、その証拠に、未だに社会的には「当時円周率は3で教えられていた」というのが真実になっている。
いつからそうだったのかはわからないが、この時にはすでに日本のメディアは事実の観測者から正義の行為者へと変貌していた。
正義の行使ではなく、事実の観測を心がけていれば、ゆとり教育への批判も建設的に行なった上で学習塾の広告にも批判的視線を向けられたはずである。
メディアに観測者の存在しない今、情報の受け手である全員が観測者の心掛けを持たねばならない。
「○○政権の法案はこういう事実がある!」というような批判に関しても、「そもそもその事実は妥当なものか?」という俯瞰的観測精神を持たなければ、容易に誰かの意志に流され、守るべきものを壊しかねないということを忘れてはならない。
最近はてラボ人間性センターなるところがやけにクイズを出してくるんだが、偉い難しい。知らねーよガガーリンが名付けた人工衛星に乗って地球一周した犬の名前なんか。
よくみんな科学的だ、非科学的だ、っていうじゃない。でもいろいろ読んでるとそもそも科学的だとか非科学的だとか物事を断定すること事態科学的じゃない、と言う人がいた気がする。「今見えてる範囲では非科学的と言ったほうが正解に近いようだ」みたいなふわっとした回答が科学的だ、って言ってたんじゃなかったかな。
一方で、数学については、答えは断言できる。てことは数学は科学ではない?
物理と天文学とかそういった話では「許容範囲内の誤差で再現する」という感じで考えている(円周率とかそういう無理数使うからそもそも実際の数字にならないし)ようだし、同じに実験したらみんな同じ結果になる、というのが科学だ、というように聞こえる。
だけど、歴史的な出来事なんかだと再現性はないじゃない?てことは歴史は科学ではない?だけど、今の資料批判は科学として行っていると聞いたことがある。
歴史資料をこうやって紐解けばみんな同じ結論にたどり着くだろう、というから科学なのだろうか?でも、例えば、「いやいやこの発言はこうとも取れますぞ」という風になった辺りで科学かどうかはなんだか怪しいし、鎌倉幕府の成立にしたって、「どのイベントが鎌倉幕府の成立と言っていいか」という話になると、最終的には好き嫌いになりはしないかとか思ってしまう。1192年ではなくて1185年になった、って言うことは、鎌倉幕府成立を邪魔するものは1185年時点でいなくなった、なので鎌倉幕府確定、って言うことなんだろうか?
人文系になってくると、論文査読がないという。だけど、あれ、人文系って科学なんだろうか?だけど、実際に社会に起きたことを分析して自分たちの言葉にまとめ上げているという点において、発端は嘘ではないように見える。出来上がったものが論文の体をなしていないという人もいるかもしれないけど、そもそも論文にできるたぐいのものではないのかもしれない。
そう考えていったときにつまり科学ってなによ、と思うんだよね。科学的、非科学的、ってなによ。科学的に導かれたことは本当かもしれないし嘘かもしれない。非科学的に述べられたことも本当かもしれないし嘘かもしれない。
もちろん正確には人間だったんだけど、なにせガタイがよく、振る舞いもゴリラのようだったので、生徒たちには「北ゴリ」と呼ばれて親しまれていた。
北ゴリは草履を履いて生活し、機嫌がいいといつのものか分からない昭和歌謡を歌い、毎日マウンテンバイクで隣県の家から学校に訪れては、日が暮れるまで体当たりで子どもの相手をした。すべてが風変わりなゴリラだった。
北ゴリの授業は自由だった。彼はゴリラらしく、われわれ小ザルにもわかる作法で勉強を教えてくれた。
算数で体積を習った日の宿題は、いっぱいに張った風呂に頭まで浸かって、減った湯の深さから自分の体積を計算するというものだった。
比率の授業には、醤油と酢と油を持ってきて、一番おいしいドレッシングの比率を計らされた。
円周率を初めて知る日には、コンパスで引いた円に沿って糸をなるべく正確に張りつける遊びをして、その糸の長さがほとんど円周の計算通りだったことにびっくりした。
音の伝わる速さをはかる実験をやったこともある。その時は学校を出て近くのでっかい原っぱに行って、各班が豆粒に見えるぐらい離れてから、端っこの班が大声を出し、それが聞こえたタイミングでそれぞれの班が手にした箒を振り上げる、という遊びをした。端の班から少しずつタイミングがズレて箒が上がっていくのが不思議で面白かった。
雪が降るのが珍しい地域だったので、大雪の日には授業がなくなってぜんぶ雪合戦になった。
朝刊で「近くの原っぱで珍しいフンコロガシが見つかった」と報道された日も、やっぱり授業がなくなって、みんなでフンコロガシ探しの旅に出た。(誰もフンコロガシを見つけることはできなかったが、変な動物の骨は見つかった)
あとは、「もしも日記」っていう遊びもあった。一度「何でもいいから”もしも”で始まる日記を書いてみろ」と言われて、その日はみんな自由にケーキ屋さんになったり魔法使いになったりした日記を書いたが、そのあと社会の授業で「もしもこの時代に生きていたら、で日記を書いてみろ」と言われた時にはずいぶん頭を悩ませた。その時代に生きていた人や暮らしを知らなければ書きようのないものなので、がんばって想像したり調べたりしないといけなかった。
北ゴリが突飛な授業を始めた時、小ザルだった私は得てしてやれやれ顔でそれに付き合った。でも、今にして思えば結構わくわくしていた向きもあったのかもしれない。20年近く経った今も、こうして授業の内容を詳細に覚えていることがその証拠だ。
北ゴリの授業は学力に直結するものじゃなかったかもしれないが、学ぶことの根源が好奇心にあることを教えてくれた。そのおかげで、大学を出て社会人として生きる今も、面倒なインプットの前にはまず好奇心をくすぐろうとする習慣がついている。
今の時代は、北ゴリのような教師には少し生きづらいものになっているかもしれない。北ゴリのような授業を今やれば方々から懸念の声が来るだろうし、なんなら当時ですらゴリラは度々怒られていた。それでも、この愛すべきゴリラ教師が、ゴリラの志が、絶滅せずにどこかで生き延びていることを願わずにはいられない。