はてなキーワード: 公序良俗とは
リンク先の本を買って読んだ。
https://twitter.com/alpaca_mofu/status/943446184676306944
私にとっては本当に辛い記憶でありこれまで「ネタにするくらいしか昇華しようがないかなー」と漠然と考えていた体験だが、このような本に巡り会い昇華の方法として素晴らしいと感じた。
この記事を書くに至った衝動はいくつかあるが、1つはかの宗教に地域性とローカルルールが豊富であることに由来する。
Amazonのレビューや著者の方を含めたツイッターでの会話を眺めたら「まさにそうだった」「うちはこうだった」「それはなかった」といった感想を目にした。
この宗教に関わっていない方にとってはどれが正しいかわからない状況かもしれないが、きっとどれも正しく、単に環境が違ったのだと思う。
この記事もあくまで私の体験であり他の方と一緒かもしれないし違うかもしれない。
ただそういう経験をしてそう感じたと書く。
各々信じたいものを信じ、やりたいことをやるしかないのであるし、公序良俗というやつに反しない限りそうあるべきなので特定の個人を貶める意図はない。
また、正式名称「ものみの塔聖書冊子協会」通称「エホバの証人」についても賛成も反対もなく信教の自由は保証されてしかるべきなので信奉したい人はどうぞ。
「ものみの塔」とか「エホバ」とか書くの本当に久しぶりだが手が震える。
コメントorツイッター( https://twitter.com/s_fjw )で質問してもらえたらできるだけ書く。
いわゆる「元2世」というやつで、親が入信してたので必然的に参加していました。
かの団体は地域性とローカルルールが多いことが知られており「いつ」「どこで」「どれくらい熱心だったか」という前提が欠かせないのでまずそれを書きます。
西日本。
年1回の「地域大会」というやつはスペースワールドの近くで開催されるやつに割り振られていた気がします。
洗礼受けてから脱退すると「排斥処分」というやつになって以降かの団体の人々との交流を一切禁じられるが、洗礼を受けずに諸々の行事に参加しなくなっただけなので、扱いとしては単に「信者候補が『世の人』(信者ではない人の呼称)になった」だけ。
「排斥処分」の有無は感情や精神に色々影響与える場合があるらしいのでここに状況を明記する。
父母私。
父→大きく賛成も反対もせず。一時母の勧めで「研究」に参加した模様。
母→熱心な信者、たぶんまだ現役。
前述の通り心理的に脱退済み。
たまにフラッシュバックして死にたくなる。
かの教義には賛成も反対もないので自分の意思でやりたい人はやったらいいんじゃないんですかね。
書く。
本当に体験が近しくてびっくりした。
が、ごく一部私の体験と違ったので書く。
悪いことを「サタン」と言うことはあった。
これは十戒あたりに「神の名をみだりに唱えてはならない」とか書いてあって、私の周りでは「良いこと」を表すために神の名を使うことはそれに沿っていないと考えていたか、あるいは単にそういう用法を思いつかなかったのだろう。
なお彼らは主に新約聖書を教義の根拠として用いるが、旧約聖書も参照する。
繰り返すが地域性やローカルルールが多彩であり特定の人の記憶や考えを否定するものではない。
今のところこれくらい。
他は本当に体験が近しくて驚いた。
悪いことばかりというのはあり得ず、このような環境で過ごしてよかったこともあるので書く。
気力が戻ったら書く。
思い出すだけで辛いし得損なった15年ばかしと数々のチャンスを考えると何かを呪わずにいられなくなるんだ、わかる人にしかわからないだろうが。
この件を考えると人に優しくできない。
ポリコレに厳密になっていくと、公序良俗の基準をどんどん厳しくしていく&公序良俗に反してるけどお上からも世間からもお目こぼしされてた部分を見逃さなくしていくことで、表現からどんどんアクもコクも旨味も毒も辛みも苦みも抜いて痩せさせていく。
ゾーニングなんつうのはわざわざ流通形態を分けたりすることで余計なコスト負担させるし、売れる場所も減るしで収益が目減りするのがわかりきってるわけで、直接禁止はしないけど儲かりづらくすることで真綿で首を締めるように衰退に向かわせることになる。
それでもギャグやバラエティやポルノなどなどは残るだろうけど、毒にも薬にもならぬ、学びも刺激もない、白湯みたいなもんになっちゃう。
それは、形としては残ってるけど、形骸化して死んだのと一緒だわな。
もともとポリコレ推進派って、規制反対派だよ。「規制派だ」とレッテル貼られて叩かれただけで。
そこから嫌気がさして規制やむなし派になった人もいるみたいだが。
「ポリコレがあると何も表現できない」というのが、ポリコレ推進してる側から見ると嘘なんだよ。
どんなメディアのどんな表現にも、自主規制みたいな配慮はもともとあった。
それを現代の社会通念に合わせて修正していこうってだけだから、ポリコレに配慮したぐらいで表現できなくなるものなんて、あまりない。
公序良俗に反する表現というのは、ポリコレ言われる以前にも規制や批判の対象だし。
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。
こうして弟たちはツクヒに言ったように、『アレコレ病』を吹聴して回ったのである。
その成果は目覚しく、シロクロが“アレコレ病患者”として世間に認知されるのにそう時間はかからなかった。
シロクロは常人目線で見れば公序良俗違反が服を着ているようにしか見えなかったのだが、そうじゃないのなら話は別ということだ。
「私、最初はどうかと思ったんだけど、予想以上に上手くいって良かったわね」
「“アレコレ病”なんて、俺たちが思いつきで名付けただけなのに、みんなシロクロへの当たりが緩やかになっていったな」
「僕たちは病名をつけただけなのに、こんなに認識が変わるんだね」
みんな病人には多少の同情はする。
みんな悪人にはなりたくないのだ。
杓子定規にしか物事の是非を判断しない人間には、こういった抑圧がよく効くらしい。
「とはいえ、みんなを架空の病気で偽って、シロクロを病人扱いしているのは少し気が引けるなあ」
「大丈夫さ。シロクロの言動はある意味で病的だと言っても過言ではない。僕たちはそれに名前をつけただけさ」
「そう。病名をつけられれば、それは立派な病気だ。病人は敬わないとな」
冷静に考えればとんでもないことをやっているのだが、弟たちはシロクロを守れたことに喜んで、そこには目もくれなかった。
話はこれで終わらない。
それから数週間後、この“アレコレ病”に対する認知度は俺たちの町すら越えて、世界に轟くことになった。
今や“アレコレ病”と、その病人(とされる者)たちは完全に認知されたのである。
「これなら俺たちも何らかの病気を名乗ってみたくなるな」
調子に乗った弟は冗談めかしてそう言うが、こいつなら本当にやりそうなので俺は笑えなかった。
「やめなさい」
見かねた母が弟たちの話に割って入った。
「そんなことしていたら、いずれこの世の人間がすべてが病人として扱われるわ」
弟が平等という言葉をどういう趣で使っているかは分からないが、大した理屈ではないことは明らかであった。
それでも母は毅然とした態度で説いた。
「考えてもみなさい。この世の人間が全て病人になってしまうということは、“病人に対して寛容でいようとする常人”もいなくなるってことよ」
「あ……」
だが弟たちはそれで納得したらしく、俺はツッコミの行き場を失った。
「そうだね、俺は常人でいるよう頑張るよ」
「僕も」
「ええ、頑張りなさい」
「イエス、アイ、マム!」
シロクロは事態をよく分かっていないのだが、弟たちに同調してハキハキと返事をした。
皆が何をもってして“常人”だとか“病人”を指しているのかよく分からなくて話についていけなかったが、それはもしかしたら俺も何かの病気だからなのかもしれないな。
バニラエアの件で、ブコメでちょくちょく出てくる類似案件の判例について簡単にまとめてみた。
2003年の出来事であり、バリアフリー新法以前であることに注意。
障害者である原告が車いすでの搭乗を航空会社に拒否され、債務不履行及び公序良俗に反するという不法行為責任で訴えたが認められなかった。
航空会社は言語障害により意思の疎通がスムーズでなく且つ上肢及び下肢に障害があることから、介助者の同行がなければ搭乗できないとした。
原告には、身体を抱えて移動させるとともに、緊急脱出を円滑に行うという客室乗務員にとって対応困難な援助が必要であるから、原告の身体の状態は、本件規定の安全上の理由があることが認められ、被告が原告のこのような身体の状態を知ったのは、本件飛行便の出発約2時間前であるから、被告において、原告の身体の状態を考慮した人的、物的な対応を期待するのも無理な状況であったと認定し、被告従業員による留保解除権の行使によって原告の単独搭乗を拒否したことは、本件規定に基づく正当なものである
公共の交通機関を提供している航空会社であれば、身体に障害のある乗客に対し、身体の状況を事前に告知すべきことを要求することはできないところではあるけれども、前記認定の控訴人の身体の障害の状態、動作の実情、これまで航空機に搭乗した経験等の諸事実に照らすと、時間的余裕を持って上記の諸事実が被控訴人に知らされていれば、控訴人が単独搭乗することについて必要とされる介助や緊急時の援助態勢に関する検討をすることは十分可能であり、それによって、被控訴人が控訴人の安全確保に関する不安を払拭できたのではないかと推測することができる。
控訴人の前記身体の状況や外観によって控訴人を差別的に取扱い本件搭乗拒否に及んだものではなく、控訴人についての限られた情報と時間的余裕のない中で、控訴人には単独搭乗を拒否できる前記特別の援助が必要との判断に基づき本件搭乗拒否に及んだものであって、このことが公序良俗に反するとまでは言えず、本件搭乗拒否について、被控訴人に不法行為責任を問うことはできない。
とあるように、交通サービスに求められるものがどの程度であるかを示す事例といえるのではないか。
航空会社が「介助者の同行がなければ搭乗することができない」と断ってるように介助者が居れば事前連絡は必要なかったであろうこと、乗客側の登場経験なども判断の対象になりうることなどが分かる。
http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170629092629.pdf?id=ART0009677741
はてなブックマーク - バニラ・エアに声をあげた障害者に「クレーマー」、広がるバッシングに疑問の声
id:(略)←無知 「公共の交通機関を提供している航空会社であれば、身体に障がいのある乗客に対し、身体の状況を事前に告知すべきことを要求することはできない」https://twitter.com/ktgohan/status/880081514070892544
はてなブックマーク - 車いすで飛行機に乗る時は | いすみ鉄道 社長ブログ
貴方敗訴します「公共の交通機関を提供している航空会社であれば、身体に障がいのある乗客に対し、身体の状況を事前に告知すべきことを要求することはできないところではある」https://twitter.com/ktgohan/status/880081514070892544
https://twitter.com/ktgohan/status/880081514070892544
あとになって見つけましたが、「公共の交通機関を提供している航空会社であれば、身体に障がいのある乗客に対し、身体の状況を事前に告知すべきことを要求することはできないところではある」(大阪高裁平19(ネ)2425、判例時報2024p20)との判例があり、本来の原則はこちらです。
これなん?
http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170629092629.pdf?id=ART0009677741
判例の引き方を知らないから孫引きで長いから流し読みで略しまくりだけど。
(略) ⑵ 本件に至る経緯 ① 原告は、平成15年7月30日から同年8月 4日までの日程でタイ王国(バンコク)へ の旅行を計画した。 (略) ② 原告は、前記の予約に際して、両上肢及 び両下肢に障害があって車椅子を使用する こと、言語障害があること、同行者はなく 単独搭乗を予定していることを旅行会社に 伝えず、そのため、被告はこれらの情報を 当日まで知らなかった。 (略) ④ 同日午前8時50分ころ、被告の日本支社 関西国際空港支店空港カスタマーサービ ス部長である E は、原告及び B らに対し、 原告は介助者の同行がなければ搭乗するこ とができない旨告げるとともに、その理由 として、原告に言語障害があり、意思の疎 通がスムースにできないこと、上肢及び下 肢に障害があることを挙げた。 B らは E に対し、搭乗拒否の理由につ いて具体的な説明を求めるとともに、原告 の状態を説明するなどして単独搭乗を認め るよう要望したものの、E は原告の単独搭 乗を認めず、結局、原告はSQ973便に搭 乗することができなかった。 (略) 神戸地裁尼崎支部平成19年8月9日で は、航空会社である被告が原告の単独搭乗 を拒否したことについて、原告が、本件搭 乗拒否は旅客運送契約上の債務不履行であ り、かつ、公序良俗に反する不法行為であ るとして、被告に対して慰謝料等を請求し た事案において、原告には、身体を抱えて 移動させるとともに、緊急脱出を円滑に行 うという客室乗務員にとって対応困難な援 助が必要であるから、原告の身体の状態は、 本件規定の安全上の理由があることが認め られ、被告が原告のこのような身体の状態 を知ったのは、本件飛行便の出発約2時間 前であるから、被告において、原告の身体 の状態を考慮した人的、物的な対応を期待 するのも無理な状況であったと認定し、被 告従業員による留保解除権の行使によって 原告の単独搭乗を拒否したことは、本件規 定に基づく正当なものであるとして、原告 の請求を棄却した。そこで原告は、一審判 決を不服として控訴した。
2 大阪高裁平成20年5月29日(控訴棄 却・確定) (略) ⑴ 被控訴人の債務不履行の有無について 公共の交通機関を提供している航空会社 であれば、身体に障害のある乗客に対し、 身体の状況を事前に告知すべきことを要求 することはできないところではあるけれど も、前記認定の控訴人の身体の障害の状 態、動作の実情、これまで航空機に搭乗し た経験等の諸事実に照らすと、時間的余裕 を持って上記の諸事実が被控訴人に知らさ れていれば、控訴人が単独搭乗することに ついて必要とされる介助や緊急時の援助態 勢に関する検討をすることは十分可能であ り、それによって、被控訴人が控訴人の安 全確保に関する不安を払拭できたのではな いかと推測することができる。 しかし、E は、控訴人に対し、D からの 前記報告以外に、その情報を一切知らされ ていなかったために、SQ973便の搭乗手 続直前の段階における D からの情報に基 づいて、前記の検討をした結果、上記のと おり控訴人に対する介助や緊急時における 控訴人に対する援助態勢について不安を持 ち、介助者の同行を求めるという極めて慎 重な態度をとったものであるが、限られた 情報と時間的余裕のない中で、E の取った 対応が、航空会社として不合理に過ぎる判 断であったとまでは言い難いものである。 以上の点を考え合わせるならば、身体に 障害のある人の積極的な社会参加、そのた めの移動の自由の確保及び旅客航空機の社 会的役割に着目し、客室乗務員が乗客に対 し、これまでに述べた意味での適切な援助 を提供すべきであること等を考慮してもな お、E が留保解約権を行使して、控訴人に 対する本件搭乗拒否に及んだことが、当該 時点において E が認識していた事実関係 のもとでは、不合理であったとまではいう ことはできない。 したがって、本件搭乗拒否が E の故意・ 過失による違法な判断に基づくものとし て、被控訴人に対し、その債務不履行責任 を問うことまではできないと言わざるを得 ない。 ⑵ 本件搭乗拒否が公序良俗に反するとして 被控訴人に不法行為責任が生じるか否か) について 上記の事案の概要等で摘示した本件搭乗 拒否に至った事情及び判断に記載のとお り、E は、控訴人の前記身体の状況や外観 によって控訴人を差別的に取扱い本件搭乗 拒否に及んだものではなく、控訴人につい ての限られた情報と時間的余裕のない中 で、控訴人には単独搭乗を拒否できる前記 特別の援助が必要との判断に基づき本件搭 乗拒否に及んだものであって、このことが 公序良俗に反するとまでは言えず、本件搭 乗拒否について、被控訴人に不法行為責任 を問うことはできない。 ⑶ 以上のとおりであるから、原判決は結論 において相当であり、本件控訴は理由がな い。よって、主文のとおり判決する。
これ同じやつかな。
することはできないところではあるけれど
全確保に関する不安を払拭できたのではな
いかと推測することができる。
https://twitter.com/ktgohan/status/880081514070892544
で言われてる原則のあとに「けれども」つってなんか色々続いてるけど。