はてなキーワード: 元服とは
九重姫は、侍女とともに丹波の国境まで逃れ、たまたま見つけた施行宿に泊っていた。
しかし、実はその宿は丹波太郎という人買いの罠であり、九重姫たちは売りものとして部屋に閉じ込められてしまった。
古猪之助は、鹿之助の両親に近況を報告するため信州まで旅しており、いまになって戻ってきていたのである。
あっというまに丹波太郎を退治した古猪之助は、九重姫たちとの再会に驚き、それまでの事情を聞き出した。
古猪之助は、ちょうど相木森之助から九死に一生を得るという霊薬を授かっていたので、
それを水とともに鹿之助に嚥ませると、見事に鹿之助は息を吹き返した。
古猪之助は、京へ逃れるよりも有馬の温泉で養生したほうがよいだろうと進言し、
九重姫も同意したので有馬で四ヶ月ほども過ごしたところ、鹿之助はすっかり回復してしまった。
自らは姿を変えて、将軍・足利義輝の執権である松永弾正久秀のもとに潜り込んだ。
鹿之助は「早助」と名乗って下働きをしていたが、一年もすれば松永弾正にすっかり気に入られていた。
あるとき、義輝公が銀閣寺で酒宴を開いた際に、にわかに雷鳴が轟き、庭に火の玉が落ちてきた。
火の玉が大暴れしているのを見た早助は、すぐさま庭に飛び込み、火の玉を掴んで殴りつけた。
すると火の玉が消えて、現れた雷獣が逃げ出そうとするので、早助はまたぶん殴って、帯で大樹にくくりつけた。
その活躍を気に入った義輝公により、早助は将軍直参の草履取りへと取り立てられた。
さて、京には若君・勝丸もおり、兆殿司の教えを受けて文武に優れた若者に育っていたが、
あるとき兆殿司の描いた勝丸の似顔絵が、義輝公の妹の白縫姫の目に止まり、
それに惚れ込んだ白縫姫が恋煩いで床に伏せるにあたり、
義輝公も勝丸の素性を調べて、これならば妹婿に相応しいと認め、二人は結婚することになった。
下記箇所について、補足。
多少横道に逸れるけど、前近代の家族観の認識のずれの方が気になった。
今となってはそれが極論に過ぎないという批判も多い
お手数だけどこれの根拠があれば紹介請う。
引用いただいた「今となっては『それ』が極論に過ぎない」という部分の「それ」は、直前の、いわゆる「近代の見直し」が盛んだった時代の論、を受けているのね。自分は家族論や社会学の専門家とかではないけど、たとえば20年ほど前にはF・アリエスの「子供の誕生」について、次のような言い方で「近代以前に〈子供〉はいなかった!」的な紹介がされ、多くの人に影響を与えたわけだけれど、
子供は長い歴史の流れのなかで、独自のモラル・固有の感情をもつ実在として見られたことはなかった。〈子供〉の発見は近代の出来事であり、新しい家族の感情は、そこから芽生えた。(みすず書房:https://www.msz.co.jp/book/detail/01832.html)
実際問題としてこれは「(我々が思うような近代的)子供(観)」が誕生したのは近代の出来事に過ぎない、というだけの話に過ぎないわけだということは、今となっては説明するまでもないことだよね。親子像、子供像が「今とは(多少)違う」のは事実としても、親子や子供が過去の文献に登場しないということはない。自分が言いたかったのはそういうことです。そして、増田が引いてくれた極東ブログが引用している元論文も、原文では次のように書いてるよね。
これを、極東ブログさんは「日本に家族なんてものはなかったし、結婚もなかったんですよ」というタイトルで紹介するわけだけれど、この図式は上に挙げたアリエスの事例とそっくりだというのは分かってもらえるのではないかなあ。つまりもともと「(近世に誕生した近世的)家族は近世以前にはなかった」というだけの話しかしてないのに、それをセンセーショナルに取り上げて過剰に敷衍した意味づけをしている、という構図。いかがでしょうか? 本当は、近世以前にも、たとえば古代的、中世的な形で家族はあったし、古代的、中世的な姿で「子供」も社会的に存在した、ということです(たとえば「子供」を人間以前の存在として大人とは別なる名を与え、一定以上の年齢になると新たに人間としての名を与える「元服」という風習とかがそう。)。
さらに、今私たちが思う「子供」観の全てが「近代に作られた子供像」で説明できるのかと言えば、それもまた違うのではないだろうか。単純に同じと言えないことはもちろん前提なのだけれど、1300年前に山上憶良が「銀も金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」と歌ったその親子観、あるいは800年前ごろに、合戦中に年配の熊谷直実が、組み伏せた若武者が十六、七と我が子のような年の若者であるのを見て思わず刀を止めるシーンを描いた平家物語に見られる「年少者に配慮する心境」のようなものが、現代の私たちの「子供」観と全く不連続であると言い切るとそれも相当無理があると思うのですよ。もちろん、1300年前、800年前の人々と私たちは、政治制度も世界観、死生観、何もかもを共有していないと言っていい。だから、本当のところ彼らが何を感じていたかなんて分からない。(まあそれを言うならそもそも現代を生きている私たち同士だって、何をどれほど共有しているかは保証されないけどね。)それより、そうして「ことば」に載せるべきことは何か、すなわち彼らが「想定した公共」が何かという点に着目してみるなら、彼らと我々の間に一定の何かを架橋することは十分可能だと言えるのではないか。それを安易に「親子像、家族像の根本」であるとか結論付けるのはそりゃ止めた方がいいと思うけど、そこに「引き継いでいる何かがある」ことは認めた上で話を展開するのは、それは十分建設的なことだと思うんだよ。
※コノハナサクヤヒメの話を書くスペースが無くなったんだけど、一言だけ言うとあれは一般的な婚姻の姿をイメージしたお話とは言いがたいのではないかなあ。「姉妹を同じ人のもとに嫁がせる」のは、あの話では天孫降臨した人間の祖に対して山の神が繁栄を授ける、という文脈だよね。それは、たとえば地域を訪れた新しい権力者に対して地元の豪族が取り入る、みたいな図をベースに作り上げた物語なんじゃなかろうか?
王子様という名前の男性が改名したというニュースが流れてきた。
キラキラネームの是非やそうした名づけをする親についてはともかく、
疑問なのはなぜ人は自らに対し名づけの権利を有さないのだろうかということ。
自己を所有するのは自分自身という自己所有の考え方に基づけば、
だが急進的なリベラル、リバタリアンですら自己への名づけの権利について
主張しているのを見たことがない(私が知らないだけでそういう運動があるのかもしれんけど)。
権利能力が制限される子供時代は保護者がつけた名前を使用するべきだと思うけど、
20歳をむかえ成人したら自分に名前を付けるようにできないものか。
もちろん保護者がつけた名前をそのまま使いたいのならそれでもよい。
現在も婚姻の際の氏名変更はあるし、改名手続きができるのは20歳の誕生日から1か月以内、
それを過ぎたら親がつけた名前を引き続き使用するものとするって制度にして
自我だとか判断力ってのは何か、身体的成熟と社会的責任能力の定義は? 18歳で選挙権が得られるようになった昨今、論じてはいけないという事もないだろう。
増田は高校生と言っているが、元服は12~20らしいし、海外王室でも婚姻の例は幾らでもあるよな。
だから俺は、これって「どうして人身売買がいけないのか?」で議論したらいいと思うぜ?
性を売るなんてありがち過ぎんじゃん。公式に政府が免状出して、本人の意思に従って人間を売り買いできるようにしたらどうかって話にしねーか?
期間限定なら滅私奉公なんてのもあったし、昭和の体育会系の就職なんて就業時間は買われてるようなもんじゃん。
いいじゃねーか、大いにやれよ。
人が人を売り買いして何が悪いの?
山本常朝
山本常朝
山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日(1719年11月21日)は、江戸時代の武士、佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。
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1 略歴
3 史料
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
略歴[編集]
万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路(現在の佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩士山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田作左衛門女。
常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき、鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。
11歳で父に死別し、14歳のとき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳に元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。
この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚に仏道を学び、21歳のときに仏法の血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。
『葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田(現在の佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。
天和2年(1682年)24歳のとき、6月、山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月、御書物役を拝命。28歳のとき、江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。
5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授(古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事に京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。
同年5月16日、藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した。5月19日に藩主の菩提寺たる曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒、剃髮して名を旭山常朝と改めた。7月初旬に佐賀城下の北10キロの山地来迎寺村(現在の佐賀市金立町)黒土原に朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る法のりの道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲した。
田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年)3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。
のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分の墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方約11キロの大小隈(現在の佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。
享保元年(1716年)9月10日、田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年)10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所は八戸龍雲寺。
辞世の歌:
重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵
虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしものを
http://anond.hatelabo.jp/20170111123555
4月1日は年度替わりで忙しいからさすがに避けたいが、別に成人の日に成人式やる必要はないし、だから1月15日だったころは僻地な地域の成人式はだいたいお盆にやってた。今調べたらゴールデンウィークにやってるところもあるらしい。どちらも帰省ついでに成人式やるって感じの話だね。
成人の日がハッピーマンデーになってからは、必ず連休最終日になる成人の日ではなくその1日前、日曜日に成人式やってるところもそこそこある。
もともと成人の日は小正月に元服の儀を行ってたところから定められた祝日だから、ハッピーマンデーになるとその辺わかりにくくなるよね。
そもそも外に奉公に出た人にとっては1月15日は藪入りでもあったわけだからうまくいってる部分でもあったのだろうけど、そろそろ藪入りで休む人もそうはいなくなってるしね。
赤ん坊が無事「子供」になるまでの1~2年は、一人の大人が職も家事も投げ打つほど生活を犠牲にするということはもはや半ば常識だが、
さらに子供が大人になる思春期にも、ザーッと音がするくらい300歩くらい大人が譲って、本当に一人分の席を開けてやらなきゃいけないんだとしみじみ思う。
賢くて、小学生中学生を抑圧されたまま過ごしていられた子ほど、親はそのまま行けると勘違いしがちだが。
身軽に、ひらりと、避けて、またはゆずってあげなければいけない。
親のどちらとも違う第三の大人がそこにできあがりつつある。
第三の大人はいままでからするとカツアゲかとおもうくらいまた急にお金や時間を持っていく。
非常にタイミングのわかりづらい、面倒な、そしてお金のかかる時期がきたんだなとようやくおもえた。
もっと直線的で上り坂をゆっくり歩けばよいとかとおもったら、急に崖を登るようにむずかしいんだ。
家康はお子さん育てたことがなかったのかね、いや元服したらもう大人だったのだろう。
さておき、子供が大変手がかかる時期とその時必要な労働やお金の量が子によって違って予測できないのは、本当にこまったことだ。
果てしない物語が始まるときは、たいていしょうもない物語からはじまる。
その日も例外ではなくて、ほんのちょっとした諍いがおこったとのことだった。
酒場にいたのはたいていのよっぱらいと、風変わりなやつと、身元不明のやつ。
あとは女。
だいたいのことはうまくいっていて、ときどきのこうしたいち、にのことを抜かせば、何の変哲も無い町なんだと思う。
酒場ではじまった諍いは、ほら、もう終わっていた。
そうこうしているうちに、僕は目を覚ました。
場所は、自宅の2階。2階とはいっても、自宅は全部で3階ある。その中頃の、2階の、自分の部屋だってわけだ。
自分の部屋と言っても、ただの自分の部屋じゃない。僕の自分のベットがある自分の部屋だ。
そこで、そのベッドの上で僕は目を覚ました。
目を覚ましたと言っても、おぎゃーとか言ったわけじゃなくて、僕もいい加減そろそろ元服なわけで、
厳かに静かに起き上がったわけだ。意識の上は。
ぱちっと、目を覚まして、布団から抜け出して、服を着て、外に出かける。
そう考えるとわくわくしてくる。そのわくわくする時間を、想像しながら、目だけ閉じて、目だけ覚ましてるのが僕のお気に入りの時間ってわけだ。
ほら、こう回りくどいぐらい説明したって、僕の言う目を覚ますの意味がちっともわかってない。
目を覚ますってのは、ほら、こう、こうだよ。僕の言う目を覚ますだ。
おぎゃーと、下の階から音が聞こえた。これはそろそろアレのサインで、たいていは僕の予想通りだ。
この時間に降りていったら、大抵の朝ご飯は台無しになる。あと10分は、少なくともこうして目を覚ましていたい。
そしたら僕は下に降りるんだ。降りて、朝を始めるんだ。
朝はいつでも朝で、それが夜だったことは今まで一度も無い。
朝がきたときには、朝が来ていて。夜が来ていたなんてことも一度も無い。
朝が来たときに夜がきていたなんてことがあれば、それはほら、君が不健康なんだ。
そんなことを思っていると、もう10分はたったと思う。
ようやく僕はほんとに目を覚まして、あっというまに下にいた。
もう説明している余裕はなくて、ぼくはあっというまに食べた。
ベーコンの脂だけで焼いたベーコンと、その隣でやいた目玉焼き。
かりかりの端っこが、僕のお気に入りで、それはベーコンと卵の良能のことを言っている。
あの最後に残った油を、残った一かけのパンですくい取って食べてこそ、満喫したと言える。
★よく「年金はこのままだと破綻する!!」と恐怖感をあおる報道がなされる。
或いは、金融機関とか保険会社が、「だから養老保険に入りましょう」とセールストークする。
でも、年金が「見込より2~3割程度少なくなる」ことはあるかもしれないが、
「年金が見込みより半額以上減る」ことは現状考えづらい。
「半額以上減る、破綻する」と不安煽って商売する金融機関・雑誌テレビは猛省すべしだと思う。
彼らのせいで、日本人の経済行動が過剰貯蓄になり、さらに不安先行心理になって、出生率まで影響しちゃう。
★これは私見だが、日本の年金財政は、実は雑誌が煽るほどには悪くないんじゃないか、と思う。
出生率の予想は外し、利回りの予想も大外れなので年金財政が悪化方向であるのは事実だが、
一方で、「70歳近くまで、年金を受け取る側じゃなく、年金を払う側」に回る人も多い。
★実は、65歳以上高齢者の「就業率」国際比較データを見ると、日本は突出して高齢者就業率が高い。
社会学者は、その理由を「日本の年金水準が低いから(現役時代所得代替率が低い)」の一言で説明している。
実際「年金水準が低いから、仕方なく働かざるを得ない」の理由な人も多いだろうが、
それだけでこの高就労率を説明できるだろうか?
「経済的には働く必要もない」のに「リタイアするのが怖い、リタイアすると生きがいが無くなる、自分の居場所として職場が欲しい」
という「精神的理由でリタイアしない人」も、日本では結構多いんじゃないかと思う。
★成人になるのに、社会によっては「通過儀礼」を行うケースがある。
昔の日本の元服式、今の成人式、未開部落ではバンジージャンプ、韓国では徴兵制。
今の日本では成人式は通過儀礼になってない。だから「精神的に大人になれない、なりたくない20歳以上」が増えてる。
★60~70歳男性にとって、「退職」とは一種の「老人としての通過儀礼」。
しかし、「自分は老人だと認めたくない、精神的永久青年」が増えているため、
「老人としての通過儀礼であるリタイア」を極力後倒ししようとする日本人男性が多い、それが「60歳代後半の異常な就業率」の正体では?
★ちなみに、日本の平均リタイア年齢が69歳程度なのに対し、フランスは60歳を切っているらしい。
かの国では、「老人になることを受け入れる」精神風土があるのではないか?
22か国では「働く必要があると考える年齢」より、「リタイアしたいと思う年齢」を下回ったらしい。
世界的には、大多数の人は「もっと早くリタイアしたいのに、経済的にやむなく働かざるを得ない」
唯一日本のみが「働く必要があると考える年齢(60歳)より、もっと長くまで働きたい(62歳)」と回答したらしい。日本人のリタイア拒否症状は重症。
★また、『職位では特に管理職が、より長く働きたいと考える結果』だったらしい。
この調査結果は、すなわち、日本人のリタイア後倒し現象が、経済的理由に起因するものではないことを裏付けている。
管理職なら、経済的には『働く必要がない』のに、あえて働いている。
恐らく、管理職の『まだまだ若いモンには、ウチの会社は任しておけねぇ』という訳判らない『責任感』が、
★これ是非とも、「年収・資産」と「いつまで働きたいか?」のクロス統計を見てみたい。