はてなキーワード: 仕舞とは
差し入れをいただくことが多く、その際に「来ていただきありがとうございます」と言えて、それがとても嬉しいことだ。
差し入れの内容は美味しいお菓子やお茶、自引きできなかったグッズ、アニカフェ限定のコースターなどなど…。
こんな弱小サークルに差し入れなんて申し訳ないと思いつつも「美味しい!」「推しがかわいい!」「こんなレアグッズもらっていいのかな!?」と、
一人キャッキャしながら名前と差し入れを確認してツイッターでやり取りができる方にはお礼を言って回る。
だが、本音を言うとそんなにたくさんんの差し入れをいただくと困ることもあるのだ。
行きはキャリーケースに36ページのコピー本数十部と10冊未満の既刊、設営グッズ、憧れのサークルさんへの感想手紙を詰め込み、普段使いのバッグを持って出かける。
帰りは運良くコピー本が完売すれば良いが、戦利品を押し込めばもうキャリーケースはパンパンだ。
それに加えて上記のようにたくさんの差し入れをいただくと、折りたたみ式エコバッグに差し入れを入れるのだが、入り切らなければ普段使いバッグに入れて帰ることになる。
戦利品と設営グッズと差し入れ、全部送ればいいじゃん!と思われるかもしれないが、売れ残った新刊や既刊を小さめのダンボールに入れて送るだけでも着払いは高い。
地方住まいなら迷わず宅急便を使うが、都内在住だし、せっかく手持ちで持って来ていただいたものを宅急便で送るのも何だか気が引ける。
加えてかわいくラッピングされて中身がわからない状態のカステラや最中は早々に食べなければならない。
別ジャンルの友達と合流し、アフターに行く際に差し入れをもらいすぎてキャリーケースにも入らず、
ノベルティの紙バッグに入れていたら持ち手が切れて大変な事態になったこともある。
そこで私は思った。「差し入れは同人誌の感想手紙が最強」であることを。
嵩張らず、すぐに仕舞えて、日持ちを考えなくて良い。手紙すごい。
だが、私だけかもしれないが同人誌の感想を書くのはかなり神経と精神をすり減らす。
普段は70~100P程の同人誌を頒布する小説サークルなのに、1冊24Pの同人誌の感想手紙(2500字程)を書くのに半日を費やしてしまう。
推しカプが一緒のコマにいるだけで幸せなのに、好きな作品のどこが良かったかを文章化して伝えるのはとても難しい。
「最高です」「好きです」「萌えます」「ありがとうございます」…大抵この4語が文末に来てしまう有様だ。
普段キーボードばかり打ってるせいか字は汚いし、文字を書く行為事態も疲れて(筆圧が強い)残りの半日は疲れで目眩を起こしたりする。
なので、自分でも「差し入れは同人誌の感想手紙最強論」を謳いつつも、
申し訳ないが本当に本当に好きな人や毎回忙しいのにコンスタントに新刊を出す友達、最近同人トラブルに巻き込まれた人、憧れのサークルさんにしか書けない。
今度スパコミがあるけれど、一生懸命書いているのにまだ1通も書き上げていない。
目標は5/4までに3通なのだが、思いを伝えるのにこれほどまでに「手紙」というツールが大変だとサークル参加を経験しなければわからなかった。
これを知ることができただけでも同人活動をやって良かった。
私は、アイドルに恋をしている。
決して叶わないと分かっていて、それでも恋をしている。
自分では、もうどうしようもない感情で、「誰かを好きになる時理由なんかは必要ないの」と曲の歌詞にこれ程共感することはないだろうと思う。
痛い、とは分かっているから、どうか私の話を聞いてほしい。
友人の勧めで画面越しの彼に出会ってしまった時、何もかもどうでも良くなるくらい彼に惹かれた。
ひたむきに、でもファンを見つめる目をキュッと細めて幸せそうに微笑んでいた。
あぁ、なんて素敵な人なんだろう。
それから彼に関する全てを収集した。もっと知りたい。もっと彼のことを知りたい。
私がそれまでなんとなく知っていた彼よりも、彼はもっと男気があって芯が通っていて凛とした人でした。
普通の女の子が青春時代に味わう淡い恋も、すべて彼に気持ちが向いてしまいました。
もちろん誰にも言えず心の中だけで、誰にもこの恋の事を言いませんでした。
彼氏もいましたし、成績も学年順位1桁を争っていましたから、傍から見たらとても充実した日々を送っていたように見えたでしょう。
けれど、勉強を頑張っていたのは彼の行った大学に行きたかったから。
彼氏のキスも、目を閉じた私の瞼の下には、大好きな大好きな想い人の姿が浮かんでいました。
最低でしょうか。
それでも、彼が大好きでした。
テレビの向こうでキラキラの笑顔を向けながら、無理難題にも果敢にチャレンジしていく姿がどうしようもなく好きで、どうしようもなく愛おしかったのです。
このままではいけない、と思ったのです。
このまま画面の中の人、ステージの上の人に淡い恋をしていたって、何にもならないのだから。
別の趣味を見つけ、徐々に彼を避けるようになりました。
進学先で辛いことがあった時は彼に縋りたくなったけど、それではいけないと強く言い聞かせて。
背けていた現実に目を向けて、大切に大切にしていたコレクションも全部売り払いました。
どうしても捨てられないものだけを残して。
たくさんの彼で埋め尽くされていた私の部屋はがらんとしてしまいました。
私の部屋、こんなに広かったっけ。
ひとしきり泣いて、それから捨てられなかったものを2度と思い出すことがないように奥深くに仕舞いこみました。
彼への興味をいよいよ失った頃、友人からの誘いで再び彼の所属するグループのコンサートへ出向くことになりました。
この時の私はもう、あの涙はなんだったんだというくらい彼への恋心をすっかり失っていましたから、絶対大丈夫だと思ったのです。
いま、今の自分なら、ただただ普通にコンサートを楽しめるはずだと。
そんなの、無理だった。
大好きな彼が私の目の前のステージから出てきた瞬間、もうダメだと思った。
どうしようもなくその細いのに男らしい背中に抱きついて、あなたが好きだと言いたい衝動に駆られた。
勿論、そんな事は実際出来っこないけど。
大好きだった彼の声、大好きだった彼の姿。
私はやっぱり彼の全てが大好きで、それはきっと形を変えても永遠に残る美しい恋なんだと。
社会人になったらさ。
でも言えないから。
だから普通のファンの振りして、今日も楽しく昨夜のテレビ番組でのあなたの事を職場の人と話す。
あなたはコンサートで「可愛い」「大好きだよ」「心から愛してる」「俺の命だよ」って言ってくれる。
だから、
あなたが「長い髪の子が好き」って言ったから、髪はロングだし毎日手入れも欠かさない。
あなたが、「美意識の高い子が好き」って言うから、だらしない生活に鞭打って食生活から振る舞いまで気を付けてる。
あなたが、「フリフリとかパステルカラーの服が好き」って言うから、日頃からスカートを履いて、女性らしい格好をしてる。
あなたの「自慢の彼女」で居るために、あなたに「可愛い」と言われて恥じないように。
例えあなたが私のことを知らなくても、私はあなたの為を思えばなんでも頑張れるんだよ。
そうやって私の言動ひとつひとつに、あなたの「好き」が詰まったまんま。
今日も仕事に疲れたら、パソコンの中で儚げに歌うあなたの横顔を見て、もう少し頑張ろうって思うんだよ。
一日頑張った身体を引きずって帰ってきたら、またあなたの香水を身に纏って、あなたの柔らかな歌声を聴きながら、あなたのサラサラの金糸を頬に感じながらただ愛される夢に深く沈み込むのでした。
そうして私は6年間、片想いをしている。
そんな私の想い人は、
着圧タイプのタイツとかガードル履いてると尻を出すのも尻を仕舞うのも時間がかかるんだよ〜〜〜1分じゃできねえよ〜〜〜!!!
トイレ内ではなくトイレの個室で、の話ですが、私の場合は[入室、尻を出す、排尿、拭く、尻を仕舞う、退室]で1分もかからないですよ。
でも他の人って全然出てこないですね。私より先に入った人が私がトイレを出るまでずっと個室にいることなんてしょっちゅう。
大の方なら時間がかかるのは分かるんですが、みんながみんな大をしてるってこともないと思います。
いつも謎です。
(追記)
着圧タイプのタイツやガードル→なるほど。それは時間がかかるでしょうね。自分はパンストもあまり履きません。基本パンツとズボンだけ、ベルトもしてないことが多いです。冬はタイツを履くことありますが、着圧ではありません。
座ってからすぐ出るのか?→すぐ出ます。ギリギリまで我慢してるわけでもないです。
食事と風呂も早い?→食事は大抵の女性よりは早いです。風呂はあまり早くないです。
盛りすぎ→そうかな、と思って今家で計ってみました。普段通りにやって、28秒でした…(スウェットなので外出着ならもう少し時間がかかるとは思います)
好きだったというより好きなままだけれど、好きなことは少しも過去にはならないけれど、たまには思い出話をしよう。
本郷三丁目の交差点の沿いにMitteというお店がある。私はそこが好きだった。頻繁に通ったとは言い難いけれど、お金をきっちり落とす優秀なパトロンだとは言い難いけれど、それでも私はそのお店が好きだった。そのお店は今日が店仕舞いの日だった。だからたまには思い出話をしよう。
もとより古い文具とかそういうものが好きなのだけれど、Mitteのことは他のどこの古い文具を扱うお店よりも好きだった。
どんなに外が寒い日でもお店の中が温められていて好きだった。色々なものが所狭しと並んでいて、ただ眺めるのでなくかきわけるように探していいものを見つけるのが好きだった。それで何かを買おうとするとお店の人が話しかけていろいろ教えてくれるのも好きだった。
私は街中の服屋や電気屋なんかで話しかけられるのは全然好きじゃないけど、Mitteでお店の人の話を聞くのは好きだった。ものを一つ買うにも、そのものが経てきた色々な経路とか歴史がある。私は古いもの固有のそういう遍歴が濃ゆいところが好きなのかもしれない。ものにまつわる話を教えてもらって、共有して、そのお話とものを連れて帰るような、いつもそんな気持ちでお会計をしていた。
買うのでなく連れて帰るのだった、というのが分かってもらえるだろうか。いいものを延々と時間を掛けて選び抜いて、抱える掌の熱で生温かくなってしまったようなのをレジに持っていったとき、お店の人がいいものとの別れを名残惜しむように値付けをしてくれるのが好きだった。
値付けもふつうの古文具の相場に比べてずっと良心的だった。本当にそんな額面でよいのか疑いたくなるくらいだった。なんでもかんでも安いことが素晴らしいと礼讃する気にはなれないが、良心的だったことは間違いのないことだ。
それからこれはとても個人的な話で、これから述べることがMitteを訪れた全ての人へのもてなしだったとは少しも思わないが、私はお店の人が紅茶やコーヒーやお菓子を出してもてなしてくれることも好きだった。その場所に長居して構わないような気分になるのだった。何時間も長居をして結局買うのはほんの千円だとか数千円が関の山なのだが、それでも居心地良く何時間でも吟味をさせてもらえるような場所は、世界広しに古雑貨屋多しといえど、私個人としては、ここ以外には無いと思う。
Mitteはお客さんで混み合うことが少なかった。採算がとれるか否かでいえば勿論悪いことだが、自分勝手なことを述べるのがもし許されるなら、私は自分以外のお客さんがいないMitteでひたすらものを選ぶのが好きだった。
混み合っているようなのはどうも落ち着かなくて苦手だ。繊細なものばかり並んでいる棚の前を人間が往来するのは落ち着かないものだ。その点あの場所はとてもいい場所だったのだ。それで前述のとおりもてなしまでいただくと、ああ自分の部屋もこんな風だったら素晴らしいのにな!と思わずにはいられないほど素敵だった。
Mitteはいいものがどうしてと思うくらいに取り残されている不思議な場所だった。東独の宇宙豆本なんかあまりにも素晴らしいもので一目惚れだったが、私よりかは宇宙好きな人の元に渡った方がよかろうと思い、一度見送って、数ヶ月後まだあって、まだ見送って、それから数ヶ月後の三度目にようやく、こんなに可愛いものを誰もまだ迎えないなら、私がさらって行ってしまおうと思ったものだった。さらわれた豆本は私の狭い部屋の狭い古文具入れの中に収まっている。少し運命が違えば東独博物館のガラスケース入り豆本の仲間だったかもしれないのに、豆本も数奇な運命を辿っているものだ。
それでも私は冒頭に書いたように、自身が優秀なパトロンになれなかったことを悔いている。続いて欲しいものにお金を落とすことの重要さを今までもわかっていたつもりだったが、それでもやはり手を尽くせなかったように思われる。行きたい場所や欲しいものは、それがある内に大切にしなければならない。
重ねて書いておくが、お茶とお茶菓子などの応対についてはされた人もされなかった人もいると思うが、そのことで何人たりともお店に文句を言うようなことはあってはいけない。私以上のもてなしをされた素晴らしいパトロンだって居るであろうし、私はそのことを悪いと全く思わない。逆に初めてそこを訪れた人などは相対的に落としたお金が少ないのであるから、もてなしのないこともあるであろう。もてなしは無償ではないし当たり前のものでもない。それが普通だなんて少しも思わない。それらは身に余るような優しさだったと今も思っている。食べ物は消えてしまうが、もてなしを受けたことは消えないので良い。
私は、そして私を含む古文具収集家や古雑貨好みの人々はみな、永遠などないことを知っている。東独もソヴィエトももう現代にはないものだ。それでも自らが通った場所が現代でなく過去になることは、どうしてこんなに厳しい気持ちになるのだろう。もう終わったもの、過去のもの、二度と戻れないものにこんなにも執着し心惹かれながら、自らにとって現代と思われたものが同様になるのをどうしてこんなに悲しく感じるのだろう。
Mitteには現代の品物も置いてあったことを分かった上で述べるが、古文具趣味や古雑貨趣味というのは、大きく括ってしまうと、使い終わったもの、行き場をなくしたものに、また新しい行き先を見つけていく趣味なのだと思っている。あの場所から幾多のものの新しい行き先を見出した私は、私たちは、私たち自身の行き場をひとつなくして、一体次はどこへ行くのだろうか。
それでも次の行き先をまたひとつ、そのうち見つけられるのだろう。そうやって集めた行き先の中にまだ何らかの形でMitteがあることを、私は知っている。だからなんてことはない。これは別れの挨拶でもなんでもなくただの思い出話だ。またね。
日暮れて道遠しと云う人生を歩むタイプと申し上げて置きましょう。冷え切った灰色の心の持ち主です。自 己不全的な性格が強く、人に良く思われたいと云う気持ちと、劣等感に悩まされるタイプです。考え方や行 動が非合理的で、世渡り下手の傾向が強いでしょう。他人を理解したり、同情したりする事は嫌いだが、妥 協したり、我慢したりする事は厭わないのです。云ってみれば、表面的な帳尻合せにのみ、腐心しているタ イプで、生有る限り孤独の谷間を歩み続けなければならない様な運命を、自から作り出して居る、非常に気 の毒で損なタイプと云えましょう。これと云った趣味も無ければ、娯楽も無く、生の充実感を一体何で味わ って居るのか、周囲の人々の不思議がるようなタイプです。
暗く閉ざされた心の持ち主が、何処に救いや憩いを求めるのかと云えば、それが子供の内なら肉親であり、 成人の暁には、配偶者としての異性より外に無いわけです。そう云う意味では、結婚の相手捜しが、物凄く 重要なタイプであり、他のグラフ型の人々の結婚とは、その重要度が一味違った意味を持って居ます。何故 ならば、自己不全的な観念が強く、消極的で暗いイメージを背負ったタイプだけに、自分の好みの相手に対 して、積極的にアタック出来ず、又、そう云う強い意志も無いタイプですから、結婚相手が見合いとか、極 く身近の人とか云うように、周囲の人々による一種の宛行(あてがい)扶持(ぶち)的要素が濃くなる傾向 が強いのです。その上、一旦結婚して仕舞うと、能動的に相手をリードしたり、出直しを計ったりと云う自 在性が殆ど無いタイプですから、悪い方へ循環し始めると、その悲劇性が途方も無く増巾され兼ねないので す。
職業適性
創造力や表現力を要求される仕事が、先ず駄目です。高い判断力や分析力を求められる仕事も不適性です。 人間愛を求められる職業も不向きです。最も無難な職種は、一般公務員か、一般事務、単純サービス業、肉 体労働者などの極く限定られたものになるでしょう。
対人関係
小手先の技巧では、どうにも修正のしようが無いと云うのが、貴方の現在の生き方なのです。一歩一歩と自 分の性格の中に欠けた部分を、丹念に埋め戻して行く作業を、根気良く続けて行くより他に、良い方法は無 いと思います。
去年の9月末は↓
自信喪失のタイプであると、申し上げて置きましょう。極言すれば、貴方の肉体は自主独立の魂を欠いた、一種の抜け殻的な存在とも言える訳で、周囲の人々の圧力や示威が、世に云うテレパシーのような形で、貴方の中へ入り込んで来て、貴方の言動を、あれ、これと、操縦して仕舞う訳です。いわゆる強度な自己不全観念の持ち主と云う事になります。云うなれば、人に良く思われたいと云う気持ちが、強すぎると共に、自分が役立たずや能無しではないかと云う劣等感も強く、過敏型ないしは、強迫神経症型の、性格異常を招き易いのです。今後は、もう少し自分に自信を持つ事です。自分より尚一層、下らない人間、詰まらない人間、役立たずの人間は、この世に数限りなく居るのだと云う事を、常日頃から、自分に云い聞かせるようにすると共に、周囲の人々も一皮剥けば、自分と五十歩、百歩であり、自分は唯、根暗(ねくら)で表現力が無いのと、物事に正直なだけに、悩むことも人一倍多い、本当に人間らしい人間なのだと、全てを良い方へ解釈し、胸を張って開き直る事です。
詰まらない相手に、一度引っ掛かって仕舞うと、方向修正や出直しの容易に出来ない性格だけに、一生を棒に振って仕舞うような危険性も、かなり高いタイプです。結婚後は相手に対して、箸の上げ下げにまで気を使うような、姑息な配慮の仕方では無く、相手に貴方と結婚して、本当に良かったと思わせるような、大きな愛情、巧まざるユーモアなどを身に付けるように、心掛けるべきです。
職業適性
芸能、芸術、文芸などの分野には、殆ど適性が無いでしょう。事業家、政治家、治安関係公務員、法律家、金融業、質業、医師などにも不向きです。保母(父)、看護婦(士)、単純サービス業、一般公務員、一般事務員などでしたら、別に性格的な面からの差し障りはありませんが、中間管理職などになった場合には、上下の板挟みで、かなりの苦脳を覚悟しなければならないでしょう。
対人関係
もう少し図太くなる事を心掛けると共に、人生に対して、もっと積極的に好奇心や探求心を持ち、自分にも他人にも、もっと厳しく無闇矢鱈(むやみやたら)な妥協を排することです。
ネガティブな結果だなあ相変わらず
どこで間違えたか頓とが見當つかぬ。なんでも薄暗いじめじめした性格でニヤニヤとあぬめを見て居た事丈は記憶して居る。
吾輩はにうすでかなぶうんといふばんどまんを見た。然もあとで聞くとそれは不倫といふ人間中で一番獰悪な所業であつたさうだ。
ばんどまんといふのは、時々芸能人を誑かして抱いて食ふといふ話である。然し其當時は何といふ考もなかつたから、別段恐しいとも思はなかつた。
但、女子が掌に載せられてスーと貞操が出家さられたと思うと何だかイライラした感じが有つた許りである。
ふと氣が付いて鑑みるに、吾輩は不倫の前に婚姻すらも付き合うたことすら無い。沢山居つた童貞が周りには一疋も見えぬ。肝心の女子さへ姿を隱して仕舞つた。
其上、今迄の時とは違つて無暗に恋しい。果てな何でも容子がおかしいと、のそのそと這ひ出して見ると世間の目は非常に痛い。
吾輩は若者から中年の中へ棄てられたのである。漸くの思ひで出逢ふ系に這ひ出した。
吾輩はどうしたらよからうと考へて見た。別に是といふ分別も出ない。暫くしておいたら女子が迎に來てくれるかと考へ付いた。
試みにやつて見たが誰も來ない。性欲が非常に減つて來た。泣きたくても屁しか出ない。
付き合った人数4人
経験人数5人
年齢20
これだけ聞いて、ピッチと思うかそれくらい普通と思うかはそれぞれだと思うのでお任せする。
付き合って2ヶ月でセックス
彼氏1と私は童貞と処女同士であり、初めてのセックスは苦難が多かったが、初めて知る快楽は忘れなれないものとなった
セックスにどハマりし、お互いの家に入りびたりセックスしまくる日々
付き合って10ヶ月ほど経ったとき、彼氏の友達(のちの彼氏2)と性欲本位でセックス
もちろんこれは浮気ということになる
ちなみにこいつは、彼氏1の友達どころか、当時の大親友であった
お互いの家、カラオケボックス、放課後の教室、いろんなところでズコバコしていた
それを彼氏1が知る
当然、彼氏1と私は別れる
付き合う前も、付き合ってからも、セックスを主体とした関係は変わらなかった
それから1年ほど彼氏はいなく、セックスを定期的にする相手がいなかった
耐えかねた私のまんこは、時間のある時に彼氏1や彼氏2を召喚し逢瀬のセックス(当時高校生であることを鑑みると、ませたビッチとしか言いようがないのだが、皆さんはどう考えるだろうか)
大学生になる直前の高3の春休み、暇を持て余した私は彼氏3を作った
彼氏3も童貞であり、セックスにハマってしまい、連日1日中セックスをする
初めてだから怖い、などとケロッと抜かしていた自分を殴りたい気持ちはある
そして、男の友達を連鎖するようにまんこで包んでいく自分も許しがたい
大学生に進学し、環境もいろいろと変わり、私は彼氏3に飽きてきた
ちんこだけ頂こうと思い、一人暮らしの彼氏3のお家に通い、セックス三昧
ちんこと愛情をタダで受けられるのを良いことに、彼氏3との関係をグダグダ続ける
(彼氏3と彼氏4とはスティミュレイトリー、同時に付き合っていたので、二股というわけだ)
彼氏4は今でも付き合っている、結婚を視野に入れている所謂本命である
・チャラ男くんが一番だよ。初めてだから優しくして❤️、と股を開く(ワンナイトラブに終わった)
・彼氏4とはキス止まり(本命なので)(キスをするのも初めてと偽った)
いろんな男と同時進行しすぎて自分でも訳が分からなくなってきた
ほどなくして彼氏4のことを本気で好きになり、その他の男たちは全部消えた
ちなみにチャラ男は遠距離で彼女がいつつも、私のまんこに手を出してきたというなかなか彼女泣かせなヤツである
全然関係ない男との浮気なら、バレにくい上に、バレたとしても関係さえ切って仕舞えばあとぐされがないのに。
このような遍歴がありながら、今の私は彼氏4のことが本気で好きで、それを自覚してからは浮気行為はしていない。
...性欲に負けしそうになったことはあるが、他の男に触られるとやはり違和感があり、彼氏4が悲しんでしまうと思うとできなかった。
本当に私は性欲が強くちんぽを求める発作が起こった時は大変だが、オナニーでなんとかしのいでいる。
しかしいろいろな経緯から、私がチャラ男と関係を持ったことが彼氏4にバレそうになったことがある。というかもうほぼバレている。しかし私は、苦しい言い訳で言い逃れた。かなり苦しかったが、頑なに浮気の事実を認めなかったところ、彼氏4は私のことを信じてくれている。
...次問い詰められたら、正直にいうべきか。
彼氏4は、私が浮気をしていたとしても別れる気は無いと言ってくれている。
結婚もしたいと言ってくれている。
私は自分を改めたい。
過去の貞操のない行動を悔やんでいる。
初めてだと嘘をついたことも後ろめたくて仕方ない。
本気で彼氏4を大切にしたいし、生涯この人と一緒にいたい。
しかし、苦しい言い訳でも、信じてくれているならそっとしておいた方が良いのだろうか。
何回も問い詰められ、その度嘘を重ねた私が、今更本当のことを言うなんて、信頼をすべて崩しかねない。
お互い不幸になるかもしれない。
告白して楽になってしまおうと言う考えが、きれいごとで甘いのかもしれない。
この後ろめたさは私に与えられた罰なのかもしれない。
好きな人に正直でいたいなどと綺麗事を抜かして、自分が潔白になりたいだけなんじゃないかとも思う。
絶対に否定して、墓場まで持っていくのが、嘘つきなりの誠実さなのかもしれない。
あと、彼氏4のちんぽは大きい。
皆さんはどう思われますか。
毎日、職場には妻の愛妻弁当を持っていっている。美味しいし、栄養バランスも取れていて、家計の節約にもなっているので、いつも感謝しながら食べている。もちろん食後にはLINEでおいしかったよと感想を伝えている。
いつもはお弁当箱とそのセットになったお箸を使っているのだが、妻がお箸を洗うのを忘れていたらしく、当日の朝にお箸を洗うのを忘れてたので今日は割り箸入れてるよ、割り箸で食べてね、と言われた。こちらとしては割り箸だからといって特段困ることもないので、了解と言って家を出た。
昼食後、使った割り箸を紙の箸袋にしまって、お弁当箱とまとめて家に持って帰ったら、「なんで割り箸持って帰ってきたの?バカじゃないの?」と言われた。たしかに一度使った割り箸を再利用するつもりはないし、なぜ持って帰ったのか?とわざわざ聞かれると答えに詰まる。しかし、箸袋に仕舞ってあるので、周りのお弁当箱を汚したわけでもないし、家から持って行ったごみを職場のごみ箱に捨てるのも申し訳ないし、何より何も考えずにいつもの癖でお箸を仕舞ったような気もする。なので、なぜと聞かれると答えるのは難しいが、なぜと聞くほどの質問なのだろうか、とも思う。
すでにこの映画を見て2週間は経つ。鑑賞直後の雑感は箇条書きで記してはいたのだが、一応もう少しまとめようと思い立ったのでここに記す。
おそらくほとんど人の目には留まるまいが、ネタバレを含むので、ここから以下はぜひ本作をご視聴の上でお読みいただきたい。
また、私自身はこの作品を1度しか視聴しておらず、またこの映画に関する情報はパンフレット以外ほとんど(ネット上の評論も含めて)目にしていない状態であるので、思い違いや抜け、または同様の結論に至った他の方の評論がある可能性があることを了承されたい。
また、本文の後半でいくつかの仏教的用語を使用している。が、恥ずかしながら私の仏教知識は全くの独学であり、また理解もかなり浅いものである。もし仏教用語または知識に間違いがあれば、ぜひとも私のツイッターアカウント(https://twitter.com/gachikibou)またはメールアドレス(gachikibou@gmail.com)あてにご叱正をいただきたくお願いする次第である。
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これまで、私は新海誠監督の映像作品をいくつか観た(すべてテレビかDVD)が、どれも見ていていたたまれない気分にさせられるのがいやだった。今回も「新海監督作品」というだけで拒否感が強かったのだが、それを良い形で裏切ってくれる作品であった。
この映画の良い点については、映像作品素人の私でもいくつか挙げることができるが、この文章では、私が「この映画が多くの人の心に深く響いた理由」であると確信した、ある「仕掛け」について取り上げたい。
私がこの映画で見事な「仕掛け」であると考えるのは、「入れ替わっていた時の記憶は夢のように消えていく」という設定である。
ご視聴いただいた方にはわかる通り、この設定は脚本の構成上必要不可欠であり、それ自体が新海氏の作品テーマの一つである「すれ違い」を生むポイントでもある。
しかし私は、この設定そのものが、多くの観客に非常に深い共感を覚えさせるための、きわめて重要な「仕掛け」であったと確信している。
さて、その「仕掛け」について考える前に、まずは一般的な、夢の「記憶」について少し考えたい。
そもそも、人間が見るほとんどの夢は、目覚めた時には忘れられてしまっているし、たとえたまたま夢を覚えていたとしても、目覚めた後しばらくすると、その記憶が朝のルーチンな行事などによって急速に塗り重ねられていく経験を、多くの人はしているはずだ。
そしてそれは、非常にインパクトのある強烈な夢であっても、実は例外ではない。
例えば、前日見た怖い夢について友人に話す時、どうしてもその「怖さ」を伝えることができないというもどかしさを感じたことがある人は多いはずだ。
それにはいろいろな理由が考えられるだろうが、そもそもそうした場合に思い出している夢の「記憶」というのは、実際にはその時の夢に対するおぼろげな「あらすじ」と「『感動』を体験したという『記憶』」を元に、目覚めてしばらく経ってから再構築された、いわば「レプリカ」である。
それは本来の「記憶」ではなく、自分自身によって作られた本来の「記憶」の「代替品」である。そのゆえに、自分自身でもその「記憶」を、生の体験として感じられないのだ。
では、なぜ人は、わざわざそのようにもろい夢の「記憶」を、再構築してまで取っておこうとするのだろうか。
それは、その人が、その夢の中で何らかの「感動」(それは「喜び」であっても、人によっては「恐れ」であってもよい)を体験したからである。
ある夢について、人が「いつまでも覚えている(実際には再構築したレプリカを取っておいている)」のは、その人がその夢の中で、時には現実以上に「感動」させられたからだ。
(つまりは、面白かったテレビドラマやアニメをDVDなどで保管しておこうという行為と同じである)
しかし、そのとっておきたい夢の「記憶」そのものは、前述のように実に「もろい」のだ。
「感動」は個人の心にとって極めて重要な体験であり、その存在を保証する「記憶」は、ある意味「自分そのもの」でもあるのに、夢の「記憶」は、いくら手放すまいと抱え込もうとしても、どうしようもなく風化し、変質し、最後には消えてしまう。
すると最後には「『感動』を経験したという『記憶』」という、ある意味抜け殻のようなものだけが手元に残るのだ。
しかし、人間はそれでも夢の本来の「記憶」をあきらめきれない。
なぜなら、強く「感動」したという事実は、人にとって極めて重要だからだ。
だからこそ人は、無意識にでも夢の「記憶」を、抜け殻である「『感動』を経験したという『記憶』」を元に再構築して「レプリカ」を作り、それを代替品として残すのだ。
たとえ残しても、その「レプリカ」が、本来の生の「記憶」には及ばないにもかかわらず。
**************
さて、ここまで、夢の「記憶」が本来の記憶から「レプリカ」に置き換わっていく過程を見てきた。
多くの人は無意識のうちに気が付いているのだ。
実は、夢の「記憶」に限らず、人間の実体験から得られたものを含むすべての「記憶」も、年月が経つと消えてしまう「もろい」ものである、ということに。
「よかったことの記憶は美化される」というが、実際には美化という「脚色」ではなく、後に再構築された「レプリカ」かもしれず、場合によっては「レプリカ」の「レプリカ」である可能性すらあるのだ。
「記憶」は、同じ時代の別の「記憶」や、新しい「記憶」、またはその人自身の心境の変化などによって絶えず影響を受け、さらに年月とともに風化する。
そうして形の崩れた「記憶」を、人は心の棚から引き出して眺めるたびに、足りないところや影響を受けたところを成型しなおし、「ああ、あのころはそうだった」と納得して、引き出しに仕舞う。
仕舞った途端に、その「記憶」はまた変質を続け、風化していく。
そのようなものに、果たしてその「記憶」が生み出されたころの、生の部分が残っているだろうか。
そしてその「記憶」がもろく変質し、最初のものと変わってしまっているという事実は、最終的には自分そのものの「はかなさ」にたどり着く。
自分があの時得た喜怒哀楽の「感動」を保証する大切な「記憶」が、年月を追うごとに変質し、「レプリカ」に置き換わっていく。
さらにその「レプリカ」すら、風化に耐えられずに「レプリカ」の「レプリカ」に置き換わってしまう。
それは人間の記憶システムの限界であり、そのような「はかない」ものに立脚している人間存在の限界であり、どうにも抗えない無情な運命である。
この残酷な「はかなさ」を前に、人は多かれ少なかれ、悲しみと恐れを抱くのだ。
しかし、いくら「はかない」ものであっても、人はやはり「『感動した』という事実」を保証する「記憶」を手放せない。
それを手放すことは、過去の「感動」を手放すことであり、つまりは「自分自身」の一部を手放すことに等しいからだ。
「自分自身」を手放したくないという強い思い。これは、人間という存在の持つ、根源的な欲求の一つといってよい。
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この作品で、主人公たちは人格の入れ替わりという「夢の体験」に近いものを体験する。
入れ替わっている時の「記憶」は、(夢の「記憶」と同じく)極めてもろく、曖昧なものであることが劇中の様々な演出や、女性主人公の祖母の経験から示唆される。
また、主人公二人が入れ替わっている最中のことを把握しようと相互に残した記録すら、「世界の修正力」とも呼ぶべき現象によって、問答無用に消されていくのだ。
この演出は、夢の中で強烈な「感動」をしながら、夢の「記憶」が消えていくのを経験した人々(たぶん非常に多いはずだ)に、夢の「記憶」の「はかなさ」、どうあがいても失われてしまう焦燥感と苦しさを思い出させる。
この映画において、入れ替わりの「記憶」は、夢の「記憶」と同列にできるものではない。
なぜなら、その「記憶」は(時間軸のずれはあるにせよ)現実世界での体験によるものだからだ。
ここで視聴者は(特に、視聴者層として想定される若い世代にとっては無意識のうちに)、自分の持つすべての「記憶」そのものも「はかない」ということに気づかされる。
そしてその「はかなさ」は、前述のようにこれまで確かだと思っていた「自分自身」、つまり「自我」の「はかなさ」へと続いているのだ。
この作品が、単なる「恋愛のすれ違い」を描いた作品でない点は、ここにある。
この作品の入れ替わりの記憶に関する「設定」そのものが、人が「自我の存在のはかなさ」に知らずのうちに触れる、という高度な「仕掛け」となっているのだ。
そしてさらにさらに、この仕掛けにかかった視聴者は、「自我のはかなさ」を抱えながら、大災害から人を救いたいという強い想いの結実と、主人公二人の恋の結末を追っていくのである。
「自我のはかなさ」という「無常」を自覚しながら、それでも捨てきれない「感動」を最終的には得るのであり、これをあえてたとえるなら、大乗仏教における「色即是空」の一端を突き付けられながら、それと相反する「自我」を、恋の思いを主軸にした「感動」として体感させられているようなものである。普通の人間にとって、これが強烈な体験とならないはずがない。
この作品を、「何か『高尚な深み』がない」とか、「ヒットする要素が盛りだくさんで鼻につく」といって評価しない人がいるようだが、前述の「仕掛け」が意識されるならば、その評価は間違っている、と言えるだろう。
確かに、ストーリー上はこの作品は恋愛物であり、その結末そのものに何らかの「高尚な思想」は存在しない。
最終的に二人は再会し、そして新しい「記憶」が生まれるだけである。
しかし、上記の「仕掛け」による、実は仏教的ともいえる「無常」と、それと対立する「自我」を強烈に意識した構成は実に見事であるし、十分に評価に値すると、私は考える。
何より、「無常」と「自我」の対立、というよりは映画のエピローグの流れてとしてはむしろ「対決」を、恋愛ドラマをもとにしながらも、とりわけ若い世代の視聴者に体感(おそらく初経験だ)させるなど、尋常の映画ではない。
この点で、私はこの映画が日本のアニメ映画の中でも特筆すべき存在であると考える次第である。
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この映画に関して、もちろん上記以外優れた点は数多くある。
今回記した部分はあくまでも私が特に注目した点であり、冒頭に述べた鑑賞直後の箇条書きの全体量で言えばせいぜい1-2割といったところである。
新海監督の特徴である映像の意図的な美しさや、おそらく何度も検討を重ねて練り上げられた脚本など、評価するところはまだまだあると思う。
しかし、私自身まだ一度しか視聴していないこともあり、また映像や脚本に関してはより以上に素人であるので、それ以外の評価は他の方にゆだねたいと思う。
そして、私はやはりこの映画は、10代から20代の「無常」に関して初心(うぶ)な若い世代に鑑賞していただきたい。
この映画で抉り出されるものは、少なくとも2500年ほど前から人類が立ち向かっている、非常に大きく根源的な問題の欠片である。
酔った勢いで書いたので、文章は筋が通ってないかもしれない。酔った勢いなので、コメントを返したりはしません。
さきに述べると、最近巷を賑わしているポリコレにやや関係があるが、がっつりと関係している話ではない。また、私はポリコレの考えに概ね賛同している。
世の中には様々な問題がある。その中のひとつに、移民問題があるだろう。移民問題はアイデンティティの侵害もあるが、多くのさほど保守的ではない人々にとっての問題は、知識があまり求められない仕事の奪い合いや、賃金が低いが故の貧困、それから生じる犯罪率の高さが主なものだろう。
アイデンティティを除く問題に対しては、貧困の是正が重要である。それに加えて、移民ではない人々との仕事の競合も解決されねばならないだろう。さらには、そもそも移民の元になる国の政治や経済が問題である。このことは、アメリカの不法移民がわかりやすい。アメリカがもっとも問題視しているメキシコからの不法移民の問題は、メキシコの政治が安定し、治安が良くなり、経済も上向けば軽減される問題だからだ。
このような指摘は言うだけなら容易い。移民の問題は大変に難しく、ドロドロとしたものがある。それゆえに、一部の人々は人種で括ってこの問題を批難する。実際、移民が生じる問題だけを捉えた時、人種で括る手法は決して大外れではない。
しかし、人種で問題を括る人々に、反意を示す人々もいるだろう。
ここからが本題なのだが、私はこの反意の示し方に問題が多いように思う。
この問題とは、人種で括って考える人々に、すぐに差別主義者と罵る行為である。そうして、そこまで差別的ではないが、現に存在する問題を懸念している人々が口を噤んでしまうことだ。現実的問題がために差別的言動をした場合、やや短絡的で言葉が足りないだけだ。そうした意見さえも、差別主義と言う蓋によって仕舞われてしまいかねない。
差別によって苦しむ人々を救うということは喫緊の課題かもしれないが、移民、すなわち特定の人種の集団によって仕事を奪われたり、犯罪率が高まることも喫緊の課題だ。差別的言動への反論として、差別が良くないという言葉が第一声であるならば、第二の声はより現実的で、それゆえに中立的な人々が問題視している状況への言及があるべきだ。もしも第二の声がないとすれば、現実的問題を人種問題として捉えるのと同様に、短絡的で言葉足らずの反論である。
もうひとつ、差別主義者と罵る問題を挙げる。その問題とは第二の声が見つからなくなることだ。第二の声は決して心地よいものではない。多くの困難を四苦八苦しながら少し改善する程度だ。それに対して、差別主義者と言う叫びは威勢がいい。よく人々の間を通る。そのため、政治的ではない人々が触れる意見は、ヒステリックな叫びが多い。それは現実への対処の提言を掻き消してしまう。
リベラルを自負する人々が相対する人は、もしかしたら頑迷な人かもしれない。愚かしいと思うかもしれない。しかし、それが事実であるかどうかはあまり大局的な問題ではない。より大きな問題は生活への恐れである。リベラルを自負する人々はその恐れを緩和することににも力を入れるべきだ。それを怠れば、あまり政治的ではないが、生活に不安を抱える過半数の人々にそっぽを向かれるだろう。
馬高く天肥ゆる秋、
いかがお過ごしですか?
細長い雲が秋刀魚みたいに見えるわ。
ひっそりとたたずみ潜んでいた蚊がまた活発化してる感じよ!
夏ならなんか、
「プーン」蚊がいるわね、ってしかたなくなんか諦めも付くもんだけど、
夏の風物詩的な感じでね。
でも、夏終わって、もういないはずと思ってて今頃出てくる蚊!
それならば!!!
蚊ドッキリ!リキッドか!的な
蚊も驚く瞬殺の最新液体電子蚊取りが、
この時期もまだまだ火を噴くわよ。
でも、蚊取り線香のたぐい、
夏終わっちゃったから仕舞っちゃおうかなって思ってる人いたら、
蚊も、もうさすがに蚊取り線香仕舞っただろ!うへへへ!って思ってるはずだから、
油断してる蚊を
うふふ。
おにぎり握るのが楽しくなってきたので、
今朝もおにぎり握っちゃいました!
で、そのままだと味気ないので、
まるでピクニックをしているようだし
口の中に、ほのかに広がる鮭の風味が、
おーいおーい北海道~
ほっかいどぉ~ぉお~
要は二種類のオレンジを使ったやつ。
オレンジ混ぜると酸味強くなるよりかは
ちょっとまろやかになる感じがするわね。
ピントがぼやけていない、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
韓国の団体が2つくるってんで騒がしくなりそうだなあとゲンナリ
また、団体が来るせいかおいてある料理や肉も種類が少なく感じた
最初はすごいわくわくしたけど取りすぎてゲンナリするところまでがデフォ
また当分こなくていいかな
終わってトイレ個室入ってたらノックもなしに何度もガチャガチャしてきた韓国人死ね
礼儀知らずすぎる
その後川棚温泉へ
露天風呂のぬるいところで仰向けになって顔だけ出して目をつぶってたゆたうのがすごく気持ちよかった
1時間ほどで出た
待合スペースっぽいところで中島みゆきの糸がインストでかかってた
山口は安倍晋三の地元だから、晋ちゃんセットっつって安倍晋三の顔のイラストのシールがはってあるだけの醤油が売られてた
それ以外にも車で走ってるとあちこちに安倍晋三のポスターがあった
温泉のあとは角島へ
島よりも本土と島を結ぶ橋の方が有名というところ
あいにくの天気だったけど、本土から島までまっすぐ伸びる海をつっきる一本の橋は、たしかに沖縄っぽさというか北海道ぽさというか、すごく場違い感を覚えた
こんなとこが山口なんか(失礼)にあったんだーと思った
角島では灯台に行ったけど、荒天のため閉まってた
見上げると展望台のフェンスとか結構低く見えて、こんだけ強風だとそりゃあぶねーわなと思った
人間がすぐ近くにいるのに少しだけ鳴いていた
その後は道の駅へ
おみやげとか買った
でも昼すたみな太郎でまだおなかいっぱいだったから買わなかった
誰々がチェーンソーで作ったほっくん像が置いてあった
でも目が真っ黒で大きくて底知れない怖さを感じた
せめて少しハイライトがあればまだ違うんだろうけど
なんか寄生獣みたいにくぱあと顔が開いてぎざぎざの歯がいっぱい生えてそうなイメージ
その後帰路についた
家についたときには真っ暗
夜はうどん
高校か大学かでレポートを書かないといけないっていうのにゲンナリしてた夢だった
休み前にまだ残してきた仕事があるからこんな夢みたんだろうなあ
最悪
トイレ行ってフルーツミックスジュース飲んで歯磨きして今日記書いてる
そういや最近残業ばっかで休日も寝てばっかで、好きなマンガがほとんど読めてないしゲームもできてないなあ
やめたくてしょうがない
近々人事制度とか給料とか変わるし今よりも全体的に下がりそうだし、それでも仕事量は増えるしがんばれって言われるんだろうし、それ逆だろと
給料減るけどがんばれってどんだけやねん
もしくは
だろJK
さすがに現状のままだと数年以内にやめるかなー
最低でもあと1年?くらいはがんばるつもりではいるけど
5年後はどうなってるかわからんなー
一昨日エゴグラムテストしてみたけど、↓みたいなタイプだからほんと社会的生物としては終わってるわ
人生に対して積極的にとか言われてもそれができないタイプだっつってんのになんちゅう矛盾した判定結果だ
自信喪失のタイプであると、申し上げて置きましょう。極言すれば、貴方の肉体は自主独立の魂を欠いた、一種の抜け殻的な存在とも言える訳で、周囲の人々の圧力や示威が、世に云うテレパシーのような形で、貴方の中へ入り込んで来て、貴方の言動を、あれ、これと、操縦して仕舞う訳です。いわゆる強度な自己不全観念の持ち主と云う事になります。云うなれば、人に良く思われたいと云う気持ちが、強すぎると共に、自分が役立たずや能無しではないかと云う劣等感も強く、過敏型ないしは、強迫神経症型の、性格異常を招き易いのです。今後は、もう少し自分に自信を持つ事です。自分より尚一層、下らない人間、詰まらない人間、役立たずの人間は、この世に数限りなく居るのだと云う事を、常日頃から、自分に云い聞かせるようにすると共に、周囲の人々も一皮剥けば、自分と五十歩、百歩であり、自分は唯、根暗(ねくら)で表現力が無いのと、物事に正直なだけに、悩むことも人一倍多い、本当に人間らしい人間なのだと、全てを良い方へ解釈し、胸を張って開き直る事です。
詰まらない相手に、一度引っ掛かって仕舞うと、方向修正や出直しの容易に出来ない性格だけに、一生を棒に振って仕舞うような危険性も、かなり高いタイプです。結婚後は相手に対して、箸の上げ下げにまで気を使うような、姑息な配慮の仕方では無く、相手に貴方と結婚して、本当に良かったと思わせるような、大きな愛情、巧まざるユーモアなどを身に付けるように、心掛けるべきです。
職業適性
芸能、芸術、文芸などの分野には、殆ど適性が無いでしょう。事業家、政治家、治安関係公務員、法律家、金融業、質業、医師などにも不向きです。保母(父)、看護婦(士)、単純サービス業、一般公務員、一般事務員などでしたら、別に性格的な面からの差し障りはありませんが、中間管理職などになった場合には、上下の板挟みで、かなりの苦脳を覚悟しなければならないでしょう。
対人関係
もう少し図太くなる事を心掛けると共に、人生に対して、もっと積極的に好奇心や探求心を持ち、自分にも他人にも、もっと厳しく無闇矢鱈(むやみやたら)な妥協を排することです。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2256043
これによれば大学の小学校化が進んでおり、本来であれば身についているはずの教養が振り出しで行われているという事であった
このような背景には、大学へ進学することが筆記試験だけではない形が採用されたことも一つの要因であろう
自分が今行っている大学だと英語の必修科目はあったが、使うのは比較級や否定など試験勉強の参考書に載っていることばかりで専門的なことはやらなかった
それ以外だと自分の将来を見つけるための自己分析を行うことを2年間使っていくという講義も存在した
そして専攻して入った学科では、教員の話を聞いても他の授業で聞いたような類似した内容しかやっていなかった
そういった授業で目立つと言えば「私語」といったことであった
90程の定員が入る教室の後ろで聞こえるほど大きな声で馬鹿騒ぎすることは当たり前である
そうやっていると教員が私語をしないよう注意するのだが、いちいち話している学生の所まで行って質問の回答をさせたりとこれが15回のうちに何回も続くわけだ
「一生懸命勉強している人がいるのだから静かにしろ!!」と言っても(そもそもそれに値するのが疑問な)学生には上の空である
仕舞いには講義を終えたら撤収すればいいものの教室内で残って騒ぐ奴もいる
自分が前に仮説で考えていた「使えそうな奴に全て任せて自分たちの利益にしようとする考えが多くなってる」ということをふと思い出してみた
それを当てはめると、ノートを取ることを諦めて他人から情報をもらって単位を得ることは可能である
仮に「他人が書いたノートを持ち込むな」と言われても、それを自分なりの解釈で同じ内容かつ別のレイアウトにしてしまえば自分のモノにできてしまう
近年ニュースとして扱われるネットの引用問題も、本の中身をまるで自分の意見のように一部を変更して行うこともあり得る
男は放尿中でも、自由自在に尿を止めることができるんだよ。
だから、「露出させたまま逃げざるを得なくなって、ズボンも尿まみれになって、」となることはあり得ない。
それから、ちんちんは尿の切れがよいので、「濡れたまま下着の下に仕舞う」以前にほとんど濡れてないんだ。
まぁ、2-3滴はパンツに着く気もするがその程度ならすぐ乾く。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160611-00009813-kana-l14
男性のかたにお聴きしたいのですけど。
あれで用を足すのって落ち着かなくないですか?
敷居も何もない中で、ズボンのジッパーを下して生殖器官を露出させるわけでしょ?
ふと横を見たらめっちゃ見えたりするわけでしょ?
恥ずかしくないですか?
たとえば用を足しているとき、暴漢が刃物を振り回してトイレに入ってきたらどうしますか?
露出させたまま逃げざるを得なくなって、ズボンも尿まみれになって、一生の汚点となるのでは?
それから、用を足した後、先端を洗浄することが出来ないのでは?
紙で拭いたりしないですよね?
濡れたまま下着の下に仕舞うんですか?
私からしてみたら正気の沙汰とは思えないのですけど、みなさんそのあたりを気にされていないのか、気にしてるけどどうしようもないから仕方なく現状に甘んじてるのか、個人的にとても気になります。
お酒飲んだ事ある人なら分かると思うけど、
甘口はその名の通り甘い味わいだという。
しかし、日本酒で甘いというとアルコール液が少ない分まったりした飲み心地なのだと分かる。
逆に辛口の方が辛いだけでなく味に芯があるためにどういう感じ方なのか瞬時に分かる分、飲み応えがある。
結局甘口といっても別に砂糖が入って甘いというのでなくて、辛口の辛いピリっとした味わいに対してまったり感があると感じるだけで
問題はその甘くないのに甘いと称される日本酒が何故持て囃されるのかという点。
微量ならば辛口の方が美味しいと感じる自分でさえ、どこが甘いのか終に分からず仕舞いだったそれが何故人気なのかが分からなかった。
甘口なら甘口なりの味わいがあるって言いたい人もいるだろうけど、
初めて飲む人にはかなりショッキングな甘口の日本酒を飲みたいという人へ、
決してジュース的な甘さではない事をここであえて言っておきたい。