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2010-03-12

恐山あれこれ日記

ttp://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2010/03/post_b3b9.html

石井 そうなんですね。バブル時代にガーッとなった時、お墓の業界だって大型霊園を造って、お寺さんに経営主体になっていただいて、実は石屋さんが販売するという方法なんですけど、それだって今よりは「家族として」とか、檀家制度の上にのっかった販売でしかなかった、という感じでした。

 では、マンション形態の『クレヨンしんちゃん』の先にある家族に、仏壇をどう押し込むかという話でいくと、従来の仏壇が何となく部屋の雰囲気、インテリアにあわないという話があって、一方で、フローリングの部屋にも合う仏壇などもあるんですが、南先生はその辺をどう思われますか?

南 どうでもいいんです。

石井 ああ、やっぱり。

南 というのは、これから先、仏壇を置くとすれば、仏教が必要な人、あるいは仏法が必要な人だけです。「先祖の家」として置くかどうかわからないですよね。「先祖の家」として置く人は、仏壇がなくても何かを置くでしょう。

 ある若い女の人から私のところに電話がかかってきて、「大好きだったおじいちゃんが亡くなった。おじいちゃんのお骨をちょっとだけわけてもらって持ってきたけど、私は今学生東京アパートにいる。どうしたらいいですか」と言うんです。その時に、「今すぐ仏壇屋に行って仏壇を買ってきましょう」といったことは、馬鹿げていますわね。下宿に大きな仏壇を置いたら馬鹿でしょう。しかしその子は遺骨の入ったもの、ビンか何かを持っている。何とかしたいわけです。「どうすればいいんだろう」と言うわけですから。そうなれば、それにふさわしいことを言ってあげれば、そこでおじいちゃんを祀っているんですから、いわゆるどんな形態であれ仏壇です。仏壇でなくても、少なくとも霊壇でしょう。つまり、この人の気持ちを掬いとれるかどうか、が問題です。

2010-02-12

考えるのをやめた。

こんな下らない事書いてた俺です。

http://anond.hatelabo.jp/20090320165958

本当なら、小学生編を書き終えた後、次に中学編、高校編へといくはずだった。

だけれど、3日かかっても、1週間かかっても、全然進まない。

書けない。

まとめられない。

中学は、自分が生きてきた時間の中で、一番素敵な時間だったからかもしれない。

高校は、何もない時間だったからかもしれない。

それ以降も、何もない時間だったからかもしれない。

書いている最中も、これからの事をどうにかしないとと、毎日毎時間毎分毎秒、色々と考えてぐるぐるとめぐらせている事もあったと思う。

出来るだろ。

出来ません。

やれよ。

無理です。

長年染み付いた腐れ根性は、1週間や2週間そこらでは取れなかった。

自己暗示も全く効果はなかった。

考えて、吐いて、泣いて、考えて……

そんな日が続いていた。

4月の末日、突然両親から、もう無理しなくてもいい等と言われた。

今までぐるぐると、考えて、吐いて、泣いて、色々としてきた事はなんだったのか。

何を言っているのか理解出来なくて、何をどうすればいいのかわからなくなって、何も考えられなくなった。

というよりも、考えるのをやめた。

崩れた。

食欲がわかない。

睡眠欲もわかない。

性欲もわかない。

動けない。

みるみる痩せて、15kg位体重が落ちた。

65kg位だったのが50kg位になった。

身体が軽くなった。

頭は重い。

何もない。

一番酷かった頃に戻ったようだ。

それより酷いかもしれない。

父の顔も、母の顔も、家族の顔すらまともに見れない。

初夏の頃、とうとう祖母に死にたいのだとこぼしてしまった。

今まで誰にも一度も言った事ないのに。

以前は用事をしつつ、少しずつ言語勉強したり、ブログを書いたりしてたけれど、あれ以降何も出来ていない。

何か新しいことを、そもそも何かをしないといけないのに、何もない。

あれから毎日、仏壇の前で、はやくそちらに連れていって欲しいとお願いをしている。

事故に遭って死なないかな。

事件に巻き込まれて殺されないかな。

死の病に罹らないかな。

ハハッ。

もう1年近く経ってしまったけれど、何書いてるかわけわからん

30を前にして、さらに酷い事になった。

1年ってすごく早いな。

2010-01-14

夫の亡くなった友人の話

以前夫から、高校時代の親友に、婚約者との結婚を目前にして突如別の女性に心変わりし、

一方的に婚約を破棄した男性がいると聞いた。

詳しい話は聞いてないけれど、私の感想としては「酷い男もいたもんだ」程度のものだった。

それからしばらく経って、その夫の親友事故で亡くなったと聞いた。

その一報を聞いた夫は号泣していたけれど、

号泣している夫に寄り添いながら私の脳裏に浮かんだのは、因果応報の4文字だった。

それから何年も経つが、その親友の親御さんとも付き合いのあった夫は、

毎年命日には仏壇の前に手を合わせに行く。

そんな夫の背中を、私は「婚約者を裏切った男の仏前に手を合わせに行くんだ」と思いつつ見送る。


もし私が夫の立場だったら、やはり同じように親友の死を悲しみ、お参りに行くと思う。

それは分かっているのに、夫と私での同一人物の死に対する温度差を感じ、

私がどうしようもなく冷たい人間なんじゃないかと、軽い自己嫌悪を覚えてしまう。

毎年命日が近づくと、その温度差になんともいえない気持ちにさせられる。

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