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はてなキーワード: 仏壇とは

2014-10-20

http://anond.hatelabo.jp/20141020231939

実家空気清浄機あるけど、仏壇からはけっこう離れて置いてるのに線香たくと全力稼働はじめるから、線香ってそんなに空気よごすんかよって思うわ。

2014-09-14

ノーベル賞受賞者の生まれ、育ち、血筋、親の出身、最終学歴データ

ノーベル賞出身関係

2011年までの日本ノーベル賞受賞者18人の出自

人物名 国内最終学歴 出身生育地

鈴木章 ─── 北海道大 ─ 北海道まれ北海道育ち

田中耕一 ── 東北大 ── 富山県まれ富山県育ち

南部陽一郎東京大 ── 東京都生まれ福井県育ち

小柴昌俊 ── 東京大 ── 愛知県まれ神奈川県東京都育ち(1歳から小4まで東京/中学から神奈川/高校東京)

小林誠 ─── 名古屋大 ─ 愛知県まれ愛知県育ち

益川敏英 ── 名古屋大 ─ 愛知県まれ愛知県育ち

利根川進 ── 京都大 ── 愛知県まれ富山県東京都育ち(小学校富山/中学から東京

白川英樹 ── 東工大 ── 東京都生まれ岐阜県育ち(小3から岐阜)

朝永振一郎京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち(小学校から京都

湯川秀樹 ── 京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち

下村脩 ─── 長崎大 ── 京都府まれ長崎県育ち(幼少期に長崎/中学でまた長崎)

福井謙一 ── 京都大 ── 奈良県まれ大阪府育ち

江崎玲於奈東京大 ── 大阪府まれ京都府育ち

川端康成 ── 東京大 ── 大阪府まれ大阪府育ち

野依良治 ── 京都大 ── 兵庫県まれ兵庫府育ち

佐藤栄作 ── 東京大 ── 山口県まれ山口県育ち

大江健三郎東京大 ── 愛媛県まれ愛媛県育ち

根岸英一 ── 東京大 ── 満州国まれ神奈川県育ち(小学校から神奈川

国内最終学歴

東京大7

京都大5

名古屋大2

北大東北大・東工大長崎大1

■生まれ

東京都愛知県4

大阪府2

北海道富山県兵庫県奈良県愛媛県山口県満州国1

■育ち

京都府3

東京都神奈川県富山県愛知県大阪府2

北海道福井県岐阜県長崎県兵庫県愛媛県山口県1

http://kamomenome.exblog.jp/14156659/(元ソースから間違いを修正

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湯川秀樹(出生地東京都)両親は和歌山県 ※中間子論は計算間違いであった

朝永振一郎(出生地東京都)親は長崎県埼玉県

江崎玲於奈(出生地大阪府)親は大阪府三重県 ※助手アイデアパクリ

福井謙一(出生地奈良県

利根川進(出生地愛知県)親は広島鳥取青森

白川英樹(出生地東京都)両親は岐阜県

野依良治(出生地兵庫県)親は長野県福岡県

小柴昌俊(出生地愛知県)両親は千葉県

田中耕一(出生地富山県

南部陽一郎(出生地東京都)親は福井県福島県

小林誠(出生地愛知県

益川敏英(出生地愛知県

下村脩(出生地京都府)両親は長崎県

根岸英一(出生地満州)親は東京都

鈴木章(出生地北海道)両親は山形県

山中伸弥(出生地大阪府)親は福井県兵庫県

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湯川秀樹和歌山田辺藩紀州藩

朝永振一郎(父・長崎大村藩、母・埼玉川越藩)

江崎玲於奈大阪)親は大阪三重

福井謙一奈良

利根川進愛知県出身)親は広島鳥取青森

白川英樹東京都出身)両親は岐阜県

野依良治(父・長野、母・福岡)父の仕事関係兵庫県で育つ

小柴昌俊(両親とも千葉)父が豊橋連隊所属のため豊橋まれ

田中耕一富山

南部陽一郎(父・福井、母・福島関東大震災に遭い福井移住

小林誠愛知

益川敏英愛知

下村脩京都)両親は長崎県 父が福知山連隊所属のため京都まれ

根岸英一満州)親は東京都本籍日本橋目黒根岸家に戦災で親戚が大勢つめかけたため神奈川移住

鈴木章(両親とも山形から北海道移住

山中伸弥大阪府出身)親は福井県兵庫県

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小柴昌俊

わたしは1926(大正15)年9月19日に、愛知県豊橋で生まれた。軍人だった父の

小柴俊男がそのころ豊橋陸軍第18連隊所属していたからだ。

小柴昌俊物理屋になりたかったんだよ』朝日新聞社

母親は、はやといって、千葉木更津農家の末娘だった。木更津高等女学校を出て、

父と結婚した。どういうなれそめで知り合ったのかは知らないが、父も千葉館山

まれから誰か紹介する人でもいたのだろう。

父は農家の三男に生まれて、中学に通うのも親せきの造り酒屋小僧代わりに働きながら

学費をだしてもらった。さらに進学する学資はないから、学資不要陸軍学校へ進んだらしい。

小柴昌俊私の履歴書 科学求道者日経ビジネス人文庫

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野依良治

祖父の塩川三四郎は1873年生まれ政治家を志して長野県から上京し、東京帝国大学法学部

卒業した。そして、渡辺千秋長野県出身)の次女・千夏と結婚した。

「野依」は母方の血筋で、福岡県東部築上郡吉冨町に行き着く。「立野屋」の屋号をもつ

庄屋で酒づくりをなりわいとする大地主であった。

野依良治私の履歴書 事実真実の敵なり』日本経済新聞社

祖父:塩川三四郎 長野

父:野依金城 上京

http://kingendaikeizu.net/gakusya/noyori.htm

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下村脩

>父の生家は長崎県雲仙市瑞穂町にあり代々庄屋を勤めた名家

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%91%E8%84%A9

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朝永振一郎の父三十郎は、東京真宗大学在職中に旧川越藩士大枝美福の長女ひでと結婚している。

(『素粒子世界を拓く』京都大学学術出版会

朝永振一郎「なぜ京都にいながら東京弁使っているかっていいますと、おふくろが埼玉県まれで、

おやじ長崎まれで、中学の頃東京に出て、ずうっと東京にいた。そういうわけで、家庭では

東京弁を使っておりました」(『回想の朝永振一郎みすず書房

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南部陽一郎

私の父は仏壇屋の家業を継ぐのを拒み、文学者になろうと家をとびだした。東京で私が生まれた。

母は福島県出身だった。しかし私が2歳のときあの大震災に遭い、一家はやむなく福井に戻った。

(『ほがらかな探究 南部陽一郎福井新聞社

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利根川勉「私の親父は守三郎といいまして、福山藩(広島県)の貧乏侍の息子でした。ところが

同じ貧乏侍の利根川という叔父子供がなくて、岡本という家から養子に行きました。

家内の父方は弘前藩士青森県)の家系でした」(利根川進受賞時に父・勉氏へのインタビュー

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鈴木章

北大理学部受験した時、母は「落ちてくれ」と本気で祈っていた、と譲さんは明かす。

恩師は「章君を大学に進ませて」と勧めたが、家計に余裕がない。町で理髪店を営んだ

山形県出身の父の定輔さんは1946年に51歳で死去。長男鈴木さんは16歳だった。

(「タウンガイド札幌2010年10月11日)(母ナエも山形県出身

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2014-09-13

実家空気清浄機を買ってあげた

シャーププラズマイオンクラスターのやつ。

空気が汚れるとランプが緑から赤にだんだん変化して送風のパワーが上がっていくんだけど、仏壇のある部屋に置いたら真っ赤になってフル稼働しはじめたわ。

線香って空気汚すんだな。

2014-09-06

私のトラウマ

私は、先生によく

いじめられている子の世話を

させられる子だった

私の母は正義感の強い人で

いじめダメなことと教えられてきた

人に嫌われるのが怖かったし

大人のいいなりで

自分に自信のない子だった

周りのために何かをすることで

自分価値見出していた

はいじめられている子を

喜んでお世話します!

なんてもちろん思ってなかった

正直めんどうだった

でもなぜかやらなくてはいけないと

思っていた

小学3年の頃

いじめられていたNさんは

背がクラスで一番低くて、服もボロボロだった

いま思えばたぶん、

栄養が足りてなくて

体が小さかったんだとおもう

給食ではNさんと机をつけて食べた。

友達

「ほっとけばいーやん、なんでかまうの?嫌じゃない?」

といった。私は、、嫌だった。

Nさんと少ししか会話しなかった

Nさんは食べるのが遅かった

ある日私が先生に頼まれたことは

「帰ってからも一緒に遊んであげて」

だった

どうしてそんなことを言うのか

いまはわからないけど

そのときは、しなくちゃと思った

私はNさんの家に行くことになった

絵に描いたようなボロアパートだった

カンカン階段をのぼると

すぐドアがあって、そこを開けると

6畳ほどの部屋がひとつあるだけ。

から赤ん坊おんぶ紐で背負った

お母さんが顔を出し

「Nにお友達が来るなんて初めて!」

と言い、ビックリするくらい嬉しそうだった

私はお友達という言葉に胸がチクチクした

Nさんは誇らしげにしてみせた

部屋には仏壇があって

幼稚園制服を着た男の子写真

置いてあった

お母さんが、すぐに説明をした

「Nにはお兄ちゃんがいたんやけどね、裏にある川で溺れちゃってね、

死んじゃったの。

の子背中の子)はお兄ちゃんの

生まれ変わりなんやで」

私はお母さんがそう言ったのを

子供ながらに強く覚えている

私の顔はどんな表情をしていたのか

からない

でも、私は来たことを後悔した

お母さんの顔をまともに見られなかった

お母さんは

「何もなくてごめんね、お茶のむ?」

と言ったけど

はいいです!大丈夫です!

と断った

Nさんは私に

「Nって名前は、長生きする名前やねん」

とまた先ほど見せた

誇らしげな顔をした

私は名前長生きの意味があるとか

不思議に思った

子供だったから。

名前かわいいかかっこいいしか

ないとおもってた。

でもNさんにとって

長生きはとても大切なことだった

私はNさんが苦手だった

Nさんは私にだけすごく強気だったか

それだけ。

そして、

「仲良くしてあげてるなんて思わんといてや。こっちが遊んであげてるねんで」

と小さい体で言った。

先生に言われて

ここへきたことを

知っていたのだとおもう

その後、クラスの子達の家まで

Nさんが家で作った

(お母さんがかなり協力してたし、お母さんもいじめのことを知っていた)

さなお菓子

配りにまわった

その日はバレンタインだった

Nさんは一生懸命

好かれようとしていた

私の分は無かった。なぜかというと

主に Nさんをいじめている人に

配るものだったか

ある日、Nさんは壮絶ないじめを受けた

教室の角に追い詰められて

腹を膝蹴りされていたのを

私は震えながら見ることしか出来なかった

私の学校は荒れていた

やったのは女だったけど

家庭環境が悪い子だったとおもう

先生の前では優等生だった

その日からNさんが学校に来なくなった

どうしてNさんをいじめるのか

という学級会が開かれた

先生

Nさんをいじめたことのある人は

起立しなさいといった

するとクラスほとんどが立った

そして、一人一人何をしたかを言っていくのだ

ある男の子

「ぼくは、Nさんの髪の毛がボサボサだったので

ちゃんとクシでといているのかと言いました」

といって少し泣いた

それに先生が答える

Nさんはくせ毛なのよ、反省しなさい

私が立とうとすると、周りの子達が

あんたは立つな、と言って私を座らせた。

私はNさんが苦手だった

一緒に遊びたくなかった

でもNさんのお母さんは

とても優しい人だった

私は偽善者を地でいく人間

Nさんのいないところで、

陰口に対しても、そうだねーとか

わかるー!とか言ってたし

から立たなきゃと思った

Nさんの陰口を言いましたって

答えなきゃいけなかった

でも、私は立たなかった

そんな自分が最低だってわかってた

なぜ私は座ったままだったのか

いまでもよくわからないけど

いまでもそれが自分を苦しめる

みんなそれを望んでいたようだった

私を苦しめたかったのかな?

お前はいものように

いい子ぶってろよって

みんな、自分の罪悪感をそこで

発散させて、ラクになったみたいに

みえた、ある意味先生のやり方は

みんなを救ったのかもしれない

Nさん以外を。

息ができなくなるくらい

とても苦しい時間だったのを

覚えている

それからNさんは

血尿を出したらしく、そして

転校していった

私はなんてことになったんだという気持ちと

Nさんのあの優しそうなお母さんの

悲しんでいる顔が浮かんだ

でも心底ホッとした

正直な気持ちはそうだった

もう、終わったんだって

思いたかった

はやく忘れたかった

はいま31歳

その後、自分の姉も中学いじめ不登校になり

いまも社会と切り離された生活

しており苦しんでいる現実と、

家族の苦しみもわかる

両親も年老いていく中で、

姉への心配が日に日に増す毎日

この出来事を思い返した

Nさんがいまどうしているか

からない

知るのは怖い

一度だけ実家電話があった

怖くてでられなかった

母いわく声は元気そうだったらしいが

からない

何が言いたいのかわからないけど

職場で、いじめのような状況になったら

イジメはかっこわるいよと諭すようにしている

それだけ、している

2014-08-07

心に余裕を持っていたい

 

法事関係で、地元帰省した。

久しぶりに家族と話したり、仏壇に手を合わせて、墓参りに行った。

たまたま同時期に帰省していた旧友とドライブしながら近況報告したり、学生時代の思い出が

ぎっしり詰まった街を歩いたり。

ゆっくりとした時間の流れのなかで、自分の軌跡を見つめ直せた。

 

なんだか、東京で心が荒んでいた自分に気づかされたと思う。

仕事のことでイライラしたり、恋人に対してひどいことを言ったり、胃がキリキリしてた。

 

もっと心に余裕をもとう。

もっと余裕をもって、どーんと構えて、やさしい人でありたい。

まわりの人に迷惑かけてばっかりだ。恩返ししていかねば

2014-07-27

葬式から完全に宗教色を除きたい

「葬儀費用に300万円」なんて時代は終わりです:「シンプル火葬」が着々と社会を変えている件 : まだ東京で消耗してるの?

これ読んで思ったんだけど、自分葬式からは出来れば完全に宗教色を除きたい。そういうのも自分死ぬまでに実現するだろうか?

葬式自体は否定しない。だって結婚式なんかと一緒で、やらなかったらやらなかったで、連絡もらった人達が後から別々に家を訪ねてきたりして面倒そうなので、そういうのは一括で済ませてしまって欲しい。ただ、宗教色を出すために必要費用をかけるのは勿体ないので、出来ればそこはゼロにして欲しい。祭壇、お経、焼香、骨壺、仏壇、墓、位牌、仏壇とかみんな不要

はいえ、葬式っていうのは、生きている人間が故人が死んだことを納得して区切りを付けるために存在しているので、宗教色を持った遺族が納得するためには葬式にも宗教色が必要なんだよね。

そこはジレンマだ。

「実現するだろうか」と言ったのは、今だってやろうと思えば宗教ゼロ葬式 (もはや式の体を成していないかも知れないが) は可能だろうけど、それで遺族が納得するだろうか、という意味で。あと30年くらいのうちに、位牌とか仏壇みたいな用語死語になるくらいの勢いだとベストなんだけど、きっと難しいのだろう。

結局、自分が死んだ後の事なんざ知ったこっちゃないので、遺族が納得する方法でやってもらうしかないのかなぁ。

2014-07-13

弔いの話

3年前の夏、私は実家に帰った。お仏壇のある部屋には、認知症の祖母が寝たきりの状態でいた。

その以前から遅々として認知症の症状が進んでいたが、その頃には私と弟の区別がまるで付かない状態でいた。

「誰かね。(弟)かね」「(私)だよ」

あれほど大好きな祖母が、私の事が分からないのが不思議だった。

「そうかね。(私)はオートバイで死んだよ」「ふふふ、おばあちゃん、違うよ。(私)はまだ死んでないよ」

その時、ふと目が覚めたように、祖母は私に気付いたようだった。

「ああ、(私)かね。(私)はいからそこにいたのかね」「さっきからずっとここにいたよ」「元気かね。今、何をしてるのかね」「東京仕事をしているよ」「ああ、東京でなんてね。大変だ、大変だあ」

私は、一瞬だけ元に戻った祖母の声を聞いて、涙を流した。声色を正すのに、精一杯だった。その後、意識が混濁した祖母は、弟の名前を叫んでいた。認知症の人は、いくつかのパターンにかなり明確に分けられるという。祖母は、火やガスの心配をしきりにするパターンであった。


祖母が死んだのを知ったのは、ある日の金曜の22時前であった。数人で残業していた時に、突然、母親から電話がかかってきた。母は涙声で、祖母が死んだと言った。私は部長に、祖母が死んだので今日は帰らせてください、と言うと、全員が弾けたように帰り支度を始めた。駅までの帰り道、先輩と上司が、自分たちの身内が死んだときの話をしてくれた。私はふわふわとした気持で、それを聞いていた。アパートに付くと、軽い食事だけして、すぐに寝た。化けた祖母は、夢の中にも出てこなかった。


実家近くの斎場に着くと、親戚が集っていた。祖母の死に顔を拝むと、瞼は空き、顎は開いた状態であった。濁った眼球は乾き、辛く天井を向いていた。まるで恐怖で引き攣ったようだった。肝臓が止まった状態で、2週間も祖母は生きた。凄い執念であったか、薬の力であったかは分からない。苦しかたかも、案外楽であったかも分からない。生きるのも死ぬのも勝手に選べなかったのは事実だと思う。

私は祖母の横で、父と一晩を過ごした。守りの番である

会社パソコンを持ってきたので、祖母がいる横の部屋で仕事をしていた。それが終わると、祖母の横たわる姿を眺めていた。夜の2時を過ぎたころ、ようやく眠れた。怖いとか、悲しいとか、そういう気分ではなかった。夜が長いことが辛かった。


いわゆる「おくりびとである納棺師の方が来た。

親戚一同は、ふすまで区切られた横の部屋で待機していた。2、30分もしたころ納棺師の方に呼ばれると、祖母は見違える状態で眠っていた。見開かれた瞼はすっかり閉じられ、顎はしっかりと閉じていた。口に綿を詰めて頂いたらしく、化粧もあって、何歳も若返ったように、生き返ったようだった。

「お母さん、お化粧されたのね」

鬼の様の怖かった叔母が泣いていた。みんな喜んでいた。あの顔で焼かれちゃっじゃ困るな、と叔父が笑っていた。

私は祖母が、本当は生きているのではないかと思い始めた。

「あら、いつからそこにいたの。すっかり寝ちゃってたよ」

そう言いながら、起きるんじゃないかなあと思っていた。そうしたら、目が乾いてるから痛そうだし、すぐにお医者さんを呼ばなければと考えていた。


葬式が終わり、焼却所に行くことになった。たくさん人がいた。毎日、たくさん人が死んでいるのだなと思った。

祖母が、大きなオーブンに入ることになった。お坊さんがお経をあげながら、それに従い我々も手を合わせていた。葬儀場のコーディネータの人曰く、焼却所までお坊さんが来てくださるのは珍しいらしい。確かに、最後最後までよくして頂けた素晴しい方だった。

私は、祖母が焼かれるのを少し待って欲しかった。本当は死んでいないのではと思っていたからだ。


まるで病院の待ち合いのような LED ランプの番号が光ると、我々はぞろぞろとオーブンの前に並んだ。

これが(祖母)様の喉仏のお骨です、こうして見ると仏様の形をしているようですから、喉仏と言われます、と説明してくださる方がいた。祖母の骨は、お棺の中に入っていた何かとくっついたかして、青い色が移っていたのがあった。

斎場に戻ると初七日を行い、御飯を食べた。豪華でとても美味しかったが、焼却所で軽く食べたおいなりさんのせいで、あまり食べられなかった。その後、実家に帰り、支度をすると、すぐに東京アパートに戻った。その次の日から、また残業毎日であった。


先日、一周忌があった。祖母の住んでいた離れが綺麗に掃除され、そこで親戚が集まり御飯を食べた。

私は親戚が自分の家で揃って、一緒に御飯を食べるのが好きだった。子供の頃は、それがお祭りみたいで楽しかった。それがこういう形で集まるのが寂しかった。ただ、祖母もこういう集りが好きだったから、喜んでくれたのかなと思う。

2014-07-02

俺の思い出話と、ある宗教を嫌いな話

六月の途中くらいから書き出して、七月になってしまった。

ただの好き嫌いの話で、長い思い出話。

思い出話で恥ずかしいから特定されないように細かいことをごまかして書いた。

長えよ、と言われる前にまとめると

「ただの長い思い出話で、宗教が原因で好きな景色が無くなったから、俺はこの宗教が嫌い。」

というだけの話だ。具体的な宗教名は書かない。

六月になると亡くなった祖父を思い出す。祖父が亡くなったのはずっと前の年の瀬来年は会えないかもと入院中に見舞ったのが最後になる。

田舎に住んでいた。両親は同じ地域出会い結婚したので、母方の実家チャリンコ必死に行けばたどり着く距離だった。車では20分くらいか。

思い出す祖父というのは母方の祖父。母はパートがあったので、小さい頃は週の半分以上、学校から帰ると姉と一緒に預けられていた。

その頃は祖父との思い出はあまりない。働き者だったので、俺と姉が預けられるとすれ違いで仕事に行ってしまう。あとから聞けば介護施設ボランティアみたいなことをしていたらしい。祖父が出勤前、早めの夕食をとる食卓で、俺と姉が一緒に座って、その日の出来事を喋ったりしていた。たまに仕事のない日には、ご機嫌、というかんじでビールを飲んでいた。この家は小さな商店だったので、好きなジュースを選んで良いぞと言われて、俺たちは普段の食事時には飲めないジュースを喜んで飲んでいた。

もちろん遊んでくれた記憶もある。夏休みクラスでただ一人乗れていなかった自転車の特訓に付き合ってくれた。川で泳いだりとか。姉ちゃんと喧嘩して両成敗でゲンコツとか。

母方の実家、小さな商店をやっている、ややこしいのでA家としよう。

A家に頻繁に預けられたのは小学生の頃で、中学高校と成長するとそういうのは無くなった。

頻繁に預けられたA家は、よくある、たまに帰省するじいちゃんばあちゃんち、になっていった。

祖父はある病気になった。不調を誤魔化しごまかし過ごしていたのが、発覚したというか。A家の家の中は帰省するたび介護向けに変わっていった。母の兄弟、俺の叔父趣味日曜大工だったので、楽しい変化だと思ってた。(おっちゃんスゲー!階段つけ直したの?!みたいなかんじだった)

手すりが付く。急な階段は段数が増える。トイレ洋式になる。手すりが増える。掘りごたつからテーブルになる。布団がベッドになる。自動で昇降するベッドに変わる。喋れなくなったのでナースコールボタンが付けられる。指先で押せなくなったから顔の横にボタン

じいちゃんはどんどん悪くなる。ばあちゃんのやっている介護は、自宅介護でそんなことするんだ、というくらいプロみたいな作業までこなしていく。詳細は省くけど、いま思い返すとあんなことを無給で、かつ無休でやっていたのは驚く。もちろん医者ヘルパーさんが来てはいたけれど。

中学の後半くらいから、俺はデジカメを触るようになって、ホームページを作って風景や花の写真を載せていた。季節ごとにA家に顔を見せる程度の帰省をしていたので、A家の裏の田んぼだとか、家の軒先にあるバラだとか、そういう写真を撮った。本当にきれいだった。通り雨のあとの、雫が付いた葉っぱとか。俺には写真の才能があるんじゃねーのかと、進路相談の時、ニヤニヤを隠しながら担任に見せたら、景色やバラを褒めるので、あ、俺じゃなくて被写体がよく出来てるんだな、と気付けた。(担任も良い趣味だね、とだけ言う程度のレベル

それでも見せれば褒めてくれる祖母にプリントアウトして渡した。次に帰省すると写真立てに入れてあって、寝たきりの祖父が見るテレビ台の横に飾られていた。

正直に言うと、帰省してもすることが何もない田舎の家で、あんなに元気だった祖父が寝たきりの様子を見ていたくなかったから、理由をつけて外を散策するために写真撮影趣味だとしたんだった。そんな写真を、飾っている。申し訳なく思った。

大学に進学して実家を出た。一年に一度か二度、実家帰省するついでにA家にも顔を出す。時々A家ではなく病院だった。

大学二年の頃だったか帰省するとバラがなくなっていた。A家は小さな商店かつ小さな農家でもあったが、家の裏手、裏庭のようなスペースはすっきりとなにも無いような、更地というほどじゃないけど、なにも、なかった。

母に尋ねると、手入れがねぇ、みたいな答えで濁す。そりゃあ、あんなに大変な介護だ。仕方ない。でもどうしても寂しい。友達が知らぬ間に引っ越していた、という感覚が近いかもしれない。A家の周りががらんとして、入院しているため家の中もがらんとしていた。窓の外から見える裏庭みたいな農地の緑がない。小さなぶどう園は支えの柵だけになっていた。姉は俺よりは多く帰省していて、草花を刈った話は聞いていたらしいが、目の当たりにしたのは初めてらしく、ショックを受けていた。というかちょっと泣いていた。俺よりずっと思い入れがあったらしい。その時まで知らなかったが、初孫である姉が生まれた年に植えた木があって、その木までも全部なくなっていたのだ。

それから数年も経たないうちに、祖父が亡くなった。小学生の時、きげんよく晩酌していた祖父に○○ちゃんが大きくなったらこれを飲もうなと言われた。俺は本当に未成年のうちに酒を飲んだりしなかった。でも成人したところで、祖父は寝たきりだったし、普通食べ物すら食べられない状態だった。

葬式が終わって、A家から実家へ帰った。親戚が父と俺と姉を車で送ってくれた。母はA家に留まった。父は禁煙していた煙草を吸いながら、運転手をしてくれた親戚のおばちゃんとコーヒーを飲みながらぽつりぽつり喋っている。姉はその輪の脇で黙って座っている。俺はすぐにでもスーツを脱ぎたかったが、とりあえずその部屋からは出ないでおいた。葬儀のあとの食事?宴会?で、これでもかと酒を飲んだので、半分寝ながら部屋の隅にいた。従兄弟下戸で、その分まで飲んでたからほんとフラフラになりつつも、みんなまだ着替えないから着替えちゃ駄目とかそういう決まりがあんのかなと寝そうになりながら携帯をいじる。

変な葬式だねとか、やっぱり○○だねとか、そういう話から、姉も会話に加わる。

挨拶してたのは導師さまとかいう奴」

「たぶんね、そういう仕組みはよく知らない」

「○○の木を切れって言ったのあいつなんだ」

なにそれ。俺は隅っこで携帯をいじってたけど、思わず声になった。

祖父が寝たきりになってから数年して、仏壇雰囲気が変わった。その頃俺は中学とか高校くらいのガキなんでよく分かってなかった。いまでも詳しくは知りたくない。

有名な、ある宗教だ。この長い思い出ばなしはこの宗教が嫌いだと言うだけの長話だ。たんに俺の好悪の話なので、具体的な名称は伏せる。

経緯は分からないし知りたくないが、浄土真宗だとかのいわゆるよくある宗教から、その宗教に変わったそうだ。祖父が寝たきりになったところにつけ込んだような気がしてしまう。

祖父が患ったのは国の指定を受けるような難病で、そんな夫と共に生きるためには、新たな宗教必要なのかもしれない。それは仕方ない。祖母が生きるためには必要だったはずだ。

その宗教の、導師さまとかい地位の人が、A家に来てくださって、アドバイスをくださったらしい。

伝聞の伝聞くらいのことしか俺は知らないため正確にはどう言ったかからないが、そいつは、A家にある緑が祖父の生命力を奪っていると言った。

から草花を切りなさいとまで言ったかは知らない。じゃあ切らなきゃねと祖母が感じただけかもしれないが、そいつはそんなことを言って、次にA家へ来たのはじいちゃんの葬式の時だけ。

だって風水で西に金色のものを置くと金運アップと聞いたらなんとなく西に金色を置きたくなるし、ラッキーカラーは青ですなんて言われたらメモを取る時のペンを青にしようかななんて思う。ただ俺の機嫌がよくなるだけだ。その程度でいい。

祖父は、ALSだ。筋萎縮性側索硬化症根本を治すような、有効治療確立されていない。指定難病だ。

導師さま曰く、祖父の健康を吸い取っているのは、ぶどうの木や、小さな露地栽培野菜、姉の生まれ年に植えられた木、雨露がかかると一層美しいバラたちだそうだ。

腹が立つというより、呆然、というかんじだった。

A家周辺の景色や、草花の写真がきれいに撮れたから、嬉しかった。ばあちゃんも褒めてくれた。寝たきりのじいちゃんが見るテレビ台の所に飾ってくれた。姉ちゃんが泣いたくらい思い入れのある木。いろいろある。いろいろあった。

祖父が亡くなって一人になった祖母は、田舎の狭いコミュニティの中で孤立したりしなかった。宗教のおかげだ。会合に参加したり、そこのひとたちとバスツアー旅行に行ったり。それだけは、よかったと思う。

それでもあの宗教は、嫌いだ。祖母も草花を刈ることで病気になにか影響すると真に思っていたのではないと思う。俺の撮った写真だけでなくほかの人が撮ってくれたバラの写真も残していたし。本当に病状に関わっていると信じていたら、写真すら残さないと思う。

祖母も亡くなり、何年も前から、このA家にまつわる話をぼんやりと思い返しては、増田にでも書こうかなあと考えていたが書き切れたことはなかった。

五月や六月の、バラがきれいな時期になるとどうしても書いておきたくなった。

あんなにきれいな景色が寝たきりの祖父の生命力で育っていたらロマンチックだ。ファンタジーだ。ふざけんなあり得るか。

先日、姉が結婚した。なにか特別に贈ろうと写真データを見返していたら、姉と同い年のあの木が写った、緑豊かな写真があった。あげたらすんげー喜んで泣くから俺も泣いちゃったよ。

じいちゃんもばあちゃんも大好きだ。病気はどうしようもないし、ばあちゃんの選択は過ちではない。必要だった。生きる上で、大切な指標で、手段なのだろう。

それでも、その選択肢を救済のように与えたあの宗教が、嫌いだ。

俺の好きな景色や思い出を、踏みにじられた。そう思ってしまうから、あの宗教は、どうしても嫌いだ。

2014-06-02

3人きょうだいだが、他にも4人きょうだいがいた(追記の追記あり)

喜寿を過ぎて亡くなった父の法要準備中

ふと気になって実家仏壇過去帳をめくってみた。

母は仏壇の花が萎れてきたらスーパーの花で補充するぐらいには信心深いが、

オレは帰省中に母に頼まれたら水を変える程度、

それまで過去帳の中身には特に興味はなかった。

驚いた。

「◯◯家嬰児」と書かれた項が、年月日付きで4つもあった。

一人目は、兄と姉が生まれた間。

兄は間違いなく婚礼初夜で仕込まれ、姉の誕生日はその1年10ヶ月後。

オレは姉の二歳半下だが、オレが生まれる前に二人。

さらにオレが生まれた翌年に一人。

ウチの親、どんだけ妊娠やすいねん。

全部不慮の流産なのか、何人かは中絶なのか。

そういえば、父が医療ミスの影響で生死の境を彷徨っていた頃、

憔悴した母がポロッと口に出した。

「私が中絶なんかしたからこんなバチが当たるんや」


からは、かつて父は薄給暮らしが大変だったことを何度も聞かされたが、

きょうだい嬰児がいることは一度も聞いたことはなかった。

子供のころ一緒に初詣で「なにお祈りしたの?」と尋ねたら

家族みんなが健康でありますように」って。

戸籍に載っていない4人の子供たちにも思いを馳せていたのか。

年老いた母に今さらそんなことを尋ねて苦しめるつもりは毛頭ないが、

オレが生まれた翌年の妊娠を兄は覚えているかも知れないな。

母が亡くなって、仏壇をどうするかの話し合いになったとき

兄に何か知ってるか、聞いてしまうかもしれん。

http://anond.hatelabo.jp/20140601161827



追記

実家仏壇にある過去帳なので記憶に頼って書いてるが、

嬰児」と書いてあったように思う。

4件ともそれらしい戒名もあった。

出生届は提出されていないはず。戸籍に記載がないので。



追記の追記

嬰児」の使い方が間違ってる!とドヤ顔ブコメがやたらと目につくが、

「オレが生まれた前後に親が記したことを、オレがここに書いている」、

という文脈が読めてない輩が多いようだ。

オレも記憶に頼って書いているところはあるが、

少なくとも「水子」とは記されていなかったのは確かだし、

戸籍に記載がないのも間違いない。


戒名もちゃんとついているということは

id:gazi4 記憶違いだったらアレだけど、位の高い戒名を貰うために「嬰児」にする風習があったとかあったような気がする。

この辺りが真相ではないか。


親の罪悪感に付け入って戒名料を巻き上げた、この件に関わった僧侶は、

今なら「悪徳僧侶」ということになるのかも知れん。

2014-05-21

http://anond.hatelabo.jp/20140521102258

長女一人っ子です。気になって見に来ちゃった。

山とかアパートとかの不動産所得があることとか、

そのうち自動的に庭付き一戸建てが手に入っちゃうこととか

周りの同世代相談すると自慢みたいに聞こえそうで、

誰とも気持ちが分かち合えずにムヌムヌとしていたので、

私も励まされました。どうもありがとう

毎朝仏壇に手を合わせて、盆暮れ正月にお墓参りに行って、

生きていることに感謝する暮らしも、悪くないとは思っているの。

お父さんもお母さんも、そうやって真面目実直に生きてきて

その背中を見て育ったんだもの。まともに育ててくれたんだもの

自分と周りが最大限幸せになれるようにがんばろうね。

無理はしないでね、ご家族みんなあなたを好きだろうから

家のためのあなたけが大変な思いをすることは望んでないと思うよ。

2014-05-20

花子科学する

俺の理想花子像を書かせてほしい。

ある花子の一日。

家族のいない彼女は、窓をあけて清々しい空気を思いきり吸い込むと、「よし、今日もがんばるぞ」と心の中で意気込む。

お父さんと弟のために弁当をつくり、お母さんのために朝食の用意をする。

口角をわずかに上げて、鼻歌を歌う台所の彼女は、浮世の煩わしさなどまだ何も知らない。

仏壇の前でみんなに挨拶をしてから出掛けるのが日課だ。

今日学校でお友達とどんなふうに接したらいいのかしら、やっぱりお喋りがいいなあ、きのうの休み時間はこの前やっていたテレビ番組についての話でなんとか笑いをとれたけれども、今日もうまくいくかしら。うまくいかなかったら私いじめにあってしまうのかしら・・・1年前のクラスみたいに。うえうえうえwwwww

思い出し笑いをする姿もかわいらしい。

あら、もうこんな時間だわ、と時計を見て焦る彼女は、弁当と朝食の支度をし終えると、こんどは自分の準備に取りかかり、ようやく起きてきたお父さんとお母さん(の霊)に「おはよう。いってきます」とうつくしい声で言って一足先に家を出る。

通学電車の中ではよく痴漢にあう

まだ恋を知らないけれども、あこがれは抱いているので、見知らぬ男の指が身体に触れるとうっとりした心地になる。このとき少し濡れるが本人は気づかない。

学校はいもの友達とたわいない話をして過ごす。

もちろん友達花子のような特殊人間ではない。理想男性を語り、友達の中でも断然に可愛い男子の人気も高い娘がいるのだがこの女は「結婚する王子様が現れるまでは貞操を守り抜くと心に決めている」などとほざき、休み時間に注がれる視線にはあえて気がつかないふりをしている。

むろん告白を試みる男子もいるが、彼女はそのたび理由を告げずに断った。

なんなのだこの女は。

この日も男子とは一言もしゃべらなかった。というかしゃべりたかったけどしゃべれなかった。

家に帰ると、いつもならお母さん(霊)と一緒に夕飯の支度をするが、この日は終日暑かったため、さきにシャワーで汗を流すことにする。

下着をていねいに折りたたみ、だれも入ってこないのにタオルを巻いて湯船に入る。

入浴剤は塩。

魔を払う為に塩はかかせない。

きょうの学校もたのしかったなあ、「花子ちゃんってほんとうに面白い」なんて言われて道化を演じきったわ。

透きとおるような純白の肌が、湯気につつまれていっそう神々しくみえる。

湯船からでると、まずは腕から洗い出し、徐々に下へ移動する。

秘部がいちばん蒸れる箇所だけれども、彼女はあえて大切なところには手を付けない。

恐ろしいから

でも、つねに清潔で、臭くはないのである



適当に改変したのを改変した。

ただ、俺の理想花子言葉にしたかっただけ。

現実は知らない。

http://anond.hatelabo.jp/20140518172116

http://anond.hatelabo.jp/20140519122114

2014-05-10

私の親が彼女宗教の勧誘をしてました。

私の親は創価学会です。

母はわりと熱心で毎日仏壇の前で呪文を唱えてます

たまに県外に遠征に行き勧誘活動を行っています

選挙の都度、なにやら応援活動的な事もやってます


私自身は一切宗教活動を行っておりません。」


先日、私は初めて親に彼女をつれていきました。

このまま結婚するだろうと思ったからです。

彼女のご両親とは何度もお会いしています

彼女も母と仲良く話していて、よさそうだなと思っていました。


運悪く急な用事が入りすぐに家を出発しなければなりませんでした。

彼女にはゆっくりしていってもらい。

母には駅まで送ってもらうようお願いし、私は出発しました。


彼女に連絡を取ると、母の事が怖いと言い出しました。

なんでも、変な宗教の話をしてきたと。。。


私のいない間に。。。私は激怒し。。。


(めちゃくちゃ長いので)中略。


結局、彼女とは別れることになりました。

2014-03-21

彼岸だ。今日墓参りに行った。お寺にである。家には仏壇がある。毎日線香をあげている。仏壇にもお寺にもお金って掛かる。

2014-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20140217175047

私はとある宗教の2世で、子どものころから親に宗教行為を強制されるのがいやでいやで仕方なかった。

やれ毎日朝晩仏壇に手を合わせろ、会合に行くぞ、勧誘に行くからついて来いなどなど。

本当に本当にいやで仕方なかった。

学業成功するようにと祈っている時間勉強したいんですけど! 明日部活で朝早いのに夜の会合とか無理!

相手は明らかに嫌がっているよね。なにこれ仲間内で勧誘人数を競っているの?

仏壇で30分唱えたらこの紙の升目を埋めていくんだぞ。お父さんなんかもうこんなに埋めたんだ。お前もがんばれ。

いやいや、なにその無駄時間の使い方。ないから。ありえないから

子ども時代は、強制される宗教行為からいかに逃げるかということばかり考えていた。

中二病全盛期には、周りにいるその宗教関係人間全てを軽蔑し、馬鹿にしていたように思う。

「これ印刷物じゃないんですか? 息を吹きかけてはいけないのはなんでですか?」

とある日の会合で幹部と呼ばれるエラい人にそのようなイキガッタ質問をしたのを今でも覚えてる。恥ずかしい。

そんな宗教嫌いだった自分だが、一度だけ、宗教についての考え方を大きく変えるできごとがあった。

私には叔母がいて、日ごろから親しくし、いろいろとかわいがってもらっていた。

しかしある日突然、叔母がくも膜下出血で倒れて緊急手術をすることになったのだ。

それを知ったのは夕方のこと。家族みんなで病院に向かい深夜まで病院涙目フラフラ、日が変わるころに親に連れられて家に戻ったが当然ながら眠れるはずがない。

家に帰ったら家族一同で仏壇に向かい祈りをあげた。そして僕も生まれて初めて、本気で祈ったように思う。

今思うに、

本当に祈るしかないときというのが人生はいくつかあって、そういうとき宗教というのは必要なんだと思う。

少なくとも祈っている瞬間は、何かしたいのに何もできないというそのどうしようもないもどかしさから逃れることができた。

その瞬間だけは、僕はこの宗教があってよかったと思ったのだ。救われていたのだ。たとえそれがただの逃避だとしても。

はいえ喉元過ぎればなんとやら。叔母の手術が成功し、自分生活が通常に戻るにつれて宗教行為サボりがちになり、

進学を機に親元から離れることで完全にその宗教から足を洗うことになった。

私の宗教に対する考えをまとめると次のようになる

宗教必要とする人は少なからずいる。私も必要とした瞬間が一時とはいえたしかにあった。

今の私は宗教必要としないからやっていないだけ。

しかしたらまたどうしようもないとき必要とするときがあるかもしれない。」

おそらく私は、本質的宗教行為には興味がなく、思考停止の道具としての祈りしか必要としていないのだろう。

(そしてそのような道具に頼るほど自分は弱い人間であることを自覚している。)

そこには信仰心のかけらもない。苦しいときの神頼みをする自分自己弁護しているにすぎない。

まじめに宗教を信じている人からすればこのような考え方はどう見えるんだろう。盛大に罵られそうだw

こんなこと、知り合いの前では絶対に話せないな。匿名ダイアリーがあってよかった。

2014-02-17

とある大きな宗教に入信してみたんだ・・・

信仰心っていうのは時として人を支える力になると思っている。

私には昔から特別信仰心はないし、時々仏壇に手を合わせるくらいだけども

信仰心を持つというのは、どんなものなのか?

また支えられる部分があるのかどうか?

比較的大きめだけど、そんなに有名ではない宗教団体

誘導してくれたおばちゃんは気のいい面倒見の良い女性。まあただ

その周りにいた人たちは、ちょっと狂信的で引いたけど。

その宗教代表言葉に、まったく心が震えることはなかった。

どちらかとうと集団信仰おかしさを感じた。

でも、一心に何かに対して想いを祈るという祈念の信仰

普段の俗生活のなかで降りつもった「何か」を電気アースのように

空中に放電してくれる役割を感じることはできた。

団体や代表に対して何も感じないが、祈る行為の尊さは案じたかな。

2014-02-12

宗教から抜け出せれない

和室から仏壇を廃棄すると言ったら親類から酷い批判を受けた

爺様の何周忌も今年からやらない

自分葬儀も坊さんは呼ばなくていい、市営葬にでもしてくれと言った

ろくな信仰があるわけでもないのに坊さんに大金を払うのが勿体ない

恐らく一般的真言宗であり、その他宗教信仰する気はないが、どれ一つ達成できそうにない

抜けようとすると周囲から酷く批判を受ける

この日本はどれだけ宗教に雁字搦めにされているのか

2013-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20131101172008

どうも論点自体が分かってないみたいだからちゃんと忠告してあげるけど、

この記事が話題になったのは、正に、

「糞みたいな大学のセンセイやってる奴が詭弁振るって偉そうに学生をバカにしてる」

ってことだけで。

その内容が宗教的にどうこうとか、その他の部分でどういう話だったとか、全く関係ないわけ。そんな話なら別に話題にならないわけ。誰も興味ないわけ。

ソクラテスとかどうでもいいわけ

単位取るためにーとかもどうでもいいわけ

そもそも、東工大でこんな詭弁ふるって、実際学生がどんだけちゃんとてあげたりしてるかすらもわからないわけ。このおっさんの単なる妄想な部分もあると思うわけ。

仏壇の話もそう。今の学生のどれくらいが家に仏壇あるかって話なわけ。なのにそれをさも最近学生に聞いても。。。みたいな話にしてて、そんなの嘘っぱちなわけ。

まり、その辺どうでもいいの。

くそみたいなやつが上から目線詭弁学生をバカにしました。

その内容はホント糞でした。」

ってのが話題になった理由のなの。それが宗教的にどうこうとか関係ないの。ソクラテスとか持ちだしてきて真面目に語っちゃう奴とかはホント馬鹿なの?ッて感じなの。

ソクラテスとか語るくせに話題の本質を全く理解できてない馬鹿野郎なの?ってだけなの。

http://anond.hatelabo.jp/20131101100859

いや、だからさ、これが噺の枕だってことくらいは誰もが理解できるだろ。

でさ、これを「学生をこまらせるために」とかドヤ顔で言われてもどうなのよ?って話。

そりゃソクラテス時代だとか、小中学生ならこれ言われて、ハッとする人も居ようが、

今の大学生でこれ言われて、ハッとする人いるか?ただの詭弁に付き合わされてうぜーなー、としか思わないでしょ?違う?

で、東工大だよね?この人の話を本気で真面目に聞きたい人なんて居ないだろ。単なる単位だけなのに。こんな糞みたいな詭弁に付き合わされて気分害す方がよっぽど問題だわ。



で、その後もつらつらと自慢気に、

まあ、書き起こしてるからそのライターによって面白おかしく引き出されてる、ってのは分かるけど、まあそのライターの頭含め、

バカなのか?と言う話。

仏壇の話とか、ホントノ話なんですか?ただのつくり話でしょう?このお守りの話も毎回やるとか言ってるけど、毎回こんなやりとりになりますか?

無視されることすらあるんじゃ?

専門の話を簡単に、ってのは分かるんだけど、「簡単に説明するために人を馬鹿にする」と言うやり方は最も愚直で最低なやり方だ、っと言いたい。お分かりですか?

http://anond.hatelabo.jp/20131101062156

ちげーよ。

バカガキが詭弁でオトナを困らせようとしてるのと何ら変わらん。

まともな人間がいれば一発で黙らせられるレベルだろ。

私も東工大で必ず年に1回、学生いやがらせ質問をするのです。

で?、っていう。

てか、ここにあるような反応する学生実際に居るか?居ないだろ。言われた時点で何言われてるかなんて一瞬で理解できる話しだし、

てか、学生はこんなクソ教授の話なんてまともに聞いてないだろ。

やっぱりどんな子でも、家でエロ本を見るとき仏壇を閉めるというから(笑)

これとか、単に自分の話だろ。アホか。今の時代仏壇が家にある家がどれだけあると思ってんだよ。

今の時代に実際に「エロ本」を家で見てるやつがどれだけ居ると思ってるんだよ?こんだけネットでいくらでも見れる時代に。

まさにこのおっさん世代の話だろ。自分の話を学生の話にかってにすり替えんなよ。



っていやがらせの責めをしたら黙ってくれるかな?それともくだらない押し問答になるかな?

なんかしらんけどこのおっさん擁護のあんたらはその辺どう返答してれるのかな?

お前らの宗教観なんてどうでもいいんだよ。くだらない詭弁で人を困らせてふざけんなってだけだろ。

このおっさんを養護するなら、このおっさんのアホさの部分、学生押し付けてる上の部分、ちゃんと養護してくれませんか?

2013-09-21

子供ができた

結論を先に行っておく。結婚していて特に理由もないのに「子供はまだいいかな」と思っているなら今すぐ窓の外にコンドームを投げ捨てろ。今すぐだ。

結婚から4年。嫁は40も過ぎて、よく見る年齢別の妊娠率のグラフが地を這う年齢になってしまった。一通りの不妊治療にも国産乗用車を買えるくらい投資してもダメで、ほとんど諦めて養子里子を育てようかと話していた矢先の妊娠だった。田舎だと夫婦の生きがいは子育て以外に見出しにくいんだよ。

結局自然妊娠だった。

40歳を過ぎると妊娠確率(この妊娠確率も何を指しているのかよく分からない。性交一回当たりの確率なのかな)が数%に落ちるというのは最近良く言われるようになったが、流産確率も50%近くになることも知ってほしい。嫁は2度、妊娠初期に流産した。妊娠はしたが心拍が確認できずに流産に至るパターンだ。

私にとっては「ああだめだった。次がんばろう」くらいだが、嫁にとってはかなり精神ダメージが大きかった。医者に言わせれば流産一定確率で起こるもので外的要因によるものではないらしい。そんなものに原因を求めるのは本当はナンセンスだ。サイコロを振って1が出ることに原因を求めるのがナンセンスなように。

しかし嫁の場合は「何が悪かったのだろう。仕事をしていたことか。食べ物が悪かったのか」と思い悩んでしまった。そして鬱を患うようにまでなってしまった。

お腹赤ちゃんは今のところ順調に育ってくれている。私にできることは、家事をすること、嫁をいたわること、仏壇に向かって無事の出産を祈ることくらいだ。できることはほとんどない。

このまま無事産まれてくれれば結果オーライだけど、そこに至る道のりは辛すぎるものだ。子供は早めに作った方がいい。できれば35歳までに。それ以降だと悲しい思い、苦しい思いをする確率が高くなる。

2013-09-12

五輪が来ないと人が死ぬ

 反対派は一度でも考えた事があるかね? 五輪という希望の光が生の道を照らすことを。

 うちのばあちゃんはもう88歳で要介護老人なんだよ。毎日死にたい天国のじいちゃんの所へ行きたい。私には生きる気力も目的もない」って嘆いてた。でもよ? 東京五輪が決まった日、俺が朝起こしに行ってオリンピックが来ることを伝えた瞬間、ぱーっと笑顔になって、立ち上がったんだよ。

 ばあちゃんの笑顔は何年ぶりだろう? 立ち上がったばあちゃんは、じいちゃんの仏壇へ行って、「東京五輪土産話をそっちに持って行かないといけないから、もう少しそっちに行くのは待っててちょうーだい」って。

 俺は泣きそうになった。ばあちゃんはじいちゃんと前の東京五輪を一緒に見てるんだよ。じいちゃんが病院で伏せている時、いつもその話をしてた。「もうあんな経験味わえないだろうね」って。それがまたこんなチャンスに巡り会えるなんて。

 医学的にはどうか知らないけど、俺はばあちゃんはもう大丈夫、後7年は生きるって確信した。

 五輪がもし来なかったらばあちゃんは死んでだろうね。そして、他にもこんな例日本にはたくさんあると思うよ?

 もちろん、開催地に選ばれなかった国にもそういう人達がいて、逆に寿命が縮んでしまった例だってあると思う。

 でも、俺はただ嬉しい。ばあちゃんが笑顔になってくれたことが。

2013-09-08

親が創価  最近恋愛すら億劫です

親が創価 最近恋愛すら億劫です

親というか親戚みんな創価です。

僕も子供の頃はやらされてましたが、今は一人暮らしで関わってません。仏壇等もありません。

学生時代は何も考えず普通に恋愛してきましたが、今は社会人でもうすぐ30歳になるのに恋愛らする気になれません。

親戚みんな創価ってだけで恥ずかしいです。

将来結婚とか考えたときに色々言われたりして傷つくのは嫌です。

職場人達もみんな結婚してるので、「お前はまだなの?」って言われますが、6年くらい彼女すらいません。

彼女ってだけなら、作ろうと思えば作れますが、先が思いやられます

職場にも創価がいるので本当のことが言えません。

親とは最低限しか関わりがありませんが、縁を切ると保証人がいなくなり大変なので、それも無理そうです。

みなさんが同じ状況だとしたらどうしますか?

付き合うなら宗教やってない人がいいです…。

2013-08-31

葬式が終わって

一番つらかったのは出棺後だった

出棺して葬儀場について最後のお別れをして

銀色の扉が閉じられて

ボタンを押される瞬間は目を閉じていた

時間経って扉が開けられた時

あんなに花で一杯にしたのに

出てきた時には白い物質だけになっていた

カラカラと音を立てるその白い物質

お箸で白い壷に入れて

ここが頸椎です なんて説明を受けて

正方形の小さな箱の中におさめられてしまった

180cmの長身のあのひとが

たった一つの小さな箱の中に

いまでもまだ現実感がない

実家に戻ってから

葬儀の人が四十九日法要やら仏壇やら墓の話を矢継ぎ早にされていたが

誰の頭の中にもちゃんと入っていないようだった

日本葬式システマチックさには感嘆する

これを、大好きな人の分だけ、繰り返さないといけないと思ったら

かなりキツいな

2013-08-09

自信がないんだ

オヤジと母さんは物心ついた時から仲が悪かった。

学校から家に帰るとオヤジに投げ飛ばされ失神し倒れていた時もあった。

でも母さんも強気オヤジと取っ組み合いするくらいの気性。

俺は二人とも好きだっただけに辛かった。

家族四人(姉がいる)揃った楽しい思い出は数少ない。

2度ほど旅行に行ったくらいか

多くの思い出は夫婦喧嘩ばかり。近所に住んでいたおばちゃん(母の姉)に「すぐきて~っ!」て呼びに行ったことは数えきれない。

原因は親戚関係にあった。

オヤジ長男。墓守として仏壇もウチで管理

オヤジ兄弟姉妹は好きかって言う。

誰かに病気や不幸があれば「仏壇管理が悪い」とイチャモンと付けに来る。

オヤジにではない。母さんにだ。

そんな親戚を私は今も恨んでいる。

そして母を守らなかったオヤジも恨んでいる。

母方の兄弟姉妹もぐちゃぐちゃだった。

母の母、ばあちゃんがボケてからというもの、良くある話が頻発。

「誰々の家ではご飯を食べさせてくれない」

「誰々が誰々の文句を言ってる」

ばあちゃんをたらいまわしにした挙句責任は母へ。

ウチはオヤジ仕事の都合で転勤があってばあちゃんを引き取ることができなかった。

その他兄弟姉妹も多くが教員事情は同じだ。

短い間ではあったが面倒を見ていた母の兄の転勤を機に病院へ入れることに。

ばあちゃんは「・・・・(母さん)と一緒に住みたい」と言ったらしい。

しかしそれはできなかった。

そのとき、母の乳がんが発覚していたからだ。

なぜかは分からないが母は兄弟姉妹入院するまでそれを言わなかった。

おばちゃんにだけ伝えていた。

母は袋叩き。母対一番下の妹との取っ組み合いの喧嘩も見せつけられた。

私が小学2年の頃。40過ぎた今もはっきり情景が焼き付いている。

そこから親戚関係はぱったりと疎遠になる。

母の手術後もだれも見舞いにすら来ない。

回復後も同じ。

オヤジ方もそう。

おばちゃんだけが拠り所。

親戚関係がないということはお年玉に影響する。

それを気遣ってか、親もおばちゃんも1万円くれる。

から毎年2万円。まあ友人たちよりは少なかったが不満はなかった。

私が小学6年の時、母の癌が再発する。

から聞いた話だが、オヤジには医者から余命2年と告げられていたらしい。

でも私もある程度悟っていた。

退院を繰り返す。

その度に痩せていく。

私がギターが欲しいと言ったら母の同級生からギターをもらってきてくれた。

普通なら反対するだろう。厳格な母だったから。

しかすると自分でも分かっていたのかもしれない。

中学2年の頃、思い切って、エレキギターが欲しい、と言うと「いいよ、上手くなったもんね」。

当時は高価だったエレキギターギターアンプを買ってもらった。

おばちゃんに「私は反対だな」と言われたとき冗談で「何かあるのかな?最近全然反対しないんだよ」といったらおばちゃんの血相が変わった。

明らかに動揺していた。多分おばちゃんも悟っていたのだろう。

「ま、まああんたは勉強部活も頑張ってるからじゃないの・・」とだけ言われた。

退院を繰り返す。

入院きっかけは呼吸困難。私はたまたま直面しなかったが、姉が2度救急車を呼んだ。

そして2,3週間で退院

もう確定だ。母さんの体は小さくなり、顔や肩にこぶができ始めていた。

この頃すでに家事は残された家族で分業。

ご飯は自分で。洗濯自分で。家の掃除は気が付いた人がやる、という暗黙のルールができていた。

私が中学3年に上がる頃に再入院

たまたま友達が腎炎になり数か月入院していたので見舞いがてら学校帰りに病院に遊びに行っていたようなものだ。

それでも母は喜んだ。友人も母といろいろ話せるようになっていた。

しかしこの頃から急激に体が弱り始め、会話もやっとの状態になった。

4月に入り、急に疎遠だった親戚連中がやってくるようになる。

「ごめんね、ごめんね」と泣きながら話しかける奴ら。私にも「久しぶりね、元気だった?大きくなったね」

鳥肌が立つ。なんだこいつら。

同時に母の死期が近いことが分かった。母を見て明らかだ。そして個室へ移された。これは常識的に「最後であることを意味する。

姉と冷静に話す。

「もうそろそろなのかな・・・

「そうかもね・・・

その3日後、早朝に電話が鳴る。

すでにオヤジはいない。

姉を起こし、自転車で二人乗りして病院へ急ぐ。

「来たな」

「来たね」

その言葉しか交わさなかった。今思ってもあまりに冷静だった。

病院に着くと呼吸困難の発作が出ていた。

ほとんど口をきけなかった母が叫ぶ。聞いたことのない大声で叫んでいる。

先生!私まだ死ねない!子供らが!」

そう叫びながら処置してくれている先生白衣をぐいぐい引っ張っている。

先生も大声で「大丈夫大丈夫から!ちゃんとやってるからちょっと離して!注射打てないでしょ!」

ヤバかった。見ていられなかった。計器の音と叫び声だけが響き渡る病室。

小一時間ほどで状態が落ち着く。その日は日曜だったが私の部活の催しがあった。

オヤジに「落ち着いたようだから行って来るわ」と言い残し、家に行って道具を持って体育館へ。

着替えていると体育館の職員さんが大声で呼びに来る。

「親戚の人が来ているよ!急いで!」

事情を聴いたんだな。それよりも「あちゃ~来たか」という感じだった。

仲間に聞かれても「いや、そのうち分かるから」と言い残して病院へ急ぐ。

到着したとき、母さんは亡くなっていた。

タイミングよく集まった親戚中が泣いている。

この時初めてオヤジの涙も見た。

でも私は不思議と涙が出なかった。「やっと楽になれたね」という気持ちが強かった。久しぶりに見る母の安らかな顔。

人とは不思議もので、毎日痛みに襲われ続けると表情や顔のカタチすら変わってしまものなのだ

昔の結構美人な母さんの顔に戻っていた。

手を握るとまだ温かい

私は一言、「お疲れ!」。

周りは煽る。私を泣かせようと煽る。なぜ泣かないのか、悲しくないのか、とまで突っ込んでくる。

いい加減、ついに私がキレる。

「おめぇらに何が分かる?!うるせぇんだよ」

病室の外でも言い合いが。

オヤジと私を迎えにきた親戚だ。

「なぜ(私を)行かせた?!誰が許した!」

「俺だ!何か文句あるか!」

胸ぐら掴みあってる。

私が割って入る。

「アンタに何が分かる?俺は見ていられないから行ったんだよ!ドラマみたいな場面作られても満足するのはオマエらだけだろうが!母さんは分かってくれてんだよ!」

で、全員に

「つうか、てめえら急に兄弟ぶりやがって何様だおらぁ!」と壁パンチ一撃。看護婦さんに止められる。

中学3年のガキとはいえすでに身長は180cm、体格は大人、しかヤンキーときた。誰も止められない。

シーンとする。

遺体に寄り添っていたおばちゃんが冷静に一言

「アンタのムスコ、やっぱり立派になったよ。いい子だねぇ。育て方間違ってなかったよ。あれだけ辛い思いさせても大丈夫だったんだよ」

「お母さんね、いつも私に言ってたんだよ。教育上良くない場面を何度も見せてきた、母親らしいこと何もできなかった、一番母親必要な時までいてやれるかな?って」

兄弟姉妹たちはぐうの音も出ないで押し黙る。私はその一言で涙腺崩壊した。

その後、通夜告別式の間、私は一度も涙を見せなかった。

通夜には大勢の人が訪れた。クラス全員、姉のクラスも。そしてオヤジ金融機関勤めだったのでその関係者。豪勢な式になった。

遺族席でいるとひときわ号泣して要る奴がいる。あの母と同時期に入院していたアイツだ。

聞くと、私がいない時も母の病室に行き、母と話をしたことがあったらしい。

その時に「あの子をよろしくね。これ内緒でね」と毎回言われていたそうだ。そいつ退院が決まった時も車椅子で声を掛けに来てくれたという。

そいつもそんな人前で涙を流すような奴じゃない。この話を後から聞いた時の方が参った。アイツも参ったらしいが。

親戚は帰るときも「これからはちょくちょく連絡取ろうね」と言い残したが、

「いや、遠慮しときます」と答えた。呆れた様子だった。

おばちゃんから伝え聞いた話によるとその後も親戚関係はぐちゃぐちゃだったらしい。

母と取っ組み合いの喧嘩をした妹は旦那会社の金を横領、その穴埋めができずに旦那夜逃げ

家を取られまいと抵当権を外すために兄弟じゅうに借金子供の学費の工面で借金

もう何年も前に話なのに誰にも一銭も返していないことでいまだにモメているという。

誰でもどこの家庭でも何かしらの問題は持っている。

しかしウチの親戚連中は結構ひどいな。みんな仕事は立派なのだが。

今はおばちゃんも亡くなり、長兄も亡くなり、オヤジ方を含めみんな年老いた。

生きていても、離婚した人、精神病院に入ってしまった人、奥さんが自殺した人もいる。

子供らに関しては50歳にして就職経験なし、という人もいる。

携帯キャリアの開発部門で立派にやっている人もいるし、教員も多い。みんないろいろなんだ。

親族間のつながりの希薄化が言われているが、悪いことばかりじゃない。

遠くの肉親より近くの友人。

的を得ている。

でも親族が円満な人たちがうらやましくなる時もある。

母さん、おばちゃん、俺はこの生き方でいいのかな?

事あるごとにどちらに進むべきか聞いてきたけど、言う通りにしてきたぜ?

自分なりに全力も尽くしてきた。

母さんに言われた通り「どんなことがあっても女性に手を上げてはいけない」も厳格に守ってる。もちろんムスコにも同じように伝えてる。

最近いろいろ考えるんだ。

今、心を病む寸前かも知れない。声が出にくくなってきた。震える。人と会うのが怖い時が多くなった。

でも無理矢理「これでいいのだ」と言い聞かせている。

これでいいのかな?

そっちの世界に行く時に悔いなく死ねるかな?

やりたいことはたくさんあるんだけどな。

上手く行かないことばかりでさ。

オヤジももうすぐそっちの世界に行くかもしれない。

そうなったら俺一人になるな。

一人でやって行けるかな?

子供らを巣立たせることができるかな

なあ、どうして最近出てきてくれないんだ?

間違ってるなら間違ってるって言ってくれよ。

あの頃あったはずの自信がないんだ。

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