はてなキーワード: 仏壇とは
ある春の日の白昼、幼い子どもたちを置いて母が家を出てからというもの、我が家の家事一切は祖母が引き受けることになった。
当時ハードロックにかぶれていた自分は「ジーンズは洗ってはいけない」という間違った美意識を持っていたものだから、祖母が勝手にそれを洗濯機にかけご丁寧にもキッチリとアイロンがけしてセンタープリーツをこしらえた姿をひどく嘆いた。
久しぶりに帰った実家はあいかわらず何も変わってないのだけど、広いリビングの一角を占拠していた物干し竿が台所の横に移動している。男だらけの兄弟だったから何も疑問に思っていなかったが、姪っ子が年頃になれば確かにそういうわけにも行かないだろう。
衝撃的な事件だったし、単純に猟奇的事件に興味があったのもあり、
その後インターネットで少年Aの顔写真を見たり、まとめているサイトで事件の詳細を読んだりしていた。
被害者、加害者が出した本は読まなかったが、『絶歌』は発売後すぐに買い、読んだ。
まず、サムの息子法が、とか言っている人もいるが、これに関しては現状の日本の法律で問題ない以上、文句言っても仕方がないことである。
また、世界各国で適応されている法律ならまだしも、一部の国の一部の州でしか実施されていない法律をあげるのは、都合が良すぎる。
文章に関しては、ネットでは批判的な意見が多いが、良く書かれていると思った。少なくとも僕にはこのような文章は書けないなと思ったし、
文章力はどのように身につくのだろうかとも思った。高校、大学と出て学んできた身なので、自分が恥ずかしいとも思った。
そういえば、『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人意見陳述も読み応えがあったなぁ。。
中身に関してだが、この本は大きく分けて、少年院に入るまで、出た後の二部構成になっている。
少年院でどういった生活を送っていたのかも気になったので、そこが書かれていないのは残念に思った。
一部と二部では文体が異なる。一部では、少し厨二的というか、見えていた世界が人と異なるような表現が多く、少年の異常さが表されている。
二部では、淡々とした文体で書かれていて、更生されているかのような印象を持った。
しかし、これは意図的に文体を変えているものだと感じられた。当時の少年時代の日記がそのまま公開された。とかならこのような違いがあることも分かるが、
書いたのは現在の少年Aのため、このように文体が変わるのには違和感がある。
少年Aは犯罪の原因は、自分の性癖にあると言っている。親しかった祖母の仏壇の前で、マッサージ器を性器に当て、初めての射精した事から
死と性が関連するようになってしまったとのことだ。
猫を殺した時も、射精したし、被害者の首を自慰行為の道具としても利用したとのことであった。
しかし、同級生に対して暴力行為を振るったことは、性衝動とは一切関係ないので、性癖のみが暴力、犯罪の原因とされているわけではなさそうである。
また、被害者の首で自慰行為を行ってから、その後射精をしなくなった (少年院時代のみ?)という記述があったが、今現在はどういったものを対象に性を感じる
ようになっているのかが気になる。今でも死と性が関連していると思うなら、今後も事件が起きる可能性がありそう。
家族は悪くない。と書かれているところが多数あるが、客観的に見て異常。同級生に暴力を振るった時の母の注意の仕方とかは、軽い喧嘩を注意するレベルで、
おかしいだろうと思った。
成人し、出所してから仕事もちゃんとしているし、生きる力が強いと感じた。また、金に対する執着もあるため、『絶歌』の印税は相当本人としては嬉しかったんじゃないかと思う。
金に困って犯罪するタイプではないと思うが、印税を与えることによって少し大人しくなるのではないかと思った。別に『絶歌』を買ったことを正当化している理由ではない。
社会人生活を送っている時、同僚にインスタントカメラで写真を撮られた時、切れてそのインスタントカメラを振り払い、壊したみたいなエピソードがある。
写真に撮られることがナーバスになっているということを表したかったのだろうが、単純にキレやすい人間みたいな印象を受け、恐怖を感じた。
その後、ホームページ公開したりしていて、良い体しているなとか、ナメクジ写真はダミアン・ハースト的でもう少し評価されても良いんじゃないかとも思った。
ネット上では『絶歌』の批判ばかりだが、読み物としてもそれなりに楽しめるし、超有名犯罪者の文章を一度読んでみるのも良いのではないかと思う。
まぁ私の事なんですけど。
父、祖父、曽祖父の代からの共産党主義者。もっとも共産党員なのは祖父と父で、曽祖父は単に支持者だったそうだけど。
祖父が亡くなった時に、志位和夫委員長から弔電が来ていたらしいので、そこそこの党員だったのだろう。あまり良く知らないのだが、祖父宅には宣伝チラシのようなものがおいてあったり、客間におそらく党員が集まって話してるのをよく見た。
父は党員だけど労組の活動がメインみたい。むかし、隣の市で共産党系の市長が出そうだった時に開票所に連れて行かれて「不正が無いか見ておかないと行けない。お前たちの未来にも関わることだからな」と言われた。月に2-3は活動して座談会いったり年1くらいデモしたりしているみたい。自分は細胞なんだそうだ。
他には政治的なことを言われた記憶はなく、しんぶん赤旗は取ってたものの、私は個人的にずっと朝日小学生新聞→朝日新聞を取ってた。個人的にっても親の金ではあったので、親ありがとう。
私自身のことについていえば、共産党の薫陶は受けたものの、赤旗まつりに行く程度で、しんぶん赤旗の現実味のない論調とニュースの速報性のなさにはがっかりだし、オープンキャンパスで東京の大学をいろいろ見ていたときに法政大学でアジ横断幕見てドン引き。
一応大学で共産党宣言はちょっと見てみたものの・・・ってところです。
あいつら、チベット虐殺について「チベットで暴動があり民間人に死者が出た模様」って軽く触れて終わりとか偏り報道ですよ。CNNもBCCもNYTも見放題の時代に。
なお、赤旗まつりは完全に地方物産市&芸能人講演会となってて政治要素はかなり薄いので面白いです。各地の特産品とかあるよ。
さて、彼のことについて言う。
彼は別に創価学会の企業でもないちょっと名のある企業に勤めていて、友人経由で知り合ってみんなでキャンプやバーベキューしたりしてるうちに仲良くなった。1年半くらい半同棲して、そして結婚に至る。
半同棲(週3くらい同居)のときに、彼がクローゼットに仏壇をおいてるのは気づいてた。とはいえ最初は仏壇?と思ったものの気にしなかった。でもなんとなく気になって、彼がシャワー浴びてるときに仏壇の中を開けたら変な呪文の紙があって「きもっ!!!!!!!」ってなったね。そりゃもう。鳥肌ゾワゾワ。
その日は彼が求めてきても体調悪いって断ったもんね。
んで、帰って創価学会でググッてビンゴ。創価学会の呪文の紙だ(板曼荼羅というらしい)。吐き気を抑えつつも、彼のステータスを考える。有名企業の法務部。年収650万。顔も悪くない。性格もすごく合う。
でもなー・・・と思いつつ、「あのさー・・・もしかして宗教とかやってるの?仏壇となんか呪文?みたいなの?見ちゃったんだよね」って言ってみた。「あー・・・学会員でさ、親もなんだけど。でも創価学会って別に変な宗教じゃないよ。日蓮宗っていう鎌倉時代からある普通の仏教だし、ふつうだよ」って言う。
はいはい、そのへんは全部Wikipediaで調べ済みです。鎌倉時代の新興宗教日蓮宗の、更に過激派の日蓮正宗の、そこから更に分離独立したんですよねーーー。とは言いつつも黙って「え、それ私も勧誘したりするの???」「えっしねーってww まあお前が興味あるって言うなら少しは教えるけどwww 普通の仏教は別に勧誘なんて無いでしょww 学会は普通の宗教だからね。勧誘なんてしないよ」とかのたまった。
(なお日蓮系の顕正会は現在も勧誘がひどいが、創価学会は”現在は”ほとんど勧誘してないらしい。20年前まではひどかったようだ:wiki情報)
彼も祖父母の代からの学会員らしい。三世ってやつか。私は祖父と父が共産党員だけど私は党員でも支持者でもないからなー。
やっぱり彼のことでビックリしたのは、共産党と週刊新潮が本当に本当に嫌いなことかな。2chも嫌い。だけど私が元ねらー(というよりははてな村民でツイ廃なんだけど、ゼロ年代のネット住民によくある程度の浅いねらーでもあった)なことを知ってるせいか、あんまりあからさまに悪くは言わないかな。
たとえば電車の中吊りで週刊新潮の記事を見て「へぇー東京五輪の黒い噂なんだ」と学会とか関係ない話をしたときに「は?週刊新潮なんて嘘とデッチアゲしか無いんだよ?ああいうデマばっかりの雑誌見てると低俗になるよ」と言い出しまして。あとで調べると、週刊新潮は20年ぐらい前から反創価学会キャンペーンをやっていたみたい。共産党は支持層が被るのもあって対立してたみたい。
あと、集団的自衛権とかSEALDsとかの話も「共産党が裏で動いてるんだろ?ああいう連中(共産党)こそサッサと内乱罪で逮捕すべきだよ」と言い出します。これも共産党とは40年くらい対立してるみたい(すべてWikipedia等情報)。
実は、父祖が共産党員なことは彼には言ってないんだけど、大丈夫かなぁ・・・。これはかなりナイーブな事案。っていうか共産党と仲悪いなんて知らなかったんだよね。
普段は本当に温厚な人でバランス感のある人ではあって、パリのテロも「テロは当然許されることではないけども、フランスで起こったということはやはり空爆だけでなくフランスの移民政策にミスがあったということも遠因だろう」とか言ってた(ネットで見る言説と同じではある)。
こういう彼がいきなり特定のことになると過激な発言をするパターン・・・というので思い出すのは、職場の同僚のネトウヨさんだ。
ネトウヨさんは2児のパパで、とてもいい人で温和な感じでFacebookも娘の写真とかが多いんだけどネトウヨで、中韓・最近だと日本共産党あたりの話題になると本当に叩きっぷりがひどい。
ある日「娘と一緒にスイカ割り行ってきました〜〜。まだまだスイカは固くて割れない^^;」みたいなことを言った5分後に「翁長ww売国奴は死ねよwww」「テロに遭う前に韓国人という外患を強制退去させないとな(真顔」とか言ったりする。
彼も、ネトウヨ同僚さんも、このメンタリティは理解できない。絶対的に叩いていいモノ扱いするメンタリティ。正直こわい。
選挙は2回ほどあったけど、「お前はそういう女じゃないと思うし、俺もあんまり好きじゃないけど一応言っとくとできれば公明党に入れて。まぁそういう女じゃないだろうけど」って言ってきた。どういう女だと思ってるんだ!!
話し合ったことはないけど、日蓮正宗とか阿部日顕とか言い出すとまたすごい批判の言説されそう。そういや彼の本棚の奥の方に(隠すように)も彼の実家にも池田大作の本とか人間革命とかあるけど、あれは面白いのか…?この辺もまだ話し合ってない。なんであんなに池田大作好きなんだろう。ネトウヨさんが天皇と日本大好きみたいなもんか?刷り込みなの?
あと彼は創価大学ってとこの卒業生なんだけど、これもキモい。「ふつうの大学で宗教の授業とかは無いからね」「幸福の科学が大学作ろうとしてたけど、あれは授業が宗教的だってことで禁止くらってたけど、ああいうのとは違うんだよ」「司法試験合格率とかも高いし優秀な大学だよ」とは彼の談だけど、ネットで創価大の文化祭の画像を見たら「父、池田先生ありがとうございます」とか、三色に染めた旗・花・階段・校舎・・・キモイキモイ!
あとやっぱり板曼荼羅は呪文にしか見えなくて気持ち悪い。捨ててほしいし、ガチ同居になってから見えるところに配置してるのでせめてクローゼットにいれてほしい。
月に1回くらい、休日接待だと嘘ついて学会の活動するのやめてほしい。会社の学会員の人といってるようなのでギリ嘘じゃないんだけど、それでも。
「そんなに嫌ならなんで結婚したんだよ」という意見出てきそうだけど、そろそろ私も結婚やばい年齢だし、収入や顔のスペック面も悪くないし、3年ぐらい付き合って本当に本当にこれ以上ないってくらい気が合うし、ほんと創価学会だけなんだよ・・・。
変につついて過激な活動家になっても困るので、月1会合と聖教新聞だけならいいか、と放置しています。過激活動家になったり、学会の集まりに私も呼ばれたり、学会に勧誘されたりするならキレて離婚してもいいんだけど、面白いから観察して増田にまた書いてもいいかな。
親がその内高い仏壇かって朝夕の勤行をするようになるのはまあ前提として。
まず、月一くらいでその地区の学会員(母親が入ったのなら恐らく婦人部のおばさん)が家庭訪問に来るようになる。
週一くらいで会合もあるし宗教っていう仲間意識もあって助けになる人間関係が出来るのは確か。
ただ、信者はピンからキリまで居てメンヘラで妄信的で目がイッちゃってる信者も居れば、
朝夕の勤行自体にそんな絶対的能力がある訳じゃなく規則正しく生活して朝晩に発声する。
人として正しい行いを抽象化した物が宗教だってきちんと話が出来る人間も居る。
一人暮らしの母親の人間関係のきっかけになればいいが、結局どうなるかは本人と周りの環境次第だと思う。
離婚していた母が帰ってきた。
父と別れて5年になるが、毎年お盆の時だけはやってくる。
1年ぶりに再会する父と母はふたりとも嬉しそうで、
会話もはずんでいる。
「なんでこうなったのかなぁ」と、私はこの幸せそうな風景を見て思う。
「弟が生きていたらなぁ……」とつくづく思う。
弟は6年前に交通事故で死んだ。
農道をミニバイクで走っていたところ、飲酒運転の軽トラックにはねられ、
運悪く次の日に亡くなった。
最愛の息子をなくした母は、弟の死をうけいれられず、しばらく自室にひきこもっていた。
父も私も日中は仕事があったので、仕方なく母は家におきざりにしていた。
それがよくなかった。
気がついたら母は酒びたりになっていた。
「タカシがね、またお金が要るって言うのよ、海外に行きたいとかって。ほんと困った子だわ。」
「そうか、苦労をかけるな、すまない。」父は母の相手を続けていた。
「そうだ、あの子はお好み焼きが好物だから、晩御飯はお好み焼きにしましょう。そうしましょう。」
何故か母は仏壇の下をあけ、「お好み焼きをつくる道具」を探し始めた。
「そんなところにしまったかなぁ」と父は天井を見上げて呟いた。
「もう中国のせいで相場がね、もうほんとにめちゃくちゃなのよ。」
私が知らない間に母はトレーダーになっていた。
「そっか、そうだろうな。」父はまだ天井を見上げていた。
それまで私も相手をしてあげようと思う。
父が亡くなって今年で9年になる。
父親と過ごした年数よりもいない年数のほうが多くなってしまった。
兄弟もいないし、母と二人暮らしだし今は母と不仲だし正直なんか周りを見ていると悲しい気分になるときが多い。
自分の父親が亡くなったっていう話はせずに生きている前提というかその場でぼやっとさせてしまった。
なんか嘘をついたようでちょっともわっとするんだけれど、
正直に「父親はいません」っていうのも、自分も相手も嫌だし先輩とも自然にかかわっていきたい。
そういえば一度歯列矯正が何かの補助で安くできるという話を聞いて矯正歯科に無料で検診(?)してもらったけれど
その時の歯科衛生士さんが「お父さんは?」って執拗に聞いてくるので最初は「来ていないです」って答えていたんだけれど
だんだん腹が立ってきて「病気で亡くなりました」って言ったら空気が凍りついてしまったことがある。気まずかった。
そういう風に聞かれたときってどういう風に答えれば最善なのかと
矯正歯科は未成年は両親そろっていかないといけない場所なのかが気になってしまった記憶がある。
でも、そういう風に自分が言ったのもよくなかった。あまりにもストレートすぎ。
最終的には高いことと矯正した時口が突出するリスクが平均より高いということでやらなかった。
私は仮に誰かに父親が病気で亡くなったと伝えたとしても、
父親がいないからと言って気を遣ったりしないで普通に接してほしいと思う。
姦淫の罪を犯した女は石で撃ち殺せ。父母を殴る奴は死刑。目には目を。歯には歯を。
それがイエスだ。
人が人を裁くな。隣人を愛せ。
多くの人がイエスに従った。
ある者達は彼を救い主(=キリスト)と呼び、ある者は彼を預言者と考えた。
君はレイプされた少女が石打ちの刑で処刑されるニュース映像を見たことがあるかい?
あれは厳しいよ。厳しすぎるよ。
弟子達ががんばったり処刑されたり弾圧されたりしつつも信者を増やして行った。
さらにいろいろあってローマの国教になり布教されていった。(civ4 的な意味で)
たぶんだいたいローマのせいじゃないかな。
なんでお前の家には仏壇があるの?と同じくらい意味のない質問だとおもうな。
うちのばあちゃんが教会に行けとうるさいとか。最近の若者はサラートしないとか。うちの親戚がお盆に帰らないと煩いとか。
聞く分にどの宗教も「どうでもいいと思っているけれど習慣とかしがらみとかで」という人達がそれなりの割合を占めているように思える。
すれ違いが起こる原因は「クリスチャンの家庭ではキリスト教で倫理教育を行っていること」ではないかと思う。
たまに聞かれる「なんで日本人は無宗教なのに犯罪が少ないの?」なんて質問はこの辺りのすれ違いから来ていると思う。
日本の一般家庭はお父ちゃんお母ちゃんが倫理教育をしているんだよね。
「人に親切にしなさい」「人にして欲しいと思う事を人にしなさい」「差別はいけません」(注1)
だいたい新約聖書に書いてある事と一緒だよ。
http://anond.hatelabo.jp/20150607042259
父の話をした。
父は3年前に癌で他界している。
生前はまぁ仲が悪くて、笑顔で話しているのを見たことがないし何で離婚しなかったんだろっていう夫婦だった。
病気が発覚して、母が毎日お見舞いに行っているのが意外だった。
死んですぐに借金が発覚して母が骨壷を投げたり、謎の愛人だったっぽい女性から花が届いたり色々あった。
飲みながら父の話などをしていたら、母がふと言った。
「こないだね、お仏壇の前で、お父さんが死んで初めて涙出てきたの。ちょっとそこから出てきて飲もうよーって。
あの適当なお父さんと飲みたいなー、って思った。」
聞いた時泣きそうになったし、母といる間中度々思い出されて半泣きになっていた。
うまく言えないが…
母は私たち子供よりも何倍も父に対する思いがあるだろうなーと思って。
それこそ父が死んで3年も泣けないぐらいの怒り、憎しみやうらみつらみを含め、
情とか、好きとか?色々深い思いがあるんだと思う。
その色々が和らぐ程度に時間が経ったんだな、と思った。
えぐられるような激しい悲しみは死後1年ぐらいで薄らいでいったけれど、
その分良い思い出は懐かしくやわらかく思い出されてやっぱり悲しいね。
笑っている所が思い出されるなー。適当で、よく酔っ払ってよく笑ってる人だった。
むしろ「宗教」の定義次第かな。しっかりした教義やそれを実践する場所が決まっている宗教ばかりじゃないよ。というよりそういうものが必要とされたのは、既にある素朴な宗教を塗り替えるための手段だったわけだし。
素朴な宗教ってのは、生まれたときから自分も周囲もずっと浸かってて信じてると意識しないくらいのもの。でもそれに反する行動をしようとしたり見たりすることに強い抵抗を覚える。
「仏壇で先祖供養して教会で結婚式」は形式だけみればちゃんぽんで特定の宗教を信仰していないようだけど、「そういうものだと思って疑いもせずやっている」かつ「特に合理的な理由は無いからやめてもいいよね、と言われると止めるのに抵抗がある」のなら、それは自分の認識がひとつの宗教観に根ざしているということだ。
それが良いとか悪いとかじゃないし、別にそんなこと考えないで生きてたって全然構わない。でも、他の宗教に言及するなら、自分が参照している宗教観を自覚してからじゃないと、あまり意味のある話にならないと思う。
近所に長い間病気で寝たきりやったおじいはんがいたんやけど4年前に亡くなりよった。
当初つきっきりで看病をしとったおばあはんはショックで寝込んだり入院したりで、いつ後を追ってもおかしくない位に気落ちしとったんやけど、半年経った位から次第に明るくなり白髪だらけでボサボサやった頭も綺麗に染めてパーマをかけ、すっぴんやった顔もバッチリ化粧をし、地味な色合いやった服装もこやれた華やかな色合いになってすっかり別人のようになり「彼氏でもできたんやないか」と近所で噂になっとった。
ある日、わいと母が犬の散歩をしとると道端でおばあはんに会い「お茶でも飲んでって」と家に呼ばれた。
その時に母が「きょうび明るくなりよったよね」と言うとおばあはんは「そうなの!これ見て!」と旦那はんの遺影が飾られとる仏壇から手紙を取り出して見せてくれた。
それは遺品整理の時に見つけたと言う旦那はんからのケツの手紙との事でどエライ丁寧で柔らかい筆跡で
「僕はあんはんより先に行きまんねん。あんはんにはホンマに迷惑をかけた。
僕はあんはんの明るく溌剌とした笑顔に惹かれ結婚を申し込みたんや。
どうか僕が死んだらあの時のようにいつも明るく元気でいてくれへんかの。
存分にお洒落をして沢山遊んで笑ってくれへんかの。僕はあの世からあんはんの笑顔を見ていまんねんわ」
だいたいこないな内容。
「読んだ時、嬉しくて嬉しくて…やからしょげてられへんって思って月に2回美容院行って、
なるべく綺麗にして外に出るようにしてるの」とニコニコなおばあはん、ほんで涙腺崩壊の母。わいもウルッと来た。
これだけだとしんみりした話なんけど、衝撃やったのはその後。
元々旦那はんは野球をやっていてほんで知り合ったとの事で「夫の好きやった野球を観に行こう」とちょくちょく野球観戦に行くようになり、そこからサッカー観戦、バスケ観戦、バレー観戦ととにかくスポーツ観戦ばかりをするようになりよった。
もう80歳過ぎてるんやけど、出かけとるうちに体力ついたらしく見る度に姿勢が良くなっとった。
兄はサッカー場で2度、わいは野球場で5回くらいユニフォーム着て地元チーム応援してるおばあはんに会った。
しかも「このバッター、去年は盗塁○個やったけど今年この時期でまだ○個や心配ね」とかサラリと詳しい。
ほんで今年、東京ドームで行われたWBCの試合の時に青いユニフォーム着て観客席ではしゃいでる姿がTVに映っていて「何ぞ1人で行ってるっぽいぞ!」と近所中で話題になり、「次はイタリアでACミランの試合が観たいの」とどんどんとアクティブになって行くおばあはんに衝撃を受けた。
かつてある作家をめぐる言説に対する批判への反論で「かの作家は死を贈与した!(ドヤァ」と発言し諸方面から人間性を疑われた藤田直哉氏が、2015年3月11日にTwitter上で3.11追悼式に対する疑義を唱えはじめた。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575529749969289217
2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。これは、俺が非人間的な感性だからなんだろうか。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575530332390297600
集団の死を、集団で慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575531644360204288
親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575533582023786496
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575534421018804225
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575535179709739009
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575538080834318336
ちゃんと書くか。災害や死者を名目に、個別の生を生きていて、それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられるのが、ぼくには不愉快。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575543420544020480
@seiichitsuchiya私は、「何故黙祷を罵倒する必要があるのか」に対し、14:46を黙祷の時間と定め、一斉に行うという行為に、国家の共同体意識形成の問題を感じたからだ、と理由を説明しております。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575553783884873728
いや、死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ?それに対する追悼の意図だとすると、地震発生の時間に代表させることについてどう考えてるのか、純粋にわかんないのよ。儀式だから、決まってるから、という理屈はわかる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575556640000315392
それだったらずっと黙祷するのかという意見が来てるけど、本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの。年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないからなわけでさ。その上で、儀式には有用性があるんだろうけど。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575573893911560192
なぜ、黙祷の時間は地震発生の14:46からになったのか。説1、誰かが決めた。説2、勝手に決まった。2なら、皆がそれに従いながらも理由を説明してくれないのが、単純に不思議(外国人が、儀式に疑問を素朴に持つ感じを想像してください)
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575584772249931776
で、説1で、合理的に説明がつきそうなのは、「一回で済んで、みんなで一斉にできて、異論が出なさそうな時が地震発生時だから」。これは納得いくんだけど、なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575598071440019456
死者がどう思うか考えろとか、言われるけど、死者は何も思わないし、感じないでしょう。そうではないという宗教観があるのは知っているし、死んでみないと分からないんだけれど、ぼくはその前提で話をしている。その上で「死者」をどう捉えるかがこの社会に及ぼす影響のことを考えてる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599212928241664
死後の生があると信じたい遺族の方の気持ちもわかる。幽霊的な存在の感覚を持ってしまう人たちの気持ちもわかる。ぼくの発言が、その人たちを傷つけている、と言われれば、そのこともよくわかる。しかし、死者は、「本当には」傷つかないし、冒涜されたとも思わないだろう。生者がそう感じるだけで。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599516314796032
土屋さんのツイートを見て、不安になってきた。これって、死者が「本当に」感じたり、考えたりする前提の話だったの? そうではなくて、遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者が勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意っていう話じゃなくて?
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575600381717180417
だから、儀式が、生者の世界でどのような機能を果たしているのかを考えたうえで、「いるのか?」ってぼくは問うているんだけれど。まぁ、ぼくの儀式嫌いは元々で、まぁ、形式的な儀式を根拠なく反復することそのものが生理的に嫌ってのはある。なんか、心が籠もってない感じがするし、形式そのもので。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575601520592318464
福田恆存なんかは、例えば葬式は、別に、心なんかなくたって、その形式を演じること自体に意味があるんだ、周りが「死を悲しむ演技をする」ことが重要なんだというんだけど(「民衆の生きかた」)。むしろ個人的感情は抑える方がいいなんて書いてあって。その形式こそが「感情の真実性」を保証する、と
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602024709910528
俺はそうは思わないが、まぁ、どうも、儀式は「説明できないけど必要」と思っている人が多いようなので、ぼくは少数の、アンチ形式主義の心情主義者として生きて行こうと思いますけど、つまりこれ、「真実の感情」が型を必要とすることは、「型」こそが「真実の感情」を作るということでもあるよね。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602827705233408
だから、集団を弔うようなセレモニーがどんな形であるのかには、敏感であってもいいと思うんだけれども。感情がセレモニーを生んでるんじゃなくて、セレモニーが感情を創り出す効果もあるってわけでしょ? 俺が気に食わないのは、それ。
順番に整理していきたいが、明確に断言できるのは、藤田氏の想像力のなさと狭量さである。
藤田氏は、3月11日14時46分に追悼をおこなうことについて、「それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられる」「なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする」ものであり、そこには「国家の共同体意識形成の問題」が孕んでおり、「遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者が勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意」すべきだと疑義を表明している。
……え? 藤田氏って追悼式が政治家が政治的に利用するためにおこなうものだと本気で思ってるの? マジで? そう思った根拠ってなんなの?
「追悼式を決まった時間におこなうことで追悼感情が統一的に形成される」という仕組みが、国家が国民感情を統制するときのそれと同じものであるというのは真っ当な指摘なんだけど、それは理屈でしかないでしょ? たとえば、あくまでたとえばだけど「3.11を忘れないために、今後は○○の政策を~」みたいなことを言い出したのなら別だけど、藤田氏はそういう具体例あげてないよね? 追悼という行為の儀式性と政治性を混同してない?
……とまあ、藤田氏の言動からは「追悼式は政治家が政治に利用するための欺瞞的なものだ!」という副音声が聞こえてくるのだが、あれこれ言葉を駆使しているようにみえてその根拠は一切ない。藤田氏の完全な妄想である(根拠がないという意味で)。
また、14時46分に追悼をおこなうことを「死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ」と批判しているが、そもそも「死者が死んだ時間ぴったりに死者を悼まなければならない」という規範があるわけでもないのだから、14時46分に死者を悼む行為が「本当に思って」いないと判断する根拠がない。その理屈なら、「いつ追悼してもその感情は本物である」という理屈だって成り立つはずだ。
その他、「日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞや」「本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの」「年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないから」「死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い」と言っているが、これもよく読むと藤田氏自身のバイアスが満載である。
「3.11追悼式で生まれる追悼感情は嘘である」という視点には、「感情には嘘の感情と本当の感情の二つがある」という先入観が存在する。感情に嘘も本当もないでしょう、とこの増田を書いている私なんかは思うわけだ。よしんば、それが追悼式がなければ生まれなかったものであったとしても、おこなわれたことで生まれる感情は実際にそのひとのなかにある感情である。
ここまではまだよい。藤田氏は元から作家の死を贈与したなんてぬけぬけと言い出すわ、自分が言い出した伊藤計劃以後論に批判が飛んできたら反論を書くのではなく「じゃあお前が考えろよ」とかTwitterでくだを巻き出すわ批評家としては全く能力のない人間であるが、そのことに藤田氏に責任はない。人間の能力には限界があるのだ。
だが、上記のようなバイアスに藤田氏が無自覚ななか他人を攻撃し始めるのなら話は別だ。
追悼式が追悼感情を惹起する機能があるとして、そこにある感情が偽物であると断言することの暴力性を藤田氏は考えなかったのだろうか。
そして、その暴力を振るう対象である、今日14時46分に追悼の念を掲げる人間のなかに、被災者遺族が、知人や友人、家族を失った人間がいる可能性を想像できなかったのだろうか。
藤田氏は、「今日14時46分に黙祷をした(あるいはツイートした)人間」全員に対して「バカタレ」と言ったのである。
藤田氏は、藤田氏のなかにあるバイアスに無自覚のまま、藤田氏の主観的判断による「偽物の感情」を持った人間を「バカタレ」と罵る、想像力が欠如した狭量な人間である(それ故個人的には絶対に関わりたくないので増田に書かせてもらった次第だ)。
でまあ、もしこれが藤田氏に届いたとしてもあいつは「そんなことは言ってない! 被災者遺族のことを侮辱する意図はなかった!」とか言い出すに決まってるんだけど、意図があろうとなかろうと文言だけ読めばそうなるんだよ。てめえ批評家を自称しておきながらそんなこともわかんねえのか。主語大きくすんなって批評家でもない俺だって何かを主張するときの基礎だって知ってるよ。そんなこともわかんねえからてめえは批評家としてクソだって言ってんだ。
いやー、「死を贈与した!」とか言っちゃうひとは本当に他人の感情にみじんも興味ないんだなーってのがわかって大変ありがたいです。藤田氏は本当にクソだ。ありがとう藤田氏。おまえは二度と信用しない。
あとさ、地震を「加害者」って言っちゃうのはちょっと……いや、まあ、物事を擬人化して理屈づけようとするのは悪い事じゃないか……うん、別にいいと思うよ。ひとそれぞれだしね。
5時にラジオが入り、NHKの特別番組が流れはじめて目を覚ました。うつらうつらしながら、いくつかの投稿を聞く。家で息子とホームステイのオーストラリア人の青年を亡くした人。二階に寝ていた2人は三階の梁の下敷きになったらしい。建材とベッドの間に挟まれて、ベッドをパタパタと叩く音がしていたという。投稿したお父さんにはどうにもできず、仕方がないので、その息子をそこにおいたまま、近所の家の救出を手伝っていたとのこと。これで、一人分だ。ホームステイの青年の話は出なかった。娘さんは無事で今2人の子供をなしている、という報告も添えられていた。ホームステイの青年はどういう人生を送ってきていたのか、娘さんは震災の後どう生きられたのか。この投稿をされているご本人は。想像を絶する。のんきに生きている自分のような人間とは別の「壮絶な」人生を送られたのだろうな、と心を閉じそうになる。
そこで思い直した。あぁしかし、この手紙はわたしの帳面と同じようなものではないか。布団の中でうつぶせになって寝る前に置いたモレスキンの場所を確かめる。父が亡くなって少し経つが、葬儀を終えたとき、様々な情報や感情がバラバラにわいてきて、これはどこかに拾っておかなければいけない、と思って、新しい帳面を出して、書き始めたのだった。2日前の葬儀のこと、今日の市役所への届け出のこと、父が死ぬ直前のこと、3つ上なのに容色いまだ衰えぬ従姉妹に久しぶりに会って俺脳内掲示板に「従姉妹が美人すぎる件」スレが久しぶりに上がったこと…思いついたものから採集するつもりで、白紙のページに、文やタイムラインや絵で書いた。
「充分に書く」「気が済むまで書く」ことなど最初から放棄していたから、どれも簡単なものだが、そのとき感じたいくつかの微妙な感情を拾うことができた。起きたことのなかに「ここは泣くポイントなのではないか?」という箇所を見つけて、そこをつつくようにエモく書きながら涙ぐむ(複数の時間をまたぐような表現をすると人間は簡単に泣く)こともあった。
わたしは、「はてな匿名ダイアリー」で改行たっぷりに書かれるような自己憐憫の文章が大嫌い(掲示板みたいに対話してる奴はもっと嫌い)なので、書きながら感情に埋没してしまわないように、帳面の構成自体も、書き始めは右のページから書いて左を空けておき、左は後から書き入れることにした。いくつかの声のパッチワークのような使い方をするのが自然に思えた。思春期の若者みたいに、自分が書いたエモいことで盛り上がってさらに書いて、それで方向性が絞られてそこに内面のことしか書けなくなって、じき熱がひいたら内面ほじくるのに飽きて、あとには5ページくらい書いた帳面が残る…みたいなのは、さすがに嫌だ。
極度に飽きっぽい自分の性格もある。深く突っ込まなくていいから、続けることを優先しなくてはならない。日常の時間と並行させながら、父の死やその周辺の時間を記録再生しなくてはいけない。そう思った。だから、いろいろ書いた、とは言っても、それぞれは、思い出しメモに毛が生えた程度のものを、日常の思いつきや飯のおかずメモに交えて、頁のあちこちに、ちょこちょこと書いていったにすぎない。
それでも、自分がウジウジしたことを文字にしたこと、そしてそこを読み返してメソメソできるということが、驚きであった。げぇ、そんなことするんだ、俺が。(あと、仏壇に手を合わせたとき、父に向かって何か言ったりすることがあるのも、われながら驚きだ。)
しかしそれは、やらずにはいられなかったことだ。ラジオで読まれる便りを聞きながら、これはわたしの帳面と同じだ、と思ったのはそういうことだった。死んだ人の人生がどうだったのか、残された人の人生がどれほど壮絶だったのか、知ることは難しい。壮絶ったって20年ずっと1秒も絶え間なく死者を背負ってきたわけではないだろうし、投稿されている文章だって20年かけて整理された心が書いたものなのだ。取捨選択も誇張も忘却もあるだろう。簡単に言えば、死者のことを思い続けるのは難しいことだ。わたしの帳面につまらない落書きや関係ないことが書き入れられ、ページが進むごとに書き物の性質も変わっていってしまうように。しかし、ページをめくって過去をたどると、今でもちょっとは、感情が動かされる。それはわたしに起きたことで、そのことが私を少し変えてしまった、それは確かなことだ。このエモいメモは、ことの一部しか見ていないし誇張ではあるだろうが、ともかくも、わたしはこれを書かずにはいられなかった。
「相続地主系」「オーナー企業経営者系」「イケイケITカタカナ広告系」「しっかり地方公務員2馬力系」「東大系」
に分類してた記事があって、合点がいった
昔なら「ライセンサー」、つまり弁護士会計士も金持ち区分に入ってたが、最近ライセンサーのワーキングプア化が著しいので、除外
★海外の「プライベートバンク」は、金持ち子女のスイス留学斡旋を得意とするが、今挙げた日本の金持ち区分の中で、
「子女をスイスに送り出したい」という金持ちって、ほとんどいないじゃん。
オーナー企業経営者にとっては、慶應義塾がスイス留学に該当するんだろうなあ。
日本の場合、「たまたま地価上昇エリアに、親が土地持ってた」金持ちが、金持ちの過半数を占めるからなあ。
スイス何それ美味しいの? な話
★フェイスブックは、
「オーナー企業経営者系」「イケイケITカタカナ系」「東大系」にはリーチしてるが、
「地方公務員2馬力系」そして「相続地主系」にはリーチしてないだろうなあ。
特に、相続地主系の人種は目立つことを極端に恐れる。コミュ力がゼロ(というかマイナス)。フェイスブックとの相性の悪さは異常
★「金持ちを優遇しなきゃ、金持ちが皆シンガポールに逃げる」説があるが、逃げるのはオーナー企業経営者系とITカタカナ系位だから。
東大系は一部はシリコンバレーに逃げますが、大半は日本に残る。
天地がひっくり返っても、金持ちの過半数を占める相続地主系がシンガポールに脱出することはない。そもそも英語しゃべれない。
シンガポールって、国そのものがリアルフェイスブックだから、ITカタカナ系は大好きだろうが、相続地主系の人種は死んでも移住お断りだろうなあ。
★一方、来年引き上げられる相続税対策にしゃかりきなのが相続地主系、次はオーナー企業経営者系。
ITカタカナ系、地方公務員2馬力系、東大系は、さほど相続税対策を意識してない気がする
★で、タワマンを実需で買っているのが「ITカタカナ系」「東大系」、相続対策で買っているのが「相続地主系」「オーナー企業経営者系」。
「あんなおっかない建物、自分が住むのはこりごり」とか「どこに仏壇置くの?」とか
「(タワマン節税の第一人者の)沖有人さんがそこまでいうなら、仕方ない買いますか」と言いながら
しぶしぶタワマン買ってる姿が目に浮かぶ
★人脈は「オーナー企業経営者系」が一番広いんじゃないかと思う。
「相続地主系」も「ITカタカナ系」も「地方公務員2馬力系」も「東大系」も、オーナー経営者は最低それぞれ一人は知人にいるのでは?
一方で「ITカタカナ系」な人は、案外世界が狭い。「地方公務員2馬力系」や「相続地主系」の知人がいなかったりする
「当社はお堅い職業、公務員向けのビジネスを考えてますが、当社が公務員界隈への人脈がないのが悩みです」と正直に告白していた。
異業種交流会って、「地方公務員2馬力系」「相続地主系」が参加してない時点で、大して「異業種」じゃない
逆にいえば、この5類型の金持ち全てが出席する集いがあれば、究極の異業種交流会だろうなあ
※でも、「相続地主系」と「カタカナIT系」の間で、果たして会話が成立するのか、疑問