はてなキーワード: 仏壇とは
前から氏については目にする事は多かったが、最近離婚したと聞いたので、知らない人向けにすこしだけまとめたい。
しかし、主に活動している本体こと伊藤ナナ氏の経歴については以下で述べられている。内容は私の調べとも一致する。
http://anond.hatelabo.jp/20161119214145
なお記事にある仏壇会社へインターンした時期と年次が合わない事を指摘している。
インターンは就活のために行うという認識が一般的で、3年生が行うものとされる。それが、P&Gに内定した以降の4年次にインターンしているから合わないと思ったのだろう。
しかし、レアケースとはいえできない事ではないし、親が骨壺だがを作っており、葬式関係には縁があったようだしP&G退職後の仏壇会社への転職のつながりはこの機会であったのではないかと思われる。従って、十分あり得たし、実際にインターンしていたというのが私の理解である。
・自己愛性人格障害 の診断を受けている
・SMプレイに傾倒した時期があり、女王様へのインタビューを行った経緯がある
こうした、事実を集めていて思ったことは きっと調べないと気づかないと思うが、姉妹揃って、お嬢様として裕福な暮らしをし、性的にも奔放な暮らしをしているということだ。
彼女は自己愛性人格障害という精神病故に周囲の人間をマウンティングしまくる。ただ、尊敬を集めたいのだ。
尊敬を集めるために仕事での成功や恋愛の成功をこれまで語ってきた。
しかし、結果として彼女の履歴には2年に満たないP&Gでの業務経験と数えてはないが2年程度での離婚という結果だ。
だというのに現在、ライターとして就活生向けの記事や恋愛の記事を書く事を仕事にしている。ぞっとする事だ。
まず、この時点で氏の文章を読む気は失せるのだが、なにぶん無邪気に人を信じるお人好しが多いようで、未だに彼女をどんな人間かを調べもせずありがたがる風潮は違和感を覚える。
事実を知れば騙されたと思うだろう。
で、その騙されたという感情はおそらく正しい。なぜなら、ただ尊敬を集めるために最高の自分を演じているのだから。これはセルフブランディングとも言うようであるが、つまるところ、上手い事騙して、自らの欲求を満たしていただけなのである。
普通であればここまでの事は良心を咎めるからできるはずがない。でも、できちゃうのだ。だって自己愛性人格障害だから。
こういう人が最近でも、はあちゅうというのがいた。トイアンナもはあちゅうも慶応大というのはたまたまであるとおもうが、おそらくふたりとも精神病患者ではないかと思っている。少なくともトイアンナに関してはそうであったことがわかっている。はあちゅうもおそらく精神病か池沼の類いなんだ、そう思っている。
こうした不快感をまき散らす人が今後増えないように願いたい。もはや公害だ。精神病院は患者を安易に社会に戻さないでほしい。この現状は社会にとって大きな損失だ。もう、うんざりである。
エスター という映画がある。あそこまでの狂気とは思いたくないが、彼女たちへの感情はエスターに対する嫌悪感と同じである。
個人的には彼女たちの打ち手はライター業からの転職であり、周囲はその仕事を通してお金を渡さない事なんだと思う。
どうせ会いさえしないだろうが、カウンセラーと会ってライター業をやめるよう助言をもらえば良いと思う。
彼女たちはP&Gや電通で働いた栄光を手にし更にプライベートも充実させようとしたようだが、結果は現状の通り、散々である。
要は不得手な恋愛沙汰での栄光を諦めれば良いのだ。(精神病患者だろうから無理だろうが)
まだ間に合う。会社勤めで世の中の役に立てば良いのだ。
「幸せ」とそれに関係する「怒り」「哀しみ」について書いてます。
本気で考えたから長くなったし、読みにくいと思う。
生活が豊かになっても、富を得ても、幸せでなければ意味はない。
「人より生活が豊かである」ことに幸せを感じる人もいるだろうが、 「あらゆる人より」は世界に1人しかいないので、「誰かより」と人と比べることになるだろう。
どんな環境であっても、自分を幸せだと思う人もいれば、常に自分は不幸だと思っている人もいる。
自分が何のために行動しているのかを、もっと掘り下げて自問しなければ、自分で自分が理解できない。
「自分が理解できない自分」を他人に理解してもえることはほとんどないが、稀にあり、その出会いは幸せであるので感謝する。
「自分が何のために働いているのか」「何のために怒っているのか」「何のために勉強をするのか」「何のためにそこに住んでいるのか」
幸せになる方法は、あらゆる選択肢の中から自分の「好き」を選ぶこと。
付き合う人や孤独であること、仕事・仕事でない生きる方法、住む国や場所、食べるもの、着る服、宗教・無宗教など、すべてを「自分の」幸せと照らし合わせて選んぶ。
傲慢は誰も幸せにしない。傲慢であることに幸せを感じる人もいると思うが、私はそういう人とは付き合わない。
幸せを実現する手段を教えることはいいことだが、その選択自体は、他人にとやかく言われることじゃないし、他人に口出しするものでもない。
「人それぞれ」という言葉に不安を覚える人は、宗教や学問を選ぶと、自分以外の場所に確かな指標や信じるものが出来ていいと思う。
それを信じている間は、幸せのカタチを変えられないというデメリットも分かっていたほうがいい。
宗教だって学問だって、信じられなければ変えればいいと思うけど。
その手段は相手に対して間違っていることがあるかもしれないが、それを「偽善者」の罵る人は、想像力が足りない。
お金があること自体に幸せを感じる人は、自分をまだあまりわかっていない。
「お金あっていいな」とは思うけど「お金あればアレができるのに」はみんな違う。
「そのために何をしている、何をする」が近い人とは過ごしやすいし、「その手段もあるのか」「こういう手段もありますよ」がお互いを幸せにする可能性を広げる。
「わたしはこっちがいいんです」と言われても、それはその人の幸せのカタチなのだから、落ち込む必要も怒る必要もない。
こういう考えが自分に合ってるというだけで、それこそ個人個人にもっと合う考え方があると思う。
数多の国・宗教・文化があり、法律・戒律は違えども、すべての目的は「幸せになること」で、根っこの部分は本当によく似ている。
幸せのカタチはみんな違うけど、皆自分の生活をより良くしたくて、または今の良い生活を維持したくて、行動している。
怒りを感じる事自体は悪いことではなく、あたりまえの本能なのだけれど、それで幸せが遠のくのであれば、感じすぎないほうがいい。
怒りの成分は大きく分けると「自分の幸せへの危害」と「嫉妬」くらいだろうか。
嫉妬とは「相手の幸福により、相対的に自分が不幸になること」に対する怒りであり、あんまり自分の幸せがなんなのか分かってない時にあふれだす。
自分の幸せの手段である何かを持っている人に対して湧く感情なので、消し去ることはできない。
「今嫉妬してるってことは、自分もああなりたいんだなぁ」と言い聞かせて、「羨ましい」と言葉にすることで、少しは解放されるかも。
「それを持っていることでなぜ幸せなんだろう」と掘り下げることで、「元から嫉妬するようなことでもない」と気づけるかも。
「怒り」は「幸せ」を守っている。
ただ、必要以上の怒りは、怒っている本人を含めて誰も幸せにしない。
「何に怒っているのか」を自分で理解して、それ以外のことにぶつけてはいけない。
怒りの多くは、その原因を取り除けば解決できる。
「その手段でしか幸せになれない」と思っているから怒るのであって、他の方法を探すことで、かなりの怒りから開放される。
他人に対して怒りが湧くときも、お互いが「相手も幸せになりたくて、その行動をとっているんだ」と思えば、多少軽減できるし、「じゃあどちらも幸せになるように新しい手段を探そう」と原因の解決に迎える。
あらゆることに対しても怒りが湧くときは「眠い」か「疲れている」か「お腹が空いている」。怒っても解決しないので、うまいもの食って休もう。
「怒り」から遠ざかることで、「怒り」から遠い存在である「幸せ」に近づくことができるのではないだろうか。
哀しみを感じる事自体も悪いことではなく、あたりまえに持ってる本能だけど、それで幸せが遠のくようであれば、感じすぎないほうがいい。
幸せも怒りもわりとすぐに忘れてしまうけれど、哀しみはなかなか慣れない。
怒りと違って、死や離別など、原因を解決できないことがほとんど。向き合って鎮めるか、逃げるしかない。
仏壇に手を合わたり、十字を切ることで、寂しさから解放される人もいるだろう。一種のルーティーン。
大事な人やモノを失うと寂しい。いつもの幸せな日々が終わってしまうから。幸せなときにいつもやっていたルーティーンによって「大切なものの1つを失ったが、今も幸せである」と思い出す。
それは幸せなのかと言えば、そうではないと思う。哀しみをごまかしているだけではあるが、他にいい方法がない。
哀しみと向き合うのは、辛すぎる。
どうあがいても哀しいものは哀しい。
ずっと哀しんでいないといけない雰囲気がある。
それって誰が得するかと考えると、やっぱり宗教なのかなと。
余計に哀しむ必要はない。普通に過ごせば、みんな充分哀しんでると思う。
「哀しく感じていた感情を忘れる哀しさ」があるのも、また真実。
哀しく感じなくなったからと言って、愛していた事実がなくなるわけじゃない。それだけを愛情のモノサシにしなくても良いのでは?
私はいろんな人に愛されていると思っているから、私が死んだときにはそう考えて欲しい。
「恐怖」とはなにかを考えると、「幸せを害される」ことに起因する感情。
自らの死、病気、老い、孤独、蔑視など、人生においては恐怖も少ない方がいいが、避けようがないものもある。
悪い結果を想定して、余裕を持っておく。
恐怖を乗り越える「覚悟」を持っていれば、もはやそれは恐怖ではない。
老いたから、即不幸なのか。何ができなくなることが不幸なのか。若いままでいて、何ができることが幸せなのか。
病気も孤独も蔑視もそう。それ自体が不幸なのではなく、その結果なにかができなくなることが不幸であり、逆に何かしたいことができるままであれば、それ自体は恐怖の対象ではなくなる。
「死」の恐怖はすさまじい。「死」は積み上げた幸せを失う。
死んだことがないから、またわからない。わからないものは怖い。
あれもしたかった、これもしたかったはたくさんあるけど、「この人と一緒に過ごせてよかった」とか「得られるだけの幸せを手に入れた」と満足することこそが、生死の際まで幸せでいられる手段ではないだろうか。
この世との別れは哀しい。それは絶対に避けられない感情だけど、それより人生に対する幸福感が上回れば、受け入れられないものでもないのかも。
うん、やっぱりどう考えても今は死にたくないな。
長生きするのは不幸だという意見だったけど、失う対象が少ない状態で死ねると考えれば、今はじめて、少しだけ羨ましくなった。
「幸せな死」にこれから出会えることがあれば、そこから学ぼう。
出会う前に死んだら、仕方ないな。
怒りや恐怖について考えられる日も、多分幸せな日だけ。
哀しみについては、哀しい日の方が考えられるかも。
余裕ができたら、余裕がなくなったら、また読み返そう。
まず前提から話すと妻は長女であり私は婿入りという形で妻の家に入った。
妻の家は今は大分落ちぶれたけど昔は地元の名士みたいな所で、義父からも「◯◯の名を残したい」って言われて来たわけですよ。
でもなんか妻は自分では絶対に子供を産まないって言うんですよ。
妻の側が明確にそういう意思表示をしてる以上は私も合意してるんだけど。
まあこの世がそんなに良い所だとも思わないし、こんなこと義父母の前で言ったら怒られそうだけど日本の家制度なんかクソだろって気持ちもあるんで。
けれど妻の妹たちに子供が産まれて、さすがに義父母も気持ちが揺らいでるのか「本当に子供は産まないの?」って最近良く言われるらしいんですよ。
家の名を継がせるだとか墓と仏壇の面倒を誰が見るんだとかまあ下らないなあとは思うんだけど、完全に開きなおれはしなくてちょっと義父母が可哀そうだなとも思う事もまあある。
でもそんな情にほだされてうっかり子供を作るなんて最悪なのは解ってるのでやっぱり作らないなとは思うんだけど。
ところで私たち夫婦はお互い精神疾患持ちだ。メンヘラという言葉は個人的には雑で酷い侮蔑語だと思ってるので嫌いだがまあ外から見ればメンヘラ夫婦と言えるだろう。
だから遺伝子的に……とかそういう以前に子供を育てていくほどの社会的な自活が難しい(仕事がないとかあっても給料が安いとかそういうことだ)
まあ落しどころとしては何かで一山当てるか上手いこと社会参加して充分に子供を養えるようになったら養子でもとるかという話しにしている。
妻も自分が産むのは嫌だけどもうすでに産まれてしまったものに関しては、それを引き受けてしっかり投資(教育的な奴ね)をするのはむしろいいことだと考えているらしい。
でも特別養子縁組の場合は『健康』で『安定した収入がある』が条件で年齢制限(仲介する所によってまちまちだけど50歳くらいまで)もあるからまあ私たち精神疾患持ち夫婦はまず出来る限り早く『健康』にならないといけないのだけど。やっぱりこの世は(というか社会は)あんまり良い所じゃないな。
3~4年ほど前。ある友人が得意気に「リップクリームってたいてい1シーズンで無くすか捨てちゃうけど、本来なら1本で一生分あるんだぜ」と、豆知識を披露してきた。
そんな馬鹿なことがあるものか。5cm 程度のものがそんなにもつはずがないだろう。
と反論したが、「いやいや、誰もやったことが無いだけで、実際はそうなんだよ」と、聞く耳を持たない。
俺「そこまで言うなら、俺が使い切ってやる」
友「絶対にそんなに減らないから。でも、わざわざ無駄に使うのはナシね」
俺「もちろんだ。要は無くさなければ、そのうち使い切るんだから。少なくとも一生分じゃないことは、簡単に証明できる」
その日から、俺はリップクリームを紛失しないように、カバンのポケットを定位置とした。
カバンから出すと約束自体を忘れそうなので、夏でも常に持ち歩いた。
「私、お父さんのこと好きなのよ」
母はあまりそう言うことを口にする人ではなかった為、私は内心とても驚いた。
「知ってるけど」
「そうなの?」
「そうじゃなきゃ、私が生まれてないでしょ」
「ああ~それもそうなんだけどね。お父さん、絶対に私のこと見つけてくれるの」
「どういうこと」
「はぐれた時とか、私が写ってる集合写真を見た時とか、真っ先に見つけてくれるのよ。大したことじゃないかもしれないけど、それが凄く嬉しくて」
「それは嬉しいでしょ」
「見つけてもらって嬉しいのは私の方なのに、お父さんの方が嬉しそうな顔してるの。笑っちゃうでしょ」
それを「幸せ」と言うんじゃないだろうか。
「言えばいいのに」
「誰に」
「お父さんに」
「ええ~それは無理」
「酷い。明日にでも言いなって」
「考えておく」
空になったコップを持ち、台所に向かった母の背を見ながら「絶対に喜ぶよ」と声をかけた。
「わかったわよ~」
しかたなさそうに声を上げる母の声を聞きながら、直接言えたら最高なのになとひとり思う。
仏壇の前で手を合わせながら幸せそうに微笑む母の姿を見て、父も幸せそうな顔をしてくれたらいい。
──お似合いだよ
笑っちゃうくらい、お似合いだよ。
マリオオデッセイのクッパ城で、寿の旧字体である壽と書かれた幟がお拍子に合わせて舞うのをみて、祖父の仏壇を連想する。
子供の頃、親の実家に帰省してふあっとした記憶しか残っていない祖父母の仏壇に漫然と手を合わせるたびに
両脇に「壽」と書かれたぼんぼりがあるのは目にしていたけれども、意味も知らなかった。
その理由を知ったのは初めて身近な人を亡くす経験をした祖父の法要で。
「うちの家紋は寿=壽だから」「寿って?」「ハッピーってこと」
お酒に昔話に弾む大人道中にげんなりとする中で引火してしまって
皆、自分が入ることになった中学の話ばかり質問責めにあって辟易していた。
ゲームから始まるプルースト効果にしたってなんでこんなことで思い出すのだろう。
思い出せてよかった。
今年の1月に父親が死んだんだが、まあこういうことは共有しといたほうが良いかと思うのでこうだったら良かったとか、これは良かったということを書く。
病気になって弱ってたりとか入院したりとか言うことはあるが、それでもやっぱり死ぬのは突然だ。電話で死んだときかされると思っていたほうがいい。特に延命治療を希望しない場合は死んでから連絡がある(一応病院は死ぬ前に連絡はくれるが間に合わない
突然死だと用意できないが、高齢になってきたら元気でも用意しておいたほうが良いと思う。まず永代供養の墓地が常に売り出されているとは限らない(売出し時期がある)。あと墓のデザインもある。どこに名入れ(?)をしてもらうかとかもあるし、そもそも石を加工するので時間が必要だし、当然お金もかかる。死んでから用意するとバタバタすぎるし金がバンバン飛んでわけがわからなくなるので、まぁ先に余裕を持ってやっておいたほうが良いだろうと思った。先祖の墓に入るってんならいいんだけどさ。
寺にもよるとは思うのだが、うちの頼んだ寺だと先に信徒になっておくと色々と格安でやってくれる。檀家になると色々かかるので、あらかじめ市営などの墓地に墓を用意しておいて信徒になるのが楽だ。あと死んですぐはホントバタバタするのでここに連絡すれば大丈夫ってのがわかってると心理的に楽である。余談だがお坊さんからきいたところによると、遺族に頼まれてお墓にいったら、この墓うちの信徒のじゃねぇな…ってなって管理してる寺に引き継ぐことがあるらしい。いまや檀家とかよくわからなくなってることもあるので、生前にその辺りははっきりさせておいたほうが良さそうだ。
会員になっとくと割引があったりする。まああと変なところから来られても困るので、死んだらすぐに「うちは○○に頼むことにしてるので」っていうとすぐに連絡が取れて楽。葬儀社はエキスパートなので、まずは呼んでなにをするか聞くのがよいし楽(とはいえうちはすぐに全員があれこれぐぐって必要な手続きをリスト化し、いついつまでになにをして、そのときになにが必要かを洗い出した。相手も人間で抜けがあるかもしれないので一応自分たちでもスケジュールは組むべき)。ある程度年をとったらそこら辺の手配はしておいてほしい。
合成で作ってくれたりするんだが、出来があまりよろしくないのである程度年を取ったら元気なうちに写真は撮っておいたほうが良い。プリンタで引き伸ばした質の悪い写真になるので、大きなサイズも用意しておくとなお良い。
うちは地味に時間があるときにやっといてくれたので家探しせずにすんだが、まとめてないと大変だ。あっても一個ずつ確認して連絡とって手続きをしなければならないので非常に大変。忘れがちなのが家の火災保険の名義変更や、公共料金の名義変更(これがまたガス・水道・電気で違うのでややこしい。固定電話もかなり面倒)なども煩雑なので、できれば生前にできるものは名義変更しておいてほしいし携帯は解約しておいてほしい。いきてる間にやったら楽なものも少なくないので。
うちは密葬で、ということにしていたのだが、葬儀社に一応連絡だけは入れておいたほうが良いと言われたのでそうした。そうしてよかったと思う。別に死んだ人間のためというわけではなく、「人の死を軽くあつかった」というふうに思われたくない人間のほうが世の中には多いので、伝えておかないと家に線香あげに来る人があとをたたない。葬式後は相続関係で家を開けることが少なくないのでバラバラに来られると困るのだ。町内会に所属していた場合などは町内会の会長に連絡を入れ、「故人の希望で…」といって最低限以外はお断りするのが角がたたないし、相手も納得する。会社関係は厚生年金などの手続きですぐに訃報が伝わるので、会社の方から連絡があるが、その時はおなじく「故人の希望で…」と最低限以外はお断りするとよい。
当然だが祭儀場には限りがあるので、死んだ日の夜に通夜ができるわけではない。まず場所を押さえ、いろいろとプランを決めてから準備に入るので、最短でも二日か三日はかかるようだ。そもそも死んでから三日は焼いちゃいけないしな。ドタバタはするが死ぬほど忙しいわけではないので安心しよう。会社は少なくとも七日は休んだほうが良い。通夜までの間に喪服とか必要なものは買いにいけるので大丈夫だ。あと通夜までの間に実印を持っていない法定相続人は実印を作ろう。三文判でも実印にできるけど、名字の漢字が珍しいひととか三文判でも作るのに時間がかかるからね。
病院からもらう死亡診断書さえもらっておけば、焼くまでの手続きは全部葬儀社がやってくれるし、香典返しの手配とかもやってくれる(プランはいくつかあるが)。納骨までの仏壇もレンタルしてくれる。任せるのが楽だし、楽のためにお金を出したほうがいい。ただでなくても疲れるのに諸手続きをやったらたぶんぶっ倒れる。
まず花があるとかなり華やかになるので安いプランでもあらが目立たないし、遺族の気が紛れる。ちゃんと葬儀をしたという実感もえられる。祭壇をシンプルなやつにしてても花があると豪華にみえるのもよい。献花を申し出られた場合はお返しがちょっと大変だが一応受けておいたほうが良いと思う(華やかになるから)
食事は生きている人間のためのものなのであんまり食が進まないかもしれないがある程度のものを頼んだほうが良い。ただでなくてもしんどいので、食事くらい良いものにしないときが滅入りすぎるし、まずい食事は後々尾を引く。とくに通夜のあとの食事はちょっといいものにしたほうがよい。
死後、遺体も生き物なので体が腐っていくわけだが、エンバーメント処置をすることでそこそこきれいに保つことができる。夏場は腐りやすいのでやったほうがいい。うちは冬だったのでやらなかったが、やはり目はどんどん落ち窪んでいくし肌の質感とかも悪くなっていくので微妙に辛いものがある。ただまあそうやって変わっていくことで受け入れられるものもあると思うので、大丈夫だと思うならやらなくてもいいのかも。
お金がいりようになるということはよく聞くので連絡を受けて向かうまでの間にさっと引き出せる口座に百万くらい移動しておいたが特に使わなかった。うちは死ぬ死ぬ詐欺がながかったので口座の名義変更とかお金の移動とかある程度済ませていたのであんまり混乱がなかったが、まぁでも何かと入りようなので焦らないためにも近親者はすぐに大金を引き出せるようにしておいたほうが良いだろう。葬儀とか病院はクレジットカードで払えるのだが、引き落とし口座が死亡者の名義だったりすると、引き落とし日に口座が使えなくなっている可能性があるので要注意だ。そのあたりは生前によくよく確認しておくべき。
うちは女ばっかりの家なので男手がなく、出棺のときに困った。葬儀社がだいたいやってくれるのだが、あれ、ただでなくても重いからね。男手はあったほうがよい。
コートは人によって違うのでわかるのだが、マフラーはほとんど全く見分けがつかないので、混乱を避けるために名前を書いておいたほうがいい。
あと結構場所の移動があるので、それぞれに係をきめておいたほうがよい。運転係、お金関係の係、葬儀場の係、部屋を出る時に最後の確認をする係(うちでは自衛隊係とよぶ)、食べ物を用意する係、などなど。
場合によっては遺産の配分も考えたほうが良い。まぁ働けっていう話もあるんですが、何十年も専業主婦やってきた人は働けないからね…
年金受給年齢に達していない場合、生活が遺族年金頼みになる。毎月(給付は二月に一回だが)いくら収入がはいってそのなかで生活費や税金としていくら出ていくのかを見積もっておかないと生活に困窮する場合がある。うちの場合はなぜか最初から子供が全員遺産相続を放棄する前提だったのでよかったが(なんでだろうなぁまあ最初から放棄するつもりだったけど一応聞けよ)、法定通りにきちんと分けようと考えている時は、その後の援助などの計画もきちんと考えたほうが良いだろう。
http://www.izokunenkin.com/about.html
確定申告がバタバタになるので。年をこしてからだと準確定申告できるので四ヶ月猶予があるが、年末ギリギリに死なれると三月十五日までに確定申告をしなければならないようだ(死亡届を出した日になるのでほんとに年末ギリギリだと年越してから死んだことにできるかもしれないが)。つまりそれまでに相続を確定しないといけない。ここらへんよくわからない場合は遺産相続のプロに代行を頼む必要とかもでてくるので、できれば確定申告が終わるまでは頑張っていきていてほしい。
https://www.nta.go.jp/taxanswer/shotoku/2022.htm
庵野監督の言う「物語中にライバルが作戦を邪魔したり、頭の悪い奴が足を引っ張る展開がストレスで苦手」という声に共感や異論/ステロタイプの「うっかり」が嫌なのではという声も
これでサマーウォーズでスパコン冷却用の氷持ってかれるところに軽く触れられてたんだけど、
既に若者の車離れが叫ばれていた00年代後半にRX-7を重用し、
現実よりも増してITに依存したあの世界にあって魅力的な仮想現実システムOZに全く興味を示さない。
(余談だがRX-7は2002年に販売を終了しており、翔太は中古で手に入れたものと思われる。翔太の微妙な古めかしさと懐事情が垣間見れる。)
(スパコンの氷を持ち出したのも仏壇の供え物にするためだった。)
のちに「マイルドヤンキー」などという言葉で電通マンにレッテルを貼られてしまう「田舎の若者」を
ある種忠実になぞっているのがあのキャラ「翔太」じゃないかな。
そしてそれは地方都市に住み、
集団行動が苦手(であるため農耕社会に由来する田舎特有の全体主義には馴染めないだろう)な
極め付けとしてカズマはOZ内のコミュニティで半ば伝説として降臨しており、
暴走するAIを退治することに躍起な男どもと、それを尻目に淡々と催事の準備を遂行する女性陣の対比で成り立つ「サマーウォーズ」において
OZという作品設定そのものを軽視し関わろうとしない翔太は特異な人物の一人。
翔太が氷を持ち出したことでスパコンが熱暴走を起こしため事態は急転直下で窮地に陥り、
皆に責められた彼が頓珍漢な弁明を始め挙句カズマの在り方を否定しまいキレたカズマに殴られる。
この一連の流れは現代的な感覚に則った都市型生活と20世紀から続く田舎のライフスタイルのかち合いであり、
作中では話についていけない若者だと置いていかれている翔太が、健二やカズマに冷や水をぶっかけて反撃してくるシーンじゃないだろうか。
細田守が都市人として持つ自負と「田舎」というものの捉え方が色濃く表れたシーンであり、
ついでに言えば妹もいるんだけど、これについてはあまりに幼いうえに手も足りないのでおふくろの実家で育った。
ずっと、十年以上も後になって、1年間だけ一緒に暮らしたけれど、それでも僕にとって少年時代の家族の思い出は父姉自分の三人構成だった。
ちなみに『暗いと不満を言う前に進んで明かりを付けましょう』というワードを毎朝聞いていたので、覚えていたのだが、それが聖教新聞のスローガンだと知ったのは最近だった。
母の仏壇については、確かにあったのだと思うけど、どうしても線香をあげて拝むのが苦痛で、もう母の享年に並んだ今までに通算しても数十回程しか向き合っていないので、なにかしらの作用で脳内から消えているんだと思う。
今でも、母の仏壇を平常心のままで拝むことはできない。
我が家の信仰の薄さからか、父も母の仏壇に向き合うことはなく、今でも母の写真を寝室に飾ってはいるが、十年に満たない短い結婚生活を忘れないためなのかは知らない。
いずれにせよ、92年のクリスマスには父がアイスケーキという物を買ってきてくれたことを覚えている。
母がいなくなって初めてのクリスマスに、父ははしゃぎたかったのかもしれない。
僕と姉のテンションは始めこそ上がったが、意外に食べづらいアイスケーキは結局春先まで冷凍庫を占拠した。
いつか、タイムマシーンができたら、92年の僕たち家族を覗きに行きたい気もするが、母の仏壇を見て、忘れていることを責められるような罪悪感にさいなまれるかもしれないので、やはり薄ぼんやりと思い返す程度がちょうどいいのかもね。
たしか、小学二年生だった僕は、ボロい一戸建ての社宅に住んでいた。
三つ年上の姉が家事をやっていたんだけど、細かい掃除まで手が届くわけもなく、家の中はいつも埃っぽかったのを覚えている。
カット済みの食材が届く宅配サービスを利用していて、姉がそれを調理して夕食を作り、夕方七時過ぎに帰ってくる父を待ってから三人で夕食を食べるのが夕餉の風景であった。
朝は六時に起きて、聖教新聞提供のラジオ番組を聞きながら朝食を食べていた。
家にはパソコンも携帯電話もなかったしそれは一般的だったと思う。
友達に用があれば固定電話にかけるか、直接家まで行って呼び掛けた。
僕はスーパーファミコンを買ってもらえず、ファミコンしか持っていなかったがそれでもテレビゲーム自体を買ってもらえない友達もいたので、それなりに満足していた。
年賀状は当然プリントゴッコで、ピカッと光るのがひどく未来的に思えた。
私自身がそうなのであまり意識したことがなかったし、一応伝統ある日本の宗教だとも思っていたのだけれど。
最近たまたま友人とその家族とそういう話をする機会があって、自分の出自としてうちは神道で~と
流れであまり深く考えずにそう話をしたのだけど、えっ、神道って何?という反応をされて戸惑った。
お寺が仏教で神社が神道ですよ、と説明したのだが、あまりピンと来ていないようだった。
そういえば周りにうちも神道だよ、なんて人に出会ったことがなかったなと思い、
サンプルが少ないのでそのおうちの教育が、ということもあるのかもしれないけど、
反応ありがとうございます。いくつか補足と返信をさせていただきます。
1. トラバもしたのですが、うちは
というわりとガッツリ神道の家なのですが、そういう人って少ないんでしょうか?ということでした。
広義の神道の信者は確かに多いと思います。みんな神社行きますし、神社本庁の信徒は1億人くらいいるらしいです。
2. お墓はよくわからないのですが、「~家奥津城」と書いてあったと思います。
葬儀で神主さんが祝詞を読んだときも「おくつきのみや・・・」みたいなことを言ってました。
うちはまさにこれでした。
他のコメントも全て読ませていただいてますが、やはりそういう家庭はそれほど多くないのでは、との意見が多いようです。
大変参考になりました。
線香の煙もタバコ並みに体に悪いとか、pm2.5が含まれてるとかいう説を見た。
親には線香の本数減らせば?とか電気式の線香はどうかとか提案したけど却下。
仕方ないんでネットで探したら、煙の少ない線香というのがあって、それをためしたらたしかに煙がすくない。
見た目、普通の線香の半分くらいになってる感じ。
そんなことがあったのだけど、今日ダイソーをウロついてたら、そこでも煙の少ない線香を発見した。
あまり期待してなかったけど、100円だし試しに買って帰って火をつけてみたら、少ないどころか煙がまったくでない。
煙がゼロ。
またすぐダイソーに行って、その線香を買い占めてきたわ。
ダイソーすげえや。
来週の日曜に実家に帰って親に渡してくる。