はてなキーワード: 中島義道とは
私は「働く」ことが大嫌いです。少なくとも今の仕事には何のやり甲斐も見い出せません。
それなら何故「働く」のかと言われれば、ひとつの理由として飯を食うための金が必要だから、と答えます。
夢も希望もないですが現実です。働かなくては生きていけないから。
かつては、こんな私のような人間も「働く」ことに対して意欲的になれる環境が整っていたのだと思います。
終身雇用制と年功序列制度。人は働けば働くほど給料が上がることが保証されていました。
しかし、ご存知のようにそれはもう遠い昔の話です。「働く」ためのモチヴェーションは失われてしまいました。
幾ら働いても惨めなままで過ごすしかないのであれば、「働く」ことから降りる人間が生まれるのは当たり前の話だと思います。
つまり、今こそ何故人間は働かなくてはならないかを問うべきである、ということです。
私が「働く」理由にはもうひとつあります。それは働かないでいると人間は世間との繋がりが切れてしまうから、というものです。
引きこもって外に出なければ人は実社会のことが分からなくなり、狂気をこじらせてしまいます。少なくとも私はそうです。
でも、ここで大事なのは必ずしも引きこもっていることを私は否定しないということです。
「働く」というのは世間とのコミットメントの手段のひとつに過ぎません。
引きこもっていても何らかのかたちで「外」と繋がっていれば、それはそれで(もちろん親の経済力に余裕があり、親が寛容であればの話ですが)悪くないことなのではないかと思います。
このあたりの議論をする際に、私は中島義道氏のことを思い出します。氏も一時期引きこもっていたことがあったそうです。
しかしその期間中、月に 50 冊の本を読み勤勉に勉強を重ねておられたと聞きます。引きこもりは勤勉であれ、というのが中島氏のメッセージです。
そして外との繋がりを断ち切るな、と。このあたりは私自身読んでいて、非常に得心の行くものを感じました。
私自身引きこもっていた時期に図書館で大江健三郎の全集などを読んで過ごしていたので。
今の私は、基本的に貧乏でもあるのでどこに行くことも出来ずに引きこもっています。
ただ、日銭を稼ぐ仕事があるのでそれに参加して最低限の税金を収めているだけです。そんな私にはだから、引きこもりの人の絶望が分からないです。
ただ、先に書いた半年ほどの引きこもり体験の間に感じていた薄っすらとした絶望は今でも思い出すことが出来ます。
私のそういう期間は二十代初めだったので私は何とか辛うじて社会復帰することが出来ましたが、三十代になって引きこもっている人の絶望は大きいものだと思います。
私には何も言えません。ただ、「働く」という大嫌いな手段を通して先の見えない人生を送っている男がここにひとり居るということ、
SSクラス 江藤淳、柄谷行人、廣松歩、栗本慎一郎、谷沢永一、村上泰亮、中村元
Sクラス 小室直樹、浅田彰、福田和也、渡部昇一、呉英智、蓮實重彦、永井陽之助、中村雄二郎、すが秀実、佐伯啓思、高澤秀次、筒井康隆、小谷野敦、菅野覚明、養老孟司 見田宗介、佐藤誠三郎、大森荘蔵、西部邁
Aクラス 丸山眞男、吉本隆明、長谷川三千子、丸山圭三郎、橋本治、村上陽一郎、佐藤優、松岡正剛、伊藤貫、猪木武徳、坂部恵、坂本多加雄、大澤真幸、中川八洋、永井均、野矢茂樹、小浜逸郎、飯田隆、河合隼雄、片岡鉄哉、鎌田東二、梅棹忠夫、竹内洋、山本夏彦、山口昌哉、入江隆則、
Bクラス 猪瀬直樹、坪内祐三、中沢新一、御厨貴、橋爪大三郎、鷲田清一、北岡伸一、池田清彦、中西輝政、立花隆、山本七平、宮台真司、桶谷秀昭、宮崎哲弥、司馬遼太郎、古田博司、市川浩、東谷暁、苅谷剛彦、秋山駿、関岡英之、加藤尚武、浅羽通明、松原隆一郎、東浩紀
Cクラス 中島岳志、鎌田哲哉、兵頭二十八、内田樹、森本敏、村上龍、西尾幹二、仲正昌樹、大江健三郎、齋藤孝、森岡正博、富岡幸一郎、小泉義之、井沢元彦、桝添要一、中西寛、中島義道、鄭大均、山内昌之、村田晃嗣、山形浩生、林道義、松本健一
Dクラス 斎藤環、福岡伸一、副島隆彦、榊原英資、梅原猛、寺島実郎、佐藤健志、大塚英志、五木寛之、笠井潔、潮匡人、高橋源一郎、岸田秀、山田昌弘、竹中平蔵、池田信夫、萱野稔人、大川隆寛、大森望、櫻田淳、上田紀行、手嶋龍一、和田秀樹、藤原正彦、中野剛志
Eクラス 佐々木中、村上春樹、三橋貴明、田原総一郎、木村太郎、池上彰、竹田恒泰、切通理作、島田雅彦、酒井信、夏野剛、苫米地英人、上野千鶴子、姜尚中、鷲田小爾太、竹田青嗣、小阪修平、佐藤亜紀、
Fクラス 糸井重里、加藤典洋、中上健次、勢古浩爾、北田暁大、藤原和博、小熊英二、佐々木俊尚、西條剛央、玄田有史、城繁幸、茂木健一郎、岩田温、千葉雅也、岡田斗司夫
Gクラス 小林よしのり、宇野常寛、勝谷誠彦、荻上チキ、鈴木謙介、勝間和代、伊坂幸太郎、濱野智史、赤木智弘、坂本龍一、いとうせいこう、上杉隆、酒井順子
Hクラス みのもんた、久米宏、古舘伊知郎、ハマコー、太田光、水道橋博士、テリー伊藤、リリー・フランキー、コシミズ、香山リカ、森永卓郎、ホリエモン、津田大介、ひろゆき、中村うさぎ、雨宮処凛、桜井誠
最近何に価値があるかわからなくなってきてしまったのです。もしかしたら、何にも価値がないかもしれないですし、あらゆること、は価値があるかもしれないとも考えています。倫理的でないこと-例えば、人を殺す。しかも、特に理由なく。それすらも価値があり、また価値がないとも考えています。
また今、体調を崩していまして、仕事をしていません。働かない理由の一つにすることもしないことにも価値を見出せないことが一つかもしれません。
また、生きることについて、死ぬことについても考えています。まあ、これは在学時、また、それ以前からも考え続けたことでありますが。「社会的」(社会という単語もここでは自分は日本語以外の言語が使用できないので日本社会のことを指します)に意味があるとされていることは本当に意味があるのか、建前は意味があると装っていて、実はそこまで辛い思いをしてまで建前を貫き通すことが出来ない人が増えている。そのように、私(のみているパースペクティブ)としてはそう思います。それがニートであり、そこからさらに抑制された状態で、いわゆる「無敵の人」なのだと考えています。
彼らは社会のハイコンテキストな空気に適応出来ず、社会の無言の圧力に抑制された存在なのだと思います。社会の倫理に虐げられた人間に今更、社会の倫理で説得しようとするのは無駄なことでしょう。しかしながら、刑罰という面において従順なのが不思議なのです。それは、おそらく、日本の教育、〜しなければならない(must be)が蔓延している結果なのでしょう
最近、永井均や中島義道に興味を持っています。私がその気になれば、すこしくらいなら直接話ができるくらいの距離にいます。
彼らになぜ興味を持っているかと言うと、恐らく彼らも、哲学という手法を用いて意味や価値、生、死について問いづづけた人だからでしょう
今、自分自身がどうしたらいいかわからないのです。社会的には休養して仕事をするという回答をえられるでしょうが、今の仕事は、マニュアル化しコンサルタントによる効率化によって、(世界的も含み)社会がコモディティ化されている。それを経営者はわかっているので、マスメディア的にも経済社会的にも、現在の若者をゆとり世代といい、多くの問題を最近の若者的な問題にすり替えて押し付けている。俺たちの時代もそうだったと昭和世代はいうのだけれど、無縁社会化、監視社会化、昭和的なあなあさの消失、失われた10年、年金問題等々、当時の社会とは違い成長や豊かさという大きな物語が失われたのに関わらずのに同じもの、いやそれ以上のものを求められている。
また、就職活動においてもビジネス化が進み、自分の世代もそうだったが、もはや、通過儀礼(イニシエーション)ともいえるものを乗り越えなければならない。しかも、この通過儀礼は文化人類学的な単純なものではなく、ホンネとタテマエが入り混じり、時にはそれが入れ替わる。欲望、または純粋な希望。そう言ったものが入り混じりそれを通過するにも。とてつもない精神的苦悩のあるものである。
その通過儀礼を通過したとしても、ビジネスモデルとしての使い捨て、いわゆるブラック企業が跋扈している。厳しい競争を勝ち抜いても、その後に、さらに厳しい社会へと放り込まれるのだ。
今の会社はグローバルな競争に向かわざるをえず、主要企業の行っていたビジネスモデルが一年たらずで崩れてしまう。
企業倒産による、失業、リストラ、些細なミスによる解雇、これらは社会においては自己責任であり、手を差し伸べるものでは無くなってしまった。
生活保護を受けるのは非国民のような扱いを受ける。そもそも生活保護を受けるのも役人によるしぶとい駆け引きに勝たなければならない。
しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している
障害を持つものも、内臓疾患であれば甘えと言われ、精神疾患も同じく。足がなくとも、同じ状況にある人間ががんばっているんだといい、目の前にいる人間の言葉を無視する。
たとえ儲けが出なくても、働かざるは食うべからずという圧力で仕事が作られる。
駅でお菓子を売っている障碍者たちは働かざるは食うべからずの精神で駆りだされ売っている。全く売れなくても「そうしなければならない」のだ。
彼らの中にはそういった欺瞞性に気付くものもいるが、どうすることもできない。運営してる福祉ですら、その欺瞞性を飲み込んでいかなければならない。
初めは人を救うという意志があったものの、欺瞞性や政治の結果、福祉の人として道を外れてしまい、いわゆる「腐った福祉」になってしまう
しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している
朝。そこには雀の気持ちいい鳴き声すら気づかない。
昨日の疲れが取れなかった苦しみだけが残る。
痴漢冤罪にならないことを恐れなければならない。
ウィーン愛憎読んだ。中島義道は1、西洋人の傲慢さ 2、それに対する日本人の卑屈さ に違和感を感じてると読んだんだけど、ぼくはそれには同意するけど、それに立ち向かうのは精神に負荷がかかり過ぎるので、自分ではきっと妥協する。噛み合ない議論を続けて精神が蝕まれるよりも適当なところで妥協して傷が広がるのを防ぎたい。じゃあ中島義道をすごいと思うかというと、彼は立ち向かうことで生きやすくなったり幸福になったりしていないから、立ち向かうことがいいことだとは思わないし、すごいとも思わない。ただ、彼は立ち向かうという生き方しかできない(妥協すると彼は自分を生きられない気がする)ので、結局偏屈になってしまうのは大変だな、と思う。
何故学士2つ、修士1つを取ってなお私費留学するに至ったかのくだりは、とても共感してしまった。これは俺だ、とさえ思ってしまった。やっぱり、偏屈になってしまうのは大変だな、と思う。
先日、フェミな人たちとの飲み会(会合?けっこう大規模)に参加した
自分はまったく畑違いの上高卒でフェミニズムがなんたるかもあまりわかっていないが
驚いた
俺は男なので女のファッションの系統など詳しくないが(女の服だとユニクロと百貨店の服の見分けがつかないレベル)
要はそのような人間からすれば「スイーツ」で一括りにできるような容姿の人々ということだ
もちろん一見スイーツっぽくない女もいたが、よく見るとそれは別枠のスイーツ(ロハス?というのか)だった
スッピンのオナベみたいな女とかオカッパの某フェミニストみたいな女ばかりかと思っていたから拍子抜けだ
というかブスばかりだと思っていた
顔面も、中の中から上の下というくらいの出来
危うく口説きそうになったよ
更に驚いたことに、話しぶりは攻撃的でもなんでもない普通の女
さすがにお酌は頼めなかったがw
俺は渓流釣りと航空が趣味だが、その話題すらカバーできる女もいた
聞けば学歴もすごい
それとこれはなぜだかわからないが、日本語以外の言語を話せる人が多かった
家柄までは聞けなかったが明らかなブルジョワ階級のにおいがした
半分以上が彼氏持ちか既婚者であり
こいつは一生独身だろうというような女は1人しかいなかった(そうとは言わないが明らかにレズっぽかった)
ただ、適齢期にもかかわらず子持ちは1人もいなかった
(あとになって考えてみれば、夜の飲み会だったので子育て世代が来れなかっただけかもしれない)
(↑というか、オバサンが少なかったのもそのせいかもしれない)
最終的にフェミっぽいなと思ったのは一人だけ
そこそこ美人なのにそれをわざと無駄にするような服装と言動の女
それ以外の女からは、俺の思うフェミっぽさを1ミリも感じられなかった
なぜ嫁のことを考えたのかは分からないが
嫁とフェミの人を比較してなんとも言い難い心境になった(嫁とは不仲ではないし大事に思っている)
やはり自分より程度の高い女に囲まれると心の底から楽しむのは難しいと感じた
中島義道なども読むので男根主義的な思考には自覚的だしそこから少しは遠ざかれている方かと思っていたのだが
なかなか難しいな
仕事で関わる親会社のエリート社員などとの飲み会で感じる劣等感とはまた別種の(劣等感とはまた違うような)イラだちがあった
俺より程度の高い男というのに囲まれてもなんというかどちらかといえば自虐的な物寂しい気持ちになりまあ素直に凄いなぁと思えるのだが、
あとは、そこそこハイカーストの女じゃないとフェミニズムに関わる意味なんてないんじゃないかと思ったな
モテないとかブスだとか女性の貧困だとか書いてあって猛烈に違和感を覚えた
君たちその全部に無関係じゃない?と
女の権利拡大のための活動なんてやってられないんで
そういうハイカーストの女に
代わりに活動してもらうしかないのかもしれないとも思った
中島義道の本を読んでください。今すぐにです。
わかるっつーか、俺好きよ、この文章。いや、釣りじゃなくてマジで書いてんならよ。
何がわかるってよくわかんねー頭ん中うずまく衝動だとか、衝動というか憂鬱で満たされるよく分かんないあれだとか、
こういうグルーブ感で書けるぐらい賢さはあるのけど、だからって俺はこの人生をどうすりゃいいんだってことだとか
ありがちな思考の飛びと流れが分かるし、つーか全部俺も考えたことがあるようなことで
ようは俺にとってあるあるってことよ。なんつーの、モラトリアムあるあるってやつよ。
俺は人の悩みを「それ古典的な悩みだよね」とか言って傷つかせたことがあるけど、たぶん俺のもお前のも古典的なんだよ。
でも、古典的だろうが俺の状態は俺にとっては現在的だからさ、困ったもんだよね。
人生を半分投げたっていうのはさ、中島義道に影響されてんのか、そうじゃないのか分かんねーし、何書いてあったか覚えてないけど
欲望を大事にすればいいと思うよ。これは竹田青嗣に影響されてんだけど。
あと、音楽とダンスが好きな奴はあっち側に逝っちゃわないって菊地成孔が言ってたけど、それも多分同じことでさ。
根源的な欲望っつーか、ブッキッシュなだけな奴は病むよ。肉体に生じる官能的な快感がつないでくれるっつーか。体育じゃだめだ、なんつーか色々と。
俺の場合、人生半分投げて、俺の欲望だけ大事にしてから回復してきたからさ。結局、人生のどうしようもない意味ってのを欲望に変換しただけなんだけど。
まあいいや、俺も正解見つかんねーし、見つかったら教えてよ。
簡単に言えばp210から読めばいいだけの話で、
人が人をいろんな濃度で嫌うのは当たり前で、
現に自分だって様々なささやかな理由でひとを嫌っているではないか、…という話。
それを、いわゆる「みんな仲良く」的な道徳のしばりで片付けてしまって、
自分をただ責めたり、「ひとを嫌う/嫌われる」というこころの重要な動きや感じ方にそっぽをむいたり
押し殺したりすることはいかにも人生の無駄遣いである、と、偏屈この上ない中島氏は言う。
まあ、カミュじゃないけど、哲学のひとは、宗教や倫理に押しつけずに、
自分自身の生を重々しく生きよ、と言うわな。
そしてわたしもかつて哲学の徒であったわけだからな。
こういうタイトルに引かれる人間は、概して嫌う嫌われる好く好かれるということに
非常にコンシャスであるわけで、その中には明確な理由のあるトラウマ持ちさんのような
重篤な患者も多々いらして、そういうケースは想定されていない。
わたしは明確に重篤患者なのであるが、逆にその分、ひとを嫌い嫌われる部分において、
自分の患部をほじくりかえす必要もなく、普通に嫌い/嫌われればよい、ということがわかって
少し気が楽になった。
さて。
Twitterでご丁寧に「おすすめユーザー」というのが表示されていて、
そこに最初に出てきた方のうちふたりにわたしはブロックされていた。
明確に「嫌われている」わけなのだが、
特にわたしはその方に何か悪いことをした覚えはない。
片方の方には、「まぶしすぎてつらい」という意味のわからないことを言われた。
何もしなくても、しかも共通の知り合いであるのに、
そのように激しく嫌われるのだな、というのがわたしの発見で、
そういえば小中学生の時に、同級生にいじめられたりしたことを思い出して落ち込んだ。
そういう残酷な手合いは、逆に嫌い返せばいいものを、
それすらも、重く正当に受け止めて、人生を味わい尽くせと中島氏は言うのだ。
あたかもシーシュポスのごとく。
http://anond.hatelabo.jp/20090503233005
これは二次裏でもimg鯖でまとめられたオススメ本一覧2008年度バージョンだったらしい。
元は「中高生のため」と限定したわけじゃなく単純に他の人に薦めたいというものだとか。
1年毎にまとめられているようで、これの2007年度バージョンを見つけたので貼ってみる。
4 シラノ・ド・ベルジュラック エドモン・ロスタン
9 風が吹くとき レイモンド・ブリッグズ
10 黄金の法 大川隆法
15 パンセ パスカル
20 シブミ トレヴァニアン
22 もの食う人びと 辺見庸
26 愛に時間を ロバート・A・ハインライン
30 マルドゥック・スクランブル 冲方丁
32 薬菜飯店 筒井康隆
34 変身 カフカ
35 チリの地震―クライスト短篇集 ハインリヒ・フォン・クライスト
40 恋のかけひき他11篇 マルキ・ド・サド
44 ロリータ ウラジーミル・ナボコフ
47 最悪 奥田英朗
50 泥流地帯 三浦綾子
57 魂の駆動体 神林長平
60 エルマーとりゅう-Elmer and the Dragon ルース・スタイルス・ガネット
65 一万一千本の鞭 ギヨーム・アポリネール
66 暗闇のスキャナー フィリップ・K・ディック
67 夏草冬涛 井上靖
68 家守奇譚 梨木香歩
72 アリス―Alice in the right hemisphere 中井拓志
74 かめくん 北野勇作
76 てのひらの闇 藤原伊織
77 極大射程 スティーヴン・ハンター
78 初秋 ロバート・B・パーカー
84 インスマス年代記 スティーヴァン・ジョーンズ
85 鬼麿斬人剣 隆慶一郎
90 サムライ・レンズマン 古橋秀之
92 死者の代弁者 オースン・スコット・カード
95 ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち リチャード・アダムズ
98 されど罪人は竜と踊る 浅井ラボ
横だが、中島義道が2009年4月16日の朝日新聞の「大人になる君へ」という特集に「他人のせいにしない姿勢を」という文章を寄稿しているのだが、その中島義道のメッセージが元増田に届くといいと思うので、抜粋して引用します。
きみが自分を「才能のない人間」と決めることはそういう自分を選ぶことであり、自分を「もてない男(女)」と決めることはそういう自分を選ぶことである。
この意味で―サルトルとともに言えば―誰でも否応なく「自由」なのだ。だから、すべてを誰かのせいにするのもきみの自由である。面倒なことは考えずに、自分を物のように固めていくのもきみの自由である。すべてを諦めて幽霊のように生きるのもきみの自由である。だが、そういう選択の積み重ねはきみから生きる力をそぎ、きみをますますやせ細らせるであろう。
学力の低い親のもとに生まれたから、教養のかけらもない環境に育ったから、魅力的な肉体の遺伝子を受け継がなかったから・・・・・・自分はこんなにだめな人間なのだ、ときみは言う。だが、とにかく人間のことは皆目わからないということを思い起こしてほしい。
その中できみは自分の本質をそう決定し、それが人生を規定すると解釈したのだから、その責任はきみにある。自分の「だめさ」を固定してそれを親や状況のせいにしたのはきみである。その意味で、きみは自分を「だめ人間」として選んだのだ。だから、きみは未来永劫にわたって「だめ人間」になるであろう。
だが、何が一人の人間の行為やあり方を決定するかは、じつのところまったくわからない。だから、どんな人でもどんな瞬間でも、「いままで」を完全に断ち切って新しいことを選べるのだ。
中島義道さんの本は、読んで済ます分には気が晴れるかもしれんけど、同じ生き方しようと思ったら今よりもっと辛い目に会うかもしれないロックな道だよ。
こういう考えがある事は理解はするけど、ワシはこの人の考えにこれっぽっちも共感出来んかったな。
読み物として楽しいのは同意。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090614/p1
ここまでくると難しい気もする。生きる事=表現する事だと思うから「さまざまな表現に出会うことで緊張を強いられている人たち」も生きてるだけで誰かを傷つけてるはずだし。
それを「私的権力行使の黙認」として「国家権力の怖さ」としてしまうのはコメントの方も言ってますが広げ過ぎじゃないだろうか。
ちょっと話がずれて申し訳ないが、例えば私は中島義道がよく言う拡声器騒音が耐えられない人間なのだけど、これなんて「自分たちの感じるつらさは無視されている」の典型例でしかも未来永劫死ぬまで自分が救われないことも分かってる。(拡声器騒音は善行として行われているため)
あえて質の悪い冗談を言うと、性的な事で傷ついてるなんて理解されそうでうらやましい、とすら思ってしまうくらいだ!だって性的暴行性的搾取はこの世でいちおうは悪とされてるもの。
『モテ』という価値観自体が『レンアイ』という古典的な性別役割主義観に基づくものだから、男女平等価値観を学ぶ前にすでに増田の頭にはそれが刷り込まれていたんだなあ、とまあ、フェミニズムをきちんと学べばそういうことが理解できると思う。フェミニズムの偉大さや利益というのは多分そういう風に人を「楽」にして幸せにするところにあるんじゃないかな。
そんなわけで
まあ実際男女ともども、自分自身も、どうすればいいのか分からない。自分はとりあえずモテ競争から降りたことで大分楽にはなったけど。中島義道が「半隠遁」を唱えていたけど、正直それに憧れている。
という増田の対応は大変正しかったと思う。
役割主義・恋愛主義のような人を勝者敗者に分ける考えは、少なくとも万人を幸せにすることはない。はてなに横行する『非モテ』論壇人というのが、本質においてフェミニストにもっとも近いのではないだろうか。