はてなキーワード: ロボトミーとは
ロボトミーみたいなことできるの?どっちみち金掛かりそうなことはかんべん
現実はもちろんのことテレビでもネットでも品行方正を求められて、油断すれば揚げ足を取られて潰される社会を見てると気が狂って死にそう。
基本的にSNSはリスクでしかない。有名人じゃなくても悪意のある人間が一部を切り取って文脈を無視した発言を拡散される可能性がある。自分だけではなく所属する組織や家族にも迷惑がかかる。何で人生が終わるか分からない。
その結果、どこもかしこも誰もが納得できるお利口さんで役に立つつまらないコンテンツしか無いし、空気を壊すことも悪ふざけもルールをぶち壊す事も許されない。本当に窮屈でつまらない。
オリンピックの辞任騒動が分かりやすいが「正義を盾に他人の言動をあげつらって社会的に潰す」ことが簡単に行われる。最悪な社会だ。お前ら正義感を盾に相手が言い返せない事をいい事に、単に気に食わない奴を潰してストレス解消してるだけだろ。発言元よりよっぽど悪質だろうが。
ただな、攻撃欲を発散させて敵や古い常識をぶっ潰す、これこそが根源的に人間が求めてる事なんだよ。
現代は「カッコーの巣の上で」に出てくるラチェッド婦長だらけの世界。同時に皆が精神的にロボトミー手術を受けさせる運命。
で、さっきfacebookのタイムラインで、知り合いがスタバのカフェオレをスマホで撮ったクソどうでもいい写真を目にした時、もう俺は限界だと思った。
私は「風と共に去りぬ」のファンですが、ルックバックと比較するのはやりすぎだと思います。あなたは風と共に去りぬを読んだことがあるのでしょうか?
作者であるマーガレット・ミッチェルは南北戦争時代の南部の思想に強く影響を受けています。
この作品では奴隷制を肯定し、黒人達は奴隷として幸せに暮らしていたと主張しています。4人の主人公のうち2人はKKKのメンバーで、黒人村の焼き討ちをおこないます。 当然KKK側が正義として描写されています。
表題の「風と共に去りぬ」とは、風のように去った美しい南部時代のことです。作品の多くのページが「美しき良き南部時代」「南部人から見た南北戦争」に割かれています。世間のイメージとは違って恋愛の部分はそれほど多くはないです。
例えばルックバックが「ロボトミー手術はただしかった」と主張する作品ならば風と共に去りぬと同様の問題を抱えているといえますが、そのような作品ではありませんよね。
それに私は「風と共に去りぬ」も規制しないでほしいと考えています。個人的には、当時の南部人やKKKメンバーの思想が垣間見えて興味深く感じています。
この作品を読んで「奴隷制は正しかった」と考える人はまずいないでしょうし、もしそのような人が存在するとするならばそれは教育で解決すべきではないかと考えています。
俺は裁判ってのは
・人に危害を加えうる猛獣に調教を施す期間や殺処分の可否を設定する
って機能を持った精度だと思ってる。
そして、このどれに当てはめても責任能力がないことが無罪になる理由がわからない。
起こしてしまった犯罪という行為に対して「狂ってたから仕方ないんです」では犯罪者予備軍たちに「狂ってるふりすればいいだけじゃん!!!」という動機づけをしてしまう。
犯罪予備軍度が低い人に対して「でも狂っちゃったら裁かれるならもう頑張って生きても結局裁かれるかも知れないしバレない程度に犯罪してこ」と感じさせる部分はあるかも知れない。
だがそれだって「もしも狂っても犯罪をしない内に病院に行ったり、犯罪をしないように普段から距離を置いていこう」と考えさせる効果もあるはずだ。
危険予知運転の基本として教習所で「速度を低めにする。かも知れない運転はしない」と誰もが教わっただろうが、それらを道交法以外の部分にも応用していく。
狂ってしまった瞬間の自分の瞬発力を予測し、日頃から犯罪との距離をとり、そして近づいていると感じたら早めに病院に行く。
キチガイ無罪の否定はそういったことへの動機づけになるはずだ。
有罪判決によって懲役や死刑を課する目的の本質は、犯罪者を無辜なる者達が暮らす社会から遠ざけることだ。
そして、戻ってきても再び犯罪をさせないように調教を施すことである。
調教に失敗した場合のリスクを考えると生かしておくこと自体が不適切と判断した場合はもはや殺処分しかない。
犯罪者に対する処置は保健所による害獣指定と大枠は変わらない。
実刑判決を受けた人間は人権の何割かを奪われ、そのへんのペットよりも悲惨な階級の生物となる。
さて、それでは気が狂っていたから責任能力がないとされた人間はこの調教を逃れる権利を与えられるべきなのだろうか?
与えられるべきではないだろう。
狂ってしまったからといって犯罪を犯しておきながらキチンと処罰を受けなければ、犯罪に対しての価値観が歪んでしまう。
さながら某アーチストが過去の障碍者イジメをイキりながら自慢したように、歪んだ価値観からは歪んだ行動が生まれるばかりなのだ。
歪み始めた価値観を矯正するためにも、治療と並行して刑務所での調教も施すのが本人のためではないだろうか?
もちろん、一時的な狂気によって外れたと思われるタガが殺人と行った禁忌にまで及ぶのならば殺処分も検討していくべきだ。
ここだけは少し悩ましい。
その需要とはなにかといえば、究極的に「悪いやつは裁かれる。正しいやつは裁かれない」というシンプルな勧善懲悪論の肯定だろう。
人類全体の教養レベルが向上したことで、現代人の道徳観は昔ほどは短絡的でなくなったにしろ、未だに基本的な部分はこのシンプルな理論に基づいている。
そして、裁判というシステムの需要はこれによって支えられている。
裁判においてキチガイ無罪が成立すべきか否かとは「キチガイ故に犯罪をしたものは悪いやつなのか?」という命題に置き換えられる。
悪いやつという曖昧な定義の中身に「実際に犯罪をしたら悪いやつ」「望まずに犯罪をしたのならギリ正しいやつ」といったものが含まれている。
これらの衝突によって生まれた歪の間でキチガイ無罪は宙に浮いている。
時代によって変わっていく価値観によって、最近の社会では多少人間として欠落していても許していくべきという方向で世界はまとまっている。
が、それでもなお「人に大きく危害を加えないなら」という注釈がつきがちだ。
そしてキチガイ無罪に対して考えるべき点は、「現代の精神医療を持ってすれば多くのキチガイが治るキチガイである」ということだ。
強い薬の服用によって元の人格が歪むリスクや様々なホルモンのバランスが崩れる可能性もあるが、それでも治せるキチガイの数は非常に多い。
そうなると現代の価値基準では「人に危害を加える前に病院に行く選択肢もあったのに、チンケなプライドや我が身可愛さにそれを忌避した時点で悪いやつ」となるのではないだろうか?
道徳観が進歩したからこそ多様なあり方が肯定されたが、同時に医学が進歩したことでキチガイで有り続けるという愚行権の行使が許されにくくもなってきている。
ロボトミー手術を受けろと行っているわけでもなく、単に1日3錠のカプセルを服用しろというだけのことを嫌がって、人に迷惑をかけることが、現代の道徳では許されるのだろうか?
許されないことのほうが多いだろう。
スペシャルオリンピックスの起源は1962年に遡ります。ジョン・F・ケネディ元大統領がダラスで暗殺される1年半ほど前、元大統領の妹であるユニス・ケネディ・シュライバー氏がケネディ邸の庭を解放し、知的障害者らを集めてデイキャンプを行いました。
このデイキャンプが行われたきっかけはケネディ家のお家騒動でした。デイキャンプの21年前、ユニス氏の姉であるローズマリー・ケネディ氏が父親の独断でロボトミー手術を受けさせられ、重い知的障害を負ってしまいます。それからローズマリー氏の存在は厳重に秘匿されていたのですが、ジョン・F・ケネディ元大統領の就任によって明るみとなり、激しい批判に晒されました。
最初のデイキャンプにはそうした批判をかわす目的があったのです。しかし、知的障害者のレクリエーション参加という新たな可能性が示唆されたことで手ごたえを感じたケネディ財団は、同様のデイキャンプを北米各地に広げる助成活動を始めました。
ただ、予選でわざと手を抜いて下位グループに入り決勝で圧勝しようとする企みも無いわけではありません。それを防ぐために「マキシマムエフォート」というルールも採用されています。マキシマムエフォートとは「最大限の努力」を意味する言葉で、予選と決勝の成績に15%以上の差があると失格になるルールを指します。これによって予選から全力で競技にあたる風土を形成しています。勿論、失格になった選手にも表彰台でリボンが授与されます。
これはよく考えられたルールだね
「科学には、ノーベル賞がある物理学、化学、医学生理学、文学、経済学以外にも多くの分野があるが、そういった分野における業績はノーベル賞では一切考慮されない。
受賞者の選定がどのように、どういった基準で行われているかが不透明である。
ノーベル賞の受賞者は、男性と白人に偏っており、根強い女性差別および人種差別がある。
ノーベル賞は、ロボトミー手術など、現代はニセ科学扱いされているものにも授与されている。
ノーベル賞は、一般市民にもよく知れ渡っているので、ノーベル賞の受賞が見込まれる研究分野に公的資金が集中投入され、研究資金配分に歪みをもたらしている。
現代の科学研究は、ノーベルの時代とは異なり、多数の人々から構成されるチームで行われるものであり、特定の個人の功績に帰することは難しくなっている。
以上より、ノーベル賞は様々な弊害を科学にもたらしており、ただちに廃止されなければならない。」
これが現実らしいな