はてなキーワード: ロバストとは
型論争の一部。
動的型陣営と静的型陣営がそれぞれ大規模開発に向いてるとか向いてないとか言うけど、「大規模開発」って何よ?って話。
自分としていくらかのパターンがおもいつくし、それぞれ質的に異なるからごっちゃにしても話が混乱するだけだ。
お前らの言う大規模開発ってどれだよ?あともちろんこれ以外にもあれば募集。
ITゼネコンみたいな連中が行う、何万人月というコストをかけて行う開発。失敗した特許庁の開発みたいなやつだ。典型的にはワンオフ品なので、かけたコストのわりに品質は低い。fizzbuzzも書けない人すら1人月と数えられるし、そういう人が生息するのはここである。2013年現在では多分Java(かたまにScalaなど)で開発される。末端の人には自分たちの担当領域外の仕様をどうこうする権利が基本的にはない。
OS(カーネルのみの狭義のOSではなくパッケージとしての広義のOS全体)とか、あるいはモダンなブラウザみたいな、膨大な機能セットをもち、様々な環境でロバストに動く必要がある開発。膨大な機能セットの中には、膨大な後方互換のための機能(例えばブラウザであればクソみたいなレガシーHTMLでもなんとなく見せてやるような機能)や、ありとあらゆるハードウェアや言語などの細かな実行環境の組み合わせで動作するための抽象化および各環境のための固有の機能を含む。オープンソース形態で開発されることもよくあり、2013年においては多分C/C++で開発される。自分たちで仕様をコントロールする権利があったりなかったりする。
1日のPVが億オーダー以上になるようなWebサービスなど。昨今だと1日にGバイト〜Tバイトにもなるデータを解析できるシステムもセットになってることが多い。サーバの1台や2台がハードウェア的な故障してもロバストに動き続けるための機能や、そのときのリカバリが容易であること、壊れた分や単なる新規追加ののサーバの補充が容易であること、みたいや機能および設計上の工夫が求められる。人的な大規模開発や量的な大規模開発と比べると比較的少人数(数人〜数百人。数千人になるのは数えるほど)で開発される。2013年においても様々な言語で開発されていて決定打はない。自分たちで仕様をある程度コントロールする権利がある。
例えばこの方が、Haskellは大規模開発に向いていると主張されているが、おそらく人的な大規模開発には向かない。これは2013年においてHaskellを使うユーザがそれほど多くないから、というのも大きな理由だがそれだけではない。Haskellは学習コストが低いことを目指して作られた言語ではないことも極めて本質的かつ決定的な理由の一つである。(自分の思う学習コストが低いことを目指して作られた言語とは例えばJavaとPHPだ。)fizzbuzzを書けない人をHaskellを書けるまでに教育するのは、どうしたらいいのだろう?
Haskellが量的な大規模開発に向いているかどうかは(自分の無知により)よく分からない。典型的には量的な大規模開発を実現するためには、そのソフトウェアがWindowsとか各種ブラウザ並に多くの計算機上で稼働することが必須だ。そうでないと膨大な開発コストがペイできない。オープンソース的に貢献を募るとしても、量的に巨大なソフトウェアに貢献する人を一定以上集めるには、それなりのユーザベース(単に使うだけの人も含めて)が必要である。Haskellの実行環境というのは全然枯れていないが、10年前のハードウェア+OSを未だに使っている人の計算機上でもちゃんと動くのだろうか?HaskellってVMで動くんだっけ?ネイティブコードを吐くんだっけ?
著者はドイツ系アメリカ人。原著の刊行は1998年で、世界中の専門家の間に論争を巻き起こした。
本書におけるメッセージは、冒頭書き出しの1文に凝縮されている。
本書において私は、既存のヨーロッパ中心的な歴史叙述および社会理論をグローバル学的パースペクティブを用いて転覆しようと思う
「西欧=先進国、アジア=発展途上国」という、我々が慣れ親しんだ世界の図式は、たかだかここ200年程度のことに過ぎない。西欧諸国はむしろほとんどの期間を通じて世界の傍流にあった。本書において、著者はこのことを繰り返し強調する。
フランクは、まず1400~1800年の交易データを検討し、次のようなことをインプリケーションとして述べている(2章)。
最大の経済大国は中国だった。中国は絹織物、陶磁器、水銀、茶の生産などで圧倒的な輸出競争力を誇っていた(全地域に対して貿易黒字)。インドも負けてはおらず、綿織物という輸出産業があった。東南アジアも同様、香料や胡椒があった。一方で、ヨーロッパはアジアに対してほとんど何一つ輸出競争力を誇る製品をもち得なかった状態で、一貫して貿易赤字を計上していた。その結果、欧州から中国などアジア諸国への銀(貨幣)の流出が常態化していた。しかもこの銀も、もともとはアメリカ産のものを奴隷貿易でぶんどってきた物だから(当時、銀の主要産地といえばアメリカ大陸と日本ぐらいしかない)、ヨーロッパ自体は、実は世界交易について何ら価値創出に寄与しなかったともいえる。
また、大航海時代以降、海上ルートがユーラシア大陸の隊商交易にすぐさまとってかわられたという主張も、誤りとして退けられる。アフリカ周航のルートは陸上輸送とくらべて決してコストが安かったわけではなく、ポルトガルの喜望峰周りの交易も短期間しか続かなかった。(223p)
定量的には複数の歴史家の推計を引き合いに、アジア諸国の生産性の高さにも言及する。曰く「アジアは1750年において、依然として世界人口の66%未満であったが、世界総生産の80%を生産していた。つまりアジアは欧州、アフリカ、アメリカよりも生産性が高かったことが示唆される」(p305)
科学技術についても、近世以降は西欧がアジアを優越していたという”常識”を西欧中心主義の誤謬だと批判する。例えば、当時の「ハイテク産業」でもあった造船業。中国の船は、ヨーロッパよりずっと数が多く、かつ大規模で、長期り輸送が可能な代物だった(342p)。印刷業も、中国は世界のどこよりも早く木版印刷を開始し、1500年代の早くには5色刷りの技術が存在し、日本や朝鮮に技術を輸出していた。
そうにもかかわらず、「世界経済の中心国が16世紀はポルトガルで17世紀にオランダに移り18世紀にイギリスに映った」などという、まるでヨーロッパ人によって一貫して支配されていたかのような馬鹿な議論(ウォーラーステインの「近代世界システム論」])がまかり通っている。しかし「1688年に、アジア間の交易のボリュームは、いつかのインドの港からだけでも、すべてのヨーロッパ交易を合算した交易よりも10倍も大きかったのである」(p320)
であるならば、なぜ近代以降の世界経済をの主役はアジアではなくヨーロッパだったのか。この点についてフランクは6章で100ページにわたる議論を展開しているが、正直ピンとこなかった。その骨子は「アジアの景気循環的な衰退期がたまたま西欧の勃興期と重なった」というもの。まさかここで「コンドラチェフの波」を引き合いに出すとは思わなかった。これはひどい
その他、素人目に見て反射的に気になったのは4つ。
1.「一人当たり生産性が近代までアジア>西欧だった」という記述について。これの反証となるようなデータは俺でもすぐ見つかる(例えばアンガス・マディソンの推計「The World Economy」)。むしろ地域間の一人当たり生産性は、まだ優劣に決着がついていないとするのがおそらく妥当なところではないか。
2.貿易収支の考察について。1400~1800年までの2章の部分、「中国はどの国に対しても貿易黒字だった。その背景には圧倒的な輸出競争力があった」と著者は言い切っているが、ここもまた留保が必要だろう。中国の貿易保護策の影響はどうだったのか。そもそも、中国がそれだけ例外的な貿易黒字を確保していたのならば、中国のマクロ的な貯蓄率はかなり高かったといえるだろうが、その辺は、当時の中国史の中で言及はされているのだろうか。
3.フランクはまた「アメリカの豊富な銀資源を搾取してアジア世界の交易に割り込んだだけ。ヨーロッパ人自体に富の増大をもたらすようなものは何もなかった」と強調する。これも逆差別の感がある。資源や強力な輸出産業はなくてもヨーロッパ人は知恵を絞って自分のところに富を惹き寄せた、という解釈もできる。「ビジネスの仕組み」を考案した彼らの力については、それ自体十分競争優位になっている気がするがどうだろうか。
4・「オリエント」地域にあるヨーロッパの支配地域(インドにあるイギリスの所領など)を考慮にいれても2章の結果はロバストか。
5. では、近代以前のヨーロッパにおいて、オリエントに(経済力、軍事力、知識等で)負けているという認識はどれほどあったのか。NOならばそれはなぜ?YESならば、彼らはその状況をどういった風に克服しようとしたのだろうか。
ブロックを台車の上に積んでデコボコ道の上をある地点からある地点に移動するとする。この積んであるブロックが一般的にいうところの情報だ。
△ ■ ←─ □ ■■■■■■■■ ○ ○ デコボコ道^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
ブロックが経路上などでデコボコ(ノイズ)を受けると到着したときには崩れていたり途中で落ちてしまうかもしれない。それは情報が劣化したといってもいいだろう。
□ ■ ■■■■■■■■ ○ ○ △ デコボコ道^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
もちろん、伝えるべき情報が「台車がいつ来るかだけわかればいい」であるとか「台車が来たってことは送り手がいたってことだ。それがわかればいい」であれば情報の劣化・欠損はたいした問題ではない。
もしあなたがブロックの積んである順番「一番上が△、真ん中が■、下が□」や色「上から白、黒、白」を伝えたいのだとすれば、ノイズの影響を受けづらくする工夫は有用だろう。
△ ■■ ←─ □□□□ ■■■■■■■■ ○ ○ デコボコ道^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
あるいはデコボコ道には穴が開いていて台車そのものが着くかどうかも怪しいのであれば、
△ ■■ ←─ □□□□ ■■■■■■■■ ○ ○ ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ △ ■■ ←─ □□□□ ■■■■■■■■ ○ ○ ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
これらを「ブログを書くこと」に置き換えるとあなた自身の文章の書き方や、物理伝播経路(ネットワーク)ではなく論理伝播経路(RT、リファ、トラバ、リブログ)を考慮したエントリの配置の仕方/投入タイミング、ブックマークやブックマークコメントノイズに対するエントリの頑健性(ロバストネス)の確保方法などを考えて効果的にブログを書くことができるわけだ。
全然持続可能じゃないし
現に持続してるわけだが。
発展性も枯渇しつつあるし
多くのくにでは毎年経済成長してるからそれはない。
『持続可能で発展性がありロバストで、しかも大衆が頭を使わずにいられてかつ幸福を感じられる経済モデル』が必要になるわけで、そんなもんあるかというと、無いような気がする。
まさに今の社会はそういう風になってると思うけど。
その場合、いずれ解決不可能な問題にぶちあたって滅亡しちゃう気がするんだよね。
『持続可能で発展性のあるロバストな経済モデルを構築する必要がある』とかいう場合とかね。
まぁ一部のエリートが頭を強烈に使って、後は何も考えず(マトリックス的に)本人達は幸せだと思って生きる、
みたいな形式は有り得るかもしれないけど、そうすると、経済の話で言えば
『持続可能で発展性がありロバストで、しかも大衆が頭を使わずにいられてかつ幸福を感じられる経済モデル』
が必要になるわけで、そんなもんあるかというと、無いような気がする。
無論俺の頭が悪くて思いつかないだけかもしれないけど。