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2018-06-22

まらない時代が始まる

MeTooセクハラ撲滅運動性愛の炎を消していくよね。

ぼくらは動物で、身体を重ね合わせたら気持ちよくって楽しいのに、ぼくらの文明はそれを否定していく道を選んだんだね。

このまま行くと男女がプライベートなことを話すのは非常識ってなるんだろうな。

付き合ってもいないのに食事に誘うなんてふざけるな。

曖昧関係エッチを楽しむなんて言語道断

効率化とポリティカル・コレクトネス動物としての接触を捨てて、考えるだけのAIに近づいていくんだね。

 

ああ、楽しかったな。

 

プロジェクト終わりに同僚と仮眠室でエッチしたこと

既婚者の派遣さんと個室居酒屋エッチしたこと

飲み会にいた初対面のアラサーちゃんヨネスケして毛布に包まりながらエッチしたこと

インターンの女のコに階段の踊り場で口内射精したこと

 

もうできないんだな。思い出してオナニーするしかできないんだな。

これからまれてくる子どもたちは性愛の楽しみをまったく知らずに、区役所みたいなセックスしかできないんだな。

それって正しいんだけど砂漠みたいな人生だよね。

マーヴィン・ゲイが歌った性愛の輝きは、静かに消えていくんだな。

あの初対面の女のコと見つめ合ってこれからエッチするかもしれないという火花みたいな日々。

それは過去のものになって、「昔は東京でも天の川が見えたんだよ」というようなセピア色の幻想になっていくんだろう。

 

ああ、つまらない時代が始まるな。

2018-02-08

anond:20180208162420

そうだね。

あの歌は死ぬほど嫌いだが、作者の家庭環境問題とかまで言い始めるとマーヴィン・ゲイが浮かばれない。

マーヴィン・ゲイの曲は温かくて優しくて、全部好きだ。

2015-12-27

2015年セックスの振り返り

ちょっと早いけど。2014年のはhttp://anond.hatelabo.jp/20150110001952です。

  • 年上の熟女美人のA
  • twitter経由の人妻B
    • 結局、おそらく嫌われて、距離を置かれてしまった。構ってほしかったときに僕が気を使って、あるいは懐を広くとろうとして遠慮してしまい、放っといてほしかったときに構いすぎたのかも。すべて僕の勘違いかもしれないが、もう連絡は取れないので永遠の謎だ。「初代」さんより嫌われているかもしれない。本当に残念だ。
    • 彼女は「私はこれでいいの」と自分を貶めるタイプに僕には思えていて、そんな彼女を、いっとき失恋の傷から引き戻す手伝いができた気がしていて、嬉しかった。その後、ある男性の都合のいい便所女みたいなポジションに堕ちたがっているように見えた彼女に、その男性と会うためにシティホテルを取るならこうしたらいいよ、というアドバイスまでしつつ(ナナメに構えた色男ぶっていたのかな)、そんな逢引の日に晩ごはんを付き合って元気づけしたり、もっと自分を自信をもって出しなよ、とか励ましたり、ふところ広く接していたつもりだった。
    • 時に何を考えてるのか不思議なぐらい面白いことを言い出すびっくり箱のような女。さっぱりしていながら時おり見せる弱みのいじらしさ。すてきなからだ。自分では卑下するけれど、僕の好みから見たら美人毎日楽しいやりとり。そしておそらくとても良かった何回かのセックスの相性。
    • そんなうちに、本気で彼女を好きになってしまった。合計3週間ぐらいの間。自分もびっくりした。大人だから恋愛の手前ぐらいの「仲良しセフレ」で付き合うのが信条だったのに。ヤキが回ったのだろう。朝まで彼女のことを考え、真面目に好きになったと告白し、しっかり振られた。かつ、その男性のことは、決して自虐じゃなくて、ちゃんと好きなんだ、とも聞いた。であればそれは素晴らしいことだ。楽しくうまくやりなよ、とエールを送った。もろに「振られた」のはいつ以来だろう。もちろんやせ我慢もあるけど、やせ我慢すべきときがある。
    • そのあとまたご飯に行こうよ、と誘われて、じゃあ行くよ、とやりとりをしているうち、会いに来るなんて頭がおかしい、あっち行け、みたいにあしらわれて、このあたりも意味がわからなくて永遠の謎だ。こういうのは理屈じゃなくて、各自がどうしたいか、に尽きるからしょうがない。いったい自分がどう思われており、自分はどうしたらいいのか。情けないやら、気持ち悪いやら、これ以上彼女と関わると病む。僕も連絡先を消した。
    • それからしばらくして、出口と解決のない感情が折れて、2週間ぐらいの間、彼女を憎んだ。すぐ消したが、ひどいことも書いた。本当に悪いことをした。ただ、彼女には自分名前も何もかも教えてあり、つまり僕を社会的に殺せる核ミサイルボタンを渡してある。撃ちたければ撃てよ、と思っていた。いま思い返すと病んでいるなー。
    • 半年以上が経ち、いまは何かの折のきっかけに思い出す程度だ。その男性と続いているのか、他の誰かを見つけたのか、それとも婚外は卒業したのか。そのへんはわからないが、よき日々を送ってくれていると嬉しい。
    • ただ、恋愛とかセフレとかよりも、いい友達だと思っていた、そのともだちを失った残念さは、いまだにある。好きだったマーヴィン・ゲイを聴けなくなり、耳に入ると嫌な気持になる。これが「何かの折」であり、ひきづっている証拠だろう。
    • 一年後また振り返ってみよう。
  • twitter経由の人妻C
  • twitter経由の人妻D
    • スレンダー美人。2〜3年前に、彼女からの思いが(彼女にとっても)重荷になってきたのがわかって、距離をおいた。ごめんなさい。
    • ひさしぶりに連絡し、彼女も慎重に距離をはかりつつ、会いに来て、食事をし、次に会ったときに、抱いた。おそらく、Bに対してむしゃくしゃしていたものを発散したかったのだろう。ひどい話だ。ごめんなさい。
    • おそらく、彼女にとっても、僕に対して淀んでいた何かが吹っ切れたのかもしれない。互いにさっぱり連絡は切れた。これでよかったと思いたい。
  • twitter経由の専門職E
  • twitter経由の女子大生F
  • twitter経由のフリーターG
  • twitter経由の学生H
    • 知性、家庭、嗜好ともにとても特徴を持つ女の子。小柄で、美少女枠だ。お互いに、一種独特の信頼感と友人感がある。この人とは、年齢や性などをおいても、人として長くどこかでつながっていたい。
  • twitter経由の人妻J
    • 年代。いままで都合のいい女の立場しか経験がなかった。不憫。僕はこういうケースに弱いようだ。
    • 仲良しセフレ+α ぐらいにある。ややMなので、今後この扉を開けていいのか、どうするか考え中。
  • 今年のベストセックス
    • わかんない。長持ちから遅漏を超えて、逝かないことも増えたし、セックスに飽きてきているのかもしれない。

2012-01-27

村上春樹の猛々しい想像力 (1/3)

Sam Anderson

2011年10月21日

訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)

1 - 2 - 3

この夏、私は初めての日本への旅行を企てた。

村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。

ところがその目論見は外れることになる。

私は村上の作品の影響下にあるまま、東京に降り立った。

期待していたのは、バルセロナパリベルリンのような街だった。

そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ劇場文学シットコムフィルム・ノワールオペラロックといった、

西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタン世界都市を私は期待していた。

誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。

実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。

そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。

東京での初めての朝、私は村上の事務所に向かっていた。

アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、

私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。

最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、

どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。

私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。

そして蜂の巣状のガラスピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき

ついにユキという村上アシスタントに見つけてもらうことができた。

このようにして私は東京の地下の洗礼を受けたのである

まりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。

実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。

そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。

村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなた最初記憶はなにかと尋ねる。

やっと村上に会えたとき、私は彼の最初記憶について尋ねた。

それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。

彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。

流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル

そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。

「明確に覚えている」と彼は言う。

「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」

村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。

その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶自分の中にある、と感じた。

ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。

村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分記憶を写し込んでいたのだ。

村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中

週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。

それは非現実的なまでの災害の余波を受けた夏だった。

4ヶ月前に北日本を襲った津波で2万人が命を落とし、

いくつもの街が破壊され、原子力発電所メルトダウンした。

その結果、電力、公衆衛生メディア政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。

日本を代表する小説家である村上に会いに来たのは、

大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。

この本はアジアで数百万部を売り上げ、

まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。

62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学最高峰としての地位を確かなものにしている。

疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界大使となった。

そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。

村上は常に自分日本アウトサイダーだと考えている。

彼は不思議社会環境最中に生まれた。

アメリカによる戦後占領を受けた1949年京都日本の前首都である

「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。

「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。

「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。

彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、

それはそのまま彼の最初人生経験の基本構造でもある。

村上は成長するまでのほとんどを神戸郊外で過ごした。

そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である

彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説ジャズに没頭して十代を過ごした。

そうして反逆のクールさを自分ものにし、

二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブ東京で開いた。

掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、

彼は約10年間をその仕事に費やした。

作家としての村上キャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。

どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生根底から変えてしまう。

29歳の村上地元野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴヒルトンというアメリカ人助っ人バッター二塁打を打つのを見ていた。

平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上天啓に打たれた。

自分小説が書けると気づいたのである

そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。

そして彼は書いた。

試合が終わった後、書店に行きペンと紙を買って、

数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。

それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。

アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。

わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。

名犬ラッシー』、『ミッキーマウスクラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲フランス映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディランマーヴィン・ゲイエルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストックサム・ペキンパーピーターポール&マリー。

以上はごく一部に過ぎない。

そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本芸術引用がまったくない。

村上作品のこうした傾向は日本批評家をしばしば苛立たせている。

村上は『風の歌を聞け』を権威ある新人賞に応募し、受賞した。

そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。

時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。

30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。

すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。

彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。

そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。

彼は自分の事務所を監禁場所だとみなしている。

「ただし自発的な、幸せ監禁だけれど」

「集中は僕の人生もっと幸せものだ」という。

「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」

そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。

30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンルSFファンタジーリアリズムハードボイルド)と様々な文化日本アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。

どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。

時とともに村上小説は長くシリアスになる傾向が強くなった。

シットコム引用もその傾向に調和している。

そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。

低く深い声で村上たくみ英語を操る。

彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。

なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。

はいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。

特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。

安全言葉いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。

英語即興の遊びをしているように感じられたのである

私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。

その事務所は半ば冗談ながら村上製作所と名付けられている。

数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。

村上は青いハーフパンツと半袖のボタン付きシャツで現れた。

彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロンけが好きだという)。

靴は履いていない。

彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップブラックコーヒーを飲んだ。

その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からお気に入り小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。

話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。

村上純粋にびくっとしたようだった。

その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。

「大きいな」と村上は言った。

電話帳みたいだ」

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