はてなキーワード: マーク・トウェインとは
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
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こういう路線で調べていくのがよさそうか
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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
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ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
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英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
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ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
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ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
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「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
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次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
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②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
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「Heaven Cartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
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星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
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やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
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トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
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『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
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自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
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キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ
物はほとんど捨てて、パソコンと机と布団くらいしか部屋にない。
ゲームはやなくなったから、ゲーム機もゲームも全部売った。無駄な時間だからだ。
酒も飲まなくなった。無駄だな、と思ったら自然とやめられて、それ以来一滴も飲んでいない。
ブイチューバー見たり、ソシャゲやったりしてたが全部やめた。意味がない。
髪切りに行くのだるいし、髪の毛が落ちるのも嫌だからバリカンで週一で丸刈りにしてる。
清々しさはあるが、特に楽しくない。
むしろ何かに関心を持つことが少なくなったので、何のために生きているのかもわからなくなった。
仕事をして健康維持のために運動してよく眠って一汁一菜の食を取ることの繰り返し。
政治も経済も専門外だ。詳しく勉強したこともないし、新聞も読んでない。
だが、世の中を見ていてずっと気になっていたことがあるのでここで吐き出す。
投票に行かない人や、与党に票を入れる人がよく「支持できる政党や政治家がいないから」といった理由を述べているのを見かける。
これは主体的に自分たちの国の政治に関わる気がないということだろう。
投票の行為そのものは、立候補者を選ぶ方式だとしても、私たちが投票する行為は、出されたメニューを選ぶという以上の意味がある。
vote outという表現がある。投票によって選出するのではなく、その逆だ。
この場合、選出された候補者は必ずしも積極的に選ばれたわけではなく、気に入らない候補者をはじき出すための駒ともいえる。
その積み重ねが重要なはずなのに、そこに焦点が当たらないのは不思議だ。
国民の政治参加は子育てに似ている。政治家が悪いことをしたら叱り、いいことをしたらそのままにしておく。そうやって政治家は自分たちの役割を学習していく。
それが国を作っていくということだろう。
自分たちの国なのに、誰かにどうにかしてもらおうとばかり考えている人が多いように感じる。
なのに、政治に口を出すな、自分たちが日々できることをやれという輩がいる。
日々できることはするべきだ。だが、政治に口を出さないのは間違っている。
政治に口を出すこと、選挙で自分の意思を示すことは、国民として国を作っていく行為そのものだからだ。
政治家が国を作るんじゃない。
本当に本人が言ったのかどうか知らないし文脈もわからないが、マーク・トウェインの言葉として残っているものでこんなのがある。
「政治家とオムツは同じだ。すぐに汚れるからこまめに取り換えなければならない。」
汚れたら取り換える。そしてまた取り換える。これを延々と繰り返す。
自分たちの意思を示し続ける。自分たちの意思を尊重しないものに先はないと政治家に学習させる。政治家はあくまでも国民に仕えるものであって、国民が政治家に仕えているのではないということを身をもってわからせる。
自分たちの望む政治とはどんなものか、自分たちの望む国づくりとはどんなものか。
声の大きい人や組織の言うことを鵜のみにしないで、自分で考える必要がある。
メディアの伝える内容は本当に信用できるのか。報道の背景に何があるのか。
生きていくだけで精一杯の中、これだけのことに割くエネルギーなど残っていないという人も多いだろう。そのとおり、生活が苦しければ苦しいほど、冷静に深く考える時間もエネルギーもなくなってしまう。だが、そういう時間とエネルギーを奪っているのが今の為政者だし、今の為政者をのさばらせたのは私たち国民だ。
これは「ズルい大人」だ。
増田の主張する『露骨な性表現を伴うメディアに接触する機会が多い青少年は、セックスする確率が高く、またその年齢も低くなる傾向にある。
さらに、肛門性交やアルコール、ドラッグを伴う危険な性行為、性行為の強要なんかも増える。』
『因果関係を証明していない』という点だ。(少なくとも、増田が言及している範囲では。)
この主張だけ読むとまるで「そういうメディアに接触する機会が多かったせいで、危険な性行為や強要が増える」ように感じられるだろうが、
普通に考えれば「元からそういう事をしたがるような子だから、そういうメディアを好んでいる」とも捉えられる。
そのため、メディアが悪いかどうかは、少なくとも増田が言及した内容からは判断できない。
もう一点気を付けなければならない事がある。
それは、『肛門性交やアルコール、ドラッグを伴う危険な性行為、性行為の強要』をするような子というのはどういう子か、という点だ。
端的に言って不良や犯罪者だよねそれ。(肛門性交は同性愛者にとっては別にアブノーマルな行為ではないので、他と混ぜてはいけないと思うので除外するけど。)
当たり前だが、普通に生きてれば、知識以前の問題として、モラルがあるからそういう事はしない。
モラルより自己の欲望を優先して相手が傷つく事など気にしない、むしろ快感を覚えるような子だからそういう危険行為をするのだ。
じゃあ、そういう子にとって『露骨な性表現を伴うメディア』とは何だろうか?
単なる消耗品であり、なんなら悪さをアピールするためのアクセサリーの一つだろう。
ゾーニングされてるのに読むのではない。ゾーニングされているから、手に入れるのが一つの主張になるのだ。
まあ、今となってはポルノの一つや二つ見てたら何だというレベルの話ではあるが、
少なくとも「見た事ない」などとは彼らは言えないだろう。なぜなら見ないのは良い子ちゃんだから。
下手すりゃ、「眉をひそめられるような行為だから」危険行為をする事でマッチョイズムを満たすまであるだろう。
そういう人にはゾーニングは意味ないどころか、煽る方向に作用する可能性すらある。
もし本当に『露骨な性表現を伴うメディアに接触する機会が多い「せいで」危険な性行為が増える』という事を立証するなら、
同じ文化圏かつ、同じ程度の治安・教育レベルの地域同士で、ゾーニングをした場合としなかった場合で比較する必要がある。
ついでに、仮にそういった子達がポルノに触れなかった事で危険な性行為をしなかったとして、なんらか状況が良いと言えるのかの問題がある。ナイフとか拳銃とか使った悪い事が増えるのなら、改善とは言えないだろう。
個人的には、露骨なポルノ見て危険な性行為に走るような子が本当にいるなら、ラブドールでも相手してくれた方が安全な気がするけどね。
マーク・トウェインは『世の中には3種類の嘘がある。 嘘、大嘘、そして統計』という言葉を紹介したそうだ。
こういうズルい大人には騙されないようにしよう。
作家のマーク・トゥエインは、禁煙について書いてはいるが、このジョークを言ったというたしかな証拠はない。
コメディアンのW. C.フィールズは、1938年に「禁酒講義」というラジオ番組で、「禁煙」ではなく、「禁酒」バージョンのギャグを言っている。だが、禁酒バージョンのギャグは、これよりも前にすでに広まっていた。
最も早い事例は、1907年に、ハリス・ディクソンによって書かれた“Duke of Devil-May-Care”というタイトルの小説である。その小説には「ポーカーをやめるなんて簡単なことさ。俺はゲームが終わるたびに、1000回以上もやめているぜ」みたいなセリフがあるという。
マーク・トウェインと禁煙ジョークの関連を調べてみると、1914年に、友人のエリザベス・ウォレスという人に、禁煙をしたいという手紙を書いたらしく、そのときの手紙が「マーク・トウェインと幸せの島」というタイトルの短い伝記に書かれているが、ここで書かれているユーモアは、例の「名言」とは異なるものである。
禁酒法がまだ行われている間の1929年に、ネブラスカのオマハ・ワールド・ヘラルドという人が書いている。「ハリーは酒をやめると言うが、笑わせるぜ。酒をやめられないことなんてないぜ。なぜなら俺自身、もう100回以上も禁酒しているからな。酒をやめられるかやめられないか、これでわかるだろう」
1932年に、鉄道が刊行している“Norfolk and Western Magazine”という雑誌には、禁煙についてのジョークがある。
「車掌のキャンベルは、たばこをやめたと言った。スチュワートは言った。「たばこをやめるのは簡単だよ。私は少なくとも100回はやめているからね」」
1935年の“The American Legion Monthly”の中に、酒でトラブルを起こす製材所の従業員を、主任が解雇させようとしたという、やや長いジョークがある。
「じゃあ何で私が解雇されなきゃならないんです?」
「仕事中に酒ばかり飲んでるじゃないか。そんなことでは、人も殺しかねないぞ」
「それならわかりました。なに、お酒をやめるなんて簡単なことです。実際私は、この10年で1000回以上もやめてきましたから」
1936年の“The Southwestern Sheep & Goat Raiser”という雑誌に、いま知られているジョークと非常に近いバージョンのジョークがある。
先日、友人の一人が私たちに、禁酒なんて簡単なことだと言った。「私はもう1000回もしているからね」
1938年、W. C.フィールドは、「禁酒講義」というラジオの中で、こんなジョークを言っている。
禁酒できないなんて言わないで。簡単なことさ。俺はもう1000回もしている。
1938年10月に発行された“Scribner's Magazine”では、「私、たばこやめます」という記事を発表した。
ある若者が、医者から禁煙するよう命じられたが、それができないと不平を言ったところ、年をとったテキサス州民がパイプを一服しながら答えた。「禁煙なんて世界で最も簡単なことさ。俺はもう1000回もしている」
マーク・トゥエインと禁煙ジョークとの関係が最も早く表れるのが、1938年12月の“Journal of the American Medical Association”.である。彼が1910年になくなってからだいぶ後のものだが、この中に「マーク・トウェインは、これまでしてきた中で禁煙が最も簡単なことだ、なぜなら1000回もしてきたからだと言った」とある。つまり、マーク・トゥエインと禁煙ジョークは、彼の死後になって結びつけられたのである。
1941年に、カリフォルニアの新聞のコラムニストに、酒飲みが理由で解雇された人のギャグがある。
「あなた、酒飲んでるでしょう。仕事中に飲酒すれば、人を傷つけたり殺したりしかねません」
「わかりました。ではお酒をやめます。お酒をやめるなんて簡単ですよ。実際私は、この2,3年で少なくとも1000回はやめましたから」
これは、先の1935年の製材所の従業員が解雇されたときの話とまったく同じである。
1945年のリーダース・ダイジェストで、マーク・トゥエインの名言として、「禁煙は、私がこれまでしてきた中で最も簡単なことだ。なぜなら1000回もしてきたからである」が掲載されている。
http://anond.hatelabo.jp/20160904033715
選定基準は
・読みやすい
・有名で、他の本や映画に出てきがち
ド名作。読んでおくと伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』がもっと楽しい。
早く来てくれオーバーロード。
③永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編カント(訳:中山元)
「本邦初訳」作品。古典新訳文庫ならでは。イタリアっぽいユーモア。
エログロ。
『藤野先生』も『狂人日記』も入っていてお得。訳者の村上春樹と中国の関係についての研究も面白い。
誤訳が多いらしいが、すごく読みやすかった。他の訳では通読できなかったと思う。
訳者は元国際プラトン学会会長(2007~2010年)で、解説の量がすごい。
読んでおくと、あの映画とかあのミステリーとかのネタ元なので捗るはず。
⑩闇の奥 コンラッド(訳:黒原敏行)
『地獄の黙示録』の原作。個人的には「叡山の僧兵の大将」中野好夫の訳より好き。
―――
①グレート・ギャッツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)フィッツジェラルド
村上春樹の訳が好き。
『英文の読み方(岩波新書)』など、英語の読み方の著作に定評のある行方昭夫の訳で。
野村萬斎が自ら演ずるために、河合祥一郎に新訳を依頼しただけあってとても読みやすい。
『月下の一群』の堀口大學の訳で。
⑨カフカ-ポケットマスターピース-01-集英社文庫ヘリテージシリーズ
小説家の多和田葉子の訳で。『変身』は先に別の訳を読んでおいた方が新鮮かも。
⑩マーク・トウェイン-ポケットマスターピース-06-集英社文庫ヘリテージシリーズ
はてな民ならハックルベリーは読んでおきたい。柴田元幸の訳で。
―――
『超権威主義的世界文学百選』http://togetter.com/li/138734というランキングを見て、面白いと思いながらも疑問に思ったことがあって、「20世紀の小説ばっかりじゃん!!」ということで19世紀の小説を重視したランキングを作成してみました。具体的には近代文学の始まり「ドン・キホーテ」(1605,1615)からモダニズムの始まりである「ユリシーズ」(1922)までです。つまり近代文学のモダニズム以前、ということになります。小説を選ぶうえで参考になればと。あと、あくまで個人的な基準に過ぎないことを留意してもらえればと。
1.「ドン・キホーテ」(1605,1615) ミゲル・デ・セルバンテス
2.「ガリヴァー旅行記」(1726) ジョナサン・スウィフト
3.「トム・ジョーンズ」(1749) ヘンリー・フィールディング
4.「紅楼夢」(18世紀中頃) 曹雪芹
5.「トリストラム・シャンディ」(1759~1767) ローレンス・スターン
7.「高慢と偏見」(1813) ジェーン・オースティン
8.「黄金の壺」(1814) E.T.A.ホフマン
10.「いいなづけ」(1825) アレッサンドロ・マンゾーニ
11.「赤と黒」(1830) スタンダール
13.「アッシャー家の崩壊」(1839) エドガー・アラン・ポー
15.「虚栄の市」(1848) ウィリアム・メイクピース・サッカレー
16.「緋文字」(1850) ナサニエル・ホーソーン
17.「デイビッド・コパフィールド」(1850) チャールズ・ディケンズ
18.「白鯨」(1851) ハーマン・メルヴィル
19.「死せる魂」(1855) ニコライ・ゴーゴリ
20.「オーレリア」(1855) ジェラール・ド・ネルヴァル
21.「ボヴァリー夫人」(1857) ギュスターブ・フロベール
22.「晩夏」(1857) アーダルベルト・シュティフター
25.「ミドルマーチ」(1872) ジョージ・エリオット
29.「ブラス・クーバスの死後の回想」(1881) マシャード・デ・アシス
30.「さかしま」(1884) ジョリス=カルル・ユイスマンス
31.「ハックルベリー・フィンの冒険」(1885) マーク・トウェイン
32.「飢え」(1890) クヌート・ハムスン
33.「クォ・ヴァディス」(1895) ヘンリク・シェンキェヴィッチ
36.「シスター・キャリー」(1900) セオドラ・ドライサー
37.「ロード・ジム」(1900) ジョゼフ・コンラッド
38.「ブッデンブロークス家の人々」(1901) トーマス・マン
39.「超男性」(1901) アルフレッド・ジャリ
40.「チャンドス卿の手紙」(1902) フーゴ・フォン・ホーフマンスタール
41.「鳩の翼」(1903) ヘンリー・ジェイムズ
42.「一万一千本の鞭」(1907) ギヨーム・アポリネーム
44.「ハワーズ・エンド」(1910) E.M.フォースター
45.「ペテルブルク」(1913) アンドレイ・ベールイ
46.「変身」(1915) フランツ・カフカ
47.「明暗」(1916) 夏目漱石
48.「ワインズバーグ・オハイオ」(1919) シャーウッド・アンダーソン
49.「われら」(1921) エヴゲーニイ・ザミャーチン
EFFのこの記事をざっくり訳した。訳の正確さはまったく保証しない。素人の雑な訳です。ちゃんと読みたいひとは原文参照すること。pseudonymはとりあえず「仮名」にした。
A Case for Pseudonyms (Commentary by Jillian York)
https://www.eff.org/deeplinks/2011/07/case-pseudonyms
pseudonym (スードニム) 名詞:著者が身元を隠すために使用する架空の名前。ペンネーム
個人が生来の名前とは別の名前を使いたいと考える理由は無数にあるだろう。生命や生活への脅威への配慮もあるだろうし、政治的、経済的報復へのリスクがあるかもしれない。人種差別の防止を望んでいることもあるだろうし、生活文化圏で発音や記述のしやすい名前を使うこともあるだろう。
オンラインではさらに理由は増える。インターネットカルチャーでは、オフラインでの人格と結びついているかもしれないし結びついていないかもしれない「ハンドル」や「ユーザ名」を使うことが長い間推奨されてきた。古くからのオンライン住人のなかには20年以上使っているハンドルを持つものもいるだろう。
仮名での発言は歴史的にも重要な役割を果たしてきた。ジョージ・エリオットやマーク・トウェインの文学的偉業、ザ・フェデラリスト論文でのパブリアスの政治的主張、18世紀ロンドンでのユニウスのパブリックアドバタイザー紙への寄稿。人々は仮名の下で公の論議に大きく寄与してきたし、今日に至るまでそれは続いている。
Google+の身元確認ポリシーから、オンラインプラットフォームにおける仮名性に関する新たな議論が持ち上がってきた。Google+はユーザに「友人、家族、同僚が普段呼ぶ名前」を使うことを要求する。このポリシーは、Facebookの「本名と実情報を提供せよ」という要求と似ている。Googleのポリシーは、Google+の開始から数週間で同コミュニティーの内外両方から大きな注目を集め、ソーシャルプラットフォームがアイデンティティに制限を加えるべきかどうかという議論に火をつけている。「Skud」という名前を使っていたことによりGoogle+から追い出された元Google社員、キリリー・“Skud”・ロバートの詳細な記録によれば、すでにかなりの人数のGoogle+ユーザがこのポリシーに基づくアカウント停止を受けている。
ソーシャルプラットフォームでの「実名」支持者は多くの論点を示している。実名はユーザの行動を改善し、より文化的な環境を生み出す。実名であれば攻撃者を追求することが容易になるのでストーキングや嫌がらせを防ぐ助けになる。実名ポリシーがあることで、ユーザ監視のために当局がサービス内部に「侵入する」ことを防げる。実名によってユーザは行動に責任を持つようになる。
これらの論点にまったく意味がないわけではないが、問題を間違った方向から議論している。厳格な実名ポリシーの支持者は、実名使用を主張するポリシーに良い面が一つあることを示せばいいのではない。彼らはこれらの利点が、いくつかの非常に深刻な問題より重要であることを実証する義務がある。
例えば、数千人の人々が1月蜂起に参加するきっかけになったFacebookページ「We Are All Khaled Said」を作成した著名なエジプト人、ワエル・ゴニム氏のことを考えてみよう。ページが作成されたのはハリド・サイードが警官によって殺害されてからすぐの2010年夏だったが、ページが本当に勢いを得たのはその年の後半だった。しかしその後も抗議運動の中で存在感を得るのは難しかった可能性もある。2010年11月に管理者(今ではゴニム氏だと知られている)が仮名を使っているとの報告によってこのFacebookページは停止された。Facebookは「身元の明らかな」人物が介入することによる解決を提供することができたが、ゴニム氏はFacebookのスタッフと連絡をとって解決することができたためこの件は非常に特殊な事例となった。誰もがこのようなコネクションを持っているわけではないし、アカウント停止に抗議する方法を知らないことでどれだけ多くの人々が無視されているか知るすべもない。ゴニム氏のケースでは実名を使うことは深刻な危険を伴っていた。仮名であれば安全という保証があるわけではないが、仮名は当局による活動家の追跡を大きく困難にする。
個人が本名以外の名前の方が安全に感じられる理由は無数にある。例えばLGBTコミュニティのティーンエイジャーはオンラインでいつも嫌がらせを受けるので仮名を好むかもしれない。政府のために働く配偶者やパートナーを持つ人や生活を隠したい有名人は、オンラインでは別の名前で行動するほうが安心だと感じるかもしれない。家庭内暴力から逃れている人は加害者から発見されないために、部分的または全面的な別名の使用を望むかもしれない。非主流派の政治的見解をもつ人は仮名を使うことによって生活を危険にさらさずに済ますことを選択するかもしれない。
マッキンタイア対オハイオ選挙委員会の裁判でジョン・ポール・スティーブンス最高裁判事が提案したとおり、
「匿名性は多数派による暴虐からの盾である。よって匿名性は権利章典、また特に米国憲法修正第一項の本来の目的、不寛容な社会において個人を報復から思想を抑圧から守ること、を体現している。匿名である権利は詐欺的行為に悪用されるかもしれない。政治発言はその性質上、時として不愉快な結末を迎えるが、一般的に我々の社会は言論の自由の悪用による危険よりもその価値に重きを認める」
「本当の」名前を使うことと同様に、「本当の」名前の使用の強制も、考えを明らかにすることによる被害を恐れる人々によって対話から排除されるという、現実的な結果を招く可能性がある。実名が対話の「文化度」を上げるかもしれないことに価値を見出す人がいる一方で、それは間違いなく多様性を損なう。
ギークフェミニズムのブロガーたちは、実名ポリシーの被害にあっている人々をWikiにまとめることで、個人がなぜ本名以外の名前の使用を許されるべきなのか何百もの可能性ある理由を示している。このリストに示された多くの例が安全のために仮名を使用している危険に晒された人々を説明しているものの、他にも仮名を選択できるべき重要な理由がある。
Michael Anti氏の例を見てみよう。彼の本名はJing Zhaoで、中国人ジャーナリストだ。おそらくは何者かが生来の名前を使っていないと報告したことによって、2011年1月に彼はFacebookから追い出された。10年近くニューヨーク・タイムズ等で「Michael Anti」のペンネームを使っていたにも関わらず、Facebookは実名ポリシーの厳格な強制を主張した。
Google+でも、誤判定があるとして、アカウントの即時停止ではなく、ユーザに警告を与え名前を変更する機会を与えるように処理手順を変更すべきだと促す動きがでている。
「本当の」名前を要求するポリシーを大規模に実施するのはほぼ不可能だし、多くの例が示すように強制は著名人や敵を持つ人々に対して不当に使われることが多く、またそれはコミュニティ監視機構の結果として生み出されやすい。
GoogleであれFacebookであれ、その他の企業であれサービスに適合していると思われるポリシーを作成する権利がある。しかしこれらの企業が多様性や表現の自由を犠牲にしておきながら、「実名」ポリシーがより文化的な態度を生むと主張するのは浅はかだ。「本当の」名前を要求するポリシーへの移行はオンラインでの表現の自由を萎縮させるだろう。
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隣人の語ること、行うこと、考えることを気にかけないもの。アウレリウス
腹六分のつきあい 膝の上に上がるから頭をなでてやったら、いい気になって肩まで登ってくる奴がいる。それを放っておくと今度は頭まで登って、顔まで舐めだす奴がいる。俺はそういう奴が大嫌いなんだ。
浴場での出来事、つまり湯をはねかける者、押す者、罵る者、盗む者
朝起きたら自分にこう言い聞かせる。おせっかい、恩知らず、威張りやさん、裏切り者、やきもち焼き、社会性のないやつ、こういう連中を避けて通ることはできない。
コミュニケーションにおける最大の問題はそれが達成されたという幻想
自己向上
自己の向上を心がけている者は、喧嘩などする暇がないはずだ。
勉強する事は自分の無知を徐々に発見していく事である。デュラント
なぜ怒鳴りつけたのでしょうか? - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
あいつは人生のどっかで人を怒鳴るってことを覚えちまったんだな
無力と放棄態度を、スカタン上司に調教され、そして再び以下ループ、か。
「あなたのためを思って」と言う人に対しては、まず、
「自分のために生きてください」と、言葉を返していきましょう。
あなたを大切にしない人のことを、あなたが大切にする必要はない
自分を大切にすることだ。
自分を大切な人間だと思えば、自分の感情を他人の意のままにされることなど決してありえない。
だから他人を許すのは、他人の意のままにならないための手段なのである。
ウエイン・W. ダイアー
結局ものすごい憎しみがあると、自分がいちばん辛いんで。そっから脱出するには、相手を許すしかない。敵を許すしかないんだという結論に彼は達して。それで救われるんですね。
Amazon.co.jp:ゆるすということ―もう、過去にはとらわれない
『本当に偉いということの証拠は、殴られても気にしないという態度である。
たとえば、犬どもの吠え立てる方をゆっくりと見返す大きな野獣のごときである。
打ち寄せた波が当たっては空しく砕ける巨大な岩礁のごときである。
怒らない人は被害に動ずることなく、しっかりと立ち続ける。
怒っている人は動かされているのだ。』
セネカ 怒りについて
堅い岩が風に揺るがないように、
賢い人はそしられてもほめられても心を動かさない。
おのれに勝つのは、戦場で千万の敵に勝つよりもすぐれた勝利である。
BUDDHA
[権内][権外][分限自覚][エピクテートス]意志の力でどうにもならない物事
「過去と他人は変えられない」―コミュニケーションの大原則 | 内田 眞 | 本 | Amazon.co.jp
あるとき、ある男が、人に挨拶をしたら、挨拶を返さなかったというので
腹を立てていると、彼は言った、
「笑うべきことだよ、君は身体の悪い人間に出逢っても別に腹を立てないのに、
心が粗野にできている人間に出合ったというので、憤慨するというのは。」
「人が君の身体を行き当りばったりの人に任せるならば、君は立腹するだろう。
だが君は君自身の心を出会う人に、
--もしその人が悪口するならば、それで君が悩まされ、動揺させられるように任せるのを恥じないか。」
ブッダは黙って耳を傾けていたが、
相手が話し終えると次のように尋ねた。
その贈り物はだれのものになるのか」
「そうか」ブッダは言った。
自分のためにとっておきなさい!」
[ロバ売りの親子][粉屋と息子とロバ]粉挽きとその息子と驢馬
完全に我々の力の範囲内にあるものは我々の思想しかない。デカルト
ラインホールド・ニーバーの祈り The Serenity Prayer
[権内][権外][分限自覚][エピクテートス]意志の力でどうにもならない物事
[語録][エピクテトス][エピクテートス][Enchiridion][Epictetus]
正しいと信じている事をすればよろしい。批判を逃れる事はできない。
あなたを大切にしない人のことを、あなたが大切にする必要はない
しつけとは、他人のことをどれほど考えていないかを隠すことである。
[語録][エピクテトス][エピクテートス][Enchiridion][Epictetus]
なぜ怒鳴りつけたのでしょうか? - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
あいつは人生のどっかで人を怒鳴るってことを覚えちまったんだな
無力と放棄態度を、スカタン上司に調教され、そして再び以下ループ、か。
「『空気より重い空飛ぶ機械』は不可能だ。」ロード・ケビン、英国学士院総裁
「ギターバンドはもう流行らない」と言われて、大手レコード会社デッカのオーディションに落ちたビートルズ
しつけとは、他人のことをどれほど考えていないかを隠すことである。
[ホトトギス][不如帰][時鳥][織田信長][豊臣秀吉][徳川家康][上司]
[ロバ売りの親子][粉屋と息子とロバ]粉挽きとその息子と驢馬
[権内][権外][分限自覚][エピクテートス]意志の力でどうにもならない物事
[人間(じんかん)距離][車間距離]人間関係には距離をおけ!
[biz]中ぐらいの勝利で満足する者は、常に勝者でありつづけるだろう。
SOFREEE-LIBRARY フリー電子図書館『自省録』 第2章 マルクス・アウレリーウス
あらゆる物事を見聞し、
詩人のいうとおり「地の深みを極め」*、
他の人の心の中を探ろうとしておきながら、
その真実に仕えなければならないことを自覚しない奴のことだ。
隣人の語ること、行うこと、考えることを気にかけないものは、どれだけ多くの利益を受けることだろうか
自省録 マルクス・アウレリウス
公益目的でなければ、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな
[biz]中ぐらいの勝利で満足する者は、常に勝者でありつづけるだろう。
本当の幸せは内側からもたらされる。 誰もあなたを幸せにすることは
私たちは「一日に平均二回」の嘘をつく(ヴァージニア大学調べ)
常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう
他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちている
「人間の性は、本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾であるが故に、私は人間を根本的に信用しない」
浴場での出来事、つまり湯をはねかける者、押す者、罵る者、盗む者
朝起きたら自分にこう言い聞かせる。おせっかい、恩知らず、威張りやさん、裏切り者、やきもち焼き、社会性のないやつ、こういう連中を避けて通ることはできない。
人々が自分に調和してくれるように望むのは非常に愚かだ。ゲーテ
他人をあてにしてはならない。それは期待するほうがまちがっている。
[ロバ売りの親子][粉屋と息子とロバ]粉挽きとその息子と驢馬
【慧眼】世の中の人々の一〇人中七、八人は小人なのだ。西郷隆盛
人間はみな気狂いだと気付いたとたん、人生の不思議は消えて自明になる。
他人をあざける者は他人にあざけられることを恐れるものである。
「自分の無知」を盾にして、「知ったかぶりをする相手の無知をさらけ出す」
その論理を極限まで押し進めることによって
【処世術】馬鹿のように見せかけ、利口に活動すること【処世訓】
自己の向上を心掛ける。喧嘩などする暇がないはずだ。リンカーン
あるとき、ある男が、人に挨拶をしたら、挨拶を返さなかったというので
腹を立てていると、彼は言った、
「笑うべきことだよ、君は身体の悪い人間に出逢っても別に腹を立てないのに、
心が粗野にできている人間に出合ったというので、憤慨するというのは。」
なぜ私が彼らにそこまで侮辱されて怒らないのかだって?
君は犬や羊に足を踏まれたからといって、逆上し気が違ったように激怒するのかね?
それに人が乗っていれば腹が立つが、
無人の舟であれば怒る気持ちはなくなる。
荘子 外編 第二十 山木編 虚舟
ブッダは黙って耳を傾けていたが、
相手が話し終えると次のように尋ねた。
その贈り物はだれのものになるのか」
「そうか」ブッダは言った。
自分のためにとっておきなさい!」
「人が君の身体を行き当りばったりの人に任せるならば、君は立腹するだろう。
だが君は君自身の心を出会う人に、
--もしその人が悪口するならば、それで君が悩まされ、動揺させられるように任せるのを恥じないか。」
あなたを怒らすことができる人は誰でもあなたの主人となる。エピクテートス
人はあなたがその人に秩序を乱されることを許す時に限って、
浴場での出来事、つまり湯をはねかける者、押す者、罵る者、盗む者
君が何か仕事に携わろうとする時、その仕事がどのようなものであるかを君自身に思い出すがいい。
もし入浴しようとして出かけるならば、浴場での出来事、つまり湯をはねかける者、押す者、罵る者、盗む者、等々を思い浮かべるがいい。
そうしてこのようにしてもし君がすぐさま「わたしは入浴したい、しかもわたしの意志を自然本性にかなっているように保持したいのだ」というならば、
君はより安全に事に携わることになるだろう。
どの仕事の場合でも同様である。というのはかくてもし入浴に対して何か妨げが生ずるならば、
「わたしは入浴だけでなく、わたし自身の意志を自然本性にかなっているように保持しようとしたのである、
人を非難することが、どんなに人生をむなしくダメにしているかがよくわかるだろう。
人を許すことは、非難しておこるマイナスを超越する手段なのだ。
人を非難しないで、人生の責任をとろうとすると、大変な自制心がいる。
それには自分を大切にすることだ。
自分を大切な人間だと思えば、自分の感情を他人の意のままにされることなど決してありえない。
だから他人を許すのは、他人の意のままにならないための手段なのである。
ウエイン・W. ダイアー
「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありえようか」
「ありえない」と答えるだろう。それならば、ありえぬことを求めるな。
自省録 マルクス・アウレリウス
隣人の語ること、行うこと、考えることを気にかけないものは、どれだけ多くの利益を受けることだろうか
自省録 マルクス・アウレリウス
公益を目的とするのでないかぎり、
他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな。
なぜならばそうすることによって
君は他の仕事をする機会を失うのだ。
すなわち、だれそれはなにをしているだろう、とか、なぜとか、なにをして、なにを考え、なにを企んでいるかとか、
こんなことがみな君を呆然とさせ、
自己のうちなる指導理性を注意深く見守る妨げとなるのだ。
どんな馬鹿でも、あらを探したり、難癖をつけたり、苦情を言ったりできる・・・
そしてたいていの馬鹿がそれをやる。
心にもない言葉よりも、
沈黙のほうが、
むしろどのくらい社交性を損なわないかもしれない。
自分の行いが馬鹿げている人に限って、
真っ先に他人を中傷する。
ジョージ・ワシントン 米国初代大統領
沈黙を守ってバカではないかと思われる方が、
あれこれ喋ってその疑惑を晴らすよりましだ。
アフガニスタンの諺
相手を黙らせたからといって、相手の意見を変えさせたわけではない。
相手を黙らせたからといって、その人を説得できたわけではない。
ジョン・モーリー
徳高き者に茨(いばら)の道は付き物と心得ております。
それよりも、意地の悪い者どもにかれこれ言われるからといって、
やるべきことをやめてしまってはなりますまい。
そんな連中は、立派な船と見れば卑しい大口を開けて、
落ちて来もしない餌(えさ)をうろうろ待っている鱶(ふか)のようなものです。
人がどんなに善い事をしても、心がゆがみ目がかすんだ者の口を通せば、
手柄はよそに移ったり、消えてしまったりしがちなものです。
逆に愚かな行いが、自分たちの尺度にぴったりなので、
最高の業績などとほめられたりいたします。
それに人が乗っていれば腹が立つが、
無人の舟であれば怒る気持ちはなくなる。
荘子 外編 第二十 山木編 虚舟
くだらない質問には答えぬがよい。
ろくな答えのできないものには、問いかけぬがよい。
くだらない話には耳をかさぬがよい。
あげ足をとるような相手とは議論せぬがよい。
道をふんで訪れるものとだけ交際して、礼儀しらずは相手にせぬことだ。
荀子
人間はみな気狂いだと気づいたとたん、
「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありえようか」
「ありえない」と答えるだろう。それならば、ありえぬことを求めるな。
自省録 マルクス・アウレリウス
どんな人でも、もしまことに自分を愛するならば、
人はそれぞれの尊い心を守らなければならない。
BUDDHA
堅い岩が風に揺るがないように、
賢い人はそしられてもほめられても心を動かさない。
おのれに勝つのは、戦場で千万の敵に勝つよりもすぐれた勝利である。
BUDDHA
漫述 佐久間象山
謗(そし)る者は汝の謗るに任せ
嗤(わら)う者は汝の嗤うに任す
天公(てんこう)本(もと)我を知る
他人の知るを求めず
議論したり反駁したりしているうちには、相手に勝つようなこともあるだろう。
竜馬は議論しない。
してはならぬといいきかせている。
もし議論に勝ったとせよ、
負けたあと持つのは負けた恨みだけである
われわれは喧嘩口論に近付いてはならぬ。
これらのことからは足を遠ざけねばならない。
無知な人々のするこのようなことは、何にせよ無視されねばならない
(このようなことは無知な人でなければすることは出来ない)。
そして
大衆がする尊敬と侮辱とは、どのみち大同小異と見なされねばならぬ。
われわれはこちら〔侮辱〕に腹を立ててもいけないし、あちら〔尊敬〕を喜んでもいけない。
そうしなければ、われわれは軽蔑への恐怖または嫌悪のために、多くの必要なことを止めることになろう。
また、何か気に染まぬことを聞くのではないかという女のような心配がわれわれを締め付ける限り、
公的にせよ私的にせよ、もろもろの義務をあえて遂行しようとはしないであろう
また、時にはわれわれは有力者に憤慨して、自分の感情を勝手自由にむき出す。
しかし、自由とは何事にも我慢しない、ということではない。
われわれは誤っている。
心の喜びが流れ出る唯一の源たらしめ、
それは結局は、
世間一般の嘲笑や、同じく世間一般の評判を恐れて、
なぜというに、
世間の誰か一人が軽蔑を行なうことが出来るならば、
教養のない人は小理屈をこね、
あらさがしをして得意がる。
あらを見つけるのはたやすいが、
できはじめの教養はきまってあらさがしをはじめるが、
できあがった教養はどんなものの中にも積極的なものを見る。
自分の心の中で正しいと信じていることをすればよろしい。
しても悪口をいわれ、
しなくても悪口を言われる。
どちらにしても批判を逃れることはできない。
中傷誹謗に対する最善の返答、それは黙々と自己の義務を守ることである。
ジョージ・ワシントン
隣人の語ること、行うこと、考えることを気にかけないものは、どれだけ多くの利益を受けることだろうか
自省録 マルクス・アウレリウス
他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな。
自省録 マルクス・アウレリウス
小事省事
韓信が若い頃、町で無頼の青年に辱められ相手の股をくぐったが、のちに大をなしたという故事。大志のある者は目前の小事には忍耐して争わないというたとえ。
もしもこの者が善に化せられたならば恐らく彼が役立つと思われる他人をも、
ことごとく台無しにすることになるが、それとちょうど逆に、
自己のために良く尽くす者は誰でも、
他人のために将来役立つものを用意するという、
正にそのことによって他人に役立つことになる。
単純な人はそれを賞賛し、
ただ賢い人はそれを利用する。
着眼大局、着手小局。
プラトン 法律
自己の向上を心がけている者は、喧嘩などする暇がないはずだ。
おまけに、喧嘩の結果、不機嫌になったり自制心を失ったりすることを思えば、
いよいよ喧嘩はできなくなる。
こちらに五分の理しかない場合には、どんなに重要なことでも、相手に譲るべきだ。
こちらに十分理があると思われる場合でも、小さいことなら、譲ったほうがいい。
細道で犬に出会ったら、権利を主張して噛みつかれるよりも、
犬に道を譲ったほうが賢明だ。
たとえ犬を殺したとて、噛まれた傷は治らない。
小人(しょうじん)と仇讐(きゅうしゅう)することを休(や)めよ、
小人はおのずから対頭(たいとう)あり、
君子 (くんし)に諂媚(てんび)することを休(や)めよ、
君子(くんし)はもとより私恵(しけい)なし
貴方を悩ませたり、悪口を言う人にも、平静な心で注意を向けなさい。
きっと貴方にとって得るところがあるはずです。
『本当に偉いということの証拠は、殴られても気にしないという態度である。
たとえば、犬どもの吠え立てる方をゆっくりと見返す大きな野獣のごときである。
打ち寄せた波が当たっては空しく砕ける巨大な岩礁のごときである。
怒らない人は被害に動ずることなく、しっかりと立ち続ける。
怒っている人は動かされているのだ。』
セネカ 怒りについて
人を悩ませるのは、事柄そのものではなくて、