はてなキーワード: マキャベリズムとは
荒らしは、反応を得るために嘘をついたり、誇張したり、気分を害したりする。
インターネット荒らしは恐ろしい人々であるという、誰もが思っていたことを裏付ける研究はいくつかある。
まずは定義を正しく理解することから。インターネットトロール(or インターネット荒らし)とは、ディスカッションに参加し、会話を混乱させたりすることを目的としたコメントを投稿する人のことです。実際、彼らのコメントの背後には、関係者全員を動揺させること以外に本当の目的がないように見えることがよくあります。荒らしは、反応を得るために嘘をついたり、誇張したり、気分を害したりします。
いったいどんな人がこんなことをするのでしょうか? → 研究: インターネット荒らしとダークテトラッドの性格特性
1,200 人以上を対象に 2 つのオンライン調査を実施し、各被験者の性格テストとインターネットのコメント行動に関するアンケートを実施。荒らしと人格特性の「ダークテトラッド」、つまりナルシシズム、マキャベリズム、サイコパス、およびサディズムを関連付ける証拠を探していた。荒らし行為がお気に入りのインターネット活動であると答えた人々の間で、ダーク テトラッド スコアが最も高かったことを発見。
「サディズムと GAIT (インターネット トローリングの世界的評価) スコアとの関連性が非常に強かったため、オンライントロールは典型的な日常的サディストであると言えるかもしれません。」
トロールはみんなの気分悪くさせるのを本当に楽しんでいる。「トロールもサディストも、他人の苦しみにサディスティックな歓喜を感じます。サディストはただ楽しみたいだけです…そしてインターネットは彼らの遊び場なのです!」
オンラインでトロールに遭遇したときは、次のことを思い出してください。
"トロールは本当に厄介な連中だ。他人の苦しみこそが連中に喜びをもたらし、我々にできる最善のことは連中を無視することである"
左の人が言いがちな、経済的成長は幸福をもたらさない、みたいな話にも近いというか、
集団がことなかれ主義に陥って、保守的になってるんだとも思える
つまり、実際の仕事が前進しているかはどうでもよくなっている可能性がある
文章内の攻撃的とか難しい人というのが、本当に仕事を妨害している人なのかは現場を見ないとわからない
だから、そういう抽象的な表現で、そういう人は邪魔だよね、排除した方が生産性が上がるよね、というのが寧ろ攻撃的に思える
個人的に思うのは、感情的な人が仮にいたとしても、寧ろそれに流されない方が良いのではないか、ということだ
感情的な人や攻撃的な人が悪というより、単にその感情的要素は無視すれば良い
そんなことより、仕事が前進してるかどうか、ということだけ考えればいい
そうすれば、相手が感情的であるかどうか、なんてことは、どーでもいいことのはずだ
ログミーの話は抽象的すぎるので置いておくとして、トゥギャッターの話は自分はモヤモヤする
「どうして〜なんですか?」
という疑問に返答しない、寧ろそれに苛立つ、という人の方が寧ろ感情的であり、攻撃的であるといえまいか
返答内容が、そう決まってるからそうなんです、でもいいではないか
サラッとそう流せばいい
相手がそれでも執拗に言ってきたとしても、そう流し続ければいい
どうして、それができないのか?
つまり、受け手側もその質問と同じ疑問、苛立ちを持っているとも考えられる
そういう風にしか思えないことが、仕事であれ日常生活であれよくあるように自分は思う
痛いところを突かれた、図星だ、そこから過剰な防衛反応に移行する
素朴な疑問を呈した人間は難しい人だ、
攻撃的な人、難しい人は生産性を下げるという論文がある(某メンタリストのような権威主義、恣意的な論文引用による正当化
自分が加害者でも被害者でも、そんな推論のハシゴをゆっくりなんてとっくにやってる
ゆっくり登ったって、論理的思考ができない人は圧倒的にできない
「なんで〜を選択したんですか?」
という問いに丹念にゆっくり、その推論のハシゴとかいうのを登ったところで、一番上に到達する前に相手が議論を放棄する
特に上司というか、仕事での権力の関係があれば、それは顕著になる
結論を最初に持ってくれば、それはそれで急ぎすぎだと言いつつ理解しようとしない
じゃあ、ゆっくり議論ができたらどうなのか?とできたとしても、そこには人間の思考としての意味で人種が違うという圧倒的な壁が出現する
あー、これは最初から会話にならないのに、自分は頑張ってたんだな、という徒労感だけが残る
仲良しクラブは成り立たないし、グーグルが心理的安全がどうこう言おうがクソ食らえだ
理不尽であれ、そんな丁寧な議論は、上から一蹴されるだけで終わる話なのだ
オチを考えずにだらだら書いてみたが、やはり思うのは、結局議論の意味なんてなくなるのである
これはマキャベリズムとして正しいし、意外とマキャベリズムは正しいことが多いのが現実である
ログミーなんか読むより、君主論読んだ方がいいのではないだろうか
理想的な、みんなが理解し合えるチームワークなんて絶対成り立たないことは、バカな自分でも長い人生経験で分かってる
単に目下の素朴な疑問を持つ人は、攻撃的だ、難しい人だ、で集団が追い出せばいい
いわゆる、イジメ、虐待の構図だが、それは集団社会では仕方がない面もある
しかし、これが上司、権力構造的に階層が上の方向に向けるなら話は別だ
これは日本でなくても、他の国でも変わらないように思う
端的に言えば、上司が難しい人、攻撃的、それが気に入らないなら辞めるしかない
不愉快な時間で人生を消耗するのもイヤだろうし、それが金銭的利益より優先されることもある
があって、まず3は避けたい、というのがあったように思う
それに対して、君主である自分は分からない、側近に相談しても側近も分からない、
これは当然避けるべきである
例えば、上司がその新しい技術を理解できない、これはまあいい、理解できないのは当たり前だが、
理解できる側近に騙されるのではないか、寝首をかかれるのではないか、
そういったことを考えているのだな、と思える上司、君主は非常に多いように思っている
マキャベリは、君主として自分が理解できないことがあり、側近には理解できることで側近に騙される、
そういったことに対して直感的ともいえる、側近のウソを正しく見抜く力、
そういう力がない君主は単に駄目なだけのように書いていた気がする
仮に側近が善意で行動したことでさえ、君主には理解されず粛清されることもよくある話だからである
側近を信じ切るような君主もバカであるが、疑いすぎる君主もバカであるし、
自分が理解できないことを側近が理解できることを恐れるばかりの君主は、いつしか敵に打ち負かされるであろう
自分より劣った側近を周囲に置いていないと安心しないからである
あー、書いてて思ったんで再度書くけど、
Googleがこう言ってる、
〜という論文がある、
とか、まあ、参考程度するのはいいけど、それが正しいという前提で話すとか、最近の「頭でっかち」の風潮が非常に不愉快なんだけど…
そもそも、人文科学というか、社会科学というか、研究や統計調査だって理系のものとは大分違うものだということを理解してほしい
特に「脳科学」の研究だの、そういう研究をしている、していたからって、
痴話喧嘩だの人生相談だののレベルに偉そうに口出しする女性とかがメディアに出ていたりするが、
まあ、まともに研究している人ならそんなことはしないわけで、
ソーシャルメディアというか、いわゆる「単なる目立ちたがり屋さん」に自分の人生を振り回されるの、馬鹿馬鹿しいと思うんだよなぁ…
それより、理系のこととか、法律とか、そういうことは揺らがないわけで、
というか、なんか最近の世の中は急ぎすぎてるんだか、その自分の判断だの悩むところを時間の無駄だと思ってないか?
一生結論なんてでなくていい、結論が出ないまま悩み続ければいいことに、一足飛びに答えを求める
その「単なる目立ちたがり屋さん」のYouTubeとかブログとかTwitterとかテレビとかに答えを求めて、そーだそーだ言ってる
なんか、そういうのって虚しい行為だと思うんだよね
でも、そういう虚しい行為をGoogleなり、キラキラした企業なり、起業家なりがやったり言ったりしてるんで、
それに飛びつきたくなる気持ちは分かる
そこに答えがあるんじゃないか、
いや、もう考えるの面倒だし、それが正解ってことでとりあえずやってけばいいんじゃないか、
みたいな風潮がやっぱりあると思うんだけど、
まあ、馬鹿げてると思うんだよね
人として
何にでも反対するためにプラカードを掲げたりデモ行進する方が目的になってる人達と考え方が非常に似ている
デモ活動があれば、当然何かに反対するために参加している人達がいるわけだが、
プロ市民のようなプロ左翼も、反対に位置するプロ右翼も、社会問題がなくなってほしくないと思っている
日頃の鬱憤を晴らすために喚き散らすことを正当化できる言い訳がなくなってしまうからである
これは酒鬼薔薇とも非常に似ている
校門の前に切断した首を置いたのは操作撹乱のためだと彼は供述しているが、
私はそれは嘘であるか、もしくは彼本人が自分の本音に無自覚なように思っている
論理的に考えてそんなはずはなく、だからといって彼が論理的思考ができない、
知恵遅れとかそういうタイプではないことは誰しも分かるはずである
彼が切断した首を校門前に置いたのは、過剰な承認欲求を抑えられない、
そういった幼稚さが彼の中に並行して存在しているのではないかと考える
彼の、存在が透明なことに耐えられない、といった主張は決して事件後の話だけではなく、
俺を見ろ!という過剰な承認欲求、
俺に屈服しろ!逆らうとこうだ!という支配欲求のようなものが発露した結果に思う
どれだけ法律を犯したことができるか、みたいな度胸試しが横行するのもそうである
彼等のコミュニティ内での順列を争うため、
そして、彼等のコミュニティ外でも自分の存在感を認めさせるため、
誰かの心に残らないぐらいなら、悪印象でもいいから残りたい、
同じことを「てんちむ」という女性がYouTubeで語ってるのを観たとき、
こういった見捨てられ不安のようなものは、幼少期に形成されたのか、
少なくとも両親、もしくは片親にそういう思考の傾向がやはりあり、
そういう環境下で育ったことが一番大きく影響しているのは否めないと思われる
話を最初に戻すと、
ヤンキーにとって校則は寧ろ自分の存在を証明するために必要不可欠な存在であり、
校則がなければ、寧ろ彼等は学校に完全に来なくなるとさえ思っている
わざわざときどき学校に来る、もしくは学校に来ている知人と接触しては、
小林よしのりが漫画の中で、自分の高校時代に分かったこととして、
ヤンキーは学校の教師側の人間だと描いていたが、個人的経験からも非常に同感である
学校の校則を変えたい、もっと自由な校則にしたいと息巻いていたが、
そして、小林氏がヤンキーに、おまえらも校則が変わった方がいいと思うだろ?
と問いかけると、ヤンキー達は明確に反対し、小林市に制裁を加えるようになるのである
中国の暴力団である三合会の人員を政府が投入したことにも似ている
本来、三合会のような、いわゆる暴力団と呼ばれるべき反社会的組織、
しかし、香港デモでは政府は一変し、三合会に賄賂を渡して民主化デモに投入し、
理由として、表向きは中国政府はデモ活動の鎮圧に非人道的な暴力行為を行えないというのがある
よって、自分達の代行をしてくれる者達として三合会のような暴力団員を投入したのである
本来、もちろん今でもだが、中国は犯罪行為に非常に厳しいところがある
例えばインターネットカジノの業者のような人達も厳しく取り締まられたため、
要は、国に見えないところでいい思いをしている反社会活動は許せない、ということである
反社会的な人達が結託することが非常に都合が良いことが意外と多いように思われる
教師とヤンキーが意外と仲が良い、卒業してからも学校に出入りするなど関係を保っているヤンキーも多い
しかし、ヤンキーに暴力をふるわれ怪我をした、場合によっては障害を負った、
レイプ未遂の被害を受けた等、実害があった生徒たちにとっては溜まったものではない
教師もどことなく、生徒を屈服させる、服従させることに自分の存在意義を見出している人がいる
そういった教師にとっても、ヤンキーはいわゆる「手の掛かった」生徒ということで、
そういった教師にとっても、校則が緩くなり、学校が自由になり、普通の生徒が自由になることが許せないのだろう
なぜなら、教師という職業自体が自由ではなく、その不満が蓄積する職業だからである
家庭などで鬱屈し反社会的な行動に走るヤンキーというか不良少年少女と、
職場等で鬱屈し、自分達が不幸なのに生徒が幸せになるのは許せない、という鬱屈した教師たちが、
互いに共感を抱き、傷を舐めあい、普通の生徒たちに刃を向けるのは不思議なことではない
寧ろ、自然な流れだとさえ私は思っている
ちなみに、これは校則だけでなく、普通の法律でも同じように思う
マリファナを規制しすぎれば、マリファナのルートや使用者が地下に潜ってしまい、警察の管理下から外れてしまう
マリファナのような軽い話ではなく、反社会的な組織や犯罪者であっても同じであり、
法律を厳しくしすぎると、公安や国家が市民を却って管理できなくなってしまうことがある
適度な締め付けが重要であることはマキャベリズムにさえ書いてある
普段から恐怖政治や粛清を繰り返すと、市民は逆に粛清になれてしまう
公開処刑が当たり前のような状況にするよりは、
ときどき、不意打ちのように、見せしめにズバッと公開処刑をするべきである
そうすることで市民に恐怖をときどき植え付けることが、国家へ反逆する意欲を失わせる
普段から頻繁に恐怖を植え付けられると、却って市民はキレるように反逆に転じる
なんだかんだ政府は国家は、市民が反逆し、暴動し、コントロールできなくなることを恐れている
いつも怒っている、怒鳴る人は怖くない
まあひょっとしたら、
イタリア人が隣人を批判して「血筋がマキャベリズムが残ってるやつはこれだから・・・」とか、
本当にその通りで、政治的なもの、とくに同時代の現代史につながっているものについては
学問から外れて真に政治的な議論になるため、もはやそれは学問とはいえないと感じている。
真に政治的な議論ってなに?という疑問には、あくまで個人的な感想だが、「利害論争」であると思っている。
うちの庭のほうが広い、相手の家の木がじゃまだ、とかそういう話。
近代史以前の、同時代性のない議論であれば利害が直接に関係ないため、それは学問になりうる。
つまりナチスや共産主義国家は現在進行形であるため学問になりえないが、
マキャベリズムやモンゴル帝国については現代と切り離されているので学問になりえる。
この人は京都大学を出ていながら、30年間もの間、同時代性のある現代史を追究した結果、
多分、周囲に感染を広めても、具体的に誰が感染させたかまでは分からない訳で、
仮にオリンピック関係で老人だけでなく、持病があるとか、変異株で子供が死ぬような事態があっても、
具体的に誰が感染させたかなんて分からないから、責任問題にしづらいわけで、
そんな感じでなし崩し的にオリンピックを推し進めたいんだろうなあ、というのはよく分かるんだけど、
つまり、数字とか統計的な結果として感染拡大は観察できるけど、
具体的に誰がというのは分からない、だから、自民党の政治家さんたちは、
だったら無理矢理やっても構わないんじゃねーの?俺たちは医療従事者よりワクチン先に打ってるんだし、みたいな感じだし、
昨今の単なるゲスで外道な露悪趣味地味た政府や世の中にウンザリですわ
マキャベリズムというか君主論というかだって、圧政で民を蔑ろにしていいとは言ってないというか、
露悪はリアリストじゃねーんだよ、
それは単に下品で、育ちが悪いことを自慢するようなものだ、ヤンキーのヤンチャという前科犯罪自慢と同じ
ナチス・ドイツだって、特に最初は労働党という名前の通り、社会主義とか共産主義的にも思える、
「労働者の味方」として与党の地位を確立したはずだし、実際の給与とか国産車が買えるとか恩恵があったわけで、
アソウとかヒトラーを見習うべきといいながら、全然駄目だと思うのは、
ヒトラーやナチスは、少なくとも最初の段階では庶民の給与を増やしたし、インフラ整備とか、
周辺諸国に苦しめられているドイツの救世主として期待されもしただろうし、
庶民に10万を一度配るのさえ、くどくど愚痴って渋るケチなアソウはまったくヒトラーを見習えてないというか、
あれも息子のギレンはそういう器ではない、というのをデギンは見抜いてたから言ったと思われる
それが今のオリンピック強行派によく現れている気がする
一部の国民の生命を犠牲にしてでもオリンピックがやりたい、なんて中国っぽい発想だと思う
ただ、中国はそうやって一部の人たちを犠牲にしてでも経済発展したから、日本を抜いて二位になれたんであって、
中国と同じように人の命を犠牲にしてオリンピックをやっても三位にしかなれない日本は格下ってことになるだろうに
どこまで、今の日本の中心に居座ってる輩は、この国を貶めるんだろう
美しい国とかほざいてた連中が、実際は日本という国の品位を、品格を損ねている
アベシンゾウは戦後の間違った教育を煮詰めたようなヤツだったか、そんな表現をしていたと思うが、
…
ウイグルとかユダヤ人を犠牲にして、安い国産車、EVを買えるようにして、貧しい層でもクルマが買えるようにして、
その代償として天津大爆発があっても列車事故があっても埋めちゃったり、
それでも民草の生活を豊かにして、人心を掌握しておかないと、中国は革命の繰り返しの歴史だからね、
今の中国共産党政府だって、天○門とかやっぱり気にしてるから情報統制に神経を尖らせるんで、
怖いから粛清もするし、怖いから民の生活を豊かにしようともする
これってマキャベリズムとしてすごく正しいと思う
アメとムチをちゃんと使い分けてる
一人目は、在日朝鮮人だった。
「戦後60年日本人はがむしゃらに働いてきた。その人たちが日本の豊かさを作ったので我々が恩返し・支える必要がある」
みたいな発言をしたところ、
「ぜんぜん?」
みたいに氷のような無表情でいってきた人。
あーこいつ外人だと思った。
「中国の諸子百家はいろいろ思想があっておもしろい。中でも孔子・老子・孟子・荘子は日本人が学んでおく必要がある」
みたいにいったところ、
「ぜんぜん?」
と、こちらも無表情で、まったく心底興味のない顔だった。
今思えば100%中国共産党員だったと思う。(他の中国人はそういう話をすると誇らしい顔になったので)
政治的に人生をコントロールされている人は、
その歴史観や人権意識も、他人にコントロールされることになり、哀れだと思った。
そこに学生時代、勉強することでフラットな思想を仕入れることができる。
しかし幼少期から親や政治組織(宗教という名の政治的組織ふくむ)から「仕込まれ」てしまうと、もうほかのものを受け付けられない。
そうして出来上がるのが、
「人間らしき姿をした」怪物でありフランケンシュタインである。
おもえば中学高校大学で、大量の文献を自由にみて選択できる日本という国に生まれたのはラッキーだったと思う。
もちろんそこでマルクス主義を選んだかもしれないし、マキャベリズムを選ぶこともできたかもしれない。
しかしそうならず、基本的人権や生命権こそすべてという思想に、「自ら選択して」なれたのは日本のおかげだと思う。
自ら選択しない(できない)フランケンシュタインがいきつくのは、兵隊としての暴力である。
そして暴力がいきつくのは、血であり、弾圧であり、臓器摘出であり、レイプである。
「ぜんぜん」
を教えてくれた二人は、人生の師だったと思う。
被害者の精神は「傷付けられた」「苦しめられた」などの否定的な言葉で埋め尽くされます。
(中略)
新たに発表された調査によると、被害者の精神をより顕著に周りに示す人々は、物的利益を求めてうそをつき、周りをだます手段として他人を中傷する可能性が高いことが示されています。そういった人々はナルシシズムやマキャベリズム、正直さと謙虚さの低下など、道徳的に好ましくない性格特性と関連付けられています。
https://gigazine.net/news/20210302-victim-generate-power/
実際ネットの書き込みとかも弱者の立場で書かれてるものほど攻撃的で憎しみに満ちてるもんな。
やっぱ弱者は同情せずに踏みつけるのが正しいわ。
https://twitter.com/kapibaku/status/1331586153577811970
だから、
というのが実態なんでないの?
と思うんだけど
(中国漁船に北斗端末配って日本に領海侵犯するように焚き付けてるのは中国の右派勢力、右翼団体です。
まあ、彼らを敢えて野放しにして、日本への牽制のために利用しているというのはあるでしょうけど。
政府公式の意思表示としてやるなら、もう物理的な紛争になって日本人はとっくに何人か死んでるはず。
ヤクザが暴走族を焚き付けて警察とか市民に威嚇させるのと似てるかも)
あと、「新自由主義・右翼」が社会的勝ち組かというとそうでもなくて、
もちろん、そのカテゴリーに含まれる社会的勝ち組は、自分の成功は自分の努力の賜物であって時代とか周囲とか環境じゃねーからw
という人が当然多い印象があるわけだけど、
「新自由主義・右翼」カテの貧困層、社会的負け組って意外と多くて、基本的に権威主義で服従していないと不安なタイプの人が多い
だから、貧すれば鈍するではないけど、他国で貧困層が自分の国の富裕層を恨んでいるかというと、そんなこともなく、
寧ろその貧困層が、なんでか外国の日本や米国の人種を恨んでいたり、
そんな感じで、不満の矛先を別に向けることが上手いんだろうなあと
だから、外国でもそういう人達が集まるところへ行けば、そういう攻撃的な人間が増えるし、それは日本も変わらなくて、
いちいち喧嘩を仕掛けるような言動をする、攻撃的な人間のエンカウント率が高くなる
それだけなんだなあ、と思う次第
しかし、自分の政治信条は自分でもよく分からんが、自分は何に含まれるんだろうな
マキャベリズム的に考えたって、福祉のない社会を作りたいとか暴力的な資本主義を国は放置しろは間違い
国家というシステムをどうコントロールするか考えてないからそんなこと言えるんでは?
ただ、国家間の話、外交、特に戦争は別にいつ起きてもおかしくない、単なる切り札のカードに過ぎないわけで、
派遣やアルバイトに任せて空洞化したり、本体が脆弱になってくのはもう失われた数十年で分かったのでは?
汚れ仕事を韓国や中国に丸投げしたことで、彼らは真似てパクって強くなった
そういう丸投げ、韓国中国にパクらせる切っ掛けを作ったのは資本主義の暴走であって、
結局、新自由主義者だの右翼だのは、自分で日本が没落する切っ掛けを作ったくせに、
まあ、こんなコロナだ何だでビビリ君になってる状況からどうやって核武装までたどり着くか、
自分にはまったく検討が付かなくなったが、バブルのときにやろうという話もあったけど、
国家として福祉もちゃんと機能している、太っ腹なところもなければならないし、
その一方でちゃんと戦争できる国にならないと、これも国家として意味がなくなってしまうわけで、
その両輪というかバランスというか、そもそも不足している欠けてるものが日本は未だに多いと思われるわけで、
第一要因として脳がそういう体質なんだろう。
もともとそういう体質じゃない俺も繊細な心持ちを克服して、リンチやいじめに対しても結構な心境で不遜な態度を取れるようになったが、そうでない人を叩き潰すような発言はただただ自分の感覚に鈍いだけだよ。
酔っぱらいのおっさんをシメたとか、そういう情報をきかれもしないのに盛り込んじゃうのがちょっと引っかかる。
まあ、彼の意見はともかくこちらの最終的な判断からすると、この人本当は割と弱い。喧嘩の話じゃない。
自分のプライド周辺が刺激されると攻撃反応が出るだけで、本当は傷つく未然状態までいってるんだよね。そこで傷つく自分、プライドを失った自分が許せないのでおっさんをシメた、などというエピソードまで入れて強がる。まあ実際フィジカルが強いんだろ。でもそのおかげで自分の弱さに気づけない。今の自分がもってる強さの尺度とは違った弱さを経験する事件が起こらない限り、改善は無理だ。
強さの尺度って色々あって、相手を支える強さや受け止める強さ、元増田のような力押しで傷つかなきゃ俺は良いんだという種類の強さ、色々ある。前述は共感性による強さなので、俺にも言う資格はない。ただ、後者は間違ってる。何やってでも勝てばいいんだという思想に近い。勝ったやつは強い、それが自明だという発想。この発想は卑劣な手法で人を陥れても強いんだ、という発想に繋がりやすい(こういうのをマキャベリズムというが、本来的な使い方ではないので書かなかった)
共感性のない個人の強さで最も強いのは捨てる強さだ。自分はすべてを失ってきた、さらされてきた、しかしこれ以上もう何も残ってない、と思いすっきりしたときに出てくる強さだ。負けても負けがないのでこの人は強い。倒れても仕方ないと思って立ち上がってくる。こういう人は負けることを怖がってる人より強い。
まあ元増田宛というより別人宛だが。
「何が正しいか」ではなく「何が得か」を優先するということだ。
それらを絡めて「何が正しいのか」は時代によって変化するという、陳腐化したテーマを持ち出してみたい。
……では本題へ。
東京裁判における「人道に対する罪」や「平和に対する罪」が事後法であるとの議論は有名なところだが、これはすなわち、先の大戦が人々の価値観の転換期であったことの現れであると考えられる。
世界の大国は、それまで人類が滅亡しかねないような戦争を経験したことがなかった。
だから、それまでのように軽い気持ちで開いた戦端が、どこまでもどこまでも拡大し泥沼となっていったとき、本気でビビったのだ。
もちろん、それまでも「戦争は良くない」という倫理は存在しただろうし、戦争を抑止する法的な取り決めだって存在していた。
けれど、いざ大戦が終わったとき、それまでの考え方では甘かったと世界中の人が痛感した。
もっと強力な抑止力が必要だという風に、世界の価値観が変化した。
だから、事後法まがいとの批判を覚悟の上で持ち出した「人道に対する罪」や「平和に対する罪」の適用を、大多数の人々が許容した。
つまり世界の価値観が変化を迎えた時代には、それまでの「正義」「合法」「筋」「論理性」は事後的にであっても「悪」「不法」「別の筋」「別の論理性」へと置き換えて断罪することが可能なのだ。
「何が正しいのか」は時代によって変化する。
植民地支配も同様だ。
少なくとも古代史の時代においては、植民地どころか他国の占領や奴隷支配も公然と行われ、それを禁止する国際規範なども今のようには存在していなかった。
それが、時代の下るにつれて白からグレー、グレーから黒へと徐々に変わっていった。
先の大戦は「侵略戦争」であったとされているが、少し歴史を遡れば、それは数多の大国が公然と実施してきた行為の焼き直しに過ぎない。
無論、当時は国際法や条約が次々と変化し、その時々においての「正義」や「合法」が存在していた訳で、過去において合法だったから日本の戦争も合法であるとの理屈は成り立たない。
厳密にその辺りを議論しだすと、歴史学者でも無い限り、あるいは歴史学者であっても、結論の出ない話になりそうだが、私が問題にしたいのはそこではない。
問題は、当時の戦争が仮に当時の価値観や法律に照らして「正義」「合法」であったとしても、敗戦国は支配地域の割譲・放棄や、賠償の責任を負わされたであろうということだ。
無論、当時の戦争が当時の価値観に照らして「悪」「不法」なものであっても、支配地域を取り上げられ、賠償を負わされる。
どちらであっても結論は変わらない。
負けた時点で結末は決まっている。
でも、なぜそんな暴挙が許されるのか?
価値観が変化する時代においては、事後的に過去の行為を現在の価値観で断罪することがまかり通るからだ。
価値観が変化する時代において、「今」の正しさは「将来」の正当性を担保しない。
さて、ここまで「価値観が変化する時代」という言葉を使ってきた。
これは一体、どういう時代か?
ひとことで言ってしまえば、私はこれを「世界の過半の利害に関わる危機が訪れた時代」だと考えている。
世界の一部が利害を争い、あるいは危機に瀕しているとき、その係争を、あるいは問題解決手段の正当性を判断する裁判官は「世界の残り大多数」が務める。
「世界の残り大多数」は第三者として、「既存の価値観」というルールブックをもとに、正当性をジャッジする。
しかし、世界の大多数が危機に巻き込まれたとき、そして、既存の価値観によるジャッジが世界の多数派にとって不利益となるとき、価値観は一瞬のうちに反転し得る。
民意で作るルールブックは、民意によって書き換えることができる。
では、価値観の変化は再び起こるのだろうか?
かつて、普通に行われていた侵略と植民地支配が今では「悪」と考えられているように、現代においても価値観の変化は起こり得るだろう。
昨今、日韓関係に限ることなく、世界の至るところで直接的な軍事力を用いない「係争」が激化しているように思われる。
現代の価値観において、これは「不法行為」とは考えられていない。
WTO等の貿易に関する各種の協定は存在するものの、関税や非関税障壁による駆け引きを全面的に「悪」と断じる倫理観は、世界の過半には決して浸透していない。
しかし、今後はどうだろう。
「経済戦争」がどこまでも激化し、明確な「勝利者」と「敗北者」が現れたとき、「勝利者」の側は「敗北者」に対して、経済戦争の戦争責任を事後的に訴追するような事態が訪れるのではないだろうか。
世界の過半を巻き込んだ「経済戦争」が勃発したならば、世界の価値観はきっと「経済戦争」そのものを断罪する方向にシフトする。
そんなものは、価値観が変化したならば、事後的に結論を書き換えることがいくらでもできてしまう。
この前提に立ったとき、昨今の日韓関係に関わる日本のスタンスに、私は一抹の不安を覚えずにはいられない。
だが、これらの正当性は、あくまでも「現在」の世界の価値観における正当性だ。
価値観が変化する時代が訪れた場合、それらの正当性は容易に逆転して「不当」であると断罪される危険がある。
未来の価値観によって遡及的に裁かれ、事後法によって賠償請求されるおそれがある。
価値観が変化する時代が訪れた場合、明らかに日本の不利益となる事態が訪れかねない。
日韓の係争は、利害の絡まない大多数の第三者によって、既存の価値観のもとにジャッジされるだろう。
日本は、どこまでも正当性を示す証拠を積み重ねていけば、それで良い。
変化後の価値観の世界において「多数派」の側に立つという意味だ。
だから、多数派になっておけば、事後法で裁かれる心配をする必要はない。
痛み分けと言ってもいい。
この場合、価値観が変化した後、再び関係が悪化すれば、事後的に問題を蒸し返される危険性が存在するから、将来に渡って永続的に友好関係を保ち続けるのがベターとなる。
もとより妄想だと言ってある。
GIGAZINEから冬の便りが届いたので、気になった作品だけ。備忘録とは名ばかりの、個人の主観をまとめただけの、まったく邪悪なエントリー。
※ここで触れる作品はすべて原作未読なので、どんな物語なのかほぼ分からないまま書いてます。あとソースはWikiなので多分間違ってるとおもう。各アニメのURL貼りまくったら自動検閲されたので、悲しいけどこのままで。
原作はファンタジー小説。監督は畠山守。「ローゼンメイデン」シリーズや「昭和元禄落語心中」、「さんかれあ」の監督。他には「電波女と青春男」2話の絵コンテ/演出、「魔法少女まどか☆マギカ」5,8話絵コンテ等。同氏は小俣真一名義でクレジットされることもある模様。シリーズ構成は原作者が共同でクレジットされてる。もう一人のシリーズ構成は矢野俊策。この人はTRPGのゲームデザイナーらしい。ということはこれ、TRPGアニメということなのだろうか。音響監督は「プリンセス・プリンシパル」でおなじみの岩浪美和。戦闘シーンがあると嬉しいな。音楽は、TVドラマではおなじみ菅野祐悟。アニメだと「鉄腕バーディー DECODE」シリーズや「PSYCHO-PASS」シリーズ、JOJOシリーズなど。ゲームだと「rain」「仁王」。
原作はコミック百合姫の漫画。監督は「狼と香辛料」シリーズや「まおゆう魔王勇者」の高橋丈夫。音楽は「プリンセス・プリンシパル」のOP、EDを作編曲している高橋諒。素敵なサントラを期待してる。
クレジットされてるスタッフが監督、シリーズ構成、キャラデザ/総作監、音楽だけなので正直よくわかんない。
1話放送。脚本はハヤシナオキ(詳細不明)、コンテは監督。背景は草薙。
原作はモーニング等で連載された漫画。制作のジェノスタジオはアニメ制作会社のマングローブ経営破綻がきっかけで作られた会社。「ゴールデンカムイ」と「虐殺器官」を作ってて、これが3つ目。シリーズ構成は「アリスと蔵六」の5話、9話脚本を担当した木村暢。アマプラ独占配信。
1話放送。プロデューサーは「四月は君の嘘」等の木村誠。音響監督は「ハナヤマタ」の藤田亜希子。
原作はまんがタイムきららで連載中の4コマ漫画。制作は「ブレンド・S」に続きA-1 Pictures。監督は「ご注文はうさぎですか?」の橋本裕之。シリーズ構成は同じくごちうさシリーズの脚本を担当した井上美緒。ちなみにごちうさのシリーズ構成はいつもの’ふでやすかずゆき’。本作もふでやすかずゆきが脚本書いたりして。井上美緒が直近で携わった脚本は「宝石の国」のアンタークチサイトの話と、「ネト充のススメ」4、5、6、11話。音響監督は同じくごちうさ組の、いつもの明田川仁。音楽は藤澤慶昌。この二人は今期「宇宙よりも遠い場所」も担当している。
原作はゲッサン連載中の漫画。制作はみんな大好きシンエイ動画。かねてよりラジオでCMを聴いていたのだけれど、とても破壊力が高い作品。シリーズ構成はいつもの横手美智子なので、さぞかし面白いラブコメなのだろうと思う。同氏は今期「だがしかし2」のシリーズ構成も務める。音楽がギタリストの堤博明なので、ギターが軸のサントラ聴けるのかな。
「gdgd妖精’s」の新シリーズ。監督は引き続き菅原そうた。ちなみに前シリーズでダテコーが携わったのは1期のみ。HPにスタッフのクレジットが無いのでよくわかんない。
スタッフ詳細発表。プロデューサーは「gdgd妖精’s」の福原和晃、別所敬司を含む4人。企画協力に「てーきゅう」などのショートアニメでプロデューサーを務める後藤裕がクレジットされている。OPは前作に引き続きポンポコPと「直球話題ロボットアニメ」OP制作のビームマン。制作は引き続きストロベリー・ミーツ・ピクチャーズ。
原作はなろう系小説。監督は「のうりん」や「妹さえいればいい。」の、あの大沼心。同氏の作品のあの感じが好き。シリーズ構成/脚本は「ノーゲーム・ノーライフ」6,10,11話脚本の下山健人。最近携わったのは「政宗くんのリベンジ」3,4,7,8,9,11話、「武装少女マキャベリズム」シリーズ構成。音楽はいつものMONACA。MONACAはゲーム「NieR」シリーズの岡部啓一や〈物語〉シリーズの神前暁を擁するクリエイター集団なんだけど、MONACA名義の場合サントラが発売されないと誰が作ったか分かんないのだろうか。気になる。最近携わったのは「結城友奈は勇者である」シリーズ。
原作はcomicoの連載漫画。プロデューサーはTVドラマの逃げ恥や重版出来!の那須田淳。監督は「ゆゆ式」の監督、シリーズ構成は赤尾でこ。少女漫画かな?音響監督は「まおゆう魔王勇者」「のんのんびより」シリーズ、「サクラダリセット」等、いつもの亀山俊樹。新房昭之監督作品と縁のある人。音楽は「Re:ゼロから始まる異世界生活」「少女終末旅行」のMAYUKO・末廣健一郎。
原作はマンガ配信サイト「裏サンデー」連載作品。脚本はいつもの高山カツヒコ。
原作はKADOKAWAの漫画誌『ハルタ』の連載漫画。監督は「クズの本懐」の安藤正臣。シリーズ構成は「のんのんびより」「じょしらく」等いつもの吉田玲子。今期は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」も担当しているので、脚本書く本数が少ないかも。背景美術は「のんのんびより」「このはな綺譚」の草薙。音楽担当のEvan Callは、他にも「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の音楽も担当している。
原作は電撃小説大賞受賞作品の小説。監督は「マクロスΔ」の安田賢司。シリーズ構成は「アリスと蔵六」3話、4話の脚本を担当したヤスカワショウゴ。同氏は今期「三ツ星カラーズ」のシリーズ構成も務める。音響監督は岩浪美和。こっちは「グランクレスト戦記」も務める。音楽は仮面ライダー等の劇伴でおなじみ中村幸太郎。この時点で既にアツい。ということは、博多を舞台にしたハートフルSF日常系バトルアニメかも。
原作は小説投稿サイト「Arcadia」投稿作品。これは2015年夏アニメに続く2期。スタッフやキャストに変更(監督が総監督になったり?)はないらしいので、路線変更は無いみたい。
原作はビッグコミックスピリッツ連載中の漫画。みんな大好きWIT STUDIO制作の作品。監督はドラえもん劇場作品の監督(帰ってきたドラえもんとかのび太の結婚前夜とかのび太と緑の巨人伝とか)を務めた渡辺歩。スタッフのクレジットが無いのでよくわかんない。
スタッフの続報発表。シリーズ構成はいつもの赤尾でこ。今期は「ミイラの飼い方」シリーズ構成も務めている。音楽はTVドラマの劇伴でおなじみ吉俣良。最近携わったのはTBS「ごめん、愛してる」など。アマプラ独占配信。背景は「狼と香辛料」シリーズなど、いつもの美峰。
原作は竹書房「まんがライフWIN」で連載中の漫画。クソアニメ。プロデューサーは生徒会役員共シリーズでプロデューサーを担当した須藤孝太郎。
オリジナルアニメ。監督/シリーズ構成は「天元突破グレンラガン」のキャラデザ、作監とか「パンティ&ストッキングwithガーターベルト」のキャラデザとか作監とかコンテとか演出とかの錦織敦史。メカニックデザインがアニメ(ーター)見本市の作品「カセットガール」のコヤマシゲト。TRIGGER/A-1 Pictures制作なので楽しみ。
オリジナルアニメ。公式HPのURL的に「よりもい」って呼んでほしいのかな?制作はMADHOUSE。監督・シリーズ構成/脚本・制作が「ノーゲーム・ノーライフ」と同じ。ノゲノラの面白さは知人が太鼓判を押していたので、後で観る。音響監督もノゲノラを担当した、いつもの明田川仁。同氏は2017秋アニメの「Infini-T Force」「Just Because!」「少女終末旅行」「魔法陣グルグル」の音響監督を担当していて、今期は「スロウスタート」も担当。
音楽は藤澤慶昌。アーティスト楽曲の編曲のがウェイトが大きい人で、特に近藤夏子の楽曲に編曲としてよくクレジットされている。アニメではあの「宝石の国」劇伴を担当している。また、「スロウスタート」の音楽も担当。管弦楽の人みたい。
メインキャスト(水瀬いのり、花澤香菜、井口裕香、早見沙織)に並々ならぬ何かを感じる。またクレジットについて、”協力:文部科学省、国立極地研究所、海上自衛隊”とあることから、結構ガチなアニメな気がしてくる。メインキャスト的に、物語の前半は幼少期、後半は成人後みたいな構成だったりして。
原作は「京都アニメーション大賞」大賞受賞の小説。制作は京都アニメーション。監督は「境界の彼方」等京アニでおなじみ石立太一。シリーズ構成はいつもの吉田玲子。音響監督は〈物語〉シリーズ等いつもの鶴岡陽太。最近携わったのは「UQ HOLDER! 〜魔法先生ネギま!2〜」「恋と嘘」等。音楽は今期「ハクメイとミコチ」も担当するEvan Call。京アニの作品はいつも「髪の毛」が主要な登場人物なんだけど、今回もすごい髪の毛が観られるのだろうか。楽しみ。Netflix独占配信。
原作はコミック。1999~2000年に放送されたアニメの続編。メインスタッフ及びキャストが前作と一緒らしい(キャラデザは変更)。監督は「ちはやふる」「ガンスリンガーガール」監督、「ノーゲーム・ノーライフ」コンテ(9話、OP)、「ハナヤマタ」コンテ(9話)の浅香守生。シリーズ構成/脚本はCLAMPの中の人こと大川七瀬。音響監督はポケモンシリーズ、「僕らのヒーローアカデミア」シリーズ、「進撃の巨人」シリーズ等、いつもの三間雅文。
OPを珍しく坂本真綾が歌い、作詞も担当。作曲は’いきものがかり’リーダー、水野良樹。
原作はまんがタイムきららフォワードで連載中のコミック。制作は「スタミュ」シリーズや「ガールフレンド(仮)」のC-Station(元請けとしての実績が少ない)。監督は京極義昭で、本作が初監督。シリーズ構成は「プリキュア」シリーズや「あんハピ♪」の田中仁。音楽はあの「けものフレンズ」でおなじみ立山秋航。アニメ企画の仕掛け人が誰かわからなくて困ってる。
[2017/12/12 追記]
☓「ハクメイとコミチ」→◯「ハクメイとミコチ」でした。てっへぺろーい!
[2017/12/15 追記]
[2017/12/17 追記]
「スロウスタート」の項を追加
[2017/12/20 追記]
[2017/12/21 追記]
亀山俊樹、末廣健一郎を追加。草薙についての記述に誤りがあったため修正
[2017/12/22 追記]
「恋は雨上がりのように」「博多豚骨ラーメンズ」スタッフを追記
[2017/12/26 追記]
「gdメン gdgd men's party」スタッフを追記、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を追加
[2017/12/30 追記]
「カードキャプターさくら クリアカード編」を追加。浅香守生、三間雅文を追加。
[2018/01/05 追記]
「ゆるキャン△」を追加
[2018/01/11 追記]
「citrus」「恋は雨上がりのように」「刻刻」スタッフを追記