はてなキーワード: ペンネームとは
どっちも同じようなスマホだと思っていたが、今みると明らかに違うことがわかる。
「声紋チェックXXXアップデート中・・・」
なんだかメッセージが画面にでている。
なんだろう?
あーもうなんなの?機械音痴の私にはわからないこと多すぎる。じれったいわ。
「人物」「シコッテ・ネィロ」をググってみた。
検索結果:
『ロード・オブ・ザ・クンニリングス』はR18指定で実写化された。
・・・・
どうやら別人のようだ・・・
作中にも教祖として登場する。
あ、これだ!
「ありきたりなストーリー。展開もひどい」
「なんかむかついたので本燃やしました」
「作者きもいwwしね」
「こんなんで金とってるの?」
なんだかひどい罵詈雑言が飛び交ってる。
酷評されているようだ。
しかし、ネィロ作品は多くの読者から批判されているが、現在も一部の熱狂的なファンに支持されている。
3Dソフトが爆発的な人気となり、ヴァーチャルアイドルとして今でも人気である。
・・・え?
ヴァーチャルアイドル?
まただ。
なんてことだろう・・・
これ、私だ。
どういうこと?
・・・・なんだかカラダもすごく熱い
つづく
●はてなブックマーク - ライトノベル作家を脱税容疑で告発 税扱う作品手がける:朝日新聞デジタル
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASH48538QH48UTIL01J.html
●はてなブックマーク - ファンタジー作家が脱税容疑 - NHK 首都圏 NEWS WEB
http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20150413/3795921.html
id:nekora "橙乃ままれのペンネーム" "梅津大輔代表(41)と、著作権管理会社の「m2ladeJAM」" http://www.xanthous.jp/wp-content/uploads/2015/04/thumd4658.jpg 小汚いおっさんだな
TV報道での本人のキャプ画像が貼られた2ちゃんだともっと酷い流れ。
脱税したのは確かに悪い。だがそこで外見を揶揄する必要あるのか?
「『小汚い』は顔でなく身なりを指した」と言い訳するかも知れんが
公式会見などでなく突撃取材なんだから、身なりが整ってないのは仕方ないだろ。
こうなるのでは本人が今まで顔写真を表に出してこなかったのも納得だわ。
じゃあブサイクは「ガマガエル田吾作」みたいなペンネーム名乗らなきゃダメなのか?
萌えなキャラが活躍するファンタジー小説でなく、根暗なキャラが鬱々とする小説書かなきゃなのか?
もって生まれたもの或いは自ら望まずそうなったもので、本人の努力でどうにもならないから。
「美容整形手術が有るじゃん」?あれが現代の医療技術で有効なのは、のっぺりした薄いタイプの顔だけ。
それに今の日本では美容整形したことを隠してもオープンにしても馬鹿にされる。
その点では美容整形を積極的に認めるブラジルあたりのほうが筋が通ってるわ。
外国人女性を殺害した市○達也には「市○ガールズ」みたいなのが沸く一方で
伊藤計劃以後とは何か?
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20140323/1395596751
藤田直哉はこのブログの中で、伊藤計劃が自らの死を利用し、死後に作動するプログラムとして『屍者の帝国』という小説を構想したという考えを披露しています。
伊藤計劃が皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会そのものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います。
そして、死人を利用する資本主義の話である。これが、自身の「死」の物語をどう利用されるか理解し、それを用いてプロジェクトを用いた、伊藤計劃という作家の壮絶なところ。感情や感動、物語に冷淡な目を向けていた。二次創作的な模倣が「感動」を生み出すことを理解して冷めていた。でも、自身の死という、物語ではない、絶対性の高いものを、そういう物語として利用した。そしてその「死」の物語を消費する人をあざ笑うかのようないたずらを仕組んだ。
その結果、伊藤計劃を用いたビジネスもまた、伊藤計劃の仕掛けたいたずらの延長のようになった。この皮肉な仕掛けこそが、伊藤計劃という作家の最大のプロジェクト。
所詮は商業的レッテルでしょ、とか、故人を商売に利用しているんでしょ、という批判があるのはよくわかる。実際そういう側面はあるが、ぼくは、伊藤計劃というのはそれを理解して、わざと仕組んだと解釈する立場。ある意味で、死を贈与した。それがSF界や出版社に利益をもたらしたことは否定できない。その代わり、ぼくらは贈与だけではなく、このプロジェクトという呪いを受けるようになってしまった。「伊藤計劃の言語」みたいなものが、解釈や、資本の中に残って蔓延している状況を作られてしまった。
僕は、この考えというものはとてもグロテスクで不快なものだと思いますが、まあ藤田直哉がそういった考えを持つこと自体は否定しません。人の死に物語を求めてしまうのは、ある程度は仕方のないことではあります。
伊藤計劃は、自らが死ぬことによって作動するプログラムとして『屍者の帝国』を構想した。僕はこの考えにまったく賛同できませんが、藤田直哉の考えが間違っていると断定することもできません。伊藤計劃はもう死んでいて、その真偽を問うことはできないのですから。
しかしながら、藤田直哉はこの妄想を正当化するために、円城塔が自分と同じ見解に立っているという嘘をつきました。
藤田直哉がこのブログに掲載している、「週刊読書人に寄稿した『屍者の帝国』評」に次のような文があります。
悪質な冗談はこれだけではない。伊藤計劃はそのような屍者を労働させるプロローグを、死病に苛まれながら、書いた。まるで、自身の「死」がどう利用され、「物語化=伝説化」されるか理解したうえで、チェシャ猫のような微笑を死後に残そうとしたような「冗談」を伊藤は遺した。それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている。悪ふざけを受けつぐ粋な心こそが、プロジェクトを先に進めるエンジンとなった。
ここで、藤田直哉は「それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている」と述べていますが、そのような事実はありません。藤田直哉は自分の妄想を正当化するために、円城塔の言葉をねじ曲げています。
円城塔は「『屍者の帝国』あとがきに代えて」で次のように述べています。
http://www.kawade.co.jp/empire/
伊藤計劃は『屍者の帝国』を自分の全てを語り切る畢生の作、最後の作品として構想したわけではなく、次へと続く切り替えの場として、むしろ軽い読み物として考えていたはずです。
ここで円城塔は、伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身の最後の作品として構想していた、という考えをはっきりと否定しています。「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解」などしていません。
確かに『屍者の帝国』が発表されたことのインタビューで、「悪ふざけは続けよう」といった言葉を円城塔は語っています。当時のインタビューが乗っていたサイトはもう削除されているため、一部のみの引用となってしまいますが、一応載せておきましょう。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1346917403/
「『死者が動く』話でなければ、やらなかった。当人が亡くなって、冗談のようであっても、誰かが引き受けなければならないだろうと思いました。
追悼というわけではなく、悪ふざけは続けようと」
「死者が動いてる話じゃなければ、やらなかったです。(中略)冗談の中の雰囲気で、中編ぐらいのボリュームで、死者が動く話。それで、当人は死んでしまう。“ええっ、(自分が)動かさないといけないのでは”と(笑い)。それが一番ですよ」
確かにここで円城塔は「『死者が動く』話でなければ、やらなかった」とは述べています。しかし、そのことが円城塔が「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた」ことに繋がるとは思えません。先ほど引用したように、円城塔は伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身の最後の作品として構想した、という考えを退けています。
確かに円城塔は、伊藤計劃の死によって中断された小説を書き継ぐ、という状況を『屍者の帝国』を書くにあたって利用しています。
しかし、『虐殺器官』で言葉による人間社会の崩壊を、『ハーモニー』で人間の意識自体の喪失を描いた伊藤計劃が、「死んでしまった人間を労働力とする」物語を構想した以上、その先へと進もうとする意図を読み取らずにいることはとても難しいのです。また、その脈絡を受け入れない限り、わたしが『屍者の帝国』の続きを書くという仕事を受ける意味はないとも考えました。なぜなら、『屍者の帝国』の続きを書くということはそのまま、「死者を働かせ続ける」作業となるに決まっているからです。偶然にも与えられたこの図式を最大限に活かすことが、わたしの作業目標になりました。
しかし、その図式は「偶然にも与えられた」ものでしかありません。伊藤計劃がこの状況を意図して作り上げたという考えは明示されていません。
円城塔は「『屍者の帝国』文庫本あとがき」でもこのように述べています(藤田直哉がブログを書いた後に発表された文章ですが)。
そもそも自分の死の可能性が確率として高まっている状態で、次回作は死者を労働力としている世界について書きます、と嬉々としている時点で人の悪さも極まっている。
ここでわたしは、伊藤計劃が自分の死を見越して、そのあとに展開するはずの「死者を素材として利用する世界」を書こうとしていたといいたいのではない。
まあ、とりあえず藤田直哉が自らの妄想を正当化するために円城塔の言葉をねじ曲げた、ということはご理解いただけたのではないかと思います。
藤田直哉は伊藤計劃の「計劃」というペンネームに無理に意味を求めようとしたことが原因で、このような妄想を抱いてしまったのではないかと僕は妄想してしまいます。ペンネームはペンネームです。伊藤計劃がプロジェクトという呪いをSF界にかけたなんていうのはただの被害妄想にしか思えません。
ってやっぱありますよね。
まぁ、一つだけで断定できるもんじゃないんですけど、ん?って思うシーンがわりとあります。
筋肉質な男キャラが多い割にはむさ苦しさがない(おっさんキャラなのに毛とか薄い
っていう複合的な要因であ~女性っぽいなぁと思う時が多かったです。
あとギャグとか下ネタで微妙に感覚に違いを感じる時有りますよね。
皆さんもそんな感じで「あ、この漫画の作者男だな。女だな」って思うシーンありますか?
※追記
みなさんやっぱり色々ありますね。
異性の描写の仕方、顔の書き方、男性・女性キャラの精神性、性の描写、ギャグの描き方、戦闘シーン、グロテスクな描写の方法、食べ物の食べ方、言葉遣い、装飾品のセンス、同性どうしの関係性がどう描かれているか、母親描写、ペンネーム、出産シーンの描き方、ディフォルメ描写、線の太さ・細さ、ヒロインの性的関係性、服の着方、恋愛の描き方、喧嘩のリアリティ、フキダシの使い方、視線、女性キャラのだらしなさetc...
普段男性差別とか女性差別を気にしてしまう人とかもなんとなーく冷静に見なおしてみると実際のところは自分はどういう観点でジェンダーを認識してるのかわかって面白いかもしれません。
意識したくない、意識したことがない、というのもある意味興味深い意見です。
ちなみに私は体も心も男です。
まだ読んでるか?
はてなには結構お人好しが居て、前にちょっと食いつめた奴(あなた程深刻な状況ではない)が銀行口座を晒したら、現金を振り込む奴が以外なくらい居たりしたんだ
だから、できるならあなたも住所と名前(ペンネームでいい)を晒すといい
今より状況が悪化することはないだろう
自分も貧乏だが、すぐ食べられて保存もきく多少の食料とかビタミン剤の類い、それに小遣い程度の金なら送れなくもないし
文章から察する限り、暗証番号やパスワードが思い出せない、問い合わせの方法が分からないってのは鬱状態ぽいし
それだけじゃどうしたって色々足りないもんは出るからね
ともかく、良かったら住所を晒すんだ
追記
どうもTwitter上では、『「ポスト東方」の時代 ~艦これが東方に取って代わった理由~』(http://anond.hatelabo.jp/20150222201638)という記事が話題らしい。内容はタイトルの通り、長年のあいだ同人ジャンルの頂点に君臨してきた『東方Project』を退けて『艦隊これくしょん』がその地位を奪い取ったというものだ。
まあ、実に扇情的なタイトルだし内容だと思う。『艦これ』の破竹の勢いはオタク世界に足を突っ込んでいるものなら誰でも聞いたことはあるだろうし、『東方Project』がもう最盛期ではないということは、当の東方で同人活動をしている人々が一番良く実感している事実だろう。時代は流れた、もはや同人ジャンルは『東方project』一強の時代ではない。それは確かにその通りだと思う。
だが、たとえそれが事実であったとしても、件の記事の内容には僕は首を傾げざるを得なかった。というのは、あの記事を書いた人物は自身がのめり込んでいる『艦これ』というジャンルの独自性について、全く主張できていないように感じたからだ。
僕がもっとも疑問を感じたのは、件の記事の後半部分に書かれていた「なぜ艦これは東方に取って代わることができたのか」、その理由についてである。
まず、真っ先に挙げられた「艦これという作品の魅力」について。
件の記事の筆者は「総勢100名を越えるキャラがそれぞれに個性を持つという丁寧な作りになっている」という点を挙げて、『艦これ』というジャンルが独自の魅力を持つことを主張していた。各々のキャラにボイスが着いていることも個性をより把握し易くし、それが創作意欲をかき立てる一助となっているとも。確かにそれは『艦これ』の魅力には違いないだろうが、しかし、果たしてそれが「『艦これ』独自の魅力」(それこそ、「『東方Project』を同人ジャンルの頂点から蹴落とす」ほどの魅力)なのかと言われれば、多くの人が疑問を感じるのではないだろうか。
例えば、まさしく件の記事の人物がこき下ろしていた『東方Project』を見てみよう。「総勢100名を越えるキャラがそれぞれに個性を持つ」という点に関して言えば、『東方Project』だってそう変わらない。『東方』の情報に詳しいサイトとして「幻想情報局 -イザヨイネット-」(http://izayoinet.info/index.html)というサイトが挙げられるが、ここでザッと見れば『東方』も同じように「総勢100名を越えるキャラがそれぞれに個性を持つ」作りになっていることが分かる。特に「個性」については、各々のキャラクターに詳細な設定が付与されていることから疑いようがないだろう。事実として、同人イベントでのサークルの配置の仕方が「描いているキャラクターで分けられる」程度には『東方』のキャラにだって「個性」があるのだ。従って、「総勢100名を越えるキャラがそれぞれに個性を持つという丁寧な作りになっている」という点を「『艦これ』独自の魅力」と言い切るのはさすがに無理があるだろう。まさか「近い将来完全消滅する」『東方』が持っている要素と同じものが「流行の最先端を行く」「『艦これ』独自の魅力」のわけがないからだ。
件の記事の人物は『艦これ』について「他の作品とは異なり、運営が明確に「同人活動を許可する」宣言していることで、グレーゾーンというものが存在しない」と述べていた。それが『艦これ』の同人ジャンルの発展の助けとなっているのはその通りだろうが、しかし、ここでもやはりそれが「『艦これ』独自の魅力」なのかと言われれば多くの人々が疑問を持つはずだ。
例えば、件の記事の人物が「完全に逆方向の作品」として挙げた『東方Project』を見てみよう。『東方』の版権を持っているのは「ZUN」というペンネームの個人であるが、彼は『東方』への二次創作にとても寛容だ。「個人の二次創作は基本的には制限しない」という彼のスタンスは『東方』ジャンルで活動しているものなら誰でも知っている話だし、具体的に言えば「二次創作のガイドラインが設定されている」くらいには『東方』だって運営が明確に同人活動に指針を示していたりはするのである。よって、この点も「『艦これ』独自の魅力」と言ってしまうのはいささか語弊があると言わざるを得ない。「斜陽著しい東方」と同じ要素をもって「快進撃の艦これ」の理由を説明するというのはなかなか不自然な話だ。
また、件の記事の人物は「分かりにくい上にほとんど意味のないような薄っぺらい設定で雁字搦めになっている東方と違って、艦これには大きな枠組みこそあれどストーリーになるような設定はほとんど設けられていない」という点を挙げて『艦これ』の独自の創作のしやすさを主張していたが、この発言にも首を傾げざるを得ない。というのは、ちょっと考えればこの発言は本人の前述の主張と矛盾していることが分かるからだ。
この発言を要約すれば、「東方には面倒くさい設定があるけれど艦これにはそれがない、だから創作しやすい」ということになる。この発言は明らかに前述の「『艦これ』の魅力は100名以上のキャラがそれぞれ持つ個性」という主張と矛盾している。何をもってキャラクターの「個性」を決めるかと言われれば、多くの人は「設定」だと答えるのではないか。どういう生い立ちであるのかとか、どういう信条を持っているのかといった「設定」でキャラクターの「個性」を把握しているのが普通ではないか。
件の記事の人物によれば、『艦これ』のキャラクターには「ストーリーになるような設定はほとんど設けられていない」という。その言葉を素直に読み取れば、「『艦これ』のキャラクターには「個性」が欠けている」ということにならないのだろうか。もちろん実際の『艦これ』のキャラクターたちに個性が欠けているなどとは僕は全く思わないが、しかし少なくとも件の記事の人物の発言の上ではそうなってしまっている。件の記事の人物が何を示して「個性」という言葉を使ったのかは全く分からないが、その設定に依拠しない「個性」というものはさぞ「壊滅的な衰退を迎えている」『東方Project』には見られない独自の魅力なのだろう。とても気になるところだ。
このように見てみると、件の記事の人物が主張した「『艦これ』が東方に取って代わった理由」は、その「東方とは完全に逆方向の作品」という発言とは裏腹に多くの点が『東方Project』と共通してしまっていることが分かる。「総勢100名を越えるキャラがそれぞれに個性を持つという丁寧な作り」なのもそうだし、「同人活動について寛容」な点もそう、そしてもっと言えば「自由な創作」という点に関しても同じである。
件の記事の人物は「薄っぺらい設定で雁字搦め」や「設定の解釈を巡る面倒な争い」などと非難していたが、実際の『東方Project』がそんな風に身動きが取れない状況かというと、決してそんなことはないだろう。例えば「東風谷早苗」というキャラ一人をとっても、描き手によって千差万別の描かれ方をする。その描き手によってあまりに違う個性の在り方の例としては、次の動画が分かり易いだろう。【第6回東方ニコ童祭】早苗と奇跡【東方MTG】(http://www.nicovideo.jp/watch/sm23887649 これは異なる早苗同士がMTGというカードゲームで対戦するという動画なのだが、同じ早苗なのにあまりにキャラが違いすぎてとても面白い)。
というわけで、件の記事の人物が「なぜ艦これは東方に取って代わることができたのか」として挙げた理由のほとんどはまったくの的外れである。そんなものは「オワコン」の『東方Project』がとっくの昔にやっていたことであって、「時代の最先端を行く」『艦これ』に始まったことでは決してないのだ。これはまったくの僕の邪推だが、件の記事の人物は単にジャンル同士の対立を煽りたかっただけなのではないかとすら思う。そうでなければあまりに理由付けがテキトー過ぎる。
まあ、それでも現に『艦これ』のジャンルとしての勢いは物凄いし、『東方』ジャンルにかつてほどの活気がないのは事実なのだろう。件の記事の人物の理由付けはほとんどデタラメだったが、事実だけは事実だ。僕自身はあまり興味がないけれど、礼儀として一応「それに代わる見解」を挙げておこうと思う。
なぜ『艦これ』ジャンルはこれほどの勢いで急成長し、『東方』ジャンルが翳りを見せているのか。それは単に『艦これ』はここ二年で登場した「新鮮なもの」だからで、『東方』はもう十年は続いている「老舗のもの」だからだ。もっと詳しく言えば、上記に挙げたとおり「多くの部分が『東方Project』と共通している」作品で、且つ「新鮮なもの」だったから『艦これ』は流行った、ということになる。
ごくごく一般的な話で、人は常に新しいものを欲しているが、同時に見慣れないものに抵抗感があるという矛盾した性質を抱えている。今までは『東方』と似たものがなかったので留まっていたけれど、「同じような」「新しいもの」が来たから飛び移った、それだけの話なのではないか。そこにあったのは『東方』を「蹴落とす」ほどの「独自性」ではなく、むしろ「同じような要素」だった気がしてならない。件の記事の人物の主張では「東方サークルの多くは艦これメインに移動している」らしいが、それこそむしろ「同じようなもの」であることを裏付ける証左ではないかと思わなくもない。似たようなものだったからそうやって移れたのだろう。
誤解のないように先に断っておくけれど、ここから先の文章は件の記事を書いた人物があまりに楽観的すぎて個人的にイライラしているだけなので、決して『艦これ』という作品やジャンルをディスる気持ちは全くない。全くというと語弊が在るかもしれないけど本当にほぼない。僕は『東方』も『艦これ』も同じくらいには愛好している。口調が攻撃的なのは件の記事の人物のあまりに『東方』を見下した態度に反感を覚えているからである。
件の記事の人物は「艦これの未来は明るい」と楽観視していたけど、僕はこれに激しく疑問を覚える。本当にこれから「ファンは増え続ける一方」で「二次創作に流れる層も増え」、「アニメ二期、劇場版も予定されている」のだろうか? あくまで個人的にだけど、僕には全くそうは思えない。逆に、油断すれば「斜陽著しい」『東方』と同じように衰退してしまう危険性をいくつも抱えているように思えるのだ。順に理由を述べていこう。
まず第一に、かつてあれだけ隆盛していた『東方Project』がこのように「衰退」したという事実がある。最盛期に東方を活動ジャンルにしていた人々からしてみれば、まさか同人ジャンルの頂点を明け渡す日が来るなど想像もしていなかったはずだろう。なのに、『艦これ』が同じような運命をたどらないなどとどうして言えるのか。
第二に、『艦これ』はシステム上、どうしても単調な作業になりやすい。『艦これ』は提督レベルや艦娘のレベルを上げてステージを攻略していくゲームだが、艦これユーザーの中には一定数この単調な作業の繰り返しに「飽きてしまう」層が存在する。提督レベルを100以上にするほどのめり込んでいても「やってること一緒じゃん・・・・・・」と言ってそれっきりという人間が、あくまで僕の周りにだが少なからず居た。今はまだ顕在化していないが、そのような「新鮮さを失う危険性」を『艦これ』のシステムが抱えていることは確かだろう。
そして最後に、件の記事の人物は「元々の人気が高かったところにアニメ化というキャッチーな戦略が功を奏し」などと言っていたが、もう反感を覚えられること覚悟で言ってしまうけれど、目が節穴なのだろう。どう「功を奏し」たのか説明してほしい。はっきり言ってアニメの出来はズタズタだ。日常ギャグなのかシリアスなのかはっきりしない中途半端な構成、そのせいで掘り下げようにも掘り下げられない艦娘たちのキャラクター、疑問を覚える点はいくつでもある。『艦これ』を活動ジャンルにしている従来のファンからすら、いやファンだからこそ戸惑いを覚えている人が何人も居る。具体例を挙げるのは控えておくが、第4話の構成の破綻ぶりを一文で要約したタグがPixivに登録されているのがその証だ。あくまで個人の感想だけれど、このままでは新規のファンを獲得するどころか、アニメをきっかけに『艦これ』ジャンル崩壊の序曲が始まっても全くおかしくはない。現にPixivではアニメが始まるまでは『艦これ』ジャンルで活動していたのに、いざアニメが始まってみればどういうわけか「キャラを量産するだけで個性に重きを置かなかった某アイドル育成ゲームの二次創作」とやらにメインの活動を移しているような人々が何人か居る。そうした現状を目の当たりにしてもなお件の記事の人物は「アニメで更にキャラの個性がはっきりしたことから、今後も創作はよりやりやすくなっていくだろう」だの「二次創作に流れる層も増えてくる」だの寝ぼけたことを言うのだろうか。さっさと目を覚ませと僕は言いたい。
また、『東方』について言えば、実はまだ「オワコン」という結論を出すのは勇み足ではないかと僕は思っている。確かに最盛期を知っている人々の目からすれば現状は「斜陽著しい」のかもしれない。しかし、それでもまだジャンルとしての息の根は止まっていないし、何よりもこの十年のあいだ同人ジャンルの頂点に君臨し続けたのは他ならぬこの『東方』なのだ。十年、最大ジャンルで在り続けた。その耐久性の高さはそのまま生きている年月が証明している。『艦これ』の隆盛は『東方』にとって過去最大の逆風かもしれないが、それでも、実際に十年間同人ジャンルで耐久してきた実績のある『東方』がこのまま終わるとは僕はどうしても思えないのだ。主観的な話で申し訳ないが、件の記事の人物が言うほどには『東方』は簡単に「完全消滅」したりはしない、そう僕は思う。
長々と述べてきたものの、ぶっちゃけこんな話は当の同人活動をしている人々にとってはどうでものだと思う。『東方』ファンも『艦これ』ファンも、そんな最大ジャンルだとか斜陽ジャンルだとかみみっちいことを考えて活動している人はそんなに多くないだろうからだ。楽しんでいる人々はいつだって目の前のことに真剣で、そんなことを気にする奴は自尊心の欠落したさもしい人間だけだと僕は思いました。終わり
「暁のヨナ」っていう少女コミックがあり、登場人物には韓国風の名前が付けられてます。
気になったのが韓流好きな人がこんな名前を使うだろうかということ。
「くさなぎ」と言えば普通は三種の神器である「草薙の剣」を思い浮かべるだろうし
日本ダイスキって内容ならこういうペンネームもあるだろうとは思うものの、
韓流好きな人がこういうペンネームを使うのはまるで何か偽装してるんじゃないかと疑ってしまった。
韓国人が日本で漫画家として活動する際に「何か日本風の名前にしておこう」と考えたという方が妥当ではないだろうかと。
先日、電撃大賞の一次結果が発表された。
嬉しいことに、その中に名前があった。いつもなら憂鬱な週末も今週ばかりは鼻歌交じりだ。こうやって危険な文章だって書いてしまう。
年に一作小説を書き、それを電撃大賞に応募する。これは私の趣味だ。1年かけて1作を書く。職業作家ではこうはいかないだろう、と思う。始めて応募したときは院試の最中に逃げるように書いた小説だった。当時ある電撃文庫の一冊に影響されて、あこがれだけが動機だった。せっかくなので応募し、院試の結果よりも気になったのを覚えている。それから数年、十数年。毎年毎年ひとつかいては応募する、を繰り返している。不思議なことに、複数完成させ、その中から選ぶ、ということはない。書き上げられるのはひとつだけだ。
数年来使っているペンネームと、愛着のあるタイトルが並んで表記された結果が誇らしい。私はまずタイトルありきだ。書きたい場面を思いつき、そこからタイトルを考える。タイトルがきまった手ごたえがあると、ソリティアが終わったかのように最初から最後まですべて決まる。この瞬間はいつだった身震いする。あとは梗概を完成させ、必要な資料をそろえて、読み込み、最終原稿を書くだけだ。これは6年間(というか最後の半年)で培った論文でっち上げの技術だと思う。先生、あの時の経験は今に生きています。
5000を超える応募作が半年もたたずに1割になる。そのからさらに減らされていき、受賞作が決まる。どこまで行けるかわからない。この楽しみは別格だ。今、日本でこれを感じているのは600人たらずだと思うと、全員と酒を飲みたい気持ちが湧いてくる。
増田と言えば。先日「猫の地球儀」を引用したそれがあった。前述の電撃文庫の一冊は「EGコンバット」だ。不思議な縁を感じる。
【はじまり】
転勤のため、新しく家電を探すのに使い始めたのがきっかけだった。
特に潔癖症ではなく他人が使っていたことは気にならないので、年度末の引越しシーズンに他人が不要とする中古家電を揃えた。
出品理由はまちまちだ。
少なくとも壊れたからではない。
家電については購入前に傷の状態を確認するため出品者に裏側の様子を写真で撮ってもらい、吟味した上で購入した。
結果的に同じものを店頭で購入するよりも4~6割安で購入できたのがとてもうれしかった。
【安全面】
無論、住所を提示しなければ物は届かない。
ここで住所を知らない他人に知らせることに抵抗がなければ問題がないと思う。
中にはペンネームで郵送してくる人もいる。
名前を1文字削ってSNS検索除けをするなど、自衛は必要だろう。
こういう時は平凡な名前の人がうらやましいと思う。
実際に取引をしてみると、良心的な人が多かったように感じる。
たしかに希少品を他の購入者と競う場合は必死になるが、ほとんどの場合は挨拶をしてゆるーく取引をする。
出品したものが売れればありがたいし、欲しいものが安く買えてもありがたい。
短文でのやり取りではあるが、その気持ちを自分なりの言葉で評価に書き込めば、おのずとトラブルは回避できる気がする。
【出品しはじめた】
買い専のつもりではじめたが、そのうち不用品を出してみたくなった。
わりと軽い気持ちで不用品を出品したら速攻で売れた。
購入者は「ちょうど探していた」と言っていた。
自分にとって要らないものでも、誰かにとっては今すぐ欲しいものなのだろう。
送料を安く抑える方法については少し勉強が必要だったものの、要らないものでも案外買ってくれる人はいるものだと思う。
(送料計算のために、郵便物の厚さを測る物差しと郵便用のはかりもそこで購入し、より効率的になった。そういう需要を見込んで売っている人がいるのだ)
送料や梱包費はかかっているが、出納帳をつけてみたら売り上げ4万、利益3万というところだろうか。
売り上げの中からさらに服や日用品を買ったりしてもなお1万くらいの利益だ。
稀に、買うわけでもなく人の売り物にイチャモンをつけてくる人は、一定確立でいる。
(それって安いところで売ってたやつですよね?など)
正義感が強い人なんだろうな、と思って丁寧に返事していたけど、最近は「元は安いものなので、まとめ買いのほうが得です」って書いて予防線を張っている。
買う人が納得すればそれでいいんじゃないだろうか。
あと300円以下にまけてくれって言う人も何人かいる。
値下げしたい気持ちは山々だが、それはシステム上300円以下にできないので、こちらではどうすることもできない。
【買って安いもの】
服は安い。ノーブランドであれば新品で送料込みでも、しまむらよりも安い。
サイズ違いやもう着ない女物は、どんどん安値で売りに出される。
金銭感覚がハイパーデフレに陥り、よっぽど一目ぼれしない限りは店頭ではもう服を買えなくなった。
布ものも、新品のものもかなり安く買えるし、出先で購入できる。
あと腐りにくい保存食や嗜好品も、店頭より安く出品している人もいる。
買うにはいいが、なかなか売れないと思う。
(というか店頭で買うのがばかばかしいくらいの安値になっている)
中古のゲームソフトも、アホみたいに安い値段でやり取りされている。
【よく売れたもの】
家電・ガジェット系は、人気機種なら中古でも比較的すぐ売れる。
使用感があっても実用的なものは学生や若い社会人には需要があるようだ。
季節ものも時期に合わせるといい感じに売れた。
夏用のファブリックがしばらく売れ残っていたが、先日急に暑くなってから即効で売れてしまった。
一方で、冬の暖房器具はなかなか売れないままでいる。
人気の漫画の全巻セットもよく売れた。
正直、古本屋に二束三文で持ち込むより高く売れ、買うほうも美品を入手できる。
フリマアプリがもっとはやると、古本業界が一番脅かされるかもしれない。
【その他】
たまに女子的なオマケをつけてくれる人がいる。
うれしいかったので、自分もまとめ買いしてくれた人に今度つけようと思う。
この記事が役に立ったと思ったら入れてください。
100円分のポイントつくようです。
招待コード:CSg379
SF、ライトノベルの世代間闘争が華やかだけれど、そんな中ひっそりと続きを出してほしいライトノベルを思いつく範囲で。継ぎ足してください。
火浦功って非実在作家だったの? 高柳君のペンネームだったのか。
最近全13巻の構想が発表されたのでめでたく卒業か。まだ予断を許さない。
合掌
合掌
作者が新シリーズ始めちゃった。
秋山には猛省を促したい。ただでも遅筆なのに後片付けもできないとは。先生は悲しいです。
あれで終わっててもいいけど。
もう出ないだろう。合掌。
これは本当、今すぐ出してくれ。頼む。
あれで終わってるのか。
日常ミステリの秀作。メディアワークス文庫なら化けてただろう。
あれはあれで終わっているけど。
イラストレーターにはとりわけ頑張ってほしかったのだが……。ファミ通文庫も切るのがはやすぎる。
なぜ一冊しかない。そんなに木本が憎いのか。
同じくファミ通文庫。のちハヤカワ。それでも無理か。
まだここに入れるには早すぎるかもしれないが。
風呂敷をひろげるだけひろげてそのまんま。よくある事故ではあるが。
なぜ1冊だけ出した。
思いつく範囲で以上。
「星くず英雄伝」を復刊したぽにきゃんBOOKSに期待したい。
事実かどうか?と言えば、勿論、事実じゃないよね。ただ、この文章の趣旨は虚偽の内容を世間に知らせたい訳では無く、似たような傾向があって質が低いと批判したかったんだと思うが。
これもウソでデマであるとも言えるが、趣旨が違うというのは理解してもらえるだろう。喩えるなら、これを聞いた山形氏か大森氏が怒り狂って元増田を訴えるみたいなもんじゃないかと。
この手のやり口ならお任せあれ――テクハラは、たとえば次のようにやるものである。
最近ちょっと売り出し中の山形某というライターがいるのをご存知だろうか。噂話に付き合うのに一々御本を購入するほど間抜けじゃない、という方も、bk1の定期コラム(ちょっとよい子ぶった方が、本当は山形氏らしいよね)をご覧になれば充分である――そう、一番最初のページの左側、そこをずうっと、ずうっと、ずうっと下に下りてって、はい、そこです。
このレビューの序盤は、たとえ話としてしている風に装ってはいるが、bk1の実在の山形氏のコラムにリンクしてあり、実在の山形氏への当てこすりである事は明白で、文言だけ取れば「最近ちょっと売り出し中の山形某」などという事実では無い内容が含まれている訳ですよ。
こちらのレビューも趣旨は虚偽の内容を世間に知らせたい訳で無く、『テクハラ』の代表例として改めて批判とイヤミを言ってるだけなんですが。それが巽氏の公式ページに置かれている事にどういう意図を見るかという話です。
テクスチュアル・ハラスメントでキーワード検索すると一番上に出てくるこの記事
http://www.flet.keio.ac.jp/~pcres/gender/reviews/textual.html
「慶應義塾大学文学部の巽研究会公式ホームページ メCafe Panic Americanaモ」のブックレビューページらしいんだけど。
そんなテクスチュアル・ハラスメント裁判なんて言われても知らんよという人のためにざっと説明すると、評論家兼翻訳家兼野村総研研究員である山形浩生氏が97年に出版された『オルタカルチャー 日本語版』の中で
そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で、ペンネームなら少しは書き方を変えればよさそうなもんだが、そのセンスのなさといい (名前が似ているとか年代が同じとか、くだらない偶然の一致を深読みしようとして何も出てこないとか)、引用まみれで人を煙に巻こうとする文の下手さといい、まったく同じなのが情けないんだが、まあこれはこの種の現実から遊離した似非アカデミズムに共通した傾向ではある。
このレビューの序盤が文学的な皮肉?諧謔?で、山形氏の記事は名誉毀損であるっていう理屈は、私にはさっぱり判らない。
裁判で勝って名誉毀損に対する賠償金を受け取った相手に対して、さらに公式ページを使ってちょっかい出すのはかなりお行儀が良くないと思うんだけど。
これまた炎上に火を注ぐだけのまとめブログ並みに誤解を煽る文章。ちゃんと裁判で山形浩生が負けて小谷側が勝訴したとまで書きなさいよ。
そんなテクスチュアル・ハラスメント裁判なんて言われても知らんよという人のためにざっと説明すると、評論家兼翻訳家兼野村総研研究員である山形浩生氏が97年に出版された『オルタカルチャー 日本語版』の中で
そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で、ペンネームなら少しは書き方を変えればよさそうなもんだが、そのセンスのなさといい (名前が似ているとか年代が同じとか、くだらない偶然の一致を深読みしようとして何も出てこないとか)、引用まみれで人を煙に巻こうとする文の下手さといい、まったく同じなのが情けないんだが、まあこれはこの種の現実から遊離した似非アカデミズムに共通した傾向ではある。
これだと裁判仕掛けたほうを馬鹿にする文章だが、そんなことはない。裁判になる前に何の対応も取らなかった山形浩生が馬鹿なだけ。
あと大森望がSF作家クラブに入れないってのは、東野圭吾が直木賞に落選し続けたみたいなのと同じような「ネタ」でしょ。何かマジギレしてる外野が多くて引く。
これまた炎上に火を注ぐだけのまとめブログ並みに誤解を煽る文章。ちゃんと裁判で山形浩生が負けて小谷側が勝訴したとまで書きなさいよ。
そんなテクスチュアル・ハラスメント裁判なんて言われても知らんよという人のためにざっと説明すると、評論家兼翻訳家兼野村総研研究員である山形浩生氏が97年に出版された『オルタカルチャー 日本語版』の中で
そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で、ペンネームなら少しは書き方を変えればよさそうなもんだが、そのセンスのなさといい (名前が似ているとか年代が同じとか、くだらない偶然の一致を深読みしようとして何も出てこないとか)、引用まみれで人を煙に巻こうとする文の下手さといい、まったく同じなのが情けないんだが、まあこれはこの種の現実から遊離した似非アカデミズムに共通した傾向ではある。
これだと裁判仕掛けたほうを馬鹿にする文章だが、そんなことはない。裁判になる前に何の対応も取らなかった山形浩生が馬鹿なだけ。
大森望氏が日本SF作家クラブに入会を拒否られ、それを契機に一部の作家がクラブを退会していることが話題になっている。
大森望氏といえば、文学賞メッタ斬り!であれやこれや言って文壇からの顰蹙を買ったり、清涼院流水デビュー時に本の帯に「新本格最凶のカードがミステリの幸福な時代に幕を引く」と書いて真面目なミステリファンの不興を買ったり、このミスの匿名座談会で作家たちから反感を買ったりと、あまり買うべきじゃないものばかりたくさん買い集めているが、しかしそれでも彼がSFにもたらしてきたものは大きい。
人気作品の翻訳、創元SF短編賞の審査員、描き下ろしSFアンソロジーNOVAの編纂、そして小松左京賞に落選した伊藤計劃氏や円城塔氏をデビューさせる手助け。
どれをとっても重要な仕事であり、冬が去りSFの夏が来てると言われて久しい昨今だが、その盛況っぷりに彼が一役買っているということを認めない人間はそう多くあるまい。
こうしてSF業界に多大な貢献をしている大森氏だが、不思議なことにSF作家クラブには所属していない。
SF作家クラブというぐらいだから、作家以外は入会できないのかと思いきや、このリストを見ればわかるように、翻訳家や批評家、編集者など作家以外の人間も多く所属している。
では、なぜ大森氏が入会していないのか?
というのが一部にとっては長年の疑問、そして一部にとっては暗黙の了解だったわけなのだが、昨年末その暗黙の了解を打ち破ってしまったのが元日本SF作家クラブ会長・瀬名秀明氏だ。
瀬名秀明元会長はクラブの運営方針に関して、事務局の人間と上手く折り合いがつかず会長職を辞任し退会することになったのだが、その際に自身のblogであまり世間一般のSFファンには知られていない事情を公開した。
ここで瀬名元会長は、大森氏を嫌っているクラブ会員のA氏とB氏の強硬な反対により、大森氏が1992年に入会推薦が却下されていたことを明らかにした。
けど、そのA氏とB氏って誰なの? 僕子供だからX-MENの爛れた人間関係は熟知していてもSF文壇の人間関係とかよくわからないよ~
と思っていたら、数日後、上のエントリに登場した友成純一氏のメールを受け取り、A氏とB氏がSF評論家の巽孝之、そしてその妻であり同じくSF評論家の小谷真理氏であることが晴れて明らかになった(知ってるやつは皆知ってた)。
そして、そうしたねちょねちょした因縁の背景には、テクスチュアル・ハラスメント裁判があると作家の高野史緒氏は書いている。
SF作家クラブの退会も視野に入れています: Takano's diary”
http://takanodiary.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/sf-8cb5.html
そんなテクスチュアル・ハラスメント裁判なんて言われても知らんよという人のためにざっと説明すると、評論家兼翻訳家兼野村総研研究員である山形浩生氏が97年に出版された『オルタカルチャー 日本語版』の中で
そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で、ペンネームなら少しは書き方を変えればよさそうなもんだが、そのセンスのなさといい (名前が似ているとか年代が同じとか、くだらない偶然の一致を深読みしようとして何も出てこないとか)、引用まみれで人を煙に巻こうとする文の下手さといい、まったく同じなのが情けないんだが、まあこれはこの種の現実から遊離した似非アカデミズムに共通した傾向ではある。
これだけだと、大森望関係ないじゃんと思われるだろうが、違うのだ。
山形浩生というのは実は大森望のもう一つのペンネームなのである!
嘘です!
いや、この文章の前に山形氏は
巽さんちの小谷真理
このごろすこーし変よー
どーしたのーかーなー?
エヴァンゲリオン語っても
いつも言うこたお・な・じ
「それはね、レイプされているのよ!」
つまんねーなー
という替え歌の歌詞を載っけており、この歌詞を一緒に考えたのが大森望氏だとされていたわけである。
裁判の具体的な内容を、より詳しく知りたい人はこちらをどうぞ
もっとも上でも紹介した瀬名秀明元会長のblogによれば、大森望氏が替え歌の作成に関わっていたのは誤解だったという書かれているわけだが、
※追記ここから
大森氏から訊いたところでは、確かにその宴会には参加したが、替え歌をつくった人々とは席が離れており、替え歌づくりにはまったく関与していなかったとのことであった。
さて、ここまで読んだの方々の中で上記の文章におかしな部分があることに気づいた方もいるかもしれない。
山形浩生氏がテクハラ事件を起こしたのが97年。大森氏が最初に入会を断られたのが92年。
…………タイムスリップが起きてる!
というわけではなく、やはり先ほど紹介していた瀬名秀明元会長のblogをちゃんと読めばわかるのだが、大森望氏と巽孝之氏にはテクスチュアル・ハラスメント裁判以前からの軋轢があったわけである。
私の印象では、A氏はかつてある文章によって大森氏にプライドを傷つけられたと強く感じ、大森氏を嫌うようになった。時が経ってもその態度を覆すことは、後のご自身のプライドが許さなかった、ということだと思っている。若いころの大森氏がやんちゃで、問題のある発言をしていたことは事実のようであり、そのことはご本人もいまは反省されているようだ。
ふむ。
こんなゴシップをまとめた匿名の文章などを読む下世話な貴方であれば、当然大森望氏が何を書いたのか気になるだろう。
その内容がこのまとめに書かれてある。
正直大したことは書かれていない。
別のところでもっとひどいことを書いていた可能性もなきにしもあらずだが、とりあえず存在を確認できるのはこれだけである。
たったこれだけである。
四半世紀前に書かれたたったこれだけの文章が2014年の現在まで尾を引き、ここまで色々なものがこじれているのだ。
何を買っても構いませんが、やはり他人の恨みなんてものは買うべきじゃないですな。はっはっは。
たったこれだけでここまで根に持たれるのだから、そりゃあ私だってこんなものは匿名で書くしかないじゃないですか。
あくまで、これらのまとめは私がネット上で見つけたパーツを組み合わせただけのもので、人によっては別の真実が見えており、別の言い分があるのかもしれませんが、それらに関しては関係者のさらなる暴露に期待しましょう。
そして、ここまで書いてきた私が大森望氏に言いたいことはただ一つ。
ぶく速 大森望の帯に騙されることを楽しみに 本を買っている
あっ、それと第34回日本SF大賞特別賞受賞おめでとうございます。
以上です、編集長。
以前「神保町的古本を、有料レンタルするサービスをツタヤが作ってくれれば、自分は利用するのに」というエントリを増田に投稿したが、
「喫茶店や待合室の蔵書リストを、スマホで共有化する」というサービスはあるようだが、
自分のアイデアは、個人が持っているプライベート蔵書を、セミパブリックにする、というもの。
★有料会員制。入会時に会費1万円は払うが、それ以外の会費はゼロ。
★会員は、まず入会金をデポジットしたうえで、自宅にある蔵書で「共用してもいい本」を最低10冊以上登録する。
(確証として、写真をアップする)
★他の会員の本を「借りたい」人は、その旨を会員に伝える。
→貸主の会員は、借主へ本をヤマト特別便、「料金受取人払」で送る。
★借主は読み終えたら、貸してくれた人へ料金差出人払いのヤマト特別便で送る。
貸す側はボランティアで本を貸す。
★貸出期間は最長1か月とする。
万一、1か月以内に本を返却しなかったり、今回のアンネの日記みたく本が破損された場合は、
ペナルティとしてデポジットの1万円を没収して、強制退会となる。
被害を受けた側は、この1万円を弁償代として受領。
(最初に本の写真をアップさせるのは、初期時の本が破損されてないことを状況確認するためでもある)
★また、「貸してくれ」とリクエスト受けたのに、一向に本を貸さないような会員も強制退会。
★安全のため、会員は同時に2冊以上の本は借りれない。
次の本を読みたければ、まず今借りている本を返す。
ヤマト運輸は、ペンネームで書かれた発送先を、自社内の照合リストに従って、実名実住所にコンバートして発送する・
★活性化のため、「読書の感想」をサイト内に投稿できるようにする。
多くの貸出をした人、多くの貸出を受けた人、多くの感想をアップした人には、ポイントを与えて、
最多ポイントの人には賞品を与える。
★「最初に10冊の本を登録する」というのは、「それなりに、本が好きな人」というハードルを設定した、ということ。
本好きが、互いの本棚を見てみたい、互いの蔵書を交換することでコミュニティーを作りたい、というのがこのサービスの根幹。
★会員になることで、「他の人の本を千円程度で読める」というメリットと、「読書愛好家同士と交流できる」というメリットがある。
彼らが家に持っている蔵書は、70年代・80年代の蔵書で、国会図書館にはあっても、市民図書館では既に廃棄されていたり、閉架扱いになってたりして、
「自宅で70年代の懐かしい本を熟読する」ということが、なかなかできない。
その夢をかなえることができる。
★仮に100万人が10冊を登録すると、その累計蔵書数は1,000万冊になる。これは国会図書館に匹敵する蔵書数。
★このサービスは、趣旨はボランティアに支えられているのだが、そうはいっても運営にある程度のコストはかかる。
誰がこのコストを負担するか?が問題だが、自分は「ヤマト運輸自身が、このサービスを提供する」ことで、このネックは解決すると思う。
つまり、ヤマト運輸は、このサイト運営で少しコストが出て行ってしまうが、一方で配送料収入を得ることができる。
電子書籍じゃない、「リアルな紙書籍」を物流交換させることで、輸送需要が喚起されることになる。
主語は大きくしないといらない争いを生み人を傷つける 「名指しdis」というのはそれがペンネームであっても一種の〇〇
「希望」「夢」は「普通」の人々しか持てないしろ物 知能的にそういう望みが持てない人達も居るということを「普通」の人は直ぐに忘れる
連休中の仕事が終わって帰って布団で大の字のポーズ 貧血気味で血が足りない
増田に書きたくなるような何か不満があったような気もするけどお気に入りの音楽聴いてたら忘れた
平台にテーブルクロスと電気ポット、茶器と茶竺、茶筅を置いて茶道以外の趣味の集いで形に捕らわれず
直ぐに来た人のためにお茶を立てられるようにしているイベントを通りすがりに見てハートの中ではてなスター付けた
そういう集いだと和服も自然体で様になる 今夜も月が出ているなら窓辺にお茶を置き月を眺めタブレットで増田を読みながら
心の中で好きな歌を歌いながら寝る
アイデアを創造するための話し合い手法として「ブレインストーミング」というものがありますね。
言葉は知られている割に、その正確な用い方は意外と知られていない側面がありますが、ブレインストーミングを強力なアイデアツールとして用いるために必要な手法の一つが「人のアイデアに積極的にただ乗りする」です。つまり「特に断り無く引用すること」「人の意見を自分の意見のようにしちゃうこと」を許可する。
これによって、集団で出すアイデアの質は確実に上がります。無断引用を許可することが良い結果を生むケースがあることは、私も同意します。
たとえば、某アルファブロガーさんのケースを考えてみましょう。たとえば「ちき○ん」さんとか。
彼女は書いた文章の独特な語り口や切り口で話題を呼び、多くの読者をつかんできました。結果、そのペンネームで本を何冊も出版するに至っています。
さて、彼女の書いた文章が、パクリおっけーな世界で、片っ端から無断引用(出典不明記)で大手のサイトに掲載されていたら、どうなっていたでしょう? 彼女はたぶん、有名になることもなく、そのうちパクられることに嫌気がさして、記事を書くことをやめてしまっていたのではないでしょうか。
書くことによって、何らかのフィードバックを(場合によっては利益を)得る、という点に関して、彼女の「閲覧無料のブログ」と、無名の人のツイートの間に、何か差があるでしょうか。
そう、一見それらは無料に見えていますが、「名声」自体も商品となる資本主義社会下においては、それらは明らかに「商品」として供されているのです。
そのとき、「無断引用」は、単なる「窃盗行為」となります。書くことによって得られる何かを書き手から奪うことで、書き手に損害を与え、優秀な書き手のモチベーションを奪い、ひいてはその書き手が将来書くはずだった(そして社会にとってとても有益だったかもしれない)偉大な文章を永遠に失わせるかもしれない……まさに社会的悪以外のなにものでもありません。
最初の例と、あとの例。何が違うのでしょうか?
それは、同意の有無です。最初の例は、一見「無断引用」のように見えますが、実は、「ブレインストーミングに参加する」という時点で、参加者は自分の意見がどう扱われるかということについて暗黙の了解をしています。自分の意見を「公共に供する」ことに同意することで、ブレインストーミングは成り立っている。しかし、後者は、自分の意見を「公表」はしても、それを「公共に供する」ことに同意しているわけではありません。それは、その人がIDなりペンネームなりの紐付きで発言していることからも明らかです。その人は「私の意見を公表」しているだけであって、「誰が使ってもいい意見」として喋っているわけではない。いや、匿名掲示板(たとえば増田や2ch)であっても、それは同じです。判例でも、たとえば2chの書き込みを勝手に書籍化したことで訴えられ、負けたという事例がありました。現代社会において、あらゆるテキストは原則として「値札のついた商品」であり、それが「無断引用」が許されない理由です。
ただし、一方で「インターネットの自由こそがあらゆる価値の源泉であり、インターネットから利便性を得ているあらゆる利用者は、また、インターネット上に送り出すあらゆる情報を、利用者の自由な利用に供することに同意すべきであり、特に明確な意思表示の無い限り(場合によっては、意思表示があっても)、あらゆる情報は自由にもちいられるべきである。それがインターネットの唯一の掟である。」と考える狂信者な方々(賛同者が少ないかもしれなくても、それはそれで一つの理屈です)もいますし、そもそも資本主義自体を私は認めない、という意見もあるでしょうから、上記の私の意見に納得されない方も一定おられるとは考えます。ただ、資本主義社会に生きて、それを認める立場であれば、逆にどのようにして「無断引用はオッケーである」という論理が成り立つのか、説明する必要があるのではないでしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20130510210114
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130510210114
lost312
こーゆー人が「わかってる人」ってやつか。どこで情報得てるのやら。アニメーターの担当箇所なんて、一般雑誌に載ってないよね?ww2013/05/10
ざっとケースを挙げると
①過去の仕事で目立つ作画をしていた人、有名な人だったら、EDの原画クレジットに名前があるのを見越して推測は可能。
②インタビュー等で本人が言った。
③人づてに聞いた。
①は作画オタの教養主義たる所以です。
過去の仕事ぶりからそのアニメーターの作画上のクセ・タッチ・影響元を脳裏にインプットしておき、すぐさまそれを思い起こして目の前の気になる作画とすり合わせる事が出来るか、にあります。
例えば「この作画はかなりA氏っぽいがA氏の名前はクレジットされていない、その代わりA氏に影響を受けたとされるB氏の名前が載っているので、おそらくこのカットはB氏の原画だ」とこんな感じで"推理"するのです。
絵そのものは作画監督に完璧に修正されてても、動きのタイミングはその人の個性が残ってる場合が多いので、そこから推測や考察が出来ます。
諸事情でノンクレジット(名前が載ってない)って場合でもある程度は判別は出来るでしょう。例えばダイターン3の2話とか12話とか22話には金田伊功の名前はEDクレジットに一切無いけど、見りゃ解るでしょ。知らんって?
ただ「限りなくこの作品やってるに違いない」くても「確実にやった」かどうかまではわからないので、確定するまでは「かもしれない」「(推測)」などの言い回しをしてお茶を濁しておきます。(作画wikiなどの編集時において)
当然外す事も多いです。
WEBアニメスタイルの「アニメの作画を語ろう」(http://www.style.fm/as/01_talk/01_talk_top.shtml)などは情報源の宝庫です。
インタビュー受けてる自身の仕事の他に、「あそこは◯◯さんがやった」とポロッと漏らしてくれるので、情報は集めやすいのです。
雑誌に載ってないよねと言いますが意外と結構載ってるもんなんですよこういうの。
稀にノンクレジットやペンネーム仕事もバラしてくれるのでありがたいです。
例えば『Sci-Fi HARRY』のOPスタッフは「絵コンテ・演出・作画監督:原田慎之介 原画:原田組」という謎の人物及び団体ですが、原田慎之介なる人物が大平晋也である事は作画オタなら誰でも知ってますし、原田組なるチームも橋本晋治や小西賢一らである事は本人達が自分から喋っています。立場上名前を出しちゃいけないから隠すはずなのですけどね。(共通項として、みんな同時期にジブリの某作品にメインで関わってた人たちという)
そんなわけで②は確実なソースの根拠になる・・・と思いきや、本人の記憶違いもたまに有ったります。その場合、間違ってる事に気が付かないと作画オタは情報をいつまでも鵜呑みに信じるしかないですが、訂正情報があった場合はすぐに検証してデータを更新しなければなりません。(出来れば、の話ですが)
それらに比べたら③はあまり無いですが、アニメーター界隈がいかにタコ壺状態であるか皆さんの想像する10倍以上は狭いものなので結果的に共有情報が多い→そこから意外な情報が流出する、という事も多々あります。
若いころアニメーターさんと知り合いだったっていうようなロートルオタクがブログやツイッター等で思い出話的に「実は・・・」と話してくれる事も多いです。
後は作画オタ系のブログや作画@wikiと、2chの作画を語るスレですかね。前述したように作画オタの基本は教養主義なので、腐っても鯛と言わんばかりにコミュニティが崩壊してても割りと語る時は語れるし情報は転がっているものですよ。よく分かってないフリして(ここ重要)「◯◯って□□だよね?」などとわざと間違った情報を出して聞いてみると「ちげえよXXに決まってんだろそんな事も知らないのかこれだからニワカは・・・」「ちなみに□□は△△だしXXは●●なんだぞそれぐらい調べとけカス」と鬼の首取ったかの勢いで色々教えてくれます。
で、そこを上澄みだけすくい取って知った気になっていれば、id:TM2501みたいな作画オタぶって他のオタ連中から一歩リードしてるつもりになってその実ニワカ以下のモノ知らず一丁出来上がりってわけです。
こんな感じで、作画オタクの世界ってものすごくアナクロなんですよね。
超能力か何かで誰の仕事か当ててるなんて事はまったく無いんですよ。
創業時からの熟成ソースを継ぎ足し継ぎ足しで現代まで受け継いでいるような存在。そこに義務感や使命感、そして優越感を持ってる厄介なヤツら、それが作画オタクです。
最近ブクマを荒稼ぎした寒天プールの人(http://sajiya.blog89.fc2.com/blog-entry-312.html)も、そういった作画的教養主義の荒波に揉まれてきたからこそこういう記事が書けるんですよ。id:TM2501と違って。
この人、「自分は作画オタじゃない」と言ってますけど、作画オタ間での同族嫌悪は全然珍しいものではありません。こいつらなんか一緒にされたくないと思ってる作画オタ同士は多いですよ、本当に。
追記:
■関連記事
http://anond.hatelabo.jp/20130520105912
■作画崩壊厨と『鉄腕バーディーDECODE』の思い出
Naoki Takahashi
俺が言ってるのはそれ以前の話だ
「陵辱マンガはオタクいじめオタク蔑視オタク抑圧を割と素直に露骨に反映してきたものである」(ドヤッ
誰にもなにも聞かれてないのにここからすでに、
「陵辱マンガ全体の成立理由、消費者や作家のどんな心理が反映されているか」を君は断定的に語っているよね?
という話をしているのだよ
「陵辱マンガはオタクいじめオタク蔑視オタク抑圧を割と素直に露骨に反映してきたものである」
この前提が存在しなければ
「彼の憎悪、性的虐待を加えて無力化したいという嗜虐欲求は、ほとんど「女性」だけに向かう」
この俺の発言も存在しないのだ。君の作ったストーリーの素直な反映なのだからねww
だから
「人ぞれぞれだ、勝手なストーリーをつくるな」と言うのであれば、
「陵辱マンガはオタクいじめオタク蔑視オタク抑圧を割と素直に露骨に反映してきたものである」
この発言を否定しなければ矛盾は解消されないワケw
文章もまともに読めないおつむで「陵辱マンガ消費者の心理」なんて一席ぶつからには、
「匿名」で書いておけば傷は少なかったのにね?
あっ、そうか。だからエロゲの方も、ペンネームを本名から変えて正体を隠しちゃったのかそうかそうか
オツカレチャーンwww