はてなキーワード: ビートルズとは
マネキンチャレンジ(Mannequin Challenge)は、バイラル・インターネット動画である。
その場にいる全員が一斉にマネキン人形のように静止し、その様子を動画で撮影する。ハッシュタグの「#MannequinChallenge」は、
TwitterやInstagramなどの人気のあるソーシャルメディアプラットフォームで使用されている。
BGMには、レイ・シュリマーの『ブラックビートルズfeat.グッチ・メイン』が使用されることが多い。
このブームの発端は、2016年10月12日にフロリダ州ジャクソンビルの学生が投稿した動画であったと考えられている。
なぜAKBが売れてあなたの音楽が売れないのかというと、皆忙しくてあなたの音楽に辿り着くまでの時間や労力、関心といったコストを払えないからです。AKBはそのコストをほぼ0にするために莫大なマーケティング費用を払っています。「真っ当な音楽を作ればリスナーがコストを払う」など傲慢です。
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Twitter /〇〇〇〇
や、いいこと言ってる風ではあるけど、全然間違ってる。こう言う考えは捨てたほうがいいし、耳を貸すと危ない。
akbと同じくらい売れている日本人アーティストはいる。彼らは良い音楽を作ることしかしてない。日本では売れず、世界で売れている。akbが世界で売れることはないだろう。ボアダムズはakbのマーケティングコストの1/1000もかけてないがakbに匹敵するくらいの知名度と売り上げを誇るだろう。日本ではもはや無名なんだろうけど。ちゃんとした世界の芸術批評に晒されるポジションまでいってる。そう言う人はいっぱいいる。
日本で良い音楽が売れないのは、日本では良い音楽のリスナーの市場が小さいってことに尽きる。英語がわからんこととね。
akbは音楽とは言い難い。アイドル性のマネタイゼーション手段としての音楽だ。アイドルは素晴らしいと思う。創造的だ。でも、ドラッカー風に言えば、「客が何を買っているか?」と問うた時に、akbのファンは、音楽を買っているのではなく、アイドル性と、そのストーリーへのコミット(帰属、承認)と、性欲などのブレンドを買ってる。応援する、好きなアイドルに対してお金を払う方法がないので、そのチャネルを買ってるってのが一番の欲求だ。マーケティングは関係がない。こう言う誤謬は音楽への冒涜でもあるとおもう。音楽をマネタイゼーションとして用いることも別に戦略なんだからまあいいと思う。
ビートルズをさらに売るために、あるいはアイアンアンドワインをさらに売るために、ブライトアイズをさらに売るために、akbのような手法を繰り出したところで、音楽としての売り上げが10倍も上がるなんてありえない。良い音楽をこのみ、それを探し続ける人が、忙しさに負けることはないし、そう言う音楽リスナーは音楽のファンとは言い難い。世界の良質の音楽をきく人5000万人が、ボアダムズの音楽を再生するのに辿ったロジックは、akbのそれとは全く違う。彼らはアイドル音楽を無視する能力すら備わっているし。ビートルズはスタジオに入って、つまらないマーケティングに引っ張り出されることをやめてさらに百年に渡ってお金も稼ぎまくる良質の音楽を作った。akbがやったことの真似をしろと言うなら、「欲望を正確にトレースしろ」、だろう。「それは音楽とは関係がない」ということも含めて。
「良い音楽を作っている」と思う作家の方は、こんな言葉は無視しなくちゃいけない。僕は日本にもいるに違いない良質の音楽を作れる才能が成功することを願うが、良い音楽を聞いているリスナーの母数が、日本に置いて少ないことがあなたたちの最大の問題だと思う。音楽作る以外に頭使うところがあるとしたら、日本は当面、無視するといいと思う。
これTumblrで流れてきたんだけど、こんなにドヤってるのに「ボアダムス」のことを「ボアダムズ」って間違えて覚えているの誰か教えてあげてほしい。あとついでにボアダムスはシンプルに「良い音楽を作ってきた」というより、その前衛性や山塚アイのセンセーショナルなパフォーマンスといった特異な存在感で強い話題性を持っていたっていうのも教えてあげてほしい。勿論ボアダムスは本当にかっこいいけど、「いい音楽を作れば売れるんだよ」の代表例で挙げられてるのを見たらなんだかすっごいモヤモヤしたよ。
朝ドラに峯田が出ている。峯田とは峯田和伸さんのことで、彼はGOING STEADYまたは銀杏BOYZのボーカルとして知られている。現在は俳優としても活躍し、その活動の幅を広げている。
今期のNHK朝の連続ドラマ小説「ひよっこ」で、峯田和伸さんは、消息不明になった父親を追い上京する有村架純さん演じるみね子のおじ、宗男役で出演している。宗男は茨城の片田舎でマッシュルームヘアーでバイクに乗り、ロックンロールをこよなく愛する農家のおじさんで、いつも人を笑わせている。
だがその笑顔の裏には戦争の影が……というキャラクターで、先々週、宗男が上京し過去がつまびらかになるビートルズ来日編が終わった。わたしはその録画を昨日見終わって、すごくよかったなと思ったので妹にLINEをした。感想を打ち込んでいるうちにわたしは昂ぶってしまい、真っ当な感想からは外れた見当違いな見方をしていることに気づき、はっと我に帰った。
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時は2005年、中学1年生として迎えた冬に銀杏BOYZのアルバム「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」と「DOOR」が同時発売された。
北海道新聞日曜版のCDアルバム売れ筋ランキングの4位と5位にランクインしていて、聞きなれないアーティスト名に、なんだろう?と思った。BOYSではないのか?
それからすぐラジオで「青春時代」が流れだして、彼らが小学生のときに一回だけ聴いたことのあるGOING STEADYであることを知った。お小遣いで急いで「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」のほうを買って聴き込み、いたく傾倒し、「DOOR」もそれからちょっとして買った。
当時のわたしは、Mステに出ないようなバンドをラジオで聴いてCDを買うことがカッコイイと思っていた。お恥ずかしい話、今もその気持ちはあまり抜けていない。当時全盛だったMDプレイヤーを持っていなかったわたしは、ラジオとカセットテープのプレイヤーが一緒になったかさばるガジェットを常に持ち歩いていて、銀杏BOYZをいつも聴いていた。
中学生だったということで免じて許してほしいが、当時のわたしにはセックスなどとはいった歌詞が衝撃的だった。というか性とか焦燥感とかみじめな気持ちを歌にして世に出していいとは知らなかった。だから峯田和伸さん、もとい峯田は本当のことを歌っているなという気がして、信じられると思って好きだった。
友達にもたくさん貸したし、カラオケでも歌った。もしタイムマシンがあったら、おいおい、やめてAKBとかにしておけ!と言いに行きたいが、当時のわたしは今よりもなお浅はかだったので、カラオケで皆の前で銀杏BOYZを歌い、セックスなどと口にし、ぐにゃりと曲がったような気まずい空気になるのが好きだった。
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「カラオケで銀杏BOYZとか歌うの正直やめてほしいんだよね」
と言われた。友人にとっての色々な思い出が詰まったバンドなので、目の前で歌われると複雑な気持ちになると言う。
その時は正直
「は?」
と思った。だが今のわたしもまた、自分よりかわいい女の子の口から「銀杏BOYZ」という言葉が出るとムカつくのだった。
肌がきれいだったり目が大きかったり彼氏がいたり毎日充実していそうな自分より幸せそうな女の子が、ひとたびでも峯田と言おうものなら腹がたつ。お前に峯田の何がわかるんじゃい!なんぼのもんじゃい!と思う。何人たりともわたしのまえで銀杏BOYZの話、および峯田の話をしないでほしい。ライブに行った画像をインスタに上げないでほしい。わたしの知る限り峯田のことを一番身近に思っているのはわたしでありたい。そんな自分勝手な思いが溢れて止まらなくなる。
自分でもおかしな考えだということがわかっているので、皆さまにはどうぞ好き勝手に銀杏BOYZの話をしていただき、ライブに行っていただき、インスタに画像を上げていただき、朝ドラを見て峯田って人いい演技するな〜!などと思っていただきたいのだが、心の奥底で、やめろ〜〜〜と叫びたがっている卑小な自分がいる。
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そんな折、先々月の銀杏BOYZのライブ「東京のロック好きの集まり」に行った。これだけ勝手なことを言っておいて恐縮だが、実は初めてだった。戦争反対ツアーは実家の近所のペニーレーン24に来ていたはずだと手元にあるフライヤーにはあるが、当時はまだ室蘭に住んでいた頃だったので行けなかった。それからも本当はちょくちょく札幌に来ていたのかもしれないが行っていない。全裸になり書類送検されたことをヤフーニュースで知ったり気がついたらメンバーが峯田以外全員変わっていたりしたがよく知らない。
わたしのなかでだんだん銀杏BOYZはあまり触れちゃいけない過去へと変わっていて、ライブも気軽に行ける感じではなかったのだ。
でももういい加減成人したし、処女でもないし、峯田は朝ドラに出ているし、いくばくかの郷愁とともに軽い気持ちでライブを楽しむことができると信じていた。
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峯田が出てきて初めて生で峯田を見た途端に涙がボロボロ出てきて止まらなかった。ステージには本物の峯田がいて、すぐにモッシュとダイブがはじまって峯田の靴がどこかへ飛んで行き、演奏が止まりやり直しになった。そしてまたモッシュ。対バンのnever young beachがさっきまで作り出していた平和な西海岸か熱海の浜辺のような景色はいずこへ?「ネバヤン初めて聴いたけどいいね〜」などと言って、からだを揺らしていたギャルは?そんな疑問が解消されるはずもなかった。
峯田は10年以上前に作った曲を、目をかっぴらいて歌っていた。あっという間に大合唱になる。わたしも全部歌えてしまい、そのことをきっかけにまた涙した。峯田〜〜〜!!!と泣きながら叫ぶ人があちらこちらにいた。四肢がちぎれそうなほど暴れる人がいた。嗚咽しすぎて座り込んでしまう女の人がいた。さながらカルト教団の様相であった。だがわたしもまた、全身の水分が出きってしまうのではないかというくらい涙が出てきてしまい、ボロボロボロボロ泣いていた。
峯田が目の前で10年以上前に何度も何度もカセットテープが伸びきってしまうくらい聴いた曲を歌っている。それだけで絶望的なほど悲しかった。恥ずかしい話だが、わたしはその時、中学生の時に部活で無視されていたことをありありと思い出していた。クラスにも同じ部活の人がいたので無視がそのまま派生して、教室でも居場所がなくなって昼休みはずっと本を読んでいた。アンブシュア(口の位置であること)を変えようとして失敗して全然トランペットを吹けなかったこととか、天然パーマなので髪型が本当にきまらなくてどうしようもなかったこととか、人に話すまでもないみじめな思い出とその時の感情がありありと思い起こされ悲しかった。もう少し上手くやれただろう、という気持ちと、でも今も上手くやれないしな、という諦めの気持ちが10年前と今を強く結びつけた。その中心に峯田がいた。
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思うにわたしは、つらかった時に銀杏BOYZを聴きすぎていたのだろう。どれもありふれた大したことないつらさなのだが、そのせいで感情と峯田がほつれてからまり、ひき離せなくなっていた。わたしのつらい気持ち、悲しい気持ち、自分のことが嫌で消えてしまいたい気持ちが擬人化したものが、峯田その人だと認識してしまっているようだった。
峯田は、本当にしんどい時に自分もまたそうだと言って肩をさすっていてくれていた親友であり、同じようにみじめな姿をさらけ出してくれたキリストであった。少なくともわたしはそのように認識していた。勝手に。そしてライブ会場で嗚咽が止まらなくなっていたり、暴れていたり、自己のコントロールが効かなくなっている人たちもまたそうなのだなと思った。
峯田、もとい峯田和伸さんは、本当は自分のやりたい音楽は、代官山のシャレオツなカフェで静かにギターの弾き語りをするようなものだと言っていた。だが、求める人がいる限り求められる音楽をするとも言っていた。それが本気かどうかはわからない。だが最近の曲をやってもウケはイマイチで、対して10年ほど前の曲をやると客は熱狂していた。
客は皆、峯田を前にして自己憐憫におちいっていたのだと思う。つらかったとき、苦しかったとき、悲しかったとき、さみしかったときに銀杏BOYZの曲を聴いて、勝手に癒され勝手に肯定された気持ちを手放したくないのだ。
もし峯田が出てこないで、ステージには代わりに峯田の3Dのホログラムが投影され、バックでCDをかけられていても、皆変わらずギャンギャン泣いたと思う。皆、過去に囚われていた。皆にとっての峯田はつらかった過去そのものであり、みじめで変えようがない過去の自分そのものでもあった。
だから皆、銀杏BOYZを好きな他者を認めることができない。その当時の自分をどうにかしてくれなかった人間に「銀杏BOYZいいよね」とか言われてもムカつくのだ。お前に何がわかる、と思うのだ。峯田は限りなく私的で個人的な存在だった。
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そんな峯田が朝ドラである。天下の日本放送協会だ。自分の苦酸っぱい異臭を放つような過去が、大きな顔して朝ドラである。初めて知った時、もう、まともな気持ちではいられなかった。
でも「峯田」とわたしが名づけていた人格はこの世には本当は存在しなくて、この世には峯田和伸さんしかいなかった。峯田和伸さんは、最近は映画に舞台に引っ張りだこだったので、ちゃんと素晴らしい演技ができるのだった。わたしが過去に囚われている間に、峯田和伸さんは大活躍していたのだった。というか銀杏BOYZの時点で既に大成功していたのだった。
そして今や母親や妹を含む日本中の人が峯田和伸さんをテレビで見ている。今では自然なことに思えるけれども中学生のわたしに伝えたらびっくりすると思う。裏切られたと思うかもしれない。でももしかしたら、誇らしく思うかもしれない。なんとなく、そうであってほしいなと思う。昔の自分には、ホッとしてもらいたいなと思う。
宗男はイギリス兵に助けられた命を大切に生きていて、その象徴がビートルズだと言う。ドラマを見ていると宗男は峯田そのものにしか思えない。あくまでも峯田和伸さんではなく、峯田である。
わたしが勝手に作ってしまっていた峯田というパーソナリティが、お茶の間をにぎやかし人々に受け入れられていった(ように見えた)ことは、わたしを救った。峯田和伸さんその人とはかけ離れているかもしれないが、わたしが勝手に作り上げ支えてくれたわたしのなかの峯田が、まるで時空を超え戦争すら経験しどこか浮世離れした人間となり、最後に全てを包み込むように、「だから笑って生きることに決めたんだよ」と言ったことはある種のセラピーだった。
「だから笑って生きることに決めたんだよ」の言い方はあまりにも芝居がかっていて、プロの俳優さんだったら絶対にこんな言い方はしないだろうと思ったが、とても優しく耳に響いた。わたしはこのシーンの録画を消していない。また何回も聴くと思う。それこそテープがすりきれるまで。
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そんなこんなで銀杏BOYZの武道館公演のチケットも当選しました。またボロボロ泣いてしまいそうなので誰と行くかはまだ決めていません。楽しみです。
https://twitter.com/micorun/status/868415841812873216/photo/1
頭の悪い人「りんご、赤い、おいしそう」
頭のいい人「青森県、Apple、万有引力、椎名林檎・・・・・・」
でりんごから連想される単語数やそのスピードで頭の良さが測れるというものだ。
博識=頭がいいというのは、間違いではない。
しかし、実際に仕事に役に立つのは思考の広さではなく、深度である。
頭の悪い人「りんごがある」「おいしそう」⇒おわり
博識「りんごがある」「おいしそう」⇒「青森県、Apple、万有引力、椎名林檎(ドヤァ)」⇒おわり
頭のいい人「りんごがある」「おいしそう」⇒「食べたい」⇒「持ち主の許可が必要」⇒「誰のだ?」⇒「Aの可能性が高そう」⇒「A、りんご食うぞ。ありがとう」とまんまと林檎にありつくことができる。
林檎からリンゴ・スターを思い浮かべることができるのは、ビートルズを知っている人間だけだが、
林檎を食べるために、その林檎の持ち主の許可を得ればいいと言うことは誰でも思いつく。
手洗いの様に、歯磨きの様に、掃除の様に、能力ではなく癖なのだ。
ただし、
「りんごがある」⇒「今日は暑い」⇒「りんごが傷む可能性がある」⇒「冷蔵庫に入れておこう」⇒BOSS「おい、俺のりんごしらないか?」⇒「冷蔵庫に保管しました」⇒BOSS「あ?誰が勝手に移動させていいって言った。殺すぞ」⇒「ひぃぃ」
最近の曲よりもきいてて落ち着くし、きいたことあるのもあるから楽しい
年取ってあっさり和食が好きになるのと似てる気がする
しかしいい曲多いなー
ついこないだのは60sのやつで、ビートルズもどきが多すぎてワロタw
stop in the name of loveってカバーしかしらなかったけど、オリジナルはこんなにまったりしてムーディーな感じの曲だったんだねえ
サウンドオブサイレンスはyoutubeで年取ったあとに演奏してるのはみたことあったけど若いころのは見たことなかったから新鮮だったけど、年取ってからのほうがいい感じに演奏も歌唱も力ぬけてて歌本来のよさが出てたような気がしたなあ
中学校の英語の授業で「英語の歌を唄おう」っていうのがあった。
英語歌詞の曲(ビートルズとか)がいくつか載っている単元をやっているときに、普通の先生ははテープを聴かせる程度なのだろう。
うちの学校では、好きな曲を一人ずつ唄って発表するというものだった。
たぶん先生が、英語を楽しんでもらおうっていう趣旨でやってくれたんだと思う。ギターで全曲弾けるように練習して準備してきてくれた(今考えれば忙しかっただろうに)。
みんなも口ではなんだかんだ言いながらも、それぞれ好きな曲を選んで練習してきていた。
でも俺は変声期の真っ只中で、声を出すのが恥ずかしかったというのもあり、全くノリ気ではなかった。
少しでも短い曲を探していた。
すると、その単元の中ではなく、目次よりも前のページの片隅に、 "Twinkle Little Star" (キラキラ星)が載っているのを見つけた。
本番の日。誰も一番に発表したいという者はおらず、先生が指名することになった。
たぶん英語の成績がよかったので、うまくリードしてくれると期待して選んだのだろう。俺が指名された。
最初の発表者がそれなもんだから、次の子も練習してきた曲をやめてキラキラ星を唄う。だって短いし練習しなくても唄えるんだもの。
その次も。その次も。結局、全員がキラキラ星。
(わざわざ他の教科と交代してもらった)2時限の予定だった発表は半分の1時限で終わってしまった。
先生の悲しそうな顔は今でも忘れられない。名前は思い出せないけど。
(追記)
書き忘れたけど
http://anond.hatelabo.jp/20161122110427
これを読んで、
教師もきちんと指示を出さないと、なんとか抜け道を探し出そうとする生徒もいるんだぞ
ってことで思い出した。
60年代にビートルズが流行っていたときにその時の老害は「ビートルズとその真似をしてジーパンを履く最近の若者はけしからん!不良だ!」と批判した
しかし、そのビートルズ世代は今の音楽業界を批判し自分たちの価値観を押し付けようとする立派な老害となっている
もっと時代を遡れば明治や大正の頃小説が流行っていたときその時の老害は「最近の若者は小説ばっか読んで!けしからん!漢文を読め!」と批判した
ゲームも同じくCSオジサンと呼ばれる老害が「最近の若者はスマホゲーばかり!ガチャばかりしよって!なぜPS4を買わないのか!けしからん!」と騒いでいるのである
こういったCSおじさんの過剰なまでのスマホゲー批判には理由がある
スマホゲーの台頭により自分たちの好きなコンテンツ・コミュニティがなくなるのではと恐怖を抱いているからだ
スマホゲーは当たればとてつもなく儲かるので必然的にメーカーはCS部門を縮小、廃止しスマホゲーに力を入れる
そうなると発売されるCSソフトの本数は減っていく…そして市場規模は激減し、またメーカーはCS部門を縮小しますますスマホゲーに力を入れるのである
CSおじさんは声だけでかい少数派の金払いの悪いゲーマー様(笑)なのだから多数派の金払いのいいゲーマーのいるスマホゲーに力を入れるのは当然である!
そうした繰り返しによりCSおじさんはやがてCSソフトが一切発売されなくなり、CSゲー自体がなくなってしまう!と恐怖を抱いているのである
そのためCSおじさんは自分たちのコンテンツ・コミュニティを守るために必死にスマホゲーを批判するのである
しかしその努力もむなしく2015年のCSゲーの市場規模は2000億円を割ってしまった、このまま消滅するのは確かであろう
やがて日本はスマホF2Pオンリーとなり、CSゲーは本当にマニアだけがやる超ニッチ産業になる
どの娯楽業界においても老害が新しい文化を批判するのは上記のように新しい文化が老害の好む文化を滅ぼし、
自分たちのコンテンツやコミュニティが消滅することに恐怖を抱いているからだというのは明白である
いろいろ書いたわけだがCSおじさんに言いたいのは、自分たちの好きなゲームがなくなってほしくなければ月に10本、新品でソフトを買う、それはできるよね?