はてなキーワード: ヒグラシとは
私にこれお盆の帰省について聞かれるわけですけども、実は私自身、27年前の母の実家への初めての帰省、5歳でしたけども、いまだに鮮明に記憶しています。
それは例を挙げますと例えば精霊牛といわれたキュウリの馬とナスの牛。それを乗せる精霊舟っていうのがありました。
送り火の灯籠と精霊舟が流れていく川を食いついたように見ていました。非常に印象に残っています。
また、底知れないご先祖さまの力というものを感じました、あの盆踊りも印象に残っています。
そして何よりも私自身、記憶に残っていますのは、曾祖父の墓参りです。広島の空襲で命を落とした。迎え火を墓前で焚いて、その火を絶やさないように、提灯に明かりを灯して、先祖の霊を家まで導いて帰りました。
夕暮れ、ヒグラシの鳴き声、線香の匂い、その時のこと、すごく印象に残っています。
迎え火の提灯を持ちながら、両親や祖父母や曾祖母と一緒に歩いた。数珠を握りしめた曾祖母が、なかなか墓前を離れようとしなかった。あの瞬間というのは私はずっと忘れることができなかったんです。
さらに当時、都会に住んでいた私は、田舎の全てが新鮮でした。そしてこのことを契機に、御先祖様を大切にする日本の文化にふれる、大きな契機になったと思います。
こうした素晴らしい行事をぜひいまの子供や若者が見て、絆を伝えたい。
さらに親戚の集まり、田舎で祖父母と過ごす、こうしたものもしっかり私は大きな学習にもなるのではないかというふうに思います。
家族の絆、そうした姿というものをぜひ見て欲しいというふうに思います。
内容はタイトルの通りだ。
なんだかもう色々と疲れてしまったし、自分がなにをしたいのかもとうの昔に解らなくなった。
元々、浪人して適当に都内で遊べる理系大学、ということで選んだだけの大学なので思い入れもなんもないし、そもそも今いる学部だって正直なにも興味がない。機械やりたかったのに全く違うところにいるし。
大学生活はだらだらと、文系のように過ごしてしまった。いや、文系以下かもしれない。サークルは一年で辞め、ぷらぷらと単位を落としつつ、人当たりだけはいいので友達に助けてもらってなんとか留年はしなかった。大学生活は女の子を落とすこと、車で遊ぶことに励み(全然容姿はオタクだけど)、勉強はほぼしなかった。
バイトは適当にサボれてそこそこ稼げるところ、だからなんのスキルもない。もし、身についたものがあるとすれば、適当に愛想笑いをし、適当に客の気分を取る。それぐらい。
趣味は車。金がかかる趣味の代名詞とも言えよう。いろんな車を乗り継いで売って...というのを大体15台ぐらいやったと思う。仲間の輪は広がったし、たぶん一生付き合うなこいつらとはっていう奴らにも出会った。これだけは唯一大学生活で成功したことだと思う。
他にも、マーケティングだとか、そういうのがちょっとだけ興味があった...といえば聞こえはいいが、ただ馬鹿みたいに安い金額でモノが欲しい、ついでに稼げたらいいなっていう理由だけで労力をかけない転売まがいのこともやってる。中国とかアメリカから適当にモノを買ってきて、日本で捌く。後メルカリのバカ安いのをヤフオクに流す。まあこれがそこそこの利益が得られるからって一昨年ぐらいからやってる。情報商材屋を嘲笑うぐらいの事は独学でできたと思う。
さて、就活に話を戻したい。
元々ぼんやりと就活と院試で迷っていた。去年の11月はどうすっかな、ってマックの外でメニューどれにする〜駄弁ってるようなレベル。インターンは第一志望のインターンに参加できたし、ここ入れたらいいな〜って思ってた。
それが2月に入り、気がついたら3月の早期選考ラッシュの時期だった。この段階ではまだ早期どうなるかな〜って自動車系にエントリーをなんとなくしていた。
4月。採用中止の連絡が届いたり、不合格の連絡が届き始める。この段階で本命に落とされる。
5月。大学も行けない。就活も進まない。不合格の通知がそこそこ溜まってきた。自分は無能なんじゃないか?焦り始める。エントリーすらままならない。なにをすればいいんだ?
6月。無気力。逆オファーアプリで選考の案内が来た企業に落とされる。もうダメだ。でも今年採用遅れてるっていうしな〜ってヤケになっている。
何もかもままならない。この頃には自動車以外のITとかも考えるようになってた。遅すぎる。俺はなにがしたいんだろう?
そして気がついたら7月、大学が再開した。周りの友達はみんなホワイト大企業の内定を持っている。院進勢は外部を受け始め結果待ち。対して自分はどうだ?なにも決まっていない、就活はエントリーすら出来ていないし、院試の勉強のために買った教材すら開いていない。マックの注文はレジ前でキャンセルした。就職が決まった人達の内定先を聞いて回る。みんな仲がいいからすぐに教えてくれる。どこどこだよ〜だとか、あそこだよ〜とか。聞くたびに、自分が無能だとわかる。
大企業のエントリーはほぼ終わったし、一番あれだけ行きたいと思っていた自動車系にすら興味がなくなってきた。日に日に焦りが募るだけで何もしない。やるとしたら日々ヤフオクとメルカリの監視。いつから自分はこんなにつまらない人間になったんだろう。もうなにがしたいかもわからなくなってきた。そもそもこんな自分を雇ってくれる、まともな企業はあるのか?
今日、大学の喫煙所で一人黙々とタバコを吸っていたらヒグラシが鳴いていた。
もうそろそろ夏がやってくる。今思うと、自分の就活が完全に失敗したのは
無計画
の三つが起因していると思う。
ちなみに今日もエントリーしたところから落とされた連絡がきた。
これはコロナのせいではなく、完全に自分の責任だ。ただ、自分が無能だと自覚させられるだけの就活。
一番タチが悪いのは、少なくとも死ぬ気には全くならないこと。ぼんやりと、今でもなんとかなるだろうって考えている。だが行動は起こさない。
結局、全てが中途半端になっている。やる気も、行動力も全て中途半端。これはたぶん元々。それが今まで単に上手く行ってただけ。人当たりはいいから。
それなのに、自分だけは違うと思っていた。別の意味で周りと違う人間になったけど。
長々書いてきて、尻切れトンボになるけど今日はこれで終わり。ここまで書いてきて、さらに一つ分かったとすれば、自分には特技はなにもないし、やる気も続かない、とてもつまらない人間だということ。
社会から見ればこんなの、無気力、無価値だとか評価されると思う。ものすごく妥当。
今日は家に帰ってからヤフオクに投げる商品をアップロードして、タオバオとebayの進捗状況を見守って寝る。
最後に。
タオバオでモノ買う時は650元以下にしないとAsiax通されて通関手数料バカ高くなるから気を付けろよ!軽かったらEMSを使おう。デカかったら4pxで涙を飲もう。
常磐線でこれ書いてて辛くなってきたわ。
はてな匿名ダイアリーでやってるあたりも”逃げ”なんだろうな。俺の人生そのもの。
入道雲が大きくなり立体感が強くなる様は、空の奥行きを強くし世界を広げているように見える
昼に食べるそうめんは、あまり食欲がなかったとしてもするすると胃の中に落ちていき食べやすい
それもかなりの音量で、常に夏を盛り上げてくれている
暑い時に食べるアイスは、火照った体を冷やしつつ甘みを口の中に伝えてくれる、夏の回復アイテムだ
ただし、回復アイテムを服用しすぎると回復するどころか自分にダメージを残す場合がある
ヒグラシの鳴く声も良い
あの声を聞くと、それを合図にどこか別世界にいくような、そんな感傷的な気分になる
また鳴くのも夕方頃のため、周りは夕日が差し込みオレンジ色の世界で綺麗だが、どこか儚げな世界に迷い込ませてくれるようにも思う
日が落ち涼しくなると、火照った体が徐々に冷え気怠さや眠気が出てきて、どこか心地よくも感じる
夜風は、昼間の風と違い清涼感を持ったものとなっていて気持ちがよい
そして明日も同じように夏が来ると思うと楽しくなる
だから、夏が好きだ
ヒグラシが鳴き金木犀が咲くような時期に入学するっていうのは相当エモいと思う
これからあったかくなるぞ!って時期に入学してたのが真逆になるわけで、なんというか大変宜しい スイカに塩振って甘さ際立つみたいなね、季節の寂しさとイベントのワクワク感がどんな相互作用を見せてくれるか期待が高まる
卒業が7月あたりになる(?)っていうのはどうなんだろうな ただでさえ消えかけの「第二ボタンください」文化が消滅することは確かな気がする 夏服のボタンちぎるのって嫌だしな
地味に振袖文化にもけっこうダメージ行きそう 3月なら全然いけるけど7月にゴテゴテした振袖着るのはいくら着飾りたい人でも御免なんじゃないか
卒業式が終わったあと海に行く、みたいな習慣ができたりするとカッコいいな あんまり想像できんけど
桜の地位は落ちそうだなあ まあ流石に綺麗だから花見はするだろうけど、学生にとっては「後期の途中に咲く花」程度の思い入れになるわけでエモさみたいなものは目減りしそうだ
育った町は関東に位置している田舎だ。電車に乗れば東京まで一時間半か二時間程度の場所だが、それでも十分田舎だった。電車を目の前で逃すと一時間は待たなければならない。隣駅は無人駅で、最寄駅は7時にならないと自動券売機で切符が買えない。バスに至っては二時間来ないこともざらだ。終電や終バスの時間も早く、夕方が差し迫ってくれば、乗り継いで行った先の終電のことを考えなければならない。東京は近くて、でも遠い街だった。
電車に乗ってあの町が近づいてくると、見渡す限りの田んぼとその中をうねうねと伸びる農道が見える。街燈がぽつぽつとしかない道を闇におびえながら全力疾走で駆け抜ける夜も、夏になると井戸からくみ上げた水が滔々と流れる用水路も、稲穂の上を渡る金色に光る風も、その中を喜んで走る犬も、道端で干からびている車にひかれたイタチも、うっそうと道上に生い茂り時々大きな枝を落としている木々も、なにもかもが呪わしかった。どこへ行くにも車がなければ不便で、こじゃれた店は大規模なショッピングモールの中にしかない。それで、中高生はいつもそこに特に理由もなくたむろしていた。
みんな都会に行きたかったのだ。すぐにつぶれてしまう店も、郊外型の広い駐車場も、市街地から外れればとたんに何もなくなって農耕地だけになるニュータウンも、なにもかも厭わしかった。私たちはたまに触れるなにか新しいものを含んだ風にあこがれ、騒がしい日常を羨み、便利さに憧憬を抱いた。都会に行かなければいけない、という思いはまさに呪縛だった。こんな田舎にいてはいけない、田舎はつまらなく、古びていて、垢抜けない。だから都会に行かなくてはいけない。
高校を卒業するとともに私を含めほとんどの友人は都会へと向かった。何人かは都会に住みかを確保し、住みかを確保できなかった人たちはどこかに拠点を確保して、毎日何時間もかけて都会へと通った。
私は住みかを確保できた幸運な一人だ。山の手のかたすみにある、静かな住宅地に最初の下宿はあった。学生用の木造二階建ての、半分傾いたアパートだ。四畳半で風呂がなく、トイレと玄関は共同だ。同じ値段を出せば、田舎では1DKが借りられる。しかしそんな場所でも、私にとってそこは「トカイ」だった。
トカイでは駅までの道に田畑はなく、駅では10分も待たずに電車が来る。どの駅でもかなりの人々が乗り降りし、夜が更けても街燈が一定の間隔で並んで夜を追い払ってくれる。月明かりに気付く余裕をもって往来を歩けるほどの安心が都会にはあった。そのくせ、私が慣れ親しんできた大きな木々や古い河の跡や、四季はきちんとそこにいて、祭りがあり、正月があり、盆があり、そうやって人々は暮らしていた。盆正月は店が閉まってしまうということを知ったのも都会に出てからだった。
都内にありながら広大な面積を有する大学の中には山があり、谷があり、そして池があった。そこにいると、田舎のように蚊に襲われたし、アブラゼミかミンミンゼミくらいしかいないとはいえ、蝉の声を聴くことができた。近くに大きな道路が走っているはずなのに、喧騒はそこまでやってこず、昼休みが過ぎると静寂が支配していた。水辺で昼食をとるのが私は好きで、亀と一緒に日を浴びながらパンを食べた。
あるいは、田舎でそうしていたようにどこへ行くにも自転車で行き、アメ横からつながる電気街や、そこから古書街、東京駅、サラリーマンの街あるいはおしゃれな店が並ぶ一帯までどこへでも行った。都会は平坦につながっているように見えるが、どこかに必ず境目があるのだった。境界付近では二つの街の色が混ざり合い、ある臨界点を超えると途端に色彩の異なる街になってしまうのが面白かった。その合間にもところどころ自然は存在していて、いつからそこに植わっているのか知らない大きな木々が腕を広げて日陰を作り、その下にベンチが置いてある。くたびれた老人がその下に座り、コミュニティが形成される。それが私の見た「都会」だった。
山の手の内側で育ち、閑静な住宅街で育った人たちは、ここは「イナカ」だから、東京じゃないという。私はそれを聞くたびに笑いをこらえきれなくなる。あなたたちは田舎を知らない。電車が10分来ないとか、駅まで10分くらい歩かなければならないとか、店がないとか、繁華街が近くにないとか、そんな些細なことを田舎だと称するけれど、田舎はそうじゃない。
田舎は不便だが、時に便利だ。車で移動することが前提だから、どこか一箇所にいけばだいたいのことを取り繕うことはできる。都会のように一つの場所に店が集まっていないせいで、あちこち足を運ばなければいけない不便性が田舎にはない。確かに近くに店はない。駅も遠い。でもそんなことは本当に全然大したことじゃないのだ。
大きな木が育っていてもそれを管理せずに朽ちていくばかりにする田舎、邪魔になればすぐに切ってしまうから、町の中に大木は残らない、それが田舎だ。古いものは捨て、新しいもので一帯を覆い尽くすのが、田舎のやりかただ。昔からあるものを残しながら新しいものをつぎはぎしていく都会の風景とは全く違う。人工の整然とした景観があり、そことはっきりと境界線を分けて田畑が広がる区域が広がる。その光景をあなたたちは知らない。人工の景観の嘘くささと、そこから切り離された空間の美しさをあなたたちは知らない。新しく人が住む場所を作るために農地や野原を切り開いて、道路を通し、雨になれば水が溜まる土壌を改良し、夏になればバスを待つ人々の日陰となっていた木々を切り倒し、そうして人工物とそれ以外のものを切り離していくやり方でしか町を広げていくことのできない田舎を、あなたたちは知らない。人々は木漏れ日の下に憩いを求めたりしないし、暑さや寒さに関してただ通りすがった人と話をすることもない。車で目的地から目的地へ点と点をつなぐような移動しかしない。それが田舎なのだ。あなたたちはそれを知らない。
盆や正月に田舎に戻ると結局ショッピングモールに集まる。友人とだったり、家族だったり、行くところはそこしかないから、みなそこへ行く。しばらく帰らない間に、高校時代によく暇をつぶしたショッピングモールは規模を拡大し、店舗数も増えていた。私が「トカイ」で足を使って回らなければならなかったような店が、都会よりずっと広い売り場面積で所狭しと並ぶ。それがショッピングモールだ。上野も秋葉原も新宿も池袋も渋谷も原宿も東京も丸の内もすべて同じところに詰め込んで、みんなそこは東京と同じだと思って集まる。田舎は嫌だ、都会に行きたいと言いながらそこに集まる。
ABABというティーン向けの店でたむろする中高生を見ながら、私は思う。下町を中心としたチェーンのスーパーである赤札堂が展開しているティーン向けの安い服飾品を、田舎の人は都会より二割か三割高い値段で喜んで買う。これは都会のものだから、垢抜けている、そう信じて買うのだ。確かにその服はお金のない中高生が、自分のできる範囲内で流行りを取り入れて、流行りが過ぎればさっさと捨てるために、そういう目的に合致するように流通している服飾品だ。だから安い代わりに物持ちが良くないし、縫製もよくない。二、三割その値段が高くなれば、東京に住む若者はその服は買わない。同じ値段を出せばもう少し良いものが変えることを知っているからだ。田舎に暮らす私たちにとってのしまむらがそうであるように、都会に住む彼らにとって最低限の衣服を知恵と時間をかけてそれなりに見えるように選ぶのがABABだ。そのことを彼らは知らない。
ABABのメインの事業である赤札堂は、夕方のサービスタイムには人でごった返し、正月が近づけばクリスマスよりもずっと入念にかまぼこやら黒豆やらおせちの材料を何十種類も所せましとならべ、思いついたようにチキンを売る。あの店はどちらかというと揚げ物やしょうゆのにおいがする。店の前には行商のおばさんが店を広げ、都会の人たちはそれを喜んで買う。若いこどもはそれを見てここは「イナカ」だという、そういう光景を彼らは知らない。田舎ではショッピングモールの商品棚のなかにプラスチックでくるまれた商品があるだけだ。そうするほうが「トカイ」的で便利でコミュニケーションがいちいち必要ないから、田舎の人間はそれを喜ぶのだ。
そして私は「トカイ」という呪縛から逃れていることに気付くのだ。
どちらもよいところはあり、悪いところはある。便利なところはあり、不便なところもある。都会の人も「トカイ」にあこがれ、ここは田舎だというけれど、「トカイ」というのは結局幻想でしかないということを、私は長い都会生活の中で理解したのだった。便利なものを人は「トカイ」という。何か自分とは違うと感じるものをひとは「トカイ」のものだという。それは憧れであり、決して得られないものだと気づくまで、その呪縛からは逃れられないのだろう。
「イナカ」はその影だ。「トカイ」が決して得られない憧れであるなら、「イナカ」は生活の中に存在する不便さや不快さや、許し難い理不尽やを表しただけで、「トカイ」と表裏一体をなしている。「イナカ」も「トカイ」も幻想でしかない。幻想でしかないのに、私たちはそれを忌み嫌ったり、あこがれ、求めてやまなかったりする。だから田舎はいやなんだというときのイナカも、都会に行けばきっとと願うときのトカイも私の心の中にしか存在しない、存在しえない虚構なのだ。
私はオフィス街の中で聞こえるアブラゼミの声が嫌いではない。でも時々その声が聞こえると、田畑を渡る優しく澄んだ夕暮れ時の風を思い出す。竹の葉をすかす光とともに降り注ぐ、あの鈴の音を振るようなヒグラシの音が耳に聞こえるような気がする。
記憶の片隅に、一面に広がる田んぼと、稲穂の上で停止するオニヤンマの姿が残っている。
父方の田舎は、人口の一番少ない県の市街地から車で一時間半かかるところにあった。周りは山と田畑しかなく、戦前から10軒もない家々で構成される集落だ。隣の家は伯父の家だったはずだが、確か車で15分くらいかかったと思う。幼いころにしかいなかったので記憶はもうほとんど残っていない。免許証の本籍地を指でなぞるときにふと頭の中によぎる程度だ。父はあの田舎が嫌いで、転職と転勤を繰り返して、関東に居を構えた。あの村で生まれて、育ち、その中から出ることもなく死んでゆく人がほとんど、という中で父の都会へ行きたいという欲求と幸運は桁はずれだったのだろう。時代が移り変わって、従兄弟たちはその集落から分校に通い、中学卒業とともに市街地へ職や進学先を求めて移り住んでしまった。今はもう老人しか残っていない。日本によくある限界集落の一つだ。
引越をした日のことは今も覚えている。きれいな街だと思った。計画的に開発され、整然と並んだ町並み。ニュータウンの中には区画ごとにショッピングセンターという名の商店街があり、医療地区があり、分校ではない学校があった。電柱は木ではなくコンクリートだったし、バスも来ていた。主要駅まではバスで40分。駅前にはマクドナルドも本屋もミスタードーナツもある。旧市街地は門前町として栄えていたところだったから、観光向けの店は多くあったし、交通も車があればどうとでもなった。商店に売られているジュースは何種類もあったし、本屋に行けば選ぶだけの本があった。子供の声がして、緑道があり公園があり、交通事故に気をつけろと学校では注意される。
バブルにしたがって外側へと広がり続けたドーナツの外側の淵にそのニュータウンは位置しているが、新しい家を見に来たとき、祖父母はすごい都会だねぇと感嘆混じりに言った。
父は喜んでいた。田舎には戻りたくない、と父はよく言った。都会に出られてよかったと何度も言った。ニュータウンにはそういう大人がたくさんいた。でも、都心で働く人々にとってニュータウンは決して便利の良い町ではなかった。大きな書店はあっても、ほしいものを手に入れようとすると取り寄せるか、自分で都心に探しに行くしかない。服屋はあるけれど、高いブランド物か流行遅れのものしかない。流行はいつも少し遅れて入ってきていた。都心に日々通う人たちはそのギャップを痛いほど実感していたに違いないと思う。教育をするにしても、予備校や塾は少なく、レベルの高い高校も私立中学もない。食料品だけは安くて質のいいものが手に入るが、都会からやってくる品は輸送費の分、価格が上乗せされるので少し高かった。都会からじりじりと後退してニュータウンに落ち着いた人々にとって、言葉にしがたい都会との微妙な時間的距離は苦痛だったのだろう。
子供にはなおさらその意識が色濃く反映された。簡単に目にすることができるからこそ、もう少しでつかめそうだからこそ、都会は余計に眩しいものに思えた。引力は影響を及ぼしあうものの距離が近いほど強くなるように、都会が近ければ近いほどそこへあこがれる気持ちも強くなるのだ。限界集落にいたころには市街地ですら都会だと思っていたのに、ずっと便利になって都会に近づいた生活の方がなぜか我慢ならない。
そして子供たちは大きくなると街を出て行き、後には老人だけが残った。さながらあの限界集落のように、ニュータウンもまた死にゆこうとしている。幸運なことに再び再開発が始まっているようだが、同じことを繰り返すだけだろう。
祖父母にとって東京は得体のしれないところだった。東京駅に降り立った彼らは人込みの歩き方がわからず、父が迎えに来るまでじっと立ちつくしていた。若いころだってそうしなかっただろうに、手をつないで寄り添い、息子が現れるまで待つことしかできなかった。そういう祖父母にとってはあのニュータウンですら、生きていくには騒がしすぎたのだ。あれから二度と都会へ出てくることはなく二人とも、風と、田畑と、山しかないあの小さな村で安らかに一生を終えた。
たまに東京に出てくる父と母は、あのとき祖父母が言っていたようにここは騒がしすぎて疲れる、という。どこへ行くにもたくさん歩かなければならないから不便だと言う。車で動きにくいから困ると言う。智恵子よろしく母は、東京にイオンがない、と真顔で言う。私が笑って、近くにイオン系列のショッピングモールができたし、豊洲まで出ればららぽーともある、といっても納得しない。田畑がない、緑が少ない、明るすぎるし、どこへ行っても人が多い。すべてがせせこましくてあわただしくて、坂が多くてしんどい。それに、とことさら真面目な顔になって言う。犬の散歩をする場所がない。犬が自由に走り回れる場所がない。穴を掘れる場所もない。彼らはそう言う。
あんなに都会に出たいと願ってやまなかった若いころの父と母は、あのニュータウンの生活に満足し、さらに都会へ出ていくことはできなくなったのだ。それが老いというものかもしれないし、身の丈というものなのかもしれない。生きてゆくべき場所を定めた人は幸せだ。幻想に右往左往せず、としっかりと土地に根を張って生きてゆくことができる。
私の住む東京と千葉の境目も、不満に思う若者は多いだろう。都内とはいっても下町だからここは都会ではない、と彼らは言うかもしれない。都下に住む人々が都会に住んでいない、と称するように自分たちの住む街を田舎だと表現し、もっともっとと願うのかもしれない。引力は近づけば近づくほど強さを増すから逃げられなくなるのだ。でも、もしかすると、都会の不便さを嫌って、彼らは田舎を志向するかもしれない。一つのところへ行きさえすれば事足りる、点と点をつなぐだけの便利な生活。地をはいずりまわって丹念に生きる必要がある都会と違って、郊外は行く場所が決まっているし、ネットがあればなんとかできる。彼らには、私たちが引力だと思ったものが反発力として働くかもしれない。未来は分からない。
それでもきっといつかは、みんな、どこかに愛着を抱くか、よんどろこのない事情で立ち止まるしかなくなるのだろう。祖父母がそうであったように、父と母がそうであるように、どこかに満足して、ここ以外はどこにも行きたくない、と主張する。それまではきっと都会と田舎という幻想の間を行き来し続けるのだ。
燦々と照りつける太陽に、山の木々が一層濃緑の葉を生い茂らしていた午後だった。
川で遊んでいたせいで全身水浸しになっていた僕は、田んぼの畦道を自転車をぎこぎこと押しながら進んでいた。
頭上に広がる晴天の碧空から注がれるのは、何も焼き付ける太陽光線ばかりとは限らない。
四方八方から取り囲むように鳴り響く蝉たちの声と、旋回する鳶の甲高い鳴き声とが反響して耳から離れなかった。
額にいっぱいの汗玉を作って祖母の家に到着した僕は、縁側に乗り込んで開口一番、麦茶が欲しいと大声を上げた。
「やだよ。疲れてるんだから」
頑として譲らなかった僕に、高校野球を見ていた母はやれやれと重い腰を上げてコップいっぱいに注がれた麦茶を持ってきてくれた。
受け取った僕は、一息に傾けて空にしてしまう。さすがにもう一度頼むのは忍びなかったので、二杯目は自分で注ぎに行くことにした。
「ああ、それ。お婆ちゃんが畑から持ってきてね。夕食の時にでも切ろうかって」
「ふーん」
夜が楽しみになった。
身体にこもった熱が引かない僕は、冷凍庫からソーダアイスを取り出すと、もう一度縁側へと戻った。
日陰になった縁側の正面で、立ち並ぶ数本の向日葵が太陽と合わせ鏡をするかのように空を向いている。
宙を大きなカラスアゲハが横切っていった。入れ替わるように、オニヤンマが反対側から現れて素早く飛び去った。
光景を、口の中に広がる甘美な冷たさを味わいながら眺めていた。風紋を刻む田んぼの向こう側には、深々と盛り上がった森が鎮座している。
麓に石造りの鳥居があるせいか、静謐な存在感を放つ森だった。クワガタやカブトムシがたくさんいる森だ。明日足を運ぼうと決心した。
食べきったアイスの棒を咥えながら仰向けに寝転がる。山の端に、隆々と猛り始めた雲塊の一団を見つけた。
夕立になるのだろうか。なってほしいな。
うだるような暑さに、希望的に思った僕は額に腕を当てた。
閉じた瞼の向こう側から、すとんと眠気が迫ってくる。
服が生乾きだったことを思い出した。でも、そんなことはどうでもよくなってしまった。
意識が暗闇の中に落ちていく。
あの頃の夏へ。あの頃の夏へ。
遠くで気の早いヒグラシが鳴いているのが聞こえたような気がした。