はてなキーワード: ネガティヴとは
元増田です。
私も増田と近い気がする。
セックスしてる時には「相手を性的に興奮させられる自分」という価値が感じられるから
すごくふわーっとして嬉しくなる。
あと、相手を撫でてほやーっとした状態にさせるのも好き。
小さい時からバイオリン習って、モダンバレエ習って、私立の中高一貫女子校行って、
最後には人文系専攻なのに院まで行かせてもらった。
でもどれも中途半端。極めるには何かが決定的に欠落したまま24歳。いま社会人半年目。
国立大の院出たし、大手企業に就職したし、もういいよね、十分親の世間体を満たせるのスペックは身につけたよね、
というところで安堵してはいるものの、この先どうすればいいかよくわからない。
避妊対策はずっとピル飲んでて、STDチェックも定期的にしてる。
(といっても、ほんと言う程不特定多数と寝ている訳ではない、と、思う。まだ今は。
寄ってきた男友達をだいたい断らずに受け入れてる程度。)
夏頃から仕事で体調崩して心療内科&併設のカウンセリングに通ってるんだけど、
カウンセラーさんから
「お母さんに対してのネガティヴな気持ちを全部書き出してきてください」
っていう宿題がでた。なんという難問wwwww正直何を書いてよいのやらまったく見当がつかないwwwww
なんかもー三連休のはずなのに休める気がしない。
んー、別にそこまですっきりするわけじゃないけど。
っていうか、悪口を言うことよりも、
悪口を前提にして、「なぜ、悪いと思うのか」というところまで、自分の中で整理できたらすっきりする(あるいは、整理するきっかけを得る、ぐらい)。ある程度、あたまのよい他人が読むことを前提に、誰かを批判するときは、多少説得的に書こうとする感覚が発生する。それに、自分がなぜむかついているのか、自分がむかついていることの正当性を他人に認めさせることができるのか、みたいなことを考える。
上司からくだらないことを言われたときに、ストレスためこんでるだけだと、分析的に考える機会を得られない。それは、とても残念なことなので。途中経過として、「悪口」の形をとる。
単なる悪意の発露をさせたい、というので書くのは、誰も幸せにならないので。
他人から見て、くだらないと思われるような自己弁護に陥っている可能性はもちろん、考えながら書くので、そう思われたら、その人は、わたしと付き合ってくれなくなるだろうし。何も言わずに、脳内で自己弁護をしている時のクオリティよりも、他人を前に自己弁護をしているときのほうが、弁護クオリティのほうが高いはず。クオリティの低い弁護はしなくなる。
それと、「くさい」「ぶす」とか、そういうことを他人を嫌う根拠にしてしまうことは、人間としてあまりにも終わっていると思うので、そういうことは、どんな裏の場所だったしても、悪口としては言いません。(他人を嫌う根拠としてではなく、「事実として、彼はくさい。なので、私は彼と長時間、対面で話しをするのはちょっとつらい。メールだと話しやすくて良い人なんだけど……」とか、言うことはありえます。)
………
……
…
というのは、自己弁護で、どうしようもなくむかついた時は、mixiどころではなく、本当に誰もみてないところで「死ね」「あんなのと話してると、頭が腐る。ひからびる」とか書きます。ごめんなさい。王様の耳はロバの耳、方式で、叫ぶことはあります。あまり、ネガティヴな感情を野放図にまき散らしても仕方がないので、ネガティヴになればなるほど、誰もいないところをえらんで書きます。この水準の、純粋な感情の発露としか言いようのないものをmixiや、はてブや、2chで書くことはしていない(…つもり)。
twitterとか、ネットの日記とか、公の場所で特定の個人に対する、「ただの悪口」を書く、というはない。というか、それは明確にしたことがない(自分がやられることは、年に数回あるけど)。他人を一定以上、きついトーンで批判するときは、必ず実名と紐付いたアカウントなどで書きます。それはきちんと、論争 or 批判として覚悟をもって。
でも、まあ、言ってしまうことによって自己観察ができるようになる、というのはいずれにせよ、あるかなぁ。
「胸を張れっ…!手痛く負けた時こそ…胸をっ…!」
「敗者は失うっ…!それをねじ曲げたら…なにがなにやらわからない…受け入れるべきだっ…!負けを受け入れることが…敗者の誇り…オレは…負けをぼかさないっ…!」
カイジに限らず福本作品全般で語られる「敗者の美学」「持たざる者の矜持」みたいな感覚が好き。
どこまで堕ちても失ってもプライドだけは売り渡さないような感じと言うか、そこで自分自身をごまかしてしまってラクになる事を自身で許さない、最低の矜持と言うか。
昨日から血眼でネガティヴなニュースばかり追い求めている人達、今あなた達はついこないだまで最も忌み嫌っていたタイプの人種に、あなた達自身がなりかけています。
そうなってしまったら結局は今までの構図の裏返しになるばかりで、何も良くなりません。気をつけて。
ツリー長いので元増田さんに読んでもらえるか分からないけど書きます。
「ネガティヴな感情の社会化」という捉え方でよければ、大河原美以
さんの著書が参考になるかも、と思いました。
「怒りをコントロールできない子の理解と援助―教師と親のかかわり 」
「ちゃんと泣ける子に育てよう 親には子どもの感情を育てる義務がある 」
など。(amazon記法やISBN記法効かないようで、リンク貼なしで、すみません。)
元増田さんの場合、「キレる、暴発する子」ではなく、「内に入る」のかな。
ぴったり当てはまらない部分もあると思うのですが、示唆は得られると思います。
http://anond.hatelabo.jp/20090625233802
重度ではないけれど、軽度のDV被害者の思考回路に陥っている。軽い共依存状態。
DV被害者と言うのは、物理的/精神的/金銭的な暴力を振るってくる恋人/配偶者に対し、このように考える。
これなんかは1の現実逃避に当たる。平時が楽しいのは当たり前。平時じゃないときに一線を越えてくるか来ないかが一番大事なのだ。
彼の態度はどの成人男性でもあることなのか?
これは3の変型で、これが酷くなってくると「男はみんなそうなんだ、我慢できない私が悪いんだ」と自分を責め始める。
DVの話になると「なんで暴力を振るう男と別れないの?」「別れちゃえばいいじゃん」と不思議に思う人(ごくまともな感性を持つ人なら当然そう思う)がいるのだけれど、DV被害者と言うのははこういうネガティヴ思考に陥っている上、情報が制限されていることもあり何が正しいか何が異常なのかの判断がつかない酩酊状態に陥ってしまう。ゆえにDV加害者、「相手をコントロールしようとし、出来ないと暴力に訴える」相手から離れられない。ブラック会社とその社員の関係に似ている。
とはいえ、まだまだ軽度の共依存で、彼氏に対してしっかりと反抗も行っているので、抜け出そうと思えば抜け出せると思う。早く目を覚まして抜け出して欲しい。このサイトを熟読して参考にするといいよ。
逃げるときには「相手は自分を殺すつもりだ」ぐらいに考えて、徹底的に身の安全を図った上で逃げよう。別れ話はあんまり直接やらないほうがいいんだが(物理的安全圏に逃げてから電話推奨)、やる場合は絶対に家の中でやっては駄目。包丁で刺されてあぼーんして終わり。昼の時間帯に、ファミレス、マックなどの人が多いところでやる。出来れば実家や友人宅に駆け込む、警察や自治体、DV相談センターなど第三者を間に入れる(警察は動いてくれないかも)、職場を変える、住居を変えるなど。
ちなみに彼女は軽度の共依存だが、彼氏は重度のDVメンヘラ。はっきり言って病気であり、そのうち絶対に間違いなく100パーセント直接暴力を振るわれるようになる。特にモラルハラスメント、精神的DVをした後に「文句じゃないよアドバイスだよ」と言い訳をするというのは定番中の定番。そのうち「なんで俺の言うことがきけないんだ! お前のためを思って言ってるんだぞ!(ガシッボカッ!)」→「ごめん、あの時はどうかしてたんだ……」というお決まりのパターンが始まる。で、DV被害者は後者の姿を「彼の本当の姿だ」「彼は本当は優しいのだ」と思い込んで、自責を繰り返すようになって共依存の出来上がり。
DVの種類
1年で治るのが普通だと思っているお医者さんも甘いよなあ、なんて思います。以下、自分の体験:
パキシル飲み始めて、4 年 9 か月か‥‥‥。
仕事のストレスなどで何度もぶり返しを経験しつつも、長い目で見れば着実によくはなって来ています。無理矢理、家族と離れる環境を作ったり、なんなりしながら(正直言って、家族と一緒に暮らしていると治りにくいような気もする。ネガティヴであれ、ポジティヴであれ、一人暮らしよりもストレスは多いのだから。特に、うつ病の場合)。本当になが〜〜〜い目で見ないと回復しているのが分からないのが辛いところ。
増田さんへ:
お医者さんに、ご自分がそのように思われている事は、伝えるべきだと思います。まさにそれが長引く原因だと(素人、とはいえ患者の立場からすると)思えます。うつ病になったストレスを被るような環境なんてそんなすぐには変えられないのだし、それも含めてお医者さんと相談しないといけないんじゃなかろうか、と思うのです。
抑うつ感をクスリで押さえ込んでいるものの、今日は持病の背中の痛みが酷くなり
営業時間中にも関わらず、耐えかねてマッサージに行って解してもらった。
それが仕事の施術士さんに「ガチガチですねぇ」といわれるぐらい酷い状態だった。
日々老いていく肉体を誤魔化しながら、Webと電話だけの孤独作業が続く。
mixi日記の過去2年の5月ごろを見ると見事に虫食いだらけで
馬齢を重ねる意味があるのだろうかと考えて、無いなぁとネガティヴに考える。
大学時代の恩師が喝破したように人は「自分自身を目的に生きられない」のが運命で
真の目的は「代替できな他者との関係性の維持と発展」にあるとのことで
不惑にしてこの言葉の意味はやはり正しかったなぁと思わざるを得ない。
先日、宮台先生の新著を買ったのであるが「終わりなき日常を生きろ!」と嘯いていたのに
結局はご自分の配偶者と子息に自分の生命の意味を委ねているのが読み取れて
この人は相変わらず頭は良いけど、自分の言説に責任を持てない人だなぁと思った次第。
生きて行くことが無意味で、時間が未来にしか進まない不可逆性を「以下に耐えうるか」
を考えてみたときに、導き出される解は、「意味を与えうる関係性を、どこかに見つける」
それと「時間の不可逆性を受け止めて肯定する」と簡単な結論になってしまう。
しかし、理由を推察したとしても、解決方法が容易く手に入れば誰も苦労はしない。
たぶん、その境地を私が手に入るとしたら涅槃にしか無いのであろう。
要するに、ほとんど諦めているのである、もうどうしたらよいか分からない。
涅槃を欲せば答えは手元にあるが、まだそこまでは追いつめられてはいない。
真に追いつめられる日が来ないことを望んでいるのか、いないのか・・・
好きな人がいた。
彼は、自分より20才年上の人である。
おまけに2人の子供がいる。
メールを何度かしているが(すべて自分から)、彼の仕事の忙しさなどの諸事情から、出会ってから一度もあったことがない。
改めてこの事実を噛みしめると、100%彼に交際する意思がないことがはっきりとしている。
メールを交換していた頃、「実際にはあえない。」という言葉を聞くのが怖かったからずっと確かめられずにいた。
実際は一度そのように返事をされたことがあったが、月日が過ぎればもしかしたら彼の気持ちも変わるかもしれないというかすかな希望を自分でももっていた。
先日、勇気を出して恐る恐る同じことを聞いてみた。
やはり、「あえない」という返事であった。
そして理由を聞いてみると、彼は、「あいたい=結婚を迫る」と誤解していたようだ。
「結婚を考えていない。」「結婚を迫ってくるとは夢にも思わなかった。」という言葉だけはどうしても言われたくない言葉だった。
結婚ができないことはとてもよくわかっていたからだ。
彼自身のことだけではなく、私自身のことも含めて。
一つ目は(これがすべてであるが)家族のこと。
彼に対する評価や感情は書くつもりはない。
何故なら、彼は自分がかつて選んだ人であり、彼から申し出なければこちらから関係を絶つ理由は何もないからだ。
彼の両親も自分が彼と添い遂げることを切望している。
これから逃れることは今の自分にはできない。
敢えて二つ目をあげるなら、生活のこと。仮に金銭的なゆとり(ほど遠いが)があったとしても、一つ目の理由を取り消す方法はない。
ただ、ネットではなく「実際にあう」ことは、生きている中で愛している証であると思うから、実際にあえなくてもいいから「あいたい」と言ってほしかった。
ただそれだけだ。
だが、仮にあったとしても、もう何年間もあっていない彼をひきつける自信はない。
おまけに別れるときはどうなるであろうか・・・あう前の喜びの累乗ほどの悲しさに突然襲われ、皮肉やネガティヴな言葉の嵐を彼に浴びせてしまうかもしれない。
それはいやだ。
だからこれでよかったと思っている。
テキトーに書きなぐって放置します。恐らく二度とアクセスするつもりもないし
レスも読むつもりはありませんので返信はしません、あしからず。
・妬み、嫉み、自分を卑下する愚痴のような内容しか書きこまれていない。
・そういったネガティヴな事象に共感する人間が集まる、ある種の温床になっている。
・そんな人間が集まって言いたいこと言って、それに対してのレスもネガティヴなものばかり。
ポジティヴな発言をしてもそこにつくトラバは大抵悲観的で、2chの書き込みよりも攻撃的で、とにかくタチが悪い。
・対して、「自分はこんな根暗な奴らとは違うんだ」という、これまた輪をかけて根暗で攻撃的なお馬鹿さんたちが
凹んでる人間を叩いていい気になれる恰好の場となっている。
・弱音を吐いてせいせいすると思ってる人がいたら大間違いで、亡者の如く弱った人間が現れたと思ったらそれを叩く場となっている。
負のフィードバックループが大好きで自虐的な精神をお持ちの方で、尚且つそれで構わないと諦観している人間だけが集まればいい。そうじゃない私はもう二度と見ないと思います。
はてなってもう少しマトモな倫理観、道徳観を持った企業だと思ってたけどそうでもないのね。
もっともっとネットを限定的に使うように心がけようと思った次第。
「根っから」って言うほどそいつのこと知ってんの?そういうやつらが世界を支配してるとでも思ってんの?ネガティヴ原理主義者くんよ。文句言わずにきみの道を行け。
甘酸っぱい。そんなん想像すると非常に甘酸っぱい。
不可抗力が作用して、期せず労せず誰かに本音が伝わるなんて、とてもとっても甘酸っぱい。あと今部屋がバキュームカーのにおいする。
時々そういうのと類似のこと思うけど(p2_res_hist.dat の内容がすごい勢いで漏れ出したら、とか)、ただひたすらに甘酸っぱい。カルピスだよまさに。原液の。
元々後ろ指ずぶずぶ指される星巡りだから、いかにも指されそうな事(犯罪行為とか人へのネガティヴ干渉とか、他増田が言ってるような自演とか多重キャラとか)は、少なくとも意図してはやってない。自分の周りの人に迷惑かけそうな個人情報晒しもしてない。その辺が甘酸っぱさの素だと思う。
普段みんなから慕われてることが元増田の言から透けて見えて、かっけーって思った。
こっから本題。
増田は自分用ページ(http://anond.hatelabo.jp/自分の ID/)が自分にしか見えない。だからリファラに自分用ページくっつけてどっか行くと、行き先によっては ID が漏れる。それを踏まえてリファラいじって工作もできる。割と既知。
それプラスさっき思ったむあむあ。パストラックみたいな、今見てるページばんばか送ってもらってはばんばこ記録していくサイトで、訪れた時間軸が軽く分かっちゃうようなとこがあったら、特定まではされずとも色々推定されちゃうんじゃないかな、とか思った。
パストラックに関しては、こういう ID の人が何日頃に自分のページを見てますってデータは既に公開されてた。日単位だし、ここに ID 載ってる人達は、望んで能動的にツールバーインストールしてやってる人達だから、ここいら辺はとりあえず平気だとは思うけど、もうちょい脇の甘い人が腋こそばされるようなツールバーうっかりインストールさせられちゃって、しかもその記録サイトが事細かに時間記録しちゃってたりしたら、大変な事になりそうって思った。
ツールバーに限らずとも、なんだっけ、どっかのウィルス入ってくるのガードするソフトが、アクセスしようとしてるページの URL を片っ端から専用サーバに送ってるじゃん。あれが何かこう何かしたら何かするかもって思った。南下したら軟化するって、チョコレートでできた渡り鳥みたい。
あと時間経ったからもう部屋無臭だよ。気持ちは甘酸っぱいまま。
関係ないってか逆関係になっちゃう話だけど、自分が増田で書いた日記一覧をよそさまに見せるのって骨折れそう。スナップならまだしも、リアルタイムで見せるとなると、どっかにサーバ置いたり、そこにパスワードとかそういうおっかないの置いといたりしないといけない方法しか思いつかない。マルチポストすれば解決するけど、自分の場合マルチポストは基本的にしないから、そういうわがまま含めて骨折れそう。
それよりキーワードになってる単語含む文字列使ったリンクの記述に骨ぼきぼきってなったよ。増田さんちょっと来ない間にどうしたの。あ、まずっぱい。
→こちらに修正して転載すた。http://d.hatena.ne.jp/maskin-monotonicity/20081222/
1.池田さんがいいこと言っているかどうか、というのは分野による。
2.経済学系の記述はおそらくかなりまだ信頼性の高い記述がもおおい。というか、この分野はわたしがよく知らない。
4.哲学・倫理系の記述は、だめだめでもないけどそれほどよくもない。まあ、こんなもんか。
5.上司とするには、やめてほしい。この点については、池田氏とこれまで仕事で関わってきた諸氏からの情報で総合的に判断。私怨で人を困らせすぎる。暴れん坊。思い込みが激しい。
6.仕事人として付き合いたいかどうかはともかく、優秀な人ではあるだろう。
7.学者は間違ったことを言う、のは当然。間違ったことを言わない学者などいない。学問はそもそも常に仮説でしかない。学問とは、より妥当な議論を可能にする知識の継承、発展のフレームワークなのであって、間違ったことをいわないことが学問なのではない。
8.a.自分のよく知らないことについては発言せず妥当性が高いと思われることについてしか発言しない口数が少ないが誠実な学者と、b.自分のよく知らないことであっても果敢に思考し、学問間のネットワーキングを図り、啓蒙することに価値を見いだす学者 という二種類の学者がいるのだとすれば、池田さんは後者(b)の部類に属する。(a)の部類の学者が嫌いな人もいれば、(b)の部類の学者が嫌いな人もいる。(b)の途を選び取った学者は、しばしば間違いを言う。しかし、そのことの是非は、「学者」の発言が社会的にどのように扱われるのかという文脈形成も込みで考えられなければならない。「学者A」の発言が即座に、社会的影響力を与え、間違いが甚大な被害を与える可能性をある場合には、(a)のような発言が推奨されるかもしれない。全国放送のTVカメラの前で、軽々しいことを言う学者は非難されてしかるべきである。しかし、「学者B」の発言が、リテラシーのある程度高い相手に向けて、「学者が常に正しいことをいうわけではない」ことを前提にしているようなコミュニケーションが成り立つ場合には、(b)のような態度が推奨されるかもしれない。池田氏のブログの影響力はかつて、リテラシーがある程度まで高い層に限定して書かれていた。しかし、有名になるにつれて、その影響力は変化しつつある。よって、(b)のような態度を諸手を挙げて推奨するわけにもいかない。しかし、(b)の立ち位置を担う学者のポジションをまったく評価しない、というのはありえない。
上記「8」は次のように言い換えることも可能である。
上記の記述は多少よく書きすぎている、との意見はもちろん一定以上、妥当である。
間違いをしばしば発言するインテリは、そのような態度をとる自分をしばしば「今コレが間違いであるという以上に、発言していくこと自体の意味が裏に何かある」という別の合理性を担保している場合が多い。たとえば、コンスタティヴな価値に対する、パフォーマティヴな態度を称揚するといった合理性は代表的なもの。池田さんの基準がいかなるものであるかについては、わたしはあまり池田ウォチャーでもないので正確にはわからないし、評価できない。が、しかし、個別の発言の妥当性以外のなんらかの合理性を彼自身の中では担保しながらしゃべっていることはほぼ確かだと思う。
ただし、そういった別の合理性が持ち出されるすぎると、個別の発言における「今言っていることのことが正しいかどうか」ということに対するチェックが甘くなる、という現象はしばしば起きる。学者の発言について、個別の発言の妥当性の高さだけが、学者を評価する基準だという思い込みは、知のシステムの多様性・効率性を著しく阻害する。だが、学者の発言が、非学者層の発言と同程度に妥当性の低い発言を連発してもよいという基準もまた、知のシステムの多様性・効率性を著しく阻害する。
両者のバランスをどこでとるか、ということは難しい。
池田さんが何をしたいのかは知らない。なので、池田さんの考える、個々の発言とは別の水準の合理性が何なのかがわからない限り、池田さんを評価しようとおもったとき、「とりあえず」個別の発言の妥当性という基準を適用することには一定の合理性がある。だが、その合理性が合理性の一部でしかないことを考えるべきである。それは「とりあえず」の一部の評価の合理性でしかない。
*この「追記」の記述は、東浩紀と、東批判者たちについても同様に適用可能。ただ、東さんは明確に自らの価値をアジェンダ・セッティングという行為の中に見つけているとは思われるので、池田さんと比べると、「担保すべきだと考えている別の合理性」の水準が理解しやすい人だという印象はある。
fromはてぶ
「なんで支持者も不支持者も、人格や人間性で主張の妥当性を判断しようとするのか。「人」を信頼してはいけない。面倒でも個々の主張についていちいち信用すべきか否かを検討すべき」
もちろん、それも一つの合理的な態度だとは思う。しかし、「人」や「組織」をある程度まで、使い勝手のいい単位だとしておかないと成り立たないところもやっぱりある。
たとえば、わたしがよく知ってるor考えていることであれば、そのことについて「××さんが言った」「○○さんが言った」ではなく、主張の内容レベルでの判断はもちろん可能だし、できる。そういうときには「人」という単位はほとんど機能しない。単に主張Aを言っている人がいて、主張Bを言った人がいた、という程度の意味合いしかない。
しかし、わたしが全く知らないことをはじめて知ろうと思ったら、まずは「人」「組織」「定評のある本」に対してある程度まで高い信頼を置いて、そこから情報を得るというのはとても効率的で、合理的な行動になってしまう。それは、わたしにとっては検討しようのないことなので、「人」や「組織」や「定評のある本」を採用するしかない。不案内な分野の入門書を読むときに、「ハーバード大学の教授で、全般に頭良さそうな人が書いている最新の本」と、「三流大学教授の、いまひとつ何を言っているかわからない10年前の本」で対立している主張があり、わたし自身に、その対立を検討するための十分な情報がないのであれば、「へぇ、対立する議論もあるんだなぁ」というぐらいに思いはする。でも、とりあえずはハーバード大学教授の言っていることのほうが「たぶん、こっちのほうが妥当なんだろうな。よくわかんないけど」という形で、ある程度、組織とか評判を信じてしまうよね。
我々は、出会った知識の全てを検討するだけの無限な時間などは与えられていないので、誰がよりよいことをいってそうか、どの本が最も定評のある本か、ということは、「より、まっとうそうな知」を得ていくための効率性にかかわることになる。はじめて仕入れるたぐいの知識が、いままでの自分の経験上/知識の上で整合性があるかどうか、ぐらいのことは考えられるけれども、分野が遠くなれば遠くなるほど、「とりあえず、たぶん、この人の言うことはかなりの度合いでレベルが高いはず」という情報はとても役に立つ。教える-学ぶ関係においては、そういう「権威」がもっている効率性の問題は避けて通れない。
理想的には、おおざっぱなクオリティ選別の効率性を機能させるために存在している権威や評判のようなシステムよりも、一つ一つの主張の妥当性を検討できるような態度に至れることのほうが望ましいのは言うまでもない。だけれども、わたしたちは、能力にも知識にも限界があって、そういうことができない。だから、権威や評判のシステムをわたしは利用するし、今後も利用し続ける。
http://anond.hatelabo.jp/20081223163942
クルーグマンの経済学受賞に関する記事なんだけど、ここからトラバ先をたどると経済学系blogでの池田氏への批判の主なものは見られるんじゃないかなあ。
だそうです。
まあ、山岸俊男風?にいえば「信頼」性はともかく、誰かが池田の発言に対しては必ずレビューをしているという意味での「安心」の対象としては機能しやすいとか言ういいいかたはできるかもなぁ。それがインターネットというもののよさというか。手間かかるけどね。
池田ファン扱いされた…なんという微妙な気分。これが池田効果か。
わたしはそれほど熱心な池田読者ではない、…と自分ではおもっています。
実際、エントリ100個も読んでないんじゃないかな。
上記の記事に対してid:lets_skeptic氏から、よいコメントをいただいた。
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081224
そもそも問題は「間違ったことを言う」ことなのだろうか?「畑違いの分野に言及する」ことなのだろうか?違うと思うのだ。
自分が断言したことでも間違っていれば撤回する(必要に応じて訂正する)という誠実さ。自分が言及すること(したこと)をきちんと知ろうとしているか?という知的誠実さ。求められているのは、そんな当たり前の誠実さじゃないんだろうか。
主張の信頼性は基本的に別問題です。といっても、誠実な人ならば「ろくに調べずにものを言っている」「無根拠の思いつきを言っている」「嘘をついている」という可能性は、不誠実な人に比べて相対的に低くなるので、関係がゼロだとは思いません。
議論の建て方として「誠実さ」という別の軸を立てられる、というのはいい指摘だと思う。インター・ディシプリナリだからと言って許されるわけでない。ただ、わがままを言えば「追記1」に書いた部分についても一応目を通していただければ幸い。追記1、はこういう批判に対する防御線として書いたわけだけれども、かえって問題の建て方を曖昧にしてしまったようで反省。「インターディシプリナリ志向であれば、誠実でなくとも許される」として、確かに読めてしまう。
で、発言の「誠実さ」と、個別の発言の「信頼性」が別問題であり、問題を分けて考えるべきだ、というのも、その通りだとおもう。(その点については、上にちょこっと書いた、山岸俊男氏の「安心」と「信頼」の区分にも通じる問題系である)
そして、その基準でもって池田さんを論じることは、意味があるだろうと思う。
ただ、もちろん、だからといって、先に挙げたわたしの、区分そのものが<一般的な区分として>まったく無意味なものだ、ということを認めるわけではない。また、<池田さんに対して>わたしが挙げた基準で判断をすることが適当か、という点については、いくつかの基準のうちの一つとしては、やはり適当だと思う。論じる基準が、一つである必要はない。論じるべきは、どの基準が最も正しいか、ではなく、、基準A「誠実さ」の問題と、基準B「学者としてのアプローチの違い」の問題と、どちらが池田さんを論じる上でより重要な問題とすべきか、ということになる。その点は、どっちなんだろうなぁ。前者かもしれない。
*
それと、lets_skeptic氏は知っている話だとは思うが、さらにやっかいな話をもう一点してフォローしておくと、パフォーマティヴな発言の「誠実さ」というのはとても評価がめんどくさい。
議論のための議論のように聞こえてしまったら恐縮だが、
たとえば、
1.「XXがよりよいことなので、みんなで××にコミットすべきだ」と発言があり、
2.XXがぜんぜんダメでぽしゃった
3.しかし、原因はXXがそもそもへぼかったからではなく、みんながXXにコミットしなかったことが原因である可能性がある。(つまり、みんなが××をしていれば、××はほんとうによりよいことだった)
というようなことがあったとする。
このとき、「XXがよりよい」と発言していた人は、「間違ったことを言った」とどこまで言えるだろうか。
もちろん、「現時点の観測からすると、結果的には間違っていた」といえる。その限りで詫びてもよい。
しかし、「現時点の観測からすると、間違っているように見えるかもしれないが、やっぱり私の言っていたことは正しい。みんながコミットしなかったことにこそ原因がある。だから、わたしは、一時的に、結果的に間違っているかもしれないが、××はただしい、と言い続けるし、そのことについては謝らない」という人がいたとして、その人の「誠実さ」とはどのように評価可能だろうか。
わたしの知っている人のうち、この手のパフォーマティヴな価値に言及しようというようなタイプの人、(ネガティヴな言い方をすれば、自己成就予言的な性質のある話をしている人)というのは、議論するとやっかい、つーか、めんどくさい、つーか、並大抵のことでは謝らない。この手の人々に対して、「誠実さ」とか言い出すと、話がズレることが多い。
データみせても、「いや、現時点でのそういう結果を出されても、それはぼくの言っていることの根本的な反論にはまったくなってなくて…」といわれて議論にならないことが多い。かなり理論的なところで闘う以外に手がない場合が多い。人によっては、理論的なところですら闘えないような話をする人も多い……。これが、「ムー大陸が~」とかって言うタイプの人だったら、「DQN乙」で終わってよい場合も多いけれど、、ガチインテリの人でもこういう話はけっこうやる。こうなると、どこまでが謝ったりする範囲で、どこまでが謝らなくていい範囲なのかが、遠目にみると混迷を極めているように見え、エンドレスに不毛な会話がなされる場合がけっこうある。
というわけで、結局何が言いたいのか、というと、
・「誠実さ」概念をめぐる指摘には同意するし、すばらしい指摘だとは思います。
・だけれども、「誠実さ」という変数だけで全部解決しようとしても、そこでもまた、ディスコミュニケーションは起こりうるのでは?
まあ、自己成就予言的な話をするとき、それは社会科学者ではなく、批評家とか政治家とか呼ばれるたぐいのものになってしまう、という解釈もありうるんだろうけれど。政治的/批評的行為によって、理論の実証を目指してるんだ、という言い方もできるので、そういうことを言い始めると、社会科学における「科学的」と認められる発言の境界線はどこに引けるのか、ということになってくるので、わたしの手には扱いあぐねる。たぶん、科学哲学的にアツいところなのだろうけれど。そこらへんの話については、わたしはぜんぜん科学哲学についてフォローしているとは言えない人間なのでlets_skepticさんのような人から教えを請いたいぐらいの話です。
***
しかし、やっぱり、増田なんかで書くとどうしても脇の甘い書き方をガンガンとしてしまうなぁ。まあ、脇が甘くても、「たかが所詮は増田の記述」だと思われ、その程度によまれればいい、ということを期待してしまっている自分がいるから、そういう書き方になるのだろうけれども。
それと、トラックバック先のskeptic氏へのはてブコメント
「豹変できないからこそ君子と呼ばれないのだ。誤字や言い間違いレベルの些細なことですら、ちょっと謝って訂正して感謝する程度のことが出来ない人が多い/ただ、誠実な人に限って「当たり前」以上の誠実さで潰れる」
もまた、的を得た指摘だと思われる。
結局、誠実…というか、ノイズを気にせずになんでもかんでも答えずにはおけないような人は、たとて、どんなに頭がよく、<知にたいして>誠実な人であったとしても、ウェブ上で活動するのはかなり負担がかかる。すくなくとも、学際的なひろがりのある人とかだと、ウェブ上で何かやろうとすると、潰れやすい。それをまた、「議論に負けだ」のなんだのとはやしたてる連中も発生すると、ごっそりとやる気をなくす。その結果、ウェブ上で「ちょうどいいぐらいの」コミュニケーションのできるインテリというのは、一定度以上にノイズを気にしないでいられるタイプか、ノイズがそもそも生まれないような振る舞いでいられるタイプのインテリかということになる。実際には、ノイズが生まれないような振る舞いというのはそんなに簡単なことではない。はてブのコメントのうちの5%ぐらいには文脈ぶっとばして、一読して偉そうなことを言う人、というのがいる。はてブ以外に、ブログであってもいるけれども。
もちろん、「ノイズ」に類するようなどうでもいい話に対応する「誠実さ」と、重要な指摘に対して対応するような「誠実さ」は別種のものだ、というように理屈上の区分は付けるはできる。しかし、実質的に、外からの指摘に応答する当人にとって、指摘がノイズなのか重要な指摘なのかを判断する根拠は、曖昧であり、当人が、常に、「誠実に」悩み続けることによってしか、それらは区分できない。結果、在る一定以上まで有名になると、「誠実」な人であればあるほど、外部への応答コストの負担によって潰れることになる。
ちなみにわたしは、わたしが実名で発言しているところに100ブックマーク以上ぐらい付けられると、うれしい反面、だいぶむかむかしてくる。「はてブ/2chの連中は全く…!」とは思わないけれども、はてブや2chのようなアーキテクチャが出てくると「ウェブ上でどの程度、冒険した発言がOKか」「ウェブ上では、どの程度外からの指摘を気にしないメンタリティがいいのか」といったことに対する「望ましいありよう」の最適さが変わる。これはつまり、政治家が演説でくだらない発言しかしなくなる、ということに似ている。政治家がバカなのではなく、現行の世論システム/投票システムとの相性を考えたときに「望ましい程度の発言」というもののバランスがどこに落ち着くのか、ということだ。ウェブ上が、学者コミュニティとして機能するクローズドな空間(※学者の作法を全員が受け入れることによって成り立っている空間、という意味で。作法を受け入れる限りにおいてはもちろんオープンである)ではなく、現状のようなオープンな一つのプラットフォームになっている限りは、学者的な作法が、ウェブ上において必ずしも「ほどよい」ものとして機能するとは限らない。市場のシステムが、市場に課せられたルールやアーキテクチャいかんによって均衡点のありようを変えるように、議論のシステムもまた、議論に課せられたルールやアーキテクチャいかんによって、その均衡点のありようを変える。学問というのは、その均衡点のありようを「知の継承、発展」にとっても最も効率的になるように目指し、調整がなされている議論のルール・システム体系のことだと思っている。ウェブが一つのプラットフォームとしてではなく、複数のプラットフォームを切り分けるような(たとえばSNS)システムとしての発展可能性をみせれば、学問の作法がより効率的になるプラットフォームとしても機能しうるだろうと思う。ただ、今のウェブという空間が生み出す、議論の均衡点は、おそらく、かなり傍若無人な人のほうがやりやすいぐらいになってしまっている。理想的には、もっと「誠実」であってほしいとは思う。しかし、「誠実」であることによって、評判を生み出し、注目を浴びやすいようなアーキテクチャにはなっていない。そのことが、池田さんをめぐる最も、面倒な問題なのかもしれない、と思う。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081111/1226362835
ここでも取り上げられている話題だが。とうとう開き直った。
http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081106/1225952057
http://b.hatena.ne.jp/letterdust/20081110#bookmark-10714312
letterdust 言ってることはわかるけど、自分がかわいくてしかたないから同意しない。
自分がかわいくてしかたないから「半ば本気で死んで欲しい」とd:id:HALTANを脅迫したわけですね、わかります。
「脳の失敗」とか、「国語の成績が悪そう」とか、それもやはり「自分がかわいくてしかたないから」ですね、わかります。
そりゃあ確かにd:id:umedamochioにバカ呼ばわりされて仕方ない人種だよ、ネガブクマカーというのは。
「はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。」それはそうだ。
なにしろ自分の憤懣、鬱屈、無力感、ルサンチマンをぶちまけるためにアカウント取る人種がいるんだから。そして自分の気に入らない他者を勝手に障害者だのなんだのとレッテルを貼って、自分を免罪するのです。
梅田さん、ネガコメ問題というのは、あなたがおそらく考えている「無神経」とか「無配慮」とかの問題よりよほど深い暗黒なのですよ。
世間には、あなたのように自分が自分であることを実績を通して肯定・承認できる人ばかりではない。そんなことはもちろん百もご承知でしょうが、この自己承認・自己肯定、ひいては自己愛の問題でこじれてしまうと、いとも簡単にダークサイドに堕ちる人種に、はてなブックマークはとても便利な拡声器なのです。
「自分は社会を呪っている!この呪いの大声にせめて耳を貸せ!」と叫ぶけだものたちが、一般世間では滅多にいるものではない。例えば企業や大学で、「あれはもう活動家だから」とハブられるような凝り固まったボーダーラインの向こう側の人が、どれだけいますか。1%もいないでしょう。でも、いま、はてブには、実社会でハブられた輩が集まってきてしまっているのですよ。そして周囲のブックマーカーのルサンチマンも共鳴させて顕在化させてしまう。こんなに低コストで人を罵ってスカッとできる娯楽を提供してくれて、株式会社はてなには感謝していますよ、あなたが「バカ」と呼んだ人たちは。
「モテ・非モテ」、「マッチョ・ウィンプ」、これらの話題がなんではてなでだけ盛り上がったか?アメブロや楽天広場では絶対にこんなことは起きない。それは、来る人種から既に違って来ているからです。技術的な簡便さや可能性ではなく、自己愛を甘やかす可能性に惹かれて群れる人たち。
ボーダーの向こう側の人は、同意や賛同を広く求めるわけではない。実社会では目立たない、声も上げられない、気の小さい人たちですよ。だからなによりもまず、自分がなにか罵声でもいいから声を上げて誰かが反応してくれることに飢えている。そのためには、ネガティブに喧嘩腰に叫ぶほうが良い。極論に走るほうが良い。ホームレスを全力で助けないお前らは殺人者だ、あたしは助けた!みたいなナルチシズムで充満した叫びまで、時にはてブは宣伝してくれる。周囲が唖然とするような「過激」なコメントであればあるほどよい。穏健なコメントは流されるだけだからです。そして中には、「自分も障害者だから見過ごして」とか言い出すのまで、この通り、いるんですから。「サヨクですから」とか、強弁すればするほど反論も含めて大きな反応があって嬉しがる、可哀想なのもいる。
しかし、「過激なコメントで目立とうとする」行為の裏の自己愛の、なんと卑小で醜悪なこと。
そうやって「かわいそうな自分」の「傷口」をさらけ出したりしながら、社会で真っ当に生活を営んでいる大多数の人の、ちょっとしたつぶやきにも揚げ足を取りに来て、絡み、毒づき、罵り、自分を確認する。それでいて専門家の言説の専門性も攻撃し、同時に大衆も「騙されている奴隷」のように見下す。そんな浅ましい人が集まったのは、キーボードをちょっとの間カチャカチャやっていれば自己アピールができ、一際エキセントリックなコメントにスターをつけ合う、そんなありがたい環境をはてなが整備してくれたからですよ。御社の開発したサービスはそれだけ優れているのです。自信を持って下さい。
そしてこのはてなというコミュニティは、このままでは、ルサンチマン芸者の発表会がずっと続くのでしょうね。いまのうちにはてなポイントをアマゾンで使ってしまおうかと思います。
以下加筆。
kyo_ju 言及しましたね!, ゆっくり, していってね! ご自分がネガコメ全開。
id:kyo_juがつけたタグ、「言及しましたね!」が面白い。上記部分ではなにもこのkyo_juに関する言及はされていないのに、自分からはしゃいでしゃしゃり出てくるということは、まさに自分の行動原理を説明してくれましたね!これは自分のことですよ!ということだろう。
今後id:kyo_juは、自分が自覚してブックマークで「ルサンチマン芸の発表」をしている、わかってやっているという前提で批判されて当然ですね。自分から「言及しましたね」と言ってるんだから。
id:letterdustについては、この自称ADHD患者はさぞかし自己評価が低いんだろうな、プライドの傷つきを癒そうとして、悪態で他者に注目されたいという意図で行動して、自分で自分を止められなくなっているんだろうな、この先にはなにもポジティブな可能性はないことは重々自分でも承知だろうな、くらいしかもう言うことがない。
y_arim anonymous ネガティヴブックマーカーはこういう場がないとネガティヴを発散できず秋葉原とかで人殺したりしかねないので、クズの収容所としても維持しておくといいんじゃないですかね。実際、クズの居場所はあってもいい。
いや、まさに「クズ」たちなんだが、それも自薦で名乗り出るよっぽどの「クズ」たちなんだが、人殺す度胸はないだろう(笑)。秋葉原の加藤はもっと腹が据わっていた。彼に比べれば、「さあて今日もネガコメでスカッとするか」と、物欲しそうに他人に絡んでくるだけ、自分たちの行動の底の浅さはわかっているようだが。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081022/1224628020
id:letterdust ↓身体障害と違って、キレ出すと凶暴だよ、うちらwwww/思いやりじゃなくて処世術として覚えてね☆/↑あはは、また汚名挽回しちゃったかもw/こりゃブログ開いてhashigotan目指すきゃないかな♪
このところid:letterdustとid:magician-of-posthumanが揉めているのは知っているが、その経緯と切り離しても、これはどうかと思う。
まず「↓身体障害と違って、キレ出すと凶暴だよ、うちらwwww」だが、これはid:letterdustがADHD(発達障害)を自称している文脈がある。しかし、仮に本人が本当に発達障害だったとしても、「キレ出すと凶暴」と形容していいのはせめて自分だけである。「うちら」というのはなんだろう。他の発達障害者も一括して「凶暴」呼ばわりする資格が誰にあるのか。もちろん、実際に「キレ出すと凶暴」な発達障害者もいよう。しかし、社会とのコミュニケーションの不全を感じつつも、それを緩和しようとして様々な努力をしている人もたくさんいる。凶暴になりかかってこらえている人もいる。その人たちを差し置いて、id:letterdustが発達障害者を代表したかのような物言いをする根拠はなにか。
「思いやりじゃなくて処世術として覚えてね☆」というのも、呆れる他ない。まず発達障害者一般を自分と同様に「凶暴」であるかのように宣伝して、そういう「凶暴」な相手に「配慮」して接するのは「処世術」として「覚えろ」と強要する。自分を弱者代表として、その弱者への配慮を強要するテクニックだが、こんな卑劣な「政治的」な振る舞いを肯定する発達障害者は多くないだろう。他の発達障害者は、自分たちへの偏見が強まる危惧を覚えるだろう。自分たちを「代表」してスティグマを武器に使うような権利は、誰が誰に与えられようはずもない。ちなみにid:letterdustは、こういうことをコメントする片方ではid:Midasを勝手に「アスペルガー障害」と「認定」している。ではid:Midasに自分は処世術として「適切」に接したのか?見苦しいとしか言い様がない。
「こりゃブログ開いてhashigotan目指すきゃないかな♪」に至っては、込められた悪意に唖然とする。ここで引き合いに出されたid:hashigotanは迷惑という程度のものではない被害を被ったと言える。id:hashigotanがいつ、こんな「障害者一般」を代表するかのような卑怯なレトリックを用いたのか。id:letterdustはまず、id:hashigotanに一刻も早く謝罪すべきであろう。
なるほど、こういうメンタリティの持ち主ならばこそ、「国語の成績が悪そう」「半ば本気で死んで欲しい」などというネガタグを平気で発案できるのかと思うが、その殺伐とした感性にはどんな理性的な対応も無意味であろう。こういうネガティヴブックマーカーに絡まれないためにも、増田は必要である。論理が論理として独立して議論の対象になる場がなければ、悪罵に対して最も鈍感な人格ばかりがこのようにのさばることを許してしまう。それを喜ぶ人にとって、増田は確かに目障りだろう。罵詈雑言の十字砲火を愉しむ人には。
こんなコメントもある。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/hmwr_k/20081024/1224840331
id:letterdust 増田に中傷キャラ認定されたわたくしが来ましたよ。誰かを嫌いで、私も嫌いやけどそんな責め方したんなよ〜が誹謗中傷になってオフで会った人までとばっちりが来るこんな世の中じゃ、ポイズン。
他者を障害者と認定できるのは、専門家が診断に必要な十分な情報を得たときだけで、だからといってそれを第三者に触れ回ることなど問題外の行動である。まして、他者を貶めるために素人に玩ばれていい概念ではない。まして、その同一人物が同じ「障害」のレッテルを自分に対しては免罪符として使い、周囲には「弱者」への配慮を「処世術」として強いること、その目的のためには障害者一般に「凶暴」という形容詞を使うことを躊躇しないこと、自分はその代表を僭称すること、これらの行為を見たとき、無惨としか言い様がない。
http://anond.hatelabo.jp/20080825123643
を読んで、そのトラックバックやブクマされたコメントを読んでると
「この男は誠実な奴じゃないか、それが判らないなんて・・」って言ってる人が多少居るけど、思ったことを2つ。
1.延々と自分のマイナス面を語ることが誠実か
これはきっと話の中の男性も「自分を誠実に見せる」意味もあったんだと思う。
自分と一緒になれた後ガッカリさせたり騙された気分にさせないように必死に自分のマイナス点を先に総ざらえしておいて、
その上でこんなダメな自分を受け止めてくれるなら、ヨロシク!って意味だったんだろうなーと思う。
でも、それってそれくらい誠実であると同時に
「俺はこんくらいダメだけどそれが『自分らしい俺』だし、今の俺を変える気は無いのでヨロシク!」って意味でもあるよねと。
だいたい世の中のものなんて何でも良い部分でも悪い部分だけでも作られてないと自分は思う。
自分の良い所を肯定することは大事だと思うけど、その中にあるダメな部分までまるまる肯定するとそれは全然誠実じゃないんじゃないかと。
2.自分が誘った食事で延々と自分語り(それもネガティヴな)をするということ
これはもう簡単に。
「それ、自分だけが気持ちよくなって、相手の立場は?」っていう。
増田の文中の「営業」「攻撃」「勝ち取る」といった表現に批判的な向きを示している方も居るけど、
確かに恋愛は営業活動ではないけど、でも似たような、一対一のエンターテインメントではあると自分は思っている。
その場で自分は相手を喜ばせることを放棄してオナニー始めちゃったらさすがに普通はついていけないって。
(まぁ時々、そんな男性がいい!私が面倒見てあげる!って性癖の人も居るけど。)
多分、文中の男性もブクマコメ等で「誠実な奴じゃないか」と言ってる方も、その辺はあまり気にしてないのかもしれない。
でもあんただって自分の意中に無い相手に延々と面白くない話されて、相手ばっかり気持ち良くなってたらなんかムカつかない?
あと、こういう時に「でもイケメンならいいんだろ」とかすぐスネちゃう方!w
彼らイケメンや美少女はその存在時点でエンターテイメントを達成してるんだから仕方ないって。
どう文句言ったってそこの差はそのままでは埋められない。なら他の点で埋めていくしかないんじゃない?
結論:南海キャンディーズの山ちゃんの本(『天才になりたい』山里亮太)を読めw
外見も笑いの才能もけして生まれつき優秀じゃなかった彼がそれでもモテたい、ウケたいと七転八倒した記録。
結局、天才を見て「天才はいいよな、ズルいよな」と愚痴る前に、そうなりたいならそっち向いてちょっとでも走れって言う。
なりたくないならイチイチグチグチ言わなくていいんだし。
いや、ほんと勉強になりますよ。面白いし。
ネットで、いわゆる「自作自演」を見ると、そしてそれがまだ(もしくはずっと)発覚していない状態だと、見てしまったこっちが申し訳ない気持ちになる。何故。
相手に思い入れがなくても、もしくはネガティヴな思い入れがあっても、見た瞬間にあっごめんって思いが脳を走って、そのまま誰にも話さない。話せない。
うまいことその弱みを突いて、その場が自分の望む方向になるようコントロールするチャンスなのかもしれないけど、活かせない。むしろその悶々で不利になったりすることもままある。
「自作自演」に「悪いこと」というより「恥ずかしいこと」ってイメージがあるからなのかな。
自分がネットに出すもの(文とか作品とか)は、よく特定される。特定遊びをする村に住んでる訳でもないのに、特定される。その辺から自作自演に限らず虚偽の振る舞い全般はおおむねばれることが予測されるので、したことがない。でも、ばれない自信があったとしても、恥ずかしくてできない気がする。もしもボクサーだけど。
10代の頃は死にたいとか簡単に友達やらに言って甘えたりできたけど
今はもう無理。友達いても何の相談も出来ないね。
気になるあの子になんかなおさらだね。
淋しいのだけど結局誰との距離も縮まらない。話すことないし。
口を開けばネガティヴな感情を吐き出してしまいそうで。
だから人と会っても超無口。悪い、近況とか聞かないでね。
だけどこれ相手としてはつまんねえだろうなぁ。聞き上手にもなれないし。
でも会いたいんだけどね。特に最近。今までずっと一人でいいやって思ってたんだけど。
会うって事でちょっと他人に甘えてるかもね。
「僕のこと何も話さずに、僕のこと全部伝えたい」
っていうのは歌の歌詞だけど、そりゃあ無いよな。分かってるんだけど。
これも10代の時は違った。鬱病っていう病名が欲しかった。
でも今は嫌。治っても治らなくても鬱病だったとか、鬱病だという事実が欲しくない。
鬱病じゃなくて他の病名だとしても嫌。
それを誰かに話すとしても話さないとしても嫌。
病名に甘えちゃう気がするからかな。分かんないけど。
http://anond.hatelabo.jp/20080707102801
もう寝るのべき時間帯なので明日にでもまた書きたいと思うことを書きます。
特に「suicide is muder」を書いてくださった人、ありがとうございます、落ちが秀逸でした!
疑問に思う点も多々あるので、またレスさせてください。
否定的な意見も本当にうれしいです。
自分はいずれ「自殺」肯定させるつもりです。
もともと自分は、自殺なんて逃げるのと一緒だという幼少時代の刷り込みのせいで、自殺なんてしたくないと思っており、未遂を含めて行ったことはありません、まぁ今生きているんだから当然ですけれども。それでも、もう人生終わりにしたいと思ったり、やる気が出なかったりするのです。
ある匿名ダイアリーにに「自殺は衝動的なものだ」といったエントリーがあり、それは自分でもその通りだなと、感じています。なんかわからないけど、衝動的に駆られるんです。(そう思い込んでいるだけかも知れませんが)
とにかくもう消えてしまいたい気持ちが自分にはある、でも自殺は一般的には否定されているので、それを肯定させて、自分自身を納得させて、とるべき行動をとろうと思っています。
自殺はしてもいいんだよ、だから、つらくなったらみんなで死のうよ、と言うことを言いたいのではなくて、自分や社会や、死にたいと思っている人にとってメリットとなるような意味を持たせて、肯定させるつもりです。でなきゃ、ただの宗教です(蛇足:死んだら生まれ変わる、死後の世界はいいところor悪いところ、自殺したら、地獄に行く、などの宗教的な意見は言うつもりもありませんし根拠もありませんし、そんなことは鼻から考えていないです、そこに着眼点はないですし、議論しても不毛です。個人的には死んだら生まれ変わるのではなく、無になればいいなと思います。まぁ潜在意識下ではもしかしたら楽園のようなところに行きたいとか、幸せになりたいとか考えているのかも知れませんけれども、それは自分ではわかりません。というか死語の世界などどうでもいいのです、死語の世界がどういうものか、という問いの答えは“わからない”で完結です。)
自殺を肯定させた結果、自分が再び活気を取り戻せるようになるための、意味があり説得力のある理論を構築させ、実践する、それが目標です。
でも、まだ、その段階に来ていないから、このようにして、批判をもらって、自殺がいけない理由を、よく検討したいのです。
また、その理論を構築させるには数々の欠陥の穴を埋めなければ「完璧に近い理論」にはなりませんので、肯定し一応のそれらしい理論ができた後、また、皆さんの力をかりたいです、批判的な意見、同意する意見など、それらがまたほしいです。
自分は相当未熟な人間です、なので、文章、論理、または自分が、無知であり、短絡的であり、極端であり、詭弁であり、幼稚であり、浅はかであり、稚拙であり、無力であり、惰性的であり、不真面目であり、語彙力が少なく、表現力もなく、たぶんどこかに誤字脱字があり、たぶんどこかに単語の誤用があり、人を引きつけるような文章もかけず、支離滅裂かつ、矛盾があり、かつ不親切であり、現実を直視できない愚か者であり、空気の読めない人間であり…まぁとにかく、未熟でアホなので、不快な思いをさせてしまったらごめんなさい。
こんな自分にレスつけてくれるなんて本当にうれしいです。
はてなの人たちがこんなにあたたかいなんて、正直感動です。(ていうかネガティヴな意見もネット上だとすごくあたたかいものに見えてしまう、まぁそこまでひどいことを言われた経験が無いからだけなのかも知れないけれども)
自分は、はてな歴は相当浅いです。1ヶ月ぐらいです。だから、先人の皆様方にレスをもらえることに感謝しています。
なんか謝りたいです、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
本当にありがとうございます。引き続きよろしくお願いします。あと別におまえのにレスしてんじゃねーよ!子増田←使い方合ってる?に意見しているんだ、っていうのも、それもまた趣深く思いますので、それでもいいです。
蛇足:
謝るくらいなら努力しろと言うんですね、これが努力の一歩だと思ってください。でももっと努力しろとか言われそうです。
…誰かが自分のことをバカにしている声が聞こえてきしまいます。
だから、謝りたいです、そうすると謝るくらいなら変えて見せろという声が聞こえてきます。移行無限ループです。
この記事を書いている今の精神状態があまりよろしくないようなので、そういうことばかり書いたり思ったりしてしまっています。
実に不出来ですみません。
ええ、悪いのはすべて自分です。わかってます。
最後に、長くてくだらなくてすみません。
そして、こんな自分が生きていてすみません。←オチのつもり
だめだ、記事がまとまっていない。伝えたいのはレスしてくれた人へのありがとうの気持ちです。まじtnx!
それとこんな記事書いていてなんか虚無感に襲われた。
俺は今まで何をしてきたんだろう。
俺はあの年齢であんなに落ち着いていたか?
俺はあの年齢であんなに思慮深かったか?
俺はあの頃あんなにバイタリティがあったか?
俺はあの頃あんなにてきぱきと的確に動いていたか?
今日からまた走り出そう。
追いつかれる日を一日でも先に延ばすために。
最低でもこの程度は頑張るのが普通だと背中で語るために。
できる者から先に行けと合図を出すために。
地ならしをして追い越されるために。
突っ走って転んだら起こしてやれるように。
立ち止まって立ちふさがるなんて、誰が許してもこの俺の自尊心が許さねえ。
それに、おいしい所を持って行くのは、必ずしもヒーローに限った話でもないし、な。
昨日X-MEN2をテレビでみながらふと思ったんだけど、あっちのヒーローって顔だしてる人多いね。覆面にしても目のあたりだけで、口のところは出してるとか。いやもちろん全部マスクで覆ったヒーローもいるけど。スパイダーマンとか。なんとなくネガティヴな属性を隠しもったヒーローは顔を全部隠しやすい傾向があるような気がする。ともあれ子供の頃自分はアメリカのヒーローが顔だして闘うってのに違和感があった。日本の特撮ヒーローは基本的に顔を全部画してるでしょ。仮面ライダーのライダーマンは例外的に口元を露出してたけど、もうそれだけでかなり弱そうだ。「顔を露出したまま闘う」ってなんだか股間を晒しながら闘ってるような気がする。本当に股間を晒しながら闘ったらそれはけっこう仮面だ。で日本のヒーローが顔全部覆ってるのは、日本人のネットにおける匿名好みと通じるものがあるのでは、なんてことを思い付いた。個人の属性をいったん何らかの仮面で防護しないと対社会的なアクションができないとかそんな感じ。いやごめんあんまり本気じゃないです。