はてなキーワード: ディスクールとは
面白い歪みだ。
おそらくは、イメージを、統一的な、ゼロかイチか判別できるようなものととらえているのだろうか?
ディスクールであるとか言説分析ということばを聞いたことはないか?
たとえば、
ありもしない属性⇒ありもしないということを、だれがどのような基準で判定し、どのように関係者に納得させるのか?
たとえば、予防論を採る人間にとっては、なにがしかの予兆があればもはや実在に等しい。
判定や納得、議論、といった行為はすべて闘争的だとは思わないか?
イメージについては、個々人が各個に総体的に描き出した上で、個々人が各個で観測した結果に基づき、運動するのがよいと思われる。
賛同者が多ければ事態は動いていくのだろうし、そうでなければ動かないだけの話だ。
あとから大きく振り返った際に、ゼロだった(誤認だった)、イチだった(正当だった)、ということはいえるかもしれないが、
渦中でそれができるとすれば、単に運動に関わっていないだけの話だ。
http://anond.hatelabo.jp/20090514063711からの続き。
新しく来た記事↓が、前回に引き続き色々とアレなので突っ込み。
http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20090515/1242394132
前回は「腐女子は、セクシャルマイノリティと自分たちとを同列扱いしている!」と叩いておいて、今回は自分が同列に語ってるし、前回は「なぜそんなものを、遺伝子のように本質的なものとして背負い込む!?」と言いながら、今回は「おそらくそれらは自分で決めたものではないだろう。いつの間にか、そうなっていたものだ。」と言ったり、もう訳分かんないね。
なんかもう、「セクシャルマイノリティに対して理解ある俺」に酔ってんじゃないのかねこの人。
よくいる、自分の中の差別感情を覆い隠すために「私は差別されてる人の味方よ♪」アピールするタイプなんじゃないの。
こいつにとっては、自分の心の底に抱えているセクマイに対する攻撃性の転化先と、自分が差別と戦う英雄でありたいがための悪役として、オタク・腐女子がちょうど良かったわけだ。
前回腐女子に対して言ってた「「自分は腐女子である」という言明を金輪際を止めればいいのだ。」って、本当はセクマイに対して言いたかったことなんじゃないの?w
案の定今回はそんな内容だし。
もっとも、「消費したもので私は作られる」という後期資本主義社会に位置づけられる今を生きる俺たちが、記号としての消費物からの「名付けの呪縛」から逃れることはできない。逃れることはできないが、それでもなお、その呪縛から自由であろうとする「余地」は残されているはずなのだ。それをなに、自ら積極的に背負い込んで腐女子を語り、腐女子であらざる言説を駆逐しようとするのだろう。
だから、そんなのもの最初から存在しないんだって…。
俺が批判したいのは、こういう背負い込まなくてもいい言説(レッテルといってもよい)をわざわざ背負い込み、なおかつ自虐的に語りさも自分が「虐げられる者」であるかのように振る舞うというその身振りこそが、現代的なナルシシズムの充足形態になっていることであり、そしてそのことを彼ら自身があまりにも無自覚だ、ということだ。
言説を背負い込んでいるのは腐女子じゃありませんから。それお前ですから。
お前が腐女子に言説を背負い込ませ、レッテルを張り、呪縛しようとしている張本人ですから。
それで自由になれとかどういうことなの…? まず相手の自由を奪ってから、「おじさんが自由にしてあげよう(キリッ」ってことなの…?
よっぽど迷える子羊を救う英雄になりたいんですねwww英雄になるためには子羊が必要ですもんねwww
身近に子羊がいなかったら、ヤギを子羊に見立ててしまいましょうってかwwwヤギ超迷惑www
だから、今回あのような発作的、挑発的と思われかねない文章を書いたことは、そういう「好きなもの」を素直に表明できる人たちに対する、嫉妬心や劣等感のあらわれだと指摘されれば、それは否定しようないことなのである、というのは最後に書いておく。
だったら、なんで自分の抱えている劣等感を他人に当てはめるの?
「自分が『好きなもの』を素直に表明できないから、他人の足を引っ張って、表明できなくさせてやりたいです><」ってことですね。
全然自由じゃねーよwwww
そんな偶然的に決まったアイデンティティを、性だからといって自己の中核に据えるよりも、もっと大事なことだってあるのではないか。
それは、何か好きなものについて語る後ろめたさというか、語るということはおそらくいつかうちなる説明しようのない衝動に突き当たってしまうからで、そのことは僕自身にだって土台説明しようがないのだ。
どうやら自分の性質について何かしらコンプレックスがおありのようですから、「もっと大事なことだってある」と思って、偶然的な性質に向き合うことから逃げたいってことですかね?
まあ自身について個人的にそう思ってるだけなら自由だけど、それを他人に当てはめて押し付けないでくださいね^^
自分の性質について、逃げずに向き合うことのほうがずっと大事な場合もありますから。
どうもこの人には、自分の抱えている問題や感情を他人に押し付ける癖がありそうだな。
この人の脳内では、腐女子やオタクやセクマイに向かって話しかけてるつもりなんだろうけど、それただの鏡ですから。
鏡に映った自分に対して、独り言言ってるだけですから。
他人に対して言っているつもりの指摘や提案も、全部自分に言っていることですから。
これからは、他人に対して何か言いたくなったら、その前に「もしかしてこれ俺のことなんじゃね?」って考えてみたほうがいいと思うよ。
理論っていうのは、自分の抱えている問題や感情を見つめ、それを体系付けて説明し理解するために使うには良いけど、自分の抱えている問題や感情から、目をそらして誤魔化して言い訳して正当化するために使うと、自分も周りも痛い目にあうから。
フーコーだのディスクールだのやる前に、もっと自分の感情を自覚する努力をしてみたら?
あなたが言及した人の大部分は、あなたよりずっと自分自身を客観的に見ることができる。あなたとは違うんです(キリッ
大体ね、カミングアウトっていうのは、それをする本人の判断でやることじゃないの?
カミングアウトすることで本人が自由になれるんだったらすればいいし、自由になれないんならしなきゃいいだけの話でしょ。
そんなもん、抱えてる問題と状況によって本人の感じ方と周囲の環境が違うんだから、カミングアウトについて赤の他人がしろだのするなだの押し付けるもんじゃないでしょ。
他人に余計なお世話焼く前に、自分のことをなんとかしろよ。
「鯨は哺乳類である」というのと、「中絶は殺人である」というのとは、違う。
殺人という言葉には、通常、すでに「倫理的悪」という意味が織り込まれているからだ。
胎児は(まだ)「人間」ではない。故に中絶は殺人ではない。――
「中絶は殺人である。(殺人は悪であり、故に中絶も悪である)」って言わずに、
どうして、ただ「中絶は悪である」と言わないのだろうか。
もしも殺人という語を価値判断的でなく(哺乳類みたいな言葉と同様に)
分類として用いるならば、
「一般に殺人は悪であるが、妊娠という特殊な殺人は例外的に悪ではない」
なんて主張しても可ですね。
とにかく、まどろっこしい言い方は避けたいですよね、というお話。
グーグルストリートビューの話でも、「あれは盗撮だ」って言って批判する人がいたけど、
「盗撮」の定義だって議論の余地のありまくる話なんだから、
そういう言葉遣いはやめて欲しいと思った。
「被写体の許可を得ずに撮影すること」自体が悪である、なんてことは無いでしょ。
いや、そう主張するならばそれでもいいけど、
はっきりそう書いてくれないと、議論のたたき台としても弱い。
まあ、もっと言えば、「道徳的に許されない」けど、
それでもやるべきことだって、存在しうるんだけども。
上で挙げた二つの例は、どちらも分類の名称と見せかけて、
そこに道徳的に劣った行為であるという価値判断を滑り込ませるってパターンだけれども、
もうちょっと込み入った例もある。
このフレーズは我々を
「自分の力ではどうしようも無いくらいに劣った者」として描くと同時に
「嘲笑されてしかるべき者」として抑圧する。
この背景にあるのが、精神疾患に対する差別・偏見であることは言うまでも無い。
また一方では病気を自称するものに差病の疑いが向けられる。
「かわいそうな弱者」と認定すると同時に
「差別されるに十分な理由があるから差別してもよい者」として叩かれる。
問題にすべきなのは、発話者の意図では無い、とすら言ってよい。