はてなキーワード: ゼミとは
今年で数え年の25歳になった。
留年した挙句拾ってくれた会社である。受験期の高校生より馬鹿な私立文系のカスを何人も採用してくれる懐の深いIT系の会社だ。
それでどうやって生きてきたのかなという程処理能力が遅いカス、寿司打で一生ミスタイプのSEを響かせてそうな程タイピングはやばいカス。そんなカス達を2ヶ月程で鍛えたのち「バックアップ体制はちゃんとある」と言い、カス達にとっての未開の地(常駐)に放つ大胆さもある。安心する言葉ではある。現に自分には入社3年目のとても頼もしい先輩がついてくれることになった。「余裕余裕!」と嘘みたいに狭い喫煙所でワイワイ笑った。
おすすめの店があるんだよと言われ連れてかれた店が『安安』だったときはどう反応すれば良いか理解らなく、少し抜けたところもあるのかなと笑えた。基本的には面白く優しく仕事も出来る人だった。趣味も合った。麻雀、競馬、野球。タバコ休憩中は常に話が盛り上がった。男はギャンブルとサッカーか野球を知っていればどこでもやっていけるのだと思った。
ある日、とても頼もしい先輩が消えた。LINEはUnknownだった。どうやら退職代行を利用したらしく、本気で使う人いるんだと最後にちょっと笑っちゃった。
バックアップ体制というものは一度なくなったら整えるのは一筋縄ではいかないらしく、自分一人で全てを処理する必要があり残業につぐ残業だった。「まあ辛くなれば普通に逃げればいいしな…」と当たり前のことを常日頃考えていたし、今までの人生でもそういう辛いことあれば逃げてきた人間だったのに、そのときは何故か踏ん切りがつかず結局寝→労働→寝→労働の日々が数ヶ月続いた。
気取って立ちながら仕事できるスタンディングデスクというものが未開の地にはあったので、気取りながら仕事していたところ、急に目眩がしてきた。「ヤニクラかな?」と思いつつまあなんとか耐えていたのだが、あまり今まで自分が感じたことのない苦しさになり、トイレに駆け込んだところ酔ってもないのに初めて吐いた。なんかやばいなという焦燥感よりも「やっとこれで理由ができた」という安堵感の方が強かったのを覚えている。
翌日は日曜日で休みだったので初めて精神科に行った。理由付けを貰うのには一番ぴったりな場所だと思ったからだ。
その日の自分は素晴らしい役者だったので、演技とは思えないくらい自然に泣くことが出来た。先生と話をした後に、理由付書を4,000円で書いてもらいお薬ももらった。もう解放された気分だったので、書いてもらったあとは串カツ田中で独りで美味しい物を食べた。お薬は今も飲んでいる。
今の時代ネットで簡単に異性と知り合うことが出来る。自分はルックスもいまいちだし、高校時代クラスの女子が家庭科の授業中ワイワイ話し合ってた『クラスの中で一番付き合いたくない男子ランキング』で見事ワースト2位だった。
大学時代、初めて出来た彼女に対し「自分は顔が良くないから」とネガティブな発言をしたら「そんなことないよ!」と返され、その優しい一言が、今の自分がまだ恋愛に対して一歩踏み出せる勇気をくれていたのだと思う。
その彼女は別れた後、ゼミ内で自分の容姿を貶してきた男と付き合っていたが。
新しい彼女はとても気の良い子で、料理が得意で、オシャレで可愛い女の子だったと思う。多少ぶりっ子の感じはあったので、男にウケ、女には…なタイプだ。そして巨乳だった。好きになれば関係ないよなんて言うが、自分的にはあればあるだけプラスになるし、虜にもなる。
彼女とは色んなところに行った。転職して土日は不自由なく動けるようになったし、彼女とも予定は合った。自分は地方出身で彼女は横浜出身だった。あちらのほうが都内の地理には明るく、新しい発見を色々させてもらった。
ある日、原宿に行った。原宿駅のすぐ近くには明治神宮がある。自分は明治神宮が好きだった。あんな都会に緑がいっぱいで、歩いていてとても落ち着くところだった。テンションが上がり、じゃあ行こうかとなったところで彼女の顔色はそんなに明るくなかった。「ちょっと疲れてるからカフェでも入ろうか」と言われたのでそうした。素直に従ったが休憩後にも明治神宮には行けなかった。
それから日が空くが、デートをする約束の日に、自分は直前の予定が押してしまい遅刻してしまった。謝ったが、彼女はまったく怒らず「大丈夫だよ」「偶然街で昔の友達と会ったからお茶してていい?」と優しく返事をしてくれた。もちろんダメと言えないし、1時間程遅れてしまうのでむしろ偶然の友達に感謝をした。
駅に着きLINEをすると、まだお茶をしているみたいで一旦彼女と友達がいるカフェまで来て合流しようかという話になった。知らない人なのになという思いは多少あったが、非はこちらにあるので素直に向かった。
2人がいるカフェに入り合流をした。席に着いて2,30分くらいは普通の話をした。まだ付き合って日が浅いけど結構色んな所へ行きましたよとか、彼女の作るミートスパゲティはとても美味しいんですよとか。
そんな話をしていたが、2人が「トイレ行ってくるね」と同時に席を立った。そろそろ良い時間にもなるしここで解散かなと思っていた。
2人は戻ってくるとさっきまでと雰囲気が違っていた。
「大事な話があるんだけど聞いてくれるかな」と彼女が真面目な顔で言った。なんで初対面の人がいるこの状況なんだよと思ったし、戻ってきて顔見た時点で嫌な予感は凄くしていたけど、何故か格好つけて良いよと答えた。
「本当に信じてるものがあって、君にも理解ってもらいたいんだ」と言われた。
頭の中で最悪の選択肢が2つあったけど、難しい方だったみたいだった。マルチ商法であれば真っ向から否定できた。でも言われたことは恐らく宗教のことで、それをマルチ商法と同じように否定するのは憚った。ある意味その人の全てだろうし、真っ白になってしまった。
彼女が言った細かい話はもうあまり覚えていない。自分は「ここでこの話をするのはもうやめたいんだけど」としか言えてなかったと思う。その度に「大事な話だから」と同じ内容を繰り返された。
話は入ってこないし、平行線のままでいたが、「震災でも信じてた人は助かったの」と言われたのはずっと覚えている。
それは自分にとってとても人を馬鹿にした発言に思えた。「それ以上この話を続けるならもう出ていくね」と言っても、あっちはまだ続けようとするので5,000円をテーブルに置き、そのまま店を出た。追っては来なかった。
駅まで歩いて、最寄り駅に着いて、家までまた歩いてるときにちょっと泣いた。家に着いた時点で彼女からは何も連絡はなかった。
今までのことは全部嘘なのかなとか、セックスだって普通にしたんだけどなとか、あっちも勇気出して話した結果こうなってどうなんだろうとか、色々思うところはあったけど、考えれば考えるほど自分がキモくなってその日は終わった。何故か物凄く眠れた。
次の日に「考えは否定しないけど理解は出来ないし、今までみたいには行かないから別れよう」とLINEを送った。彼女は「納得いかない」と言っていたが、修復なんて考えられなかったので、ひたすらゴメンなさいと返し続けた。
別れることに合意はしてくれたのだが、定期的に連絡が来て怖かったので最終的にブロックした。
「久しぶりにご飯でも食べない?」
結構ウキウキで準備をしていたと思う。当時は自分がガキすぎて不細工に見合わない言動をしてしまったせいでヒビが入り別れてしまった。それ故にあちらからまた連絡をしてきてくれたのがとても嬉しかった。
ちょうどあちらの誕生日も近かったので、好きだったハンドクリームをプレゼントとして買うくらいには浮かれていた。
店は焼肉屋で、酒類提供禁止も明けていたのでお互いビールを飲み良い気分になっていた。元カノはどちらかといえば少し気が強く、思考が男寄りなのもあって、話をしていてとても楽しく感じた。あのときはくだらないことで拗ねてゴメンねとか気軽に言えたりもした。
3,4杯飲んで、じゃあ次の店でも行こうかとなった時に、「ウチに来ない?」と言われた。正直急だったし驚いたが、お酒も入っていたので断る理由はなかった。3年ぶりに手を繋いで心臓がバクバク言ってたのを覚えている。
次の日が仕事だったしもちろん着替えもなかったが、そんなことも気にならないくらい良い夜だった。
馬鹿なもので一度ヤれば「復縁かな?」と考えにもなったし、翌日の仕事中はこれからのことで頭がいっぱいだった。
また、次の日が祝日だったので「会えるかな?」とLINEを送った。
返ってきたのは「やっぱりごめん。昨日のことはなし。」という返事だった。立場が逆ならそこらへんにある話だと思うが、その文面を見た瞬間こういうパターンもあるのねと落胆した。
自分本位で上手くいくことを想像すると得てしてそうはならないと今までの経験で十分理解しているはずなのに。
打ちのめされた気分になったので、「わかった」とだけ返信をし、その日は久しぶりに独り酒をした。
2022年は最高の年にしたい。
ぎりぎり定型発達な俺の成長記録
子供のころから習い事などは続かなかった。そもそもタスクがあること自体がストレスで、いざ始めてしまえばそれほど嫌ではないことも、「習い事に行く」ことが嫌で続かなかった。
これについては、小学生に上がってから習い事を始めさせ、すぐに続けさせることを諦めた両親に感謝しかない。当然塾にもいかなかった。
なお、長じては飲み会嫌い、付き合い嫌いとなって開花し、無事、友人づきあいも交際も消失した。
継続ができないので、低学年の連絡帳などは、ほぼ真っ白だった。人生のやり残した感の端緒は連絡帳に違いない。
根気が無いので暗記もできなかった。例外は百マス計算で、多分自分の(興味ないことへの)集中力の限界がここらへんだったと思う。ミスは多かったが計算ができたことで何とか自我が保たれた。
テストはとにかく第一感で解いて見直ししない事で折り合いをつけた。空いた時間は、問題用紙にひたすら迷路を書いていた。
当然、ケアレスミスで点数は落とすし、漢字の書き取りなどは壊滅しているので満点にはならないが、8割くらいはとれていたので、ほおっておかれた。これも助かった。
すでにある程度分かっていることを繰り返すと激しく集中力が落ちたので、予習も復習もしなかった。小学生の頃はそれでも授業の進行が遅かったので、まだ終わらないのかと時計を凝視している嫌な生徒だったと思う。
待合室で漫画にかじりついていたので、近所のお医者さんに、この子は将来大物になるといわれたが、そんなことはなかった。
真面目に頑張ればなんにでもなれると、無責任に言う親だったが、中学生ぐらいには、医者とかパイロットとか100点をとれる人向けの職業には就けないと確信した。
なお、中学から始まった英語も暗記科目なので死んだ。たまたま近所に、例文の単語を隠してその単語を問う5W1Hの文章を作成するという特訓をしてくれる人がいて、英語の構文に慣れたので、全く筆記ができないにもかかわらずセンター試験でそこそこ点数が取れた。
理科は、とにかく根気が無いので、難しくて(解けなくても恥ずかしくない)薄いということでZ会の問題集にお世話になった。
なお、社会は地図帳にもかじりつくタイプ(鉄)の人間なので地理一択だった。
小さいころから人前が苦手で学習発表会とかは仮病を使ってよく休んだ。実際問題、風邪もよく引くし中耳炎なども一通りやられたが。
布団の中で横になって、NHKラジオの株価とか気象通報を聞きながら窓から雲を見ている時間が、今思えば一番幸せだったかもしれない。
そんなことだから、大学に入る前から卒論発表に怯えていた。後に、卒論発表よりゼミの方がつらいし、終わらない恐怖より恐怖の結末のほうがましだ、と知った。
基本、話ながら考えることができないので、人前に出る前には準備が必要、トラブったら諦める、と自分に言い聞かせているが、社会人になってもいまだにストレスである。
また、字の汚さもなかなかのもので、自分の書いたノートは自分でも読めないので残っていない。
高校の恩師が、教科書という立派なノートがあるからそれを見ればいいと言ってくれたのは、一生の宝物である。
あとは、両親があまりうるさいことを言わない人たちで、17時帰宅21時就寝という簡潔なルールだけを課してくれたので、生活が整いやすかったというのはあるかもしれない。(大学入学まで変わらなかった)
以上
勉強して大学出た。そこそこの大学だけど、たまたま大学時代のゼミの教授がなんかコネあって、誰もが知る企業に就職してしまった。
コロナの後、出社は適当でよくなった。大体10時くらいに起きて、だら~っと12時くらいに職場に行く。1時間くらい働いたら、散歩も兼ねて1時間くらい飯タイム。
18時には退勤。映画館に行くか、海外ドラマの一気見などを最近はしている。
土日はネット見たり、アニメ観たり、友人たちと温泉に行ったり。最近は革細工とか、陶芸とかあっち系もやったり、たまにサバゲーに誘われたリ。
それで、貯金も順調に溜まっている。
政治に一切文句はないし、ジェンダー問題も環境問題もあらゆることが「みんな大変やなあ」以上の感情は湧かない。
沢山書いたやで
・実名主義
80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数の社会的人格を持って経済活動する事ができた。
職場で旧姓を使い続けても問題無かった。1986年に米国でマネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。
MDMAが非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。
心臓発作を惹起する為に規制。m.o.v.e.のmotsuが所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。
90年代のクラブではマリファナは普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙で景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員も米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。
・式場での結婚式
1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式、キリスト教教会一般的。
団塊世代のロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻の自由は憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手と結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。
団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。
古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。
1990年頃まで日本人の公共空間でのマナーは先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。
・外国で旅の恥をかき捨てない
かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本人旅行者(特に団体)は眉を顰められる存在だった。
遺跡に名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクターに痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。
これを西洋は宗教倫理の文化で日本は恥の文化、共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。
電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。
この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年頃から段階的に廃止された。
森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバのIIS(インターネットインフォメーションサーバー)サービスでHPを提供していたため。
終業時間になるとサーバとルータの電源を落として帰っていた。サイトの作成は役人の趣味みたいな感じで作っていた。
1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタはパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。
駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口に100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。
民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。
90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両とタクシーの客待ちで二重駐車になっていた。
2000年頃から増える。警察が路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。
和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習。
家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員と交渉で決めるという風になった。この為に店員は電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。
客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。
バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎(1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機と建物袖看板の道路使用料徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。
これに対応して既存機の撤去とスリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。
以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフ、リセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。
2006年ころに一世を風靡したネットブックでSSDが一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。
嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局、銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。
当然平日3時までしかやっていない銀行に会社員が行けるわけがない。
そこで振り込みの為に仕事を中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅。
18才は未成年で飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。
ゼミの飲み会で普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。
・線路を歩かない
都電やローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関が線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。
90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故が連続し、その後厳しくなっていった。
初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキーは酩酊するからダメ」と書かれている。
・小銭を所持しないで外出
1000円札の読み取り装置が一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道の券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。
この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。
1989年の消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉は公共料金以外殆ど使われていなかった。
・個室
和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。
・個人
家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員のプライバシーに踏み込む」という感覚が余りなかった。
「会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。
ウオークマンは街で個人的空間に浸るものだとして批判の対象になった。個人主義はそれ自体が罵倒文句だった。
全共闘運動はあらゆる権威を攻撃し、大学の知の権威というものも破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態が継続。やがて学生は脱政治化したが大学や学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。
90年前後の大学改革でICUや上智の比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり、学生が勉強するという当たり前の状態が復活した。
この為に卒業年1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。
・様々な塩製品
塩は国家専売品だったので専売公社の製造する塩以外の岩塩、ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可と標識の掲出が必要だった。
・「メイド喫茶」などの語
「メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制や階級制の象徴のような職業であって、戦後の身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤が一般的な「雇用」となった。
一周回ってメイドの構造が過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。
・キャノーラ油
キャノーラ油の原料は菜種。
米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。
米国で生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。
過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法が改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。
1991年に大店法が改正されるまではデパートの閉店時間はPM6時、スーパーの閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。
基本的に地元の商工会の意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正が商店街の全滅に繋がった。
・生ビール
ビールは酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール。
この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。
1970年代末にサントリーがフィルターで酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。
だから地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品の生ビールはサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。
バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。
それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。
これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導の対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。
1990年から。1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業の有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去。札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的。
1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。
冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまち、ひとめぼれが席巻するようになった。
駐車違反にバイクと車の別はないが、バイクの駐車違反は2006年まで摘発されていなかった。摘発を民間に委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗に駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。
・大学生の専攻無し
学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行や福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から。
アカデミックハラスメントなんだろうか、私が受けたのは
わからない
録音しておけばよかったのかな
あの人はハラスメント常習犯だし、今度のターゲットは私(ともう一人の後輩)ということだろう。
あんまりにもショックすぎて事情を他人に説明する気力すらない。
私は先生に愛されてないんだ
先生のパワハラのターゲットにだけはなるまいと気をつけて3年過ごしていたはずなんだけどな
私が先生のために身を尽くしてきた3年間はなんだったんだろう
私は頑張ってきたつもりなのに、先生はそれを認めてはくれないのね
分かったよ、先生のお望み通り、研究のことだけを考えて、誰とも話さず、残業も厭わず、論文も沢山読んで、沢山実験するね。先生が実験を沢山する学生が大好きなことは知っているから。頑張って先生に愛される学生なれるよう頑張るね。
確かに最近調子にのってふぬけていたのは確かで、それを咎められたんだね。先生はよく見ていらっしゃいますね。それを見破られて惨めです。恥ずかしいです。ごめんなさい。私としては必要最低限はやっていたつもりだったし、11月から頑張ろ♥️と思っていたから、9月10月の私をそんな剣幕で、「今までの学生の中で最悪です」と言わさせるまで酷かったんですね。ごめんなさい。申し訳ございません。
見せしめのような席替えも非常に恥ずかしいです。先生は私に罰を与えたいのですね。
惨めで恥ずかしい。
どうしてあんな屈辱的なことをさせられた場で、明日からもニコニコと研究をしなければならないの?
それは私の9月10月がふぬけていたからだと、色ボケだからだと言いたいんですね。惨めで恥ずかしいです。土曜の朝から涙が止まりません。ふとした瞬間に涙が溢れてしまいます。
どうしたら私は傷ついていると先生に後悔させることができるだろう。
目の前で飛び降りればいい?
包丁で刺したらいい?
復讐として自殺してやりたくなる人間の気持ちが分かってしまった。
あんたのせいであたしの人生めちゃめちゃになった!って主張して公開させてやりたい
でもまあ、そんなことをしても先生は一ミリも後悔しないことは知っているし、誰も得しないのでやりません。
成果で見返すのが健全だと知っている。これを悔しさに変えて、なにくそって、これまで以上の成果を出して、先生を見返すのが健全だよね。知ってるよ。だから休日出勤して実験しているんだよ。
でもなんであたしがこんなことをしなきゃいけないんだろう。あんな屈辱的なことを言われて、それでもあの人の望むような行動をとらなくちゃいけないの?
まあ取るんだけどさ
実験頑張りまーす
さてぇ、どこに相談するのがいいのだろう。相談できる友人もいないし、大学の組織に言っても筒抜けそうで怖いし、別に私が10:0で悪くない案件かと言われると全然そんなことないので、被害相談は気が引けるんだよなぁ。
学生時代の友人…少ないけど連絡とってみるかぁ、忙しいだろうし気が引けるな…いっか…
米国に駐在して3年が経つが、英語でのコミュニケーションがいまだにうまくできない。
一対一ならなんとか意思疎通 ができるが、ネイティブ同士の会話に入ると地蔵と化してしまう。
英語の勉強を始めたのは中学進学時から、冗長な授業が苦手で英語だけはテストで平均点に至らなかった。
高校に進学しても英語はだめで、高卒で就職しようと思っていた。それでも、なんとなく受験勉強を高2の終わりくらいから始めて、単語を1000個ほど覚えたら世界が変わった。長文が読めるようになったのだ。結果としてセンター試験の筆記では8割、リスニングで4割くらいをとって大学には進学できた。取り組んだ学習は単語の暗記(ターゲット)と長文読解(かたっぱしからやった)のみ。
大学進学後は英語を勉強する必要が全くなかったので、のびのびと暮らしていたが、ゼミで強制的に受けさせられたTOEICで400点前半を叩き出し、600点をとらなきゃ卒業させないと言われ絶望する。文法特急シリーズに愚直に打ち込みなんとか600点を達成し、卒業・就職。取り組んだ学習は文法練習とその音声を聞きまくるのみ。
就職先は英語に関わることが無いよう、国内でのみ事業展開をしている会社にしたが、私が入社した年から海外事業部ができ、そこへ配属される。TOEICは600点でも社内では高い方らしく、1年後の海外駐在を匂わされ、英会話教室へ。英会話教室では南アフリカ人から来た先生とテキストに沿って学習するも成果を実感できず。(週一度 3か月 15万円くらいだったか。。。) 程なくして米国のビザ申請にIELTSという英語テストの点数が必要だと言われ、死ぬ気で勉強を始める。(のちにデマだったとわかる。) 勉強内容は王道のオンライン英会話 笑。
予定通り?一年後に米国駐在に。出国前に受けたTOEICは800点を超えており、謎の自信をもって現地へ。しかしながら、会話ができるはずもなく、オフィスの隅で静かにする日々が現在まで3年続く。学習はオンライン英会話と現地での積極的なコミュニケーション 笑
これまでの英語の学習遍歴を見て改めて思うのは、能動的に英語の勉強をしていないこと。外国人と話したいとか英語のコンテンツを翻訳なしで味わいたいとか、そういう動機がまったくないこと。というかそもそも他人と関わるのが大して好きではないのだ。休みの日はベッドの上から動きたくないし、コロナ禍で外出ができなくても全く困らない。
上記のような性格だからコミュニケーションの能力が元から低いのだろう(因果が逆かもしれないが)。思い返せば日本語の聞き取りもかなり怪しく、半分以上を知識から補っている気がするし、複数人で話していると脳がパンクする。センター試験やTOEICで点数が稼げるのは低いコミュニケーション能力をテクニックや他の機能で補えるからだろう。
こんな感じの私の英語学習履歴だが、『米国駐在経験あり』という看板が新たに追加されてしまった。もう逃げることはできないと覚悟して学習を続けるしかないのか。。。
大学4年生の男です。
本当は自分のnoteやブログにでも書こうかと悩んだのですが、ユーザー名を出して執筆するにはあまりに生々しいというか、自分の考えの醜さを知人に知られることが怖くなり、でも誰かには共感してもらいたい(もしくは役立ててもらいたい)という思いからここに書くことにしました。
多分めちゃくちゃ長いです。推敲も丁寧に行っているわけではないので読みにくい部分もあるかと思います。
私には4ヵ月ほど前に彼女が出来ました。彼女にとって私は初めての彼氏となります。
馴れ初めは2年生から始まるゼミがきっかけで、以降2年間アプローチをし続けました。
2年生でフラれ、3年生でフラれ、4年生になってようやく得た「いいよ」です。
3回目の告白は半ば勢いに任せた告白だったのですが、悩んだ様子も無く即答での返事で、むしろ私の方が「えっ?」と聞き返してしまいました。
しかし自信が無かったわけではありません。
2年生時は小太りでしたがそこから-15kg減、筋肉も付けていわゆる「細マッチョ」に分類されるような身体になりましたし、バイトを接客機会の多いものに変えてコミュ力も磨きました(元々コミュ障だったのでこれは普通に就活でも役立ちました)。
ファッションも季節ごとに勉強し、女性へのエスコートも普段から女友達に対して心がけてみることで、自然と出来るようにしました。
資格勉強やサークル活動にも必死に打ち込み、自分に自信を付ける為ならなんでもやりました。
もし上手く行かなかったら諦める。今までの自分の努力が無駄になるわけじゃない。そういう心持での告白だったので、即答でOKをもらった時の気持ちは言葉では言い表せません。
…ここまでは自分の話。
私の彼女はいわゆる「サバサバ系」です。それを鼻にかけるわけでもない、本当に純粋なサバサバ系です。
趣味がやや男ウケしないということもあるのでしょうが、高校生までは専ら同性としか絡んでいなかったようです。
男子高校生も、わざわざ絡みにくい&絡んでも壁を作る女性にアタックする人は少ないはず。
この点から、軽く酔った際に彼女が「あなた以外の男性を好きになったことがない」とさらっと言っていたのも恐らく本当でしょう。
舞台を大学に移すと、そんな彼女を魅力に思う人がちらほらと現れます。
見た目は整っているし、ぱっと見接しにくそうでも一度関りを持てば同性異性問わず好かれる性格なので当然といえば当然でしょう。
彼女は岩手出身なのですが、彼女とAくんは1年生で同じクラス+同郷、1年生特有の「友達作り」の雰囲気もあって意気投合し、二人で食事なども行っていたようです。
当時から彼女は「Aくんはただの友達だよ」と言っていましたが、少なくともAくんは彼女に好意を抱いていたのは確実です。3年生に入ってから自分の家に招いて宅飲みをしていたようですし。(ここは彼女の警戒心の薄さもやや問題ですが)
しかし彼は紳士的な性格のようで、手を出さないのは勿論ですが、直接的なアプローチは何もしていません。最近になると彼女のTwitterに欠かさずいいねを飛ばし続けてることくらいでしょうか。
つまり僕とBくんも同じゼミなのですが、Bくんは「好きな人が居るけどアプローチする勇気がない。どうすれば良いのか」を周りの友人にずっと相談していたようです。
私のゼミは女性がやや少なく、さらに当時フリーの女性となると私の彼女を含めて3人居たか居ないかです。その上特徴を聞けば、まぁ十中八九彼女のことが好きなんだろうな、ということは分かりました。
2年生の頃から好きだったみたいですが、結局何も出来ず4年生になってしまったようです。
彼らがそうしている間、私はひたすら努力し続け、アプローチし続け、3年生の夏には別の方から告白もされましたが断り、ただひたすら彼女に振り向いてもらうため努力を続けました。
そしてそれに答えてくれて、私と一緒に居てくれることを承諾してくれた彼女。
文面からもなんとなく察することが出来るかもしれませんが、今私にあるのは幸福感と満足感、そして優越感です。
そしてこの「優越感」こそが私の独占欲から来る醜い感覚であり、けれども誰しもが持つであろう感覚なのです。
人間は自然界の他の動物と違って、雌をめぐった争いというのは中々ありません。あったとしても、雄の気付かない所で行われているとか、雌側が完全に乗り換えを決めていて争うまでもなく勝敗が既に決まっているとか、そんなとこでしょう。
でも私は、現在進行形で行われていた争いに見事勝ったのです。さらに言えば、2回フラれている私にはまぁまぁなハンディキャップがあったかもしれません。
周りの友人も私のことを笑いました。彼女が振り向くことはないとか、上手く行くわけないとか、諦めた方がいいとか。
それでも私は勝ちました。
これがどれだけ気持ちの良いことか、感覚的には皆さん分かるかもしれませんが、実際体感したことのある人は少ないかもしれません。
というか、逆に負けた側は今どういう気分なのかインタビューしてみたい気持ちです。
中途半端なアプローチを続けるも敗北し今ではSNSの監視が精いっぱいなAさん、好きだったのに何も出来ずただただ見ているだけだったBさん。
自分でもひどく醜い感情だと理解はしているのですが、恋愛はWinner take all。勝者が全ての世界です。
…ここまで醜い感情をさらけ出す裏(というか表)には、それだけの優越感、ひいては幸福感があります。
本気で好きだった人と付き合えるというのはこれほどの幸せなものです。
私は根がオタクなので、軽い気持ちで付き合うとかは考えられません。だから尚更っていうのもあるんでしょうね。
逆に負ければとんでもない不幸です。人生山あり谷ありとは言いますが、ひたすら勝ち続けて人生終われるならそれに越したことはありません。
負けなんてしないに越したことはないんです。たかが大学生が何人生を語ってるんだと思うかもしれませんが、私はとりあえず勝ちました。なので少しくらいは語る権利があると思います。
私は負けたくなかった。だから頑張りました。
社会に出るとさらなる強者が出てくるかもしれない。彼女が私を見限る可能性だってある。
もし今好きな人が居るという人が居れば、絶対にその人を振り向かせてください。
出来たら必ず幸せになれます。出来なかったら間違いなく不幸になります。それが永遠に続くかどうかは保証できませんが、これは間違いなく訪れます。
タイトルに「恋愛のコツ」と書きましたが、正直コツも何もありません。
ただひたすら自分を磨いて、ただひたすら好きな人を得るために行動する。
愛する人なら静かに見守るのが正解だとか、何回もの告白は嫌われるとかクソ食らえです。
どうせ相手が他の人を選んで付き合ってしまうなら、嫌われる覚悟を持ってアタックする方がマシでしょう。
私は2年間アプローチを続けましたが、告白は1年おきに3回です。勿論期間を空けてひたすら自分磨きに努めていた時もありました。
自分が明らかに「変わった」と思えた瞬間が好機です。それは自信にも繋がりますし、女性は賢いので些細な変化でも気付きます。
自分が明らかに「変わった」と思える瞬間というのはそう頻繁に訪れるわけではありません。なので自然とアプローチの間隔は開きます。
そこを勘違いして、冷却期間と称してただ3ヵ月待てばもう1回告白していいだとか、何もしなくても時間が経てば相手の気持ちが変わるだろうからいけるとか。
勿論それで行けるケースもあるかもしれませんが、結局は相手依存になってしまいますし、何も変わっていないので長続きしないのは目に見えています。
自分がやれることを全てやった上で相手に託してようやく良い勝負になるのが恋愛だと私は思います。
それでも告白を断られることも勿論あると思います。でもそこまで自分磨きを頑張る人から好意を向けられて、その人を嫌いになるわけがないです。
コツらしいコツは何も書けていませんが、とにかく諦めないで自分を磨いて下さい。
もしかしたら自分磨きの最中に別の方から好意を向けられて、そちらの方と上手く行く可能性だってあります。現に私は別の方からも告白されました。
だから諦めずに自分磨きをひたすら行ってください。それは絶対に力になります。
自分でも正直「結局何が言いたいんや」とツッコミたくなる文でしたが、端的に何が言いたいかというと、
これに尽きます。
うちは普通のサラリーマン家庭なのですが、父方の祖母は、占い師か拝み屋みたいなことをしていました。とはいえ、謝礼にお金はもらっておらず、食べものばかりだったようです。それも手をつけることはなく、近所のお稲荷さんにお供えしていました。
私が大学の時、先輩と出会いました。先輩はゼミのOGで、就活の相談で知り合いました。色白で、黙って座っていたら良家のお嬢さんという印象です。しかしどこか掴みどころがない人でした。
祖母が先輩と会ったのは、相談の時に私が忘れ物をしたのがきっかけでした。
春先だったか梅雨だったか、よく覚えていないのですが、雨が続く時期だったと思います。
友だちからもらった、ディズニーのお土産のタオルハンカチでした。大事なものだったので、同じ沿線だから駅まで持っていって渡そうか、という先輩の言葉に甘えました。
出掛けに、祖母も駅前へ花を買いに行くというので、一緒に向かいました。
先輩を見るなり、祖母は「とら」と言いました。ハンカチを渡してもらいながら、何を言い出したかと、私はポカンとしていました。
「お嬢さん、ごおうのとらでしょ。お母さんとお父さんの干支は何?」
「母はひ(き?)のえうまです。父はごおうのとらです」
先輩はちょっと驚いていましたが、割と平然と答えました。
「昔、古いおうちに住んでた?」
ここで根掘り葉掘り尋ねる祖母をたしなめようとしましたが、「色々聞いちゃってごめんなさいね」と、自ら質問を切り上げたので空振りになりました。
後から聞きましたが、先輩は育ちが西の方で、昔住んでいた家が、さるお屋敷の離れを一戸建てに改築したものだったそうです。訛りが全くなかったので驚きました。
その時はそれで解散となり、おばあちゃん何なんだろな、と思いつつも、それで終わりでした。
祖母と先輩が次に会ったのは、夏になった頃です。祖母はこの時期に、一番拝み屋的な仕事をしていました。とはいえ、詳細はよく知りません。謝礼のお供えものをもらってくるので、そうと知れただけです。息子の父が何も言わないのはともかく、嫁の立場の母は、こういうのどう思っているんだろうと思っていましたが、母は全く咎めませんでした。祖母と母は、仲良しとまではいかないものの、ごく普通の関係でした(それが実は大変なことだというのは今はわかっていますが)。
7月の中頃だったと思います。先輩と連絡を取りたいと祖母に言われ、私はびっくりしました。拝み屋絡みか、と訊いたら否定しませんでした。しつこく粘られ、「先輩が承諾したら」「私にも詳細を教えてもらう」という条件でしぶしぶLINEしました。先輩は祖母が拝み屋ということにもさして引かず、むしろ面白げにあっさり了承しました。
手伝いというのは、祖母の指定する家に一晩泊まるという内容です。孫の私でも、かなり怪しい話です。
「心配なら、W(私)ちゃんも泊まりなさいな」と祖母は言い、私もそうすることに決めました。
向かった先は、有名な温泉街の駅でした。交通費は先方持ちとのことで、温泉に入った後、駅からタクシーで向かいました。山坂のある道で、結構距離はあったと思います。
途中、神社にお詣りし(なんという神社か失念しましたが、たぶん八幡様だったと思います)、着いた先は、ごく普通の一軒家でした。
祖母は入る前に、先輩に「和室で待ってる人がいるので、やってもいいと思うなら、肩を叩いてあげて」と言いました。それから、二階には上がらないこと、全員一階の和室で寝ることを言われました。
インターホンを押すと、奥さんらしき人が、扉を開けてくれました。少し疲れた印象でした。二階に上がる階段は、入って正面の突き当たりにありましたが、赤ちゃんやペット用の柵みたいなものが塞いでいたので、うっかり上がることもなさそうでした。
和室には祖母の言ったとおり、高校生ぐらいの男の子がいました。背の高い、いかにも運動部という感じの男の子です。集団でいたら避けたいタイプかもしれません。しかし妙に落ち込んでるように見えました。歳や見た目割りに、大人しいというか。先輩は、特になんともなく、その子と叩きました。
その泊まりは何もありませんでした。
ラップ音とか、怪しい影とか、変な声とか、何も。
というか、実はこの話、最後までそういうのはありません。
まあ、私も先輩もいわゆる霊感などなく、先輩に至っては、夢で幽霊や化け物が出たら、怒り狂って殺しにいくとのことでした。だから怖い夢が怖くないと言っていました。
夢占いだとそういう化け物殺しはストレスの兆候らしいのですが、今となってはどうかはわかりません。
夜のご飯は弁当(高いの)を持ち込みましたが、朝はおにぎりと味噌汁を出してもらい、そのまま帰りました。帰り際に、祖母は封筒(おそらく交通費や弁当代)と、お菓子か何かをもらっていました。
私と先輩は訳がわからなかったものの、温泉・高級弁当・タダということでラッキーという感じでした。当初の怪訝さはどこへやら、うまい話ヤッターみたいな感じになりました。
結論として、この手伝いは数年続きました。夏が多かったものの、季節関係なく、先輩のスケジュールが空いていれば成立しました。
色々なところに行きましたが、大体条件は同じでした。
温泉があれば寄る。
先輩が居間の人の肩を叩く。
二階や特定の部屋には入らない。
祖母・先輩・私は同じ部屋で寝る。
ほぼ、先輩は肩を叩きました。
時折、臭う不潔な人や、ずっとうめいてるような露骨に変な人もたまにいましたが、普通に叩きました。
しかし、数回だけ、叩かないことがありました。
その時はその家には泊まらず、謝礼も貰わず、祖母持ちで、ビジネスホテルや空いている旅館に泊まりました。
叩かなかったいずれの時も、先輩がものすごく機嫌が悪くなりました。本当に、露骨に触るのも嫌という様子でした。普段飄々とした先輩が、突然牙を剥くみたいになるのです。
先輩の声は女性にしては低い方なのですが、「叩けません」という声にはドスがきいて一層迫力がありました。はたから見ていても、とても怖いのです。
叩かれない人は、ずっと呆然としていたり、逆にニヤニヤしていたり、やはり変な様子でした。しかし、叩かれた人にも変な人はそこそこいたので、正直私には差が分かりませんでした。
先輩に後で訊いてみると、先輩も理屈はわからないものの、とにかく本当に触れない、触りたくもない、汚らわしい、腹が立つ、という気持ちになったそうです。
今思えば、そういう不思議なことは間違いなくあったのに、直接的に怖い訳ではないと、存外平気なものなのだな、と思いました。
この手伝いがなくなったのは、突然でした。祖母が「今までお手伝いありがとうございました、これで最後になります」と、宣言したのです。秋か、冬のことでした。
最後のおうちは、特に印象はありません。そこの人は、肩を叩かれました。白い猫ちゃんがいて、私にも先輩にもゴロゴロいってかわいい子でした。
先輩は「役に立ちました?」と訊き、祖母は「大変助かりました、ありがとうございました」と言って、先輩にお礼は何がいいですか、と尋ねました。
「それじゃ最後にWちゃんも含めてお食事しましょう、それがうれしいです」ということで、祖母の奢りで3人でふぐを食べました。祖母は奮発してくれ、一番いいコースで食べました。
その後、先輩は引っ越して県外に行ってしまい、私も仕事に慣れて忙しくなり、疎遠になりました。
結局あの手伝いはなんだったのか。
その時、祖母は、私が先輩から借りっぱなしにしているものはないかと訊き返しました。先輩とはものの貸し借りはなく、お金などは代わりのものを奢ったりして都度トントンにしていたので、そういうものはありませんでした。
それを聞くと、祖母は話してくれました。というかメールですが。
「K(先輩)さんはね、とらです。悪いものには、ものすごく怖いとら。動物のとらみたいに、いるだけで怖い。巡り合わせもありますが、滅多にいないひとです」
「泊まりの都合が、合わなかったひとは、もう最初から、助かるご縁がなかったんです。来てもらって、肩を叩いてもらえたひとは、許されてもいいってこと。叩いてもらえなかったひとは、だめ」
「強いと因果も色々あるんだけど、Kさんは、絶対大丈夫。あのひと、甘やかされてないから、馬鹿みたいに運がいいとかはない。だから負ける時は負けるけど、それはそれで、怖いことなんです。自分を負かした相手の運を、埋め合わせに、根こそぎ持っていってしまう。貸し借りのことを聞いたのはね、それと同じで、借りっぱなしで泥棒するのが、とても良くないことだから。ちゃんと謝って返すか、許して譲ってもらうかしないと、持ってるものぜんぶ無くなるまで、持っていきます。自分からは、どうこうしないけど、ずうずうしいとか、わきまえないひとに、容赦しない」
祖母がこのことを言うのは、たぶん私と先輩のご縁が切れたからで、でも忠告でもあるんだろうな、となんとなく思っています。
コロナが本格的に流行り出す前に、祖母は脳梗塞で亡くなりました。
お稲荷さんへの謝礼のお供えの話は、葬式の後に父から聞きました。
父も詳しくは知らないそうですが、他人様の不幸せを、自分の稼ぎにしてはいけない、ということでお供えにしていたようです。
母が嫌がらなかったのも、たぶん金儲けじゃなくて人助けだと思っていたからなのかもしれません。
先輩は、人づてに聞いたところ、普通に元気で、バリバリ仕事をしているそうです。
お手伝い中、会社でパワハラで有名なお局さんに嫌がらせされている、とボヤいていたのですが、結局そのお局さんが部署をたらい回しにされ、会社をやめたそうです。
たぶん、そのお局さんはこの先いいことはないんでしょう。知らないとはいえ、恐ろしいことをする人もいるものです。
もう一つ、昔の友人にCDを借りパクされたという話を聞いたのも、今書いていて思い出しました。それもどうなるのでしょう。
特にまとまりのない文章になってしまいました。まあ、別に怖くもないでしょう。
こんな話は誰もリアルには信じないと思うのですが、やはりこうも変な体験だと誰かに話したくて(フェイクも混ぜてますが)、ここに投げています。
唯一怖いといえば、都合のつかなかった人、叩いてもらえなかった人のことがあります。
どうなったんだろう、とふと思います。
気にはなりますが、出来もしないことに深入りしないのも大事でしょう。
私は虎のように強くもないし、祖母のようにそれを見極めることもできないので。
そうそう。また書いていて思い出しました。そういえば、タオルハンカチを届けてもらった時に「親切にしてもらうのだから、お礼を持っていかなきゃ」と、祖母はゼリーを用意してくれました。あれは今思えば、なかなかファインプレーだったのかもしれません。
オチのない話で申し訳ないですが、あなたの暇潰しにでもなれば幸いです。
***
虎の威を借る狐だった。
こんなこと何度もないですよ。これが初めてです。
皆さんもお気をつけて。
***
だから気をつけてと言ったのに。
まだ気付いてないんですね。
これはとらの話なんですよ。
残念です。
***
縁がなかった、許された、許されなかった。
その差は?
だって良かれと思ったことが、こちらは些細と思ったことが、向こうを怒らせてずっと恨みを買うなんて、よくある話じゃないですか。人間相手ですら。
びっくりするぐらい真反対の考え方の人って、実際いるでしょう?
私は間違えない?
私は正しい?
本当に?
信じるって、そんなあっけらかんにしていいことなんでしょうか。
***
急に寒くなりましたね。
狐よ、肥えろ肥えろ、どんどん肥えろ。
***
黄質黒章、鋸牙鉤爪。
のこぎりの歯とかぎづめを持つ、黒いすじを持つ黄色の化け物。
訳が分からなくて、怖いですよね。
でも、それに「虎」と名付けたら?
だから「とら」にした。
少しでも縁のある器に注いで、形を捉えた。
そういうことなんですかね。
でも、名前が付いたからって、虎は本質的に虎のままじゃないですか。
ましてや「とら」だなんて、図々しいじゃありませんか。
そういうものの名を、人の分際で決めて、しかも領するなんていうのは。
定義付けるべきじゃなかったなら、せめて、よくある作り話とみんなが思って、薄まらないかなって思ったんです。
これも、いまいちでした。
あんまり詳しく正しく書いて、道理を通そうとするのは良くないんですよ。この手のは。
言うじゃないですか、ラテン語か何かの格言で「神秘は秘匿されるが故に神聖也」って。
でも今時って、皆さん考察したり、伏線や矛盾を突いたり、暴くのがお好きでしょう?
かえって、あちこちに細く尾が走っていってしまってね。申し訳ないことに。
***
これで手打ちにしてくれるそうです。皆さんどうも。
***
長らくお付き合いありがとうございました。
こちら出張の片手間に推敲もせず書いたもので、始末に困って貼ったのですが、存外見ていただけたようで、驚いております。
それでは、本当のお開きでございます。
皆様、余さず頂戴し、骨の髄まで堪能させていただきます。
ご機嫌よう。
オンライン授業でレポートの精度が向上大学准教授が推測する背景とは
https://blogos.com/article/561722/
残念だが、諸君は何もわかっていない。
現役の大学生である私がオンライン授業で学生の成績がよくなった本当の理由を教えてあげよう。ちなみに2年生だ。
私の大学は都内の有名私立と呼ばれるもので、学生の質が著しく悪いということはない (と思う) し、同様のことが他大でも起きているということも念のため書き添えておこう。
オンライン授業がメインの大学では「課題だけの関係」が非常によく発達する。
課題だけの関係とは、ガイダンスなどで珍しく登校した際や #春から〇〇大 などで繋がった人とLINEを交換し、以来趣味の話をするでもなく課題のやり取りだけを行う関係のことである。
ネット上で〇〇大界隈などといって馴れ合っているじゃないかと思われるかもしれないが、それをする、或いはそれができるのは極々一部の学生だけだ。
少し調べてみると同じ人たちばかりがツイートしていることがわかる。
前期は一人孤独に耐えたが後期もオンラインが確定し仕方なくTwitterを始め、春でもないのに #春から〇〇大 でツイートする人も非常によくみてきた。
課題だけの関係の闇が深いのは、どうしても学力差がつきもの、という点だ。
次第にどちらかが答案を送りどちらかが写す関係に切り替わっていく。下請けだ。
そして大抵は複数人とLINEを交換するので、だんだん優秀な答案が出回っていく。孫請けだ。
こうして9割S (弊大学の最高評価) の講義なんてものが誕生する。解説するまでもなく簡単な話だろう。学校は社会の縮図とはよく言ったものである。
対面の頃も課題だけの関係は存在しただろうが、上級生の様子をみると、オンライン授業世代の我々ほどは深刻ではない。
対面試験が実施できず課題だけで評価されることが多いのも要因としてあるだろう。
出席率も高くて素晴らしいなどと言っているようだが、オンライン授業を休むとは一体なんだろうか。
一方で、対面授業のほうがオンライン授業よりも学習効果が高い、などとするオンライン授業に否定的な大学教員もいる。
現在はどの大学でもオンライン授業と対面授業を選べる講義が増えてきている。
その上で対面授業に来た学生のほうが成績がよい、という主張だ。
ここまでオンライン授業を批判してきたわけだが、私はこれにも懐疑的だ。
ちょっと考えれば当たり前のことを言っているだけなのがわかる。
世間は大学生はみな対面授業を望んでいると思っているようだが、大学生の本音は「一度キャンパスに行くという『大学生感』を味わえたならあとは正直オンラインで構わない」だ。
対面授業が本格化すると試験も対面になってしまうのでそれは困る。
ではなぜ対面授業のほうが成績がよくなるのか?もちろんオンラインの方がよくなった講義もあるだろうが、多くの場合、その答えは登校するのはそのうち勉強熱心な学生だけになるから、それだけだ。
ここまで読んで、あなたは大学生とはなんとわがままな人種なのだろうか、とでも感じただろうか。
大学生がわがままなのは否定しようもない事実ではある。申し訳ない。
ただ少し待って欲しい。おかしなことを言っているのは学生だけではない。
さて、冒頭で「諸君は何もわかっていない」と述べたが、正直なところ私は何もわかっていないとは思っていない。
出席の異常さに何も感じないわけもない。
指摘すると面倒だから何もしていないんだろう。わかる。私だってその立場なら指摘したくない。
私はただ、持っていない性善説をもとに存在しない大学生理想像を作り、それについて検証などと称して記事を書き仕事しました顔をしているのが気に入らないのだ。
大学生はみな自分一人で課題をやっている、毎朝対面授業に行き勉強したがっていると信じたふりをして話をするより、もっとすべきことがあるはずだ。
そんなことよりオンライン授業の質を高める方法を検討してくれ。
頑張れよー。
大学ってほんとすげえよ。ゼミ・研究室か、バイトか、サークルか、授業か、友人か、何かは人によるけど「これやってたら人生楽しいかも」って思えるチャンスとの出会いがかなりある。
この道で生きていきたい、って軸がいま見つからないなら、大学はそれを見つける絶好のチャンスだよ。行けるなら絶対に行っといたがいい。
あと、ネットはほどほどにな。
俺は2浪した挙げ句第一志望に落ちたんだが、ネットに浸かり過ぎたのが原因だと自省してる。
100%使わないというのはムリだろうけど、自制はしろよなー。
Fランとは言えないけど別にすごくも何ともない大学に通って今は4年生。
一時期単位が少し危なかったけど、3年で取り戻して残すは卒論とゼミの単位のみ。浪人も留年もなくストレートでの卒業見込みだ。
ただ、未だに内定がない。もちろん春~夏にはそれなりに就活もしていた。毎日のようにオンライン説明会を見て、自己PRも必死に考えていた。
しかし、働きたい会社というものは一向に見つからなかった。今思い返してみれば、やりたいことがわからない/自己分析しても何も見えないといった言い訳に終始して就活に熱くなれていなかった。この先の人生40年近くを決める決断が重すぎて直視できなかった。それっぽいことを言いながら逃げ続けていた。
私より成績の悪かった大学の友人は希望業界に内定をもらって毎日のように遊んでいる。
昔から家族ぐるみで付き合いのある幼馴染は国立大学の大学院に進んだ。自分の夢のために研究に励むらしい。
高卒で働きに出た友人は、彼女と車のローンで板挟みになりながらも毎日が充実していそうだ。
自分はどこで間違えたのだろうかと考え続けていた。しかし、それは間違っていた。どこで、というよりも、これまで間違え続けたなれの果てが今の自分だった。咎められない程度の成績を取り続け、何にも熱くなれず22年間生きてきたなれの果てである。
もうどうしようもない。特に大したスキルも資格も持ち合わせていない私がこの時期に就活が終わってないのは、もはや人生が終わったに等しい。頭では行動しなければと思っていても体が動かない。ここで本気になれない自分に絶望している。
ここまで育ててくれた親へのせめてもの償いとしてこれまでの学費だけ返したら死のうと思ってはいるが、恐らくそれすらも本気になれずにのうのうと生き続けるのが関の山だろう。
学生の頃、ゼミで「親の貧富の差で子どもの暮らしに格差が生まれることついてどう思うか」というテーマについて話したことがある
そこに来ていた院生の「それは子どものために親が努力した結果だから当然の帰結」という論旨の発言は衝撃だった
なるほど、彼に言わせると貧乏なのは貧乏から抜け出そうとしない親の家に生まれついたのが悪い、ということらしい
大変な暴論だな、と思った記憶がある
そんなことはないだろう
【追記】
表面上はできるということになっているけど現実には誰でも内閣総理大臣になれるわけではないということくらいはみんなわかっていることだと思う
もちろん近代に比べれば可能性があるというだけで進歩しているのは確か
だけど実際の社会構造が建前とは異なっているのに、それを意図的にか無意識にか無視して「努力すればなんとかなるんだから努力しろ、努力もせずに飴がもらえると思うな」という言説がはびこっている点で言えば現代のが怖くない?
うんち
幼稚園は、怒ると狭い部屋に閉じ込めたり泣くまで怒るのをやめない先生が怖くて行きたくなかった。
小学生は、つい昨日まで仲良くしていた人に虐められたり、運動しようかなと思って始めたスポーツ少年団では毎日のように怒られた。
中学生は、好きだと言ってくれて付き合った人に気持ち悪いと言われて振られたり、部活で先生に殴られたり聞こえるように小言を言われたりした。
高校生は、地域一番の偏差値の高校だったが周りのように夢や目標なんてなにもなく時間を浪費して、部活もずっとベンチのまま終わった。
浪人していたときは、予備校の殺伐とした雰囲気に馴染めなくて秋から欠席するようになっていた。目標がないままの努力はつらかった。その先に得られるものが自分にとって不必要なものなら、その努力に意味はあるのだろうか。
大学生は、実家通いだったので無遅刻無欠席フル単だった。入ったゼミでは教授に容姿や恋愛経験やコミュニケーション能力などについて詰られた。周りも同じようにそのアカハラもどきを受けていたが「あれはあいつ(教授)なりの冗談でしょ」と言っていた。成績などについては「意味がない。あなたの自己満足でしょ」と言われていた。
タイトルに書けばよかったが今はニートをしている。穀潰しのクズ野郎だと思う。
いつまで経っても他人は怖いし、誰かと一緒にいたり、話していても、ずっと孤独だ。
そんなの当たり前でしょと言われればそうなのだが、私はそう思ってしまう。
うまくやれない。でも最低限の会話はできる。なにかと心が狭い。心が狭い自分が嫌だ。自分は恵まれている。なのに結果はニート。これは全部自分が悪いからである。
近々人生やめようかなと考えている。
真面目すぎるのだと言われた。
働けば何かが変わると言われた。
頑張れば出来るのになぜしないと言われた。
働かない奴は死ねばいいのにと言われた。
カスなくせに努力をせず承認されたいだなんてクズの発想だと言われた。
誰かに承認されたいと思ったことなんて、遠い昔のことのように思える。それでも他人の目にはそう映ってしまう。
そもそも努力ってなんなのだろう。勉強すること?何か資格を取ること?容姿を磨くこと?
努力って、うまくやることでしょう。自分の立場を良くするために、うまくやること。結果うまくやれない努力は努力ではない。
そういうことばかりで、怖い。