はてなキーワード: セクシャルマイノリティとは
これは今日カミングアウトして話題の方のことを言ってるわけではないことはあらかじめ断っておきたいんだけど、
たぶんセクシャリティに関しては45歳~50歳くらいが世代的な分岐点で
これより上だと「ひそかに悩んでたけど、いっさい誰にもカミングアウトせずに、異性と付き合い、異性と結婚し、子供を作って生きてきた」みたいな人がガチでいるんだよね。
これより下だと、さすがにカミングアウト未経験という人は少ない。
カミングアウトするということは、自分のセクシャリティのありかたを、他者(=社会)との関係性のなかで見つめ、考えるということ。
考えた結果、異性愛者的な生き方を選ぶ人も多いけど、ちゃんと世の中と自分とのありかたを考えた末の選択だからあんがい後悔はなかったりする。
前者の人ってそういう「見つめ、考える」経験がない。
悩んではいるけど、思春期的な性の悩みにとどまっていて、ちゃんと大人として考えたことがない。目をそらしたまま年をとっちゃった。
しかも結局、異性愛者としての人生もうまくいってなかったりして。離婚したり。メンタル病んだり。
そういう人にも、これだけ世の中が変わると、カミングアウトの機会がひょんなことからやってくることがあるわけです。
ひとまわりくらい年下の、セクシャリティについてきちんと考えてきていて、オープンにしていて、安定したパートナーがいる、
要はちゃんとした人。
まあ、好きになっちゃうわけです。
でも、カミングアウトではっちゃけた反動からか、平然とグイグイ迫って、盗っちゃうんですよね。
大人の男女の関係ならちょっとありえないような盗り方をするわけ。頭の中は思春期と変わらないから、おかまいなし。
おまけにまだセクシャルマイノリティへの偏見から抜けきれてもないから、男女の略奪と比べたら同性同士ならたいして罪がないと思ってる。
で、性的な思考力は未熟でも、なんやかんや年上なりの巧みさもあるから、落とすのに成功しちゃったりもする。
年下の側からしたら、年上の人に「打ち明けたのはあなたがはじめて」といわれたら結構ショックなもんだし、話をきいてあげたりしてたらいつの間にか術中にハマってたりするんだよね。
まあ陳腐な相談女の手法ですけど。こっちも、モテる男性ほどにそういうことに慣れてるわけじゃないし。
自分もそういう目に遭ったことあるけど、当事者界隈だとわりとよく聞く話。
年上のカミングアウト未経験者には近寄るな、っていうの、わりと自分の教訓です。
30代のレズビアンより。
男男、男女、女女のポルノを見せて性的興奮が見られたかどうかを調査したら
ヘテロ男性は男女ポルノにしか反応せず、ゲイ男性は男男ポルノにしか反応しなかったのに対し
ヘテロ女性はすべてのポルノに反応し、レズビアン女性は女女ポルノにしか反応しなかった
って実験結果があるというけど
(まあ確かに世のエロ本とか見てもそうだろうと思う、女性向けエロは男女モノ以外にBLやGLも普通に多い)
だとすると「LGBT」って何なんだろうと思う
「ヘテロ女性」だと自分で思っている女性は実際は大多数はバイセクシャル、ってなら
LGBTのBは女性に関しては「セクシャルマイノリティ」ではないんじゃないか、と
この意見を聞いて思いましたがもしかしたらもともとの質問者さんは
ストレート(男女異性が性的対象)、ゲイ(同性のみが性的対象)のように完璧に人の性癖がラベルを貼って区別できるものというふうに思われているのかもしれませんね。
ですが実際には同性愛者をカミングアウトされた方であっても、その後異性と結婚をしていたり、または先に異性と結婚していてものちに同性と恋愛感情を持たれるケースも非常に多くいます。
ですので「ホモを排斥しろ」というのは単純なことではなく「男同士(女同士)のセックスを禁止しろ」ということではなく「同性同士で社会生活を送ることを禁止しろ」や「同性に恋愛感情を持つことを禁止しろ」といった非常に広い解釈ができるようになってきます。
おそらく質問者さんのようにLGBTに非常に強い嫌悪感をお持ちの方というのは同性愛が社会的に認知されること自体に強い忌避感を持たれているのではないかと思います。
ですが実際にLGBTなどのセクシャルマイノリティが希望しているのは同性婚や社会的な不利益からの解放といった部分のみであり、社会的認知とは全く違った問題になります。
法的な支援というのはその部分に関わってくるもので、同性婚についても法的に認められることにより社会的な認知度(世間的忌避感)がどの程度になるかは全く別に考えなくてはいけません。
LGBTについては数百年前より議論がされてきており、私の意見もそうした先人たちのものによるところが大きいので、むしろ現在の感情論による質問者さんのような方はどんどん言ってきてもらいたいと思っているところです。
ごもっともですが、差別されているかどうかということの大きな根本にあるのが法律であるということから考えて適法か違法かをはっきりさせることは非常に意味があると思います。
例えば仮に同性婚が合法化され、男性同士、女性同士がカップルとなり男女の夫婦と同じ生活を送るようになったところで何か社会的損失があるかということを考えれば「不快感」以外のことはまずないのではないでしょうか。
LGBTを他の性癖と区別するのはまさにそこで、他の性癖の大部分は違法か非常に高いレベルで倫理的に問題があるのに対し、LGBTやその他の性別に起因するセクシャルマイノリティは社会秩序に何ら悪影響を与えることはありません。
社会秩序、というとおそらく公平性や倫理観が絡んでくるので混乱を招くのかもしれませんが。
例えば「殺人罪は廃止」ということになれば社会秩序は混乱しますよね。
そういった秩序維持にとって最低限度のラインが罰則を伴う法律というふうに考えていただければ、LGBTなどの性別に由来した差別に根拠がないということがわかっていただけるのではないかと思います。
美術系の授業がたくさんあり美大芸大からも多くの講師が来ていた
その中の1人がA先生だった
先生は歳の頃は30前後、スキンヘッドで身長180超えてて、スラリと細身で足も長くて顔立ちもはっきりして、見たことないような柄のシャツやネクタイとオシャレなスーツをばしっと着こなしてて、まるでモデルみたいだった
ただいわゆる「オネエ」言葉を使う人だった
美術系の私のクラスはほとんどが女生徒で、A先生はあっという間にクラスの人気者になった
作品講習では歯に衣着せぬ物言いでズバズバ言うにもかかわらず、「全然ダメ!何よこのデッサン!ここのパースが狂いまくってるじゃない!」みたいな調子でテレビから出てきたタレントのようで、けちょんけちょんに言われても皆んな嬉しそうにしてい
た
ある時、休み時間に日直の私が黒板に書き物をしていたら、教壇に立ってたA先生のところにクラスの女子が寄ってきて「先生!ちょっと聞きたいことがあるんですけど…」と切り出した
その子はいわゆる「腐女子」でBLもの同人誌を普段から描いている子だった
「なーに?」とA先生が聞くも、その子はモジモジしてなかなか質問を言わず、A先生が重ねて問うてやっと口に出した
詳細は忘れてしまったけど、それはあまりにもプライベートな、性的な質問だった
A先生が答える前に、私があんまりびっくりして動揺して、チョークがボキッと折れて床に落ちた
それで2人が私の方を振り向いたので、私は「躊躇ってた割に、すごい失礼なこと聞くんだね」と思わず言ってしまった
A先生はそれを聞いて手を叩いて大爆笑して、私の肩までバンバン叩きながら「ほんとそうよねー!!」と、私がひくくらい笑っていた
それからまた別の日、A先生が全校生徒の前で壇上に上がって話す機会があった
A先生がしゃべりだすと、他のクラスの生徒がザワザワし出すのが分かった
あちこちで笑ったり、驚くような声が上がった
先生は騒がれてもちっとも気にしない(ように見えた)で話し終えた
私たちのクラスの子たちが近寄って行って、「先生すごい騒がれてたよー!」「他のクラスの子から『あれってホンモノなの?』って聞かれた!」などと囃し立てられていた
先生は笑っていた
その子たちが行ってしまって、先生が後ろを歩いていた私に気づいて、「なにが『ホンモノ』なんだか。ほっとけって言うのよ、ねえ?」と口を歪めた
私はこうしたことから、A先生は当たり前だけどタレントさんじゃなくて、普段笑って上手に冗談にして返してるけど、本当は本当はセクシャリティのことを話題に騒がれるのは嫌なんだと気付かされた
一度気づくと先生には毎日のように性的なからかいが投げかけられていた
担任から「お前、かわいい男子生徒を見つけても手を出すなよ」と言われてクラスが爆笑したり、
学年主任の先生もみんなの前で「俺はその気はないからな」とか言って笑いを取っていた
尊敬していた別の講師が、「オネエ言葉なのに女の格好はしないの?」とニヤニヤ聞いてたのを見たときは、私がなんだかシュンとしてしまった
正直、私だって前はなんとも思わなかったでも先生は本当は嫌なのかもと気づいてからは、先生へのそういった性的なからかいが、ヒリヒリして聞こえてきて辛かった
他人の私が、またかーってウンザリするくらいだから、先生はこういう毎日をずーっとずーっと過ごしてて、怒ったりするのもとっくに諦めてるのかな、と思ったりした
だって女の先生にそういうこと聞いたらセクハラになるんじゃないの?A先生だとオールオッケーなの?
しかし私はおとなしく目立たない地味な、勇気も何もない生徒だったから、幼い義憤をかきたてられても何もできなかった
今思えばA先生はオネエ言葉ではあったけれど男の格好をするのが好きといってた
当たり前みたいに先生を「同性愛者」として見ていたけれど、今思えば、恋愛対象が女か男かも、性自認が女か男かもわからない。しかし、一番大事なのは、そんなこと知る必要もないってことだった
大人になって大学、社会に出てからも、美術系にはいわゆるカミングアウトした性的少数者が何人もいた
もちろん誰も表立って迫害したりはしないし、ふつうに仲良く過ごす
でも、悪意のない冗談めいた性的なからかいはしょっちゅう耳にした
その度にA先生を思い出した
誰もA先生を嫌いじゃなかった
みんなA先生が好きで、仲良くなりたがってた
それでも善意で、悪気なく、誰かを傷つけるかもしれないんだなと分かった
大人になって、社会でいわゆるセクハラのような扱いを受けたことが何度かあった
そのたびA先生をまた思い出した
先生、私も笑って受け流してるよ。だって相手に悪意がないのに戦っても仕方ないし良いこともないし そんな深刻な被害でもないからノリのいい女でいた方が生きやすいし
でも先生、なんかこれ削られるね
笑って流して大したことないって顔してるだけで、ちょっとずつ自分が削れていくもんなんだね
私もきっと知らずに誰かを削ってるんだね
まあ私はA先生じゃないからA先生のことが分かるわけでも代弁できるわけでもないんだけどね
今も忘れられないの
最初に誤解を与えないように書いておくと、別にLGBTの人たち自体が嫌いなわけではない。そこに好きも嫌いもない。
自分が単にLGBTに含まれないセクシャルマイノリティであって、LGBTだけがセクシャルマイノリティであると世間一般に認識されることを恐れている。
特別扱いしてほしいわけじゃない。ただ、LGBT以外のマイノリティもいるんだということを知ってほしいだけ。
自分はたぶん、アセクシャルである。説明すると長くなるので、アセクシャルって何?という方はググってほしい。
たぶんと書いているのは、無いものは証明できないからである。誰かが何処かに書いていていたけれど、真にアセクシャルであることの証明は死ぬまでできない。だから「おそらく」としか言えない。そういうことを言うと必ず返ってくるお決まりのセリフ、「まだ本当に好きな人に出会ってないだけだよ」という言葉をこちらに向けないでほしい。それはうんざりするほど聞いている。そういう問題ではないのは本人がよく分かっているから。私はどんな人間にも性的な魅力を全く感じないだけだ。
自分がアセクシャルだからかどうかは知らないが、基本的に仕事であれプライベートであれ、関わる人間の性別を意識することはあまりない。誰にも恋愛感情を持たないのだから、相手の性別なんてどうでもいい。そんなことよりその人が「何を考えているのか」「何ができるのか」ということの方に興味がある。
だから、とくに尖った才能のある人なんかには惹かれる。惹かれるが、それは単純な好奇心に似ている。極端にたとえるなら、スポーツ選手や歌手に憧れるようなものだ。憧れは同性異性に関わらずあると思う。そして、自分にとって他人への関心は能力に対する憧れ以上のものではない。
能力というと大げさだが、美味しいお店をたくさん知っているとか、ガンプラにくわしい、とかそういうレベルでも能力だと思っているので、つまり自分が持っていないものを持っている人と仲良くはなりたいと思うことはある。ただし、友情以上にはならない。
少し前に、LGBTが気持ち悪い人の話が話題に上がっていたけれど、あの記事に出てきた人は「本能的に同性愛者を拒否してしまう」と言っていた。もしあの記事で例えに出ていたのが同性愛者ではなく無性愛者だったらあの人はどう思うのだろう。それもまた「理解できない、気持ち悪い」と思うのだろうか。
アセクシャルであることで最も面倒だと思うのは、「全ての独身者は恋人(あるいはパートナー)を欲しがっている」と認識している人の対応だ。
「恋人いないの?なんで?」
「恋人いないなら付き合ってよ」
そういうことを言う人は少なからずいる。その人達は目の前にいる人間がアセクシャルである可能性なんて微塵も考えていないだろう。そういうところが悔しい。というか、そういう社会に不満がある。
それでも10年近く付き合いのある友人たちからはその手の話題は減ってきたので、理解してもらえたのかな(あるいは同性愛者だと思われているかのどちらか)と思っている。カミングアウトしたことは一度もない。何れにせよ、恋愛関係の話題を振られないのは助かっている。
問題は会社の人間など、そこまで付き合いの深くない人とそういう話題になったときの場合だ。これは非常にめんどくさい。
なぜ世のマジョリティの大半は、目の前にいる人間がマイノリティかもしれないということを考慮しないのだろう。おそらく自分がマジョリティだからそういう考えにすら至らないんだろうなというのはわかる。わかるが、それが悔しい。
じゃあどうしたらいいんだよ思われるかもしれないが、まず「相手が異性愛者である」という前提で恋愛の話を振るのが間違っていると思う。
たとえば話している相手が雑談の間に「結婚している」とか「好きな人がいる」とかもしくはその手の兆候のある話を聞いたら、「ああこの人は性愛者なんだろうな」という認識はできる。それからもう少し詳しく聞いてみれば、その人のパートナーが異性なのか同性なのか、年下なのか年上なのかどこの出身なのかわかる。そういうことがわかるまでは、異性愛者と思い込んだ状態で話をしないでほしいと思うだけだ。
今まで何度も「異性愛者である前提」で話を振られることが多くてうんざりしている。
どうして一度も「○○さんが好き」とかその手の話をしたことがない人に異性愛者だと思われているんだろう。それはアセクシャルである自分にとって長年の疑問だった。その人にとっては異性を好きになるのは当たり前のことだったのだろう。でも、自分はそうではない。だから、それが当たり前である社会が嫌いなのだ。
LGBTへ対する差別は話題になりつつあるが、その他のマイノリティの中のマイノリティについてはまだ知らない人が多いと思う。だから、LGBTという言葉だけがひとり歩きしているような現状が嫌なのだ。
さて、学校や会社で新しい出会いが増える時期だと思うが、皆様にはどうかセクシャルマイノリティのことを頭の片隅に置いてほしいと思う。理解し、賛同しろと言っているわけではない。ただそういう人がいるということを知識として知っておいてほしいだけだ。そして、初対面の人にはできるだけ「異性愛者である」前提で話を振らないでほしい。自分から言うのはお好きにどうぞ。だが、相手が話し出すまで恋愛の話題は避けてほしい。それで不愉快な思いをする人がいるかもしれないから。
こういうことを、前述した記事に出てきたような人に言ったら「いちいち異性愛者じゃないか気にしないといけない社会なんて息苦しい」とか言われるんだろうか、とふと思った。
でも、今までもこれからも我々はマジョリティの皆様に気を使って生きているわけで、少しだけ少数者のことを気にかけてもほしいと思うときがあるのだ。
やましい内容でもないので、オープンにしてあるほうのはてなブログで書こうか迷った内容なのですが、
私のことをセクシャルマイノリティと知らない読者さんも多いことだと思いますので、念のため自衛のためにこちらに記させていただきます。
(メインの記事で当事者視点で語ってしまうと、自動的にカムアウトしてしまうことになるため、という意味です。)
LGBTが気持ち悪い人の本音 「ポリコレ棒で葬られるの怖い」
https://withnews.jp/article/f0180406003qq000000000000000W03j10101qq000017134A
昨今、こちらの記事が「いじめる側の理論」であると、かなりの勢いで燃え盛っていますが、
私の一読した感想としては、「どちらかといえば、「理解しよう」としてくださっている側」かな、と思いました。
たとえば、記事中の、
「同性パートナーだと保険金の受取人になれないんですよ! 3年前に知って驚きました。そんな不都合は、すぐ解消してあげたらいいと思うんです。」
こういったところに、このような感想がすぐ出てくるということは、ほんとうに忌み嫌っている側でもないし、共存したくないと思っている側ではないと思ったんです。
「そういう人はいてもいいと思うし、自分にはよさはわからないけれど、それが原因の不都合があるのは不平等だから解消されるべき」
急に風潮が変わってびっくりしている、とか、自分にとっての当たり前が急に当たり前ではなくなってしまって社会の変化の早さに戸惑っている、と言ったふうに、
この記事から感じられたのは、「戸惑い」の感情でした。不理解、ではなかったように思われます。
実のところ、何を美しいと感じたり、何を好ましいと感じたり、何を疎ましいと感じたり、何を吐き気がすると感じたり、するかは個人の思想の自由であって、見ず知らずの他人が正義感から(本音を語るような場ですら)「差別的だから発言してはいけない」、といって規制していいものではないと思うのです。
この方はじっさいゲイの活動家の方にあって話をし、その場で相手を怒らせたわけではなく和やかに話を終えて場を去ったことでしょう。
そして、別れた後から、「あれが、本当のLGBTか、良く解らない……。自分と同じ性別を愛するなんて理解不能だ」と自分の中で反芻する。
それで、とても、いいと思います。
自分は、LGBTのなかでも、(ここで具体例としてあげられた)ゲイではなく、T(トランスジェンダー)なので、
LGBTとひとくくりにされていますが、LGBとTは本質的に違うもので、おそらく、LGBの方の納得する「社会の理解」とTの納得する「社会の理解」は、
段階的にかなり異なっているものであるのではないかと思われます。
LGBは恋愛にまつわるマイノリティですから、恋愛(~結婚、家庭)に対する社会の捉え方が変化すればそれですべて問題が解決するのです。
そこで、現状のところ、上記で述べられたパートナーの保険金を受け取ることが不可能だといった制度上の不都合は、解消されるような流れになりかけているように見えます。
そして、制度上の不都合が解決された先に求めるのは、「同性愛をめぐる目線への不都合の解消」になることかと思われます。
一言で言えば、「同性愛は異性愛と同じぐらい自然なものだし、同性愛をからかったり、あるいは過度に神格化してほしくない」といった要望になることでしょう。
そういった段階の不都合に辟易しているLGBの方からすれば、先ほどの記事の人はそのようなからかうような視点をまだ拭えてはいないですし、おそらく、自分たちを攻撃してくる対象と映ることでしょう。
自分はTのほう、トランスジェンダーのほうであり、トランスジェンダーの中でも比較的少数派のTGなので、「身体の性別と性自認が異なり、かつ、身体的な改造を求めない」タイプになります。
社会的に性自認の方で生きられれば充分、といったタイプではあるので、自分が最も求めている「社会の理解」は、生まれつきの身体のまま、戸籍等を性自認のほうに変更することが可能になること、になります。
つまり、TGは「性別というものの捉え方」にまつわるマイノリティなので、性別そのものに対する社会の捉え方の変化を要求しているのです。
ちなみに、私の外見につきましては、初対面では99.999999パーセント身体の方の性別で認識されます。あくまで、中性的なファッションを好む人、と認識されています。
性自認のほうのファッションを購入し着用しておりますが、ジャストサイズの服で、かつ社会に紛れて違和感がないものをチョイスしていますので、変な話、異性装とすら認識されることはありません。
TGである私の求める「社会の理解」は、この状態で、どうみてもそういうふうに見えない「もう一つの性別」として扱え、と要求しているわけです。
……どうですか?受け入れられますか?
「うっ」と思いませんでしたか?
というのも、これは、今までの性別というものの概念をいったん壊して再構築するように社会に要求しているわけですから。ちょっとハードルが高いことだと思います。
目の前の男性/女性に見えるAさんについて、本人に聞くまで性別がわからないという状態です。
現代社会では、目の前のAさんはどうやら男性っぽいから男性だろう、と決め打ちしてかかることが当たり前のように許されていますが、
その行為自体が「失礼」になり、本人が「男性です」と答えるまで、どうみても男性でも「性別不明」として扱わなければいけない社会になりうるわけです。
とうてい達成されうる目標だとは思えませんし、それにこれがもし達成されてしまった場合、不利益を被る人が出てくるでしょう。
初対面でまだ性別を明かしていない相手からのスマートな男性/女性扱いやエスコートをしてもらえない社会になるわけですから。
多分、先述の記事の男性の困惑ってこういうタイプの「困惑」じゃないかと思うんです。
同性愛は違和感がないという人で、先述の男性の困惑や感想に否定的な感想を言っていた人は多いですが、確かに同性愛は理解しやすいんです。
でも、同性愛はすんなり理解できても、トランスジェンダーの中の狭義のTGを同じように理解することが出来ない人は結構いるんじゃないかと思います。
「初対面で性別不明扱いにするのは、中性的な外見の人に限定すればいいのでは?」というアイデアもありますが、それもまた、難しい問題を孕んでいます。
というのも、中性的だからといって必ずしもセクシャルマイノリティだというわけではないからです。確かに、中性的な男女に少なからずセクシャルマイノリティが紛れ込んでいるのも事実です。しかし、そうでない人も多いです。
学生のころ、中性的な雰囲気の同級生がたまにいましたが、その中で何人かは現在トランスジェンダーとしてカムアウトするようになりましたし、
そして、何人かは既婚者になりました。つまり、当たり前のようにいた中性的な学生たちの中には、多くの異性愛者と少数のトランスジェンダーがいたわけです。
彼らの性自認が「どっち側」なのかは、外見から見分けるのは困難だと思います。私も、彼らが大人になってカムアウトしたから「ああ、そうだったのか」と知っているにすぎないですし、当時はわかりませんでした。
ある社会制度が差別的ではないかという不断の提起と検討は、差別のない社会を実現するうえで極めて重要なものである。女性専用車両が男性差別ではないかという提起も例外ではない。
だが提起の妥当性は、「他の差別と外形的な一致をみるから」という一点のみによって証明されるわけではないし、議論をそこでやめるべきでもない。...(中略)
その議論の過程においては、「痴漢被害経験のある男性」の存在が指摘されるだろうし、セクシャルマイノリティを包括した社会制度の必要性といった論点も出てくるかもしれない。
元増田は外形的な一致のひとことで済ましてしまっているが、そもそも差別(元増田の言う意味の)かどうか、その区分けの非合理性を論ずることは重要だ。
女性専用車に男子中学生が入ることは推奨されていないが、かく言う俺も中学生の時に痴漢にあったことがある。同じような境遇の子どもたちが議論の外に漏れてしまっているかもしれない。だとすると彼らは選択の余地無く痴漢の的にされていることになる。
元増田の論に乗った上で「差別だと認めろ」の要求に反論するためには、区分けの合理性を主張するしか無い。差別が悪だという認識がある中で、それは再検討への圧力になる。貴方の考える議論が促進されることになるだろう。その意味でも元増田の主張は意義深いと思う。
元増田が導入した視点は、現状、区別・差別が曖昧に理解されている中に、「差別か」「であるならば現今の環境下では許容せざるを得ないか」の二段階に分けて考えることを提案したことだ。
前者の視点でシルバーシートは差別でないと判断できる。後者の視点で日本人専用車は許容できないと検討しうる。この部分は別の増田と同じ意見だと思う。
元増田: 不当な差別と現今の環境下では許容せざるを得ない差別は、外形上区別できない。だったら、変な理屈をこねて後者を「差別じゃない!」と言い繕うべきじゃない。それは前者をも免罪してしまう。
明示されているわけではないが「変な理屈」というのは例えば、”被害者の助けになっているので、女性専用車は差別では無い”のようなものだろう。
たしかに差別の実質について、倫理的・技術的・合理的・歴史的観点で精査することは意義深いと思う。慎重に検討された多角的な評価は、天下り的な定義に比べると説得力を持つ。問題なのは、それらを組み合わせた総合的な判断で差別かどうかが判定されることの危険性だ。どの基準の判断をどれだけ重要視するか? 議論の結果には発言者の立場や権力が大いに影響しうるし、文化や偶然によって結果が決まると思う。
ケースバイケースで意味を柔軟に引き伸ばされて運用される。少なくとも市井のフェミニスト・リベラリストの間では差別概念はそのように扱われている。元増田はこの事態に警鐘を鳴らした。
https://anond.hatelabo.jp/20180225105423
それらは不当な差別だ。でも、不当な差別と現今の環境下では許容せざるを得ない差別は、外形上区別できない。だったら、変な理屈をこねて後者を「差別じゃない!」と言い繕うべきじゃない。それは前者をも免罪してしまう。
元増田の主張の基本線は上記の記述に集約されるのだが、そもそもこれはかなり疑わしい主張である。外形上区別できないならその時点で全部同じカテゴリーにくくるべきだという主張は全く自明ではないし、もっともらしいものでもない。我々は外形上区別できないものは区別すべきでないんだろうか? そんなことはない。
たとえばある人物が解雇されたとして、それが雇用差別の結果であるかどうかは外形上(解雇された)の議論では決着がつかない。差別の結果として職を失うということは当然あり得ることだが、だからといってあらゆる解雇は外形上雇用差別と区別がつかないので差別であるなどというのは馬鹿げた主張である。元増田の主張はそのレベル。
我々は提起されている「差別」(女性差別でも、男性差別でも)の実質について、倫理的・技術的・合理的・歴史的観点から精査を加えることができるし、そうすればよいだけの話である。
そしてそれは「変な理屈をこねて後者を「差別じゃない!」と言い繕う」こととは違う。その種の精査を「変な理屈をこね」ることだと頭から決めつけて、差別論が外形的・表層的な次元に留まり続けなければならない理由はない。もちろん、提起された「差別」が差別ではないことの指摘や反論の中に「変な理屈」が紛れ込んでしまうことは当然ある。しかし我々はその「変な理屈」をあらかじめ排除することなどできないし、あらゆる指摘や反論が「変な理屈」であるわけでもない。外形上区別できないものの実質を精査することを「変な理屈」と規定するのであれば、我々は差別について意味のあることをまるで考えられなくなるだろう。
さらに、
加えて、差別が差別であると認識されていない状況はそれ自体が不正義であるから、というのもある。「○○は単なる区別だから、差別じゃないよね~」という言辞に、どれだけの被差別者が苦しめられてきたか。そんな言い分を許さないことは、正義への一里塚だよ。
と元増田は述べるが、しかしその代わりに「現今の環境下では許容せざるを得ない差別」と「不当な差別」の区別が是認されるのであれば(そして、女性専用車両は前者に属するので一定の正当性があるとする増田は当然是認するわけだが)、「○○は単なる区別だから、差別じゃないよね~」という言辞は、「○○は現今の環境下では許容せざるを得ない差別だから、不当な差別じゃないよね~」に取って代わられるだけであり、彼の主張にとってこの区別の是認は自滅的である。
むしろ、現下の社会においては「差別」という言葉に強い道徳的負荷が伴っているため、ある行為が「差別」ではないかという疑義を呈されれば、疑義を呈された側は「差別でないこと」の証明に取り組まざるを得ない。女性専用車両が差別ではないかという元増田の問題提起が強い反発や反響を呼んだのも、この「差別」という言葉が持つ道徳的負荷ゆえなのである。
ところが「現今の環境下では許容せざるを得ない差別」という言辞は「差別そのものはアプリオリには否定されない」という前提の導入を意味するため、「差別」という概念が持つ道徳的負荷を希釈することになる。それが被差別者の発見や救済につながるという主張は甚だ疑問である。
なぜなら、「現今の環境下では許容せざるを得ない差別」という言い方によって新たな差別の問題が認識されたところで、それが「現今の環境下では許容せざるを得ない」と認められているうちは、その問題が真剣な吟味の対象になることはないからだ。
むろん、これは「差別と区別」のレトリックでも同様であるわけだが、要は「現今の環境下では許容せざるを得ない差別」という概念を導入すべきという元増田の主張が、彼自身が提起している問題の解決に何ら貢献しない(それどころか、悪化させる恐れすらある)ことを意味している。
以上を踏まえると、「差別ではあるよね」の合意はナンセンスであるばかりか有害なものである可能性もあり、ロジック自体も自滅的であると言わざるを得ない。
言うまでもないことだが、ある社会制度が差別的ではないかという不断の提起と検討は、差別のない社会を実現するうえで極めて重要なものである。女性専用車両が男性差別ではないかという提起も例外ではない。
だが提起の妥当性は、「他の差別と外形的な一致をみるから」という一点のみによって証明されるわけではないし、議論をそこでやめるべきでもない。
女性専用車両がいかに不当に男性の尊厳を傷つけるものであるか、不利益をもたらすものであるかについて、丁寧に議論すればよいだけの話である。もちろんその議論は様々な批判や反発に晒されるであろうが、そういった議論の応酬以外に我々の差別に対する認識を深化させる方法はない。
その議論の過程においては、「痴漢被害経験のある男性」の存在が指摘されるだろうし、セクシャルマイノリティを包括した社会制度の必要性といった論点も出てくるかもしれない。
しかしそれは、「現今の環境下では許容せざるを得ない差別」と「不当な差別」という区別の導入の所産ではないのである。
なお筆者は、女性専用車両自体は女性の安全な公共交通機関の利用を保障するうえで次善的に妥当な措置であると考えるが、そもそも女性専用車両が存在しなければならないような社会の在り方は女性差別的であると考える。女性専用車両は男性差別であるという主張もそれ自体排除するつもりはないが、元増田を含め外形上の一致以外の議論が提示されないので検討しようがない。現時点での本邦の司法判断は、女性専用車両を男性に対する不当な取り扱いであるとは見なしていないようである。
私は女で
バイというか
ビアンというか、
とりあえず彼女がいるんだけど。
みたいな感じだった。
実はめちゃくちゃ趣味が合う事を知って、
それが今まで続いている、
よく考えなくてもやばい。
一年前、
普通に話をしてたら
セクシャルマイノリティな話になって、
彼女の男性へのトラウマとか母親にネグレクトされた経験とかを聞かせてくれて、
なんかもう説明は省くけど、
めちゃくちゃに興奮されながら抱かれた、
その後付き合ってないのに指輪もらった、
その後好きですって言われて付き合うことになった。
それから1年と2ヶ月、
こんなつもりじゃ無かったんだけど。
彼女の気の迷いに付き合ってあげて、
彼女が私に飽きてきたら別れようと思ってたのに、
なんか今でも愛されてるし、
どうしようっていうか、今のところ迷いは無いから
ただの惚気なんだけども。
めっちゃ好きとか言ってくる。
ちゃんとしようと思って
がんばって資格とる」って言って、
結婚式したいし、
毎月デパコス買ってあげる」
とか言ってる、
なんかそんな、ねえ、すごい。
考えられないような言葉ばかり。
人って変わるんだなぁって、なんかそんな感じ。
もし資格をとれなくても
結婚式できなくても
ハワイにいけなくても
毎月デパコス無くても、
それでもあなたがいたら
それでいいよって、
思ってる私。
私自身も変わったなぁって思う。
性癖もめちゃくちゃだけど、
いろんな人生があるなぁと、
皆に言いたいけど、
女同士じゃやっぱり差別がネックだ。
わかってくれる人は、
めちゃくちゃにわかってくれると思うんだ、
ストレートの女友達が、「飢えすぎて女の子に恋したかも」みたいなことを言っていた。
具体的にどんなことが楽しい、嬉しい、云々。
正直、ふざけないでほしいと思った。
それを笑って言っていられるなら、恋だなんて軽々しく言わないでほしい。
私がほとんど女性にしか恋できない人間だと知ってくれているのに。理解してもらえていると思っていた。
恋の尺度なんて人それぞれだ。どこからが恋だ、と分ける線引きを決められる人はいない。だから、自分が思ったその瞬間、恋が始まっているんだと思う。
だったら「かもしれない」なんて保険をかけるなよ。
「同性を好きになる」という私からしたら日常にある行為を、馬鹿にされたような気がした。
貴方からしたら、人生でたった一度の同性への恋かもしれない。だったら、そうやって自分をごまかして「あれはやっぱり恋じゃない」って流すのもアリなんだろうけど。
だったら私が今まで、そしてこれから先も、同性を好きになって、結局叶わないから泣いて、苦しんで、そういう行為は全て流されてしまうんだろうか。
こんなことで友達じゃなくなるなんてことはない。両手を超える年月の親しくしているし、これからも彼女とはお互いの趣味を共有していくだろう。
けれど、心のどこかでこの出来事はずっと引っかかり続けると思うと、つくづく自分のセクシャリティが嫌になる。
私だって好きでレズビアンをやっているわけじゃないんだからさ。
こんなことを思ってしまうのだから、大勢の人へのカミングアウトなんて到底無理だし。社会はやっぱりセクシャルマイノリティにとって生きづらい。
後付けで申し訳ないけれど、全ての同性愛(両性愛)の人やその他セクマイの人たちがこう思っているわけではないと思う。
ただ私が、「同性に恋することを特別視される」のが嫌だっただけなんだ。
私もバイです
性自認は女なんですけど、増田さんのように正直どっちでもいい。でも女性らしさを求めてくる人は苦手
ただ、好きになるタイプは女性は可愛らしい人で男性はガタイが良い人かな
女性らしい人と男性らしい人が好きなのかも。自分が規範的な「らしさ」から外れてるくせにね笑
なんていうかもう正直「周りに理解を求めない」ことが正解なんじゃないかなって思って生きてます
だからバイってことは隠してる。理解する気ゼロなのに興味本意で嫌なことまで聞いてきて勝手に気持ち悪がられるから
LGBTとかセクシャルマイノリティとかって理解してもらうのは無理なんだと思います。ほんっとに人それぞれ違いますしね
今自分は本当の一部の人達だけバイであることを知ってて、普段は多分ストレートだと思われてて、時々同士で愚痴り合います。
今の日本で生きる私の最適解がこれです
本当はどうしたらいいんでしょうかね?