はてなキーワード: セクシャルマイノリティとは
"じゃあ金のない男性が性的アイデンティティ揺らいでるかというと別に揺らいでるようにも見えないし。"
ということですが、揺らいでいますよ。
ただ、そこは金じゃなくて、自尊心とか単純に自信とか言われるものなのです。取り繕うために、虚勢や見栄なんかでごまかしたりもしますよね。
そういうのが取っ払われてしまうと、文字通り立たなくなったり。EDって言われるやつです。当方医者でもなんでもありませんので、適当に言っていますが。
だから、女性って単純に言いますが、男にとって妻になる人が自分を罵ったり、見くびったり、自尊心を奪われるような相手だったら、結婚したくないでしょうね。程度によりますが、大抵の男性はそうでしょう。特殊性癖の方除く。
(追記)
"その辺揺らいでる男性はガチのセクシャルマイノリティが殆どで、それ以外は何の疑問も持ってないのがデフォに見える。"
これに関しては、何の疑問も持っていないわけじゃなくて、多少持っているのですが、態度に表すと誂われたりするので言わないようにしているパターンと、本当に何も考えてないパターンがおられます。
男性の、性的アイデンティティの堅固さって何で保てるのかよく分からない。
その辺揺らいでる男性はガチのセクシャルマイノリティが殆どで
それ以外は何の疑問も持ってないのがデフォに見える。
https://anond.hatelabo.jp/20190505075638の増田の反応見ても
これ女だったら人生で一度は似たような事考えた事あるだろと思うけど
男性(と思われる人)は皆茶化してるか理解不能という反応ばかりで
本当に男性ってこの手の事考えた事一度もないんだな、と思う。
フェミニストがセクシャルマイノリティーに言及することが多いけど、結局シスヘテロを中心にした同心円状の広がりしか語れないんでしょ?偉い人がグローバル化なんて言ってるけど、結局自国を中心に考えてるみたいに。
それは別に悪いことだとは思わない。人は結局自身の身体的リアリティに帰着させることでしか物事を理解できない。それは人間として当たり前のこと。また様々な立場から物事を考える上で、「フェミニズムという立場」から物事を考えることも大切だろう。
しかしいい加減、「私たちはマイノリティ差別に敏感なので、セクシャルマイノリティのこともよくわかっている」という顔をするのはやめてほしい。「わかる」わけないじゃん。でもそれでいいじゃん。あなた達はあなた達で、私達は私達だ。でもまずそれを認めようよ。セクシャルマイノリティの痛みを綴る言葉を簒奪しないでよ。
私はフェミニズムが嫌いなんじゃなくて、フェミニストが嫌いなのかな。フェミニズムには学問としての側面があるけど、フェミニストは所詮アジテーターにしか見えない。「フェミニズムに共感します」って何やねん。フェミニズムの立場からも物事を考えられる癖がついていれば十分でしょ。フェミニズムを中心に考える必要はないし、それに凝り固まるのは危ない。
同列に語れる部分もあれば、同列に語れない部分もある。
「語れるか?」という質問には「語れる(余地がある)」と答えるべきだが、「同列に語るべきか?」という質問の答えは文脈による。一般には同列に語るべき場面と、語るべきでない場面があるから。
「小児性愛者と児童虐待者は区別すべきだ」という言説はよく聞くようになった。それ自体は「議論が進んだな」と感じるし、歓迎すべき。ただしそれともう一つ「性交渉の年齢制限撤廃論者」を合わせて三属性を区別すべきだと思う。現実のネットを見ると、「小児性愛者」ではない「性交渉の年齢制限撤廃論者」が大勢いて、彼らがトラブルの中心になっていることが多いように見える。
また、私も含めて「性交渉の年齢制限撤廃」には反対の人は多いだろうが、とは言え「児童虐待者」ともやはり区別して批判しなければならない。「弱い子供を思い通りにしたいだけだろう」というのは低俗なレッテル貼りだし、彼らもそんな理由で年齢制限を撤廃したいわけじゃないことはみんな本当は分かっているだろう。「そんなつもりがなくても、相手を傷つけることはある」という現実の問題を論じなければならない。
治療を強制的に受けさせることは深刻な人権侵害になり得るので、例え犯罪者であったとしても慎重にならなければならない。本人が望んだ時に治療が受けられる環境が整うことは良いことだと思う。ただし、「小児性愛」を病名として治療を受けるのではなく、一般的な「性依存症」の文脈で、「小児性愛者の場合はどう治療すべきか?」という方法論で語るべきだと思う。これなら「異性愛者の場合は?同性愛者の場合は?」と平等な扱いだと言えるだろう。
内心の自由に踏み込むことがあったらこの国は終わりだろう。そんなところに主題はなくて、児童を性的に見ていることを「公言する」ことは、どこまで許されるのか?
「私はあなたを性的に見ています」と直接告げることは、性別も年齢も関係なくセクハラだろう。なぜなら、それは自分の問題に相手を強制的に巻き込み、プライバシーの領域を侵犯しているから。
セクハラを批判する時にセクシャリティは関係ない。セクシャルマイノリティーだろうがなんだろうが批判されるべきだろう。それと同時に、批判の中で相手のセクシャリティを侮辱するようなことがあってはならない。これらはすべて小児性愛にも適用される。
一方で、「私は小児性愛者です」と公言することは許されるべきだろう。この言葉はあくまで自分自身のセクシャリティの問題として語っており、誰かのプライバシーの領域を侵犯したと言うのは無理がある。
この10連休は、LGBTプライドウィークになっていて、今日は代々木公園でプライドパレードもあるらしい。
何年か前までは、自分(もしくは誰か)の環境を変える一助になればと思ってパレードも歩いたし、募金とかもしてたんだけど、ある時から急に行かなくなってしまった。
1番の原因は、LGBTムーブメントに近い場所にいると心底疲れる、ってことだったと思う。
同性愛者やトランスの人、結婚したい人、過激派の人、活動家の人、ゲイやオネエなどのコンテンツとして捉えてる人、真剣にセクシャリティについて悩んでる人、ファッションセクマイの人、性に奔放な人、アライの人、新宿二丁目(などのゲイタウン)で飲むのが好きな人...。
いろんな人がいて、そんな、いろんな人たちを理解したり、存在を認めたり、場合によってはスルーしたりする事でより良く共存しようね、みたいな感じがあったかくて嬉しかった時期もあったけど、気が付いたら全方位に過剰な気遣いが強いられていて、コミュニティでパワーを持ってる人にペコペコして、繊細すぎてすぐに暴れちゃうような人にヒヤヒヤしていた。
より良く共存するためには、ヒステリックに怒り散らす人に過剰に気遣いしないと輪に入れない雰囲気になっていて息苦しかった。
自分のカテゴリを示すために、パワーのある人や発言力のある人、顔の広い人気のある人、人脈のある人に嫌われないかヒヤヒヤしながらコミュニケーションを取り続けなければならなかった。
LGBTコミュニティに顔を出していた時期もあったから、生きにくさを感じている人も沢山見てきたし、そんな友人達にとって生きやすい世界をつくる活動(署名とか、募金とか、居るということを拒絶しない姿勢を示すとか)をやってきたけど、その「変えたい気持ち」を、LGBTコミュニティ内での"生きづらさ"が上回ってしまった。
差別発言をした人に対する激しい暴言とか、バイセクシャルはストレートに戻る論とか、いつ何時も色恋に目をギラつかせている人とかにも晒され過ぎて疲れちゃった。
状況がより良くなったり、選択肢が増えることは望んでいるし、セクシャルマイノリティに限らないマイノリティ(障害者とか)も少数派だからと虐げられることのないようになればいいとは思っているけど、そう思う気持ちがこれ以上削がれるような不快な場面に直面したくなくて、離れることを選択した。
それ自体は、大切なことだと思うけど、言われるのを見聞きするたび、忸怩たる思いがする。
思春期に萩尾望都でギムナジウムの美少年同士のピュアな恋愛にはまり、女子校生活で女の子への疑似恋愛も経験(片思いだが)
そんな経緯から、ルームメイトのカミングアウトもするっと受け止めたし、そういう愛もあると思ってた。
色んな制度の問題も、いつか解決するといいね、位の薄い理解だったけど。
そんな私がある時配属されたのが外国人と日本人が半々くらいの職場。
かなり自由な職場で、LGBTが今ほど言われなかった当時でも、みんな普通にカミングアウトして、普通に受け入れていた。
何しろ私のチームだけでも、同性愛者が8人、20人中と思うと、かなりな割合だと思う。
だからか、LGBTに対する理解を深めてもらうワークショップを社外に向けて発信してたし、イベントで当然のようにカミングアウトする人たちも居た。
お客さんたちは本心どう思ってたか分からないけど、そういう場に集まる人たちは「理解ある自分」を演出したがるもので。
お客の中から初めてカミングアウトする、という人も出てきたりと、ちょっと不思議な空間であった。
多国籍企業だからこそできる、国際交流とか、環境問題とかも大事だと思うの。
短い任期の中で、印象に残ってるのはLGBT関連のイベントと、語弊をおそれず言うと「理解してくれるよね!」という押しつけのような熱さだったわけで。
で、表題にはいると、そんだけセクシャルマイノリティを擁護しようと躍起になってるのに、別のマイノリティ、V、つまりバージンはバカにされなきゃいけなかったわけ!?ということ。
特別言うことでもなかったし、黙ってたけど、すぐボロはでた。
当時は異性の裸を正視できなかった。
そんな私を見てみんな見抜いたらしい。
気づいても知らん顔するのが大人のマナー。
なのに、ちょいちょいバカにされ始めた。
最初はみんな私の恋愛を心配してくれてるのだとすら思おうとした。
でも、マッチョの水着姿を正視できない私を笑ったり、外国人のゲイの同僚に、男性性器の写真を見せられたり、罰ゲームで私の頬に不意打ちでキスする奴まででたり。
やっぱね、あれはさ、イジメだよね?(怒)
最終的には容姿までバカにされて、泣きながら上司に訴えて謝罪させたけど、その時の女性の同僚が冷たいこと。
って(涙)
夢だった仕事について、みんなのことも好きだったし(最初は)、絶対成功させたかったから、全力でがんばってたのに。
ねぇ、私なんかそんな悪いことした?
仕事の能力については誰も何も言わなかった(言われたら私立ち直れなかったろうし)
だから、そこを突いてきたの?
多様性を散々私を含めて、まだ十分な知識もないお客さんたちにまであんだけ押しつけておいて、で、私は受け入れてくれないの?
私がその仕事に就くためにどれだけ色んなもの犠牲にして勉強してきたか、みんな知ってたのに。
それで恋愛も後回しだった(モテなかったのもあるけどさ)のに。
高齢処女も、ある意味マイノリティだよね。特にそれでLGBTの人等みたいな社会的弊害はないけど言えずに苦しんでる人だってたくさん居るのは同じなはず。
みんなにとってはイジりだったかもしれないけど、私にとっては未だに心がえぐれる。
だって、私にとってあの仕事は何年もずっと夢見てた場所で、一生の思い出なのに、そんなことで汚された。
最後までみんなのこと信じようとしたけど、やっぱり無理だった。
そんな私みんなに嫌われたかな?って未だに思う。
二度と連絡も取らないけど。
そもそも、LGBTはよくてVはダメなの?どれだけ矛盾してんの?自分らの権利主張はものすごい推してきて、それで何もしてない私のことあんなにバカにしてきたよね?それで多様性とかよく言えるな。
もう3年も前の話。
今も絶賛Vですが何か?
おかげで、それまでずっと処女であることは特に気にしてなかったのに、気になるようになりました。ありがとう(怒)
もちろん少数派なのは分かってるけど、どうしてもあのときの記憶がよみがえる。
自分らばっかり主張しやがって、と。
一時、本気で思ったもん。
自分が処女であることをカミングアウトしてその擁護をするイベントを開こうかと。
さすがに止めたけど。
私は、あれは許せない。
今の風潮も、どうしても受け入れられない。
今の同僚がそうだとしても、良い人ならこれまで通りつき合うだけ。相談にも乗るし。
LGBTの友達はいるけど、守るならその子たちだけ。他は知らない。勝手にやって、という感じなのだ。
※※※
詳しく書くと、分かる人はすぐ分かるかもしれないので。(あと私を特定されかねないので)
思いの外反応をいただいて驚いた。
この件に関してはずっと胸にしまってきた。
私がみんなに嫌われてたから、
って、ずっと自分責めてたし、忘れようとずっとしてきた。
でも3年たった今、LGBTの運動みてて無性に腹が立っている自分に気づいた。
その怒りを初めて外に出せた。やっと。
ひどいこと言われてたんだ、ってコメントみて気づいた。
日本企業で同じことされたら、即通報してたけど、半分外国の独特の環境だったから私が間違ってるのかと思いこんでた。
何より、力不足なのに、その職場にいさせてもらってるという思いがあったから。
でも、よく考えたら、私はお客さんや他のスタッフからは感謝されることが何度もあった。ちゃんと私だって貢献できてたことにやっと気づいた。
私はあの場で怒って良かったんだよなあ。
でも、もう関係ない。私なりに仕事をやり遂げたことに気づけたから。
「エロが嫌い」って言う人には配慮したいと思う。それもまたその人の個性だから。
でも現状「ゾーニング」を求める声の大半は「エロが嫌い」じゃなくて、「エロは大好きだけどおまえらのそれはエロじゃなくて暴力だから人の目に触れるな」だから、まあ「差別には屈するべきでない」という話になってしまうよね。
アポシセクシャルのようなセクシャルマイノリティーに配慮する必要はあると思うけど、ごく普通のシスヘテロになんで配慮してやらなきゃならんのだ。となってしまうよね。
まあ、自分はゾーニング推進派だし、それはそれでいいんだけど。そんなことより早く、世に溢れる一般のシスヘテロでノーマルなみなさんの「エロ」をゾーニングしてくださいよ。
ミニスカートだの見せるパンツなんかよりも、結婚制度とかいう専属子作り契約の方がよっぽど猥褻なエロの塊であるという自覚を持って生きて欲しい。
今日でゲイを辞めてノンケとして生きていく。正直迷ってるけど。
今、僕は高校生で小5、6の時から男に性的な興味があった。女にも興味はあるが性的な興奮はしない。
何故ゲイを辞めノンケとして生きていくか決意(?)したかというと子供が欲しいからだ。ただこれだと男同士でも養子などの制度を利用して子供は育てられるというがそれでは自分の子供ではないし、代理出産だと完全な二人の親の子供ではない。
僕は小さい頃から抱いている男女の家族像に憧れている。(マイノリティ当本人が古い考え方してるかもしれないが)
2人のDNAをもって生まれた子供が欲しいのだ。僕は変わりたい。
昨今では同性愛者には生産性がないだとか国が滅ぶだとか言われている。当事者としてとても悲しい。僕は、セクシャルマイノリティの1人として生まれてきた自分をまだ認められないし神様を恨んでる。
何故、こんな辛い思いをしなくてはいけないのか。
辛い。相談できる人もいない。
よくわからないけど
http://kotomonashi.isapon.net/?eid=899
Genderqueer / ジェンダークィア(既存の性別の枠組みにあてはまらない自認。ノンバイナリー、ノンコンフォーミング、ヴァリアントなど呼びかたは様々)
Implasexual / インプラセクシャル(規則的に続く自己疑問やアイデンティティの問題が原因で、自身の性指向に満足していない)
Pomosexual / ポモセクシャル(「そもそもセクシュアリティの分類は意味をなさない」という考えかた。ポストモダニズムセクシャルの略)
Queer / クィア(既存の枠組みにあてはまらないセクシャリティ。また、セクシャルマイノリティを表す言葉。元は侮蔑語)
Quoiromantic / クォイロマンティック(恋愛感情とは何か、友情とどう違うか、がわからない。WTFロマンティックと同義)
のどれかには当てはまるんじゃないですか?
私自身はクォイ・ロマンティックのオブジャンクタム・セクシャルが一番近いかなぁ。二次専なので。
でもア・ロマンティック、オート・セクシャルっぽさもあるかなぁ。まあセクシャリティは流動的なものなので。考え方はポストモダン・セクシャルが一番近い。
"ロリコン"の傾向もある("ロリコン"の定義はともかく)けど、成人男性なのでロリータではないです。でもロリータ服には興味があるので、ロリータさんデビューはいずれあるかもしれない。
「LGBT」の型に当てはまらないセクシャルマイノリティーは沢山いますよ。
https://tokyorainbowpride.com/magazine/lgbtqcourse/10419/
■ 性表現(Gender Expression)
「男らしさ」や「女性らしさ」を表すと規定されている服、しぐさ、言葉遣いなどで、自分の性別を表現する方法のこと。
いわゆる「ふるまう性」。
本人の性自認(gender identity)と性表現(gender expression)は、おおむね重なり合いますが、必ずしも一致するとは限りません。
例えば、性自認(gender identity)は男性(male)だけれど、スカートを履いて、化粧をして、ハイヒールを履いて女性性(femininity)の性表現(gender expression)をする人もいるということです。
って言うほど問題視されないよね。叩かれるのは大抵「萌え絵」と呼ばれるアニメ調のイラストばかり。そういうダブルスタンダードさえなくしてくれたら議論の余地はあると思うんだけどね。逆に言えば、絵画とかに文句がついたときに「とうとう芸術にまで~~」とか言って嘲笑する空気には乗れない。
「性表現=エロ・猥褻」なのか?という問いばかりが先行して、それに対する答えを用意している人が少なすぎるのも問題じゃないかな。
結局、なぜそれを批判されたときに心がざわつくかと言えば、それが我々のsexual expressionであり、「ミニスカート」や「タトゥー」と同様に我々のアイデンティティーを構成しているからだと思う。そう考えて見れば、なぜそれらが「公共空間」において許されないのか?という問いにも一応の説明がつく。公共施設の職員が、「ミニスカート」や「タトゥー」を「義務付け」られていたら、やはり問題だろう。個々人のアイデンティティーは、誰からも侮辱されない権利を持つ代わりに、誰にも押し付けてはいけない義務がある。
ところで、我々のアイデンティティーを構成する「性表現」を「エロ・猥褻」呼ばわりしてきたマジョリティーの皆さん、今度はあなた方の番ですよ。いい加減、公共空間からあなたがたのsexual expressionを撤退してはいただけませんかね。あなた方マジョリティーの考える「素敵なセックス」が、いったいどれほど公共空間にあふれているか、未だに気付いていないんですか?それが一体どれほどのセクシャルマイノリティーに対し、「君たちは所詮アブノーマル」という傲慢で不快なメッセージを伝え、侮辱してきたのか、ほんの少しでも考えていただけませんか?
あるTwitterユーザー(Aさん)が、Twitterで子どもを性的に見た(「○○(具体的な場所)で幼女を視姦した」など)とツイートしていた。
そうした嗜好があるのは自由だが、脅威になるので表明するのは違うと指摘する人たちがいた。
また、Aさんは子どもを性的に見ることを表明しつつ、子どもから個別に相談DMを募ろうとしていた。
そうした行為を、閉鎖的な空間に誘い込むのは危険であるとまた批判された。
この件で非難されたのは、Aさんに指摘・批判をした人たちのほうだった。
なぜなら、Aさんはセクシャルマイノリティだったからである。
マジョリティであろうとマイノリティであろうと、大人から子どもへの加害表明は指摘・批判されてもおかしいことはないはずだ。
しかし、批判した人たちは自称セクマイや自称アライたちから「差別主義者!」と罵られ続けている。
さらに、今度おこなわれるウィメンズマーチにおいて、自称セクマイや自称アライの中には「シス女性からのセクマイ差別があればその場で殴る・暴行を加える」という旨の発言をしている人たちがいる。
これは脅威ではないのだろうか。
その大人がセクマイで、批判者がシスだった場合、この批判はセクマイ差別だと言われている状況なのだ。
これは差別なのだろうか。子どもへの加害は、シス男性であろうがシス女性であろうがセクマイだろうが批判されるものではないのか。
ここまでの話を総合する。
女性の権利向上を訴えるウィメンズマーチにおいて、参加者成人が子どもにハラスメントをおこなったとする。
参加者シス女性がそれを注意してしまったら、参加者がセクマイだった場合は注意をしたシス女性が「差別主義者」と認定され、その場で自称セクマイやアライに暴行を受けるということになる。
それを、当然のことだと認めてしまうのか。
この疑問を発信した人に対して、「お前は差別が何なのかわからないくせに人権を語っていたのか」と嘲笑するセクマイがいた。
やりたい放題過ぎないか。
性別や性差・ジェンダーに関する話題でトラブルが起きるたびに、個別の憎しみをピックアップするのではなく、そこから「どういう世の中になったら良いと思うのか」を語り合うべきではないかと思う。
理想の世の中は各々違うだろう。だから、衝突もあるだろう。しかし、互いの「理想の世の中」を知らない限りすり合わせすることもできない。再び差別が生産されるだけだ。
Twitterの全てを見ているわけではないが、観測した限りでは現状トランス女性がシス女性から女性のアイデンティティを奪い取り、「トランス女性が“女性”に、女性が“シス女性”に」クラスチェンジしたら満足なのだろうという印象を受ける(印象を受けているだけなので、もちろん中身は違うのかもしれない。しかし、言動からはそう受け取ってしまう)。
トランス女性はシス女性をマジョリティだと言うが、この男性優位社会ではシス女性もまたマイノリティである。トランス女性がさらにマイノリティだというだけだ。
ものすごく様々なことを省略して単純に書くが、シス女性から居場所を奪い「シス男性>トランス女性>トランス男性またはシス女性」という力関係・差別構造になれば満足なのか(それがトランス女性の満足なのであれば、そう言えば良いと思っている)。
私はこのゲームをやっていないのですが、レビューを読んだだけでもいくつかの違和感がありました。少し長いですが、せっかくなので私もここに書かせてもらおうと思います。
今調べたところ、リンというキャラクターはトランス女性で、ヴィンセントというキャラクターがシス男性なのですよね?でしたら、リンは同性愛者ではなく異性愛者なのでは?
たしかにトランスジェンダーの中には、「セクシャルマイノリティーとしての自分」にアイデンティティを見出し、自己実現を図る方も少なくありません。一方で、「自分は本当は(すなわち、心は)男性/女性なのに、なぜ身体は女性/男性なんだ。男/女らしい身体に産まれたかった」と悔しい思いを抱えながら生きる当事者もまた少なくありません。「LGBT」と一括りにされてしまうことで混乱が多いですが、「LGB」の抱える悩み・直面する差別の問題と、「T」の抱える悩み・直面する差別の問題は全く異なります。あなたはどうやら、その辺りを混同しているように見受けられました。
次に、
同性愛者は自分のセクシャリティを隠して異性愛者に近づくものだという偏見ですよね。そんな同性愛者は今時いないと思うんだけど
とのことですが、つい最近もセクシャリティのアウティングによって一人の学生が自死を選択した痛ましい事件がありましたよね。この国(に限らないですが)はまだまだ偏見は強く、排除を恐れてセクシャリティを隠して生きる当事者も少なくないのが現実だと思います。
もちろん、あなた方のような当事者が増えてきたこともまた現実だと思いますし、それはとても幸福なことで、歓迎すべきで、そして目を向けるべき現実でもあるとは思います。しかし、その裏でやはり「残念ながら変わり切れない」部分も残っていると思います。そのような両面性を抱えた過渡期である現代において、そのリアルを余すことなく描ききることは不可能に近いと思います。しかし、複数の作品群の傾向を語る中で「そろそろこういう作品が増えてもよくないかな?」と提案することには大いに意味があると思いますし、私も応援します。
以上です。長文失礼しました。
こんなやつらに権利()なんて保証する必要たしかにねーわなと思う
男はどうだかしらんが、女のセクシャルマイノリティなんて
寄生して暮らすためなら歴代のどの彼女より心が動かない男に中出しされることを
あっさり幸せ♡とか言い出せる程度の「どうにもならなさ」だよ、少なくとも半分はな
だいたい30にバタバタと嘘つきファッションレズの正体が判明する
それまでは男となんとなく付き合ってたけど30あたりにビアンだと確信して女と一生添い遂げる決意をした女は、ゼロ
ていうかゼロって。うける。そんな都合のいい性別、信じてもらえるわけ無いじゃんね。
そのかわり、「本物」は多少遡って保証を取り戻せるようにしてくれないかなー
(まあ自分でいってて意味不明だし、絶対に無理なのわかってるけど)
先天性で、女しか恋愛対象にみれず、性的興奮もできない、という人間なのです。
という最も要の大義名分がま~ん()のせいで濁るのが本当に許せない。
「多角的な視点から分析を試みる」とあるが、客観的なデータが一切なく、
「ではないか」「と思われる」「興味深い」と主観的で一面的な感想に終始しているため、
内容に一旦疑問を持つと、それ以上読み進めることが難しい。
「関係性消費」についても下調べが不足している。
最低限、日常系以外のコンテンツとの「関係性」の比較・検証をし、内容の客観的な違いや売上、言及数などのデータがないと、この仮説は成り立たない。
また、腐女子にとって「関係性」が重要だというジェンダー比較が出てくるが、なぜ現在の日常系は腐女子からではなく男性向けから出てきたのか。
・同じくバーチャルYouTuberの人気も「関係性消費」だけで説明できるのだろうか?
前段となるニコ生やUstreamやYouTuberなどの動画配信、また声優ラジオなどの類似コンテンツの調査・比較は少なくとも必要。
また、キズナアイ登場時は、関係性よりも単体のコンテンツとして人気だった印象があるが、その変遷も調査しデータとして述べる必要がある。
全体的に最も信憑性に乏しい段。
「ホモソーシャルな絆」がキーワードのようだが、「腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く」という文言があるが、単なるイメージでしかない。
「BL研究家」を名乗るものがマイノリティへの差別意識を吐露し、またそれに追従するBL愛好家たちが炎上した件が有名である。
逆にホモソーシャル的な絆を強めるためには「攻撃対象」を用意することが有効という事例もある。
主観的な意見だけで不用意に書かれているので、要調査の上で客観的なデータを伴って修正する必要がある。
また、旧来の男性おたくが少女漫画と親和性が高かったという事実も、本稿では重要なポイントになるのではないだろうか。
全体としてデータ不足が顕著。
本稿では、現在の「ファン/オタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的な視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品・概念・グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブな言葉として用いる。拡散し多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像を画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルやジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。
「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数の女性キャラの日常生活を描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメは2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的にドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系」カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみ「らき☆すた」(2004)や、なもり「ゆるゆり」(2008)などが代表的なものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語を想像して消費することができるからなのではないだろうか。
関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティの担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D/3Dの二次元的アバターを現実の肉体の動きとシンクロ(トラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況や雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそも「YouTuber」の動画には前提とされる物語や世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在の人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである。難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナとキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。
そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNSや動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物の画像を投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名の存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女・美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダーと次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。
つまり、「実在の人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系・関係性」が、液晶内のキャラクタバターと動画配信という形態の手軽さにより、オタクの関係性消費への志向は次元を超えてさらに加速していくと予想できる。
・関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味さ
前章で関係性消費への志向がさらに高まると予想したが、本章ではオタクのジェンダー格差について女性向けジャンル・男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態に差異があるのだろうか。
もちろんHL(異性愛)文化を扱う少女マンガ・少年マンガにおいても恋愛・友情・ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BL/GL文化ではそれ以外の登場人物の関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉の意味合いについて掘り下げ、BL/GL(同性愛)ファンの文化それぞれの特徴から考察してみたい。
女性オタクの人文学/社会学的研究に関しては、特に「腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的な女性の性的欲望の解放」といった視座からの言説であった。特に「腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全な領域において、性的な表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったものも存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在の日本の混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。
今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からのマイナスイメージを払拭しようとしたり、イベントやSNSでの趣味やスラングの共有による特殊な連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティの特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛を排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドやレズビアン連続体、ホモソーシャルな関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。
では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望やコミケでのゆるやかなホモソーシャルな交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツは受け手のジェンダーによって大きくその意味合いが変化してしまう場合があるからである。そして男性のGL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別は限定されていない。これはGLというジャンルを男性だけが消費することに対することが上記の齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称が流行ったのはBLというジャンルを女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。
また、百合厨コミュニティにおける異性愛忌避の姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造は腐女子のジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。
こうして述べてきたように、同性愛コンテンツのファンの構造は非常に複雑で特殊なルールの基に成立している。しかし、上記の性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファンは異性愛を忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものがオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物と消費者のセクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊な連帯がプラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuberの関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuberの関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性、ペルソナがシス女性、キャラクタがシス女性のキャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンはキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象はアニメ・漫画においても進んできており、創作物と受け手のジェンダーが必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。
【続きと参考文献リスト】
自分は、恋愛対象になる人の数がかなり少ないタイプなのかもしれないことに気づいた
「恋愛対象」の定義を「キスとかセックスしても不快じゃなさそうな人」とした場合、30年間生きていて2人ほどしかいなかったので、今まで出会った異性※1 の数をざっくり5000人※2 として、出現率はなんと0.04%
仕事柄人と会うことは多いし、気の合う異性からアプローチされることもあったけど、友達としてはよくても全く恋愛対象として見ることができなくて、変だなと思っていた
友人らに聞くと、
「異性の60%くらいはまあ対象で、そのなかで好きになる人が出来てくるかんじ」とか、女性でも「クラスにまあ2,3人くらいは『もし告白してくれたら付き合えるな』って人はいたから、そう考えると10%くらいかな」という回答。一般的にはそれくらいなの?
これが完全に0%な人を「アセクシャル」とか「無性欲者」っていうのかもしれないけど、自分の場合は性的欲求は明確にあって、他者とセックスしたいという気持ちも明確に存在する。
なんなら性欲も、性的好奇心も強い方だと思うのでしんどい。発情期のトキ状態。相手が地球上になかなかいない。
もちろん自分の0.04%というのは単なる「恋愛対象となる人間の出現率」なので
ここにさらに性格や相性を鑑みて「好きになれるかどうか」というハードルがあり、
その上で当然「相手が自分を好きになってくれるか」というハードルがあることを考えると
※1…自分はストレートだと思うので。もしかしてセクシャルマイノリティかと思ったこともあるけど、今のところはそういう気持ちは無さそう
※2…人生で出会う人の数は生涯でおおよそ3万人らしい。学生時代の全校生徒の人数とか会社の社員数とか考えて適当に書きました