はてなキーワード: スカウターとは
そもそもITエンジニアはいかにサービスでお金稼げるか、サービスを安定運用して継続的に利益を出すかがナンボでIT技術はその手段でしかないだろ
なのに、妙に技術力技術力とおおざっぱでふわふわしたこと言う連中多いよな
AWSでインフラやんのにプログラミング力を一番求めますなんて言ってるのとか多くて顎が外れそうになったんだけど
というかもう、チーズ牛丼顔の陰キャとか発達障害のアスペにとってのカルト宗教なんだろうな、プログラミングさえできれば人生一発逆転で金も女も権力も思いのままだぜヒャッハー!みたいな感じで
「拳銃さえ持てば生意気なリア充や憎いエリートや半グレや警察官どもをやっつけて、金と女と権力を奪い、JKやロリから美女まで口説きまくって外車ぶっ飛ばして毎日酒池肉林の宴ができるぜビッグになりてぇ」とかいってる神奈川県の貧困地帯のDQNといってることかわんねーよな、精神性の卑しさ的に
1話切りして百合と聞きデスアイランドで復帰、それから飛び飛びにずっと読んできた観劇オタク
完全同意でどうしても無理
なんか読んでて思うんだけど、描写から「観劇客のために」って視線を全く感じないんだよね
客は役者(✕作品)の凄さや天才性、別世界の人間ってことを示すためのスカウターでしかなくて、此方の存在を全く見ていない
勿論こっちは見てる側だから上下つけるなら勿論役者やスタッフが上だと思うし盛大に感謝しているんだけど、それは客を無視しろ、お前のやりたいことを好き勝手やれという意味ではない
お金出して見てるんだしね
こちらを思う描写が全くなく、客を凄さカウンターとしか思ってない描き方続けて「これこそが劇!凄い役者!」って言われると物凄く白ける
イケメンに気に入られてもしれっとしてて、美女には執着されお偉いさんには次々目をつけられてトントン拍子に進み……ってなあ
主人公いなければまあまだ読めたのかな ちよこの顔は好きだし
自分は友人が自分と同じかそれ以上のアクタージュ嫌いの観劇好きで愚痴聞いてもらえるのでまだマシなんだが、周囲にいないとつらいよね
この漫画を役者に読ませた記事読んだことあるけど、「現実だとやばいです」的なのが遠回しに繰り返し言われてたし、あと設定や劇の流れとか諸々見る限り多分作者は劇に興味がそれほどないので、多分ターゲットもそういう層なんだと思う
まず言っとくと俺はドラハラ(ドラゴンボールハラスメント)を受けたわけでもないし
むしろド直球のDB世代ではあるがそれでもドラゴンボールが嫌いだ。
ドラゴンボールという作品の説明は流石に不要だろうからここは飛ばすが国民的人気を得ているのは別に不満はない。
むしろ国民的人気を得てしまっているからこそどうしても申し出たい事があるのだ。
ドラゴンボールの世界においてはとにかく戦闘力が全てである。途中から数値化するのは止めてもそこは揺るがない事実である。
そんな戦闘力のインフレはフリーザ戦から始まったと言ってもいいのだが俺はそのフリーザ戦を大きく評価している。
ノーマル状態の悟空がフリーザと良い戦いしていると思いきや裏で界王拳で10倍も引き上げていたと分かった時の絶望感は未だに覚えている。
そして初めて超サイヤ人になった場面のカタルシスは凄まじく少年漫画史の頂点に飾れるといっても過言ではない。
しかし超サイヤ人の登場と同時にドラゴンボールという物語は終わってしまった。
これから始まるのはサイヤ人の為のサイヤ人によるサイヤ人の物語だからだ。
本来はフリーザ編で終わる予定だったものを引き延ばして人造人間編(セル編)なんてものを出したから狂ってしまった。
宇宙一の強さを誇っていたはずのフリーザを倒した超サイヤ人がなぜスカウターすら作れない地球の科学者の開発に負けるのか
ドクターゲロの科学力は宇宙一と言われれば身も蓋もないが、やはり匹敵もしくはそれ以上の力を持つ敵が現れないと話が始まらないのだろう。
超サイヤ人が負ける姿も見たくはなかったがそれよりそれ以上に戦闘力のインフレの弊害を受けているのがサイヤ人でもないZ戦士達だ。
セル編でZ戦士が活躍した場面なんてピッコロがスッキリしない戦いしたのと天津飯がセルを足止めしたぐらいだろう。
あとはサイヤ人達が超サイヤ人の壁を越えようとしている別次元のスケールを腕を組んでただただ眺めてるだけだ。
セルゲームの時の彼らはもうセルジュニアに一方的に蹂躙される為だけの存在となってしまった。
ブウ編はもう説明不要だろう。Z戦士達はブルマと変わらぬモブとなってしまった。ピッコロだけは保護者として頑張ったとは思うが。
そもそもクリリン除くZ戦士は界王様の所に行ってんのに界王拳を覚えなかったのが最大の失敗と思える。
もしZ戦士が界王拳を取得していればサイヤ人は超サイヤ人を極めたように界王拳を極めていくという生きる道があったはずだ。
しかしそれはもう今となっては時すでに遅しでピッコロなんか界王拳覚えてないのにドラゴンボール使ってまで自信満々でナメック星に行ったのも未だに納得いってない。
それはともかく戦闘力こそ全ての世界とはいえ国民的人気を得てしまっている作品がこんなにも超実力至上主義というのはどうなんだろうか。
これまでなんとなく読んでなかった「ONE PIECE」が無料になってるっていうんで、読み始めてみて感じた違和感を書く。
戦闘や冒険がメインのストーリーは、パラメータを脳内で考えながら読む癖がある。
状況を見ながら、このキャラの強さはこのくらいのはず、という数値を想定しパラメータに変動がありそうな要素があるたびにその数値を修正していく。
登場人物が多いストーリーほど、こうやって全体像を掴むんだけども、ONE PIECEの場合、どうもこのパラメータ設定がうまくいかないのだ。
たとえば、いまのところウソップに最も感情移入して読んでいる。何者でもなく、物理的な強さも持たず、逃げてばかりだが自分を偽りながらなんとか誇りを保って生きているみたいなところに共感するものがあるからだ。
だからウソップが時々活躍するたびに、「いやいや、お前そんな強くないだろ」と思ってしまう。対峙する敵に想定されるパラメータと比べてウソップはずっとずっと低いはず、というシーンがある。
ストーリーに変化を持たせるため、パラメータを超える力を発揮するシーンが必要、というのはわかる。故郷を守るためとか、大事な人との約束とかそういうのが絡む戦いがそうだ。
そういうパラメータを超えられる説明があるシーンはいいのだけど、ONE PIECEはそうでない場面もたびたび出てきてもやっとする。ウソップそんな強くないだろ、と同じくらい、ルフィや敵キャラに対して「お前そんな弱かったっけ」とかもある。
パラメータが変動する要素がその都度描かれている。死にかけて復活したら強くなる設定とか、潜在能力を引き出してくれる存在とか、他人の力を吸収できるとか、そういうやつだ。
パラメータを数値化するスカウターも、理解をさらに精緻にしてくれた。
ONE PIECEは物語としては面白いし感動する部分もあるんだけど、この違和感を持ったまま読み進められるだろうか。みんなどう解釈してるの?
※まだ全然途中(グランドラインで巨人たちの島を出た後、ナミが病気になるあたり)なので、このあといろいろ説明がつく描写があるのかもしれない、とは思ってる。