「シミュラークル」を含む日記 RSS

はてなキーワード: シミュラークルとは

2024-07-10

シニフィアンシニフィエとか口にしたやつを袈裟斬りにし、

返す刀でシミュレーションシミュラークルとかほざくやつも斬殺する。

2022-03-04

anond:20220303141546

「何が美しくて、何が気持ちいか」は、文化に触れる事で後天的学習する部分が結構大きいのではないか

実際、古今東西文化が違うと基準も変わる。

スコットランドでは、髭モジャで筋骨隆々のおじさんがスカート状の物を穿いていたりするが、それが民族衣装である事を知らない人は「気持ち悪い」と感じるかもしれない。

しか民族衣装だと学んで、見慣れてしまえば、気持ち悪いなどとは微塵も感じなくなるものだ。

近年の本邦では、「中性的男性は美しい」「いかにも男性的な男性女装気持ち悪い」とする表現が一部で人気を博してからシミュラークル的に類似表現が増え、そのような価値観習得した人もだんだん増えていったのであろう。(史料を当たってないので断言はしない)

2022-02-19

シミュラークルシミュレーション

増田とはシステムだ。そして、システムは敵だ。しかし、そこには我々が救おうとしている人々がいる。だが、今はまだシステム構成する一員で、つまり我々の敵だ。彼らの多くはまだプラグを抜く準備が出来ていない。盲目的にシステム帰属し、それを守ろうとする」



身分犯と共犯

真正身分犯とされる犯罪行為身分のない者が加功した場合、不真正身分犯とされる犯罪行為身分のない者が加功した場合など身分犯と共犯関係については問題がある。

刑法第65条は次のように定める。

犯人身分によって構成すべき犯罪行為に加功したときは、身分のない者であっても、共犯とする(第1項)。

身分によって特に刑の軽重があるときは、身分のない者には通常の刑を科する(第2項)。

2020-12-29

anond:20201228141845

なぜ大阪人フィクション悪者にされるのか理由がわからない

創作物内の表現の話ならクリシェまたはシミュラークル概念説明できる。

たまたまそういう表現がウケたか二番煎じを繰り返しているだけで、製作者の悪意というよりは無能によるもの

それに対して「不快からからはなるべくやめて欲しい」という意見を表明していく事に一定の効果はあるだろう。

2016-08-25

シミュラークル

大学准教授をやってる友人が、会話の中で「シミュラークル」って言葉を使って衒学的なことを喋ってたんだけど、

その頃は「シミュラークル」って知らなくて、「趣味サークル」と聞き間違えてた。

でもほとんど会話できてたんだよね。

こういう例って他にありませんかね。

2013-08-12

低学歴世界」とは何か

「うちら」の世界http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425

私のいる世界http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155

低学歴」って言うな。— http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130810/1376143977

SNS炎上と"低学歴世界"の構造分析。 — http://togetter.com/li/545991

 ここ最近、「低学歴世界」というワードを目にする機会が増えました。発端となったブログの内容と、自分の周りで議論されている内容、そして自分が考えていることは方向性が違うのですが、その「低学歴世界」のあり方や「高学歴世界」との関係、溝、そしてネーミングそのものが議論の対象になっているので、自分も思うところを書いてみようと思います

 上の4つの記事を参考にすると「低学歴世界」の人々は、

インターネットをはじめとする技術に対する無理解

世間一般の常識とはかけ離れた独自の常識

教養の低さ

低学歴(中〜高卒まで)

ローカル

という特徴を持っているとされています。前提として、このような特徴を持ったコミュニティ世界現実にあるのだということは、このノートを読んでくださる人々に認識していただきたいと思っています。程度の差はありますが、上記5つの記事に書かれている内容でおおむね合っています

ネーミングについて

 僕自身もその「低学歴世界」に、身を置いていたとは言わないまでも、通りを挟んで向かい側くらいまで近付いたことがあります。そこで感じたのは、そういう世界に身を置くかどうかは、(親をはじめとする周囲の)学歴という要素はとても大きい、ということです。分かりやすレッテルを貼っているだけだ、とか、学歴で切り分けるな、とか、上から目線だ、という批判もありますが、現実にそういった世界のぞき込んでみると、決して外れてはいないな、というのが思うところです。(また、全く次元の違う話ですが、これが例えば「下層の世界」というネーミングだったら、ここまで話題にならなかっただろうと思います。この話題をここまでバズらせてくれたという意味でも、この名前には功績がある、と思うのです。)

低学歴世界」とは何か

 「低学歴」という呼び名では、単に「学歴が低い人々の集まり」くらいにしか聞こえないので、本質をとらえきれていない、という批判があります。上記の記事や自分なりの体験をもとに、この「低学歴世界」の特徴を考えてみたいと思います

究極のローカル

 この「低学歴世界」の最大の特徴は、小中学時代に形成された地縁社会がほぼ一生続く、という究極のローカル性です。

低学歴世界って何と無くわかるんだよ、高卒とか地元の専門、地元Fラン卒業して、中学の時の奴らとつるみ続けて、世界を知らない、それでも彼らは幸せなんですよ。

法律経済に無関心、それで生きていけるからITにも無関心それで生きていけるから、大切なもの地元友達だけ、地元最高みたいな人が。

本来ならば"低学歴世界"の人々は親や先生との対立によって自らを止揚させて行き、大人になるが親や先生能力が低いと止揚ではなく社会からの逃避によって解決を図る。

お互いに逃避した友人と遊び、逃避した同士自らをさらけ出し、自らの文化(culture)を養成していき、自らの常識を育んで行きます

テレビ世界は全く違う世界の出来事を映す、代官山のお洒落カフェ原宿のお洒落洋服屋さん、六本木の華やかなクラブ、それは"低学歴世界"から見たら全くの虚像なのです。

彼らが持っている世界小学校のころから使っていたコンビニ最近出来たバイク20分のトウキョウのシミュラークルとしてのイオンモール、それと国道沿いのチェーン店出身中学高校くらいなものです。

なぜなら決して地元から離れる事が出来ないから(考えすらしない)、"低学歴世界"の交遊関係は幼少のころから続いており新しい環境に行くことが出来ない、疎外されるからです。

SNS炎上と"低学歴世界"の構造分析。 」

 この記述は、その特徴を痛々しいほど正確に切り出していると思います。"彼ら"はとても世界が狭い。このような世界で、子供達は学区制に従って地元の小中に通い、テストの点数に従って近場の高校に通い、多くはそこで卒業して就職し、一部は地元専門学校大学に通い、一部が進学や就職コミュニティを離れ「外の世界」に出て行く。これらの区分けのうち3つ目と2つ目の一部だけが低学歴世界」を(一時的に)脱出し、多数派の1つ目、2つ目の一部が「低学歴世界」を構成する次世代となります

低学歴

 ネーミングにも表れている「低学歴(※字義通り)」という特徴は、確かに当たっている、と言えます。彼らは多くが高卒、または地元専門学校卒で、大卒者は少ない(大卒者は大学に依ったコミュニティを作ってしまうので、関わりが薄い)。それはローカル性と一体のものです。大学入学にはもちろん学力の問題もありますが、そもそも「低学歴世界」の人は大学に進学することを考慮していない人が多いのです(理由は後述)。地元を出て高い金を払って進学しようと思わない、かといって就職のために県外に出るのも、という人が、地元で職を見つけて大人になっても地元に留まります必然的に、構成メンバーが「低学歴」寄りになるのです。

 しかし注意しなければならないのは、その「低学歴(※)」というのはどちらかといえば「低学歴世界」が作り出した結果に近いものであって、その世界を成り立たせている要因ではない、ということです。「低学歴世界」が「高学歴世界」と断絶してしまっている最大の要因は、その世界の子供が、親世代から低学歴世界」を脱出できるような教育を受けられず、「低学歴世界」が再生産されていく力が強い、ということです。

低学歴世界」が持続する理由

 つまり僕が「低学歴世界」の大きな要素として挙げたいのは、先程のローカル性に起因することですが、「自分の慣れ親しんだ世界の外に出て行く、子供を送り出す」という意識が、「低学歴世界」に欠けていることです。だからこそ、自分が通ったことがない「大学」に子供を通わせようとも思わないし、海外旅行する必要も、就職のために大都会に送り出す必要も感じない。インターネットをはじめとするツールは「世界」の仲間と交流するためだけに使えばいいから、きちんと学ぶ必要はない。

 そこから生じる一つの帰結として、「子供教育教養をつけさせる」という意識子育てをする家庭や地域に欠落していることも、この世界が持続する要因となります自分がかつてそうだったのと同じように、また周囲と同じように、小中学校での教育に関心を払わない(払えない)、大学進学の必要を感じない。この意識の欠落によって、次世代低学歴(※)を受け継ぐばかりか、「低学歴世界」そのものが次世代にも再生産されていきます

 自分暮らしている世界で事足りるのだから子供もそれで十分だろうと思う、その意識が「低学歴世界」という閉じたコミュニティ再生産していきます

 ここまできてやっと、学歴のもの本質的な要因でないことが分かります。たとえば、中/高卒芸能人なんか山ほどいますが、彼らの多くが「高学歴世界」の住人である...とは言えないまでも、上記にあるような「低学歴世界」の住人ではなさそうだ、ということは、感じられるでしょう(彼らの中には「低学歴世界出身の人も多いはずですが、容姿や芸能のセンス武器にその世界を出たのだ、と言えます)。これを読んでいる「高学歴世界」の皆さんは、将来自分の子供ができたとき勉強が不得意で、東大医学部どころか大学進学もおぼつかないくらいだとしたら、どうしますか。それでも必死教育するでしょうし、学歴は身につけられなくても教養は教え込もうとするのではないでしょうか。「教育を受け(させ)教養をつけ(させ)る」「自分の慣れ親しんだローカル世界の外に出(させ)る」という態度の有無が本質なのです。

世代経験子供に「遺伝」する

 こうした「子供教育する」「子供を外の世界へ送り出す」意識は、もちろん親の学歴経済力で生まれる面もあるし、土地人間関係にも左右されるが、親世代の「『低学歴世界』の外を見た体験」の有無、これが決定的な差を生みます。たとえ親世代学歴教養がなく、「低学歴世界」に身を置いていても、外の世界を知って子供を送り出そうと思えば、経済大国であり、不十分ながらも支援システムがある日本でなら、可能だからです。「子供を外の世界に送り出す」というプロセス成功すれば、その家庭はそこで「低学歴世界から離脱することになります

 しかし、ここに最大の隔たりがあります。「『低学歴世界』の外を見た体験」というのは、基本的には学生時代を終えてからは体験することができず(もともと「低学歴世界」にいる人間は、そのままで大人になっても低学歴世界」に身を置いてしまます)、非常にチャンスが少ないものです。さらに、「低学歴世界」に身を置く人間が何らかの要因で「高学歴世界」との接触しても、次世代ではその世界から脱出してしまますから、そのコミュニティ全体に影響を与えることはありません。「低学歴世界」にはその世界しか見えない人だけが残っていきます。こうして、「低学歴世界」というものが強固な形で生き残っていくのだと考えています

再度、ネーミングについて

 そのような「低学歴世界」は、上記の「私のいる世界」にあるように、学歴以前の段階であるはずの中学高校ですでに生まれています。「低学歴(※)」が「低学歴世界」を作るのではなく、「低学歴世界」が「低学歴(※)」を作るのですから、本当の意味で適切な命名ではありません。「超ローカル世界」とでも言い表した方が本質を捉えていると思いますが、これでは意味が容易にわからないので、まだ「低学歴世界」の方が分かりやすい、ということでしょう。

何が問題なのか

 で、問題点ですが、そんなもの存在せず、彼らは自分たちの世界で満足してやっていきます自分たちの世界に閉じこもっていれば快適、というのは学歴社会関係なく、どこにでもあることです。そもそも、こういった「超ローカル世界」はそれこそ士農工商時代から存在したわけで、むしろ人間地縁に従って一生を終えるのがスタンダード時代もあったわけですから、問題などもとから存在しないのです。

 では、なぜ今このように話題になっているかというと、社会全体の形が変化したために、「低学歴世界」を脱して「中/高学歴世界」に移り、そこで「カルチャーショック」を受ける人がいる、ということが要因として挙げられるでしょう。もちろんこんな現象は100年前からあったはずですが、そういった「低学歴世界から脱出した人の体験談」みたいなものインターネットにどっと表出してきて、話題になっているという側面があるのでしょう。ネットでは「同窓会コピペ」なんてもの流行ったりしていますが、地方で育って高学歴を得た人の視点から見る「同窓会」というのは、まさに「低学歴世界の再発見」と呼んでいいだろう、と思うのです。

 もうひとつの原因は、やはりインターネット技術によって、そういった世界を外から垣間見ることのできる人が増えてきた、ということです。彼らが冷蔵庫に入ったり、商品の肉を咥えたりするなんて現象は、たぶん昔からあったはずです。彼ら「低学歴世界」の文化ではそういうことは普通であって、問題ないわけですが、それが「外の世界」の常識合致しないものですから、何て連中だ、と言われて「炎上」する。ただ、上の記事にもありますが、彼らは外の世界に対して無関心ですから、「ちょっとふざけたらバレて怒られた」としか思いません。実際、地元に帰れば「この前○○が商品の肉をかっぱらって食ってたらバレてクビになったらしい」くらいの話は地元同級生から聞くことができると思います。このように、本来は閉ざされた存在であった「低学歴世界」が、主に情報通信技術存在で外に姿を現すようになって驚かれている、というのが昨今の現状ではないか、と思うのです。

どうやって解決(?)するか

 先に書いたように、この「世界」はそれ自体問題なく機能しているのですから果たして何らかの手段をとる必要があるのか、ということから考えなければなりません。こちらから見ておかしいからといって、自分たちが正しいと思う世界観を押しつけるのはただの傲慢でしょう。しかし、そういった「低学歴世界」もとい「超ローカル世界」が巨大な世界として存在することが、社会全体にとって不利益であり、その世界を縮小していくことが当人達にとっても全体にとっても有益だと感じられるならば、ゆるやかに解決を目指す必要がありまますしかし、これは新しい問題ではなく昔から連綿と続いてきた社会形態ひとつに過ぎないので、「低学歴世界」がなくなる、なんてことはまずありえないでしょう。

 どうやって対処するか、ということを考え出すと、まだまだ長くなってしまいそうなので、この辺で終わりにしたいと思います。お疲れさまでした。

まとめ

・「低学歴世界」は、小中高時代共同体で一生を過ごす人の集まり、「超ローカル世界である

・その世界の住人には、「外の世界に出て行こうという意識」と「教育に対する関心」が不足している

・いま問題になっているのは、それ自体ではなく外の世界との交流が原因

・彼ら自身は問題を抱えておらず、「低学歴世界」は健全に運営されている

2011-02-16

(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」

つい先日、卒業研究を終えました。この日記は後輩やこれから卒業研究を自由に決められる人のためになればいいな、程度に書きました

私は卒研テーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せしたですので、後輩にもぜひ好きなテーマ卒研をして欲しいと思っていました

私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいましたしかし、後輩に「今の自分研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました

どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした

そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOwikipedia考察いかに素晴らしかたか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO - wikipedia ((http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9E%9C%E3%81%A6%E3%81%A7%E6%81%8B%E3%82%92%E5%94%84%E3%81%86%E5%B0%91%E5%A5%B3YU-NO&oldid=28528480))

また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです

CiNii 論文 -  マルチシナリオゲームにおける並列世界モデル ((http://ci.nii.ac.jp/naid/110002942865))

これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)

他にもネットを探すとユニークテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります

卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです

しかに、「好きだからテーマしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。

学生のあり方について、素晴らしい文章があります

修士論文の代わりに退学願を提出してきた - As a Futurist... ((http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733))

=====以上が、今回の日記意図です

もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。

論文とは「問い」です。一般的に論文テーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。

ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなラノベが好きか」ということになるのでしょうか?

これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。

「「好き」は理性ではなエモーショナル部分依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」

無趣味のすすめ - 情報考学 Passion For The Future ((http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1021.html))

つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです

そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです

さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義ですが、混沌としているようですね。

青少年を対象にした娯楽小説

程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性20~30代)でしょうから。(成人男性青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)

また、文学物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念引用することが結果を導く前から既に必要となります

例えば、物語的に観れば大塚英志提唱した物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。

れとろげーむまにあ: アドベンチャーゲームを振り返って思ったこと((http://nesgbgg.seesaa.net/article/185700949.html))

ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。

また、純文学の外に広がるキャラ萌え世界について詳しい

オタクたちのメンタリティには、教養主義文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。

東浩紀動物化するポストモダン|FRAMES INTERVIEW ((http://moura.jp/frames/interview/070423/03.html))

ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワードカテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。

ところで、先ほどラノベ定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義文学に「SF」がありますね。

サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました

ここで一つのSF批評を紹介します。

小谷真理の『女性無意識』に対する松岡批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。

最初ハーバード大学フェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノイネシスはそれにもとづいて提案した概念で、

父権的な社会蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。

長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動セクハラ問題が噴出してきた。

では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性無意識を象徴するガイネシスになるのではないかと見た。

(中略)著者はこんな出だしで手をゆるめない。次から次へとバウンダリートランスグレッション(境界侵犯)を見せつけた。

また、女性SFに関してこういう考察もなされています。

それにしてもいつのまに、女性こそが文学可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。

まずはエレイン・ショーターが父権文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリーシェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した

(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。

しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。

松岡正剛の千夜千冊『女性無意識小谷真理 (( http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0783.html ))

ということで、ここでは「外部の他者」たる女性文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとはないのではないでしょうか?

では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます

そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は

「【デリダとは】仏哲学者20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」

ツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))

デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要はないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)

ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。

女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである

女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性本質存在せず」、「女性の真理は存在しない」。

女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分存在しないということを知っているということである)。

実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニスト女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)

ニーチェの『善悪彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。

真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。

そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか

デリダ女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした

つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。

(知の教科書 デリダ 著者 林好雄 廣瀬浩司

見事にややこしいこの解釈から女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。

ニーチェ芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。

つまり、オタク男性)にとって、ラノベとは

女性という存在外部性とを遊戯的につなげている文学メディア媒介装置

であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)

十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレート表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる

オタクが豚になった――「萌えるからブヒる」へ - シロクマの屑籠(汎適所属) ((http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110215/p1))

という指摘もあります

例えば、オタクにとっての現実における外部性インターネットがあります

オタク男性であろうツイッターユーザーアイコンが、イラストアニメ美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性無意識に象徴しているのではないでしょうか。

また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユング提唱したアニマ(男性女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。

このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性

先程のツイッターイラストアニメ美少女アイコン無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?

以上より「ラノベ読者はなラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです

ラノベ本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?

私はそのことについて考える限り、とても意義ある研究だと断言できると思っています。

2009-01-11

DENPAはオタクディズニーランド

DENPA!!!はクラブイベントではなく、オタク的な記号と想像力に支えられたディズニーランドでしかないと思う。もしDENPAが動物化典型的フロア進化なら同時多発的に同じようにクラブイベントでもこうした現象が起こっているはずではないだろうかと思うんだけれども、起こっていないし起こりそうもない気がする。

実際に他のJ-COREイベントに足を運んでみた経験から、メガピアにしても舞台アーティストがいて旧来のオタ芸を打つという空間と変わりがなかった気がするし、小さなJ-COREイベントではJ-COREファンによる普通クラブイベントだった記憶がある。そんな中でDENPA!!!は明らかに特殊な空間を演出していたのと同時に、物凄く閉じられた空間であったようにも記憶している

想像してみて野外レイヴのようにDENPAが野外で行われる事は想像できない。シミュラークルの力は弱まるからね。それをクラブとして新しいといえるのだろうか?

確かに、それをクラブという形に持ってきて新しいイベントにしたのは非常に面白いと思うし、これからも一定の人気を獲得していくだろうと思う。ディズニーというキーワードを元に大人から子供まで楽しめる子供の楽園を作ったディズニーランドのように、オタクというキーワードを元にオサレだろうとオタクだろうと、違和感を感じなければ楽しめる楽園をDENPA!!!という空間が作っただけに過ぎない

ライトオタクっていうのは大の大人でもディズニーランドへ行って騒いでミッキー大好きとかいえるようなものと似てるよね

http://anond.hatelabo.jp/20081231121833

削除された記事を復活させた

2008-06-20

シミュラークルを批判する人に限って「それっぽさ」をまとったシミュラークルには簡単に騙される。

2007-02-10

増田でとある物語が書かれたとして

その物語と同じ世界観の別の作品が出てきたら同人どころじゃないシミュラークルだよね。最初の作品を書いた人の続編なのか、違う人が書いたものなのかなんてわかりはしないんだから。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん