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はてなキーワード: コペルニクス的転回とは

2023-12-14

どの職場でも人間関係でトラブって3年くらいで辞めることになる。

と思っていたが

3年くらいごとに冬季鬱っぽくなって仕事休みがちになっていることに気がついた。

今の職場は9割リモートな上に超絶ホワイトなせいか体調不良で半休頻発でも文句を言ってくる人がいない。

にもかかわらず、出社して隣や向かいに人がいる環境だと、みんなが自分イライラしていて、いなくなって欲しいと思っているのではないか、と考えてしまう。

ついでに、眠いだけかと思ってたら、謎のむくみとか急な体重増加とか突発的な低血糖症状とか怒りやすくて不機嫌になりやすいとかも出ていた。

人間関係トラブル根本原因で辞めてると思っていたが、そうじゃなくて、身体のどこかがおかしくて思考力も落ちて無駄に悲観的で、その結果職場の人当たりにもミスが出て、体調悪いし頭回らないしの結果もういいや辞めちゃえと早計な判断をしちゃってたんだろうか。

コペルニクス的転回というやつで、だとしたら大変びっくりなのだが、

それはそれとしてこの寝付けないのに寝ると起きられないの…というかこの諸々の不定愁訴はどうしたら治るんだ???

2023-04-25

友達いない異常独身キモオタクだけどなんとなく結婚はしたいなーって思ってたんだけどさ

ある日泥酔してるときに「友達付き合いでさえ全部投げ出したのにそれより煩わしいであろう恋愛なんかどうせ長続きするわけなくねぇ?」ってふと気付いてから嘘のように結婚願望が消え去った

これが俗に言うコペルニクス的転回ってやつかねぇ

2023-04-09

お笑いが右に行っているということは別にないがそれはそれとして右の言説のほうが面白い

なぜ「お笑い」は右へ行くのか

https://anond.hatelabo.jp/20230408014727

これに関しては自分にも「たぶんこうなんじゃないかな」という予想はあるが、この増田とはわりと根本的と言っていいところから認識に違いがありブコメに収め切るのはしんどいので増田に書く。

まず第一に、お笑いが右に行っているという認識自体疑問符が付く。実際、吉本維新距離がかなり近い(元増田では吉本自民党とべったりと書かれているが、これは自民党内でも特に維新に近しい安倍晋三菅義偉トップだったゆえにそう見えただけで、直接距離が近いのは自民ではなく維新だろう)ものの、これに関しては右と左で語るよりも大阪東京で語ったほうがいいように思える。要するに、維新は「大阪」というアイデンティティに訴えることで大阪において盤石の支持基盤を獲得しているし、大阪吉本芸人たちもこの大阪アイデンティティ呼応している。

対して、この大阪アイデンティティを離れてもお笑い界全体が右傾化しているのかというと、自分感覚としては別にそんなことはないんじゃないかと感じている。そもそも大半の芸人炎上リスクのある政治的話題に首を突っ込みたがらないし、元増田ブコメでいくつも指摘があったように左派立場を表明している芸人複数存在する。ほんこん積極的右派発言を繰り返すのが他の芸人から強く支持されているという様子もあまり見られない(むしろ白眼視されている感すらある)。

ではなぜお笑いが右に行っているという認識が発生するのか。ひとつには前述した吉本維新距離の近さがあると考えられる。別の理由としては自分と全く違う意見は印象に残りやすいというのも挙げられる。なぜお笑いは右へ行くのかという疑問を呈したのは坂本龍一だが、左派である坂本龍一からすると芸人左派発言をしていてもまるで気にならないが、芸人右派発言は強く印象に残ったのではないか右派発言をしたのが松本人志のようなお笑い界の代表的人物場合、実際のお笑い界全体の傾向とは関係なく全体が右に寄っているように見えてしまうというのもあるかもしれない。

ただ、ここまで書いておいてなんだが、お笑いが全く右に行っていないかというとそうでもないかもなとは思っている。正確には、お笑いが抱える本質的特徴ゆえに特別お笑いが右に行っているということはないだろうとは思っているものの、世間並みに右に行ってはいるだろうなとは思っている。

元々ノンポリや無関心層だったのにあっという間に右に行ってしまうことが近年多く観察されるケースが存在する。それは、定年退職等で時間に余裕ができた結果インターネットに触れる時間が増えた高齢者であるYoutubeオススメされる中から興味を引く動画を辿っていくと、やがて虎ノ門ニュースやその他ネトウヨ向け動画に行き着く。そして、免疫のない高齢者はどっぷりとハマってしまう。

当然お笑い界にも同じようにネトウヨにハマる人物は出てくる。その代表例がほんこんなのだろう。

ここで疑問として浮上するのが、なぜネット政治にハマると決まってネトウヨになりがちなのかということだ。なぜYoutube政治動画まとめブログ政治エントリネトウヨ向けばかりなのかに言い換えてもいい。

自分はこれを面白さの差だと考えている。左の言説はつまらない。対して右の言説は面白い。

元増田に「文化価値観道徳の面では左派が強くなっており権力者であるとあるが、権力という言葉の使い方が比喩的すぎるという点を除けばそう外した認識ではないだろう。現代の(国際)社会平和自由平等人権、といった普遍的価値尊重する方向性へと進歩を遂げてきた。だから今では奴隷制否定されるし、女性貧乏人にも当然に選挙権があるのである。我々が部外者であるにも関わらずロシアウクライナ侵攻や中国ウイグルチベットといった少数民族への迫害非難できるのも現代社会普遍的価値尊重するからだ。もしもその前提がなければ、中国少数民族迫害の件であれこれ言うのは内政干渉ということになってしまう。

一時的な揺り戻しこそあれど一貫して普遍的価値尊重する方向へと進歩を遂げてきたのが人類歴史であり、そして普遍的価値尊重を中核的価値観とするのが左派である。そうなるとどうなるか。左派の言説はただの常識的なお説教になってしまうのだ。

社会立場の高いところ、つまり大新聞地上波テレビなどの既存マスコミであれば常識的であることはむしろ好ましい。しかし、とにかくネット再生数や閲覧数を稼ぐということを目指す上では、つまらないものゴミだ。

その点、右派というかネトウヨの言説は素晴らしい。

よく小説宣伝文句に「最後にすべてがひっくり返る」だのなんだのといったものがあるが、ネトウヨ言説にはコペルニクス的転回というかパラダイムシフトというか、そういった類の面白さに満ちている。

例えば、「これまでの常識日本太平洋戦争朝鮮半島侵略した加害者である」に対して「真実韓国捏造された被害解決済み問題蒸し返し続けて日本たかっている」が提示されるというのは、従来の加害ー被害関係性が正反対に逆転するものであり、目が覚めるような面白さがある。自分子どもの頃オカルト番組の「実はアポロは月に行っていない!」という内容を見てワクワク心躍らせていたが、それに通ずるものがあると言っていいだろう。

しかもこれは単に面白いだけではない。ネトウヨ言説においてほぼ必ず語られるのが既存マスコミ教科書教師への批判だ。ネトウヨにハマれば、「世間の連中はマスコミ教科書洗脳されて間違った常識を信じ込んでいるが、自分真実を知っている」という圧倒的情報強者感覚を得ることができるのだ。これは実に気持ちがいい。専門家アカウント突撃して「もっと勉強してください」とか言ってしまえるほどのものすごい自己肯定感を得られる。

左派言説だと「マイノリティは困っていてマジョリティ配慮すべき」というマジョリティとしてはいささか居心地の悪い認識が語られるのに対し、ネトウヨ言説なら上記のひっくり返しを発動して「マイノリティマイノリティ特権をゴリ押ししてくるのでマジョリティである我々はそれに抵抗しなければならない」という具合にむしろマジョリティこそが被害であると言ってくれるというのもいい。自分加害者側にいるように言われるよりも被害者側にいるように言われた方が誰だって気分がいい。

以上のように、ネトウヨ言説は面白いし気持ちいい。対して左派言説はつまらないし自分が責められてるような居心地の悪さすらある。

インターネットという、正しさや妥当さという基準がまともに機能せず、どれだけ多くの人間に受け入れられたかという数字こそが重要な真に「民主的」な空間において、どちらがより良いものなのかは火を見るより明らかであろう。

なので、インターネット大衆化した現代において世間はいくらか右に行くし、お笑い界の芸人たちも特別人間ではなく世間のひとりひとりである以上、お笑いいくらか右に行くことになる。

お笑いとはこういうものからお笑いは右に行くんだ!」というふうに考えるよりも、このように考えた方が実態に近いのではないかなと自分は考えている。

2023-02-18

anond:20230218014022

個人的にはすごい、名言だこれ

コペルニクス的転回というべきかコロンブスの卵というべきか

人生を変えてく決心が湧いてきたわ

もっと早く知りたかった

2022-12-29

anond:20221229013641

なるほど、巨乳女性自身が「こんなの脂肪の塊だよ」って言ってるのと同じことがまさに俺の腹で起きていたのか…何というコペルニクス的転回…。

後半はおじさん構文のミラーリングなのかなと思ったけど不思議と全く不快ではないから妙だ。

2022-10-19

ヴィンテージジーンズ価値がわからない

色落ちやダメージがあると価値が上がるの?

俺にとっちゃそういうのはもう着られないから捨てる服なのだが、これに価値を付けたとしたらコペルニクス的転回って奴だな。

2022-07-28

anond:20220727133448

ピーピーティーピーピーシーツーとか覚えにくい名前だなあと思ってたがポプテピピックだったのか。

すべてがつながった。これがコペルニクス的転回って奴か!

2022-03-12

anond:20220311180824

話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生ノートをもとにソシュール一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。

話の論旨に関係ないんだけど、こういうことって著作権的にはどうなるんだろう

特に今とかオンライン授業の関係ノートデジタル的に書き留めてあるし、

タイピングから手書きよりも早くてかなり抜けが少なくなってる状態から勝手出版とか学生ができなくなさそうに思えるんだよな

2022-03-11

公式勝手に言ってるだけ」からはじめる文学理論半世紀

最近二次元に魂を奪われ二次創作萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。

歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである構造主義の話はしません)。

すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに本稿は、加藤典洋テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。

さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石作品批評する、ということは「それを書いた当時の夏目漱石思考に限りなく接近する」ということとほぼイコールであった。平たく言えば「作者の気持ちを考える」ことが批評家の仕事であった。友人の噂話やら本人の秘蔵のメモ書きやら、ちょっと引くくらいの何もかもを動員して「唯一の答え」=「漱石意図」に接近しようとした。

これは当時に特異な現象ではなく、それまで人間と「ことば」の関係は大体においてそんな感じであった。人類史上のベストセラーである聖書の読み解かれ方を考えてみればわかるだろう。聖書には○○と書いてあるが、これは当時の××という慣習を踏まえなければ正しく読み解けず、「正しい教え」は△△せよ、という意味になる、という研究は数限りなくされてきたし、今も続いている。

聖書にせよ漱石にせよ、ここでイメージされているのは「正解」というもの(難しく言いなおせば「真理」といってもよい)が遠くにあり、我々は「ことば」というヒントでありフィルターでもあるものを通してそこに接近していく、という構図である

これは我々の日常的な「ことば」の使用から考えてもごく自然なことだ。たとえば日本語話者あなたが「八百屋さんの隣にあるポスト手紙を入れてきて」と日本語話者である子供に頼んだとき、その場で子供八百屋と反対方向に歩き出したら、あるいはその場で手紙を破いて食べ始めたら、あなたは「言葉の正しい意味」「子供がたどり着くべきだった正解」についてこんこんとお説教をすることになるだろう。

これまでの「公式」に対するオタクの態度もまた、まさしくここに連なるものと考えてよいと思う。たとえば「エヴァ世界公式に起きたこと」にアニメ劇場版を通してよりよく接近していこうとする、というのは聖書研究者の態度そのものである(ちなみに「公式」とファンダム関係をもってしてオタク文化を特異なものとする東浩紀データベース消費」などの理論もありますが、例も反例もいくらでも出てくる類の話なのでここでは触れません)。

話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生ノートをもとにソシュール一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。

聖書漱石研究など、ソシュール以前は「世界言葉を作った」とされてきた。されてきた、というか、それ以外の考え方が無かった。わたしたちが「あの赤くて木になってかじると甘いやつ」に「りんご」と名付けたのであって、「りんご」という言葉がまずあって「あの赤いやつ」が後からついてきたわけではない(全くの余談だがりんごと机はこのジャンル議論酷使されすぎだと思う)。

それに対して、「言葉世界を作った」と主張するのがソシュールを祖とする「言語論的転回であるソシュールが言ったのはあくま言語の話で「あの赤いやつと『ri-n-go』の結びつきって別に絶対的じゃなくて、appleとかpommeとか見ればわかるけどたまたまだよね」という程度のことではあった。しかしそれは十分に革命であった。あまり革命的だったために世界が驚くまでに半世紀を要し(講義1900年代はじめだった)、さらに半世紀経った今ようやく振り返りがなされつつある。本稿で扱うのは、世界が気づいてから文学理論最近半世紀である

それまでの哲学世界観と言ってもよい)においては、言語研鑽によって「正解」「真理」にたどり着けると思われていた。しかし「たまたまのものいくら研ぎ澄ませたところでその高みに至る日がくるものだろうか?

よく言われるように、日本人は虹を7色で数えるが、外国人は5色で数える。この差の2色というものは本当に「ある」のだろうか?といった問題一見トリビアルで退屈なものである。だがさらに進めて、そもそも日本人」というものは「日本人」という言葉よりも前から「あった」のか?と問うと大昔の言語学講義がいまなお強烈に突き刺さってくる。

これは今日でも大問題ではあるが、半世紀前の文学研究にとっても大問題であった。確かに、それまでも言語というものがそんなに主人に忠実でないメッセンジャーであることは知られていた。しか言語論的転回は、メッセンジャーこそが主人である、としてしまったのである。その理由は以下のように明快である。我々は言語の向こうの対象(「真理」)に近づこうとしてきた。しかソシュールいわく言語対象の結びつきは「たまたまである。我々が触れることが出来るのは言語のみである。ならば、「たまたま」で検証不能な真理などというものを求めるのではなく、言語言語として我々に何を訴えかけてくるのかこそをガクジュツテキにケンキューすべきである!と。

冗談のような本当の話なのだが、ここ半世紀、世界中の文学研究者はこぞって「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」と言い続けてきた。専門用語でこれを「テクスト論」における「作者の死」という。本当にそういう専門用語がある。

もはや書きぶりから嫌いと蔑視がにじみ出てしまっているが、しかしこの半世紀くらい、この潮流は世界中の識者におけるブームないし真理とされつづけ、最近になってようやく揺り戻しがきている。

二次豚でも簡単にわかることだが、これを言い始めると「公式見解」が意味を成さなくなり、要するにきりがなくなる。しかしこれはある意味正当なことでもある。「全ての『公式見解』が正しいか」と問われれば、とくに今日であれば即座にNOと答えることができる。なぜならもはや「公式」と呼ばれる以上はもはや庵野富野といった個人ではなく、分業化された組織であるからして、そこには作品世界という真理からの誤差、ノイズエラーが当然のものとして含まれうる。最も軽薄でありがちな事例として、公式Twitter担当者調子に乗って後に撤回する、という事例を挙げておけば十分だろう。

しかし、かつてのテクスト論者たちが正当にも考えたように、庵野富野すなわち「作者」個人だってべつに無謬ではありえない。すなわち彼らとて(限りなく比喩としての意味合いが薄くそのままの意味での)「神」ではないのだから、それを絶対視する必要は無くなる。むしろ作品」は1文字、1フレームに至るまで確固たるものとして存在するのだから、そちらから何を導けるかが重要である、とテキスト論者は考えた。さらには一歩進んで、「作品から導かれたわたし感情」が重要だと考える「読者反応理論」というものも生まれた。

上で「きりがなくなる」と書いたが「何でもありになる」とは微妙に異なることに注意されたい。これまで「訴えかけてくる」「意味する」「導く」などとこっそりごまかして書いてきた部分についても、文学研究者は鋭くメスを入れた。すなわち形式としての言語がなにを「意味する」(またこ言葉を使ってしまった!)かについて、激しい議論が戦わされた。つまり、「シャミ子が悪いんだよ」は「原作アニメで言ってないだけで実際は言ってる」という解釈はまあアリだが、「桃が悪いんだよ」は「言ってないし実際言ってない」という我々の直観いか正当化するかについて、涙ぐましい努力が続けられた。

しかしそうした努力にもかかわらず、論理学数学(それぞれ「たまたま」じゃない言語として期待されていた)が発達した結果、クレタ人のパラドクスやらゲーデル不完全性定理やらでそこまで簡単ではないことがわかってきた(ここでは「簡単ではない」と注意深く言ったが、知ったかぶりで「数学は不完全だと証明されたよね」と言うと凄まじく怒られるので注意)。

かくして文学研究者らはそうした論理的数学理論縦横無尽闊達自在引用した結果、文学の「正解」を「何でもあり」にした。現在蔑称として使われる「ポストモダン」という思想潮流は、大体この辺のことを指していると思う。

しかし、文学の「正解」が「何でもあり」であっていいものだろうか。蔑称とか揺り戻しなどと何度か言っているように、今日文学理論は素朴な「作者の死」論には与せず、いくらかの距離を取っていることが多い(『テクストから遠く離れて』はまさしくそうした書物である)。しかし昔と違って「神」のことばこそが「正解」であるとも考えない。そもそも「正解」があるのかどうかもわかってはいない。いまの研究者は、グラデーションの中のどこかに自分場所を見いだそうと必死になっているのだと思う。

から、「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」と2022年に言っている人がいても、笑おうとは思わない。「彼/彼女はこう思う、と私は思う」という感情想像力こそ、人間発明した最も大きな発明であり、誰しもまだそれを持て余しているのだから

 

最後

これを書いた人(@k_the_p)は無職で、仕事を探していますPythonとかほんの少しできますよろしくお願いいたします。

2022-01-23

[] そのひゃくはちじゅうろく

コペルニクーッス

 

日曜作業お疲れ様です。

地動説を唱えて処刑されたことで有名な人ですね。

私としては、卵の殻を少し割って「ほら、卵が立ったでしょ」って言う屁理屈おじさんという認識です。

とはいえ現場作業を続けていると、ルーチンワークにとらわれて肝心の目標達成はおざなりになるってことはままある事です。

目標は何なのか?それに対してどのような手段をとれるのか?ってことを突き詰めて考えると、屁理屈というレッテル張りは頑固者の言い訳かもしれませんね。

私も毎日朝礼を続けている頑固者なので、コペルニクス的転回のごとき柔軟な思考見習いたいものです。

 

ということで本日は【発想の転換いか】でいきたいと思います

発想の転換いか発想の転換ヨシ!

 

それでは今日も一日、ご安全に!

2020-07-21

追記オタク人格が手術で変わった

追記

コメ色々ありがとう。そういえば手術では大量輸血が必要だったのだがそれで人格が入れ替わったのか…。

よく臓器移植ドナー記憶が、みたいなオカルト話があるけどあながち間違いではない…のか?

推しは本当に急に変わったので加齢ではないとは思う。

変わった人格でも楽しく生きてるよ。

あと、そもそもオタク治療するために手術した訳ではないからね!オタクは治る病気ではありません。



5年前、ある病気入院しそこそこの規模の手術を受けた。産まれて初めての全身麻酔、そこから目覚めて入院生活リハビリをしているうちに色々なもの自分の中で変わっていったので記録しておく。

推しキャラの傾向の変化


まず前提として私はオタクなのだが、推しの傾向が180度変わった。急に。

それこそ小学生くらいから「黒髪・太眉・熱血主人公キャラ」なら無条件に好きになっていたものだったが、術後どうも食指が動かなくなったように思う。代わりに「金髪or銀髪中性的・どっちかというと敵役」に急激にシフトチェンジしていった。コペルニクス的転回ってこういうこと?多分違うな。残念ながら頭の出来は変わらなかったらしい。

Twitterアカウントも変えた。友人からジャンルで何か嫌なことでもあったのか、と心配されたが「手術を受けたら推しキャラが変わったんだよね〜」とは口が裂けても言えないのでなんとなくね、でお茶を濁した。正直に話したところで今度は頭の心配をされかねないので…。

漫画ばかり読んでいたがこれ以降ゲームも出来るようになった。

読書傾向


術後のリハビリは「痛い・グロい・怖い」の三拍子だったが、詳しい内容は気分を悪くする可能性が多分にあるので割愛する。

病気をする前の私は所謂リョナ物が何より好きだったのだが、自分が実際痛い目にあってから全く読めなくなった。

今は多少は平気になったので楽しく購読している。嫌いになったというよりは読んでいて「イテテテテ!!」と当時の痛みを思い出してしまうからだったろう。好みが変わったからといって否定する気は全くなく、一つのフェチに特化した読み物は今でも良いものだと思う。

入院生活の間で実際に死や痛みと闘う患者さんや、それを懸命にケアする医療スタッフの方達を間近でずっと見ていたことも影響を受けたように思う。

それに以前の私はとにかく尖ったサブカル系ばかり読んでいた。流行り物なんてクソだと思っていた。

今では尖ったもの面白く読むが、流行り物も積極的に読んでいる。面白いか流行るんだよね…。

嗜好が変化したというか、受け入れる世界が広がった。

これは病気と一緒に中二病が治ったということになるのだろうか?

服装・その他生活


元気な頃はとにかく体系は細ければ細いほど美しいことに取り憑かれていた。ロリータファッションに傾倒し、毎月結構金額が飛んでいった。軽自動車くらいなら一括で買えるくらいだっただろうが、可愛いものに囲まれ生活は本当に幸せだった。

今にしてみるとまるで他人のことのように思えるのだ。今通う店、GU。そんぐらい。バッグや靴はちょっといい物を買って、あとは周りに浮かない程度にトレンドを追い、ファストファッションを季節ごとに使い回す。

ロリータや裏原系は見るのは未だに大好きだがもう二度と袖を通すことはないだろう。これは加齢や太ったこともあるのかな。「ロリータはまず精神から!」という風潮があるが、精神がガラッと変わってしまったのが一番大きいかもしれない。

ロリータを着始めた切っ掛けにはまず私が熱狂的なバンギャルだったという事もある。

ヴィジュアル系は今でも聴く。これもやはり読書傾向と同じで、以前好きだったものも変わらず好きだが世界が広がりジャニーズ坂道系やEXILE系も好んで聴くようになった。アイドルソングガチガチのその道のプロが創ってプロモーションしている訳で、いい曲なのは当たり前なのである

アニメグッズなんかもそれ程買わなくなった。代わりに画集フィギュア一期一会なので買ってしまうが。

もし、5年前にタイムスリップが出来て、当時の私に「私は未来貴女なんだよ」と告げたら、泡を吹いて倒れるだろう。精神的に脆い人だったので、世を儚んで命を絶ってしまうかもしれない。

からタイムマシンが出来ても私はきっと使わないだろう。当時の私は、本当に幸せで、毎日楽しく過ごしていた。

今の私も、本当に幸せに楽しく気楽に生きている。GUの服を着て、流行りのギャグ漫画を読んで、たまにヴィジュアル系を聞きながら。

書きながら気になったのだが、もしかして知らないうちに臨死体験というものでもしたのだろうか?

とりあえず上記を50倍ほどに希釈した内容を長年の友人に話したら帰って着た言葉が、

麻酔で寝てる間に脳みそいじられたんじゃねえの?」

その発想は、なかったな…

2020-06-01

anond:20200601052950

しかし我々は同時に

東アジア人は少年的、中性的であることに魅力を感じ進化してきたことを知っている

東アジア進化の頂点にいるのは50代になっても少年のような顔をしたジャニーズであり、

化粧をして女性のような色気を振りまく韓流アイドルなのだ

その方向性ではハゲ散らかした中年男性ヒエラルキーの最下層に位置する

少年的魅力、中性的魅力とハゲはどちらも致命的に相性が悪いかである

かつて月代を剃ることが最先端だったような価値観コペルニクス的転回を起こすにはどうすればいいのか

2020-05-01

コロナ劇薬

コロナのおかげで社会既得権益旧態依然な既成構造

長年放置されていた社会問題にメスが入りつつある。

この程度じゃ変わらねえよ、って声も

聞こえてきそうだが、少なくとも俺の周りでは

半年前には想像もつかないレベル革命的な

刷新が日夜、色々と行われている。

言うまでもなくテレワークはその筆頭だよ。

コペルニクス的転回パラダイムシフト

ターニングポイント、まあ、言い方は

なんでもいいんだけど、そんな感じだ。

ここが日本社会分岐点になることは間違いないね

それも良い方向に進むと思ってるよ。

シンゴジラで出てきたスクラップアンドビルドだ。

2020-02-06

左翼が歳をとった結果保守化して表現の抑圧者になった。

宇崎ちゃんキモーいとかい若者は少ない。

その逆に萌えキャラは恥ずかしいとかいうのは高齢者に多い。

https://togetter.com/li/1428634

これは残念ながら事実である

要するに年寄りが騒いでるんだよね。

「こんなソシャゲダメだ」

とか

「こんなキャラ有害だ」

とか、30代超えた左翼系も言いだしたんだけれど、要するに年寄りになったんだよね。

昔は表現の自由を守るぞーと戦ってた論客の多くも転向し、エロゲアイコンブイブイ言わせてた極左先生も、なんだかんだいいながら表現規制鞍替えした。

あれって、「左翼価値観コペルニクス的転回が起きた」んじゃなくて、単に年寄りになっただけなんだよね。

かつては散々でたらめな放言しまくり、やりたい放題書いた石原慎太郎ですら、歳を取ったら「こんな俗悪漫画規制しろ」と規制派に鞍替えした。

いまの左翼も要するに「歳をとった」んだよ。

じじいになったから「萌えとかゲームとかを規制しよう」と本能的に思う年齢になった。

人間は老化すると保守化する。

なんかいろいろ言ってるけれども、実際の規制理由は「老化」だ。

いまは勇ましい表現の自由戦士も、これから先、次々と、規制派に鞍替えすると思ってる。

歳をとってから表現の自由派に転向した奴は、表現の自由規制派に転向した奴よりも少ないのは、そういう理由だ。

から、今後、高齢化社会ますます進むが、表現の自由規制派に有利になると思う。

2019-12-19

親が苦手だ

私は実の母親が苦手だ。

凪のお暇に出てくる母親に似てる。

理想押し付けてくる感じ。

あれよりはもう少しこっちに媚びてくるし金はあるけど。

でも思う、私が田舎に残ってたら多分こんなに不仲にはならなかったんだろうなー、世代間で価値観コペルニクス的転回しちゃってるしなー、でも接するのはしんどいしなあー、と毎回グルグルする。

とはいえ田舎の閉鎖的空間自殺未遂をしてしまってるし、自殺をしてしまった友達を見て、正気に戻り、慌てて東京に逃げた経緯を考えると、田舎なら多分死んでたと思う。

田舎に残るという答えはなかった。

もちろん子供は欲しくないけど、子供を当たり前に欲しいと思える友人は羨ましいなぁと思う。でも間違いなく虐待する。私の母も私は虐待児だったからー、っていつも言ってたし、負の連鎖は止まらない。

2019-12-07

法学の楽しさを書くよ!!

楽しさの一つは、論理をこねくり回してるところだよ!

体系立った理論論理トレースしていくのは楽しいよ!

理路が整然とするのは面白いよね!

かつての法学者といったら、当代切っての天才秀才達だよ!

そんな人達が生涯かけて考えた理論だよ!

それを学ぶのがつまらないわけないよ!

しかしたら、それを自分が少しだけ進められるかもしれない、となったら尚更だよ!

続いて、各分野の面白さのイメージを書くよ!

まずは憲法学

70年以上改正のない「不磨の大典」だよ!

それにもかかわらず、いまだに次から次へと新たな議論が生まれるよ!

近年(?)でも、「これまでアメリカ流に解釈されてきた最高裁判例は、実はドイツ流に解釈した方が上手く説明できるのではないか」というコペルニクス的転回めいた説が有力に唱えられていたりするよ!

アメリカ流とドイツ流をミックスさせる説もあったりして、学説カオス面白いよ!

条文にあまり内容がないから、解釈自由度が極めて高いも魅力だよ!

憲法というと一般人には縁遠い存在にも思えるけど、例えば今年の司法試験憲法問題では「フェイクニュース禁止法が制定された場合憲法上の問題点」が問われたりしているよ!

次に民法学

120年ぶりの大改正来年から施行されるというアツい法令だよ!

その条文数は1000以上!

解説本が30巻近くかけて解説したりするよ!

1条1条にそれぞれ生涯をかけて研究をした学者がいると考えると途方もないよ!(注1)

日常的に行われている経済活動が法的に説明できたりするよ!

次は刑法学!

刑法学の面白さは、なんといっても緻密な論理だよ!

いくつかの基礎的な考えからあらゆる論点での解釈を導く様は、さながら数学公理系を思わせるよ!

数学ほどの論理の厳密さはないけど、そこにまた面白さがあるよ!

ピタゴラスイッチ的な犯罪を想定したりもするよ!

ちなみに、トロッコ問題の様々なバリエーションは、正当防衛緊急避難で全て結論が出せるよ!

法哲学

マイケル・サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」の世界だよ!(注2)

正義とは何か」「法とは何か」といったことを論じるよ!

法学部法科大学院を出ただけで、きちんと研究をしたわけじゃないし、資格試験のために勉強してた側面も強いけど、個人的イメージとしてはこんな感じだよ!

あとは、訴訟法もあるし、法制史学とか、比較法学、法と経済学とかも色々あるよ!

(注1)

実際は、深く研究される条文は偏ってるよ!

一方で、「こんな法律あったんだ?」ってレベルのどマイナー法律にも研究者がいたりして、法学世界の広大さを感じることがあるよ!

(注2)

同書が扱う分野は法哲学以外にも及んでいるよ!

anond:20191201042646

2019-09-13

anond:20190913204849

おまえ、自分より貧乏な奴が破産したのを見たことあるか?

それより金持ち破産したり大企業倒産したりするニュースのほうが遥かに多いやろ?

そこから金持ちのほうが破産やすい」という法則が成り立つんや。

これぞコペルニクス的転回ってやつやな。

2019-01-30

anond:20190129111135

個人的ニューアカ風味に欠けてるなーというのが不満だったので、ちょっと添削してみました。いかがでしょう?

神経医学の、医学全般への漸進的な貢献は、敬虔さという態度変更を伴わない状態では、あらかじめ(つねに/すでに)構造化されうるものではない。

医療技術分野での最新の知見により近時あらためて問題提起されたこの<貢献>という主題が、なぜ現状のようにじゅうぶんに構造化されえないのか(あるいはまたそれが如実にあらわれてしまっているか)は、だから自明ことなのではないだろうか。

今日では歴史の地層に埋もれてしまった感もあるが、19世紀末にスウェーデンからアメリカへと活動の場を移したエリファット・フォン=ハシュヴァルツという精神科医哲学者がいる(とはいえ、当時はなかば詐欺師のような扱われ方をされていたようでもあるのだが)。彼女精神分析医として働きながら哲学神学領域にまで思索の幅を広げ、まるでのちの構造主義を予見するような理論Kalmia Theory提唱している。その思想はひじょうに複雑にして晦渋きわまりないものだが、暴力的単純化すれば、神経医学においてキリスト教認識論の軛から逃れ、世界多面的・多声的にとらえる・そのための方法とでもいうものだったらしい。

倫理がなぜ神経医学において重要なのかという問題は、これもまたいっけん自明に思えるかもしれないが、実はそう簡単な話ではない。簡単な例を挙げれば、経頭蓋磁気刺激法という術式は、磁気増幅器を使用するため被験者の神経パルス信号の異常をもたらす場合がある。しかしこれを即座に危険とみなせるかどうかもまた「時と場合によって」しか決定されえないのである。そしてその場の恣意的判断によってただ闇雲に積み重ねられ溢れかえっているこうしたミクロ事象をどう扱うかという問題は、当時の精神医学界の躓きの石であった。だがある日、その状況に待ったをかけた言わばコペルニクス的転回ともいえる現象観測されたのだった。

2019-01-29

anond:20190129111135

増田本人からネタバレがされているが、全く読解できない文章ではない。

「◯◯という単語が出てきて、そこで読むのやめた」というブコメが多いが、

この手のケムに巻いた文章の読み方を伝えたいと思う。

簡単に言えば、数学のように変数として扱うことである(厳密に言えば、定数であるがそこはご愛嬌

面白いので、すこしやってみよう。

以下、増田の元の文章

神経医学における漸進的な貢献は、敬虔のない状態では決して構造化されるものではない。

 

最新医療技術によっても問題提起されたこの貢献が、なぜそれを如実に現している現状のように構造化できなくなったか自明であろう。

 

まり知られていないが、19世紀後半にエリファット=フォン=ハッシュヴァルツというスウェーデンからアメリカ移住した哲学者がいる。哲学者と言っても当時彼女詐欺師のごとく扱われていたようだが。この哲学者哲学以外にも同時に医療神学を学び、現在でいうところの構造主義の前置きとなるKalmia Theory提唱している。誤解を恐れずに言ってしまえば、神経医学においてもキリスト教史観での認識論を改めて多角的世界認識しなければいけないというものだ。

 

倫理がなぜ神経医学において重要かというのは自明に見えるかもしれないが実はそれほど自明ものではない。ひとつ例をあげると、経頭蓋磁気刺激法というもの磁気増幅器を使用するために神経パルス信号へ異常をもたらす場合がある。しかしこれが危険であるか否かというのは一般的に明瞭ではない。こうした恣意的評価に留めるだけではミクロ事象を溢れさせてしまうことになる。だがそれに待ったをかけたコペルニクス的転回を見せた事象がある。

文意を取りたいだけなら、強調のみの用語は全部取っ払って良い。よくわからない言葉変数を置く。

神経医学の貢献は、Aという状態下ではBされない。

 

神経医学の貢献は、現状のようにBできなくなった。

 

19世紀後半にCという哲学者がいる。この哲学者Cは哲学以外にもいろいろ学び、構造主義の前段階となるD理論提唱している。Cの主張は、神経医学においても、Eを改めてFしなければいけないというものだ。

 

神経医学において倫理重要であることは自明のようであるが、実はそれほど自明ものではない。(次の例示は前の文章と同内容を主張することになるはずなのですべてカットしてしまってよい)だが、それに待ったをかけたコペルニクス的転回を見せた事象がある。

このように読解すると、どうでもいい意味ありげ言葉を取り除いてしまえば、たいして論理構造が難しい文章ではないことがよくわかる。

最後の2文を読めば良い。

まり論理展開上はこの後の文章では、「Aって常識だよね!」「いや、そのAの常識を疑おうぜ」「その常識を疑う態度を疑え」という2番目から3番目に移行する(つまり、ただ一番最初の主張に戻るだけのつまらない)主張を裏付けエピソード記述されることになる。


最後までやってひとこと。

増田面白いと思ってやったのかもしれないが、こんな下手くそ文章書いてたら癖になるから気をつけたほうが良いよ

あとソーカルうんぬんと論理構造の話は別なので、よくわからない単語に引っ張られないように。

anond:20190129111135

「経頭蓋磁気刺激法」ってトレパネーションかと思ったが、Wikipediaにも項目あるくらいではあんだな。

ざっと目を通したけど、そっちにも「コペルニクス的転回」といわしめるもんはなさそうだな。

そもそもコペルニクス的転回」なんて「天地がひっくりかえるほどの大転換んんんん~~~~!!!!!」

みたいに主観的物言いだしなあ。

正直これ、引用箇所は学術的でない「断定を避けた」極めて曖昧文章だし、

元増田の問いについても、文章題として低質でしょ。何を問いたいのか意図がつかめん。

日本語読めてる?」に対して歴史的に発生した事象を調べさせる目的だとしたら、元増田自体わかってねえし。

かといって「その事象」というのがどれを具体的に指しているのか区別されていない。

キチ系文章としても味がねえし、俺すげえ系としても正鵠を射てないし。

あいいや、どうせこの元増田はそう伸びねえだろうしね。

anond:20190129151238

普通に読んで、この続きにコペルニクス的転回を見せた事象説明が来るのだろうと思った

から引用の中には事象説明はないと

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