はてなキーワード: ケアとは
きれいな顔立ちをしていて、受け答えもしっかり。
ただとにかく体臭がきつい。
あの生っぽい臭いは、おそらく制汗スプレーなんかも使ってないんじゃないかと思う。
気温が上質するにつれ、臭いもきつくなってくる。
職場のおじさんから『女の子の臭いって指摘したらまずいよね?』と相談も受けた。
私が特別過敏なわけではなかった。
みんな気づいているのだ。
女性では私がいちばんの年配者ではあるものの、ひとり職種が違うため学生を指導するような立場にはない。
ただ指摘するとすればおじさんたちよりは私からのほうが、彼女のダメージも少ないのかもしれない。
でも言えないよ。
無理無理。
彼女の近くでは鼻の息を止めるようにすれば良いのだし。
ただこれから先、いつか彼女がそのことで傷つきやしないかと勝手な心配をしてしまう。
みんなこんなときどうしてるの?
これねぇ、その友人が部下と結婚する前は、元増田がその友人に対して「金稼いでますマウント」「女も自分で稼ぐ時代マウント」をナチュラルにかましててそれを友人はうざがっていたんだよ。
で、稼いでる男と結婚して養ってもらえる立場になれたからこれ幸いと今度は友人が元増田に対して「金持ってる男と結婚できたマウント」を取るようになったんだよ。
で、そんな友人をうざったく思った元増田は「その男は私の部下マウント」「紹介してやったのは私マウント」を取るようになったわけだ。
で、友人は負けじと「男の金で生活できない女は負け組マウント」で元増田をやりこめようとしてるわけ。
で、元増田はそんな友人の考え方を「生活を他人の稼ぎに依存するのはヤバいでしょマウント」で反撃してるのが現在の戦況。
で、元増田は「私は部下の評価を悪くしたり、干していくのも可能な立場なんだよマウント」を隠し球として持っていることで精神的安定を保とうとしているわけだ。
で、元増田がこんな精神安定剤を欲するのは友人が後々「女は結婚、出産してなんぼマウント」「専業主婦だから子供に対するきめ細かいケアができるマウント」をかましてくるのが目に見えているから。ここが元増田のアキレス腱。
で、友人がそういうマウントかましてきたら満を持して「お前の夫の生殺与奪権を握っているのは私だよマウント」で切り返そうとしてるのよ。
で、友人の出方(「女の幸せは結婚、出産、子育てにあるのよマウント」「それができない女は負け組マウント」など)によっては実際に部下の評価を下げて給料もカットしてしまって「あらら、おたくの旦那さん大丈夫?マウント」「パートに出るしかないわねマウント」を発動しようとしてるわけ。
自尊心とか、自己肯定感とか、そういったものをできる限り破壊し続けることで、せめてAさんまでの悪化は防ぐことができると祈っている。
少なくとも、もし自分にまだ自尊心とかがまともに残っていたのなら、Aさんのようになっていたとしか思えない。別に、Aさんのようになっていないから自分が生きていていいとは特段考えられないし、自分が他人に迷惑をかけていないだなとと口が避けても言うことはできないが、それでも、まだ、多少は迷惑をかけていない、と思いたい。
いくつかブコメに上がっていたけど「暴力で躾ける」ことで解決できていた、といった意見が見られたが、きっとそういう意味なのだと思う。Aさんが上司に対しては恐怖を理由に接触せず、しかし敵対的ではない増田を傷つけ続け、迷惑をかけ続けたのだから。
まともに効かない理性の代わりに原始的な恐怖で支配し、自分は大事にされ得べきであるといった観念を持ち得ないようにする。これでようやく、他人と積極的に関わろう、といった行動を示さなくなる。少なくとも、自分などのようなまともな発達の見込めない人間は、他人と関わることは他人を傷つけることと同義であって、そのようなことは許されるべきでないことは明らかだ。
しかしながら自分のような理性も弱く衝動に駆られてばかりで他人の気持ちを理解できない間違った存在は、そうした躾をいつまでも身に刻みつけるのは中々困難なことで、産まれてすぐに徹底的に尊厳を破壊しておいて、決して二度とそうしたことが望めないような状態にするか、あるいは途中で自ら尊厳を定期的に破壊しておくようにするかくらいしか、選択肢は思い浮かばない。
少なくとも、自分の判断で選べるとすれば後者しかありえないだろう。自分が気を付けて実施しているのは以下のとおりだ。
◯失敗した場合、自分の貯金を募金する(現時点で300万円ほど)
自分のような人間が今の職場で働き続けることができるかは極めて疑問で、貯金というのはいざというときの命綱でもあるから、それを断ち切ることで恐怖を心身に刻みつけ、自分が大事にされ得る存在などではないことをはっきりと臓腑に感じさせることが出来る。
自分という人間は何をしても結局学ぶことができない。失敗し続けるしそれを改善することも殆どできない。他人との付き合いも中途半端な形で失敗し傷つけ迷惑をかける事しかできない。失敗するたびに、初対面のように謝罪し初対面のように感謝し初対面のように対応することで、常に自分の誤った距離感を訂正し続けることが、まだ、比較的マシであるという認識を持つことが大事である。
そうしなければ、増田のような人を徹底的に苦しめ続けることになる。そんなことは絶対にあってはいけない。
◯贅沢しない(ケアはする)
自分を甘やかすことをしない。贅沢と呼ばれる行為は行わない。趣味で金がかかることはしない。ただ、精神的に余裕がなくなったりストレスで業務に差し障りが出るような自体は、他人に迷惑をかける行為であるから、金のかからない程度にケアはする。マルチビタミンのサプリを飲むとか、軽い運動をするとかといったことはする。娯楽は、適当にネットで小説を読んだりするのが他人に迷惑をかけないためとても良い。
例外なく毎日、自分を肯定する意見は常に間違っており、自分を否定する意見が正しいと唱和する。
自分を否定する意見を丁寧に読み、自分が如何に間違っていて、自分に価値がなく、自分が常に排斥されるべきであるかを考え、その上で行動するようにする。
とにかく、自分の自尊心を破壊し続け、決して他人を否定するような行為を取らないこと。自分が迷惑をかけていることを自覚し続けること。自己奴隷化とでも言おうか。
それくらいしか、できることがない。なかった。
それでも許されるのかどうかなんてことは、俺が決める権利を持っていないのだから、結局許されることはないのだと思うし、本当は今すぐに死んだほうがいいのだと思っているが、死ぬのが怖いので死んでいないだけではある。
もう常時子育て・介護をやっている状態になる人が、4割ぐらい発生する計算になるような。
介護離職や出産に伴う離職が多発するような状況ではどちらにしても会社も社会が持たないのでは?
悠長なことを言っている段階ではなくなっている気がする。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB153LM0V10C24A7000000/
で、計算するとこうなる。
だけど、実際には手がかかるのはここから先だと言われていて、実態と乖離しているという話がある。
健康寿命が約75歳で、ここから「後期高齢者」と言われるようになり、介護が必要になる割合が急激に高まる。
80歳を超えると、要介護認定者だけに限っても26%になる。が、これは医療的な根拠によって介護が必要になると言う事になる。
ここで、子ども15歳までテレワークという制度を希望という話になると、タイミングが重なると、多くの企業で雇用延長に切り替わる60歳前後まで勤務に配慮がいる状況が続いていく人が何割というレベルで出てくる事になる。
こうなるともはや、それが普通の状態として制度設計しておかないと持たないだろう。
もちろんこれは平均値で。外れ値なども考慮するともっと変わってくる。(特に子どもは早く産む人がいて、その後間があって高齢出産になると言われている)
親も自分も40歳で子どもだとすると、親はもう80歳越えでダブルケア状態になるのもありうるわけだ。まぁ逆に親の介護が明ける時の年齢は、従来よりも若い可能性はある。(平均介護機期間は約5年なので)
これは非常に簡単な足し算引き算で計算出来る問題なので、なかなか回避することが難しい。
じゃあどうしたらいいかって言うと、どうしたらいいんだろうな。
大企業は社会貢献とかそう言うふわっとしたものではなく、人材確保戦略という企業として根幹に関わる取り組みとしてやってくるだろうけど、それが中小企業に広がるとも思えないし、広がらなかったら出産退職、介護離職が増えて、労働人口はもっと減ってしまうんじゃないか。
テレワーク、あるいはそれ以外でもいいけど、もっと手厚く子育てや介護を社会システムとして組み込んで、特別な制度ではなく当たり前に存在するようにしないと、詰むのでは。
https://kotaku.com/this-was-never-about-anything-other-than-hate-1851602820
再び醜い頭を育てたゲームの反動的な右翼運動も変わらず、それは理由があって今起こっています。社会文化的問題は選挙の年に熱のピッチに達しており、ちょうど10年前のように、政治的な怒りは大衆文化に血を流しており、公共の場で敬遠されているが、オンラインで賞賛されている(そして愛されている)素朴で印象的な若い男性を利用しようとしている人々によって捕らえられています。男性の若者の過激化がインターネットによって支えられ、永続していることを証明する無数の研究や物語があります。彼らは私よりもはるかに効果的にあなたを納得させるので、それらを読んでください。しかし、私が言えることは、特に何ヶ月も絶え間なくこの怒りに直面して、この種の運動は憎しみだけによって支えられているということです。
人種差別は論理的な立場ではないので、論理でそれを倒すことはできません。事実は人種差別主義者、特にビデオゲーム文化に家を作る退屈な種類の人種差別主義者にとって重要ではありません。常に分割する新しい髪があるだろう - ギタ・ジャクソン、余波
それは憎しみの特別なブランドであり、進歩から戻る途中で空中をケアする一種の後方論理ブーメランです。創業以来、文化空間としてのゲームは、主に白人の少年と男性によって支配されていました。あなたはそれに参加するためにある程度の富と自由な時間を持たなければならず、それらは80年代と90年代には疎外されたグループに容易に利用できませんでした。男の子を対象としたマーケティングとゲームのデザインは、この趣味が彼らだけのものであるという広範な認識をますます煽り、それに興味を持つ多くの女の子が親の抵抗と文化的回避に遭遇しました。私自身は、夏の仕事のお金でXbox 360を買う余裕があったので、両親が「男の子の趣味」に餌を与え続けることを拒否した後、ゲームで前進しただけで、私の話はユニークではありません。
めんどくさいこと苦しいことがたくさんだけど報酬が子供がかわいいしかない
子供のかわいさで乗り越える
自分が産んだ子供が全員小学生に上がったお母さんは「人生が楽しい!」って感じでケラケラ笑ってる
頭が悪い親でも昔はむちゃくちゃが許されたからあたおかでも育児やってたんだよ
今の親はね、体罰NG、配偶者の愚痴を子供に言うのNG、お兄ちゃんorお姉ちゃんなんだから我慢しなさいNG、未就学児のお留守番NG、ヤングケアラー禁止
昔の親は子供が親の気に入らないことやれば拳で殴ればよかったし、きょうだいゲンカが起きれば「上の子が我慢しなさい」で解決できてた(できてねえ!)し、子供が2、3歳とかでも子供だけで外で遊ばせていたよ
それも知ってるよ。そうならんようケアしてるけどそれでもバレるときはバレるしガチャやなw
まぁ少なくとも暴力したりコミュニティ内で浮気しまくったり雑な食い方すればリスクが高まるってだけ。パワプロとかウマ娘のケガ率が上がるみたいなw
そりゃあ捕まるよwJCJKが他の友達経由で言いふらして親に伝わって〜ってのも知ってる。
そんなリスクを承知な上で俺はちゃんとケアしてるから安牌に食えてるんだよ。
YouTuberとか見てるとモテ始めるとイキって急に雑にJCJK食いまくって捕まってるからああいう食い方は良くないよ。マホトみたいなね
野良マルチで行うゲーム(FPSでも第五や原神みたいなソシャゲでもいい)って「キャラクターがこれで状況がこれならこうしてくれるよね?」「なんでしてくれないの?暴言吐きます晒します」じゃない?
それって「あなたが彼氏で私が傷ついてるんだからケアしてくれるよね?なんでしてくれないの」とか「あなたが妻で俺のグラスが空なんだからお茶入れるよね?なんでしないの?」とかと一緒じゃないのか?
そこに納得がいかなくて野良マルチがあるゲームに馴染めない。立ち回りのテンプレがある程度あるとか言ってもそれは後者の例でも同じだし。察して自体をやめよう、良くないよねみたいな風潮なんじゃないのか?何か大きく勘違いをしてるのかな……
こまめにトイレの個室でブラをズラして汗を拭いたり、ベビーパウダーつけたりしてケアしてるけど、いかんせん谷間と乳下が汗で蒸れるんだよな。不快。
いっそおっぱい取り外し出来ればいいのにな。
なんか良い対策グッズとかある?
こまめにトイレの個室でブラをズラして汗を拭いたり、ベビーパウダーつけたりしてケアしてるけど、いかんせん谷間と乳下が汗で蒸れるんだよな。不快。
いっそおっぱい取り外し出来ればいいのにな。
なんか良い対策グッズとかある?
ガイドラインでは、誤嚥リスクのある宿主に生じる肺炎、と定義される。
そのうち最も多くを占めるのは高齢かつ進行した認知症患者が発症する誤嚥性肺炎である。
内科救急で最も多く経験する疾患で、入院で受け持つ頻度もかなり高い。
特異なことに、最も多く接する疾患の一つでありながら、専門家が存在しない。
肺炎だから呼吸器なのかといえば、呼吸器内科医は認知症への対応は専門ではない。
精神科は認知症診療が業務範囲に含まれるが、身体疾患が不得手である。
脳神経内科医は嚥下や認知症を専門領域の一つとするが、絶対数が少なく、専門領域が細分化されている。
そんなわけで多くの場合は内科医が手分けして診療することになる。
そういうわけだから、誤嚥性肺炎に対する統一的な見解はない。ガイドラインも2013年から更新されていない。また誤嚥性肺炎に関する文献や書籍はあるし、質の良いものが出版されているが、多くは診断、治療、予防に重きを置く。価値観に深く踏み込んだものは殆どみない。患者自身が何を体験しているかを推定している文章は殆ど読んだことがない。
病状説明も僕が研修医でほかの様々な医師の説明を聞いても、肺炎です、誤嚥が原因です、抗菌薬で治療します。改善しないこともありますし、急変することもあります、といった通り一遍の説明以上のことを聞いたことは殆どなかった。
もっともよく経験する疾患でありながら、どうするべきかの具体的な方針は大学教育でも研修医教育でも提供されないのだ。
にもかかわらず、認知症患者の誤嚥性肺炎は最も多い入院かつ、その患者は入院期間が長い傾向にある。入手可能なデータだとおおよそ一か月の入院となる。死亡退院率はおよそ15-20%で、肺炎としては非常に高い。疫学については良いデータがないが、専門病院などに勤務していなければ、受け持ち患者のうち5人から10人に1人くらいは誤嚥性肺炎が関連している印象がある。
誤嚥性肺炎は、進行した認知症患者ほど起こしやすい。そして、誤嚥性肺炎を起こすことでさらに認知機能が低下する。しばしば経口摂取が難しくなる。そして自宅や施設へ退院することが難しくなり、転院を試みることになる。
典型的には進行した認知症を背景に発症するので、意思決定を本人が行うことができない。患者は施設入居者であることも多く、施設職員がまず来院する。その後家族が来院して、話をする。肺炎であるから、治療可能な疾患の前提で話が進む。進行した認知症=治療不可能な疾患があることは意識されない。
ここでは、進行した認知症、つまり意思決定能力があるとは考えられない患者、今自分がどこにいて、周りの人がだれであって、自分の状況がどうであるかを理解できないほどに進行した認知症患者、と前提する。
退院してもらうための手段、という意味では治療は洗練されてきている。口腔ケアを行い、抗菌薬を点滴する。嚥下訓練を含めたリハビリテーションを行い、食事を早期から開始し、食形態を誤嚥しづらいものに変える。点滴を早期に切り上げて、せん妄のリスクを減らす、適切な栄養療法を併用して低栄養を防ぐ…。
そういったことを組み合わせると、退院できる可能性は高まる。身体機能も食事を再開できないレベルまで低下することはあまりない。
しかしそこまでして退院した患者は、以前の身体機能・認知機能を取り戻すわけではなく、少し誤嚥性肺炎を起こしやすくなり、活動に制限がかかり、介護をより多く要するようになり、認知機能がさらに低下して退院していく。
だから人によっては一か月とか半年後に誤嚥性肺炎を再び発症する。
家族や医師は以前と似たようなものだと考えている。同じような治療が行われる。
そこに本人の意思はない。本人の体験がどうなのかを、知ることはできない。
というか、進行した認知症で、ぼくらと同じような時間の感覚があるのだろうか。
本人にとって長生きすることの体験の価値があるのか、ないのかも知ることは難しい。
というのは逃げなんじゃないか。
状況認識ができなければ、そこにあるのは時間感覚のない快・不快の感覚だけではないか。だとすればその時間を引き延ばし、多くの場合苦痛のほうが多い時間を過ごすことにどれほどの意味があるんだろうか。
なぜ苦痛のほうが多いかといえば、状況を理解できない中で食形態がとろみ食になり(これは美味とは言えない)薬を定期的に内服させられ(薬はにがい上、内服薬をへらすという配慮がとられることはめったにない)、点滴を刺され、リハビリをさせられ(見当識が障害されている場合、知らない人に体を触られ、勝手に動かされる)、褥瘡予防のための体位変換をさせられ、せん妄を起こせば身体拘束をされ、悪くすると経鼻胃管を挿入される(鼻に管を入れられるのは、快適な経験ではない)
どちらかといえば不快であるこれらの医療行為は、治療という名目で行われる。
多くの医師は疑問を抱かずに治療する。治療される側も、特にそれに異をとなえることはしない。異を唱えるだけの語彙は失われている。
仮に唱えたとしても、それはせん妄や認知症の悪化としてとらえられてしまう。
老衰の過程が長引く苦しみがあり、その大半が医療によって提供されているとは考えない。
ここで認知症というのは単なる物忘れではないことを説明しておく。それはゆっくりと進行する神経変性疾患で、当初は認知機能、つまり物忘れが問題になることが多いが、長期的には歩く能力、座る能力、食事する能力が失われ、昏睡状態となり最終的には死に至る疾患である。
多くの内科医はこの最後の段階を理解していない。肺炎で入院したときに認知機能について評価されることは稀だ。
実際には、その人の生活にどれだけの介護が必要で、どのくらいの言葉を喋るか、笑顔を見せることがあるか、そうしたことを聞けばよいだけなのだけど。
進行した認知症で入院するのがどのような体験か、考慮されることはめったにない。
訴えられるかもしれないという恐れの中で、誤嚥のリスクを減らし、肺炎を治療するべく、様々な医療行為が行われる。身体が衰弱していくプロセスが、治療によって延長される。
医療において、患者の権利は尊重されるようになってきた。僕らは癌の治療を中断することができる。良い外科医を探すべく紹介状を書いてもらうこともできる。いくつかの治療法を考慮し、最も良いであろうと考える治療を選択することもできる。
しかし患者自身が認知機能を高度に障害されてしまった場合はそうではない。医師が何を希望するかを聞いても、答えてくれることはないし、答えてくれたとしても、状況を理解できないほどに認知機能が損なわれている場合は、状況を踏まえた回答はできない。
そこで「もし患者さん本人が元気だった時に、このような状況をどうだったと考えると思いますか」と聞くこともある。(これは滅多に行われることはない。単に、どんな治療を希望しますか、と聞くだけだ。悪くすると、人工呼吸器を希望しますか、心臓マッサージを希望しますか、と聞かれるだけだ。それが何を引き起こすかは説明されずに)
しかし問題があって、認知症が進行するほどに高齢な患者家族もまた、高齢であって、状況を適切に理解できないことも多い。また、記憶力に問題があることもしばしばあって、その場合は話し合いのたびに最初から話をしなければならない。このような状況は、人生会議の条件を満たしていない。もしタイムマシンがあれば、5年前に遡れば人生会議ができたかもしれない。
親類がいればよいが、これからの世の中では親類が見つかりづらかったり、その親類も疎遠であったり、高齢であったりすることも多いだろう。
そうした中では、理解が難しい場合も、状況を理解して改善しようという熱意に乏しい場合も、(本人の姉の息子がどのように熱意を持てるだろうか)、そして何より、医師が状況を正確に理解し彼の体験を想像しながら話す場合も、めったにない。
意思決定において、話し合いは重要視されるが、その話し合いの条件が少子高齢化によって崩されつつあるのだ。
「同じ治療をしても100回に1回も成功しないであると推定されること」
この二つを満たすことが無益な治療の定義である。この概念を提唱した、ローレンス・J・シュナイダーマンと、ナンシー・S・ジェッカーは、脳が不可逆的に障害された患者を対象としている。
彼らはいかなる経験をすることもないから、治療による利益を得ることもない、だから無益な治療は倫理的に行うべきではなく、施設ごとにその基準を明示するべきだ、というのが彼らの主張である。
高度に進行した認知症患者の誤嚥性肺炎の治療は、厳密な意味での無益な治療ではない。彼らは何かを体験する能力があるし、半分以上は自宅や施設に帰るだろう。自宅や施設では何らかの体験ができる。体験を感じる能力も恐らく完全には損なわれていないだろう。
この完全ではない点が、倫理的な空白を作り出す。
そこで死に至る疾患である印象が失われた。
専門家の不在は、価値の普及を妨げた。病状説明の型がある程度固まっていれば、それがどのような形であれ、専門家集団によって修正され得ただろう。ガイドラインは不十分である。医療系ガイドラインはエビデンスのまとめと指針である。つまり誤嚥性肺炎の診断・治療・予防であり、その価値に関する判断はしばしば言及されない。ガイドラインはないにしても、診断・治療・予防に関して役立つ本はある。ただ、価値に踏み込む場合も、基本的にはできる限り治療するにはどうすればよいか、という観点である。
人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン、人生の最終段階における医療・ケアに関するガイドラインは存在するが、そもそも高度な認知症を合併した誤嚥性肺炎が、人生の最終段階と解釈されることはめったにない。だからこのガイドラインを用いた話し合いができることは少ない。また、多くの医師は、押し付けられた仕事と認識していることから、じっくりと時間をとって家族と話をすることはなかなか期待できそうにない。多忙であればなおさらである。
さらに状況が不利なのは、個々の病院のKey performance indexは、病床利用率であることだ。
認知症患者の誤嚥性肺炎は、しばしば酸素を必要とし、時に昇圧剤やモニター管理を要するなど重症であることが多く、入院期間が長くなる。そのため、看護必要度を取りやすい。多くの病院は、その地域に病院が不可欠であることを示す必要がある。不可欠であることの証明に病床利用率と、看護必要度は使用される。そのため、誤嚥性肺炎の患者を引き受けない理由はない。救急車の使用率も高く、数値上は確かに重症であるので、病院経営上は受け入れておきたい。
介護施設に入所した場合は、誤嚥性肺炎の死亡で敗訴し、2-3000万円の支払いを命じられる訴訟が複数あることもあって、搬送しないという選択肢は難しいだろう。
介護施設から搬送された患者が誤嚥性肺炎であることは多い。その一方で、こういった場合家族が十分な話し合いの時間を割けないことが多い。片手間でやっている医師も、長い時間をかけて説明したくはないので、お互いの利益が一致して肺炎治療が行われる。
一方、最近増えている訪問診療は、誤嚥性肺炎の治療を内服で行うとか、そもそも治療を行わないという選択肢を提案できる場である。そこには期待が持てる部分もある。定期的な訪問診療でそうした話がしっかりできるかといえば難しいが、可能性はある。ただ、訪問診療医になるまでに、誤嚥性肺炎に関する専門的なトレーニングを受けるわけではない点が問題になる。しかし家での看取り、という手段を持てるのは大きいだろう。
訪問診療を除けば、医療の側からこの状況を改善することは殆ど不可能なように思える。
病院の経営構造、施設の訴訟回避、医師の不勉強と説明不足、そしてEBMと患者中心の医療を上っ面で理解したが故の価値という基準の不在、めんどうごとを避けたい気持ちと多忙さ、患者自身が自己の権利や利益を主張できないこと、家族の意思決定能力の乏しさや意欲の乏しさ、こうした問題が重なりあって、解決は難しいように思える。
現在誤嚥性肺炎を入院で担当する主な職種である内科医は、糖尿病の外来診療を主たる業務とする内分泌代謝内科という例外を除いて、減少しつつある。
専門医制度が煩雑になったからというのもあるが、ぼくは少なからず認知症高齢者の誤嚥性肺炎を診療したくないから、希望者が減っているのだと思っている。確かに診療をしていると、俺は何をやっているのだろうか。この治療に何か意味があるのだろうか、と考えることがあった。同じようなことを考えている医師は少なからずいる。露悪的なツイートをしている。しかし構造上の問題点について踏み込むことはそこまでない。
僕は構造的な問題だと思っていて、だからこういう文章を書いているわけだ。
進行した認知症患者の誤嚥性肺炎とは延期可能な老衰である、という共通の認識が広がれば、状況は変化してくるかもしれない。事実、認知機能が低下していない高齢者で、延命を希望しない方は多い。その延命の意味は具体的に聞けば、かなりしっかりと教えて頂ける。
誤嚥性肺炎の診療は、所謂延命と解釈することが可能な範疇に入ると僕は考えている。
後期高齢者の医療費自己負担額一割と、高額療養費の高齢者優遇の組み合わせを廃止することや、診療報酬改定によって、誤嚥性肺炎の入院加療の色々なインセンティブを調整することで、否応なしに価値が変化するかもしれない。そういうやり方をした場合、かなりの亀裂が生まれる気もするけど。