はてなキーワード: キャンバスとは
私はこの原作である漫画が不朽の名作であると思っていて、それを2時間の間口の広い映画として結実させた片渕監督は素晴らしいし、
映画は大変な傑作であるなと思いながらも、原作ファンとしてやはりどうしても白木リンの物語が割愛されていることが残念に思う。
そして、こちらのブログを読んで、ユリイカを買ってきて読んだ。
ユリイカ「この世界の片隅に」 感想 【片渕監督の込めた「すず」という少女への愛】
http://www.club-typhoon.com/archives/8332896.html
短く綴られた理由にとともに
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「そこをつくらないと話にならないよ」って文句を言う人が出てきて、また続編をつくれるかもしれない(笑)。
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という一文があった。
そうか、そうであれば存分に、めんどくさい原作ファンとして「話にならない!」と言わせてもらおうと思う。
以下、原作と映画のネタバレどころか個人的な妄想まで含まれるので、未読・未見の方は読まないことをお勧めします。
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すずは、絵を描く人である。
基本的にはおおらかで、健やかな人であるけれど、少しぼんやり天然なところがある人として描かれている。
たぶん絵を描く人には同意してもらえると思うけど、絵を描くのが好きな人の一部は、現実と自意識の間に透明のキャンバスというかレイヤーを持っていて、現実をそのレイヤーを通して見ているようなところがある。
それがない人と比べてほんのわずかタイムラグがあったり、レイヤーのおかしな働きのせいで見えている世界が違ったりすることがある。
ただ、それは彼女が現実を直視できないということではない、表には出さないがむしろ人一倍繊細に世界を感じる感受性を備えているのである。そのことは波のうさぎや白木リンとのエピソードなど、随所に現れていると思う。
ほんの少し運命が違えば(具体的には周作の母が足を悪くしなければ)「北條リン」であったかもしれない女性である。
周作はどうやら上官の付き合いで遊郭にあがりリンと出会い、そして良い仲になった。ただ、おそらく身請けのための支度金の問題や、親族の反対にあい、そうこうしているうちに母が足を痛めたために、家に女の働き手がどうしても必要になった。そこで周作は「幼い頃出会ったあの女性であれば」と無茶を言ったのだと思われる。半分以上、探し出せなければそれでよい、という気持ちもあったのではないか。
それがすずに対し後ろめたい北條家の秘密であり、何も知らずそれを受け入れるすずに対する周作の姉、径子の苛立ちの原因でもあっただろう。
径子は、おそらくその性格からしてこうした企みに反対だったのだろうと思う。(映画の径子は本当に良かった)
結局のところ、原作においてその秘密はバレるのだが、すずは「代用品」であったことをただ心にしまう。
それはのちに明らかになる、すずにも水原に対して秘めた思いがあったことと対となっている。
けっきょくそれは周作とすずの初めての喧嘩、という形でお互いに秘密をかくしながら本音を晒すという場面に行き着く。
それまでのすずはどこかまわりへの遠慮や壁を感じさせるところがあったが、それ以降、すずはリンに(周作がどうやらリンの嫁入りのために準備した)リンドウの茶碗を渡すまでに強くなる。この場面、そしてそのあとの桜の中のすずとリンは本当に美しい。
その後のリンとすずの交流は微笑ましくも緊張を孕んだもので、戦火が激しくなってくる状況と相まって本当に言葉にならない。家と家族をめぐる問答など、これらの場面はやはり2時間の映画に収めるにはあまりに複雑で美しくも悲しく、どうやっても難しかったと思う。
ただここにこそ、この物語の奥深い、それでもこの世界の片隅に生きていかねばならない悲喜こもごもの、この物語の核があったのではないか。
舞台である戦時の状況はより深刻になってゆき、やがて大きな悲劇がおきる。
映画はそこにフォーカスをあてて、話をわかりやすく整理している。それはおそらく興行として正しく、そして映画から原作へというルートを大きく開いているのだろう。それはおそらく、成功している。
ただやはり、原作を読了したあとに、北條リンと水原すずだったかもしれない「もしも」を思いつつ再読した時に感じた、大きな驚きと感動につながっている部分、それが映画にないことが、私はやはり残念でならない。
エンドロールで原作に近しいコマ形式の紹介はあったし、おそらくそれは「ゼイタク」な話なんだろう。
ただ、私はやはり「この世界の片隅に」には白木リンのエピソードが必要で、文字どおりそれがないと「話にならない」と思う。
私はこの作品が大好きで、映画も素晴らしかった。この素晴らしい作品が、この世界にあってくれて良かった。
ただ、やはりこの作品に映画から触れた人は、原作も是非読むべきだと思う。ぜひ、リンさんの強さと美しさに触れて欲しい。
つまりですね、第二回クラウドファンディングまだっすか?
今回の件で改めて世間の「子ども」に対する幻想とか妄想が露わになって心底うんざり
子どもは決して狡いことなんて考えなくて純粋で素直で傷つきやすくて言って聞かせれば分かってくれる天使
そんな認識
世間の子どもに対する見方がもうちょっとでもまともになればこの子ども嫌いも少しはマシになるとすら思う
悪意もないけど善意もない、道徳も知らずにひたすら無知と欲望だけ振り回すクソガキに夢見すぎ
仮に教えたとしてもちゃんと理解してるかどうかの確認は徹底的に怠る
なぜならあるのかないのかも分からない曖昧な「子どもの純真さ」こそが正義で
それさえあれば「こんなに言ったんだから、きっと分かってくれてるよね!」と思い込めるから
本当に嫌になる
子どもは真っ白なキャンバスなんかではないとなぜ分からないのか
性格の悪い子、意地の悪い子、頭の悪い子、いろいろいる
一生可愛がってればいいだけの犬猫ならまだしもガキはいつか大人になって世の中に放たれる
なぜその現実を無視して「子ども」という幻想を際限なく見続けようとするのか
コンビニの冷蔵庫に入った画像をツイッターに上げるような頭の足りないクズを
「ちょっとやんちゃで行動力のある元気な子」として放置し続けたのは誰だ
ボケどもが
何かブクマを異常にたくさんもらえたみたいだけど、
全然歌詞を修正するという意味では全然進展がないのでガッカリしてます。
歌詞カードやCDはもう発売済みなので、こちらの方で寄せていって
思い込むことで解決したいと思います。
夢をありがとうございました。
http://anond.hatelabo.jp/20160112023223
横だが、ブコメの、
>そもそも、「清純さ」を感じるもので抜く、という行為が俺にはピンとこないなあ
について、ロリコン2級の俺が雑に解説すると、自分の色で染めたい(汚したい)のだよ。
人は元来、真っ白な状態で生まれてきて、それから色々な色に染まっていく。
つまり、子供であればあるほど、そのキャンバスは白い。一般的に。
もちろん、清純な成人もいれば、汚れた子供もいるだろうが、全体としては清純な子供の方が割合は多い。
特定個人ではなく、「子供が好きだー」だからその程度の大雑把な印象でいいのだ。
清純さ「だけ」を突き詰めると、生まれたての赤ちゃんの方が抜けるはずだが、さすがにそれはな。
ぶっちゃけ男児でも清純なわけで、やはり女性的な魅力も必要になってくる。
つまり、失われていく清純さと、生まれてくる女性的な魅力のバランスが整い始めるのはいつかということ。
これは人によって感じ方が違うし、趣向も変わってくる。
自分は昔、それがJS高学年だったが、やがてJCになり、今ではJKかなぁと。
何もしていないのが苦手である。
別に人に会う用事でなくてもいいし、遊びじゃなくても全然よくて、だから「皇居ラン」とか「休日出勤」とか、そういうのでもいいので、とにかく何かしら1日にひとつは「予定」を入れる。
予定がひとつでも入っていればいいかというとそうでもなくて、一つ予定が入ると、今度はその前後を「埋めたい」気持ちが強まってくる。1日に2、3つ予定を入れるとやっと安心する。とにかく、区切りなくあたえられている白いキャンバスを区切って区切って塗りつぶさないと気がすまない。
かといって、何でもいいから時間をつぶしたいわけではない。単に時間が埋まるだけの予定、たとえば別に興味ない飲み会とかに行くと、「わざわざ金を払って時間を無駄にして余計なカロリーとって何をやってるんだろう」と、とてつもない後悔に襲われる。恋人とデートするときでも、相手の趣味のスポーツ観戦とかだったりすると、「別におもしろくねえな……」と、早く帰りたい気持ちでいっぱいになる(まあそれは結局相手のことがそんなに好きじゃなくていっしょにいるだけでも幸せ、みたいな状態じゃないということかもしれない)。だから基本的に、同じアイドルとか同じコンテンツが好きなオタクとは週1でも週2でも会ってさわげるけど、どんな人と付き合っても、月1か隔週がよくて、週1も週2も時間をさくなら、もっとちゃんと有意義な「予定」を入れたいと思ってしまう(別にオタクとだべるだけなんて、世間では有意義でも何でもないだろうけど)。
あと、1日中単一の予定で埋められてしまうのもいやだ。休日出勤という予定をつくった場合も、「休日に仕事をしてしまった〜」という後悔はないんだけど、「今日仕事しかしてない……」という気持ちにはなる。友人でも恋人でも、そしてたとえ共通の趣味の人間であったとしても、ある人と会う予定が入った時に、後ろに予定がないとその予定が半日以上つづいてしまうんじゃないかという時にも、無理やり別の予定を後ろに入れてしまうことが多い。予定があるフリして別れて、本屋とかデパートとか行って買い物してしまうこともある。だから仲の良い友達に恋愛相談をすると、「とりあえず1日中いっしょに過ごせる人を探してみたら?」と言われたりする。
でも、だからこそ、こっちの好きなものになんでもつきあってくれる人のことをすごく尊敬してる。先日、こちらから「最近会ってないな〜」と思って久しぶりに誘った人に、「何したいですか?」って聞いたら、「別に特にしたいことないからなんでもいいよ〜」って言われて感動してしまった。私と目的を共通にする何かの当てがなくても会ってくれるなんて。
私ももっと、「特にやることがない時間」とか「特にいっしょにしたいことがあるわけじゃないけど会って楽しい人」を増やして、大切にできる人間になりたい。
電車内は席は全て埋まっていて僕はその席の前に立った。
しばらくして多くの人が降りる駅で、幾つかの席が空いた。
空いた席に座ろうとしたときに、ドア付近に立っていた彼女と目があった。
猫っぽい目。ショートで少しパーマがかかった茶髪。スキニーパンツにオニツカタイガーのスニーカー。白いキャンバス地にシンプルなデザインのトートバッグ。
目が合っていたのは一秒にも満たない時間で、その一瞬で僕は何も考えられなくなった。
僕は一番端の席に座り、彼女は斜め前に立っていた。
電車を降りるときに、もう一度だけちらりと彼女を見て僕は違う電車に乗り込んだ。
その電車のなかでうとうとしていると、あれは夢だったのかもしれないなと思った。
浮世絵しかわからないので、浮世絵がいかに衝撃的だったか、どう世界を変えたか、ちょっとだけ。
ところで、少し脇道から入っていくが、まずこの写真をみて欲しい。
http://img.allabout.co.jp/gm/article/20016/image2.jpg
俺はすっかり大人になっていて、南国にはこういう景色、すなわち澄んだ空と海、強い日差しがあることを知っているけれど、もしもこれを予備知識なくみたならば
「なんて美しい場所だ!本当にこの世なのか?」
と思うと思う。
これをみて、「海と小屋が映ってるだけだろ。なにが綺麗なのかわからん。」
という人はそれでけっこう。わかりあえないので、この先は読まないでいい。
これを西洋人が初めて目にした時の衝撃は、たぶんそれに似てる。
「なんと澄み切った空!見たこともないブルー!ただ青が広がるだけの空がこんなにも美しいのか!影が映らないほどの明るさ!」
「澄み切った水!そして水面がキラキラと光ってる!」
しばらく、その美しさにトリップしたあとに、正気に戻ってみてこの美しさはどこから来るのかと絵を探るといろいろと気付くのだ。
「見たこともない構図だぞ!風景を上から見下ろして描くなんて!!」
「紙が布のようだぞ!紙そのものが上等なシルクのような輝きを放ってる!」
「波打つ水面は、ただ紙に描かれているのではなくて、エンボスになっているぞ!」
「遠い異国の景色であるのに、聖書の物語の一節でも歴史の一部でもないのに、馬を引く人や船を漕ぐ人のドラマが頭のなかで再生されるぞ!」
「表面にインクは残っていない!触ってもインクが手に付かない!光に透かせば光を通し、光に当てれば輝く反射!ありえない!ありえない!ありえない!」
「日本という国では、カラー印刷が一般的なのかッ!!!包み紙に使うほどにッ!!!貴族でも大商人でもない一般庶民が、絵を楽しむというのかッ!!」
「こんなにも簡素な表現で、こんなにも訴えかけることができるのかッ!!!いや、極限までエッセンスを削ぎ落としたからこそ心のドアをノックするのだッ!!!」
「絵とは魔法だ!丸に点を二つ描くだけで、顔に見える!そこに手足を描くだけで動いて見える!我々は見えるものを見えるままにキャンバスに閉じ込める術を手に入れた。しかしどうだ?心をノックするために、見えるものを見えるままにキャンバスに閉じ込める必要などあったのか!?
日本人は、我々が陰影、凹凸、光源の方向、そんなことに執着して、方向を間違えている間に、一瞬の煌きや感動を絵に閉じ込める術を手に入れていたッ!!!」
例えば、もしも浮世絵がなかったら、テレビドラマや映画は登場人物の会話を真横から映し続ける退屈なものだったろう。
それまでの舞台を描いた絵も、物語を描いた絵も、常に真横からの構図だ。
仰視、俯瞰、物陰から、登場人物の一人称視点、あらゆるカットで切り取っていくのは、浮世絵のアイディアだ。
葛飾北斎が「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインしたのは、そういう理由だ。
いつもと別のゆとりの話。
「ほんじゃ、労働基準局でもなんでもたれこんでもらってくださいな」と
上司がキレたところ、ゆとりが会社を去ったかわりに労基がやってきた。
しばらくの間はみんなで彼の功績を讃えていた。
そのゆとりが6月頃になって「あらためて増田さんのところで働きたい」
とお願いをしてきた。もちろん父親を通じて。
「いや、社風があうところで活躍したほうがええよ、うちでは才能を活かせきれない」と言っても
「ほんじゃ、がんばりを目に見える形で持ってきてよ、
無理でしょ?そういうことだから」と断った。
「がんばりを見せに来ましたよ」と突然奴がやってきた。
父親ではなく、何故か同時期にやめた別のゆとりと連れ立って2人で。
「見てもらうまで帰りません」と叫び始めた。
「大声出すなよ」
「何を見せてくれるの?」と聞くと。
「これを見てくださいっ!」
そういうと、奴はドキュメントケースの中から小さいキャンバスを取り出した。
「は?何これ?」
『彼の熱意を受け取ってください!』
「意味わかんないんだけど、何?」
「自画像です。がんばって描きました。」
ゆとりは泣きながら繰り返した。
ちょっと悩んで、「自画像が全く似ていない」という理由でお帰りいただいた。
ふと気がつくと私も泣いていた。
わたしは梅雨の季節が好きだ。
真夏ほど暑くないのに、春を過ごした身体には気温以上の厳しさをもたらす。
薄手のシャツ一枚では寒いかもしれない。かと言って長袖を着て行くことで湿気で蒸れてしまうのも嫌だ。
そこで皆が思いつくことは、薄手のシャツに脱ぎ着できる上着を一枚羽織っていくということだ。
この選択ができるのは春の暖かさから夏の暑さと湿気を煩わしく思うこの季節だけなのだ。
閉じられたボタンの隙間から顔を出してしまいそうな素肌の危うさがエロイ。
背中の純白なキャンバスに浮かび上がるブラジャーの凹凸がエロい。
これがもしYシャツを羽織らずして、下着やキャミソールで歩いていたとしたらどうか。
それほどまでに興ざめなことはないだろう。
人前で下着や肌を露出するような変態が目の前にいたところで何を感じろというのか。
上着を羽織ることでYシャツのエロさはさらに引き立つことになる。
薄手の上着の襟元から垣間見るYシャツの胸元ほどエロいものはない。
誰かに見せたくて仕方がない女の本性が隠れているのだ。
この季節はわたしにとって、街中の女性が裸で歩いているよりも刺激的だ。
すれ違う女性のYシャツを覗きこんでしまわないよう耐えることにもう疲れてしまったのだ。
世の女性に頼みたいことが一つある。もういっその事、下着姿で歩いてはくれないだろうか。
「スギ花粉にすぐ反応してクシャミばっかりする人たちに、私は心底うんざりしているのだ」
ってのは、ちょっとどうかと、俺は思う。
ヒドイ自称をしてるが、俺は映画やドラマやエンターテイメントが好きだ。
(作品を貶すよりも)鶴を見つけたと叫ぶ方が有意義だと思ったから、そうした。
批評家から酷評されようがファンからブーイングを受けようが映画館に足を運ぶのは、そこに輝きがあるからだ。
例えば昨今のイカ人気に便乗するなら「ザ・ビースト/巨大イカの逆襲(1996)」というパニックムービーがある。(日本では劇場未公開・TV公開)
娘に海の無慈悲さを説く主人公である父親には(ゴジラ作品に通ずるような)自然への畏敬がある。
ただ、有り体に言ってジョーズの何番煎じかの作品で、秀作とは言えオススメするのは難しい。
しかし、単なるパニックムービーに深みを与える演技を魅せた主人公のWilliam Petersenは、
「CSI:科学捜査班(2000~)」でギル・グリッソムを演じ、ハリウッド殿堂入りを果たしている。
つまり、どんな作品にもそこに関わった人間の思いが込められているし、
駄作と酷評されるような作品にも、愛と信念を持って臨む人間が居る。
こちとら最初から「何が(何を持って)成功か失敗か」という話はしていないんですよ。論点分かってくれ。 /この人のように実際に観てから言ってる人には何も言うつもりはないんです。
十分に論点を理解した上で書いたが伝わらなかったのは俺の力不足だからだろうし、
これが個人攻撃に見えてしまったり、曲解した上で叩いているように見える可能性もある。
ので、ゴリッとidを入れておいたので、不愉快に思ったら手数をかけるが削除申請して欲しい。
少なくとも「自分の好悪」であると主張しているのは、俺は好ましい態度だと思う。
だからこそ、共通点を探ろうとブログを読み(slinky_dog_s11さんの好きであろう)ゴジラシリーズを週末かなり観た。(正直キツイし時間かかった……)
だもんで例示としてあげるのはローランド・エメリッヒ監督のGodzilla(1998)にするが、
俺は、パニックムービーとして良く出来ていると思う。ジャン・レノも良い味出してるし。
しかし、「ゴジラ」ファンがこれを「ゴジラシリーズ」として認めるかは、意見が割れると思う。
ゴジラ(1954)にある自然への畏敬や人間社会への風刺はホトンド無いし、
フォーマットとして確立していたゴジラvs怪獣という点も無く、独立している。
そもそも、それまでのゴジラの造形からあまりにもかけ離れている。
こういったハリウッド化が何度も繰り返され、slinky_dog_s11さんの好きなゴジラや特撮が、
そうではない別ものとしてハリウッド化が何度も何度も繰り返し為されていたとしたら、
「ハリウッド化!」に対して「もう止めてくれ!」と叫ばないだろうか。
それを、「ゴジラを見ていないし思い入れも無い人」が「ハリウッド化に騒ぐ特撮クラスタは目障りだから止めろ」と言ってきたら、
「ゴジラ好き」達は、素直に「次こそはという可能性もあるから黙って待つか」と思えるだろうか。
そもそも「実写化」というのは別に本質じゃない。次元を超えるせいで、単に目立つだけだ。
例えばリメイクやリブート、コミカライズやノベライズ、もっと言えばアニメやドラマのシリーズものだってそうだ。
第三者が別のキャンバスを持って現れ、横で少し真似た絵を描き始めた
http://blog.goo.ne.jp/yukks453145/e/12eb31fc9d5080c07c838ef6fb4ea238
slinky_dog_s11さんも書いてるよな。的確な比喩だと思う。
自分の好きな絵の名前で「これこそが名画でござい!」と模写を披露してるのを、見るわけだ。
その模写は、原作の絵を知っている人間が見ると、とんでもない模写なワケだ。
もしくは、「トンデモナイ描き方を始めた」ように見えるワケだ。
例えば最近だと寄生獣(2014, 2015)があるな。放射性廃棄物を使った演出で、一炎上あった。
個人的にはね、ミギーの阿部サダヲの名演とか、寄生獣を実写で見られたというワクワク感も無くは無い。
でも、あの映画があると(あった事実は消せないよな)「寄生獣っていうのは、ああいう思想の作品なんだ」として記憶される訳だよ。
主人公に寄生する謎の生物であるミギーもさ、「なんかヒョウキンなバケモノが腕についてんな」という評価になるわけだろ。
人間から見たら冷酷な(でも事実を言ってるだけの)ミギーに対する違和感や嫌悪感、そこからの「共生」みたいなものは読み取れないわけだ。
漫画を読んだら判るはずの良さが、映画を観た人には伝わらない。
観た人に演繹されて「ああ、原作もこういう作品なのね」と思われると想像して当然だろう。
そして、そうなるであろうという不信感・違和感が、「止めてくれ!」と叫ばせるわけだ。
「ここが違う」「そこが違う」として細かな差異をアゲツラウってのは、本質じゃないと思う。
それは「不安だ!不信感がある!」という違和感を上手く言語化できないだけじゃないかと、俺は思う。
俺は、初期の段階で騒ぐのは良いことなんだと思ってる。
少なくとも、熱心なファンが居ることは伝わるわけだし、プレッシャーもかけられる。
島本和彦みたいに「原作を変えたんだから、実写も変えろ!」みたいな面白しなくても、伝わる可能性がある。
そして、この中で、作品がより良くなる可能性があるのは1番しか無い。
だから、「実写化!」にファンが即応して「マジかよ!」と叫ぶのは合理的だ。
俺は、ブコメでも言及されていた「るろうに剣心(2012)」を邦画と呼ぶのには強い抵抗がある。
(るろ剣に関しては語りたいことが山ほどあるが、本筋ではないのでここには書かない。需要も少ないだろうしな)
それぐらい、「邦画」界や「ドラマ」界隈ってのは特殊で、ハッキリ言って漫画やアニメを実写化するには向いてないと思う。
だからこそ、Twitter等でファンの声を製作者側に伝えられる機会があるなら、もっともっと騒ぐべきなんだと思ってる。
そして、そういうファンの存在を「受け入れがたいので目を背ける」コトが出来ずに「本当に嫌い」として黙れというのは、狭量じゃないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20150619121107
(※追記:Twitterみたら個人攻撃にしか見えない感じになってたので題名を修正。あと、ゴジラ24本観終わったので、残り6本のはずだが近所でレンタルしてねえ……)
ADHDで
ストラトラ(SNRI)、ジェイゾロフト(SSRI)を飲んでいるADHD患者です。
「人の話を聞かない」
「遊んでいる」
とか言われてきた。
過集中型だと思う
http://d.hatena.ne.jp/Maman/20050825
http://ameblo.jp/rosaglauca/entry-12016589909.html
(エイメンによれば過集中型はセロトニンとドーパミンが足りないのだという。)
ゲームとか、本来熱中してはいけないものに勉強のときなどに熱中してしまい。
やりはじめると止まらないのだ。
この薬は私の人生を変えた。
このころは
軽度のうつ病との診断。
すべてを楽観でき、過集中のようなものはなくなった。
すべてはうまくいき、就職した。
おこられてばかり、「人の話を聞けない」とまだ言われる。
ジェイゾロフトだけでは足りなかったのだ。
その後、ADHDを疑い発達障害を専門としている心療内科に行きストラトラを処方してもらう。
今度は、少しの空想さえもできなくなった。少しのアイデアさえも出てこない。多弁だったが言葉数も減った。
でも集中できる。
意欲や快楽、覚醒などはセロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンによって決まり、医師はこれに基づきうつ病患者に適した坑うつ剤を選ぶのだという。
http://www.fujixerox.co.jp/support/xdirect/magazine/rp1009/images/10091a_02.jpg
ドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリンで決まっているのだ。
これにより、おとなしい人にもなり、多弁にもなり、慎重な人にもなり、豪快な人にもなる。
ADHDは、もともとセロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンが再吸収されすぎる体質とのことだから
坑うつ剤の再取り込み阻害薬は非常に良く効く。
小松 美羽(こまつ みわ、1984年(昭和59年)11月29日)は、日本の版画家。アーティストとして風土に所属している。
長野県埴科郡坂城町出身。2004年(平成16年)に女子美術大学短期大学部を卒業した。
2009年(平成21年)に「美しすぎる銅版画家」としてメディアに取り上げられて注目を集めた。
小松美羽オフィシャルブログ「千年先のMIWACODE」Powered by Ameba
http://ameblo.jp/komakoma-blog/
画歴
●日本版画協会入選(東京都美術館) ●女子美優秀作品賞2度受賞(ガレリアニケ・大学校内) ●大学版画展(町田市立国際版画美術館) ●ROSES展(スパイラルガーデン) ●銅夢展(すどう美術館) ●絵と花のコラボ展覧会(神戸異人館・ライン館) ●阿久悠トリビュートアルバム「Bad Friends」(ポニーキャニオン)ジャケットと挿絵を担当 ●流通専門誌 「 Value creator 」表紙を担当(年間) ●阿久悠トリビュートアルバム「歌鬼3」ジャケット・挿絵担当 ●TSUTAYAオリジナル絵本・絵担当 ●ギャラリータグボート(絵画・版画取り扱)
週刊プレイボーイ 掲載12月15日 週刊SPA! インタビュー掲載
12月15日 CS275池袋ウェストフードパーク「MEGA美の泉」OA(26:30~)
12月16日 阿久悠氏トリビュートアルバム「Bad Friends」発売
12月16日 夕刊フジ 阿久悠氏トリビュートアルバム「Bad Friends」発売紹介記事掲載(小松がジャケットと挿絵を担当)
12月16日 CS275池袋ウェストフードパーク「MEGA美の泉」OA(18:30~)
3月29日 日本テレビ「DON!」美人スペシャリスト特集コーナーにてVTR&生出演
4月22日 au携帯ニュース情報サイト「ニュースEX」にて「美しすぎる文科系女子」特集に登場(1週間連続)
4月24日 J-WAVE「kiss and hug」内「WHAT'S YOUR JOB?」コーナーにてゲスト出演
5月30日 スポニチアネックスにて阿久悠トリビュート「歌鬼3」紹介記事掲載
7月14日 阿久悠トリビュート「歌鬼3」発売 ジャケット・挿絵担当
7月 女子美術大学オープンキャンパス・卒業生紹介タペストリー
8月 ソニー・エリクソンau公式サイト インタビュー記事掲載
9月6日 読売テレビ ズームインSUPER(関西ローカル部分)出演
9月14日 日本テレビ「oha4!NEWS LIVE」仕事人名鑑プロファイルコーナー出演
12月18日~26日 TOKYO CHARACTERS COLLECTION 2010 バイナルメーションbyディズニーストア ミッキー作品展示(青山スパイラルガーデン)
「市場で評価される作品が良い作品」が、いまの現代美術の評価軸。
そして「アートマーケットの観点からは、作品の値段はほとんどの場合キャンバスと絵の具代や労働時間などではなく『コンセプト』の値段なのです。」( http://www.amazon.co.jp/dp/4902078171/ p.182)で、村上隆はコンセプトで勝負している。
批判者の批判の一つに「村上隆作品には絶対的な美がない」というのがありそうだけど、そこを問われるゲームを村上隆はしていない。
「あんなのパクりだ」も同様で、作品自体はパクりでもなんでも良くて、そこにどう「コンセプト」を見出すかが重要。
「あんなのパクりだ」論法でいくんなら、デュシャンの便器はどう解釈するのか?
「美術とは綺麗な絵のこと。それがない美術館はおかしい。だから21世紀美術館は駄目」という考え方と、「アートとは絶対的な美のこと。それがない作品はおかしい。だから村上隆は駄目」という考え方が似てると思いました。
甘えんなとか世の中ナメてるとか、言われるんだろう。
だけど、私より不幸な人を見たことがない。
いつも体の中に泥がつまっているみたいな感じがする。
利口で計算高く生まれついた私は、子供の頃から要領よく大人をナメ腐って利用して生きてきた。
汚らしい愚かで浅はかな奴ら。
だってゴーギャンの絵に描かれた深いメッセージもハイネの詩も読めないなんて。
きっと脳に神経の代わりに納豆菌がつまってる。
東京の美大に通うために上京してからは、いいようなものになりかけてきたけどね。
でもやっぱり大人はダメね。
つまらなくて形にはまってて、眩い物なんて何も生み出せそうにない。
でもでも、じゃあ私はどんな芸術ができるのって言えば、何もできないの。
絵を描いても詩を書いても、何もない。
心が動かない。
偉大な芸術家の作品からは感じれるのに、その美しい何かが私の中を通ってキャンバスに吐出されると泥水みたいになって。
これじゃ私もつまらない大人になっていく。
だけど、そうじゃない人もいて、彼女が作るものは美しくて儚くて、きっと深いところで宇宙と一体化してる。
時間の流れを生み出す何かなんだ。
でも私にはできなくて。
それに気がついて、私は学校を休学した。
休学して何をしていたかといえば、体を売っていた。
これもきっと芸術の一種。
楽しくて仕方がなかったよ。
もう男のことは何でも知ってる。
男は女の裸を見てるつもりになってるかもしれないけど。
全部さらけ出しちゃってるのは男のほう。
2年間休みなく売り続けて、抜け目のない私は一財産築き上げた。
そして利口な私は、始めた時期もよかったんだけど、株でそれを倍にした。
配当だけで一生食うに困らないよ。
私は自由だ。
現世に蘇った高等遊民とは私の事。
なんて大嘘。
満たされない。
つまらない絵、誰も感動なんてしない。
空間に広がっていく粒子が見えない。
あってもなくても同じ。
居ても居なくても同じ。
気がついたらまた体を売っていた。
でも今度は私がお金を払って売っていた。
抜け目のない計算高い私は、汚くて臭くて愚かな中年に一晩だけ夢を見させてあげる。
奥さんとはもう何年もしてないのね。
私がここに居るって感じられるのは、この時だけ。
昨日彼女の絵を見に行った。
殺してやりたいと思った。
★基本の3点セット
・靴下(白、グレー、薄手と厚手をそれぞれ2足ずつ)
・リラックスウェア(ちょうどサイズのスウェット上下など、寒くないもの)
★フォーマル7点セット
・コート(真冬ならウール、その他ならコットン、無地でよけいな飾りがないもの)
・ダークスーツ(必ずジャストサイズで買うこと、喪服にもなる)
・テーラードジャケット(チャコールグレーが便利)
・パンツ(グレーが便利、靴がちょっと隠れるくらいにしてもらうこと)
・シャツ(薄いドレスシャツ、厚いシャツをできれば1枚ずつ。白が便利)
・ベルト(黒、茶、いずれか1本、あるいは1本ずつ)
・革靴(黒、茶、いずれか1足、あるいは1足ずつ、プレーントゥというものが便利)
・ビジネスバッグ(黒、茶、ナイロンか革製で外側のポケットは2つ程度)
・アナログ腕時計(白い文字盤、読みやすい数字、革のベルト、飾り少なめ)
・ポーチ(革製か布製、小物をまとめるのに使う)
・財布(革製、できれば長財布)
★カジュアル4点セット
・カットソー(Tシャツ。無地で丈夫でちょうどサイズを1枚。白、紺、灰が便利)
・デニム(ジーパン。色が濃い生デニムというのが便利。ちょうどのサイズを1本)
・スニーカー(白、紺、灰が便利。色は多くて2色。キャンバスというのは春夏専用)
・トートバッグ(無地、色は多くて2色。革製か硬めのコットン。黒、紺が便利)
・ショルダーバッグまたはデイパック(無地、色は多くて2色。黒、紺が便利)
★余裕があったら持っておきたい6点セット
・ニット(セーター。冬は厚手の編み込み、春は薄手のカシミアが便利)
・カーディガン(脱ぐのが簡単なセーター。基本はニットと同じ)
・ワークブーツ(茶、黒、どちらか1足。防寒になる)
秋:ちゃいろ/だいだい/あか/きいろ
いつも思うのは、"変態的な性欲"というある種の圧倒的なモチベーションを持つ人間が創作に向かわないのは非常に惜しいということ。
近頃性欲が衰えて、PVの高いジャンルの絵の一つである「流行りのアニメの女の子のエッチな絵」の量産速度が鈍っている自分としては、強い性欲を持っているというのはそれだけで一つのアドバンテージであると思う。
強すぎて暴走寸前の性欲を持っている人は、手が後ろに回りそうな方法でそれを発散させる前に一度創作に手を出してほしい。
中高生には、「思春期の性欲は勉強や部活にぶつけろ!」とよくアドバイスしている場面に出くわすが、それに似ている。
キャンバスでも、Photoshopでも、メタセコイアでも、MMDでも何でもいいから自分の思い通りに女の子を弄くるようなものを作ってほしい。
そして作り上げたそれをSNS等で全世界に向けて発信してほしい。
pixivのR-18を見ても自身の変態的な性欲をキャンバスにそのままぶちまけたような傑作CGは数多い。
しかし、まだ足りないのだ。描き(書き)手が。
変態的な性欲を刺激する絵というのは非常にジャンルが細分化しており、ニッチな市場であるゆえまだまだハイクオリティな変態的二次元イラストを描ける人材は不足している。
触手や獣姦など変態二次元イラスト界のメジャージャンルは供給が充分にあるが、
虫姦、脳姦、眼姦など、傍流マイナー変態ジャンルは供給がまだ充分とはいえない。
虹裏あたりを見ると、「女の子が石化している状態に興奮する」石化フェチという意味がよく把握できない嗜好まである始末。
超越的な変態性をもって前人が思いも付かなかった新ジャンルを開拓してもいい。
犯罪スレスレの性欲は、その発散法によっては(極めて一部の)社会への貢献となるのだ。
奈良美智 「自分の作品のファンがラッセンも好きなら発表をやめる」 - Togetter
ムサビの受講生アンケートにおける「嫌いなアーティスト」に村上隆、草間彌生、会田誠、カオスラウンジが挙がるも,奈良美智が挙がらなかったらしい。
それについて,武田氏(誰?)が「奈良美智が好きな人はラッセンが好きなんだろう」という発言をしたらしい。
それについて,奈良氏が「武田さんの発言は、なんだか心外だなぁと思います。僕の作品が好きな人に統計をとってみてほしいですね~。ほんとにそうだったら、発表を辞めます。本気で。」とtweetした。
ラッセンは「美術」として扱われておらず,他方で奈良は「美術」として扱われている。これは,ラッセンは美術館に展示されない(あるいは美術館を発表手段としていない)が,奈良は美術館に展示されていることに端的に表れている。村上隆が美術館に入り鳴子ハナハルが美術館に入らないのと同じである。
もっとも,そのような,業界での位置づけ(奈良=内部者,ラッセン=部外者)という視点は,両者のファン層が重複するか否かと関係しない。
ファンになるか否かは,業界での位置づけではなく個々人の好みの問題であるから,作品あるいは商品自体の性質から導かれるはずだ。
ラッセンの絵は,海とイルカという具体的なモチーフを扱いながら何らの意味を持たない。
奈良の絵もまた,何らの意味を持たない。(それ故に,殊更に「嫌いなアーティスト」として認識する必要に迫られない。)
少女という具体的モチーフを扱っているかのように見えるが,実際にそこで行われているのは,キャンバスに直線を数本引いて「この線の緊張感が」と云々する古式ゆかしい現代アートそのものである。
作品のスタイルからして,ラッセンは中身の無い美しい物好きに,奈良は中身の無い顕学主義者に好まれるであろうから,両者のファン層は異なると予想される。
したがって武田氏の発言は失当であり,奈良が怒るのも尤もなのである。
(などと書いてみたけど,何らの意味を持たないという点では草間彌生も同じなのに彼女はムサビ生に嫌われているらしいので,間違ってる気がする。)