はてなキーワード: カロリーメイトとは
ベジタリアンになった
以前からメンタルクリニックには通院していたのだが、定期的に採血をする
で、これ以上デブると色々とマズイぞ、と脅かされ、しかたなくデブの原因となっている抗うつ剤を抜いた
ここまでは予定通りである、体重も週に1kgは減り続けた、ブラボー、BMI値も25を切った、なんとか正常値の範囲内である
食欲が落ちたのは結構なことなのだが、肉・魚を体が受け付けなくなった
食べられるのはせいぜい野菜の煮物と漬物、納豆に白飯といったところ
それすら食べたくなくて、週の半分は夕飯がカロリーメイトゼリーである
最近いつも疲れている。会社で気がつくと「疲れた」と呟いている。無意識で呟いている。周りの人間はいい迷惑だろう。けれど呟いている。
体が重く、いつも眠い気がする。実際のところ8時間弱は毎日寝ている。周りの人間はどうやら6時間切っている人間もいるようだけど、彼らは元気に動いている(ように見える)。
毎日見積もりを作ったり、逆に発注したりしている。発注時に複数必要な書類の一部を添付し忘れ、差し戻されたりしている。
大学最寄りの駅を通過する際に大量の大学生が駅を降りる。降りる様は見ない。眠くて目が開かないからだ。だけど音や振動や雰囲気で降りていることがわかる。
俺はそれらを見送るような、見送らないような、そんな気分になるともならないともせず、気がつくと職場の最寄り駅で降りる。
降りて職場まで歩く。歩くスピードは遅く、いろいろな人に追い抜かされる。けれど歩かなければ一生職場には着かないので、歩き続ける。
(職場に着く必要があるのか?あるいは職に就く必要があるのか?)
数ヶ月前から朝食は近所のコンビニで買ったSOYJOYを食っていたが、最近なぜか最寄りのコンビニがSOYJOYを入荷しなくなった。
なので仕方がなくカロリーメイトを買ってもそもそと食べる。カロリーメイトは喉が渇く。本当はカロリーメイトにマウントレーニアを組み合わせるのがベストなのだけど、そんなことをしているとデブ一直線なので仕方がなく烏龍茶で流し込む。美味しいともまずいともつかない味が口のなかに広がる。少なくとも相性が良い組み合わせであるとは言い難い。
そうしてから働き始める。見積もりを作ったり、発注したりしている。
メールの誤送信を恐れるあまり、文面が完成してから数分宛先をチェックするなどしている。あるいは添付ファイルの解凍と圧縮を繰りかえすなどしている。
2018年10月7日、六甲山で最難関ルートだとされる大月地獄谷ルート(渦森橋~みよし観音)を登った。2018年の台風ののちに、みよし観音を目指して登った人が他にいるかが、検索しても見つからなかったので、私のような登山素人に向けて書き残したい(これが検索でヒットするかはまた別の話)。画像はない。ちなみに天狗岩へ抜けるルートで登っている人は確認されているが、こちらの方が容易だとされているようだ。なお登っても、達成感を感じる前に、泥だらけのボロボロの服装で、おしゃれキラキラカップルと遭遇することになるので、極度のマゾヒストにしかお勧めしない。
天気 : 快晴 (気温27度)、前日早朝は雨
服装 : 破れてもいい服(長袖)、軍手、トレッキングシューズ
持ち物 : 昼食(おにぎり)、補給食(ゼリー系のやつ)、ポカリ、お茶、参考にしたサイトのコピー、遭難しても少し生き延びれるようにカロリーメイトいくつか
虫除けスプレー、山と高原地図等は同行者が持っていた。感謝。(逆に持ってない私がやばい)
ヘッドライトなども持っている方が良いでしょう。
主に下記のサイトを参考にさせて頂いた。呼び名などもこちらから拝借している。
https://tokiwatrekking.web.fc2.com/pages/y20160813.htm
http://shousam.fc2web.com/081018ootukijigoku.html
霊園の手前から谷に入り、沢沿いを歩いていく。
本格的な山登りは荒神山第二堰堤から始まる。ここを右から高巻く。当然ながら整備されている道ではないので、一発目にしては重め。頂点付近で少し無理やり登る必要がある。腕力である。
次は荒神山第三堰堤。左から高巻く。途中まではロープがあるが、道自体もそこまで険しくはないので、あくまで補助的に使う。ロープのかかっている木のうちで、少し弱くなっているところがあったので、油断は禁物。
ちなみに、ここを右から高巻くと、死にかける(体験談)。右側は急峻な上、堰堤の上端と同じ高さまで登ったのちに、ほぼ支えになるものが何もない状態でトラバースしなければならない。高さ18mなので落ちるときっと楽しい。
続く荒神山第四堰堤は、手前にある石積み堰堤を右から高巻くとそのまま巻道が見つかる。
次は紅葉谷堰堤。とうとう荒神山堰堤ゾーンを抜けて紅葉谷ゾーン。左手にあるロープからかなり上に登りそして降ってくる。一部、ほぼロープに頼らなければ進めない箇所があるので注意。確かに周りを見渡せば紅葉の葉っぱが見つかる。
紅葉谷第四砂防ダムは上目から、ロープを頼りに越えていく。この辺りになると結構感覚をつかみ出してきていて、どうやらいけそうだと感じ始めたが、それは幻想だった。
このエリアが終わると、滝が続きハードになってくる。複数の意味でハードになる。滝を登るため体力と、意味のわからないロープを信じなくてはならないため精神と。
紅葉滝は、右手手前に巻道、滝のすぐそばにロープがあった。右手手前の巻道はかなり斜度が高く、その上足元が滑りやすいという有様だった。同行者のうちの一人がロープ、もう一人が巻道から登り始めたが、私はどうにももっと手前に巻道があるような気がしたため、少しためらった。しかし、結局心もとないがロープを信じて登るルートの方が簡単なようで、信じて直登することに。案外いける...だが誰がいつ設置したのかわからないロープに命を預けたという事実が残る。
タラップ付きの堰堤が現れる。ダムから出ている水量が多く、タラップの場所まで行くのに身体中がずぶ濡れになる。体温がかなり上がっていたのでそこまで気にしなかったが、普通に考えて危険である。ダム自体は特に問題なくタラップから登りきれば、鋼製堰堤。下をくぐるが、足元が濡れる。
大月地獄大滝に到着。実際に滝を見ようとすると、生い茂る藪を超えて行く必要があった。また、この薮の手前から巻道が......滝を見ずに巻道へ。こんな薮、進めやしない、とその時の私は思っていた。
すぐそばにF2滝。巻道は見つからず、ロープを信じて直登する。できる限りロープに頼らないでいたかったが、頼らざるをえない部分がいくつか。しかしロープの根元を見てみると、理解しがたいほど不安定そう......。よくもまあこれを信じれたものである。ふと自分の体が震えているのに気づく。膝が笑っている。潜在意識も生命の危機を感じていたのだろうか。同行者の様子を伺うと、全員足が震えていた。愚かにも山を登ろうなどとするからこうなるのだ。
次のダム二つはタラップがついており、越えるのは簡単。しかし、越えた先がかなり深い池になっており素直には降りられない。滝を越えてしまった今、もう後にも引けず、無理やり脇道から池を越える。
A-7標識を越えるとF5滝。右の巻道を進むが、斜度がかなりある上に少ない木の根などを頼りに登って行く、本格的なクライミング。永遠にきつい時間が続くのかと思うほど、滝のかなり上まで進むが、くだるポイントが見当たらない。途中、堰堤が下に見えたがこれもスルーしてそのまま上から抜けた。ここの滝では、左に巻道があるとされていたのだが、明らかに崩壊しており、右から行くしかなかった。
ここから少し進み、小さい滝を越えて行くと、本格的に薮ゾーン。正しい進路がどこなのか、一見しただけではわからない。無理矢理川のありそうなところを目指して進む。さらに進むと土砂崩れの影響か、川はなくなる。本当に道が分からないのだが、とにかく信じて直進し続ける。テープも見当たらず、この道は正しいのか、という自問自答を繰り返して行くと、大きなダムが見える。
このダムは2016年に完成したもののようで、いくつかのサイトによると、2015年時点でみよし観音直下に建設中のダムがあるという情報があったので、ここはほぼゴールに間違いない!
ということでダムを目指す。足元は雑草のみで歩きやすく、木もないので視界が晴れてくる。左手にタラップがある、という案内板が見え、大きいが楽に越えられそう、と思ったのが甘かった。先の災害の影響か、左手側が完全に崩壊している。仕方なく、右手にあるステップを無理矢理腕力で登る。
この次にも似たようなダムがあるが、高さがさほどなく、そのまま越える。すると、眼前には森のみで、この先には道がないように見える。しかし、GPSを確認するとどう考えても正しい場所にいる。このまま突っ込んで行くしかない、と思ったところ右手に木製の階段が!久々に見たダム以外の人工物に喜び、何を口にしているかも分からないままわめきながら階段を上っていった。
抜けた先にあったのはJFE健康保険組合。みよし観音ではなかった。もう少し右手側を進んでいればみよし観音だったようだが、未確認。とにかく人のいる地に帰ってきたのだ。泥まみれの状態で、おそらく六甲山のキラキラしたイベントに行っていたであろうカップル達と出会う。そのまま下っていき、帰りはロープウェイで帰った。ロープウェイから見える木々に時々ピンクのテープが括り付けられており、新たな旅の可能性を見た。
2018年9月23日 天気:職場に残してきた仕事が不安だが知ったことではない
最近日本語が下手になってきたので勉強し直したいから来世は頑張る
1本で100カロリー(キロカロリーと書くべきなんだが面倒くさいのでこの後も省略だ)。
人類が食べる食品の中でもトップクラスにカロリー摂取量が分かりやすい。
200円(希望小売価格 税抜き)で400カロリーとカロリーだけ見るとコスパは低い。
興味のない人の前で食べると「カロリーばっかりで身体に悪そう」と言われるが、大抵の場合そういう人が食べているものよりずっとずっと栄養バランスが高い。
栄養バランスが気になるけどいろいろ考えたり実行するのは面倒という人間にオススメのアイテム。
ただしこればっかり食っていると痛い人になる。
レーションを好物だといいはる軍人ロールプレイの中学生になってしまう諸刃の刃。
これは豆知識だが、袋を開けると2本入ってる1本食べて残りは放っといても意外と味は落ちないので100カロリーずつ摂取できるぞ。
腹持ちは悪いので食べる時にカロリーオーバーするリスクが気になる人は水分をしっかり取ろう。
水を一緒に腹に入れると想像以上に膨らんでくれる。
《先生の子供を孕む刑》それが麻衣ちゃんに下された罰です。麻衣ちゃんは二週間先生と性交をし続けました。それも完全公開で。すぐさま実験施設のひとつが完全にふたりの閨房として改造されました。私たちはというと、先生と麻衣ちゃんのセックスを見届ける観客として一日中二人を見守る役をさせられました(先生は見られて興奮するタイプなのです)。誇り高い麻衣ちゃんがそんな恥辱に耐えられるはずもありません。しかし麻衣ちゃんは二週間ひたすら先生と性交をし続けました。プライドが高いがゆえにそのような恥辱には耐えられないはずですが、むしろプライドこそが彼女を支えていたのかもしれません。麻衣ちゃんは先生に負けたくなかったから性交を受け切ったのです。実際先生は三日も経つと体力も限界に達してふらふらに見えました。しかし彼もまた国会議員として高いプライドを持つ者であり、ついに二週間耐久性交をやり遂げてみせたのです。憎しみ合うふたりの間には何か他のものが生まれていても不思議ではありません、が、それは私の勘違いです。訪問の最後、先生が車に乗り込むときになり、麻衣ちゃんは先生の男性器に隠し持っていたフォークを突き立てたのです。すぐに麻衣ちゃんは取り押さえられ独房に入れられました。スーツが血だらけになっていた先生がその後どうなったのかはわかりません。麻衣ちゃんは独房で自殺しました。私は彼女のことを忘れません。
同居人がいなくなり寂しくなりました。美少女狩りは日本各地で行われているようですが、良質の絶頂エネルギーを産出できる美少女は限られているため、すこしかわいい程度ではいけないのです。日本の人材はいつも乏しく、朝鮮半島の超兵器の危機は間近に迫っていると大人たちは焦っていました。
本来なら私は高校三年生。私の青春は兵器開発のために消えました。今更どうしようというのでしょう。失った時間は返ってきません。二学期が始まるな、そう思ってすぐのことです。先日、北海道を大地震が襲いました。研究所も揺れに揺れてちょっとしたパニックになりました。研究所の電気は完全に途絶えました。不安の中で私は麻衣ちゃんのことを思っていました。彼女ならどうするかと。彼女なら私に脱走しようというだろうと思いました。脱走防止用の入り口の機関銃が起動しない今しかないと。私は大地震のパニック状態と夜陰に乗じて研究所を抜け出しました。もちろんあのワンピースの姿でです。二年ぶりに壁の外に出てだんだん私は自分の感情というものが復活してくるのを感じました。押し殺し、存在しないものとして扱っていた私の感情や人間らしさ、尊厳というものが鬱勃と私に沸き起こってくるのを感じます。
私は山の中をひたすら走りました。真夜中でしたが、走って走って、転んで、また走って、とにかく走り続けました。涙が止まりません。とにかくがむちゃらに走って走って走りまくりました。やがて時間の感覚がなくなったころ、私は前方にたいまつのような明かりを見ます。こんな山奥に人が、こんな時間に、と不思議に思いましたが、やっと見つけた手がかりなので明かりの方へ向かいました。近くまで来ると人影に呼びかけましたが、彼が振り向いたとき私はしまったと思いました。未開部族だったのです。毛皮をまとい奇妙なお面をかぶった未開人は私に気づくとうぉううぉうと唸り声を上げて警戒のポーズを取りました。私は早口で何かまくしたてますが、当然未開人には理解されません。未開人はたいまつを掲げて、大声で私に何かを訴えています。彼らの言語についての知識がまったくない私には何も理解できません。しかし、彼がこういったのだけは聞き取れました。
「サーターアンダーギー!」
私は全力で「サーターアンダーギー」と叫びました。未開人はぶるっと身震いすると、その場でひざまずいて私に対して祈りを捧げ始めました。顔を上げてとお願いしても彼は祈りの言葉を唱えたままです。肩に手を乗せると、ふごぉという音を立てて未開人がひっくり返りました。彼の持っていたたいまつで山火事になりそうなところでしたが、なんとか私が奪い取ってやりました。
「サーターアンダーギー!」
未開人は手を振ってついてこいというようなジェスチャーをしました。脱走の興奮も収まり、冷静になってみると体はもうぼろぼろで体力の限界が近づいていました。私はまた麻衣ちゃんのことを思いました。国会議員の先生にも負けなかった麻衣ちゃんのことを。私も今倒れるわけにはいきません。自由になるんだ、そう強く念じました。闇夜の中をどれくらい歩いたのか、しばらくすると未開人の集落らしきところにたどり着いていました。まさか未開人がいるとは思ってもいませんでした。この辺りはもともと政府や政府とつながりのある裏社会の管理下に置かれていて、結社の研究所が作られてからはなおさら一般人が立ち入ることはありませんでした。この時代にまだ未開部族が日本にいたのかと、まさかこんなところに未開の土地があったのかととても驚きました。しかしさらに驚いたことに、集落には文明人の先客がいたのです。黒のライダースジャケットにデニムパンツ、登山靴ではなくイタリア風の革靴、縦長の登山用のリュックという格好で、髭を蓄え、未開人とコミュニケーションを取っていました。話を聞くと彼は諸事情あって芸能界を引退した後、旅に出てこの場所にたどり着いたとのこと。髭を蓄えだいぶ顔つきは変わっていましたが、私も彼をテレビで見たことがあります。
「酒に酔った勢いでトラブルを起こしてしまってね。とても反省しているよ」
星がとてもきれいでした。未開人たちは粗末な小屋から出てくると私を取り囲みました。彼らが「さあたああんだあぎぃ!?」というと、私は「サーターアンダーギー」と答えます。すると彼らはひざまずいて私に祈りを捧げます。とにかく私は「サーターアンダーギー」といいました。私たちのコミュニケーションはその程度のものでした。しかしすべてがそれで通じていたのです。
「いい名前ですね」
「いい名前だ」
文明人がふたりと未開人が多数、原始的なキャンプファイヤーのような火を囲んで私たちは穏やかなときを過ごしました。夏の夜は明けかかっていましたが、安心しきった私はいつの間にかその場で眠りに落ちていました。起きた頃には正午近かったでしょうか。佐藤さんのGPS時計によれば午前十一時近くになっていました。昨夜のうちに私の状況はなんとなく話してありました。佐藤さんも最初は信じてくれなかったようですが、事細かな説明を聞いていて、それに私の着ていたわいせつな衣装というのも説得力があったのでしょう、やがて佐藤さんは私の話を信じるといってくれました。
「これからどうする?」
「警察もグルに決まってる。警察になんて行けばきみは研究所にとんぼ返りさ」
「それじゃ、どうすれば」
「俺の別荘に行こう」
佐藤さんは放浪生活の末に北海道のこの地が気に入り、莫大な資産を使って郊外に別荘を作ったのだそうです。山を降りると佐藤さん所有のベンツが停まっていました。私のこの格好では万が一人に見られたとき大変だからと、佐藤さんはレインコートを貸してくれました。大地震からまだ半日も経っていませんでしたが、ひと気のない道路は平和そのものといったように見えました。北海道全域が大停電だなんて私はそのときまだ知りませんでした。見送りに来た未開人たちが手を振ってくれました。屈強な男たちの数人は車を追いかけてきました。が、すぐに彼らの姿も見えなくなりました。田舎道をずっと行き、文明人の暮らす町を目指します。佐藤さんは地震のことが気がかりな様子でした。
「少しでも人の役に立って罪を償いたいんだ」
うとうとしているといつの間にか周りの風景が変わっていました。そこここに人の気配、生活のにおいがします。人の世界に帰ってきたんだと思いました。佐藤さんは別荘に一人暮らしのようでした。地下一階、地上三階建ての独身の男性ひとりには広すぎる豪邸です。居間には高そうなギターやベースが飾ってあり、大型のテレビと映画館並みの音響設備が客人を圧倒します。もっとも停電中なので電化製品はすべてガラクタ同然となってはいますけど。冷蔵庫ももちろん止まっていて、缶ビールやチーズがぬるくなっていました。お酒はやめられなかったのだと知ると少し残念に思いました。
「行き先が決まるまでここを拠点にするといい。使っていない地下室はきみの自由にしなさい」
佐藤さんは着替えを持ってくるといって螺旋階段を上がって行きました。数十万はしそうな白い革張りのソファに座ってほっと息をついて待ちます。思えば性奴隷としての二年間は私をすっかり変えてしまいました。この世の地獄を生き延びた人間として、これ以上悪いことは起こりえないという確信があるからです。もはや私は些細なことで動じる少女ではないのです。かといって自分が大人かといわれればそれも違う気はしますが。特殊すぎる体験によって自分が少女でも大人でもない何か非人間的な存在になってしまったように感じられます。少しずつ元の社会に順応していけたらと思います。
足音が聞こえてきました。螺旋階段から降りてきた佐藤さんは学ランに着替えていました。
「これに着替えなさい」
手渡されたのは女子校の冬服と使用感のある白い下着でした。制服の方はよく見れば女の子なら一度は憧れる東京の名門女子校のものでした。なぜ佐藤さんがこんなものをと訝りながらも、今着ている衣服と呼ぶにはあまりにも特殊なデザインである研究所の服よりはましであるというのも事実ですから、私は素直に制服に着替えました。佐藤さんは私の着替えを目の前で見ていました。本来なら私は男性の目を気にして着替える場所を要求するべきだったでしょう。しかし私はまだそういった当たり前の羞恥心を取り戻すところまでは精神が回復していませんでした。
「すごくいい……」
佐藤さんの表情が変わりました。そして私ににじり寄ってきました。
「佐藤さん……?」
私は頭を両手で押さえられ、思いきりキスされました。佐藤さんの髭が当たってちくちくします。
「佐藤さん!」
佐藤さんは鼻息を荒くして口の中に舌を入れようと試みてきます。わずかの抵抗はあったものの私は突入を許し、彼の舌と私の舌が絡み合いました。佐藤さんは獣のような激しい息遣いになり、慣れた脚の捌きで私を床に押し倒しました。馬乗りになった佐藤さんの日焼けした顔はまるで本物のヒグマのようでした。芸能人として現役だったとき肉体派として人気を博した佐藤さんの筋肉は見せかけではなく本物で、私はそれまで研究所の男たち相手では感じたことのない凄まじい力で蹂躙されました。抵抗は無意味、ほんの少しの希望もない、体の内側から動きを止められている、そんな圧倒的な侵略でした。顔を舐めまわされた後、佐藤さんの舌は首を経由して鎖骨に向かいます。それから優しい手つきで、しかし抵抗を永遠に諦めさせる圧倒的な力で、私の上半身はむき出しにされました。佐藤さんはブラの上から確かめるように乳房を揉み、やがて耐え難い欲望の高まりに動かされて荒々しくブラも外し(少し痛かったです)、乳首に噛み付いてきました。
「痛いです」
左の乳に、右の乳に、行ったり来たりむしゃぶりついてくる佐藤さんはもう理性が吹き飛んでいるようでした。それから連続的な淀みない動きで佐藤さんの右手が私のスカートの中にするりと入り、下着の横から中指(だと思います)が膣へと入ってきました。
「ん、んっ」
佐藤さんの右手の動きは熟練の職人技といったもので、私の急所を的確に捉えてきます。獣としての本能に目覚めた佐藤さんは私の微妙な息遣いの変化や体の動きからその場所を割り出しているようでした。素早く、的確に、効率的に私を攻め落としていきます。自分の顔が真っ赤だとわかりました。体がほてって、頭がぼうっとしてきました。膣はじゅくじゅくで、私の頭の中もとろとろに融けてしまいそうです。
絶頂に達すると私は痙攣し、泥の中に沈みました。私が行動不能に陥っていると、佐藤さんはソックスを脱がせて指一本一本に多量の唾液を垂らしながらしゃぶりつき、それから下着を脚からするりと脱がせて、ちゃぷちゃぷ音を立てながら性器にむしゃぶりついてきました。私はもう声も出せません。されるがままで自分がどこまで行ってしまうのか、それはすべて佐藤さん次第でした。学ランを着ていた佐藤さんはついに脱ぎ始めました。といっても上半身はそのままで、下半身だけずり下げたという格好です。完全には脱ぎませんでした。佐藤さんのふるふると怒張した男性器が現れました。黒々した血管に野性味を感じる極太の一物でした。あんなに大きなものが身長百六十センチ程度の私に入ってきたら、私の股は裂けてしまうかもしれない、一瞬不安がよぎりました。しかし考える間もなく佐藤さんの男性器が私を貫いていました。
感じたことのない衝撃でした。経験したことのないほど膣が押し広げられ、その刺激によって女性としての機能が目覚めたのか、膣もまた佐藤さんの一物に吸い付き、快楽を根こそぎ享受してやろうと超反応しました。私のすべてが脈打ち、快楽に耳を傾けています。どんな小さな快楽の芽もしっかり開花させてやろうと、私の全身のすべてに研ぎ澄まされた超鋭敏な感受性が宿りました。
芸能界のトップで鍛え続けてきた佐藤さんの腰振り運動はまさに本物。修羅場を潜り続けた一流の元芸能人だからこそ、誰が相手でも最高の戦果を得るのです。妥協はありません。激しいコミュニケーションの中で私は何度も絶頂に達しました。最後に佐藤さんは膣の中で射精するのではなく、紳士の礼儀として顔にかけてくれました。私は佐藤さんの優しさに包まれていました。疲弊しきったふたりは荒々しい息遣いでしばらく床に横たわっていました。お互い全力を出し合って快楽を貪ったのです。
その後、私たちはあまり会話をしませんでした。佐藤さんは私を地下室に連れて行くと、停電中で真っ暗な中に放置しました。鍵がかかる音が聞こえました。激しく愛し合ったふたりに何が起こったのか、理解が追いつきませんでした。佐藤さんはその日顔を見せませんでした。
何時間経ったでしょうか、次に佐藤さんが顔を見せたとき、外は明るくなっていました。食事として渡されたのはカロリーメイト四箱と二リットルのペットボトルでした。
「佐藤さん」
「炊き出しに行ってくる」
そういって佐藤さんは地下室に鍵をかけて出て行ってしまいました。まだ電気は復旧していないので地下室は真っ暗です。カロリーメイトの箱を手探りで開けて、袋を切って、もさもさと食べ、二リットルのペットボトルに直に口をつけて飲みます。食欲はあまりありませんでした。
私はまた監禁されていると理解しました。佐藤さんは「行き先が決まるまでここを拠点にするといい。使っていない地下室はきみの自由にしなさい」といっていましたが、あれは私を安心させるための罠だったのでしょうか。拠点というのはそこから外へと行動し、補給や休息のために戻ってくるから拠点なのです。拠点に引きこもる場合、それを拠点とはいわないでしょう。ここから出たい、私はそう思いました。しかし地下室には鍵がかかっていて私の力では脱出は不可能です。まただ、どうして私の人生はこうなんだ、そう思って絶望しました。しかし涙は出ません。私はまた無意識のうちにこの状況に順応しようとしていました。
真っ暗闇の中でうとうとして寝てしまったでしょうか。ふと気づくと激しい打撃音が聞こえます。何かを打ち壊すような荒々しい野蛮な音です。複数の巨漢が暴動を起こしているような、そんな音が地上から響いてきます。何か声が聞こえます。さあた、ぎぃ。あん、さあ。だあぎぃ。
「サーターアンダーギー!」
私は状況を理解しました。未開人たちが私を取り戻しに来たに違いありません。とてつもない嗅覚と体力、人間の潜在能力には恐れ入ります。私は力の限り「サーターアンダーギー!」と叫びました。すると文明人が失ってしまった身体能力を今でも保有している未開人の聴覚が聞き取ったのでしょうか、彼らもまた、あの舌足らずな「さあたああんだあぎぃ!?」で応答してくれたのです。未開人たちの声が大きくなり、打撃音も大きくなります。数分間の格闘の末、未開人たちは佐藤さんの別荘に突入しました。私は「サーターアンダーギー!」と叫び続け自分の位置を知らせます。未開人たちは地下室への扉を見つけると石斧で破壊にかかりました。それはあっという間の出来事でした。すぐに扉は打ち壊され、光が差しました。すぐさま二十代と思われる三人の屈強な未開人が顔を出しました。彼らは部族の中でエリート戦士なのでしょう。着ている毛皮も一等のものです。
「サーターアンダーギー!」
戦士たちは私の前でひざまずき、祈りを捧げました。私は彼らをひとりひとり抱きしめました。
佐藤さんの別荘を出た私たち四人は人目につかない場所を選んで移動しました。佐藤さんがいっていたように私は警察に出向いて事情を説明し保護を求めることもできません。文明人のすべてが敵に見えました。
逃走の中で私はスマートフォンを拾いました。ブラウザを起動してみると「はてな匿名ダイアリー 名前を隠して楽しく日記。」とあります。これしかないと私は思いました。三人の未開の戦士たちに見張りを頼み、私は今この文章を書いています。私は誰かにこの事実を知ってほしいと思いました。日本では野蛮な人体実験が行われていて、美少女たちが日々絶頂エネルギーを抜き取られているということ。その結社には国会議員などが関わっているということ。朝鮮半島を消し去るほどの破壊兵器を製造しているということ。
味方はあまりにも少なく、敵は権力も数も備えています。私に勝ち目がないことはわかっています。しかしどこかの誰かにこの話が伝わってほしい、そして頭の片隅で覚えておいてほしいと願います。日本の平和な未来のために犠牲になっている美少女たちがいるということを。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
あらゆる娯楽にいえることだが、何かを楽しむのに個人の能動性というものはどうしても要求される。
それは大前提だ。
だが「楽しめないのは自分自身の問題」という回答だけでは、半分YESであり半分NOだろう。
客観的に見ても、コンテンツによって“楽しみやすさ”に差異があることは確かだからな。
それらを同程度に楽しめなかったとして、個人の問題だけで片付けるべきかどうか、という話だ。
更に学ぶべきは、遊具の多い公園の方が、必ずしも優れているとは限らないという点だろう。
私がこんなところでFAQを嗜んでいることからも、ネットの楽しめる多様性は随一だ。
だが、このような楽しみ方をもってしてネットの面白さを語っても説得力はないだろう。
今やネットはポピュラーな娯楽であり、遊具に溢れたテーマパークだが、上等でもなければ洗練もされていないということだ。
まあ、仮にディズニーランドとかだったとしても私はああいう場所は苦手なので、今回の例えは不適切なのだが。
なお、はてブや匿名ダイアリーが具体的にどのような公園、テーマパークかという問いに関しては私の手に余るので質問してこないように。
どちらが焼きそばで、どちらがカップ焼きそばなのかは、ここでは問題ではない。
今回学ぶべきことは、もしも私の言うことにキミが少しでも納得したなら、詐欺には気をつけた方がいいということだ。
「胸をジロジロと見られたくない」、「目を見て話して欲しい」という問題を一度に解決できる画期的なアイテムだ。
カロリーメイト配ってくれると嬉しい!
吹田市民です。
私のスペック。30代男性。大阪市内の会社に勤務。妻、30代、専業主婦。
自宅。築40年のマンション。古い。6階。
朝、いつもアラームは8時20分に設定している。(始業は10時なので、ゆっくりめ起床)
妻も既に起きていて、本能的に体を寄せ合う。
阪神大震災の時は、目覚めた時、既に揺れており、部屋が平行四辺形にグラグラ揺れていたのを覚えている。
違ったのは、振動の長さ。阪神大震災の時は1分ぐらい続いたと思うが、今回は15秒ぐらいで済んだ記憶がある。
震源に近かったせいか、緊急地震速報は、揺れの最中から鳴り出した。
玄関にいき、下履きを持ってきて、泥を払った上で、室内用として使用する。(ガラスや陶器が割れて散乱しているので)
ダイニングの食器棚が倒壊し、食器は約半分が使い物にならない。
書斎のPCモニター(24インチ液晶)が机から落ちていた。正常に動作するかどうかは、未検証。
書斎の本棚が倒壊し、再起不能なほどに壊れた。当然、中の本はすべて書斎内に散乱。
寝室は、引き出し式のクローゼットが私の寝床に倒れていた。すぐに飛び起きていなければ、頭直撃コースだったに違いない。
それ以外は深刻な被害はなかった。
続いて、風呂に水を貯める。ガスの元栓を閉じる。ベランダなど、すべての扉が開くかどうかをチェック→正常に開いたので、問題なし。
自分と妻のワイモバイル回線→音声通話は不可だったが、4Gは通信できた。
我が家は、基本的に必要なものしかストックしないという妻の方針のため、非常食になるようなものがない。
会社の上司に連絡。電車がいつ動くかわからないこと、部屋の中に割れた食器と家財道具が散乱していることを伝えると、出社しなくて良いとの連絡。
(家の惨状を写真に撮って送ったら、たいそう驚かれた。上司は京都に住んでいるので、ここまでひどくなかったのかもしれない)
確認したところ、こういうときに必要なものとしては、2リットルのミネラルウォーターが2本と、昨晩沸かしたお茶約1リットル弱しかない。
そこで、コンビニへ買い出しに行くことにした。
買ったものは、昼食の弁当×2、非常食相当のカップラーメン×2、朝食相当のカロリーメイト×1、紙パックのお茶1リットル とりあえず、夕方まではしのげる量の食料を確保。
自宅に戻り、午前中の間はテレビとネットで情報収集しつつ、下手に動いて余震にやられないよう、寝室で待機。
正午過ぎにお昼を食べて、そこから部屋の片付けを開始。
下履きを履きながら、室内の割れ物を回収していく。みかんのダンボール箱相当で、3箱分ぐらいの、ガラス・陶器の割れ物が発生。
細かい割れ物は新聞に包んで、特に営利で凶器になってしまいそうなものは、ガムテープとラップで養生してから、マンションのゴミ捨て場に捨てに行く。
同じような割れ物が、たくさん捨てられていた。
片付け作業中、1時間に1回ぐらいの割合で、テレビをつけて情報収集。私はずっとつけっぱなしにしたかったが、妻はこういう状況で災害の放送をずっとつけていると、精神的にもよくないと反対。
私も納得して、必要以上に情報に接しないよう心がけた。単純に、片付けにも集中できるという意味で、効果は高かったと思う。(私はテレビ見ながらの作業は、ついつい手がお留守になりがちなので)
5時になり、ライフラインの疑問が解決しないかと思い、マンションの管理室に行ってみる。
水道水がにごっていること、ガスを使っていいのか、この2点を尋ねに行った。
ガスは、一定の震度に達すると自動的にストップするので、再始動の手順がガスメーターに記載されていることを教えてもらった。
昨晩の残り物、白ごはん、ねぎ焼きが残っていたのでそれを電子レンジで温めて、惣菜といっしょに食べた。
室内の掃除はあらかた終わり、あとは細かい破片を取るために粘着ローラーをかけるだけとなった。
夜は、寝室とは別の、一番家具の少ない部屋で寝ることにした。
念の為、天吊の灯具は外した。寝るにしか使わない部屋なので、当面困ることもない。
翌日は普通に出勤するも、一部でJRが動いていないため、阪急で出社。30分の遅刻。
妻は、最後の片付けをしていたようだ。
一部の交通機関を除き、平常運転だったようだが、街の中には様々な傷跡がのこっていた。
マンションや駅のエレベーターは、軒並みストップ。点検して安全が確認されるまで封鎖。
公共施設の多くで、天井や壁に亀裂(クラック)が入っており、これも点検修理が終わるまでは近づかないよう、カラーコーンなどで規制線がはられている。
街ゆく車の中には、工事関係の車が目立った。かんでん○○とか、ガスサービスセンター○○といった、インフラ系関連会社や、
○○ビルテクノ・サービスといった、ビル管理系の車がよく目につく。
自分の会社の自席は奇跡的になにも倒壊していなかったが、いくつかのモニターは倒れていたようだ。
あと、うちの会社の部屋だけエアコンがついておらず、昨日今日と暑い中、汗をふきふき仕事をしている。
マスコミの報道内容とか、ヤフーニュースのトピックを見ていると、地震の扱いは過去の地震と比べて小さいように思う。
死者の数は1桁、翌日から通常営業できるようになったせいか、さほど深刻に受け止められていないように思うが、
実際に震源の近くで暮らしているものからすると、余震に怯えたり、想定外の後片づけに悩まされたりと、色々苦労をしている。
ただ、これだけの震度でありながら、犠牲者の数が少なく済んだのは、阪神大震災の経験が大きいと思う。
私は小学生の時に自宅で震度7を経験したが、揺れ方だけ見れば、あの時の悪夢と全く同じだった。
それにもかかわらず、倒壊損壊した建物、火災になった建物がわずかばかりであったのは、過去の教訓が行きていると思う。
当時幼いながらも、そのことで、人の生死なんて、いつどうなるかわかったもんじゃない、と感じた。
改めて今回思うのは、儚さだ。人の命もそうだし、割れた食器たちを拾い集めている時も、同じ気持ちを抱いた。
しかし、22年前と比べると、確実に社会は変わったと思う。もちろん、前向きな意味で。
マグニチュードや震度だけ見れば、当時より少し小規模だが、被害の規模は明らかに小さい。
建築物は、確実にあの時よりも丈夫になっている。
情報インフラも発達し、被害状況がほぼリアルタイムで分かるようになった。
色んな課題を抱えているこの社会だけど、耐震性というか、カウンターディザスタネスとでも言えばいいのか、
亡くなったクラスメイトの命も含め、過去震災や災害で命を落とした人々の尊い犠牲の上で、私達は日々暮らしているのだと実感した出来事だった。